1コリント

2024年10月13日 (日)

1コリント11章

 1コリント11章は、
1節は、使徒に倣う者となりなさい
4-16節は、礼拝における頭の被り物について
17-34節は、主の晩餐についての教え
が記されています。 

②礼拝における頭の被り物について(4-15
当時のコリントの町の娼婦の方々は、帽子をかぶっていませんでした。
以下週報の巻頭言を参照

ポイントは「他の人に、躓(つまづ)きを与えないように」ということです。
日本では、被(かぶ)り物を付けなくても人につまづきを与えることはありませんから、被り物を付ける必要はありません。

①パウロは人につまづきを与えないように極力注意していました。1コリント8章を参照してください。特に13節です。パウロは福音のために全力を注いでいました。そして、パウロは言いました。「私はキリストを見倣っている」と。

 1節の「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。」というパウロの言葉ですが、私の場合は、パウロと同じ言葉をとても言えないと者です。
私の場合は、「私を見ないでキリストを見てください。キリストを見るためには新約聖書を読んでください。」としか言えません。

 パウロは1節のみことばのように語りましたが、コリント人への手紙が記されたときには、まだ新約聖書ができていませんでした。
新約聖書ができた後は、「キリストに倣う」「キリストの心を心とせよ」(ピリピ25・文語訳)という方向へと移行していったと思います。 

17-34節は、主の晩餐を、主を覚え、兄姉を愛して、秩序正しく行いなさい、という内容が記されています。

 1127には“・・・ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。”(新改訳初版~第三版)と記されています。
「ふさわしくないままで」と訳されているギリシア語原語は「アナキオース」で、不敬に、不敬な態度で、心をくばることをせずに、・・等の意があります。
27
節の後半部分の聖句を考えると、「ふさわしくないままで」という個所は、キリストの十字架、キリストの贖い、等を理解し感謝することなしに、という意になると思います。
ですから「キリストの贖いを理解し、感謝することをせずに、パンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。」ということになるでしょう。
御言葉を基に考えると、「キリストの贖いは、自分のためであった。」ということを体験し、感謝できる人が、聖餐を正しく受けれるのでしょう。

 また1125には「食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」と記されています。

「わたしの血による新しい契約」と主イエス様は語られました(ルカ2220も参照)。
「新しい契約」=「新約」です。モーセ律法は「旧契約」=「旧約」です(出エジプト201-248、申命記271-291,10-15)。

 聖餐式は「飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」と記されています。十字架上の主イエス様の血によって、贖いが為され、私たちの罪が赦されたのですから、私たちは、「聖餐式の時に、主に感謝し、主を賛美することでしょう。」

イエス様は「わたしの血による新しい契約」と語られました。
すなわち、新契約(新約)です。
聖餐式の時には、

ⓐ旧約(古い革袋=律法を守ることによって救われる)から新約(新しい革袋=イエス様を信じることによって救われる)へと、移ったことを確認し、感謝することができます。
私たちは律法を完全に行うことなど誰も出来ないのですから。
また聖餐式の時には、
ⓑ主の十字架によって罪赦されたことへの感謝と共に、主を賛美をすることができます。
©
また、聖餐式の時に、主が罪を示してくださったならば、その罪をきよめていただく機会ともしていただけます。
1
ヨハネ19には「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」と記されています。

主は「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これ(聖餐式)を行いなさい。」と語られました。

 旧契約(旧約)によって救いを獲得するためにはどのようにしたらよかったのでしょう。
ルカ1025-28に次のような主イエス様のおことばがあります。
“25
 ・・、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
26
 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
27
 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
28
 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」と記されています。

 一方、新契約(新約)の救いは、イエス・キリストの贖罪と贖罪を成し遂げてくださったイエス・キリストを信じることによって得られる救いです。

 リビングバイブル(意訳)の325.24を、更に分かりやすく記すと、
神は、私たちを、ご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト・イエスを遣わし、キリストの血によって、私たちの罪に対する償(つぐな)いをさせ、かつ私たちの信仰を用いられました(25)。私たちはみな、キリストを信じるという、この方法によって救われるのです(24)。となります。

