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2024年1月

2024年1月31日 (水)

黙示録4章 天上における礼拝1/ここに上れ

 黙示録4章には次のように記されています。
1 その後、私が見ていると、開かれた扉が天にあった。そして、先にラッパのような声で私に語りかけた、あの最初の声が言った。「ここへ上って来なさい。そうすれば、この後必ず起こることをあなたに示そう。2 私は、たちまち霊に満たされた。すると、天に玉座があり、そこに座っている方がおられた。
3
 その座っている方は、碧玉や赤めのうのように見え、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた。           4 また、玉座の周りに二十四の座があり、それらの座には白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。
5
 玉座からは、稲妻、轟音、雷鳴が起こった。また、玉座の前には、七つの松明(たいまつ)が燃えていた。これは神の七つの霊である。
6
 また、玉座の前には、水晶に似たガラスの海のようなものがあった。この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。
7
 第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。
8
 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その表にも裏にも一面に目があった。それらは、昼も夜も絶え間なく唱(とな)え続けた。「聖なるかな、 聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主〔ギリシア語原語は「キュリオス(主) テオス(神) パントクラトール(全能者)。かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」
9
 これらの生き物が、玉座に座り、世々限りなく生きておられる方に、栄光と誉れと感謝とを献げる度に、10 二十四人の長老は、玉座に座っている方の前にひれ伏し、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、その冠を玉座の前に投げ出して言った。
11
 「私たちの主、また神よ。あなたこそ、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、万物はあなたの御心によって存在し、また造られたからです。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 天における礼拝の光景が記されています。
すでに天に帰られた兄弟姉妹たちは、天で主なる神様を天使たちと共に礼拝しているのだろうと思います。地上にいる私たちの場合は、聖書に記されている文章を基に、天での礼拝を垣間見させていただくのみです。

 1節をリビングバイブルは、“それから、私が見ていると、天にある開かれた門が見えました。すると、聞き覚えのある、あの大きなラッパの響きのような声がして、こう語りかけました。「さあ、ここに上って来なさい。将来、必ず起こることを見せてあげましょう。」”と訳しています。

 「ラッパの響きのような声」を発したのは誰でしょう。
それは、天におられる御子キリスト・イエス様でした。
黙示録110-18には次のように記されています。
10 主の日、私は霊に満たされ、後ろの方でラッパのような大きな声を聞いた。
11
 その声は言った。「あなたが見ていることを巻物に記し、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ。」
12
 私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、13 燭台の間には人の子のような方がおり、足元まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めていた。
14
 その方の頭髪は白い羊毛に似て雪のように白く、目は燃え上がる炎、15 足は燃えている炉から注ぎ出される青銅のようであり、声は大水のとどろきのようであった。
16
 また、右手には七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が突き出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
17
 この方を見たとき、私は死人のようにその足元に倒れた。すると、その方は右手を私の上に置いて言われた。「恐れてはならない。私は最初の者であり最後の者、18 また、生きている者である。ひとたび死んだが、見よ、世々限りなく生きており、死と陰府の鍵を持っている。”(聖書協会共同訳)とあります。

 2節をリビングバイブルは、“あっという間に私は、聖霊によって天に引き上げられました。そこで目にしたものは、王座とそこに座っておられる方でしたが、私はその栄光に圧倒されてしまいました。”と訳しています。

 2aを、2017は“たちまち私は御霊に捕らえられた。”と訳し、
聖書協会共同訳は“私は、たちまち霊に満たされた。”と訳し
リビングバイブルは“あっという間に私は、聖霊によって天に引き上げられました。”と訳しています。
ギリシア語聖書を直訳すると、「そして、直ちに、霊の中にいた」となります。
岩波訳は“私はたちまち霊に満たされた。”と訳し、欄外注に「ヨハネが天上界に引き上げられたことを意味する。」と述べています。

 この個所を読むと、携挙を指しているとは言えませんが、キリストの空中再臨に伴う携挙を思い起こします。
あっという間に天に引き上げられた」(リビングバイブ)という個所にフォーカスすると携挙の時を思い浮かべるのです。
 1コリント1552には“終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。”とあり、
 1テサロニケ416.17の新改訳初版~第三版訳には、“すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”と訳されています。

 携挙についても記しましたが、黙示録41が携挙を表しているというわけではありません。
地から天に移されたのが「あっという間」である、というところを書いたのみです。
黙示録には、「刈り入れの時」(黙示録1415)という記述はありますが、携挙についての記述はありません。
しかし、黙示録3章の終わりからと4章初めの間に携挙があるのかもしれません。
いずれにしても早く引き上げていただきたいなと思います。

 世の終わりの始まりのしるしとして主イエス様が語られたことを再度岩波訳で読みたいと思います。マタイ243-8には次のように記されています。
3また彼{「イエス」のこと(筆者挿入)}がオリーブ山の上で座っていた時、弟子たちが彼らだけで彼のところへやって来て言った、「私たちに教えて下さい、それらのことはいつ起こるのですか。また、あなたの来臨とこの世の終りの際(さい)の徴は、何なのですか」。{質問に来た弟子は、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレであったと、マルコ133に記されています。(筆者挿入)}
4
そこでイエスは答えて彼らに言った、「誰もあなたたちをだますことのないように、警戒せよ。
5
なぜなら、多くの者が私の名においてやって来て、『私こそキリストだ』と言い、多くの者を惑わすだろうからだ。
6
また、あなたたちはやがて戦争のことを聞き、戦争の風説を聞くだろう。〔よく(訳者挿入)〕見よ、動転するな。なぜなら、〔これらのことは(訳者挿入)〕起こらなければならない{岩波訳欄外注に「神的必然性を示す」とあります(筆者挿入)}。しかしまだ〔世の〕終末が来たわけではない。
7
すなわち、民族が民族に対して、王国が王国に対して、起こされるだろう。また、そこかしこに飢饉があり、地震があるだろう。
8
しかしこれらすべては、産みの苦しみの始まりだ。/
12また、不法がはびこることにより、多くの人々の愛が冷えきるであろう。”とあります。

 すでに地震や飢饉や戦争や偽キリスト等が発生、多発していますし、人々の間には信頼が減少し、愛がなくなってきつつありますが、「これらすべては、産みの苦しみの始まりだ」とありますから、世の終わりの困難さ、苦痛はどんどん激しくなり、間隔も狭まっていくのでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様が事前に、世の終わりの兆候を教えてくださっておられますから感謝します。
いつも主を見上げ、主に信頼して歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月30日 (火)

箴言27:19 人の心のありようは、その人の外側に現れてくる/主が私たちを通して働くことができるように私たちを整えてくださいますように

 箴言2719を、
2017
は“顔が、水に映る顔と同じであるように、人の心は、その人に映る。”と訳し、

聖書協会共同訳は“水面(みなも)が顔を映すように、心はその人を映す。”と訳し、

リビングバイブルは、“顔を映すのは鏡ですが、人のほんとうの心は、その人がどんな友を選ぶかでわかります。”と意訳しています。

岩波訳は「水が、顔に対して顔を〔映す(訳者挿入)〕ように、心が、人に対して人を〔映す(訳者挿入)〕。」と訳しています。

 新共同訳スタディ版の注は「他者の態度を見ると自分の心の状態がわかる、あるいは他者の態度に自分の感情の反映を見ることができるという意味であろう。」と解説し、

 ウェスレアン聖書注解は「われわれの考え方が、われわれの真の性質、すなわち、深い内側においてわれわれが何であるかということを、表現するものであることは、確かに本当である。もし、われわれが基本的に自己本位であれば、われわれの思想(それゆえにわれわれのことばと行動も)が、そのことを反映するであろう。われわれが真に内側でどういう者であるかを、かくすことは不可能である。」と述べ、

 岩波訳の注は“「最初の『人』が二つ目の『人』と同一の人なのか、別人なのかが問題。前者ならば、自己認識に関する格言となり、別訳『人に対応して〔その〕人の心〔がある〕』が考えられる。”と述べています。
後者ならば、自分が向き合っている心の中に自分が反映している、の意味になる。」と述べています。

 人の心は、その人に反映されるという観点で少し述べてみたいと思います。
人の心は、その人の言葉に、その人の行動or態度に、その人の表情に、その人の体の柔らかさや硬直度に、更には、それらの不統一に表れます。

 例えば、怒りを抑えてにこやかな顔をしても、目をよく見ると怒っているとか、口では「喜んで従います」といっても、体は硬直してるとか、・・・と、色々な場合がありますね。

 福音を聞かされて、「イエス様を信じます」と言った人が、本当はその場を切り抜けるために「信じます」と言っただけであって、イエス様を信じて心にお迎えするようなことをしていない、というような場合は、その人の後のありようを見ていると、全く信じていないということが分かるようになります。

 主イエス様は、人の語る言葉を単純に信じるのではなく、その人の人となりをよく観察して、その人の語る言葉を判断しなさい、とも言われました。
 マタイ715-20には次のように記されています。
15 「偽預言者に注意しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲な狼である。
16
 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
17
 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
18
 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。
19
 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
20
 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 また、イエス様は言われました。
「悪い考えや悪い言葉、悪い行動は心から出てくるものですよ」と。
マルコ720-23には、
20 〔イエスは(筆者挿入)〕さらに言われた。「人から出て来るもの、これが人を汚す。
21
 中から、つまり人の心から、悪い思いが出て来る。淫行、盗み、殺人、22 姦淫、貪欲、悪意、欺き、放縦、妬み、冒涜、高慢、愚かさ、23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 話を変えますが、
1
コリント617を、
岩波訳は“主に接合させられる者はしかし、〔主と(訳者挿入)〕一つの霊なのである。”と訳し、
聖書協会共同訳は“しかし、主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。”と訳しています。
 また主イエス様は、「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ737.38・聖書協会共同訳)と語られました。
「生ける水」について、ヨハネは“これは彼を信じる人が受けようとしていた霊について言ったのである。つまりイエスがまだ栄光 を受けていなかったので、霊はまだなかったのである。”(ヨハネ739・岩波訳)と解説しました。
 1コリント1545には“・・・。最初の人アダムは、生ける〔自然的な〕いのちとなった。〔そして〕最後のアダム〔すなわちキリスト〕は、〔人を〕生かす霊〔となったのである〕。”(岩波訳)と記されています。〔 〕内は訳者挿入です。

 新生した人の霊には、主が住んでおられます。
主は全き愛のお方です。
主の霊が新生した人の言葉に、行動に、表情に、態度に流れ出したら、その人は、主に在って、愛に生きることが出来ることになります。
 1コリント13章には、
4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。
5
 礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。
6
 不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。
7
 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
8
 愛は決して滅びません。/
13
 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。”(聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
わたしの魂や肉体の部分が主の霊の働きを妨げることなく、主の霊が流れ出してくださったらなんと素晴らしいことでしょう。
あなたの子どもとしてふさわしく整えてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月29日 (月)

詩篇105:42-45 主とアブラハムとの契約及び主の恵みと主の主権/キリスト者は良い行いをするためにキリスト・イエスに在って造られた者

 詩編10542-45には次のように記されています。
42 僕(しもべ)アブラハムに与えた聖なる言葉を思い出したからである。
43
 主は民を喜びのうちに、選ばれた者たちを喜びの叫びのうちに導き出した。
44
 彼らに国々の土地を与え、彼らは諸国民の労苦の実りをわが物とした。
45
 これは彼らが主の掟を守り、主の教えに従うためである。ハレルヤ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 42節には“僕(しもべ)アブラハムに与えた聖なる言葉を思い出したからである。”と記されていますが、主なる神様は、どの「言葉」を思い起こされたのでしょうか?
 想像になりますが、創世記15章の、カナンの地をアブラハムに、なかんずくイサク、ヤコブの系列にある子孫に与えるという約束ではないかと思います。
 その約束は、創世記15章に次のように記されている契約でしょう。
1 これらのことの後、主の言葉が幻の中でアブラム〔後の「アブラハム」(筆者挿入)〕に臨んだ。
「恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大き い。」
2
 アブラムは言った。「主なる神よ。私に何をくださるというのですか。私には子どもがいませんのに。家の跡継ぎはダマスコのエリエゼルです。」
3
 アブラムは続けて言った。「あなたは私に子孫を与えてくださいませんでした。ですから家の僕が跡を継ぐのです。」
4
 すると、主の言葉が彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなた自身から生まれる者が跡を継ぐ。」
5
 主はアブラムを外に連れ出して言われた。「天を見上げて、星を数えることができるなら、数えてみなさい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
6
 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
7
 主は言われた。「私はこの地をあなたに与えて、それを継がせるために、あなたをカルデアのウルから連れ出した主である。」/
13
 主はアブラムに言われた。「あなたはこのことをよく覚えておきなさい。あなたの子孫は、異国の地で寄留者となり、四百年の間、奴隷として仕え、苦しめられる。
14
 しかし、あなたの子孫を奴隷にするその国民を、私は裁く。その後、彼らは多くの財産を携えてそこから出て来る。
15
 あなた自身は良き晩年を迎えて葬られ、安らかに先祖のもとに行く。
16
 そして、四代目の者たちがここに戻って来る。それまでは、アモリ人の悪が極みに達していないからである。」
17
 日が沈み、暗くなった頃、煙を吐く炉と燃える松明(たいまつ)がこれらの裂かれた動物の間を通り過ぎた。
18
 こうしてその日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの地を与える。エジプトの川からあの大河ユーフラテスに至るまでの、19 カイン人〔ケニ人(2017)〕、ケナズ人、カドモニ人、20 ヘト人〔ヒッタイト人(2017)〕、ペリジ人、レファイム人、21 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を与える。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 43節には“主は民を喜びのうちに、選ばれた者たちを喜びの叫びのうちに導き出した。”と記されています。
イスラエルの民は、エジプトから解放されたとき、次の様に主を賛美しました。その賛美の中から初めの3節だけを下記します。(21節まで続きますので4節以降は聖書で読んでください)
1 その時、モーセとイスラエルの人々はこの歌を主に歌った。
「主に向かって私は歌おう。なんと偉大で、高くあられる方。主は馬と乗り手を海に投げ込まれた。 
2
 主は私の力、私の盾、私の救いとなられた。この方こそ私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。私はこの方を崇める。
3
 主は戦人(いくさびと)。その名は主。”(出エジプト15章・聖書協会共同訳)と記されています。

 44節には“彼らに国々の土地を与え、彼らは諸国民の労苦の実りをわが物とした。”と記されています。
主はカナンの地をイスラエルに与えました。
現代人の多くは、その土地に住んでいた人達が、住んでいる土地について、その人達に先住権があると思うことでしょう。
しかし、神様は違います。
この地球を創造したのは、私、主なる神{ヤハウェ(主))・エロヒーム}だと言われるのです。
この天地は自然にできたのではなく、私、主なる神{ヤハウェ(主))・エロヒーム}が創造した、とおっしゃるのです。
更に、この天地を保持しているのも主なる神です(へブル13)。
また、天にあるもの、地のあるものは、すべて主のものである、とも言われます。(ヨブ4111、詩篇241
主なる神様は、創造者であられ、保持者であられ、主権者なのです。
パウロは次のように語りました。
「『だれが、まず主に与え、主から報いを受けるのですか。』すべてのものが、神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(2017)と記されています。

 カナンの地は、カナン先住民が、主にとっては見過ごすことの出来ない、人間的な言い方をすると鳥肌が立つような悪行をしているので、カナン先住民を、主がイスラエルを用いて滅ぼし、カナンの地にイスラエル人を住まわせる、という主なる神様の裁きであったのです。(ノアの時代には、水をもって裁きを執行しましたが、この時には水ではなく、イスラエルを用いたのです)

 そして、カナンの地に入ったイスラエル人たちには、主のみ旨にかなった歩みをしてもらいたかったのです。
45
節には“これは彼らが主の掟を守り、主の教えに従うためである。”と記されています。

 私たちキリスト者に置き換えて考えてみます。
永遠かつ自存にして、創造者、万物の主権者であられる聖なる神ヤハウェ(主)を、まことの神としないエジプトにたとえられるこの世から救い出された者たち、それがキリスト者です。

 そのキリスト者というのは、神の経綸により、エフェソ(エペソ)13-14に記されている者であるのです。
3 私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福し、4 天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。
私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。
5
 御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです。
6
 それは、神がその愛する御子によって与えてくださった恵みの栄光を、私たちがほめたたえるためです。
7
 私たちはこの御子において、その血による贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。これは、神の豊かな恵みによるものです。
8
 神は、この恵みを私たちの上に溢れさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、9 御心の秘義を私たちに知らせてくださいました。これは、前もってご自身でお決めになっていた御心によるものであって、10 時が満ちるというご計画のためです。それは〔時が満ちて計画が実行に移され(2017)〕、天にあるものも地にあるものも、あらゆるものが、キリストのもとに一つにまとめられることです。
11
 キリストにあって私たちは、御心のままにすべてのことをなさる方のご計画に従って、前もって定められ、選び出されました。
12
 それは、キリストに以前から希望を抱いている私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。
13
 あなたがたも、キリストにあって、真理の言葉、あなたがたの救いの福音を聞き、それを信じ、約束された聖霊によって証印を受けたのです。
14
 聖霊は私たちが受け継ぐべきものの保証であり、こうして、私たちは神のものとして贖われ、神の栄光をほめたたえることになるのです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 また、エフェソ(エペソ)210には、
“私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたのみ旨をよくわきまえ、あなたのみ旨に従って、主を賛美し、主のみ旨のうちを歩むことができますようお整え下さり、主なる神様の栄光のために生きる者であらせてください。
「・・、私が切に願い、望んでいるのは、どんなことがあっても恥じることなく、・・・、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められることです。私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。」{フィリピ(ピリピ)120.21・聖書協会共同訳}と語ったパウロのように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月28日 (日)

2ペトロ(ペテロ)3:1‐7 終わりの日にはキリストの再臨を信じないクリスチャンといわれる人たちがいる

 2ペトロ31-7には次のように記されています。
1 愛する人たち、今私は、あなたがたにこの第二の手紙を書いています。これらの手紙によって、私はあなたがたの記憶を呼び起こし、純粋な心を奮い立たせたいのです。
2
 それは、聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の戒めを思い出させるためです。
 3 まず、次のことを知っておきなさい。終わりの日には、嘲る者たちが現れ、自分の欲望のままに振る舞い、嘲って、4 こう言います。
「主が来られるという約束は、一体どうなったのか。先祖たちが眠りに就いてからこの方、天地創造の初めから何も変わらないではないか。」
 5 こう言い張る者たちは、次のことを忘れています。
すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって、水を元として、また水によって成ったのですが、6 当時の世界は、御言葉によって洪水に見舞われて滅んでしまいました。
 7 しかし、今の天と地とは、同じ御言葉によって取っておかれ、不敬虔な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、火で焼かれるために、保たれているのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ペテロ(ペトロ)は、2ペテロ11に“イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって、私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。”(2017)と記し、
 1ペテロ11.2に“1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち、すなわち、2 父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。”(2017)と記しています。

 ペテロは、1ペテロ11に「~に散って寄留している選ばれた人たち」と記していますから、おそらくユダヤ人キリスト者に対して記していたのでしょう。

 この人たちにペテロは、主の再臨、審判、及び主が新天新地を創造なさる前に現宇宙の崩壊が為されることは真実なことなのですよ、ということ述べています。

 現代のキリスト教を教える人の中には、黙示録に記されているようなことはすでに終わった、とか、逆に、黙示録に記されているようなことはまだまだ来ない、というようなことを語る人たちがいるということを又聞きします。

 しかし、ペテロもヨハネと同じようなことを語っているのです。
ペテロはそれだけではなく、かつての預言者(旧約の預言者)たちもその様に語っているでしょ、と注意喚起をしています(2)。

 キリスト・イエスを自分の「主」、天地の「主」として信ぜず、聖書を信じていない多くの現代人の中にも、第三次世界大戦が始まるかもしれない、orいつ始まるのだろう?と心配し、それに備えようとしている人たちもいるのです。
その中にあって、クリスチャンといわれる人たちの中に、キリストの再臨はまだ来ない、そのようなことは考えずに生活しよう、としている人たちもいます。

 そのことは、主イエス様も「忠実なしもべと悪いしもべ」のたとえ話の中で話しておられます。マタイ24章には次のように記されています。
45 「主人から、時に応じて食べ物を与えるようにと、家の使用人たちを任された忠実で賢い僕(しもべ)は、一体誰であろうか。
46
 主人が帰って来たとき〔キリストの空中再臨(筆者挿入)〕、そのように働いているのを見られる僕は幸いである。
47
 よく言っておくが、主人は彼に全財産を任せるに違いない。
 48 しかし、それが悪い僕で、主人は遅れると思い〔主の再臨はまだまだ先のことだと思い(筆者挿入)〕、49 仲間を叩き始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。
50
 もしそうなら、その僕の主人は、全く思いもよらない日と時に帰って来て、51 彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 終わりの日には、主の再臨の預言を嘲(あざけ)る者がいるのです。
3.4
節に“まず、次のことを知っておきなさい。終わりの日には、嘲る者たちが現れ、自分の欲望のままに振る舞い、嘲って、4 こう言います。
「主が来られるという約束は、一体どうなったのか。先祖たちが眠りに就いてからこの方、天地創造の初めから何も変わらないではないか。」”と記されています。

 それに対してペテロは次のように語りました。
5 こう言い張る者たちは、次のことを忘れています。
すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって、水を元として、また水によって成ったのです〔創世記12(筆者挿入)〕が、6 当時の世界は、御言葉によって洪水に見舞われて滅んでしまいました〔ノアの時代の大洪水(筆者挿入)〕。
 7 しかし、今の天と地とは、同じ御言葉によって取っておかれ〔神の保持。へブル13(筆者挿入)〕、不敬虔な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、火で焼かれるために、保たれているのです。」と記されています。

 7節の聖句をもう少し詳しく考えてみます。
「今の天と地とは・・・火で焼かれるために、保たれているのです。」というのは、黙示録20.21章によると次のように記されています。
2011 また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった/
21
1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。”(2017)とあります。
 黙示録よりも700年以上も前に記されたイザヤ書には、
“見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。”(イザヤ65172017)と記されています。
今の天と地が滅ぼされるのはキリストの千年王国の後のことです。
 
 「不敬虔な者たちが裁かれて滅ぼされる日」とペテロが語ったのは、7節からすると、今の天と地の崩壊の前のことと読み取れます。
その観点で考えると、
マタイ25章の羊と山羊の裁きの個所の41節の“それから、王は左にいる者たちにも言います。「のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。」”(2017)や、
黙示録1919.20の“また私は、獣〔反キリスト(筆者挿入)〕と地の王たちとその軍勢が集まって、馬に乗る方〔地上再臨のキリスト(筆者挿入)〕とその軍勢に戦いを挑むのを見た。しかし、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた者たちと、獣の像を拝む者たちを惑わした偽預言者も、獣とともに捕らえられた。この両者は生きたまま、硫黄の燃える火の池に投げ込まれた。”(2017)や、
黙示録2010の“彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。”(2017)という聖句を思い浮かべます。

 黙示録2011-15に記されている白い御座の裁き、すなわち最後の審判は、今の天地が滅びた後、そして新天新地が創造される前のことです。
 黙示録2011-15には次のように記されています。
11 また私は、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方を見た。天も地も、その前から逃げて行き、見えなくなった。
12
 また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれた。これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた。
13
 海は、その中にいた死者を吐き出し、死と陰府〔ギリシア語原語は「ハデス」(筆者挿入)〕も、その中にいた死者を吐き出した。死者はおのおの、その行いに応じて裁かれた。
14
 死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
15
 命の書〔キリスト・イエスを主とした人の名前が記されています(筆者挿入)〕に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イザヤ6517-19には次のように預言されています。
「見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。先にあったことが思い出されることはなく、心に上ることもない。しかし〔だから(2017)ヘブライ語原語は「キー」で原因を示す接続詞、その他、andbut、・・・の意に使うことがあります(筆者挿入)〕、私が創造するものを代々とこしえに楽しみ、喜べ。私はエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。私はエルサレムを喜びとし、私の民を楽しみとする。そこに再び、泣き声や叫び声が聞かれることはない。」(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
終末預言を避けて通ろうとする人たちもいますが、聖書に記されている内容をそのまま信じさせて頂けておりますことを感謝します。
主の現れを待ち望みます。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月27日 (土)

