使徒1:5-8 キリストの証人/新生した人なら誰でも証しはできます
使徒1:5-8には次のように記されています。
“5 ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼(バプテスマ)を受けるからである。」
6 さて、使徒たちは集まっていたとき、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
7 イエスは言われた。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。8 ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。」”(聖書協会共同訳)とあります。
5節には“ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼(バプテスマ)を受けるからである。」”と記されています。
「聖霊によって洗礼(バプテスマ)を受ける」と訳されている個所のギリシア語聖書を直訳すると「聖霊の中に浸されるでしょう」となります(βαπτισθησεσθε εν πνευματι αγιω)。
使徒たちはすでに聖霊を主イエス様から受けていました。
ヨハネ20章には次のように記されています。
“1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。/
11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中をのぞくと、12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が、一人は頭の方に、一人は足の方に座っているのが見えた。/
18 マグダラのマリアは弟子たちのところに行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方〔Then the same day at evening(KJV)。主の御復活の日の夕方(筆者挿入)〕、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20 そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」
22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい〔アオリスト時制が使われているので、聖霊を受けたのです。(筆者挿入)〕。23 誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」”(聖書協会共同訳)とあります。
弟子たちは、主の御復活の日の夕方、主イエス様から「聖霊を受けよ」と息を吹きかけられたのです。 そして弟子たちは聖霊を受けたのでした。
8節には「ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。」と、使徒たち(6節参照)に語られた主イエス様の御言葉が記されています。
使徒たちはヨーロッパからアフリカ、インドまで、福音を伝えたのです。
「証人」と訳されている語のギリシア語聖書原語は「マルトゥス」で、証人、殉教者、・・等の意があります。
使徒たちは、ヨハネを除いて殉教したのです。ヨハネは釜茹での刑にされましたがそれでも死なずパトモス島に流され(伝承)、そこで黙示録を記したのです。
新生したキリスト者には聖霊が与えられています。聖霊は神です。
しかし、勇敢なキリスト者もいれば、勇敢ではないキリスト者もいます。
聖霊は同じでも、与えてくださる聖霊の賜物は異なるのです。
1コリント12章には次のように記されています。
“3 そこで、あなたがたに言っておきます。神の霊によって語る人は、誰も「イエスは呪われよ」とは言わず、また〔「また」と訳されている語のギリシア語原語は「カイ」でほとんどはand, also,と訳されますが、even, so, then, too, thereforeと訳されることもあります。(筆者挿入)〕、聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言うことはできません。
4 恵みの賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊〔聖霊(筆者挿入)〕です。
5 務めにはいろいろありますが、仕えるのは同じ主です。
6 働きにはいろいろありますが、すべての人の中に働いてすべてをなさるのは同じ神〔聖霊は神です(筆者挿入)〕です。
7 一人一人に霊〔聖霊(筆者挿入)〕の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
8 ある人には、霊〔聖霊(筆者挿入)〕によって知恵の言葉、ある人には同じ霊に応じて知識の言葉が与えられ、9 ある人には同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって癒やしの賜物、10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。11 しかし、これらすべてのことは、同じ一つの霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。”(聖書協会共同訳)とあります。
またローマ12章には次のように記されています。
“3 私に与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。分を越えて思い上がることなく、神が各自に分け与えてくださった信仰の秤に従って、慎み深く思うべきです。
4 一つの体の中に多くの部分があっても、みな同じ働きをしているわけではありません。それと同じように、5 私たちも数は多いが、キリストにあって一つの体であり、一人一人が互いに部分なのです。
6 私たちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物〔聖霊の賜物(筆者挿入)〕を持っています。預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、7 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に、教える人は教えに、8 勧める人は勧めに専念しなさい。分け与える人は惜しみなく分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。”(聖書協会共同訳)とあります。
新生したキリスト者に与えられる聖霊の賜物は、一人ひとり異なるのです。
自分に与えられた賜物によって主に仕えれば、お仕えし易いだろうと私は思います。
キリスト者は、全員がキリストの証人ですが、そのあり方は、個々人で異なって良いのだと私は思います。
とはいえ、新生したキリスト者ならば、誰でも自分の救いの証しをすることはできるでしょう。証しの後に、「イエス・キリストは罪{創造主なる神から離れて生きてきたことは罪です(創世記1章、出エジプト20:3、ヨハネ16:9、コロサイ1:16)}と死(ローマ6:23a)からの救い主です(ヨハネ11:25.26、1コリント15:54-57)。十字架につけられ死んで葬られ3日目に復活されたイエス・キリストを信じる者は救われるのですよ。(ローマ10:9.10)」という内容を伝えることができたら、それは伝道しているのです(1コリント15:1-4)。
相手の人が信じるのか、信じないのか、それは福音を聞いた人に選択の主権があるのです。
福音を伝えることは難しい、と考えるキリスト者もいますが、そのような人は、自分の証しをして、「私はイエス様を信じたら救われたんだ」と言うだけでも良いと思うのです。そのあとのことは神様にお任せして(1コリント12:3)。
<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私たちキリスト者が、それぞれ証しをすることができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
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コメント
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調子が悪くなったり、サタンから攻撃をされた時(この最近、多く感じるのは信仰の弱さでしょうか?、と思うほどですが…)などは、他者と比較してしまったり、身の丈に合わない事をしようとしてしまいます。そうすると、神様から遠ざかるという事を体験します。頭ではわかっているのですけれども…といった感じで。
常に、どんな時でも主を見続けてゆく事ができますよう祈り求めます。
また、細かなところをすみません。
5節からでしたが、表題は6節からとなっていました。
ヨハネ20章、18節と19節の間に斜線が入っていました。
投稿: mitiko | 2024年4月18日 (木) 08時41分
訂正すべき個所を教えてくださり感謝します。
投稿: トミー | 2024年4月18日 (木) 09時57分