 エペソ28あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。(口語訳)と述べています。

 新契約にプラスして旧約律法を行わなければ救われない、と考える人は救われていないか、もし主の救いにあずかっていたとしても、救いの確信を持つことができなくなります。

 旧約の律法を守って救われることは無理だとわかるとき、新約の恵み、主イエス様の贖いを心から感謝することができるでしょう。
さらに、信仰さえも神様からの贈り物(賜物)であったのですから。
私たちは、聖餐式のたびに、主イエス様を遣わしてくださった御父に感謝を捧げ、贖いを成就してくださったイエス様に感謝を捧げることができるでしょう。

1コリント15:20-28 秩序を重んじられる神/神様の御計画の一部

 「秩序」について広辞苑からその意味のポイントを抜き書きしてみます。
「秩序」とは、“①物事の条理。物事の正しい順序・筋道。次第。②特に、社会などの規則だった関係。”と記されています。
②の「社会」という語を「教会」「礼拝」などと置き換えることも可能でしょう。
 
 1コリント1520—28には主なる神様のご計画の一部が次のように記されています。
20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
21
死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。
22
アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。
23
しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。
24
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。
25
すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。
26
最後の敵として滅ぼされるのは、死です。
27
「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。しかし、万物が従わせられたと言うとき、そこには万物をキリストに従わせた方が含まれていないことは明らかです。
28
そして、万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。”(2017)とあります。

 20-23節には復活の秩序(順序)が記されています。
復活の初穂は、私たちの罪のために十字架にかかられ、死んで葬られ、三日目に復活された主キリスト・イエス様です。
次に復活が起こるのは、キリストの現われの時で、それをキリストの空中再臨とも言います。この時に、すでに天に帰っておられたキリスト者が復活するのです。
 1テサロニケ413-16には、
13 眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。
14
イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。
15
私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。
16
すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、”(2017)と記されています。

 キリストの現れの時に地上にいるキリスト者は、肉の体から霊の体に変えられます。
次の17節に“それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”(2017)と記されているとおりです。

 1コリント1524-26には次のように記されています。
24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。
25
すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。
26
最後の敵として滅ぼされるのは、死です。”とあります。

 この個所は、キリストの地上再臨、及びキリストの地上再臨に伴う人間が人間を支配する時代の終わり(黙示録1911-21、ゼカリヤ121-1415etc.)、及び、
キリストによる千年間の統治とその終末時における裁きと支配の完了(黙示録201-10)、並びに、
最後の審判(白い御座の裁きと)と刑の執行(黙示録2011-15)等が記されています。
最後の審判に伴う神の裁きの中には、陰府と死も滅ぼされる(火の池に投げ込まれる)と記されています(黙示録2014)。

 続く、1コリント1527.28には次のように記されています。
27 「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。しかし、万物が従わせられたと言うとき、そこには万物をキリストに従わせた方が含まれていないことは明らかです。
28
そして、万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。”とあります。

 神は、万物をキリストの下に従わせられました。
そのあと、今の宇宙は消滅させられます(2ペテロ310)。
そして主なる神様は、新天新地を創造なさるのです(黙示録211-5、イザヤ6517)。

 神様と主イエス様は、すべての物事を秩序正しく行っていかれるお方です。
その秩序の中には、御父とみ子の関係のみならず、神と人間、人間同士の関係も含まれます。

 1コリント1433.40には「33 神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。/40 ・・すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい。」(2017)と記されています。

 主イエス様は、御父に対して謙遜でした。
私たちも主イエス様の謙遜な心をいただいて、主にお従いしていきたいと思います{フィリピ(ピリピ)21-8}。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
ピリピ25を文語訳は“汝らキリスト・イエスの心〔ここでは「謙遜な心」の意(筆者挿入)〕を心とせよ。”と訳しています。
あなたの御前に常に謙り、兄姉たちの良きところを学ばせていただきつつ歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2013年2月20日 (水)

1コリント16:19-24 マラナタ(主よ、来てください。)

1コリント16:19-24
“ 16:19 アジヤの諸教会がよろしくと言っています。アクラとプリスカ、また彼らの家の教会が主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。
16:20 すべての兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。
16:21 パウロが、自分の手であいさつを書きます。
16:22 主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。
16:23 主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。
16:24 私の愛は、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべての者とともにあります。アーメン。”