黙示録に「教会」という語が記されていない章/艱難前携挙説

 黙示録1-3章には「教会」という語が19回出てきますが、4章から21章までは「教会」という語が出てきません。
黙示録2216の「教会」という語の出てくる聖句は、ある意味黙示録11.11で述べている内容の繰り返しになります(特に前半部分)。

 黙示録2216には、
「わたしイエスは御使いを遣わし、諸教会について、これらのことをあなたがたに証しした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」(2017)と記されています。

 黙示録11には、
“イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。そしてキリストは、御使いを遣わし2216では「イエスは御使いを遣わし」(筆者挿入)〕て、これをしもべヨハネに告げられた。”(2017)と記され、
 黙示録111には、
“その声はこう言った。「あなたが見たことを巻物に記して、七つの教会2216では「諸教会」{2017}。ギリシア語原語はエクレシアの複数形。(筆者挿入)〕、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアに送りなさい。」”(2017)と記されています。

 黙示録2216の後半部分は、「わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」と記され、イエス・キリストの自己紹介です。

 まことの霊的教会は、新生した人たちの総体です。
2
コリント112には、「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。」(新共同訳)と記され、
 エフェソ(エペソ)5章には、
25 ・・・、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになった・・、・・。
26
キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、
27
しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。/
31
「・・、人は父と母を離れてその妻〔ギリシア語原語は「グネー」(筆者挿入)〕と結ばれ、二人は一体となる。」
32
この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。”(新共同訳)と記されています。

 新生した人たちの総体はキリストの花嫁であり、黙示録では、黙示録19章に、子羊(キリスト)の花嫁として登場します。
 黙示録196-9には次のように記されています。
6 また私は、大群衆の声のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた。
「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。
7
私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁〔ギリシア語原語は「グネー」(筆者挿入)〕は用意ができたのだから。
8
花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」
7.8節を聖書協会共同訳は“7 私たちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は支度を整え、8 輝く清い上質の亜麻布を身にまとった。この上質の亜麻布とは、聖なる者たちの正しい行いである。”と訳しています。ギリシア語聖書には「グネー」は1回しか出てきません。(筆者挿入)〕
9
御使いは私に、「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい」と言い、また「これらは神の真実なことばである」と言った。”(2017)とあります。

 妻、花嫁と日本語訳聖書に訳されている語のギリシア語原語は「グネー」で、Strong辞書には〝a woman; specifically a wife″と記されています。

 キリストとキリストの花嫁の婚礼の後にはキリスト地上再臨があります。
キリストの地上再臨によって、キリストの支配を喜ばず、悪魔(サタン)の支配下にあることを選んだ人たちは一掃されるのです。そしてその後、キリストの千年王国が始まり、キリストが王の王として千年の間地上を統治するのです。これらのことは、黙示録1911-206に記されています。

 黙示録4-18章には教会が登場しませんが、そこには何が記されているのでしょう。
黙示録4.5章は天における情景が記されています。
この中の天における情景の礼拝の中には、携挙された人たちも礼拝に加わっていることと思います。

 黙示録6-18章には、
1.父なる神と子羊の御怒り(キリストを信じない人たちへの裁き、地と地にあるものへの裁き、海と海の中の生物への裁き、空中と空中に住む者たちへのへの裁き、
2.7年間地上を治める獣(偽キリスト=反キリスト)、及び、世界統一宗教の悪行、反キリストとは別の第二の獣である預言者、彼らに殺される艱難時代の聖徒たち、
3.全世界への福音宣教、
4.艱難時代に殉教した人たちの天における賛美、
等が記されています。

 携挙された人たちの、この7年間は天での生活であろうと思います。
その間には、主への礼拝や親しかった者たちですでに先に天に帰った者たちとの再会と喜びやキリストの裁きの座での報酬の決定(2コリント5101コリント314)やキリストの千年王国時代に向けての準備(レビ833を予型として参照)、前述したキリストと花嫁との婚礼、etc.があるものと思います。

 天の神の王国には、悪魔悪霊はいませんし、イエス様を主としない者はいません。天の王国にいるすべての者は御父を敬愛し、キリストを敬愛し、御父がそこの支配者であることを喜ぶ者たちだけです。

 1テサロニケ413-511には次のように記されています。
4:13 きょうだいたち、眠りに就いた人たち〔すでに肉体が死んで霊と魂が天に帰った人たち(筆者挿入)〕については、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。
14
 イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。それならば、神はまた同じように、イエスにあって眠りに就いた人たちを、イエスと共に導き出してくださいます。
15
 主の言葉によって言います。主が来られる時まで生き残る私たちが、眠りに就いた人たちより先になることは、決してありません。
16
 すなわち、合図の号令と、大天使の声と、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます〔キリストの空中再臨(筆者挿入)〕。すると、キリストにあって死んだ人たちがまず復活〔体が天上の体{1コリント1540.42-44}である霊の体として復活(筆者挿入)〕し、17 続いて生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ〔携挙(筆者挿入)〕、空中で主に出会います。こうして、私たちはいつまでも主と共にいることになります
18
 ですから、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい。
5
1 きょうだいたち、そ〔キリストの空中再臨に伴う携挙(筆者挿入)〕の時と時期がいつなのかは、あなたがたに書く必要はありません。
2
 主の日〔主の空中再臨の日、及びその後の主の封印の裁きの始まる日{おそらく同時ではなく一定の期間がある可能性があると思います。これはわかりません。}(筆者挿入)〕は、盗人が夜来るように来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。
〔リビングバイブルは、“その時を言い当てることができる人などいないことは、よくご存じのはずです。主の日は、夜中にこっそり忍び込む盗人のように、思いがけない時に来ます。”と意訳しています。(筆者挿入)〕
3
 〔黙示録の7つの封印の裁きの巻物が開かれて(筆者挿入)〕人々が「平和だ。安全だ」と言っている〔第一の封印が開かれた状態の(筆者挿入)〕ときに、ちょうど妊婦に産みの苦しみが訪れるように、突如として滅びが襲って来るのです〔巻物の第2の封印が開かれる。巻物の2-4の封印が開かれることによって地上の人口の1/4が死にます(筆者挿入)〕。決して逃れることはできません。
4
 しかし、きょうだいたち、あなたがたは闇の中にいるのではありません。ですから、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
5
 あなたがたは皆、光の子、昼の子だからです。私たちは、夜にも闇にも属していません。
6
 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。
7
 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔います。
8
 しかし、私たちは昼に属していますから、信仰と愛の胸当てを着け、救いの希望の兜をかぶり、身を慎んでいましょう。
9
 なぜなら、神は、私たちを怒り〔封印の巻物に記されている裁き(筆者挿入)〕に遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたからです。
10
 主は、私たちのために死んでくださいました。それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるためです
11
 ですから、あなたがたは、今そうしているように、互いに励まし合い、互いを造り上げるようにしなさい〔お互いの向上に心がけなさい(新共同訳)〕。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたを愛し、主イエス様を愛し、主の空中再臨を待ち望みます。
それまでの間、日々、主の導きに従い、御聖霊の助けを頂きつつ励んでいくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月26日 (金)

箴言27:18 主を愛し、主に喜ばれる歩みをしたいものですね

 箴言2718を、
2017
は“いちじくの木の番人はその実を食う。主人の身を守る者は誉れを得る。”と訳し、
聖書協会共同訳は“いちじくの番をする者はその実を食べるが、主人を守る者は誉れ〔名誉(新共同訳)〕を得る。”と訳し、
リビングバイブルは“果樹園の番人がそこの果物を頂けるように、主人のために働く者が報酬を受けるのは当然です。”と訳しています。
原文は上記のいずれの様にも訳せます。

 私が直訳すると聖書協会共同訳のようになりますが、「守る」と訳されているヘブライ語原語は「シャーマル」という語で、護衛する、守る、の他に、世話をする、随行する、付き添う、精を出す、専心する・・・等の意があります。

 「誉れ」と訳されているヘブライ語原語は「カーバド」で、誉れ、の意がありますが、重いこと、名誉、光栄、等の意の他に、豊か、金持ち、潤沢、(~に)恵まれ、・・・等の意があります。
カーバドを豊かになる、恵まれる、等に訳すと、リビングバイブルのように「主人のために働く者が報酬を受けるのは当然です」と訳せます。

 ダビデがペリシテ人の巨人の祖ラファの子孫であるイシュビ・ベノブに殺されそうになったとき、ツェルヤの子アビシャイがダビデを助けたことがあります。
 2サムエル2115-17には、
15 ペリシテ人とイスラエルの間に、再び戦いが起こった。ダビデは家臣を連れて下り、ペリシテ人と戦ったが、ダビデは疲れていた。
16
 ラファの子孫の一人イシュビ・ベノブは三百シェケル〔約3.4kg(筆者挿入)〕の重さの青銅の槍を持ち、新しい武具を帯び、ダビデを討つ、と言った。
17
 しかし、ツェルヤの子アビシャイはダビデを助けて、このペリシテ人を打ち殺した。それから、ダビデの家臣たちはダビデと誓い合った。「あなた はもう、我々と共に戦いに出てはなりません。イスラエルの灯を消してはなりません。」”(聖書協会共同訳)と記されています。
アビシャイの名は、このように聖書に記されたのです。まさしく、「主人を守る者は誉れ〔名誉(新共同訳)〕を得る。」と記されている通りです。

 「守る」と訳されているヘブライ語原語には「専心する」という意もあります。
ベタニヤのマリアは、一途に主を愛していたので、主の葬りの準備として300デナリの値打ちのある香油を主に塗りました。このことも聖書に記述されました。
 ヨハネ121-7には次のように記されています。
1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。
2
 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に席に着いた人々の中にいた。
3
 その時、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ〔326g(筆者挿入)〕持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭(ぬぐ)った。家は香油の香りでいっぱいになった。
4
 弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。
5
 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6
 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。自分が盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていたからである。
7
 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。私の埋葬の日のために、それを取っておいたのだ。
8
 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。」”(聖書協会共同訳)とあります。
 更に、マルコ148.9には、主イエス様の御言葉が次のように記されています。
「この人〔ベタニアのマリア(筆者挿入)〕はできるかぎりのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。9 よく言っておく。世界中どこでも、福音が宣(の)べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(聖書協会共同訳)とあります。

 リビングバイブルは“果樹園の番人がそこの果物を頂けるように、主人のために働く者が報酬を受けるのは当然です。”と訳していました。
この訳を読んだとき、1コリント9章の次の聖書個所を思い浮かべました。
9 モーセの律法に、「脱穀している牛に、口籠(くつこ)をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。
10
 それとも、私たちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、私たちのためにそう書かれているのです。なぜなら、耕す者は当然、望みを持って耕すべきであり、脱穀する者は分け前にあずかる望みを持って脱穀するからです。
11
 私たちがあなたがたに霊のものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取るのは、行き過ぎでしょうか。
12
 他の人たちが、あなたがたに対するこの権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらそうではありませんか。しかし、私たちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を妨げないように、すべてのことを耐え忍んでいます。
13
 あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人は神殿から下がるものを食べ、祭壇に仕える人は祭壇の供え物にあずかります。
14
 同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の糧を得るようにと、命じられたのです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主を愛し、主のために働くキリスト者は天の神の王国で報酬を頂きます。それは携挙の後とキリストの地上再臨の間に行われると思います。
2
コリント510には、“私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。”(2017)と記されています。
 この個所をリビングバイブルは、
“・・、やがて私たちはみな、キリストの前でさばきを受けなければならず、全生活がさらけ出されることになるからです。善であれ悪であれ、地上の体でいる時の行ないに応じて、私たちはそれぞれ、ふさわしい報いを受けるのです。”と記しています。

 また1コリント310-15には次のように記されています。
10 私は、神からいただいた恵みによって、賢い建築家のように、土台を据えました。そして、他の人がその上に建物を建てています。ただ、おのおの、 どのように建てるかに注意すべきです。
11
 イエス・キリストというすでに据えられている土台のほかに、誰も他の土台を据えることはできないからです。
12
 この土台の上に、誰かが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てるなら、13 おのおのの仕事は明るみに出されます。
かの日にそれが明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんな ものであるかを試すからです。
14
 誰かが建てた仕事が残れば、その人は報酬を受けますが、15 燃え尽きてしまえば、損害を受けます。
ただ、その人は、火の中をくぐるようにして救われます。”(聖書協会共同訳)とあります。
 
<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主を愛し、主の御命令に従って働かせていただく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月25日 (木)

詩篇105:39-41 荒野におけるヤハウェ(主)の守り/私たちを守り導き祝福される主

 詩篇10539-41には次のように記されています。
39 主は雲を広げて覆いとし、火をもって夜を照らした。
40
 民が求めると、主はうずらを来させ、天のパンをもって彼らを飽きさせた。
41
 主が岩を開くと、水がほとばしり、川となって乾いた地を流れた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 39節の「主は雲を広げて覆(おお)い〔仕切りの幕(新改訳)〕とし、夜は火をもって照らした。」と記されている箇所は、出エジプト1321.22に、「主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。」(新改訳2017)と記されています。

また、「主は雲を広げて覆いとし」とあるのは、民を守る為です。
イザヤ45.6に「・・昼には雲を、夜には煙と燃える火の輝きを創造される。それは・・、おおいとなり、その仮庵は昼に暑さを避ける陰となり、嵐と雨から逃れる避け所、また隠れ家となる。」(新改訳2017)と記されていることにより雲の柱の意図が分かります。

 私たちキリスト者も、「主は雲を広げて覆いとし、夜は火をもって照らした」(詩編10539)と記されている主の御業を霊的分野で体験していることと思います。
もし主が、悪魔悪霊の勢力と私たちの間に仕切りの幕を張ってくださらなかったなら、私たちは、悪魔悪霊たちから甚大な被害を被っていたことでしょう。

 悪魔悪霊に対して、主が自由を与えたとしたらどのようなことが起こるのでしょう。
キリスト者といえども、主を信じる信仰、聖句を信じる信仰等を揺らがされる可能性があります。
悪魔悪霊は、偽りを私たちキリスト者の考えの中に挿入し、主なる神様やキリストにある兄姉に対する悪感情を挿入し、キリスト者を主に喜ばれない者としていくことでしょう。
肉体的には、病気や弱さをもたらし、更には殺しにかかり、苦しくて苦しくてたまらないような状況にも落ち込ませることでしょう。
そのあたりのことをヨブ記や黙示録から見ていきましょう。

 ヨブ112-19には次のように記されています。
12 主はサタンに言われた。「見よ、彼のすべての所有物はあなたの手の中にある。ただし、彼には手を出すな。」サタンは主の前から出て行った。
13
 ヨブの息子、娘が長兄の家で食事をし、ぶどう酒を飲んでいた日のことである。
14
 ヨブのもとに使者がやって来て言った。「牛が畑を耕し、その傍らで雌ろばが草を食(は)んでおりますと、15 シェバ人が襲いかかって、これを奪い、若者たちを剣で打ち殺しました。私一人が、あなたにお知らせするために逃れて来たのです。」
16
 彼がまだ話している間に、別の者がやって来て言った。「神の火が天から降り、羊と若者たちを焼き尽くしました。私一人が、あなたにお知らせするために逃れて来たのです。」
17
 彼がまだ話している間に、別の者がやって来て言った。「カルデア人が三隊に分かれて、らくだを襲い、これを奪い、若者たちを剣で打ち殺しました。私一人が、あなたにお知らせするために逃れて来たのです。」
18
 彼がまだ話している間に、別の者がやって来て言った。「あなたのご子息、ご息女がたはご長男の家で食事をされ、ぶどう酒を召し上がっておられました。
19
 その時、大風が荒れ野の方から吹いて来て、家の四隅を打ち、それが若者たちの上に倒れ、皆様は亡くなられました。私一人が、あなたにお知らせするために逃れて来たのです。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 もし悪魔悪霊が、神ヤハウェ(主)から、人を殺すことは許可しないが苦しめても良い、という許可をもらったとしたらどうなることでしょう。
 黙示録91-11には次のように記されています。
1 第五の天使がラッパを吹いた。すると、私は、一つの星が天から地上に落ちるのを見た。この星には、底なしの淵〔ギリシア語原語は「アブソス」、英語はabyss、悪霊たちを閉じ込めている所(筆者挿入)〕に通じる穴を開く鍵が与えられた。
2
 その星が底なしの淵の穴を開くと、大きな炉から出るような煙が立ち上り、太陽も空も穴から出る煙で暗くなった。
3
 その煙の中から、ばったの群れ〔悪霊たち(筆者挿入)〕が地上へ出て来た。これらのばったには、地上のさそりが持っているような力が与えられた。
4
 ばったは、どんな地の草も青草も木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印のない者には害を加えてもよい、と言い渡された。
5
 殺してはならないが、五か月の間、苦しめることは許されたのである。ばったの与える苦痛は、さそりが人を刺したときのような苦痛であった。
6
 その間、人々は死を求めても与えられず、死を切に望んでも、死のほうが逃げて行く。
7
 そのばったの姿は出陣の用意の整った馬に似て、頭には金の冠のようなものを着け、顔は人間の顔のようであった。
8
 髪は女の髪のようで、歯は獅子の歯のようであった。
9
 胸には鉄の胸当てのようなものを着け、その羽音は、多くの馬に引かれて戦場へとひた走る戦車のとどろきのようであった。
10
 また、さそりのような尾と針があり、その尾には、五か月の間、人に害を加える力があった。
11
 ばったは、底なしの淵の天使を王として戴いている。その名は、ヘブライ語でアバドン〔破壊者(欄外注)〕と言い、ギリシア語ではアポリオン〔破壊者(欄外注)〕と言う。”(聖書協会共同訳)とあります。

 神ヤハウェ(主)が経済システムに対する主権を悪魔(サタン)に与えることを許可したらどうなるのでしょう。
 黙示録1316.17には次のように記されています。
16 また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。
17
 そして、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようにした。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主はパウロを通して語っておられます。
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(1コリント1013・口語訳)と。

 キリスト者にも試練が与えられますが、一人一人に与えられる試練は、それぞれ主に在って、耐えられる試練であることがわかります。
それは、キリストの更なるすばらしさを知るためです。
それを通しても、より一層、主の御名をほめたたえるようになるのです。

 ヨブが次から次へと災いに襲われた後、ヨブは主に何と祈ったでしょうか。
ヨブ120-22には次のように記されています。
20 ヨブは立ち上がり、上着を引き裂いて、頭をそり、地に身を投げ、ひれ伏して、21 言った。
「私は裸で母の胎を出た。また裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名はほめたたえられますように。」
22
 このような時でも、ヨブは罪を犯さず、神を非難しなかった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ヨブに対して主はどのように扱ったでしょう。
災いに遭う前の2倍の祝福を与えたのです。
 ヨブ42章には次のように記されています。
10 ・・・。そして、主はヨブの財産すべてを二倍に増やした。/
12
 主はその後のヨブを以前に増して祝福した。彼には羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛千軛、雌ろば千頭が与えられた。
13
 また彼には七人の息子と三人の娘が与えられた。
14
 彼は長女をエミマ、次女をケツィア、三女をケレン・プクと名付けた。
15
 ヨブの娘たちのような美しい女は地のどこにも見いだせなかった。父は、彼女たちにも兄弟たちの間に相続地を与えた。
16
 この後、ヨブは百四十年生き、子、孫、四代の先まで見届けた。
17
 ヨブは老いた後、生涯を全うして死んだ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 キリスト者に与えられている祝福は、旧約時代とは異なり、霊的なものが第一です。{物質的な祝福も賜物として与えられますが、それは第一ではありません。(1テモテ67-9、へブル135、ピリピ419)}
エペソ13には、“・・・。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。”(2017)と記されています。
ヨブは地上の物質的祝福を受けましたが、キリスト者の場合は、与えられている霊的祝福を実体化する信仰が与えられるのでしょう。
信仰は賜物です(ローマ1231コリント129、エペソ28)。

40節に「民が求めると、主はうずらを来らせ、天のパンをもって彼らを飽(あ)きさせた。」とあるのは、出エジプト16章に記されている内容です。

うずらとマナを与えられる前に、イスラエル人がモーセとアロンに言った言葉は「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」(出エジプト163・新共同訳)というものであったのです。
それに対して、主はモーセにどのように言われたのでしょう。主が語られた結果はどのようなものであったのでしょう。
 出エジプト16章には次のように記されています。
12 「わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」
13
夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。
14
この降りた露(つゆ)が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。
15
イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。
16
主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」
17
イスラエルの人々はそのとおりにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。
18
しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。(新共同訳)とあります。

 ハレルヤ!