 アクラとプリスカ(プリスキラ)についての記述は、聖書の中に数多くあります。
主に与えられたタラントを十分に使い、使命を全うしたご夫妻であろうと思います。

 新約聖書にある二人についての記載は次の通りです。
“18:1 その後、パウロはアテネを去って、コリントへ行った。
18:2 ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近ごろイタリヤから来ていたのである。パウロはふたりのところに行き、
18:3 自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。”(使徒18:1-3)

“パウロは、なお長らく滞在してから、兄弟たちに別れを告げて、シリヤへ向けて出帆した。プリスキラとアクラも同行した。”(使徒18:18)

“18:24 さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。
18:25 この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。
18:26 彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。”(使徒18:24-26)

アクラとプリスカ、また彼らの家の教会が主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。”(1コリント16:19)

“16:3 キリスト・イエスにあって私[パウロ]の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。
16:4 この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。
16:5 またその家の教会によろしく伝えてください。”(ローマ16:3-5)

“プリスカとアクラによろしく。”(2テモテ4:19)

 Maranatha と Anathema
マラナタは、主よ来てください。
アナセマは、呪い。呪いの行きつくところは地獄です。

 再び主イエスが来られるとき、主イエスを愛している者たちは、驚くべき祝福を体験するのです。

 それとは反対に、主イエスを愛していない者達は、もともと主に結びついていませんが、永遠に主の恵みから締め出されます。それが地獄です。死んだ後は、天国か地獄しかありません。天国は、神から見て罪のない人が行ける所です。

 主イエス・キリストは、私たちを愛して、私たちの罪の為に、罪の刑罰として、十字架の上で血を流して身代わりの死を受けてくださいました。
感謝してキリストを受け入れるとき、罪赦され、永遠の祝福に入ります。
その人は、心から主イエスを愛します。
主を信じる者達の住まいを天に供える準備が終わったら、主は戻って来られるでしょう。(ヨハネ14:1-3)

 主の空中再臨による携挙に間に合わなかった人は、大患難時代に突入します。
この期間は、巨大地震、強烈な天災、ひどい飢饉、戦争、地殻変動さえも起こります。驚くほど多くの人たちが恐怖の内に死にます。
今まで経験したことのない苦難です。(黙示録、マタイ24章)
携挙とは、この地への呪いがもたらされる前にキリストの体である教会を構成している人達を天に引き上げることです。

信じて救いにあずかれるのは、地上にいる間だけです。

日本人は、「知る」という言葉を単に知識として「知る」こととして使いますが、「キリストを知る」とは、キリストと信じる人との間の相互内住です。

単に知識と知っているというだけで、キリストがその人の内に住んで下さっておられなければ、まだ救われておりません。

 今救われたい方の為に、祈りの一例をあげておきます。
救いに与りたい方は、祈ってください。そして、教会に足を運んでください。その場合、聖書的でない教会には行かないでください。間違うと大変なことになります。

<お祈り>
イエス・キリストの父なる神様
今まで、あなたを無視し、時に敵対して生きて来ました。
今、生き方を変えます。
今まで、あなたを無視し敵対して生きてきた大いなる罪を赦してください。
イエス・キリストは、その私の罪の為に十字架にかかってくださったことを感謝します。
私は、今、イエス・キリストを救い主として、主として信じ受け入れます。
私の心の中に入ってください。
これからの私の全生涯を明け渡します。導いてください。
救い主てあられ、主であられるイエス・キリスト様の御名(みな)によってお祈りします。
アーメン。

地獄へは行かないでください。

天国に行ってください。

2013年2月19日 (火)

1コリント16:15-18 麗しい奉仕者

1コリント16:15-18
“16:15 兄弟たちよ。あなたがたに勧めます。ご承知のように、ステパナの家族は、アカヤの初穂であって、聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました。
16:16 あなたがたは、このような人たちに、また、ともに働き、労しているすべての人たちに服従しなさい。
16:17 ステパナとポルトナトとアカイコが来たので、私は喜んでいます。なぜなら、彼らは、あなたがたの足りない分を補ってくれたからです。
16:18 彼らは、私の心をも、あなたがたの心をも安心させてくれました。このような人々の労をねぎらいなさい。”

 使徒の働き18章を読むと、パウロはコリントに1年半腰を据えて、神のことばを教え続けた(18:11)とあります。
ここに長く滞在して福音を語り続けることができたのは、主のはからいの故であったと思います。
パウロは、安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシャ人を承服させようとしました。(18:4)
イエスがキリストであるとユダヤ人達にはっきり宣言したのです。(18:5)
ところがユダヤ人達は、反抗して暴言を吐きました。それに対するパウロの反応をみると、恐らく、この時のユダヤ人たちの表情はただならぬものがあったことでしょう。
パウロは言いました。「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く」と。(18:6)
パウロは、この出来事によって恐れを抱きました。
それは、18:9.10によって分かります。
“ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われた。”とあります。
それでパウロは、この地に1年半留まり、みことばを教えたのです。
その時の初穂即ち、最初に救われたのが、ステパナの家族であったのです。
それ以降、ステパナの家族は、教会で熱心に奉仕し続けていたのです。

 パウロは、ステパナの家族及びステパナの家族とともに奉仕に励んでいる人達に服従しなさい、とコリント教会の人たちに書き送りました。

 自分の欲求の満足の為ではなく、主の為に、主の民の為に熱心に奉仕している人々がコリントの教会にもいたのです。
素晴らしいことです。

 肉の働きによる自己実現のための教会生活ではなく、主を愛し、主に仕えていく教会生活でありたいものだと思います。

<お祈り>
天のお父様
御名を崇めます。
あなたは、律法の土台となっているものは、神を愛し、隣人を愛することだと教えてくださっておられます。
コリントのような問題の多い教会であっても、ステパナの家族のように、神を愛し、神の為に、また聖徒[キリスト者]たちの為に、熱心に奉仕する方々を主が立てられておられますことの故に御名を崇めます。
私をも含めて、すべてのキリスト者が、ステパナの家族のようでありますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン。

2013年2月18日 (月)

1コリント16:13.14 私への勧告

1コリント16:13.14
16:13 目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。[目を覚まし、堅く信仰にたち、雄々しく、かつ剛かれ(文語訳)]
16:14 いっさいのことを愛をもって行いなさい。”

 この箇所は、読めばわかるところです。
しかし、主イエスから、強く大きい声で、「
目を覚ませ。警戒を怠るな。堅く信仰に立て。雄々しく強くあれ」と私の内側から言われたかのような感じがします。

 主は間もなく迎えに来られると私は感じますが、主の来られる時代は、大変な時代です。
主イエス様は言われました。
「多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。」{口語訳(マタイ24:5-7)}

 主イエス様が、終りの時代を告げる一連のものとして教えてくださったこれらのことは、すべて起きました。そして、これからさらに、これらのことがひどくなっていきます。
その上、主の空中再臨によるキリスト者の携挙の後には、これらのことは、驚くほどひどくなります。

 もし携挙に間に合わなかったらどうしよう・・・
と思う方もいるかもしれません。
或いは、そのようなことは非科学的であり、起こるはずもない、と考えているキリスト者もいるかもしれません。マタイ25章にある油を持っていない乙女の喩えのような方々です。
携挙に漏れたら、殉教しようが、飢え死にしようが、666のしるしを右手か額に受けることなく主イエスを信じて突き進むことです。
666のしるしを受けない者達は、ほふられた子羊のいのちの書に、世の初めからその名は書きしるされているのです。(黙示録13:8)
そうすれば、第二の死にあうことはなく、第一の復活に与ります。{聖書参考箇所(黙示録13:5-18、20:4-6)}

 現代は、まさに、「目を覚ませ。警戒を怠るな。堅く信仰に立て。雄々しく強くあれ」という時代です。
主イエス様は、獅子にも喩えられています。
まさに雄々しいのです。
「キリストを着なさい」(ローマ13:14)と命じられている私たちも雄々しくあるべきです。
主のことばは、宇宙が崩壊しても廃れません。(マタイ24:35)
その主のことばを100%信じて歩むのです。