41節の「主が岩を開くと、水がほとばしり、川となって乾いた地を流れた。」とあるのは、出エジプト171-7に記されています。

この時も、イスラエルの民が、モーセに、「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」(出エジプト173・新共同訳)と言った後に、神様がなさった御業は、「主が岩を開くと、水がほとばしり、川となって乾いた地を流れた。」という御業であったのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは、私たちの地上での歩みに目を止めてくださっておられ、私たち個々人に最も良いような道を備え、守り、導き、助け、祝福してくださるお方ですから御名を崇めて感謝します。
今日もあなたに信頼して歩む一日とさせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月24日 (水)

イザヤ17:1 ダマスカス(ダマスコ)は瓦礫の山となる

 イザヤ171には、
“ダマスコについての宣告。「見よ。ダマスコは取り去られて都でなくなり、瓦礫の山となる。」”(2017)と記されています。
この個所を新共同訳は、“ダマスコについての託宣。「見よ、ダマスコは都の面影を失い瓦礫の山となる。」”と記しています。

 現在のシリアの首都であるダマスカス(ダマスコ)について、イザヤ171の預言が成就するのは、エゼキエル38章の預言の前である、と言う人々がいます。その可能性は大きいとは思いますが、絶対とは言えないかもしれません。
この節の預言が成就する時は、携挙前なのか、携挙後なのか、それも確定はできないと思います。

 シリア内戦でダマスカスの一部の建物は破壊されましたが、現在は、それがイザヤ171の聖句の成就とは思えません。
シリアのバッシャール・アル=アサド大統領は、ダマスカスにある大統領宮殿に住んでいるそうですから。
それは“ダマスコについての託宣。「見よ、ダマスコは都の面影を失い瓦礫の山となる。」”(新共同訳)と記されている内容には合致しません。

 ダマスコについて、聖書辞典は次のように記しています。
“ダマスコ (〈ヘ〉dammeseq dummeseqdarmeseq、〈ギ〉Damaskos) シリヤ(アラム)地方の中心地。ヘルモン山の東方、アンティ・レバノンの南東を流れるアマナ川とパルパル川の流域にある(参照5:12)。その一帯はナハル・バラダと呼ばれるオアシスで、遅くとも前2千年期前半(中期青銅器時代)には村落があったと思われる。パレスチナ南西部から北東に向かう大路と、ヨルダン川の東を南北に走る「王の道」の合流地点であり、商業的にも軍事的にも非常に重要な場所であった。
 アブラハムはメソポタミヤ方面からの侵略者を追撃し、ダマスコ以北まで追い払った(創14:15)。彼に仕えたしもべの長は、この地の出身者であった(創15:2)。前1400年頃にはエモリ王国の首都とされ、エジプトの介入を牽制しながら、ギリシヤ世界との通商が行われていたことが知られている。前1200年頃、小アジヤで影響を及ぼしていたヒッタイト王国が衰微したのを機に、アラム人がダマスコを占領し、その地を王国の中心とした。
 ダビデはアラムの軍隊を撃ち破り、その拠点ダマスコに守備隊を駐屯させて支配した(Ⅱサム8:5‐6,Ⅰ18:5‐6)。ソロモンの時代には、ツォバ出身のレゾンがアラム王国を建て、イスラエルに敵対した(11:23‐25)。続くタブリモン王(前915―900年頃)とベン・ハダデ1世(前900―860年頃)は南王国ユダのアビヤム、アサと連盟を結び、北王国イスラエルに対立した(15:18‐20,Ⅱ16:2‐4)。ベン・ハダデは一時、北王国イスラエルのアハブ王にダマスコの市場を解放したが(20:34)、後には南王国ユダとの連合軍が差し向けられたので、応戦してアハブを戦死させた(前853年、22:29‐40)。一時期ベン・ハダデはサマリヤを攻め、包囲したが、陥落させることはできなかった(6:24,7:5‐7)。将軍ハザエルが、エリヤの預言の通り、先王ベン・ハダデ1世を殺害して登位した(8:7‐15)。ヤロブアム2世はダマスコを属国とした(14:28)。アッシリヤの台頭に伴い、独立を脅かされたダマスコの王レツィンはペカ王とアハズ王に連盟を呼びかけたが、アハズはアッシリヤの側についた(参照16:5‐7)。前733年頃、ティグラテ・ピレセル3世はダマスコを陥落させ、レツィンも殺した(16:9)。アハズ王は、この時ダマスコにあった祭壇に似せてエルサレム神殿を改造した(16:10‐18)。ダマスコはこの頃から独立国家としての機能を奪われ、バビロニヤ、ペルシヤ、アレクサンドロスが率いるマケドニヤ等に屈し続けた。ローマの介入が比較的少なかった頃、ペトラを首都とするナバテヤ王国が台頭し(前87年以降)、ダマスコを北の拠点とした。しかし、アレタ3世の晩年には、この町はローマ代官の支配下におかれた(前65年頃)。
 新約時代、ローマの管理下にあったダマスコにはナバテヤ王国のアレタ4世が遣わした代官がいた(参照コリ11:32)。パウロはこの町に赴く途上で復活のキリストに会い、回心した(使9章、22:6‐11,26:12以下)。有名な「まっすぐ」と呼ばれる街路(使9:11)は、町のほぼ中央を東西に貫いている。アンティ・レバノンの東側山麓にある現在のダマスコの町には、キリスト教化された時代のあかしとして、バプテスマのヨハネの教会などが建てられている。”とあります。

 エゼキエル47:13-23 の個所について、以前、トミーの聖書理解の中で次のように記しました。下の< >内に転記します。
 <エゼキエル4713.14には、
13 神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる。「あなたがたがイスラエルの十二の部族に、この地を相続地として与えるときの境界は、次のとおりである。ヨセフには二つ分を与える。14 あなたがたは、それを等分に割り当てなければならない。それは、わたしがかつて、あなたがたの父祖たちに与えると誓約したものである。この地は相続地としてあなたがたのものである。(新改訳2017)と記されています。
 13節に、「ヨセフには二つ分を与える。」とありますが、ヨセフはマナセとエフライムを生み、イスラエル(ヤコブ)はマナセとエフライムを自分の子としました(創世記481-5)。それ故、マナセとエフライムは、他の部族と同等の扱いを受けるのです。
 14節の中に、「わたしがかつて、あなたがたの父祖たちに与えると誓約したものである。」とありますが、創世記1518には、「あなたの子孫に、わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。」(新改訳2017)というアブラハムへの契約が記されています。ここ契約はイサクに継承され(創世記263)、この契約は更にヤコブに継承されたのです(創世記2813-15359-12)。

 エゼキエル4715-17には、
15 その地の境界線は次のとおりである。北側は、大海〔地中海(筆者挿入)〕からヘテロンの道を経て、レボ・ハマテ〔「レボ・ハマテ」は「ハマテの入り口」の意。オロンテス川上流の町。ハマテはダマスカス北方約192kmの町(筆者挿入)〕、ツェダデ〔シリアのダマスカスの北方約100kmの町(筆者挿入)〕、16 ベロタ、および、ダマスコの領土とハマテの領土の間にあるシブライム、さらに、ハウラン〔ゴラン高原北東部(筆者挿入)〕の領土に面したハツェル・ハ・ティコンに至る。17 こうして、境界線は海〔地中海(筆者挿入)〕から始まり、ダマスコの境界のハツァル・エナンに至り、北は北の方へ、ハマテの境界にまで至る。これが北側である。”(新改訳2017)と記されています。
キリストの千年王国時代のイスラエルの北の境界線が述べられています。

主は、アブラハムに、「エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。」と約束されましたが、北の境界線が、ユーフラテス川まで、ということであったのだろうと思います。

18節には、「東側は、ハウラン〔ヘルモン山の南東(新共同訳スタディー版の注)〕とダマスコの間と、ギルアデ〔ヨルダン川東岸北部の山地(新共同訳スタディー版の注)〕とイスラエルの地の間のヨルダン川が、東の海〔死海(筆者挿入)〕を経てタマル〔「なつめやしの木」の意。死海の南にある町(筆者挿入)〕に至るまでの境界線である。これが東側である。」(新改訳2017)と記されています。
これが東の境界線です。

エゼキエル4719-21には、
19 南側は、タマルから南に向かって、メリバテ・カデシュの泉〔死海南端から南西約50数キロにあるカデシュ・バルネアの泉のこと。民数記202-132714(筆者挿入)〕とエジプト川に至り、大海に至るまでである。これが南側である。20 西側は、大海が境界となり、レボ・ハマテに面した地点にまで至る。これが西側である。21 あなたがたは、この地をイスラエルの部族ごとに割り当てなければならない。(新改訳2017)と記されています。
南側の境界はメリバテ・カデシュの泉からエジプト川に至るラインです。

西側の境界は地中海です。

 キリストの千年王国時代のイスラエルの領地は、以上のように与えられました。
主(ヤハウェ)が、アブラハムに約束した土地は、キリストの千年王国時代に成就するのです。

 キリストの千年王国時代の陸地はどのようになっているかというと、現在とは異なります。
黙示録614後半には、「すべての山と島は、かつてあった場所から移された。」(新改訳2017)と記されています。
また、黙示録1620には、「島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。」(新改訳2017)と記されています。
大患難時代には、天変地異が起こるのです。地震も私たちが経験したものとは異なります。

イザヤ2417-23には、
17 地上の住民よ。恐怖と落とし穴と罠があなたに臨む。18 その恐怖の叫びから逃げる者は、その落とし穴に落ち、落とし穴から這い上がる者は、その罠に捕らえられる。天の窓が開かれ、地の基が震えるからだ。19 地は割れに割れ、地は破れに破れ、地は揺れに揺れる。20 地は酔いどれのようによろめき、仮小屋のように揺れ動く。地の背きはその上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない。21 その日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は天では天の大軍〔恐らくサタンや配下の悪霊(筆者挿入)〕を、地では地の王たちを罰せられる。22 彼らは、囚人が地下牢に集められるように集められ、牢獄に閉じ込められ、何年かたった後に罰せられる。23 月は辱めを受け、太陽も恥を見る。万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前にあるからである。(新改訳2017)と記されています。>

 ウィキペディアのダマスカスの項目には、
“ダマスカスはシリア(シリア・アラブ共和国)の首都。ダマスクスとも表記される。アラビア語ではディマシュク(アラビア語: دمشق‎, アラビア語発音: [diˈmaʃq], Dimashq)で、別名をシャーム(الشام, al-shām)という。日本語の聖書翻訳の慣行ではダマスコと表記する。「世界一古くから人が住み続けている都市」として知られる。カシオン山の山麓、バラダ川沿いに城壁で囲まれた古代から続く都市と新市街が広がる。現在の人口は約200万人といわれるが、都市圏全体では400万人に迫るといわれる。”と記されています。
これだけの大きな都市が瓦礫の山になるのは、主が何か(天変地異や歴史上経験したことの無いような地震)をなされたときではないかとも考えられます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
聖書預言の研究をしている人の中には、ダマスコの壊滅後にエゼキエル38章の預言が成就するのではないかという人たちもいますが、そうかもしれないし、そうではないのかもしれない、と私は思いました。
いずれにしても、主キリスト・イエス様が迎えに来てくださる時を待ち望みます。
大いなる希望を与えてくださいますあなたを賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月23日 (火)

黙示録1:5、3:14-22 地上の豊かさのゆえに霊的な豊かさを知らない人たち/実を結ぶ生き方

 黙示録1:5、3:14-22には次のように記されています。
15 また、真実な証人にして死者の中から最初に生まれた方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから、・・・・。/
3
14 ラオディキアにある教会の天使に、こう書き送れ。『アーメンである方、忠実で真実な証人、神に造られたものの源である方が、こう言われる。
15
 「私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
16
 熱くも冷たくもなく、生温いので、私はあなたを口から吐き出そう。
17
 あなたは、『私は裕福で、満ち足りており、何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。
18
 そこで、あなたに勧める。豊かになるように、火で精錬された金を私から買うがよい。自分の裸の恥をさらさないように、身にまとう白い衣を買い、 また、見えるようになるために目に塗る薬を買うがよい。
19
 私は愛する者を責め、鍛錬する。それゆえ、熱心であれ。そして悔い改めよ。
20
 見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に 食事をするであろう。
21
 勝利を得る者を、私の座に共に着かせよう。私が勝利し、私の父と共に玉座に着いたのと同じように。
22
 耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。」』”(聖書協会共同訳)とあります。

 ラオディキアについて、聖書辞典は、「ラオデキヤ」の項で次のように記しています。
“ラオデキヤ (〈ギ〉Laodikeia) 「国民の義」という意味。小アジヤ西部、フルギヤ地方の主要都市の一つで、メアンデル川の支流リュコス川に面した位置にあり、エペソの東150キロ、コロサイとヒエラポリスの近くにあった。前3世紀半ば、アンティオコス2世セオスが、それまでディオスポリスまたはロアスと呼ばれていた町を、ヘレニズム文化の中心都市として整備し直し、自分の妻のラオディケにちなんでラオデキヤと改名した。ヨセフォスによれば、アンティオコス3世が多くのユダヤ人をフルギヤ、リュディア地方に移住させ、この町にもかなりのユダヤ人が住むようになったと考えられる。前1世紀にはこの地方のユダヤ人は宗教の自由を保障され、エルサレムへ献金を送ることも許されていた。
 その後一時ペルガモ王国の支配下に移ったが、前133年以降ローマの支配下に入り、エペソからシリヤへ至る通商路に沿っていたこともあって、商業都市として発展した。またラオデキヤは金融都市としても知られ、その経済力は前60年の大地震で町が崩壊した時、市民だけの富で復興したほど豊かであった(参照黙3:17。この町はまた、黒羊毛と毛織物の産地としても有名であり(参照黙3:18、郊外のアットゥダの町で生産されていた「フルギヤの粉末」と呼ばれる目薬でも知られていた(参照黙3:18
 新約聖書の時代、ここには早くから、パウロとかかわりの深い教会があったが、パウロ自身によってではなく、彼の弟子エパフラスがコロサイ、ヒエラポリスと共にこの町の教会の基礎を築いたと考えられている(コロ1:7,2:1,4:12‐13,15)。パウロはラオデキヤの教会へ手紙を書いたが(コロ4:16)、その手紙がエペソ人への手紙であると考える者もいる。また、ヨハネの黙示録が書かれた時代(紀元90年代)には、使徒ヨハネがこの地方の7つの教会と深いかかわりを持ち、この町の教会へも手紙を送っている(黙1:11,3:14‐22。これによると、当時のラオデキヤの教会は霊的に非常に生ぬるい状態にありながら、自分たちのあわれな現状には全く気づいておらず、イエスが教会の外に立っておられると言われるほど信仰的に堕落し、悔改めが必要な状態にあったことが分る
 この町には4世紀までフルギヤの司教座がおかれていたが、中世に入ってからイスラムとの戦いで破壊された。現在のエスキ・ピッサルという小村(トルコのデニズリの西)がラオデキヤに当ると考えられている。”と述べています。

 聖書辞典は、「ラオデキヤ」を「国民の義」の意味と記していますが、Strong辞書を基にもう少し詳しく書いてみたいと思います。
何故そこまでするのかというと、ラオディキア教会は大雑把に言うと、現代の教会の預言とも言われているからです。
Λαοδίκεια(ラオディキア)は、λαός(ラオス)とδίκη(ディケー)からなる語です。「ラオス」には、人、国民、市民、公衆、一般大衆、一般の人々、国家や共同体の構成員全体等の意があり、「ディケー」には、正しい、正義、公正、公平、公明正大、正当、妥当、当否、司法、裁判、司法官、判断、評価、審査、意見, 罰する、こらしめる、(…)罰する、処罰する、ひどい目にあわす、酷使する,復讐(ふくしゆう)、復讐の行為、あだ討ち、報復等の意があります。

 エフェソ(エペソ)123を岩波訳は次のように記しています。
“・・教会はキリストの体、すべてのものをすべてのものの中に満たす方の充満である。”とあります。

1.教会はキリストの体です。
2.キリストはすべてのものをすべてのものの中に満たす方です。
3.キリストの体である教会の中にキリストが充満しています。

 さて、ラオディキア教会はどのようであったのでしょうか?
キリストが教会と呼ばれているものの外に出されていたのです。
ラオディキア教会の中にキリストがいなかったのです。
なんと恐ろしいことでしょう。
キリストの霊をもたない者は、キリストのものではないのです(ローマ89)。

 主イエス様は言われました。
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。」(20)と。
クリスチャンと思っている人々が、イエス様を心の外に追い出しているので、イエス様が、「あなたの心の扉を開いて、私をあなたの心の中に入れてください」と語っているという状態、それがラオディキア教会なのです。

 2テモテ31.5には次のように記されています。
2017
は、
1 終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。
5
見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。こういう人たちを避けなさい。”と訳し、
口語訳は、
1 しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。                            
5
信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。”と訳し、
リビングバイブルは、
1 テモテよ。これから書くことを、よく心にとめておきなさい。終末の時代には、クリスチャンになることが非常にむずかしくなります。
5
教会に出席していたとしても、聞いたことを何一つ信じようとしないのです。目をしっかり開けて、そんな人たちには近寄らないようにしなさい。”と意訳しています。

 現代は、「私は、イエス・キリストを信じています。だからクリスチャンです。」と言っても、聖書の教えよりもこの世の考え方を優先するような人々が多くいるのかもしれません。
キリスト・イエス様が心の王座に座ってくださっておられないと、主なる神様が喜ばれる実を結ぶことができません。

 2ペトロ(ペテロ)13-8には次のように記されています。
3 主イエスは、ご自身の神としての力によって、命と敬虔とに関わるすべてのものを、私たちに与えてくださいました。それは、私たちをご自身の栄光と力ある顕現とで召された方を、私たちが知ることによるのです。
4
 この栄光と力ある顕現によって、私たちには尊く大いなる約束が与えられています。それは、あなたがたがこの約束によって、世の欲にまみれた腐敗を免れ、神の本性にあずかる者となるためです。
5
 こういうわけで、あなたがたは力を尽くして、信仰には徳を、徳には知識を、6 知識には節制を、節制には忍耐を、忍耐には敬虔を、7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
8
 これらのものが備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、怠惰な者、実を結ばない者とはならず、私たちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
御父と御子を愛し、従い、御言葉に信頼し、主の霊によって造り変えられて実を結び、あなたに喜ばれる生き方をし続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。



2024年1月22日 (月)

箴言27:17 成長させるのは主です

 箴言2717を、
口語訳は“鉄は鉄をとぐ、そのように人はその友の顔をとぐ。”と訳し、
新共同訳は“鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される。”と訳し、
新改訳初版~第三版は“鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。”と訳し、
新改訳2017は“鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。”と訳し、
フランシスコ会訳は“鉄は鉄を研ぎ、人は友の心を磨く。”と訳し、
リビングバイブルは“鉄が鉄によって研(と)がれるように、友との熱のこもった議論は、互いを研ぎあいます。”と意訳し、
聖書協会共同訳は“鉄は鉄で研がれ、人はその友人の人格で研がれる。”と訳しています。

 素直な直訳は、口語訳のようになりますが、口語訳が「顔」と訳している語のヘブライ語原語の「パニーム」は、「顔」の他多くの意を持っています。
それ故、上記、諸日本語訳聖書の様にも訳せるのです。

 「友」と訳されている語のヘブライ語原語は「レーア」で、箴言には幾度も登場しますが、レーアには、仲間、友人、兄弟、愛人、夫、隣人、等の意があり、「友」と訳されている単語の個所に、上記の様々な関わりの人を入れることもできます

 この聖句について、Bible navi の適用注解は次の様に述べています。
“良い人たちと一緒にいることによって知性が鋭くなる。知性的な集まりは、人々が新しい明快さをもって自分の考えを見つめ、その考えを精錬し、すばらしい見識へと変える手助けをする。これは互いに促し合い、考えを刺激しあえる相手、すなわち、話し合いの中で我欲を持ち込まずに考えに集中できる人々、考える人ではなく考えを戦わせる方法を知っている人々を必要とする。考えを持ち寄る2人の友人は、互いに研ぎあうことができる。”と記しています。
このような友人を持っている人、このように議論できる人は幸いですね。感情的にならず、保身や利己的に陥ることなく、議論を戦わせることの出来る人たちの集まりは素晴らしいですね。

 「研ぐ」「研がれる」と訳されている語のヘブライ語原語は原語は「ハーダド」で、(…)鋭利にする、とぐ、とがらせる、削る、強くする、鋭敏にする、しんらつにする、聡明にする、凶暴にする、・・・等の意もあります。
凶暴な友は、関わる人を凶暴にする可能性があります。
しかし、凶暴な友、凶暴な隣人を見、そのような人を反面教師として、私はそのようにはならないぞ、と決意する人もいることでしょう。
また、聡明な友と関わる人は、その人を聡明にする可能性があります。

 話は変わりますが、私の「レーア」(隣人、パートナー、愛する人、・・)は?
新生させていただいたキリスト者の場合、新生させていただいた「霊」の最も親しいお方はキリストです。
1
コリント617に“主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。”(2017)と記されているように。
主に研がれ、主に似るようにさせていただけるほど素晴らしいことはないだろうと思います。
“キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿って” (コロサイ292017)いるのですから。

 キリストのことばを豊かに宿している兄姉たちの会話は、キリストにあって互いに、神的知識を高めあい、また徳を高めあうことができます。(コロサイ316、エペソ429b、ピリピ48等を参照)
また主への信頼の豊かな人との交わりは、交わる人の信仰を信仰から信仰へと進ませてくれます。{成長させるのは神ですが(1コリント36)}
ローマ117には“神の義はその福音のうちに顯(あらわ)れ、信仰より出でて信仰に進ましむ。録(しる)して『義人は信仰によりて生くべし』とある如し。”(文語訳)と記されています。

 幸いな信仰者に囲まれている人は幸いですが、私にはそのような人がいません、という人もいるかもしれません。
しかし、前述しましたように、キリストがともにおられるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
いつも主と共に過ごせる幸いを感謝します。
“私たちは皆、顔の覆いを除かれて、主の栄光を鏡に映すように見つつ〔別訳「鏡のように映し出しながら」(欄外注)〕、栄光から栄光へと、主と同じかたち〔主に似た者(リビングバイブル)〕に変えられていきます。これは主の霊の働きによるのです。”(2コリント318・聖書協会共同訳)と記されていますが、そのようなあなたのご愛顧にあずかっていますことを感謝します。
パウロは、「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。」(ローマ11362017)と記しましたが、同じように思えるようにしてくださっておられますことを感謝します。
あなたの御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月21日 (日)

詩編105:37.38 万物の創造主にして所有者、主権者である神に対して謙遜な人は幸いです

 詩篇10537.38には次のように記されています。
37 主は銀と金を持たせて民を導き出した。どの部族にも落伍する者はいなかった。
38
 エジプトは民が去るのを喜んだ。恐怖が彼らを襲っていたからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ここに至るまでに、エジプト人、特にファラオは、神ヤハウェ(主)が命じられた要求に従わなかったために、下記の多くの災害を経験しました。
血の災い・・・・水を飲めなくなった
カエルの災い・・・カエルが寝床やこね鉢にまでも入ってきました
ブヨによる災い・・・激しいかゆみに襲われました
アブによる災い・・・激しいかゆみと痛みに襲われました(長い場合だと3-4週間持続する)
家畜の疫病による災い・・・家畜が死に至るという疫病でした
腫物の災い・・・人も家畜も炎症による腫物に苦しみました
雹の災い・・・人も家畜も雹に打たれると死ぬというような雹の災いであり、野の草も木も害を受けました
バッタによる災い・・・バッタは野に生えているものを食い尽くしました・・・収穫できるような穀物がなくなりました
暗闇の災い・・・隣の人も見えなくなりました/余談になりますが、神との完全な分離は暗闇です
鴨居と柱に羊か山羊の血を塗らない人の初子(ういご)は死ぬという災いに遭いました

以上のような災いが、主の命令に従わない者たちの上に、主からもたらされたのです。

 これらの災いを見ると、人が自然の恵みと思っているものは、神の恵みによって与えられているものだということに気づくと思います。
水も食料も健康も光や暖かさも主からの恵みです。

 エジプト人たちは、神ヤハウェ(主)から、これ以上の災いを受けたくなかったので、イスラエル人がエジプトの地から早く去ってくれることを望んだのです。
そのために、イスラエル人が要求する物を気前よく与えたのです。

 聖書には次のように記されています。
111 主はモーセに言われた。「私はファラオとエジプトの上にさらに一つの災いを下す。この後、ファラオはあなたがたをここから去らせる。彼があなたがたを去らせるとき、あなたがたをここから一人残らず追い出すことになる。
2
 男も女もそれぞれ、その隣人から銀や金の飾り物を求めるように民に告げなさい。」
3
 主はエジプト人が民に好意を持つようにした。/
12
35 イスラエルの人々はモーセの言葉どおりに行い、エジプト人から銀や金の飾り物、服を求めた。
36
 主はエジプト人に民への好意を持たせたので、エジプト人は彼らの求めに応じた。彼らはこうしてエジプト人のものを奪い取った。”(出エジプト記・聖書協会共同訳)とあります。

 上記の出エジプト記の個所を、詩篇10537.38は、恐怖がエジプトの民を襲っていたので、エジプトの民は銀と金を持たせてでも、イスラエルの民がエジプトの地から去るのを喜んだ、という内容で記してあります。

 しかしファラオは、神ヤハウェ(主)からの災いがなくなると、イスラエルの民がエジプトから去ったことを残念がり、もう一度奴隷として所有しようとしました。
 出エジプト145-8には次のように記されています。
5 民が逃げたという報告を受けると、エジプトの王ファラオとその家臣は民に対する考えを変えて言った。
「私たちは何ということをしたのだろう。私たちに仕えさせることなく、イスラエルを去らせてしまうとは。」
6
 ファラオはその戦車に馬をつなぎ、その軍勢を率い、7 六百台のえり抜きの戦車とエジプトの全戦車を集め、そのすべてに補佐官を配備した。
8
 主がエジプトの王ファラオの心をかたくなにしたので、彼はイスラエルの人々の後を追った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この世の終わりの大患難時代の封印の裁きの最後の個所にも、主に従うことをしない、ということに関して、ファラオたちと似たことが記されています。
その時の人たちは、神の御前にへりくだることなく、神を冒瀆するのです。
 黙示録1617-21には次のように記されています。
17 第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大きな声が聞こえ、「事は成った」と言った。
18
 そして、稲妻、轟音、雷鳴が起こり、また、大きな地震が起きた。それは、人が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの大地震〔歴史上最大の地震(筆者挿入)〕であった。
19
 あの大きな都は三つに引き裂かれ、諸国の民の方々の町が倒れた。神は大バビロンを思い起こし、怒りに満ちたぶどう酒の杯をこれにお与えになった。
20
 島々は逃げ去り、山々も消えうせた。
21
 一タラントン〔約35kg(筆者挿入)〕ほどの重さもある大粒の雹が、天から人々の上に降った。人々はその雹の災いのゆえに神を冒瀆した。被害があまりにも大きかったからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ファラオやその家臣も含め、万物の根源であられる神よりも、自分の方を上に置く人々は、神様の裁きのときに思い知ることになるのです。