雄々しくても荒っぽいのはいけません。
いっさいのことを愛をもって行うのです。

<お祈り>
天のお父様
素晴らしいお勧めを感謝します。
目を覚まし続け、堅く信仰に立ち続け、雄々しく強く、いっさいのことを愛をもって行う者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。

私が所属している教会のCSの今年のテーマソングは、<雄々しくあれ>だそうです。
子どもたちが、この歌詞を覚えて、この歌詞のように歩めたら、それはそれは素晴らしいですね。

<雄々しくあれ>の歌詞(中田 羽後 作)
1)雄々しくあれ強くあれ 少年達よ
神様はどこにでも共におられる
我らを倒して負かす者は無い
雄々しくあれ 強くあれ 強くあれ

2)雄々しくあれ強くあれ 少年達よ
神様の御教えを守り行い
右にも曲がらず 左にもそれず
ただまっすぐ進むのだ 進むのだ

3)雄々しくあれ強くあれ 少年達よ
神様の誓われた約束の地は
正しい信仰だ きよい行いだ 
行け これらをとるまでは とるまでは

2013年2月17日 (日)

1コリント16:10-12 主の働き人を大切に

1コリント16:10-12
“16:10 テモテがそちらへ行ったら、あなたがたのところで心配なく過ごせるよう心を配ってください。彼も、私と同じように、主のみわざに励んでいるからです。
16:11 だれも彼を軽んじてはいけません。彼を平安のうちに送り出して、私のところに来させてください。私は、彼が兄弟たちとともに来るのを待ち望んでいます。
16:12 兄弟アポロのことですが、兄弟たちといっしょにあなたがたのところへ行くように、私は強く彼に勧めました。しかし、彼は今、そちらへ行こうとは全然思っていません。しかし、機会があれば行くでしょう。”

 テモテは、このときまだ若かったと思われます。
この手紙が書かれた時代は、AD55or56年頃ということです。
パウロがテモテにあてたテモテ第一の手紙は、AD63年頃に書かれたと推定されています。
その手紙の中で、パウロは、テモテに対して「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」(1テモテ4:12)といっていますから、若かったのだと思うのです。
また、パウロは、テモテについてピリピ人への手紙で「しかし、私もあなたがたのことを知って励ましを受けたいので、早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。」(ピリピ2:19-22)とも述べています。

 パウロは、主の良き働き人であるテモテをコリント教会に送るにあたって、主を純粋に愛して良い働きをしているけれども、若さのゆえに軽く見られたり、ないがしろにされるのではないかと思い“テモテがそちらへ行ったら、あなたがたのところで心配なく過ごせるよう心を配ってください。彼も、私と同じように、主のみわざに励んでいるからです。だれも彼を軽んじてはいけません。彼を平安のうちに送り出して、私のところに来させてください。”と書いたことと思います。

 主イエス様が教えられた法則の中に、“わたし(イエス・キリスト)の弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」”(マタイ10:42)というのがあります。

 コリント教会には、伝道者アポロを慕っている者達もいました。(1コリント3:4-6)
パウロは、その人たちのことも配慮して、アポロにもコリントへ行ってほしいとアポロに願いましたがアポロは、それに対して、行く意思がないということでした。
パウロがこのようにしたことで、コリントの教会の人たちは、パウロはアポロに対して悪感情を抱いていることはないのだと思ってもらえたことでしょう。
このとき、アポロも行って、パウロとは、主に在って仲良くやっているということを伝えたらもっと良かったことと思います。

 主にある[in Christ]兄弟姉妹が、互いに敬愛して生活できたら主は喜ばれるでしょう。
みことばに次のようにあるからです。
“2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。”(ピリピ2:3-5)

“あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。”(ヨハネ15:17)

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
主が立てられた働き人を敬愛することができますように。
働き人が喜んで働けるような環境作りを心がけることができますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン。

2013年2月16日 (土)

1コリント16:5-9 自分の計画と主の御心

1コリント16:5-9
“16:5 私は、マケドニヤを通って後、あなたがたのところへ行きます。マケドニヤを通るつもりでいますから。
16:6 そして、たぶんあなたがたのところに滞在するでしょう。冬を越すことになるかもしれません。それは、どこに行くとしても、あなたがたに送っていただこうと思うからです。
16:7 私は、いま旅の途中に、あなたがたの顔を見たいと思っているのではありません。主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。
16:8 しかし、五旬節まではエペソに滞在するつもりです。
16:9 というのは、働きのための広い門が私のために開かれており、反対者も大ぜいいるからです。”