 神ヤハウェ(主)は、エレミヤに陶工と陶器の話から神とイスラエルの関係(神と人との関係として読むことをお勧めします)を話されたことがあります。
エレミヤ181-10には次のように記されています。
1 主からエレミヤに臨んだ言葉。
2
 「立って、陶工の家に下って行きなさい。そこで私の言葉をあなたに聞かせよう。」
3
 私は陶工の家に下って行った。見ると、彼はろくろで仕事をしていた。
4
 陶工は粘土で作っていた器を手で壊し、自分の気に入った他の器に作り替えた。
5
 その時、主の言葉が私に臨んだ。
6
 「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、私もあなたがたになしえないのだろうか――主の仰せ。イスラエルの家よ、粘土が陶工の手の中にあるように、あなたがたも私の手の中にある。
7
 私が、一つの国民と一つの王国について、それを引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、8 その国民が私の語った悪から立ち帰るなら、私は下そうとした災いについて思い直す。
9
 また、私が一つの国民と一つの王国を建て、植えると語ったその時、10 私の目に悪とされることを行い、私の声に聞き従わないなら、私は与えると言った幸いについて思い直す。」”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
かつての私を思い浮かべるとき、創造主なる神様を知る前は、自分の主権者は自分でした。
神様が人の主権者であるということを、私は受け入れることができませんでした。
私の場合は、創造主なる神様を知ることを得させていただいてから、イエス様を信じれば救われる、ということを神様に教えていただき、イエス様を信じる信仰を与えられて、神様は私の救いを実現してくださいました。
感謝します。
主なる神様の御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月20日 (土)

マタイ24:45-51 主にある者を偽りの教えによって打ちたたく人たち

 マタイ2445-51には次のように記されています。
45 「主人から、時に応じて食べ物を与えるようにと、家の使用人たちを任された忠実で賢い僕は、一体誰であろうか。
46
 主人が帰って来たとき、そのように働いているのを見られる僕は幸いである。
47
 よく言っておくが、主人は彼に全財産を任せるに違いない。
48
 しかし、それが悪い僕で、主人は遅れると思い、49 仲間を叩き始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。
50
 もしそうなら、その僕の主人は、全く思いもよらない日と時に帰って来て、51 彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 このお話に記されている「悪い僕(しもべ)」は、キリストの空中再臨はまだ先のことだ、と考えているようです(48)。
ここに記されている僕は、キリストのしもべ(僕)であり、時に応じて食べ物、ここでは霊の食物を与えるようにと任された人たちです。

 僕の中には、主のみ旨にかなった忠実な僕(46)と、不忠実な僕(48.49)がいると主は語られました。

 忠実なキリストの僕は、主が与えてくださった食物、すなわち霊の栄養になる主のことばをそのまま提供したのだろうと思います。

 マタイ5章には次のような主イエス・キリスト様の御言葉が記されています。
17 「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
18
 よく言っておく。天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない。
19
 だから、これらの最も小さな戒めを一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さな者と呼ばれる。しかし、これを守り、また、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
20
 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 余談になりますが、新生させていただいたキリスト者の義は、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっています。
新生させて頂いた人は、1コリント130の聖句が当てはまる人たちだからです。
1
コリント130には“・・あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。”(2017)とあります。
すなわち、キリストが私たちの義となってくださったのです。

 前述したマタイ517.18を読み、また、申命記42、箴言306、黙示録2218.19等を読むとき、神のことばにつけたしをしたり、神のことばから何かを間引いたりしてはいけない、ということを覚えます。

 直接、聖書を改変しなくとも、聖句の解説をするときに、主が意図していない解釈によって聖句を骨抜きにすることもできます。
そのようなことがあってはならないと思います。
しかし、そのようなことが起こるのだということを主イエス様は、不忠実な僕の話で教えてくれています。

 不忠実な僕は、「仲間を叩き始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしている」(49)と主は語りました。
不忠実な僕は「酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしている」とあります。
これを霊的に捉えると、この世の思想を食べたり、飲んだりして、すなわち、この世の思想or考え方or風潮を神の教えと取り換えて、他のキリストのしもべ、すなわちキリスト者に霊の食物として提供する、ということでしょう。
神からではないこれらの霊の食物は、悪魔悪霊から提供された食物を、それを好む人たちが思想として、考え方として、規範としているものです。
 コロサイ28には“あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。”(2017)と記されています。

 今の時代も、聖書が罪とするものを罪ではなく、弱さとし、あるいは弱さではなくそれも良いのだとし、積極的に容認するというようなことが見られる時代です。
私は、とても怖いことだと思います。
 イザヤ5章には次のような文章があります。
18 災いあれ、空しいことを手綱として過ちを引き寄せ、綱で車を引くように罪を引き寄せる者に。
19
 彼らは言う。「イスラエルの聖なる方を急がせよ。その業(わざ)」を早く行わせよ。我々が見ることができるように。その方の計画を近づけ、実行させよ。そうすれば我々は認めよう。」
20
 災いあれ、悪を善と言い、善を悪と言う者に。彼らは、闇を光とし、光を闇とする。苦いものを甘くし、甘いものを苦くする。
21
 災いあれ、自らを知恵ある者と見なし、自分を賢いと考える者に。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 今日は、やや抽象的に記しました。
それは、この事柄が終われば、次はまた違った事柄、というように変化していくからです。神のことばに反する教えは、善なるものではありません。創世記3章に登場する蛇の誘惑のようなものと同類です。

 主の御言葉も使徒のことばも教会の基礎となっているものです。神のことばは神ヤハウェ(主)から出ているのです(詩編11822、使徒410-12、ペテロ123、黙示録2114etc.)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたが聖書を私たちに与えてくださいましたことを感謝します。
聖書の御言葉をよくかみしめ、何よりも真理の御霊によって教えていただき、また聖霊の助けを頂いて、あなたのみ旨にかなった歩みをしていく者であらせてください。
罪を罪として捉えれば、罪は主の血潮によってきよめられることを覚えて感謝します。
罪を弱さと捉えて、容認してしまうことがありませんように。
あなたの恵みに感謝し私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月19日 (金)

黙示録1:18、3:7-13 主を信じ続けているフィラデルフィア教会

 黙示録11837-13には次のように記されています。
118 また、生きている者である。ひとたび死んだが、見よ、世々限りなく生きており、死と陰府の鍵を持っている。/
7
 フィラデルフィアにある教会の天使に、こう書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、誰も閉じることがなく、閉じると、誰も開けることがない。その方がこう言われる。
8
 「私はあなたの行いを知っている。見よ、私はあなたの前に門を開けておいた。誰もこれを閉じることはできない。あなたは力の弱い者であるが、私の言葉を守り、私の名を否まなかったからである。
9
 サタンの集会に属し、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。見よ、彼らがあなたの足元に来てひれ伏すようにし、私があなたを愛していることを彼らに知らせよう。
10
 あなたは忍耐についての私の言葉を守った。だから、地上に住む人々を試すため全世界に迫り来る試練の時に、私もあなたを守ろう。
11
 私はすぐに来る。あなたの冠を誰にも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。
12
 勝利を得る者を、私の神の神殿の柱としよう。彼はもう決して外へ出ることはない。そして私は彼の上に、私の神の名と、私の神の都の名、すなわち、神のもとから出て天から降って来る新しいエルサレムの名を、そして、私の新しい名〔主の新しい名は何というのでしょうね(筆者挿入)〕を書き記そう。
13
 耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。」』”(聖書協会共同訳)とあります。

 フィラデルフィアについて、聖書辞典は、フィラデルフィヤという項目で次の様に述べています。
“フィラデルフィヤ (〈ギ〉Philadelpheia) 「兄弟愛」という意味。1.小アジヤの西部、リュディア地方の町で、ツモルス山脈の北麓とコガムス川の間に位置し、サルデスから南東に約45キロの地点、コロサイなどの奥地へ延びる街道沿いにあった。ぶどうの産地として有名で、ぶどうの神ディオニュソスの礼拝が行われていた。前150年頃、ペルガモの王アッタロス2世フィラデルフォスがこの町を建て、彼の名に従ってフィラデルフィヤと命名されたと言われている。前133年からはペルガモと共にローマ帝国の支配下に移ったが、ヘレニズム文化の中心地の一つであり、東方への文化拡大の門とされていた。しかし紀元17年に小アジヤの南西部を襲った大地震によって町は崩壊した。この時は余震が続いたため、多くの市民が城壁の外へ出てテント生活をしたと言われる。後にティベリウス皇帝がこの町を復興し、ネオ・カイザリヤと改名されてアジヤ州の主要な都市の一つとなった(参照黙3:12)。さらに、ヴェスパシアヌス皇帝がフラヴィアと改名したが、すぐにまたフィラデルフィヤに戻った。ヨハネの黙示録が書かれた時代(紀元90年代)には、使徒ヨハネとかかわりの深い小アジヤの7つの教会があった(黙1:11)。フィラデルフィヤにはその一つがあり、ヨハネから手紙が書き送られている(黙3:7‐13)。ここには多くのユダヤ人が住んでおり、教会に対する迫害も激しかったと思われる。20年ほど後、イグナティオスもこの地の教会への手紙の中で、聖書をユダヤ教的に解釈する人々がいることを指摘し、教会の注意を促している(参照黙3:8‐9)。また、紀元150年頃にはポルュカルポスと共にこの町の信者11名がスミルナで殉教している。14世紀にイスラムの勢力拡大によって東ローマ帝国の支配が小アジヤから後退する頃まで、フィラデルフィヤはキリスト教の町として存続していた。現在はアラシェヒルと呼ばれるトルコの町があり、城壁、アクロポリス、劇場、神殿等の遺跡がある。”と記しています。

 この教会には主イエス様からの叱責がなく、賞賛だけがあります。
何が称賛されたのでしょうか?
8
節に「私〔主イエス・キリスト(筆者挿入)〕の言葉を守り、私の名を否まなかったからである。」と記されています。

 フィラデルフィアというのは「フィラデルフォス」からきた言葉で「フィラデルフォス」には、兄弟が好き、という意味があります。

 主イエス様は、「わたしはあなたがたに新しい戒め〔掟(新共同訳)〕を与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13342017)と語られました。

 戒め(2017)、掟(新共同訳)と訳されている語のギリシア語原語は「エントレー」で、命令、掟、戒律、法規、・・・等の意があります。
ヨハネ1334の方の「愛」と訳されているギリシア語原語は「アガパオ―」で、まさしく、主イエス様が私たちを愛してくださった「愛」です。
これは大変なことです。
新生した人の内におられるキリストの愛が私たちの外まで流れ出さないと不可能な愛です。
魂が聖い状態にあるとき、それは可能になります。
キリスト者はキリストの霊をもっているのですから。
ローマ810には“もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。”(口語訳)と記されています。
また、1コリント1545には“聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダム〔キリスト(筆者挿入)〕は命を与える霊となった。”(口語訳)と記されています。

 主イエス様は次のようにも語られました。ヨハネ6章には次のように記されています。
47 まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。
53-56
 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。”(2017)と記され、
黙示録320には“見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。”(2017)と記され、イエス様を信じるとは、霊であるイエス様を心に受け入れることだということがわかります。
イエス様は永遠の命です(1ヨハネ12)。イエス様を心に受け入れた人は永遠の命を持っているのです。
1
ヨハネ520には“わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。”(新共同訳)と記されています。
主イエス様を信じた人と主イエス様の関係は相互内住です。

 フィラデルフィア教会の人たちは、キリストを信じて、キリストにある兄弟姉妹を互いにキリストの愛をもって愛し合っている人たちでした。

 主イエス様は、「あなたは力の弱い者である」とフィラデルフィア教会の人たちに言っています。
フィラデルフィア教会の人たちも自分たちが弱いものであるということを悟っていたのでしょう。それだからこそ、自分の何かに期待しないで、主イエス様を信じ続けて歩んだのではないかと思います。

主イエス様は、王国に入れる鍵を持つ方であり、罪人が送り込まれるよみ〔ギリシア語原語は「ハデス」(筆者挿入)〕の鍵も持っているお方です(黙示録37118)。
フィラデルフィア教会の人たちには、王国に入れる鍵を用いたのでした。

 主イエス様は、フィラデルフィア教会に励ましを送りました。その中から一つ、10節を岩波訳改訂新版で記します。
「お前は、堪え忍ぶことを勧める私の言葉を堅く守ったから、私もまた、地上に住む者たちを試みるために全世界にまさに臨まんとしている試練の時から、お前を安全に守ろう。」とあります。

 フィラデルフィア教会の人たちの中には殉教した人たちがいました。しかし、その人たちの霊と魂は守られたのです。それは主が守ってくださったからです。

 聖書預言の聖句は一つのことだけを指すとは決まっていません。
私たちが地上に置かれている時代は、まさに最終末の時代である可能性があります。
フィラデルフィア教会の人たちのような歩みをしている人は、「お前は、堪え忍ぶことを勧める私の言葉を堅く守ったから、私もまた、地上に住む者たちを試みるために全世界にまさに臨まんとしている試練の時から、お前を安全に守ろう。」(岩波訳改訂新版)という聖句に合致するのです。

岩波訳改訂新版の「試練の時から」という訳は、ギリシア語聖書の直訳です。
他の日本語訳聖書の多くは「時には」と訳していますが、「エク」というギリシア語を素直に訳すと「~から」すなわちfromということになります。
英語聖書であるKJV訳もNIV訳もfromと訳しています。
1
テサロニケ59には“神は、私たちが御怒り〔神の怒り、神からの罰、黙示録の7つの封印でとじられている巻物の中に記されている災い(筆者挿入)〕を受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
魂を清められて、益々主の霊が外に流れ出てくださいますように。
イエス様は言われました。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川〔主の霊(筆者挿入)〕が流れ出るようになります。」(ヨハネ637.382017)と。
生まれながらの人にあっては特に困難な時代ですが、私たちは、その中にあって主が迎えに来てくださるのを待ち望みつつ、希望に胸を膨らませ、いよいよ聖くして頂いて、主が迎えに来てくださるのを待ち望ませていただけますように。
ハレルヤ!
マラナ・タ
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月18日 (木)

箴言27:14-16 心をきよめていただいて健全な言葉をわきまえをもって語ることができたら喜ばしいことです

 箴言2714-16には次のように記されています。
14 早朝に大声で友人を祝福することは、呪いと思われてしまう。
15
 雨の日に滴り続ける滴、それはいさかい好きな妻と似ている。
16
 彼女を制することは風を制すること、右手で香油をつかむこと。”(聖書協会共同訳)とあります。

 14節を、
新共同訳は“友人への祝福も、早朝に大声でするなら、それは呪いと見なされる。”と訳し、
 リビングバイブルは“朝まだ暗いうちに大声であいさつすると、いやがられます。”と意訳しています。

 「友人」と訳されているヘブライ語原語は「レーア」で、パートナー、同僚、仲間、友人、兄弟、愛人、夫、隣人、等の意があります。

 「呪い」と訳されているヘブライ語原語は「ケラーラー」で、呪い、悪態、毒舌、悪口、中傷の意があります。

 悪気がないのに、T.(時)P.(場所)O.(場合、行事等)をわきまえずに大きな声を発したり、行動してしまう人がいますね。
自分がその人だと思ったら、主に変えて頂けばよいのです。

 しかし中にはTPO.に反することを、いやがらせでする人もいることでしょう。
そのような隣人や仲間、パートナーは困りますね。

 15節を2017は“長雨の日に滴り続ける雨漏りは、争い好きな女に似ている。”と訳しています。

 「争い好きな女」とありますが、確かにそのような女性もいますが、争い好きな男性もいます。
家庭の中がその様であると、その家庭は壊れやすいですね。
この節では、長雨の日に滴り続ける雨漏りは、家を壊すのと同じですよ、と語っています。
夫婦の中には、頻繁に夫婦喧嘩ができるのは仲がよい証拠だ、雨降って地固まるというではないかと言う人もいますが、いつも負かされている方は、離婚を考えているかもしれません。

 キリスト者に対して聖書には、
29 悪い言葉を一切口にしてはなりません。口にするなら、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるために必要な善い言葉を語りなさい。
30
 神の聖霊を悲しませてはなりません。あなたがたは、聖霊によって、贖いの日のために証印を受けたのです。
31
 恨み、憤り、怒り、わめき、冒涜〔別訳「悪口」(欄外注)〕はすべて、一切の悪意と共に捨て去りなさい。
32
 互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エフェソ4章・聖書協会共同訳)と記されています。

 15.16節をリビングバイブルは、
“気むずかしい女は、いつまでもしたたり続ける雨もりのようです。風を止めることも、油でぬるぬるした手で物をつかむこともできないように、彼女のぐちを止めることはできません。”と意訳しています。

 15.16節を2017は、
15 長雨の日に滴り続ける雨漏りは、争い好きな女に似ている。16 その女を制する者は、風を制し、右手に油をつかむことができる。”と訳しています。

 「女」とありますが、男女どちらの場合もありますので、「人」とさせていただきます。
この箴言は、ソロモンによるそうなので、ソロモンは多くの妻と側女(そばめ)を抱えて、そのように思ったのかもしれません(1列王記111-8参照)。

 言葉は心から出てきます。
言葉を発する人が、主に心をきよめていただこうと思わない限り、そして、主がきよめてくださらない限り、エペソ429に「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。」(2017)と記されているようなことはできないことでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
詩篇1914に「私の口のことばと私の心の思いとが、御前に受け入れられますように。主よ、わが岩、わが贖い主よ。」(2017)とダビデは祈りましたが、私も祈ります。
主よ、あなたに喜ばれる言葉をいつも発することができますよう心を清めてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月17日 (水)

詩篇105:27-36 主によるエジプトへの裁きとそれに対応する黙示録の裁き

詩篇10527-36には次のように記されています。
27 二人は人々の間で、主のしるしの業をハムの地で奇跡を行った。
28
 主は闇を送って地を闇としたが、彼らは主の言葉に逆らわなかった。
29
 主は水を血に変え、魚を死なせた。
30
 彼らの地には蛙が群がり、王宮の部屋にまで押し寄せた。
31
 主が命じられるとあぶやぶよが国中に襲来した。
32
 主は雨に代えて雹を降らせ、彼らの地に燃える火を下した。
33
 ぶどうといちじくの木を打ち、国中の木を折り砕いた。
34
 主が命じられると、群がるばったと若いばったが襲来して数えきれないほどになった。
35
 それらは彼らの地の青草を食い尽くし、大地の実りを食い尽くした。
36
 主は彼らの地のすべての初子、すべての力の初めを打った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 27節には、「二人は人々の間で、主のしるしの業をハム〔エジプト(筆者挿入)〕の地で奇跡を行った。」とあります。
「主のしるし」と書かれていますが、エジプトに下した主なる神様からの災いのことです。

 やがて起ることとして黙示録の中に記されている神様からの裁きとしての災いのいくつかは、エジプトに下された災いに似ています。
そういうわけで、黙示録に記されている神の裁きと関連する災いをも記していきます。

 28節には、「主は闇を送って地を闇としたが、彼らは主の言葉に逆らわなかった。」と記されていますが、これは出エジプト1021-24に記されてある第9番目の災いである闇の災いです。
 出エジプト1021-24には次のように記されています。
21 主はモーセに言われた。「天に向かって手を伸ばしなさい。すると闇がエジプトの地に臨み、誰もが手探りで闇を感じるようになる。」
22
 モーセが天に向かって手を伸ばすと、暗闇がエジプト全土に三日間臨んだ。
23
 三日間、人は互いに見ることも、自分の場所から立ち上がることもできなかった。しかし、イスラエルの人々が住む所には光があった。
24
 ファラオはモーセを呼び寄せて言った。「行って、主に仕えよ。ただし、羊と牛は残すように。家族は連れて行ってよい。」”(聖書協会共同訳)とあります。
詩篇10528の聖書協会共同訳はこれに合致します。

 口語訳は、28節を次のように訳しています。
「主は暗やみをつかわして地を暗くされた。しかし彼らはそのみ言葉に従わなかった。」と。
 出エジプト1025-29には次のように記されています。
25 モーセは言った。「あなた自身もまた、会食のいけにえと焼き尽くすいけにえを私たちの手に渡してください。そうすれば、それを私たちの神、主 に献げます。
26
 私たちは家畜も連れて行きます。ひづめ一つ残すことはできません。私たちの神、主に仕えるためにその中から選ばなければなりません。しかも、 そこに行くまでは、どれをもって主に仕えるべきか、私たちには分からないのです。」
27
 しかし、主がファラオの心をかたくなにしたので、ファラオは彼らを去らせようとしなかった
28
 ファラオはモーセに言った。「出て行け。二度と私の顔を見ないように気をつけろ。私の顔を見る時は、お前が死ぬときだ。」
29
 そこでモーセは言った。「分かりました。私も二度とあなたの顔を見ようとは思いません。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 これに似たことは黙示録1610.11に次の様に記されています。
10 第五の御使いが鉢の中身を獣の座に注いだ。すると、獣の王国は闇におおわれ、人々は苦しみのあまり舌をかんだ。
11
そして、その苦しみと腫れもののゆえに天の神を冒瀆し、自分の行いを悔い改めようとしなかった。”(2017)とあります。
 29節には、「主は水を血に変え、魚を死なせた。」と記されていますが、これは出エジプト720.21に記されてある第一の災いです。これに似たことは黙示録88.9164-6に記されています。神様が水を血に変えた理由が、黙示録166には、「彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは彼らに血を飲ませられました。彼らにはそれがふさわしいからです。」(2017)と記されています。
エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民の中にも殺された人達がいたであろうと想像されます。

 30節には、「彼らの地には蛙が群がり、王宮の部屋にまで押し寄せた。」と記されています。
これは出エジプト82-6に第二の災いとして記されています。黙示録1613には、「蛙のような三つの汚れた霊」(2017)というのが出て来ます。この悪しき霊達はハルマゲドン(メギドの丘)の所に全世界の王たちを集める働きをするのです。いつの時代にも悪しき霊達は働いていますが、ハル・メギドに王達が悪霊達に集められるのは、キリストとの最終戦争の為です。

 話は変わりますが、キリスト者に対しても悪しき霊たちは、主の許可のもとですが、殺しに来たり、病気を持ってきたり、様々なこの世の不幸と見えるようなことを持ってきたり、信仰を堕落させるような誘惑を持ってきたり、その他の悪しきことをするのです。そこで聖霊はパウロに、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エペソ611.12・新共同訳)と記させました。

 31節には、「主が命じられるとあぶやぶよが国中に襲来した。」と記されています。
「あぶ」は、出エジプト821-24に記されている第4の災いであり、「ぶよ」は、出エジプト816.17に記されている第3の災いです。
神様は、「あぶ」をイスラエル人が住むゴシェンの地には、いないようにしたのです。(出エ822

 32.33節には、「主は雨に代えて雹を降らせ、彼らの地に燃える火を下した。ぶどうといちじくの木を打ち、国中の木を折り砕いた。」と記されています。
この災いは、出エジプト918-26に記されている第7の災いです。この雹はイスラエルの住むゴシェンの地には降りませんでした。
黙示録1621には、「一タラントほどの大きな雹が、天から人々の上に降った。」(2017)と記されています。1タラントは約35kgです。

 34.35節には、「主が命じられると、群がるばったと若いばったが襲来して数えきれないほどになった。それらは彼らの地の青草を食い尽くし、大地の実りを食い尽くした。」と記されています。
これは出エジプト105-15に記されている第8の災いです。
黙示録91-11に似た記述がありますが、この箇所のイナゴは、イナゴに形が似た悪霊イナゴであろうと思います。これは地の底しれぬ穴(abyss、地獄)が開かれて出てくるものたちで、青物ではなく人にとりつくのです。これが人にとりつくと自死を試みるほどの苦しみに襲われるのですが、死ねないという災いなのです。これは5ヶ月間も続くのです。

 36節には、「主は彼らの地のすべての初子、すべての力の初めを打った。」とあります。
これは出エジプト114-71229.30に記されている第10の災いです。

 出エジプト記に記されていて、詩篇105篇に記されていない災いは、疫病(第5の災い)と腫物(第6の災い)です。黙示録の災いには、これらのものに似ていて更に激しいものが記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたはあなたの義に基づいて、裁かれるときには裁かれるお方であることを教えられます。
私たちの罪に対する義の執行は十字架上のキリストの上に注がれました。
私たちの救い主であられるイエス様が私たちに代わって裁かれてくださったことを覚えます。
そして私たちの上には恵みが降り注がれました。
ありがとうございます。
主イエス様を信じさせてくださいましたことを感謝します。
あなたの御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月16日 (火)