 計画と主の御心
8節から、コリント第一の手紙はエペソにおいて書かれたことが分かります。
パウロは、自分なりの宣教計画をを持っていましたが、それ以上に、主の導きを優先しました。
神様が、パウロにして欲しいということをしていくことがパウロの思いでした。
自分の思いではなく、神様の御旨を第一としていくことは、パウロにとって自然なことでした。

 使徒の働き16:6-8に“それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。それでムシヤを通って、トロアスに下った。”という記載があります。

 ヤコブは、私たち信徒にも“聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」”(ヤコブ4:13‐15)と語っています。

ヤコブ4:15を口語訳では、“むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。”と訳しています。

箴言19:21には、“人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。”とあります。

主の御旨にかなわない祈りを祈り続けることは、むなしいことを覚えます。
いつも、御霊の導きによって祈りたいものです。

 働きの門が開かれていることと反対者
福音を語ることができて、みことばが広まってゆくところでは、反対者も多く起こされるのは、自然の成り行きです。
霊の世界では、福音を広めさせまいとして、サタン一族は、日夜奮闘しているのですから。
もし信じる人が起こされたら、次は、信じた人の信仰を無きものにしようとしたり、それがかなわなければ、信仰に混ぜ物をして、正しい道からそらしていこうとしたり、福音を語ろうとすると圧迫を加えたりと、色々なことをしてきます。
反対者の中には、主を求める人も起こされます。
私は、そのような者でした。
反対もせず、ただ聞き流して求めもしないという人達に対する福音宣教は、実りがないように思えます。
しかし、反対者からは迫害を受けるかもしれません。
パウロは、多くの迫害により危害を受けました。
さすがのパウロも、福音を語ることを恐れてしまったことがあったことが使徒の働きに書かれています。
その時の、主イエス様のおことばは、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」(使徒18:9.10)というものでした。

パウロも恐れたのですね。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めて賛美します。
いつも主の導きを捉えることができますように。
御霊の導きに従って祈り、御霊の導きに従って計画し、行動していけますように。
私は弱いものです。
主が強めてくださいますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン。

2013年2月15日 (金)

1コリント16:1-4 献金と礼拝日

1コリント16:1-4
“16:1 さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。
16:2 私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。
16:3 私がそちらに行ったとき、あなたがたの承認を得た人々に手紙を持たせて派遣し、あなたがたの献金をエルサレムに届けさせましょう。
16:4 しかし、もし私も行くほうがよければ、彼らは、私といっしょに行くことになるでしょう。”

 1節の<献金>と訳されている語は、(ギ)λογία ロギアで、集金、募金の意です。
ルカ21:1-4に書かれている、献金を通しての主イエス様の見方についての教えの中にある献金の語は、(ギ)δῶρον ドーロンです。
献金とは、神様へ捧げるものです。
新共同訳では、1節の献金という箇所を募金と訳しています。
献金を神様を介さないで、人に直接贈るのはおかしいと思います。
神様にささげられたものを神様の指令により人に贈るという形で集められたものは、献金の扱いになると思います。
神様抜きで、寄付を行う為に集めるのであれば、募金と訳したら良いと思います。

この箇所を献金と訳すのが良いのか、募金と訳すのが良いのか、私の考えですが、2節に週の初めの日、即ち礼拝のときに集めなさい、とありますから、礼拝行為の中で捧げられたものを、主に示されて、エルサレム(3)の聖徒たち(1)に届けるということですから、献金と訳してよいのではないかと思います。
恐らく、エルサレムの聖徒たちの生活がひっ迫していたのでしょう。

この行為については、ガラテヤ人への手紙6:10のみことばを思い起こします。
“・・・私たちは、・・・・特に信仰の家族の人たちに善をおこないましょう。”とあります。

 2節に、<いつも週の初めの日に>という表現があります。
これは、初代教会の時代にすでに、主イエス様のご復活を記念して日曜日に礼拝がもたれていたのだろうと思われます。
日々の生活の中で主を礼拝しながら歩むことは自然なことですが、特に、信仰者が一堂に集まって主を礼拝するのが日曜日になっていたことがここから分かります。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
あなたに感謝し、心からのものをおささげしていく者であらせてください。
地上にある地域教会も、主にささげられたものを主の御旨に従って用いていくことができますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。

2013年2月14日 (木)

1コリント15:58 恵みに応答した健全な歩み

1コリント15:58
“ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。”

 <ですから>
今まで述べてきた恵みをもとに、勧めを行います。
特に、朽ちゆく現在の肉の体から、やがて、キリストの空中再臨のときに永遠に朽ちることのない霊の体を与えられるのですから

 私たちの霊は、キリストを信じた時に新しく生まれさせて頂きました。
その私の霊の中に神である御霊が住んで下さっておられるのです。
これだけでも、それはそれはすごいことです。
生きていてわたし[イエス・キリスト]を信じる者は、決して死ぬことがありません。」とイエス様が言われたことが起こったのですから。
この新生された霊が、現在は、古い朽ちていく肉の体の中に閉じ込められているのです。
霊は新しいのですが、肉体と魂は古いままなのです。
魂は、現在、健全な歩みをしていれば、主の血潮とみことばと信仰によってきよめ続けられていっています。また、そのような歩みをするように勧められています。
即ち、思い、感情、意思の分野におけるきよめです。そこがきよめられると、肉体の用い方も聖別されます。
しかし、やがて、全くきよく朽ちることのない霊の体に変えられるのです。
その時には、「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」と言われた主イエス様のみことばが、完全に成就するのです。
黙示録19:8には、“花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。”とあります。
キリスト者は、どのような環境に置かれても、揺るがされない希望が与えられているのです。

 <堅く立って、動かされることなく>
コリントの教会の人たちもガラテヤの教会の人たちも、堅く立つことができずにグラグラしていました。
主イエス・キリストの上に
真理の上に
堅く立つことが大切であるとパウロは語ります。

サタンは、何とかして、キリスト者を真理からそれさせようと努力しています。
真理の道を歩み続けることは、結構大変なことなのだと思います。
また、真理を見出すことも大変なことです。
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13.14)と主イエス様が語られたくらいですから。

 狭い真理の道を歩み続けるためには、サタンやその配下のものとの戦いもあります。
パウロは、エペソ6:10-18で次のように勧めています。
“6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです[簡略に言うと、私たちの相手は人間ではなく、サタンとその配下の悪しき霊たちであるということ。]。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。”

 <主のわざに励みなさい>
とても真面目な人の中には、主のわざに励んでいるのに燃え尽きてしまう、という場合もあるかもしれません。それは、どこかがおかしいのかもしれません。
主からの供給をいつも受けていないと、燃え尽きてしまうことでしょう。
また、主のわざと思って行っていることが、実は、主がその人に望んでおられることではないという場合もあるかもしれません。

個々人に、主は、なすべきことを与えてくださっておられることと思います。
それを正しく受け取り、主の霊の中でことを行っていく必要があるのだと思います。
自力では燃え尽きます。

ローマ人への手紙12:11.12もこの節と同じようなことを述べています。
“勤勉で怠らず、霊に燃え[fervent in spirit]、主に仕えなさい。
望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。”と。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
揺るぐことのない復活の望みを与えてくださっておられますことを感謝します。
主イエス様がご復活なさったように、私たちも新しく変えて頂けますことを感謝します。
この地上にあっては、主にあって強められて[to be strong in the Lord]励んでいくことができますよう祝福してください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン。

2013年2月13日 (水)

1コリント15:50-57 朽ちないものに変えられる

1コリント15:50-57
“15:50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。
15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。”

 全能の神、愛の神を信じている人にとってはただ読むだけで理解できる分かりやすい文章であると思います。
しかし、全能の神を信じていない人にとっては、この箇所は荒唐無稽であり、甚だ馬鹿らしく、聞いていられない、読んでいられないというものでしょう。