マタイ24:6-8 携挙以前に世界に平和は訪れるだろうか

 マタイ246-8には次のように記されています。
6 戦争のことや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように注意しなさい。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。
7
 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
8
 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 現在はロシアとウクライナの戦争、イスラエルとハマス、イスラエルとヒズボラ、それにフーシー派が参加し、ハマス、ヒズボラの背後にはイランがいます。

東アジア、東南アジアについても覇権主義国の影響が不安定化をもたらしています。
日本もお隣の出方によっては、あるいはそれ以外の何かがあれば、被害を受けるかもしれない状態です。
また米中の覇権争いもあれば、ロシアとイランと北朝鮮は軍事協力をしています。
そのほかの地域でも色々とあるでしょう。
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、と主が語っておられるのですから。

 戦争嫌いの私としては、いやだなー、という気分です。
クリスチャンの多くは、平和のための祈りをささげていることでしょう。
その平和は、いつ訪れるのでしょうか。

 今がひっ迫している終末期であると仮定したら、現在以降では、平和は2回訪れることが聖書からわかります。
一つは反キリスト(偽キリスト)による極めて短期間のものであり、もう一つは再臨のキリストによるもので、1000年間続きます(黙示録207-10)。

 偽(反)キリストによる平和は、短いものです。
1
テサロニケ53には、
“人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。”(2017)と記され、
 黙示録62には、
“私は見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている者は弓を持っていた〔矢は持っていない(筆者挿入)〕。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得るために出て行った。”(2017)という個所から分かります。

 キリスト者が祈っている平和のための祈りは必ず答えられます。
それは、キリストが地上再臨されることによって平和になるからです。
それ以前には、戦争、飢饉、疫病、地上の獣によって、死ぬことになるというときもあるのです。
 黙示録67.8には、
“小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物が「行け」と言うのを聞いた。そして見ていると、青白い馬が現れた。それに乗っている者の名は「死」と言い、これに陰府が従っていた。彼らには、剣と飢饉と死と地の獣とによって、地上の四分の一で人々を殺す権威が与えられた。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 子羊とは、キリストのことです。
子羊(キリスト)のみが開くことの出来る封印されている巻物(黙示録51-5)は神の裁きの巻物です(黙示録612.16.17参照)。

 剣と飢饉と死と地の獣とによって、地上の四分の一で人々が死ぬというのは、主の裁きなのです。

 マタイ59に「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(2017)という主イエス様が語られた御言葉が記されています。
ここに記されている「平和をつくる者」とは、この世の地上の平和のことを言っているのでしょうか?
この世の一定期間の平和なら、神の子ではない様々な人々が、これまでにもつくりあげてきました。反キリストもつくります。
キリスト者ではない人たちが、この世に平和をもたらしたら、その人たちは神の子と呼ばれるのでしょうか。もしそうであるとすれば、その人たちにはキリストの福音は必要ないのです。キリストを信じなくても神の子とされるのです。果たしてそのようなことはあるのでしょうか。
平和をつくるという行いによって、神の子とされることになってしまします。

 マタイ59の「平和」は、「神との平和」のことを意味して主は語られたのではないかと思います。
 ローマ51.2には、
“こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。”(2017)と記されています。

 「神との平和」をつくりだしてくださった方はイエス・キリスト様です。
それは他の誰もなしえないことでした。そして、イエス・キリストの救いにあずかった人たちも、福音を伝えることによって神との平和を人々にもたらす役割を担っているのです。「平和をつくりだす者」と訳されているギリシア語原語は複数形だからです。

 主がこの世の中の戦争を許可しているかぎり、戦争はなくなりません。
それどころか、黙示録67.8では、主が、裁きとして戦争を導入しているのです。
何故でしょう?
何故、戦争が起こるのでしょう?
それは人の罪の故であり、その罪が実行されることを、主が許可されたからでしょう。

 もし、この世に戦争がないという意味での平和が続き、人々がキリスト・イエスを主としないで死んでいったとしたら、その人たちの死後の世界は平和ではありません(黙示録2011-15)。
罪を持ったまま死ぬことになるのですから。
イエス・キリストを信じないことは罪なのですから(ヨハネ169)。
イエス・キリストをどのように信じるのでしょう。
召使いのようなお助けマンとして信じるのでしょうか、イエス・キリストを万物の主として信じるのでしょうか、更に自分の主として信じるのでしょうか。

 ローマ109には、“自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。”(口語訳)と記されています。
「イエスは主である」と告白したら、殺されるというような場面でも、「イエスは主です」と告白することができますか、と問われています。
それができるとしたら、その人は、聖霊によってその告白に導かれているのでしょう。
1
コリント123には、「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。」(口語訳)と記されています。

 戦争が怖いから、戦争は悲惨だから、ということで、平和運動をする人たちは数多くいるでしょう。しかし、そのことをしている多くの人たちは地上のことだけを考えているのです。

 まだ成就していない聖書の預言は、それぞれの預言が成就する時が来れば、成就することでしょう。
 主が次のように語っておられるからです。
8 私の思いは、あなたがたの思いとは異なり、私の道は、あなたがたの道とは異なる。――主の仰せ。
9
 天が地よりも高いように、私の道はあなたがたの道より高く、私の思いはあなたがたの思いより高い。
10
 雨や雪は、天から降れば天に戻ることなく、必ず地を潤し、ものを生えさせ、芽を出させ、種を蒔く者に種を、食べる者に糧を与える。
11
 そのように、私の口から出る私の言葉も空しく私のもとに戻ることはない。必ず、私の望むことをなし、私が託したことを成し遂げる。”(イザヤ55章・聖書協会共同訳)と記されています。
 また次のようにも記されています。
“私は、終わりのことを初めから、まだなされていないことを昔から告げてきた。「私の計画は実現し、その望みをすべて実行する」と。”(イザヤ46:10・聖書協会共同訳)と記されています。

 イザヤ24b.cには、“彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。”(2017)と記されているのは、キリストの再臨の結果です。
この文の前に記されているイザヤ24aには“主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。”(2017)と記されています。
このことは主の再臨がなければ実現しないのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは創造主です。
あなたは万物の保持者です。
あなたは聖なるお方、すなわち被造物とは一線を画しておられる立場のお方です。
三一の主なる神様以外は被造物です。
今は被造物である人間の多くが三一の神を主としないで自分を主としています。
しかし、そのような人はその刈り取りもすることになることを覚えます。
今がどのようなときかを覚え、聖なるお方の内に自分自身を置かせていただき、主を愛し、主に従い続ける歩みをする者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月15日 (月)

黙示録1:16.20、3:1-6 霊的に生きている者は死にかけている残りの者を励ましなさい

 黙示録116.2031-6には次のように記されています。
1:16 また、右手には七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が突き出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
20
 あなたは、私の右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、その秘められた意味はこうだ。すなわち、七つの星は七つの教会の天使たち、七つ の燭台は七つの教会である。
3:1サルディスにある教会の天使に、こう書き送れ。『神の七つの霊と七つの星を持つ方が、こう言われる。「私はあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。
2
 目を覚ませ。死に瀕している残りの生活〔「残りの者たち」(2017)〕を立て直せ。私は、あなたの行いを、私の神の前で完全なものとは認めないからである。
3
 それゆえ、どのように教えを受け、また聞いたかを思い起こして、それを守り通し、かつ悔い改めよ。もし、目を覚ましていないなら、私は盗人のように来る。私がいつあなたのもとに来るか、あなたには決して分からない。
4
 しかし、サルディスには、僅かながら自分の衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着て私と共に歩む。そうするにふさわしい者たちだからである。
5
 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして私は、その名を決して命の書から消すことはなく、その名を私の父と天使たちの前で公に言い表す。
6
 耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。」』”(聖書協会共同訳)とあります。

 サルディス(サルデス)について、聖書辞典は次のように記しています。
“〔サルディス{サルデス}は、(筆者挿入)〕小アジヤ西部の都市で、テアテラ〔ティアティラ(2017)〕の南東48キロ、スミルナの東80キロに位置し、トモルス山のふもとのヘルムス平原の中央にある。リュディア層からの出土品から、この町の起源は早期あるいは後期青銅器時代と推定される。前7世紀、特にクロエソス王の治世に、その富をもって古代世界に知られたリュディア王国の首都として栄えた。もともとの町は切り立った岩壁に囲まれ難攻不落の要塞を誇っていたが、クロエソス王の治世にペルシヤのクロス王に奪取された。それはそびえ立つ断崖の岩の裂け目に足をかけてよじ登った兵士たちによって陥落させられたのである。同様のことは前218年アンティオコス3世の時にも起っている。「わたしは盗人のように来る」(黙3:3)という警告は、安心して防備を怠っていたサルデスには実に適切なことばであった。ペルシヤ時代にも、セレウコス王朝においても、サルデスは交通の要衝であったので、行政の中心地となった。前190年にはローマ軍に市を占領され、その後はローマの支配下におかれた。紀元17年地震によって崩壊したが、ティベリウス帝がこれを再建し、3世紀間にわたって繁栄を続けた。毛織物や金細工などの商工業が特に盛んであった。
 サルデスの遺物は大部分ローマ時代のものである。パクトルス河畔にある2本の大円柱はギリシヤ時代のもので、キベレ神殿の遺物である。サルデスは現在はサルトと呼ばれる寒村にすぎない。
 聖書ではヨハネの黙示録の「アジヤにある7つの教会」の5番目に記されている。サルデスにどのようにして教会が設立されたかは不明である。この教会は激しい迫害にはあわなかったが、内部には大きな問題を抱えていた。都市の繁栄の裏に、軟弱で退廃した気風がみなぎっていたことの影響もあってか、教会自体も活気がなく沈滞気味だったようである。その無気力な信仰ゆえに「目をさましなさい」(黙3:2)との警告を受けている。しかし、サルデスということばには「残りの者」または「残された者」という意味があるように、「その衣を汚さなかった」(黙3:4)と言われて、賞賛された人たちが少数ながらいたようである。彼らは勝利者としての「白い衣」を着ると言われる。この「白い衣」はサルデスの産物で、高級な毛織物として知られていた。 ”とあります。(下線は筆者の挿入です)

 黙示録31に“神の七つの霊と七つの星を持つ方”とあります。
黙示録116.20には、“16 また、右手には七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が突き出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。20 あなたは、私の右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、その秘められた意味はこうだ。すなわち、七つの星は七つの教会の天使たち、七つ の燭台は七つの教会である。”と記されています。
また、7つの霊は教会の中におられる霊(御霊)のことであろうと思います。

 余談になりますが、地上の教会(新生して聖霊が内住している人たちの総体)が携挙されると、地上には新生した人の中に住まわれる聖霊は存在しなくなります。地上の教会とは聖霊が内住している人たちの総体ですから、携挙が起こると地の塩の役目をする人たちというか聖霊の働きがなくなります。それ故、反キリスト(偽キリスト)が登場できるのです。
 その関連聖句が、2テサロニケ26.7に次のように記されています。
“あなたがたが知っているとおり、今はこの者〔不法の人=反キリスト(筆者挿入)〕を抑えているものがあります。それは、定められた時にこの者〔反キリスト(筆者挿入)〕が現れるためなのです。不法の秘密はすでに働いていますが、それは、今抑えている者が退くまでのことです。”(聖書協会共同訳)とあります。
「今抑えている者」というのは聖霊です。

 2節を2017は“目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。”と訳しています。
「死にかけている残りの者たち」とは救われているにもかかわらずキリスト・イエスを信じる信仰がぐらついている者たちorキリストに信頼することがぐらついている人たちということではないかと思います。

 4.5節には、
4 しかし、サルディスには、僅かながら自分の衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着て私と共に歩む。そうするにふさわしい者たちだからである。5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。”と記されています。

 天において「白い着物」を着せられているのは、黙示録を見ると、大患難時代の殉教者たち(黙示録611)とキリストの花嫁を構成する人たちです。キリストの花嫁(霊的教会すなわち救われたキリスト者の総体)を構成する一人一人には「白く輝く聖い亜麻布」が与えられたのです(黙示録198.14)。この亜麻布は義なる行いをなしうる象徴なのでしょう(黙示録198)。

 信仰の純潔を保ち、主に信頼して歩む者を、主が喜ばれるということがよくわかります。
逆に、「罪とはわたし〔主イエス・キリスト(筆者挿入)〕を信じないことです。」(リビングバイブル)と主は語られました。
主イエス・キリストを信じないことが罪である、ということを信じることができるのは聖霊の働きによるのです(ヨハネ168)。また、「イエスは主です」ということができるのも聖霊によるのです(1コリント123)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
いつの時代にも、堅き信仰の基である変わることの無い主の御言葉に立脚して歩む信仰者もいれば、すぐに御言葉に疑いをもってしまう信仰者もいますし、あるときは御言葉を信じることができるけれども、またある時にはあやふやになってしまうという信仰者も存在します。
しかし、信仰もまた恵みです。
信仰の創始者であり導き手であり完成者である主イエス様を常に心の中心に置いて、そして主が与えてくださった御言葉を揺るぐことなく信じ続けて歩むことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月14日 (日)

詩篇105:26 イスラエルの民をエジプトから解放するために、神ヤハウェ(主)はモーセとアロンをエジプトに遣わした 

 詩篇10526には次のように記されています。
“26 主は僕モーセを遣わし、アロンを選んで遣わした。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この節の出来事は出エジプト31-417に記されています。

 出エジプト31-6の個所は、神ヤハウェ(主)が、燃える柴(しば)の中から、モーセに声をかけた場面で、次のように記されています。
1 さて、モーセはそのしゅうと、ミデヤンの祭司エトロの羊の群れを飼う者となった。そして、群れを荒れ野の奥に導いて、神の山ホレブに来た。
2
 すると、柴の間で燃え上がる炎の中に、主の使いが現れた。彼が見ると、柴は火で燃えていたが、燃え尽きることはなかった。
3
 そこでモーセは言った。「道をそれてこの大いなる光景を見よう。なぜ柴は燃え尽きないのだろう。」
4
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、彼が道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から呼びかけ、「モーセ、モーセ」と言われた。彼は「御前におります」と言った。
5
 神は言われた。「こちらに近づいてはならない。履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地である。」
6
 さらに言われた。「私はあなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を見るのを恐れたからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 出エジプト37-12は、神ヤハウェ(主)がモーセをエジプトに遣わすと言われた場面です。その件(くだり)の中には、神ヤハウェ(主)が、モーセの要求に応じて、神の名前を教えた場面が出エジプト313-15に次の様に記されています。
13 モーセは神に言った。「御覧ください。今、私はイスラエルの人々のところに行って、『あなたがたの先祖の神が私をあなたがたに遣わされました』 と言うつもりです。すると彼らは、『その名は何か』と私に問うでしょう。私は何と彼らに言いましょう。」
14
 神はモーセに言われた。「私はいる〔「私はある」{70人訳ギリシア語聖書}(欄外注)〕、という者である。」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、 私をあなたがたに遣わされたのだと。」
〔神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(新共同訳)〕
15
 重ねて神はモーセに言われた。「このようにあなたはイスラエルの人々に言いなさい。『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私をあなたがたに遣わされました。』これこそ、とこしえに私の名、これこそ、代々に私の呼び名。”(聖書協会共同訳)とあります。

 神様は、ご自身の名前を「ヤハウェ(主)」と語り、「私は存在し続けているものである」とモーセに教えられたのです。
神ヤハウェ(主)以外のものは、神ヤハウェ(主)に造られた被造物です。
神ヤハウェ(主)のみが、自存にして永遠の存在であるということがわかります。

 出エジプト316-22には、ヤハウェ(主)がモーセを派遣するにあたり、モーセが話すべき事柄とファラオの対応、それに対する主の裁き、その他についての概要が記されています。

 モーセは、主から、なすべきことや将来の展望を教えていただきましたが、主に信頼して一歩を踏み出すことができませんでした。
そこでヤハウェ(主)は、モーセに、杖が蛇になるという奇跡を見せたり、モーセの手をツァラアトにしたり治したりというという奇跡も見せますが、モーセは、自分は主の御命令には従えないと主に語ったのでした。(出エジプト41-13

 繰り返しになりますが、直接、主のみ声を聞き、主の御業を見、主から遣わされる仕事の最後は勝利で締めくくられるということを教えられても、モーセは、主に信頼して主に従うことができませんでした。

 モーセはヤハウェ(主)に対してどのように答えたのでしょう。また、モーセの返答に対するヤハウェ(主)の御言葉はどのようなものであったのでしょうか。
 出エジプト410-12には次のように記されています。
10 モーセは主に言った。
「ああ、主よ。以前から、また、あなたが僕に語られてからでさえ、私は雄弁ではありません。私は本当に口の重い者、舌の重い者です。」
11
 そこで主は彼に言われた。
「誰が人に口を与えたのか。また、誰が口を利けなくし、耳を聞こえなくし、目を見えるようにし、見えないようにするのか。主なる私ではないか。12 だから行きなさい。私があなたの口と共にあり、あなたに語るべきことを教えよう。」(聖書協会共同訳)とあります。

 ヤハウェ(主)は最後に、「だから行きなさい。」(12)とモーセに言ったのです。
それでもモーセはヤハウェ(主)の御要求を固辞したのです。
13
節には、“しかしモーセは言った。「ああ、主よ。どうか他の人をお遣わしください。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 仕方なくヤハウェ(主)は、アロンをモーセと共に遣わすことにしたのです。
出エジプト414-17には次のように記されています。
14 主の怒りがモーセに向かって燃え、主は言われた。
「レビ人である、あなたの兄アロンがいるではないか。私は彼が雄弁であることを知っている。彼もまた、ちょうどあなたに会いに来ている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。15 あなたは彼に語って、言葉を彼の口に授けなさい。私はあなたの口と共に、また、彼の口と共にあって、あなたがなすべきことを教える。16 そうすれば、彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼にとって神となる。17 あなたはこの杖を手にして、しるしを行いなさい。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 モーセとアロンは以上のような経過をたどった後、ヤハウェ(主)の御命令に従うこととなったのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたが忍耐と寛容に富んでおられるお方であることを教えられます。
しかし、それに甘えてしまうことなく、あなたに何かを命じられたときには、あなたに信頼して、あなたに従う者であらせてください。
ひたすらあなたにより頼み、地上生涯を歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月13日 (土)

箴言27:12 主の弟子になる心構え

 箴言2712には次のように記されています。
2017
は“賢い人はわざわいを見て身を隠し、浅はかな者は入って行って痛い目にあう。”と訳し、
聖書協会共同訳は“賢い人は災いを見れば身を隠し、思慮なき者は向かって行って罰を受ける。”と訳し、
リビングバイブルは“何かを始めるとき、思慮深い人はきちんと見通しを立てますが、考えの足りない人は、向こう見ずに手をつけて失敗します。”と意訳しています。

 個人で事業を始める人がいます。
その人たちの中には失敗する人もいます。勿論、成功する人も数多くいますが。
失敗した人たちの失敗の原因を考えてみると、何かが足りなかった、ということに気づきます。
まさしく、リビングバイブル訳のように、“何かを始めるとき、思慮深い人はきちんと見通しを立てますが、考えの足りない人は、向こう見ずに手をつけて失敗します。”というような場合です。

 「何かを始めるとき、思慮深い人はきちんと見通しを立てますが、考えの足りない人は、向こう見ずに手をつけて失敗します。」(リビングバイブル)という聖句を霊的な分野の中の一つに適用しようと思います。

 ルカ1425-35には次のような文章が記されています。
25 大勢の群衆が付いて来たので、イエスは振り向いて言われた。
26
 「誰でも、私のもとに来ていながら、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば、その人は私の弟子ではありえない。
27
 自分の十字架を負って、私に付いて来る者でなければ、私の弟子ではありえない。
26.27節を、リビングバイブルは次のように意訳しています。
「だれでも、わたしに従いたければ、父、母、妻、子、兄弟、姉妹以上に、いや、自分のいのち以上にわたしを愛しなさい。また、自分の十字架を負い、わたしに従って来なければ、わたしの弟子になることはできません。」と記しています(筆者挿入)〕
 28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰を据えて計算しない者がいるだろうか。
29
 そうしないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人々は皆嘲って、30 『あの人は建て始めたが、完成できなかった』と言うだろう。
 31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうかを、まず腰を据えて考えてみないだろうか。
32
 もしできないと分かれば、敵の王がまだ遠くにいる間に、使節を送って和を求めるだろう。
 33 だから、同じように、自分の財産をことごとく捨て去る者でなければ、あなたがたのうち誰一人として私の弟子ではありえない。」
〔リビングバイブルは「だれでも、自分の財産を数え上げ、それを全部わたしのために捨てるのでなければ、わたしの弟子になることはできません。」と意訳しています。(筆者挿入)〕
 34 「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。
35
 土にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所についてBible navi は、次のような適用注解を記しています。
“自分の十字架を負うとは何を意味するのか、イエスの聴衆は良く知っていた。ローマ人が犯罪人を処刑場に連れて行くとき、犯罪人は、自分がつけられて死ぬことになる十字架を強制的に負わされた。これはローマへの服従を示し、見物人にもローマに服従せよと警告した。イエスがこう言われたのは、彼のことで熱狂している群衆にしっかりと考えてもらうためだった。イエスは浅はかな人々を励まして、覚悟をもって従うか、あるいは従うのをやめるよう言っておられる。イエスに従うとは、完全に服従することを意味する。たとえ死ぬことがあってもだ。
 家を建てる者が費用を計算しない、あるいは不正確な見積もりをするなら、建物は未完成に終わる。イエスに献身すると払うことになる犠牲を考慮しなかったために、すぐにクリスチャン生活をやめてしまうだろうか。犠牲とは何か。クリスチャンは、社会的地位や富を喪失するかもしれない。金や時間や職業を自分で管理できなくなるかもしれない。嫌われ、家族と別れ、死に至ることさえあるかもしれない。イエスに従っても、生活の問題はなくならない。キリストの弟子になると、いかなる損失があるのか注意深く考慮しなければならない。そうすればしっかりと信仰にとどまり、後になって引き返したいと誘惑されたりしない。
 塩は塩気をなくすことがある。・・・。多くのクリスチャンは世の中に溶け込んでいて、犠牲を払ってまで大胆に信仰の通りに生活しようとはしない。しかしクリスチャンがはっきりとした塩気をなくしたら価値がなくなると、イエスは言われる。塩が食物に味をつけ腐敗から守るように、私たちはこの世にあって良いものを腐敗から守り、生活に新たな味わいを与えるべきだ。そのためには注意深い計画と、自らささげる犠牲と、キリストの御国に対するゆるぎない献身が必要だ。しかしもし私たちが「塩け」を失うならば、この世でキリストを表せない。・・・。”と述べています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
日本ではキリスト者が増えません。
その一つには、日本の空気感があるのでしょう。
日本には同調圧力が働いています。
しかし、それに屈するようであったら、キリスト者として主に喜ばれる歩みをすることができないことを覚えます。
何にもまさって主を愛する者とさせていただく必要があります。
私たち全員を、何にもまさって主を愛する者とさせてください。
それこそ、キリストの花嫁としてふさわしいものであることを覚えます。
あなたの御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月12日 (金)

2テモテ3:1-5 キリスト教会の中の危機(終わりの時代のキリスト教会の中の実情)2/聖なる者はいよいよ聖なる者とされていく

 2テモテ31-5には次のように記されています。
1しかし君は、終りの日々には重苦しい時節〔困難な時代(2017)〕が到来すること、このことを知っておきなさい。
2
〔その時(訳者挿入)〕人々は利己的になり〔自分だけを愛し(2017)〕、拝金的になり〔金銭を愛し(2017)〕、大言壮語し、傲慢になり、冒瀆的になり〔神を冒瀆し(2017)〕、両親に不従順になり、感謝の気持ちをなくし、不敬神〔原語は「アノシオス」で邪悪、腹黒い、不聖(筆者挿入)、汚れた者(2017)〕になり、
3
非情になり〔情け知らず(2017)〕、和解せず、誹謗し、自制をなくし、野蛮になり、善を嫌い、
4
裏切り、無謀になり、のぼせ上がり、神を愛するよりも快楽を愛し、
5
敬虔の装いをしていながら〔見かけは敬虔であっても(2017)〕、その〔敬虔の(訳者挿入)〕力を否む者となる。・・・”(岩波訳)とあります。