 私たちの現在の肉体は、生まれた時から、ひたすら死に向かってカウントダウンされていきます。そして、あるとき、人間の体としての働きを止めるのです。

それに対して、朽ちない体は、永遠です。

朽ちない体は、最後のラッパと関係があります。

 最後のラッパとは何でしょうか?
いくつかの解釈がありますが、私は次のように考えています。
ある人は、最後のラッパであるから、黙示録の第7のラッパだと考えていますが、私は違います。
最後のラッパの最後は、教会時代の最後を現わしているラッパということではないでしょうか。
このラッパが鳴り渡る中、愛する主イエス様が、天から教会を迎えに来ます。
この出来事によって、地上から教会[キリスト者の集合体]が取り去られるのです。(教会堂やキリストに認められていない自称クリスチャンは残されます。新生された霊の内にキリストの御霊を持っている人達の体が変えられて天に移されるのです。)
最後のラッパが吹かれたとき、地上にいるキリスト者に先だって、すでに、キリストを信じていたけれども肉体が死んでしまった人達に朽ちない体が与えられるのです。

キリスト者の永遠性を有する本体は、キリストを信じた時に生まれさせて頂いた霊です。

この霊が着ている朽ちる地上の体を、朽ちない霊の体に変えて頂けるときなのです。

 しかし、キリスト者が取り去られるということは、キリスト者の内におられる光である神の霊が取り去られることですから、闇であるサタンが思う存分支配できるようになるのです。
如何なる世界になることでしょうか。
恐ろしいことです。

<関連聖句>
“4:13 眠った[霊は生きているけれども肉体の死んだ]人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”(1テサロニケ4:13-17)

“2:1 さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られること[キリストの空中再臨]と、私たちが主のみもとに集められること[携挙]に関して、あなたがたにお願いすることがあります。
2:2 霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。
2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教[(ギ)ἀποστασίαアポスタシア:背教と訳されていますが、もともとは、アポスタシアには、離れるという意があるということです。そこから、初代教会の時代には、ここを背教として読んでいたのではなく、地上におけるキリスト者の立場を離れて天に移されるという携挙と読みこんでいたのではないかという説もあります。地上を離れて天に行くということです。]が起こり、不法の人[反キリスト、にせキリスト、世界の総統、黙示録に登場する第一の獣]、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日[神の裁きの日]は来ないからです。
2:4 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮[これから建てられるエルサレムのユダヤ教の第3神殿]の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。[この時から3年半後にキリストの地上再臨があり、それに続いてキリストの千年王国が始まります。]
2:5 私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。
2:6 あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現れるようにと、いま引き止めているもの[聖霊]があるのです。
2:7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者[キリスト者達の内におられる聖霊]があって、自分が取り除かれる時[携挙]まで引き止めているのです。
2:8 その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。
2:9 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、
2:10 また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
2:11 それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
2:12 それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。
2:13 しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。
2:14 ですから神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださったのです。”(2テサロニケ2:1-14)

“5:1 私たちの住まいである地上の幕屋[肉体]がこわれても、神の下さる建物[永遠に朽ちない体]があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
5:2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
5:3 それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
5:4 確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
5:5 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。
5:6 そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。
5:7 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。
5:8 私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて[私の霊が朽ちるこの世の肉体を離れて]、主のみもとにいるほうがよいと思っています。
5:9 そういうわけで、肉体の中に[霊が肉体の中に]あろうと、肉体を離れて[霊が肉体を離れて]いようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。”(2コリント5:1-9)

“1:13 私[私の本体である私の霊]が地上の幕屋[朽ちゆく体]にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。
1:14 それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋[体]を脱ぎ捨てる[他者から見たら死ぬこと]のが間近に迫っているのを知っているからです。”(2ペテロ1:13.14)

ステパノの殉教のシーン
“7:54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。
7:55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
7:58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた[霊はキリストのもとへ行き肉体は死んだ]。”(使徒7:54-60)  聖句中の[   ]内は筆者挿入

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇め感謝します。
あなたの絶大なる愛と全能なる御力の故にあなたの御名をほめたたえます。
主イエス様が、迎えに来て下さる時を楽しみに待ちながら日々を過ごさせて頂けますことを感謝します。
キリストの御名によって。アーメン。

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