 前後の文脈からみるとこの個所は、広い意味でのキリスト教会に対する警告になっています。
この内容は5節を除けば、クリスチャンではない人、神を信じないこの世の人に当てはまりそうに思えますが、5節を含めると、終末時代のクリスチャンの中にはそのような人も現れる、という預言であるように思います。

 私がお交わりをさせて頂いているキリスト者には、この個所に該当するような人は見当たらないように思います。私の知り合いのキリスト者の方々は、もし、ここに書かれているような項目に該当することを御聖霊に示されたら、おそらくすぐにそれを告白し、きよめていただくということをしているでしょう(1ヨハネ19)。

 しかし、世界的にみると2テモテ32-5に記されている項目に該当するような人たちはいるのでしょう。特にキリスト教国と言われる国の自称クリスチャンの中には、聖書をあまり読んだこともないという人もいるらしいからです。

 さて、ここに記されている内容を現代にあてはめると、実にしっくりします。
なぜそうなのか、と考えると、真の神である主を神として崇めず、主イエス様が教えてくださった律法の根底とは遠く離れているからだと思います。
主イエス様は次のように教えてくださいました。
「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい〔原語の直訳は「愛するであろう」という未来形or未完了形(筆者挿入)〕。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい〔原語の直訳は「愛するであろう」という未来形or未完了形(筆者挿入)〕。」(マタイ2237.392017)と記されています。

 余談になりますが、新生させていただき聖霊に満たされ続けて歩んでいなければ、マタイ2237.39の聖句は私たちのうちに実現することはないだろうと思います。なお、イエス様が語られたこの聖句のもとになっている申命記65とレビ1918の個所も直訳すると未来形or未完了形になっています。

 携挙されるorすでに天に帰っているすべてのキリスト者は、キリストの空中再臨時に、霊のからだを頂いたときに(栄化されたときに)この聖句は未完了形から完了形に代わることでしょう。
ですから、おそらく1コリント134-7の聖句も霊のからだを頂いたキリスト者には成就することでしょう。すべてのキリスト者が聖とされ全き愛に生きるようになるからです。
 1コリント134-7には次のように記されています。
4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。
5
 礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない〔人がした悪に心を留めず(2017)〕。
6
 不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。
7
 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。”(聖書協会共同訳)とあります。
 霊のからだを頂く前から、常に聖霊に満たされて、主なる神様が望んでおられる愛に生きることができたら、それは素晴らしいことです。
ジョン・ウェスレーは、愛における動機の「完全」を「キリスト者の完全」と表現して説教しました。
世の中がどんどん暗くなってゆくと、益々、真の神を愛さず、隣人を愛さず、自分自身のみとお金や(霊的、肉的)汚れに心が執着していくのでしょう。

 主が来られる前の教会時代の様子を、黙示録3章は次のように記しています。
14 ラオディキアにある教会の天使に、こう書き送れ。『アーメンである方、忠実で真実な証人、神に造られたものの源である方が、こう言われる。
15
 「私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
16
 熱くも冷たくもなく、生温(なまぬる)いので、私はあなたを口から吐き出そう。
17
 あなたは、『私は裕福で、満ち足りており、何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。
18
 そこで、あなたに勧める。豊かになるように、火で精錬された金を私から買うがよい。自分の裸の恥をさらさないように、身にまとう白い衣を買い、また、見えるようになるために目に塗る薬を買うがよい。19 私は愛する者を責め、鍛錬する。それゆえ、熱心であれ。そして悔い改めよ。
20
 見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。”(聖書協会共同訳)とあります。

 黙示録2211には「不正を行う者には、ますます不正を行わせ、汚れた者は、ますます汚れた者とならせなさい。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい〔聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい(新改訳初版^~第三版)〕。」(2017)と記されています。
これは天使の言ったことばですが、その天使は、この言葉をキリストから受けたのです。そしてキリストはこのことばを父なる神から受けたのです(黙示録11)。
それ故、この世の人々は、益々不正と汚れに満ちていくのでしょう。「汚れ」と訳されている語のギリシア語原語は「ルフーポオー」で不潔、(道徳的な)汚れ、わいせつな、・・・等の意があります。
 一方、キリストを信じる信仰を与えられ、キリストの血によって罪赦され、キリストの復活のゆえに新生させて頂けた人、すなわち聖なる者は、益々聖なる者とされていくのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
1
ヨハネ32.3には「・・・、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。」(2017)と記され、黙示録2211には「聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」(新改訳初版~第三版)と記されています。
また主イエス様は、「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ77)と語られました。
主が迎えに来てくださる時が近づいているように思えます。
ますます、清くされることを主に願い求め、主に清くして頂きながら、歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月11日 (木)

黙示録1:14.15、2:18-29 主を愛する生涯を送ろう

 黙示録114.15218-29には次のように記されています。
1:14 その方の頭髪は白い羊毛に似て雪のように白く、目は燃え上がる炎、15 足は燃えている炉から注ぎ出される青銅のようであり、声は大水のとどろきのようであった。/
2:18
 ティアティラにある教会の天使に、こう書き送れ。『燃え上がる炎のような目と、燃えている炉から注ぎ出される青銅のような足を持つ神の子が、こう言われる。
19
 「私は、あなたの行いと愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている。また、あなたの近頃の行いが以前の行いにまさっていることも知っている。
20
 しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルと言う女をなすがままにさせている。この女は、自ら預言者と称して、私の僕たちを教え、また惑わして、淫らなことを行わせ、偶像に献げた肉を食べさせている。
21
 私は悔い改める時を与えたが、この女は淫らな行いを悔い改めようとしない。
22
 見よ、私は彼女を病の床に伏させよう。彼女と共に姦淫を行っている者たちも、その行いを悔い改めないなら、大きな苦難に遭わせよう。
23
 また、この女の子どもたちも打ち殺そう。こうして、すべての教会は、私が人の思いや心を見通す者であることを悟るようになる。私は、あなたがたの行いに応じて一人一人に報いよう。
24
 しかし、ティアティラの人たちの中で、この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる深みを知らないあなたがたに言う。私は、あなたがたにほかの重荷を負わせない。
25
 ただ、私が来るときまで、今持っているものを固く守りなさい。
26
 勝利を得る者、私の業を最後まで守り続ける者には、諸国の民の上に立つ権威を授けよう。
27
 彼は土の器を打ち砕くように鉄の杖をもって彼らを治める。
28
 それは、私が父からそうした権威を授けられているのと同様である。また、勝利を得る者に明けの明星を与えよう。
29
 耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。」』”(聖書協会共同訳)とあります。

 ティアティラの教会には、イゼベルと主に呼ばれるような人がいました。
イゼベルという女性は、列王記の中で悪女として記されています。
1
列王記16.18.19.21章、2列王記9章にイゼベルの名が登場します。
 聖書辞典は、イゼベルについて次の様に簡略にまとめています。
“この〔イゼベルという(筆者挿入)〕名はおそらく、バアルの栄誉を表すフェニキヤ名をヘブル化したものと思われる。アグネスのように「貞淑な」という意味とする見方もある〔イゼベルには、純潔な、貞淑な、という意もあります。バアルのような偶像神に対して純潔なのでしょう。(筆者挿入)〕。ツロとシドンの祭司である王エテバアルの娘で、政治的同盟のため、アハブと結婚した(Ⅰ列16:31)。彼女はバアルの信奉者として、450人のバアルの預言者と、400人のアシェラの預言者を抱えており(18:19)、主の預言者たちを迫害して殺した(18:4)。カルメル山で主が栄光を表され、バアルのむなしさを明らかにした時にも、イゼベルのバアルへの熱心は変らなかった。さらに、彼女は異邦の絶対王権の考え方でナボテを謀殺し、そのぶどう畑を取り上げた(Ⅰ列21:1‐16)。主はエフーの手により、イゼベルに血の報復をした(9:7,30‐37)。”と記しています。

 主の預言者というのは、主なる神が遣わした神の使者です。
イゼベルは、主の預言者を複数人殺しました。また、主の預言者エリヤをも殺そうとしたのです。
1
列王記184には“かつてイゼベルが主の預言者たちを殺したときに、オバデヤは百人の預言者たちを救い出し、五十人ずつ洞穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養ったのである。”(2017)と記され、
1
列王記192には、イゼベルが語った言葉が「もし私が、明日の今ごろまでに、おまえのいのちをあの者たちの一人のいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」(2017)と記されています。

 イゼベルという女性は、主なる神の預言者エリヤをも恐れなかった人です。
またイゼベルは、偽りを行うことも正しい人を殺すこともなんとも思わなかった人です。1列王記211-15を読んでみてください。

 イゼベルの言動は、まるでサタン(悪魔)を見ているようです。
サタン(悪魔)について、主イエス様は「悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。」(ヨハネ8442017)と言っておられます。

 サタンとは「敵対する者」という意です。
神に敵対するようになった元大天使、その天使が神に反逆してサタン、悪魔と呼ばれるようになったのです。

 また聖書において、サタンは、次のような働きをするものor名称で記されています。
悪魔(マタ4:1,ルカ4:3,ヨハネ8:44,使10:38等)、試みる者(マタ4:3)、誘惑者(テサ3:5)、悪い者(マタ13:19)、告発者(黙12:10)、敵(マタ13:39,ルカ10:19)、悪霊どものかしら(マタ9:34,マコ3:22)、この世を支配する者(ヨハネ12:31)、空中の権威を持つ支配者(エペ2:2)、ベルゼブル(マタ10:25)などとあります。

 黙示録2章に記されているイゼベルは、ティアティラ教会の信徒を背教へと導いていた女性です。
ティアティラ教会のイゼベルが何をしていたのか、ということを主キリスト・イエス様は、20節に「この女〔イゼベル(筆者挿入)〕は、自ら預言者と称して〔すなわち偽預言者(筆者挿入)〕、私の僕たち〔主を信じる者(筆者挿入)〕を教え、また惑わして、淫らなこと〔偶像礼拝(筆者挿入)〕を行わせ、偶像に献げた肉を食べさせている。」と語っておられます。

 ティアティラ教会内では、偶像礼拝が行われ、それに追従した信徒たちが幾人もいたのでしょう。
その人たちに対して、主イエス様は「私は彼女を病の床に伏させよう。彼女と共に姦淫を行っている者たちも、その行いを悔い改めないなら、大きな苦難に遭わせよう。また、この女の子どもたち〔偽預言者に追随する者たち(筆者挿入)〕も打ち殺そう。」(22.23)と言われました。

 旧約時代、イスラエル王国(北イスラエル王国)とユダ王国(南イスラエル王国)がアッシリアやバビロンに滅ぼされ、その民の下層部以外の者たちが捕囚とされた原因は、霊的姦淫、すなわち偶像礼拝でした。
偶像礼拝は、十戒(十のことば)の第12戒に反するものでした。
 出エジプト記20章には次のように記されています。
2 「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
3
 あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない
4
 あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。
5
 それ〔偶像(筆者挿入)〕にひれ伏し、それに仕えてはならない。私は主、あなたの神、妬む神である。私を憎む者には、父の罪を子に、さらに、三代、四代までも問うが、6 私を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって慈しみを示す。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1ヨハネ521には、
18 神から生まれた人〔神から生まれたのは新生した霊です{ヨハネ3.3.6}(筆者挿入)〕は誰も罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた人は自分を守り、悪い者がその人に触れることはありません。
19
 私たちは神から出た者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。
20
 しかし、神の子が来て、真実な方を知る力を私たちに与えてくださったことを知っています。私たちは、真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神であり、永遠の命です。
21
 子たちよ、偶像から身を守りなさい。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 黙示録114.15218に“燃え上がる炎のような目と、燃えている炉から注ぎ出される青銅のような足を持つ神の子”という内容の表現がありますが、この表現は、主キリスト・イエス様が、聖を不聖に変えるものに対して、聖なる怒りの目でご覧になり、青銅の足で裁かれるお方なのだ、ということを表しているのだと思います。

 青銅は何を表しているのでしょう。
青銅というと、幕屋の建造における祭壇を連想します。
 出エジプト271-6には次のような文章が記されています。
1 アカシヤ材で祭壇を造りなさい。祭壇は長さ五アンマ、幅五アンマの正方形で、高さは三アンマである。
2
 祭壇の四隅に角を作り、その角は祭壇と一体とし、全体を青銅で覆わなければならない
3
 灰を受ける壺、シャベル、鉢、肉刺し、火皿、すなわちすべての祭具は青銅で作らなければならない
4
 祭壇のために、青銅の網細工の格子を作り、網の四隅に青銅の輪を四つ付けなさい。
5
 その網を下部、祭壇の張り出した棚の下に付けなさい。網は祭壇の半分の高さに付ける。
6
 また、祭壇のためにアカシヤ材で棒を二本作り、それを青銅で覆いなさい
7
 そして、その棒を輪に通し、祭壇を担ぐときには、棒が祭壇の両側に来るようにする。
8
 祭壇は板で、中が空洞になるように造りなさい。山であなたに示されたとおりに、彼らは造らなければならない。”(聖書協会共同訳)とあります。

祭壇の上で罪のためのいけにえ(罪のきよめの献げ物)などが焼かれたのです。

 黙示録224-27には、
24 しかし、ティアティラの人たちの中で、この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる深みを知らないあなたがたに言う。私は、あなたがたにほかの重荷を負わせない。
25
 ただ、私が来るときまで、今持っているものを固く守りなさい。
26
 勝利を得る者、私の業を最後まで守り続ける者には、諸国の民の上に立つ権威を授けよう。
27
 彼は土の器を打ち砕くように鉄の杖をもって彼らを治める。”(聖書協会共同訳)と記されています。
これはキリストの千年王国時代のことだろうと思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主を愛し、主に喜ばれる歩みをし続けていくことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月10日 (水)

箴言27:11 知恵を得よとの勧め/主イエス様を心にお迎えすることは、御父にとっても喜びです

 箴言2711を、
聖書協会共同訳は“子よ、知恵を得て私の心を喜ばせよ。そうすれば、私を責める者〔嘲る者(新共同訳)〕に言葉を返すことができる。”と訳し、

2017
は“わが子よ、知恵を得よ。私の心を喜ばせよ。そうすれば、私をそしる者に、私は言い返すことができるだろう。”と訳し、

リビングバイブルは“わが子よ。知恵のある人間になりなさい。そうすれば、私(ソロモン)もどんなに鼻が高いでしょう。”と意訳しています。

リビングバイブル旧版は“物わかりのいい人間になりなさい。そうしたら、私もどんなにうれしく、鼻が高いことでしょう。”と訳しています。

口語訳は“わが子よ、知恵を得て、わたしの心を喜ばせよ、そうすればわたしをそしる者に答えることができる。”と訳しています。

 一言で知恵といっても様々な分野の知恵があります。
仕事の技術に関する知恵、経済的な事柄に関する知恵、生活に関する知恵、様々な学問に関する知恵や知識、戦いのための知恵、・・等々と。
聖書も、知恵を、様々な分野において使っています。

 また聖書は、知恵について、この世の知恵と上からの知恵という分類方法でも記しています。

 ヤコブ313-18には次のように記されています
13 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのは誰ですか。その人は、知恵に適う柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。
14
 しかし、あなたがたが心の内に、苦々しい妬みや利己心を抱いているなら、誇ったり、真理に逆らって嘘をついたりしてはなりません。
15
 そのような知恵は、上から降って来たものではなく、地上のもの、自然のもの、悪魔から出たものです。
16
 妬みや利己心のあるところには、無秩序とあらゆる悪い行いがあるのです。
17
 しかし、上からの知恵は、何よりもまず、清いもので、さらに、平和、公正、従順なものです。また、憐れみと良い実りに満ち、偏見も偽善もありません。
18
 義の実は、平和をもたらす人たちによって平和のうちに蒔かれます。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主なる神様が与えてくださった真理に敵対する知恵や主なる神様抜きのサタン(悪魔)が支配しているこの世(ルカ461ヨハネ519)の知恵というものがあります。

 15節には“地上のもの、自然のもの、悪魔から出たものです。”とありますが、「地上のもの」{地に属するもの(知恵)}とは、天には属さないこの世の知恵です。
地において何者かになろうとするような知恵やこの世の様々な策略、この世的な様々な対処方法はこれに属するのでしょう。
世の中はこのような事柄に関する言葉や格言に満ちています。
そして、このような知恵をキリスト者も使ってしまっていることがあります。
また、このような事柄について書かれている本は、本屋さんにたくさん並んでいます。

 心を弱めている人に対するカウンセリングを行う場合、キリスト者に対しては主が与えてくださった聖句を使うべきであると私は考えます。
「真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8322017)という主イエス様の御言葉がありますから。
「あなたがた」の所を「わたし」に変えることもできます。

 主イエス様を信じていない人には、私は、この世の方法のカウンセリングを用います。それは主を信ぜず、御言葉を信じない人には、聖句が役立たないことが多いからです。
 聖句は、主に信頼し、聖句に信頼する人にとっては大きな力を発揮しますが、そうでない人にとってはただのことばとなって、暖簾(のれん)に腕押しのような状態になるからです。
主に信頼し、主の御言葉に信頼する人にとっては、「神のことばは生きていて力があるのです」(へブル412)。
1
コリント118には“十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。”(2017)とも記されています。

 「自然のもの」(聖書協会共同訳)と訳されている語のギリシア語原語は「プシュキコス」で「プシュケー」(魂)がもとになっている語です。2017は「肉的で」と訳し、その欄外注に“あるいは「霊的でなく」”と記しています。
生まれながらの魂に属する知恵です。プシュキコスには、敏感な、感じやすい、傷つきやすい、過敏な、生きている、・・等の意があります。

 「悪魔から出たもの」と訳されているものは、言葉の通り、悪魔から出た知恵です。
コロサイ28には“あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊〔悪しき霊(筆者挿入)〕によるものであり、キリストによるものではありません。”(2017)と記されています。
口語訳はこの聖句を「あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。」と訳しています。
悪魔からくる知恵は、真の神に逆らうものであり、また神に従う人や神の選民等を苦しめるものるものであり、神の民を殺したり、神の民を誘惑して信仰をダメにしたり、・・etc.というような知恵です。

 17節には“上からの知恵は、何よりもまず、清いもので、さらに、平和、公正、従順なものです。また、憐れみと良い実りに満ち、偏見も偽善もありません。”と、上からの知恵の性質が記されています。

 上からの知恵の大本はキリストです。
新生した人の霊は、キリストの霊と結び合わされ一つとされ、更に魂がきよめられると魂もキリストに喜びをもって従うようになります。
ヨハネ36に「霊から生まれたものは霊である。」(新共同訳)と記され、
1
コリント617には「主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。」(新共同訳)と記され、
1
ペテロ122には「あなたがたは真理〔ヨハネ146参照(筆者挿入)〕に従うことによって、たましいを清め、」(2017)と記されています。
コロサイ23には「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
真理そのものである主イエス様に霊も魂も占有していただき、地上を歩むことができる人はなんと幸いな人であろうかと思います。
霊も魂も主に明け渡し続け、主に導かれ続けて、この世を歩むことができたらと願います。
主の栄光のために。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月 9日 (火)

詩編105:23-25 エジプトにおけるイスラエル/神の摂理の400年

 詩篇10523-25には次のように記されています。
23 イスラエルはエジプトに入り、ヤコブはハムの地に寄留した。
24
 主はその民を大いに増やし、苦しめる者たちよりも強くした。
25
 主は彼らの心を変えて、主の民を憎ませ、主の僕たちに対して悪だくみをさせた〔悪賢く扱うようにされた(2017〕〕。”(聖書協会共同訳)とあります。

 リビングバイブルは次の様に意訳しています。
23 そののち、ヤコブもエジプトを訪れて、息子たちとともに住みつくことになりました。
24
それ以後、イスラエルの民は増え、支配者たちを脅かす大民族にまでなったのです。
25
このころ神は、エジプト人をイスラエルの敵と変え、イスラエルは奴隷にされました。”とあります。

 この個所は、創世記46章から出エジプト記1章+αの個所を簡略にまとめて記しています。

 イスラエルの民がエジプトに住むことになったのは、彼らの罪の結果とは思えません。
イスラエルの民がエジプトに住むことになった大きな原因の一つは、カナンの地の飢饉の故でした。そのときにはエジプトも干ばつでした。
天候を自由自在に変えられるのは、神ヤハウェ(主)です。

 イスラエル(ヤコブ)の祖父であるアブラハム(アブラム)に神ヤハウェ(主)は、次の様に語られ、また契約を与えられました。
13 主はアブラムに言われた。
「あなたはこのことをよく覚えておきなさい。あなたの子孫は、異国の地で寄留者となり、四百年の間、奴隷として仕え、苦しめられる
14
 しかし、あなたの子孫を奴隷にするその国民を、私は裁く。その後、彼らは多くの財産を携えてそこから出て来る。
15
 あなた自身は良き晩年を迎えて葬られ、安らかに先祖のもとに行く。
16
 そして、四代目の者たちがここに戻って来る。それまでは、アモリ人の悪が極みに達していないからである。」
17
 日が沈み、暗くなった頃、煙を吐く炉と燃える松明(たいまつ)がこれらの裂かれた動物の間を通り過ぎた。
18
 こうしてその日、主はアブラムと契約を結んで言われた。
「あなたの子孫にこの地を与える。エジプトの川からあの大河ユーフラテスに至るまで の、19 カイン人、ケナズ人、カドモニ人、20 ヘト人、ペリジ人、レファイム人、21 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を与える。」”(創世記15章・聖書協会共同訳)と記されています。

 古代エジプトの歴史を見ていくと、イスラエルの民がエジプトに下ったときの王朝は第13王朝の頃であったのではないかと思います(私の推測なので読み流してください)。
13王朝について、ウィキペディアのエジプト中王国の項目の中には次のような記述(抜粋)があります。
“第13王朝は王権が弱く、数多く知られている王達の在位中の治績はほとんど不明である。また、第13王朝の王達は同一の家系にも属していなかった。しかし、整備された官僚制と官職を世襲する官僚達、そして統括者である宰相を中心に国家機構は正常に運営された〔ヨセフは宰相になりました(筆者挿入)〕。後半には下エジプト地方で、アジア系と見られる首長達が独自の政権(第1415王朝)を築きエジプトの統一は崩れた。”と記されています。

 エジプトの歴史を見ると、ファラオ(エジプト王の称号)は、エジプト人とは限りません。ヨセフが宰相に登用された頃のファラオはエジプト人ではなかったのではないかと考えられます。
イスラエルの民が奴隷とされた頃のエジプトの王朝は、ヨセフの時代とは変わったようです。イスラエルが奴隷とされ、イスラエルが出エジプトした時代のエジプトの王朝は、おそらくエジプト新王国時代と言われるときの王朝であったのではないかと思います。

 エジプト第二中間期とエジプト新王国時代についてウィキペディアは次のように記しています(抜粋、一部加筆)。
 “エジプト第2中間期(エジプトだい2ちゅうかんき、紀元前1782年頃 - 紀元前1570年頃)は、古代エジプト史における時代区分の1つ。第13王朝から第17王朝までをこの時代に区分するのが一般的である。ただし、第13王朝や第14王朝を中王国に含める見解もある。概ね中王国時代の統一が崩れ、下エジプト(ナイル川三角州地帯)にヒクソス(ヘカ・カスウト 異国の支配者達の意)と呼ばれる異民族が第15王朝を築いて支配を確立していた時代が第2中間期に分類される。”とあり、
 “エジプト新王国(エジプトしんおうこく、紀元前1570年頃 - 紀元前1070年頃)は、古代エジプト史における時代区分。エジプト第18王朝の王イアフメス1世が第15王朝(ヒクソス)を滅ぼしてエジプトを再統一してからの時代が新王国に分類されている。”とあります。

 新共同訳スタディ版の歴史年表には、“ヤコブの子孫、エジプト人王の奴隷となる。紀元前1700年頃-1290年頃。モーセ、イスラエルの民を連れてエジプトを脱出。紀元前1290年頃”とあります。

 一方、聖書辞典は次のように記しています。
“出エジプトの時期。出来事としての出エジプトは、現実にはいつ起ったのだろうか。それは現在知られている古代エジプト史や古代東方史と、聖書の記述とがどのように調和するかという問題でもある。この点で学者たちの理解は今も大きく2つに分れている。つまり、出エジプトを前15世紀半ば過ぎの出来事とする、いわゆる早期説と、13世紀の初めとする後期説2つである。早期説の基点はソロモンの神殿建設が出エジプトの出来事の後480年たってから始まったという6:1の言及である。それをもとにソロモンの支配について現在知られている年代から逆算して、前1440年をややさかのぼった頃が出エジプトの時期とされる。エジプト史では第18王朝のトゥトメス3世の時代〔エジプト新王国の時代(筆者挿入)〕である。彼が行った有名な大規模な建築事業は出1:11の記事と符合するし、その前後の状況についても、早期説をとれば一応の説明がつくのである。考古学的にも、J・ガースタングによる発掘結果から、エリコの陥落が前1400年以前であったという主張が、かなりの重みを持つものとして受け止められた。また有名なテル・エル・アマルナ文書に出てくるハビルの侵略の記事も、ヨシュア指揮下のカナン征服の証拠とされている。”とあります。

 早期説と後期説について、皆さんはどちらだと思いますか。
私は、聖書の記述との関係で早期説ではないかなと思っています。
(このことの議論はやめましょうね。誰もその時代に生きていたわけではありませんから。)

 ヨセフの時代にイスラエルが優遇されたときの王朝のファラオとイスラエルに敵対したときのファラオの王朝とは異なることだけは確かなことでしょう。
神ヤハウェ(主)は、すべてを予知しておられましたが。

 さて、この時代のイスラエルは、イスラエルがどうのこうのだからというのではなく、神ヤハウェ(主)の摂理の故ではないかと私には思えます。
〔摂理について、聖書辞典は次のように述べています。
摂理とは、万物の創造者である神の間断なき主権的活動のことであって、神は造られたすべてのものに対するいつくしみのゆえに(詩145:9)、全被造物を保持し(ヘブ1:3)、すべての出来事、状況、人間と御使いの行動を統治、支配し(参照創45:5‐8)、自然界、道徳界、精神界のすべてのことを御自身の目的達成のために導きかつ用いられること(エペ1:9‐12)を意味する。”{抜粋}とあります。〕

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私が初めて聖書を読み始めたとき、自分には主権がなくて、神が主権を握っておられるということを創世記から出エジプト記にかけて読んで理解し、そこまでいやいやながら読んではみたものの、もうそれ以上は、神に主権があるということが、嫌で、嫌で読み進めることができず、聖書から離れた昔のことを思い浮かべます。
ところが、今の私は、何がどうなっても、神様がご自身の主権に基づきことを進められることを承諾するのみならず、それを喜んでいるという自分の心を発見します。
それはまた、魂が救われたからだ(1ペテロ18.9)ということを覚えて感謝しています。
本当に不思議なことです。
主は言われました。「私の名は、不思議という。」(士師記1318)と。
主を喜べるようにしてくださったことを心から感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。ハレルヤ!

2024年1月 8日 (月)

2テモテ2:20、3:1-7 キリスト教会の中の危機(終わりの時代のキリスト教会の中の実情)1/新生した聖なる者はますます聖なる者へと

 2テモテ22031-7には次のように記されています。
220 大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は卑しいことに用いられます。
3
1 このことを知っておきなさい。終わりの日には困難な時期がやって来ます。
2
 その時〔補足(欄外注)〕、人々は、自分自身を愛し〔自分だけを愛し(2017)〕、金に執着し、見栄を張り、思い上がり、神を冒涜し、親に逆らい、恩を知らず、神を畏れなくなります。
3
 また、情けを知らず、和解せず、人をそしり、自制心がなく、粗暴になり、善を好まず、4 人を裏切り、向こう見ずになり、気が変になり〔別訳「高慢になり」(欄外注)〕、神よりも快楽を愛し、5 見た目は敬虔であっても、敬虔の力を否定するようになります。
こういう人々を避けなさい。
6
 彼らの中には、他人の家に入り込み、愚かな女たちをとりこにしている者がいます。その女たちは多くの罪を重ね、さまざまの情欲に駆り立てられており、7 常に学んではいるが、いつになっても真理を認識することができません。”(聖書協会共同訳)とあります。

 2テモテ31に「終わりの日」とありますが、ここで言われている終わりの日とは、教会時代全体です。
 「終わりの日」と訳されている「日」ですが、ギリシア語原語は「ヘーメラ」(時、日、期間、時代、・・等の意)の複数形が使われています。

 へブル11.2aには“神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。”(2017)と記され、
 1ペテロ15には“あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救い〔体が贖われるという救い=栄化=霊のからだ(筆者挿入)〕をいただくのです。”(2017)と記されています。
 
 へブル11.2aは、時期的には、イエス・キリスト様の公生涯の始まりから、を指していますし、1ペテロ15は主キリスト様の空中再臨の時(現れの時)を指しています。

 話しを変えます。
元来、聖書には、章や節はなかったそうですが、章や節は、読みやすくするために後になってつけられたそうです。

 2テモテ220には「大きな家」とあります。
これは見た目のキリスト教会です。キリスト教会と言われるものの外観です。
日本においては、クリスチャンになる人は数が少ないので、日本のクリスチャンと言われる人は新生している人が多いと思います。
しかし、キリスト教国とか、キリスト教国ではなくても洗礼を受けた人の割合がある程度大きい国の場合には、クリスチャンだといっても新生していない人が結構いる可能性があります。
外国人の中には、葬式や仏閣を見て、日本人は仏教徒、という人もいるようですが、日本人のどのくらいの人が仏教の経典を読んだことがあるのでしょう。そして、その上で信じている人や悟りを開いた人がどのくらいいるのでしょう。
同じように、キリスト教国と言われる国々の人々の中に、主イエス様を信じ、主イエス様を主と仰いで、日々聖書を読み、祈りをささげている人はどのくらいいるのでしょう。

 さて、教会の始まりはとても小さいものでした。そして世界的にみると、どんどん成長して外観は大きくなりました。しかし、異質なものも巣を作り、また教会の中には間違った教えが入り込みました。教会誕生の前に教会の外観についての主イエス様のたとえ話があります。
 ルカ1318-21には次のように記されています。
18 ・・、イエスは言われた。
「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。19 それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」
20
 また言われた。
「神の国を何にたとえようか。21 パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨らむ。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 新生した人たちの集まりである実質的な教会は、あまり大きなものではないのかもしれません。
主イエス様は次のように言われました。
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ713.142017)と記されています。

 「狭い門」の門とは、イエス・キリストの比喩です。
ヨハネ107には主イエス様の御言葉が次のように記されています。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。」(2017
「羊たち」とは、御父が御子主イエス様にお与えになった羊たちすなわち信者たちです。
 また主イエス様は次のようにも語られました。
「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。」(ヨハネ1027-292017)とあります。

 狭い門、細い道について、ヨハネ146も参考になると思います。
主イエス様は次のように語られました。
「わたし〔主イエス・キリスト(筆者挿入)〕が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(2017)と。
 ついでに7節には「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」(2017)と記されています。
 「父を知る」の「知る」と訳されている語のギリシア語原語は「ギノースコー」で、知る、理解する、等の意です。
 「父を見た」という「見る」と訳されている語のギリシア語原語は「ホラオー」で、じっと見る、凝視する、体験する、経験する、理解する、気付く、・・等の意があります。

 時に、クリスチャンがムスリムになった、などということを聞くことがありますが、その人は洗礼を受けてはいたが、新生はしていなかったということになるでしょう。

 1ヨハネ518を聖書協会共同訳は“神から生まれた人は誰も罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた人は自分を守り、悪い者がその人に触れることはありません。”と本文に記し、
聖書協会共同訳の欄外注に記されている文言をもとにして記すと“神から生まれた人は誰も罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方がその人を守ってくださり、悪い者がその人に触れることはありません。”と記しています。

 聖書協会共同訳の欄外注の方の底本は27版で、28版では「彼自身を」となっていると岩波訳の欄外注に記されています。

 さて、神から生まれたものとは?
神から生まれたものとは、神から生まれた「霊」です。
すなわち新生させていただいた「霊」なのです。
ヨハネ36には「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」(新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳)と記されています。
直訳すると「霊から」という訳になります。口語訳も岩波訳も「霊から」という訳です。

 キリスト者の肉体は肉から生まれたもの、肉の父母から生まれたものです。
キリスト者の魂は救われました(1ペテロ18.9)が、新しく生まれた、とは記されていません。

 新生したキリスト者はキリストの霊をもっています。
ローマ89には“もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。”(口語訳)と記されています。
新生したキリスト者は、神から生まれた霊をもち、キリストの霊と一つとなるのです。
“主に接合させられる者はしかし、〔主と〕一つの霊なのである。”{〔 〕内は訳者補入(1コリント617・岩波訳)}と記されています。

 また黙示録2211には「聖なる者はなおも聖化させられよ」(岩波訳)と記されています。
神によって聖化させられ続けていくのです。
1995
年版の岩波訳は「聖なる者は聖化され続けさせなさい」と訳しています。
主の現れを待ち望む者は、聖くされ続けていくのです。キリストに似たものとされ続けていくのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主は「聖なる者はなおも聖化させられよ」と語られます。
主が語られた御言葉は成就します(イザヤ5511)。
肉の思いによって聖くなろうとすると破綻を起こします。
清くなりたいと思ったら、主にお願いするしかないことを覚えます。
日々主を見上げ、主の如くに変えられていくことを求めて歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月 7日 (日)

黙示録1:16.2:12-17 主は祝福を与えてくださるお方であると共に、悔い改めない者に対しては戦われるお方

 黙示録116.212-17には次のように記されています。
116 また、右手には七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が突き出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
2:12
 ペルガモンにある教会の天使に、こう書き送れ。『鋭い両刃の剣を持つ方が、こう言われる。
13
 「私は、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかし、あなたは私の名をしっかり保ち、私の忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたの所で殺されたときでさえ、私に対する信仰を棄てなかった。
14
 しかし、あなたに少しばかり言うべきことがある。あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。バラムは、イスラエルの子らの前につまずきとなるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、淫らなことを行わせるためであった。
15
 同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉ずる者たちがいる。
16
 それゆえ、悔い改めよ。さもなければ、私は直ちにあなたのところへ行って、私の口の剣で彼らと戦おう。
17
 耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほか誰も知らない新しい名が記されている。」』”(聖書協会共同訳)とあります。

 ペルガモン(ペルガモ)について聖書辞典は次のように記しています。
“小アジヤ西部、ムシヤ地方の主要都市で、エペソの北約135キロ、エーゲ海から約24キロの内陸にあり、カイクス川の北5キロに位置していた。青銅器時代の遺物が発見されているほど古い町であったが、アレクサンドロス大王死後のヘレニズム時代から繁栄した。大王の死後は最初アンティゴノスの支配下にあったが、彼の死後リュシマコス王朝の領土となった。そして前3世紀にはリュシマコス王朝からセレウコス王朝の支配下に移り、さらに元来リュシマコスの家来であったがセレウコス側についていたフィレテルスによって独立国家となった。ペルガモの王たちは前3―2世紀にかけてガラテヤ人と戦って勝利を収めた。この間、アッタロス1世に敗北したゴール族がフルギヤ地方に住むようになったので、この地方が後にガラテヤ(ゴール人の地)と呼ばれるようになったのである。前2世紀頃からは親ローマ政策をとって繁栄したが、前133年、アッタロス3世が王国をローマに委譲してからは、ローマの総督が統治するアジヤ州となり、ペルガモはその首都となった。後、ローマの圧政に不満を抱いたペルガモは、反乱を起したが敗北し、一時自由を失った。その後カイザルによって再び自由を回復し、以後帝国時代には過去の繁栄を取り戻した。ただし、アジヤ州の首都は前6年エペソに移された。
 アッタロス1世、エウメネス2世等の王たちが学術を保護奨励したので、前2世紀前半にペルガモの文化は最も繁栄し、アレキサンドリヤに次ぐ大きさの図書館が建てられた。また、羊皮紙(ギリシヤ語でペルガメーネー)がここで発明されている。町は都市計画に従って建てられていた。3段になった人工台地の最上部のアクロポリスには劇場や宮殿等と共に、ゼウスの大祭壇、アテナの神殿があり、町の外には医学の神アスクレピオスの神殿があって、いやしを求めて各地から人々が集まってきた。また、ローマ時代にはローマとアウグストゥスの神殿、トラヤヌスの神殿、カラカラの神殿が建てられ、ペルガモはアジヤ州において偶像礼拝と共に、皇帝礼拝の中心地となった(黙2:13)。ヨハネの黙示録の書かれた時代(紀元90年代)には、使徒ヨハネとかかわりの深い小アジヤの7つの教会があった。ペルガモにはその一つがあり(黙1:11)、ヨハネから手紙が送られている(黙2:12‐17)。これによると当時のペルガモ地方では殉教者が出るほど迫害が激しく、異端も入り込んでいたことが分る。現在はベルガマという名で、神殿、劇場、競技場、図書館、住居等の多くの遺跡が発掘されている。”とあります。

 上記の説明で分かるように、当時におけるペルガモンは、この世的には素晴らしい文化都市であったと思われます。しかし主がご覧になるところはその様なところではありません。主は、主に対する信仰が純粋であるかどうかをご覧になっておられます。

 話は変わりますが、日本の中にも、文化施設を備え、競技場もあり、神社仏閣のある所は数多くあります。また、戦前であれば、人間を神として礼拝するという所もありました。
ある人間を神として礼拝しなければ、逮捕され、拷問されるということが、戦時中には起こったのです。
というわけで、ペルガモン教会の置かれていた環境は、戦前の日本の教会に似ているように思えます。

 礼拝される偶像があるとき、そこには自分を神のように礼拝してもらいたい堕天使が住み着きます。堕天使は、人間が礼拝してくれるのを気持ちよく受けているのです。
そのあたりのことを聖書は次のように記しています。
18 肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。いけにえを食べる人は、それが献げられた祭壇と交わる者になるのではありませんか〔供え物の肉を食べる人たちは、祭壇に祭られているものと交わるのではありませんか(フランシスコ会訳)〕。
19
 私は何を言おうとしているのでしょう。偶像に献げた肉とは何であるとか、偶像とは何であるとか、言おうとしているのでしょうか。
20
 そうではなく、彼らが偶像に献げる物〔礼拝も含まれます(筆者挿入)〕は、神ではなく悪霊に献げている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってほしくありません。
21
 主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方にあずかることもできません。”(1コリント10章・聖書協会共同訳)とあります。

 ペルガモンには「サタンの王座がある」(13)と記されています。
聖書辞典には、“〔ペルガモンの中の(筆者挿入)〕3段になった人工台地の最上部のアクロポリスには劇場や宮殿等と共に、ゼウスの大祭壇アテナの神殿があり、町の外には医学の神アスクレピオスの神殿があって、いやしを求めて各地から人々が集まってきた。また、ローマ時代にはローマとアウグストゥスの神殿トラヤヌスの神殿カラカラの神殿が建てられ、ペルガモはアジヤ州において偶像礼拝と共に、皇帝礼拝の中心地となった。”と記されています。
大勢の人が礼拝する場所には、サタンが陣取るようです。
日本にはこのような偶像礼拝の場所が実に多くありますね。

 それぞれの国を形づくっている雰囲気は、おそらく悪魔悪霊が、色々と考えて造り出しているのかもしれません。
コロサイ28には“あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊〔この世を支配している悪しき霊。ルカ461ヨハネ519参照(筆者挿入)〕によるものであり、キリストによるものではありません。”(2017)と記され、
 ダニエル10章には、
11 彼〔おそらくガブリエル。ダニエル816921参照(筆者挿入)〕は私に言った。「愛される者〔原語を直訳すると「特別に愛されている者」(筆者挿入)〕ダニエルよ、私があなたに語る言葉を聞いて悟れ。あなたがいる場所に立て。私は今、あなたのところに遣わされて来たのだ。」この言葉が私に語られたとき、私は震えながら立ち上がった。
12
 彼は私に言った。「ダニエルよ、恐れるな。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだった最初の日から、あなたの言葉は聞かれているからだ。私はあなたの言葉のゆえにやって来た。
13
 ペルシアの王国の天使長〔堕天使グループの堕天使長(筆者挿入)〕が私の前に二十一日間立ち塞がったが、見よ、偉大な天使長〔神ヤハウェ(主)の配下の天使長(筆者挿入)〕の一人ミカエルが私を助けるために来た。そこで、私はペルシアの王たち〔堕天使長とその配下の堕天使たち(筆者挿入)〕のもとに彼を残した。
14
 私は、終わりの日にあなたの民に起こることをあなたに悟らせるために来た。その日についてなお幻がある。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 日本の霊的支配を造り出しているのは、上記の聖句から分かるように、神ヤハウェ(主)に代わって礼拝されたいと思っている堕天使たちです。
またこの者たちは、キリスト者の信仰を間違った方向へ導こうともするのです。
ペルガモンの教会においては、15節に記されている「ニコライ派の教え」ことです。

 ペルガモンにある教会に対する主イエス様の紹介は、「鋭い諸刃の剣を持つ方」とあります。これは裁きのときに用いられる表現です。
黙示録1915aには“この方の口からは、鋭い剣が出ている。〔主なる神に敵対する(筆者挿入)〕諸国の民をそれで打ち倒すのである。”(新共同訳)と記されています。

 主が「改めなさい」と言われたことは、聖霊の助けを頂いてすぐに改めたいですね。

 17節には“耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほか誰も知らない新しい名が記されている。」”と記されています。

 「マナ」は主イエス様の象徴であるとイエス様が語られました(ヨハネ631-33)。
「白い小石」とは何でしょうか?
「白」は清純であるとか義であるということかもしれません。「小石」と訳されているギリシア語原語は「フセーフォス」で(丸くなった)小石、小さな宝石等の意です。
「宝石」というと、1コリント312の「宝石」を思い浮かべます。
清純な美しい天国用のからだと天国での名前が与えられるということなのかな、と想像します(小生の想像ですから正しいかどうかは分かりません)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたに喜ばれる歩みをし続けることができますよう祝福してください。
ローマ84やガラテヤ516に記されているように、ご聖霊のご支配のもとに歩むことが必要であることを覚えます。
いつも喜びをもってご聖霊の下にあって歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月 6日 (土)

箴言27:10 主にある兄弟姉妹は永遠の家族

 箴言2710を、
聖書協会共同訳は“あなたの友人、父の友人を捨てるな。災いの日に、あなたの兄弟の家には行くな。近くの住人は遠くの兄弟にまさる。”と訳し、
2017
は“あなたの友、あなたの父の友を捨てるな。あなたが災難にあうとき、兄弟の家に行くな。近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる。”と訳し、
口語訳は“あなたの友、あなたの父の友を捨てるな、あなたが悩みにあう日には兄弟の家に行くな、近い隣り人は遠くにいる兄弟にまさる。”と訳し、
リビングバイブルは“自分の友でも父の友人でも、彼らを大事にしなさい。いざというとき、遠くの親類よりあてになります。”と訳しています。

 日本でも「遠くの親類より近くの他人」、「遠き親類より近き隣」と言われていますね(箴言の方が相当昔に書かれていますが)。

 少し前にも書きましたが、「友人」と訳されている語のヘブライ語原語は「レーア」で、パートナー、同僚、仲間、友、夫、愛人、隣人、同志、同輩、等の意があります。

 レビ1918の「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(2017)と記されている聖句中の「隣人」も「レーア」です。

 さて、話は変わりますが、もし一緒に暮らしている家族、あるいは仲間がいたら、その人たちは「レーア」です。
その人たちが仲良しであったら、そして更にはお互いの間に愛があったら、とても幸いなことです。

 また霊の父の友と言われた人にアブラハムがいます。
イザヤ418には「・・わたしの友アブラハム・・」(2017)という神ヤハウェ(主)のことばが記されています。
この個所を新共同訳は「・・・わたしの愛する友アブラハム・・」と訳しています。
「友」と訳されている語のヘブライ語原語は「アーハブ」で、「友」の他「愛する者」、・・等の意もあります。
 ヤコブ227には“「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。”(2017)記されています。
 主イエス様は、“わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。”(ヨハネ1514.152017)と弟子たちに語られました。

 霊の父の友は大切です。それはアブラハムに限ったことではありません。

 また話が変わりますが、幕屋(聖所)の建設において、壁板を数十枚使いましたが、その壁板が揺らがないように壁板の中ほどに中央の横木を通しました。
中央の横木は霊的には何を表しているのでしょう。
キリスト者(壁板)の集合体は神殿を形づくるものであり、キリスト者は聖霊によって結び合わされているということでしょう。
キリスト者は、一人一人に個性があり、肉の個体としては別々に離れていますが、一たび組み合わされ、聖霊によって結び合わされると、聖所が出来上がるのです(キリスト者一人一人も神の聖所ですが)。
1
コリント316には“あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいる”(新共同訳)と記されています。

 キリスト者同士は、この世の人間社会における隣人以上の存在です。
キリスト者の国籍は神の王国です。
キリスト者は神の王国のパスポートを持っています。
キリスト者は永遠に神の家族です。
神の家族は、この世の肉の家族以上の存在です(この世の肉の家族が全員霊の家族、神の家族でもあるというようであれば、それは大いなる喜びです)。
「肉から生まれた者は肉、霊から生まれた者は霊」なのです(ヨハネ36)。肉はこの世のものだけのものであり、神から生まれた霊は永遠です。
また、教会(キリスト者の集合体)は、キリストのからだでもあり、キリストの友でもあり、キリストの花嫁でもあります。
キリスト者個々人は、主の霊が宿っていつつ、個々人に与えられた賜物の違いや個性の違いが存在します。
キリスト者は、キリストの十字架と復活のゆえに罪赦されただけではなく、霊において新生させていただいた者たちであり、キリストの現れの時(キリストの空中再臨の時)には栄化の恵み(霊のからだを頂くこと)にあずからせていただける存在です。
ですから皆お互いを尊重し、お互いに内におられる主の愛(アガペー)によって愛し合って生活していきたいですね。
教会を壊そうと躍起になっているのはサタンとその配下の者たちです。
悪しき霊に対し、天地の主権者であられるキリストによって、キリストの御名によって勝利していきましょう。
今は悪い時代であり、この世が裁かれる前に、教会が揺さぶられる時代だからです(教会は始終揺さぶられていますが)。

 新生しているキリスト者の集合体から、サタンの働きを除外すると、それはとても麗しい交わりになります。
新生しているキリスト者の集合体から、サタンの働きを除外し、個々のキリスト者の個性を尊重しつつご奉仕させて頂ければ、主のために良き働きをすることができるようになります。キリストとキリストの妻との関係で言うと箴言3110-31に記されているような関係ともいえるでしょう(関係内容のすべてではありませんが)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
悪魔悪霊に騙されることなく、逆に悪しき者の策略を見破って、あなたのみ旨に一致する歩みをさせて頂けますように私たちをお整え下さい。
キリスト者一丸となって、あなたの御栄光をあらわす歩みをすることができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月 5日 (金)

詩篇105:16-23 主がヨセフをエジプトに遣わす5/ヨセフを用いてなされた主のご計画

 詩篇10516-23には次のように記されています。
16 主はその地に飢饉を呼び、パンの蓄えをことごとく絶った。
17
 主は一人の人を彼らより先に送った。ヨセフが奴隷として売られたのだ。
18
 人々はヨセフの足を足枷で痛めつけ、首には鉄の首輪をはめた。
19
 主の言葉が実現する時まで主の仰せが彼を試した。
20
 王は人を送って彼を解き放ち、もろもろの民の支配者が彼を自由にした。
21
 王は彼を王宮の頭とし、すべての財産を管理する者とした。
22
 それは高官らをヨセフの思いのままにするため。ヨセフは長老たちに知恵を授けた。
23
 イスラエルはエジプトに入り、ヤコブはハムの地に寄留した(聖書協会共同訳)とあります。

 前回は、ヨセフがエジプトの宰相になったところまでを記しました。
ファラオが見た夢の解き明かしは、7年間の大豊作の後に7年間の大凶作が来るというものでした。
そして、いよいよ大凶作が始まったのです。
それはヤコブ一族が暮らしていたカナンの地においても同じでした(創世記4154-422)。

 エジプトでは宰相ヨセフのもと、大豊作時に食糧を蓄えたために、凶作時代が訪れてもファラオの食料貯蔵庫には食料が豊かでした。

 ヤコブは、ベニヤミンを除く息子たち10人をエジプトの食料を買わせるために遣わしました。
宰相ヨセフには、彼らが自分の兄たちであることがわかりましたが、兄たちにはヨセフがわかりませんでした。(創世記421-8

 結局、ヨセフは兄たちに食料を与えましたが、次に来る時には兄弟の末弟を連れてくるようにと命じました。もしヤコブの息子たちが、末弟のベニヤミン(ヨセフの弟)を連れていかなければ、次の食料を買うことができないし、人質にされたシメオンを助けることもできないのです。またヤコブの息子たちは上記以外の辛い経験をさせられ、それは、ヨセフに対する悪行からではないかと互いに言いあったのです。(創世記429-28

 ヨセフは兄弟たちの悔いた言葉を聴いていました。そして涙したのです(創世記4221-24a)。

 その後、ヤコブ一家は、エジプトで調達した食料を食べつくしました。そこでヤコブは息子たちにもう一度エジプトから食料を買ってくるようにと命じたのです。ヤコブはベニヤミンを連れて行かせたくありませんでしたが、結局、食料確保のために、ベニヤミンも連れて行くことになったのです。(創世記431-15

 ヨセフは、弟のベニヤミンと牢から解放したシメオンを含めた兄弟たち合計11人と共に食事をしました。(創世記4316-34

 ヨセフは策略を用いて、今度は、弟のベニヤミンを捕虜の名目で自分のもとに置いておこうとしましたが、ユダが自分を投げ出して、父ヤコブを守ろうとしたのです(ここのいきさつを知りたい方は聖書を読んでください)。ユダのその言動を見たエジプトの宰相は、自分がヨセフであるということを明かにしたのです。その上でヨセフは、ヤコブ一家を皆エジプトに連れてくるようにと兄弟たちに言いました。それでヤコブ一家はエジプトへと下ったのです。(創世記441-4628

 ヨセフとヤコブの再会の場面が、創世記4629.30には次のように記されています。
“ヨセフは車を整え、父イスラエル〔ヤコブ(筆者挿入)〕を迎えにゴシェンへ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、首にすがって泣き続けた。
イスラエル〔ヤコブ(筆者挿入)〕はヨセフに言った。「もう今、私は死んでもよい。おまえがまだ生きていて、そのおまえの顔を見たのだから。」”(2017)とあります。
父と子が分かれてから22年ぶりの再会であったのです{(1372年)年数を知りたい方は創世記372-456を読むとわかります}。

 やがてヤコブはエジプトのゴシェンの地で息を引き取ります。
ヨセフの兄たち10人は、父ヤコブが死んだので、自分たちがヨセフに復讐されないかと恐怖に襲われるのです。そして、父ヤコブが言わなかった言葉をも造り出してヨセフに命乞いをするのです。それに対して、ヨセフはどのように答えたでしょうか。

 創世記5015-21には次のように記されています。
15 ヨセフの兄弟は父が亡くなったので、ヨセフが自分たちを恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。
16
 そこで、人を介してヨセフに伝えた。
「父は亡くなる前に、こう命じていました。
『ヨセフにこう言いなさい。確かに兄弟はお前に悪いことをした。だがどうかその背きの罪を赦してやってほしい。』
それでどうか今、あなたの父の神に仕える僕どもの背きの罪を赦してください。」
この言葉を聞いてヨセフは泣いた。
18
 やがて、兄弟もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して言った。「このとおり、私たちはあなたの僕です。」
19
 ヨセフは言った。
「心配することはありません。私が神に代わることができましょうか。20 あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです21 ですからどうか心配しないでください。あなたがたと幼い子どもは私が養いましょう。」ヨセフは兄弟を慰め、優しく語りかけた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ヨセフはある意味キリストの型でした。
主イエス様は十字架上で次の様に祈られました。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23342017)と。

 ローマ828には“神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる”(口語訳)と記されています。

 ヨセフは、22年前(ヨセフが17歳の時)次のような夢を見ていました。
創世記375-8には次のように記されています。
5 あるとき、ヨセフが夢を見て、それを兄弟に話すということがあった。すると彼らは以前にも増してヨセフを憎むようになった。
6
 ヨセフは彼らにこう言った。
「聞いてください。私はこんな夢を見ました。7 私たちが畑の中で麦の束を結わえていると、いきなり私の束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まり、私の束にひれ伏しました。」
8
 兄弟はヨセフに言った。
「お前が我々を治めるというのか。お前が我々を支配するというのか。」
彼らはその夢の話のゆえに、ヨセフを以前にも増して憎むようになった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イザヤ4610には「わたしは後のことを初めから告げ、まだなされていないことを昔から告げ、『わたしの計画は成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。」(2017)という神ヤハウェ(主)の御言葉が記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
いつもあなたに信頼し、主の霊に満たされて歩ませていただけますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月 4日 (木)

黙示録13:16-18 右の手あるいは額に獣の刻印が押される/キリスト者には聖霊の証印が押されている

 黙示録1316-18には次のように記されています。
16 また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。
17
 そして、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようにした。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。
18
 ここに知恵がある。理解ある者は、獣の数字の持つ意味を考えるがよい。数字は人間を指している。そして、その数字は六百六十六である。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この預言は、大患難時代の中間からその後の頃に起こります。
ですから携挙にあずかるキリスト者の場合は、「そうなったらどうしよう」と思わなくても良いのです。

 話は変わりますが、もしそれと似たようなところを通らねばならないときには、主に祈りつつ、サタンとその配下の者たちに従わずに主に従えばよいのです。
「生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ121
「自分の身によってキリストが崇められるならば、それでよいのです。」(エペソ120
キリストに従い続けることは、キリストがサタンに対して勝利したことになります。
キリストの愛から誰も引き離すことの出来る者はいないことの証明です(ローマ835,37-39)。
主に従う人を見た天の生き物たちは、おそらく大きな喜びに満たされ、主を賛美することでしょう。

 新生したキリスト者は、聖霊によって証印が押されています(エペソ113)。
サタンは神の真似をしたがる存在です。
また大患難時代に、神によって全世界に宣教に遣わされる144,000人のユダヤ人は、額に神の印を押されます(黙示録73-8)。
666
の数字は、反キリストの数字です。
反キリストにつく者は、反キリストの刻印を右手か額に受けるのです。(黙示録1316.18)。

 今日の本題に移ります。
今日のテーマは、終末時代に起こることについての考察です。
先日、私が入院した病院では、手首にバーコードが記されているものをはめさせられました。そのバーコードを「ピィ」と読み込むとパソコンに私のデータが全部出てきます。

 スェーデンでは、マイクロチップを手に埋め込んでいる人たちがすでに数千人はいるそうです。このようなことは、スウェーデンに限ったものではなく、アメリカのウィスコンシン州のソフトウェアデザイン企業Three Square Marketでも、従業員にインプラントを実施して、社員食堂での決済やドアのセキュリティロックの解除、PCへの自動ログインなどに用いているそうです。
マイクロチップを体に埋め込むとか、バーコードのようなものを皮膚にシールすれば、カードを盗まれる心配はなくなります。
日本でも犬や猫にマイクロチップを入れたりしますね。
今の時代は、商品にバーコードがついていて、それを読み取るということをしていますね。日本では1970年代からこのようなことが浸透していきました。

 といわけで、666が手や額に刻印することの出来る時代が来ているのです。
これも終末時代を思わせる事柄です。
キリスト者の中には、666を恐ろしく思って、マイナンバーカードやマイクロチップを埋め込む、などということに敏感になっている人がいますが、携挙される人は、666を受けることはありません。獣(反キリスト)が誰だかわかる以前に携挙されてしまうのですから。

 携挙には漏れてしまったけれども、大患難時代に主イエス・キリスト様を信じる人も起こされます。その人たちは、手や額に666の刻印を受けることなく、殉教覚悟で、主を告白すればよいのです。その人たちは殉教することによって大いなる祝福を受けます。
黙示録204には“・・・。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印〔666(筆者挿入)〕を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。”(2017)と記されていますから。

 余談になりますが、サタン(悪魔)の狙いの大目的の一つは、イスラエル人全員の抹殺です。
サタンは、666の刻印をもその一助に用いるのでしょう。
黙示録1317には“この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようにした。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。”と記されています。
しかし、どこかの山奥で自給自足の生活をしているような人は、666の刻印を受ける必要もないでしょう。
獣(反キリスト)の刻印を受けなくても生活できればよいのですから。

 神ヤハウェ(主)は、ご自身を信じているイスラエル人を養い守ります。
黙示録126に“女〔イスラエル(筆者挿入)〕は荒野〔ボツラ{イザヤ631-8}(筆者挿入)〕に逃れた。そこには、千二百六十日の間、人々が彼女を養うようにと、神によって備えられた場所があった。”(2017)と記されています。
また主イエス様はユダヤ人たちに山に逃げるようにと教えておられます。
 マタイ24章には、
15 「預言者ダニエルの語った荒廃をもたらす憎むべきもの〔獣(反キリスト)を模した偶像(筆者挿入)〕が、聖なる場所〔大患難時代に立てられる神殿(筆者挿入)〕に立つのを見たら――読者は悟れ――16 その時、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい
17
 屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。18 畑にいる者は、上着を取りに戻ってはならない。19 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女に災いがある。20 逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。21 その時には、世の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。」”(聖書協会共同訳)と主イエス様の御言葉が記されています。

 主は、主を信じる者に逃れの場所を用意されています。
それは、この世の世界の中かも知れないし、もしそうでない場合には、天の御国です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
世の中がどのようになろうとも、また私たちがどのような環境に置かれようとも、主に信頼していれば大丈夫であることを約束してくださっておられますから感謝します。
いつもあなたの無限の愛を感じ取り、私達もあなたを愛し、あなたに信頼して歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月 3日 (水)

黙示録1:17d.18、2:8-11 贖いを成し遂げられた人となられた永遠の神/死に至るまで主に対して忠実であれ

 黙示録117.1828-11には次のように記されています。
117 ・・。・・。「・・。私は最初の者であり最後の者、18 また、生きている者である。ひとたび死んだが、見よ、世々限りなく生きており、死と陰府の鍵を持っている。/
2:8
 スミルナにある教会の天使に、こう書き送れ。『最初の者であり、最後の者である方、ひとたび死んだが生き返った方が、こう言われる。
9
 「私は、あなたの苦難と貧しさを知っている。しかし、本当はあなたは豊かなのだ。また、自分はユダヤ人であると言う者たちがあなたを非難していることも知っている。しかし、彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集会〔ギリシア語原語は「スナゴーゲー」で、集会、会堂、会衆の意(筆者挿入)〕に属しているのだ。
10
 あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはならない。見よ、悪魔が試すために、あなたがたのうちのある者を牢に投げ込もうとしている。 あなたがたは、十日の間、苦しみを受けるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。
11
 耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者は、決して第二の死によって損なわれることはない。」』”(聖書協会共同訳)とあります。

 黙示録117に「私は最初の者であり最後の者、18 また、生きている者である。ひとたび死んだが、見よ、世々限りなく生きており」と記され、
2
8に「最初の者であり、最後の者である方、ひとたび死んだが生き返った方」と記されているお方とは、キリスト者なら誰でも、それは御子であられる主イエス・キリスト様だとわかるでしょう。

 それこそパウロが述べている福音の中核で、1コリント152.3に記されている内容です。
 1コリント151-6には次のように記されています。
1 きょうだいたち、私はここでもう一度、あなたがたに福音を知らせます。私があなたがたに告げ知らせ、あなたがたが受け入れ、よりどころとし、2 これによって救われる福音を、どんな言葉で告げたかを知らせます。もっとも、あなたがたが無駄に信じたのではなく、今もしっかりと覚えていればの話ですが。
3
 最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと5 ケファに現れ、それから十二人に現れたことです。6 その後、五百人以上のきょうだいたちに同時に現れました。そのうちの何人かはすでに眠りに就きましたが、大部分は今でも生きています。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1コリント153に「キリストは、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだ」と記されています。
聖書のどの預言によるのでしょうか?
 イザヤ53章には次のように記されています。
4 まことに、彼〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
5
しかし、彼〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は私たちの背き〔ヘブライ語原語は「ペシャー」で、反抗、犯罪、違反、罪、等の意(筆者挿入)〕のために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
6
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私たちすべての者の咎を彼〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕に負わせた
8
虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。/
11
彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う
12
それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」”(2017)とあります。

 ホセア62には「主は・・・三日目に立ち上がらせてくださる。」(抜粋・2017)と記され、
ヨナ117210には“117 ・・。ヨナは三日・・、魚の腹の中にいた。210 ・・、ヨナを陸地に吐き出させた”(2017)と記され、
マタイ164には“「悪い、姦淫〔不貞(岩波訳)〕の時代はしるしを求めます。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」こうしてイエスは彼らを残して去って行かれた。”(2017)と記されています。

 スミルナの教会は、おそらくキリスト者であるがゆえに、この世から「苦難と貧しさ」(9)という状態に置かれ、更に、命に係わる迫害を受けていました。10節には「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはならない。見よ、悪魔が試すために、あなたがたのうちのある者を牢に投げ込もうとしている。 あなたがたは、十日の間、苦しみを受けるであろう。死に至るまで忠実であれ。」と記されています。

 初代教会時代から、キリスト教がローマの国教とされるまでの間は、まさしくこのような時代であったでしょう。しかし、この預言は、その時代のことだけではありません。いつの時代でも起こりうるものであり、現代でも世界のどこかで起こっています。

 キリスト信者が、肉体の苦しみの中にある時、主イエス様は、「それは不幸だ」とは言われませんでした。
肉体の苦しみの中にあっても、常に主に信頼し、主の内にある人について、主は「本当はあなたは豊かなのだ」(9)ということを体験させてくださるのです。

 苦難の中にあるからこそ、霊的に豊かな恵みにあずかることができるという場合もあるのです。

 「世の波風いかに荒れて」(聖歌474 聖歌総合版491 新聖歌250
“1.世の波風いかに荒れて 我に襲い来(きた)るとも イェスは 我に その安きを 与えませば 恐れ無し
(折り返し)* 主の安き 主の安き 我は内に 今(持)もてり 主の安き 主の安き 我は内に 今(持)もてり
2.すべての罪 悪しき癖を 悔い改め捨て去りて この身を 主の手に委ねし わが心は いと安し *
3.よし悪魔は 獅子の如く 吠え猛るも 何かあらん また 光の使いのごと 欺くとも誘われじ *
4.世の栄(さか)えも富も知恵も また誉も死でさえも 主のたまいし その安きを わが内より奪いえじ *
5.ハレルヤ! 主は 世と悪魔に すでに勝ちを得給えば 我らもまた イェスと共に 日々勝ち得て余りあり *”

 肉のからだとこの世に対し望みのない状態に置かれると、自然と天にあるもの、すなわち主に属する霊的なものに心が向くものです。
それだけではなく、主は主の霊が働かれている御言葉をもって力と平安を与えてくださいます。人間の側がどうのこうのではなく、主の恵みです。

 コロサイ31-4には「キリストが死からよみがえられた時、あなたがたも共によみがえったのですから、天にある無尽蔵の富と喜びに目を向けなさい。そこでは、キリストが栄誉と力とを帯びて、神の右の座についておられます。地上のことをあれこれ気に病まず、天上のことで心を満たされていなさい。一度死んだわけですから、あなたがたの真のいのちは、キリストと共に天の神のもとにあるのです。真のいのちであるキリストが再び戻って来られる時、あなたがたも彼と共に輝き、そのすべての栄光にあずかるのです〔栄化されるのです=霊のからだを与えられるのです(筆者挿入)〕。」(リビングバイブル)と記されています。

 主イエス様は言われました。「生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11262017)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス・キリスト様の十字架と復活、そして主を信じる信仰を与えていただいたゆえに、罪が赦され、義とされ、あなたのものとして聖別され、やがて栄化の恵みにあずからせていただけますからありがとうございます。
苦難や死を目の前にするような迫害の日々の中に置かれたときには、主の十字架を、そして死んで復活された主を思うようにと、「ひとたび死んだが生き返った方」(9)と自己紹介されていることを覚えます。
地にあっては、主が良しとする時まで、日々主と共にひとあしひとあし歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月 2日 (火)

箴言27:9 主に在る良き友が与えられますように/素晴らしい助言者、もっとも良き友、最高の夫であるキリスト・イエス

 箴言279を、
2017
は“香油も香も心を喜ばせる。友の慰めは自分の考えにまさる。”と訳し、
聖書協会共同訳は“油や香は心を楽しませる。友人の優しさは香木〔別訳「魂の勧め」(欄外注)〕にまさる。”と訳し、
新共同訳は“香油も香りも心を楽しませる。友人の優しさは自分の考えにまさる。”と訳し、
リビングバイブルは“友に励まされるのは、香水をかぐように気持ちの良いものです。”と訳し、
口語訳は“油と香とは人の心を喜ばせる、しかし魂は悩みによって裂かれる。”と訳し、
文語訳は“膏(あぶら)と香(こう)とは人の心をよろこばすなり  心よりして勧言(すすめ)を與(あた)ふる友の美しきもまた斯(かく)のごとし”と訳しています。

 日本でもアロマを楽しんだり、アロマによって心を癒されたりしている人がいますね。
歴史をさかのぼると、日本でも「香を聞く」というのがありますね。
漢方薬でも、気剤という成分の入っている薬剤を煎じていると飲む前から香りによって鬱々としていた気持ちが晴れてくるということがありますね。
まさしく「香油も香も心を喜ばせる」(2017)という状態です。

 さて、口語訳聖書以外の日本語訳聖書は、後半部分を「友の慰めは自分の考えにまさる」(2017)、「友人の優しさは魂の勧めにまさる」(聖書協会共同訳の別訳)、「友人の優しさは自分の考えにまさる」(新共同訳)というように訳しています。
個人的には、意訳されている文語訳のように「膏(あぶら)と香(こう)とは人の心をよろこばすなり 心よりして勧言(すすめ)を與(あた)ふる友の美しきもまた斯(かく)のごとし」という訳に共感を覚えます。

 口語訳聖書は後半部分を「しかし魂は悩みによって裂かれる」と訳しています。
どうしてそのように訳せるのだろうか、と思い、ヘブライ語聖書の聖句を調べてみると確かに口語訳のように訳すことも可能なのです。
心にとって、良くないほうの訳を私なりに訳すと、「しかし、あなたのパートナーの魂のもくろみ(計画)は、ひどい(最悪である)」となります。

 現実の人間関係を眺めると、「膏(あぶら)と香(こう)とは人の心をよろこばすなり。心よりして勧言(すすめ)を與(あた)ふる友の美しきもまた斯(かく)のごとし」という場合もあれば、「油と香とは人の心を喜ばせる、しかし魂は悩みによって裂かれる。」(口語訳)or「油と香の香り成分は、人の心を晴れ晴れとさせ、また楽しくさせますが、あなたのパートナーのもくろみは魂を引き裂くようなひどいものです」(私的意訳)という両方の状態がありますね(人間関係はこれ以外にも色々とありますが)。

 主イエス様と親しい交わりを持ちながら歩んでいる人は、主イエス様が、友の様であり、ご主人様であり、愛深き夫のようでもあることを経験しながら生活していることと思います。

 御父は、新生させていただいた私たちの霊と主の霊とを霊の領域において結び合わせ一つとしてくださいました。
1
コリント617には「主と交わる者は、主と一つの霊になるのです」(2017)、「主に結び付く者は主と一つの霊となるのです」(新共同訳)、「主に合ものは一靈となるなり」(元訳)と記されています。

 キリスト様は最高の夫です。
 エペソ5章には、
25 ・・キリスト〔花婿(筆者挿入)〕が教会〔キリストの花嫁(筆者挿入)〕を愛し、教会のためにご自分を献げられた・・。/
22
妻たちよ。・・、自分の夫に従いなさい。
32
この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。”(2017)と記されています。

 霊と魂とは異なります。
私たち主キリスト・イエス様を信じたキリスト者の魂は、救われています(1ペテロ18.9)が、魂が全く聖とされるまでは、救われる以前の考え方、感じ方、善悪の判断の仕方等を、聖とされていない部分で引きずっていますから、肉的部分が多い状態であるほど、主と一つ、という感じを抱くことは難しいことだと思います。しかし魂の様々な部分が聖とされていくと、主と一つであるということを実感していくことでしょう。

 上記文章の関連聖句を下記します。
1
ペテロ18.9には「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」(2017)と記され、
ガラテヤ519-21には「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。」(口語訳)と記されています。

 主なる神様による肉の処分方法と歩み方を下記しておきます。
ガラテヤ524.25には「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊〔神の霊。御霊。(筆者挿入)〕の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(新共同訳)と記されています。

 「わが友主イエスは」(聖歌493 聖歌総合版511 新聖歌317
“1.わが友主イエスは われを見出(みいだ)し 引き寄せ給いぬ 愛の糸もて 御そばに侍(はべ)れば 何をか恐れん 今 主は我がもの 我は主のもの
2.わが友主イエスは 罪ある我を 贖い給えり 命を捨てて この身と魂(たま)をば 主よ 取り給え すべてはながもの 我がものはなし
3.わが友主イエスは いとも優しく 慰め 励まし また守り給う 悩みも 剣も 飢えも 裸も 引き裂くあたわじ 主より我が身を”

 「慈しみ深き」(讃美歌312 新聖歌209
“1.慈しみ深き 友なるイェスは 罪 咎(とが) 憂(うれ)いを 取り去り給う 心の嘆きを 包まず述べて などかは降(おろ)さぬ 負(お)える重荷を
2.慈しみ深き 友なるイェスは 我らの弱きを 知りて憐れむ 悩み 悲しみに 沈めるときも 祈りに応えて 慰め給(たま)わん
3.慈しみ深き 友なるイェスは 変わらぬ愛もて 導き給う 世の友 我らを 棄(す)て去るときも 祈りに応えて 労(いたわ)り給わん”

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
良きもののすべて以上である主イエス様を与えてくださり感謝します。
主を愛し、主に信頼し、主にお仕えし続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、天上のあらゆる祝福をもって、私たちを祝福してくださいました。それは、私たちがキリストのものとなっているからです。」(エペソ13・リビングバイブル)

2024年1月 1日 (月)

2024年 新年のご挨拶 皆様の上に天父よりの御祝福が豊かでありますように

 主の御名をほめたたえます

いつもトミーの聖書理解のブログを読んでくださっておられる方々に感謝します。

昨年の私は、ままならない体を引きずって生活していました。

15年前に心筋梗塞になり、その時に入れたステントの個所に、もやもやしたものが沢山付き、また、3本ある冠動脈のどれも狭窄して危険になっている個所も生じていたからです。

現在もそのために、あと2回は入院して治療する必要があります。

その他にも手術しなければならない箇所があります。

また仕事の方も、やめないでほしいと言われる方々が数多くおられるので、後期高齢者になっても、お仕事を続けさせていただいている状況の中にあります。

その様な中、「主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩編37:5抜粋・2017)という聖句が心を占めました。主が与えてくださったのでしょう。

今年も、私に関わる全てのことを成し遂げてくださる主に信頼して歩ませていただきたいと思います。(詩編138:8、57:2、37:5)

栄光在主!

ハレルヤ!

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