1コリント11章
1コリント11章は、
①1節は、使徒に倣う者となりなさい
②4-16節は、礼拝における頭の被り物について
③17-34節は、主の晩餐についての教え
が記されています。
②礼拝における頭の被り物について(4-15)
当時のコリントの町の娼婦の方々は、帽子をかぶっていませんでした。
以下週報の巻頭言を参照
ポイントは「他の人に、躓(つまづ)きを与えないように」ということです。
日本では、被(かぶ)り物を付けなくても人につまづきを与えることはありませんから、被り物を付ける必要はありません。
①パウロは人につまづきを与えないように極力注意していました。1コリント8章を参照してください。特に13節です。パウロは福音のために全力を注いでいました。そして、パウロは言いました。「私はキリストを見倣っている」と。
1節の「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。」というパウロの言葉ですが、私の場合は、パウロと同じ言葉をとても言えないと者です。
私の場合は、「私を見ないでキリストを見てください。キリストを見るためには新約聖書を読んでください。」としか言えません。
パウロは1節のみことばのように語りましたが、コリント人への手紙が記されたときには、まだ新約聖書ができていませんでした。
新約聖書ができた後は、「キリストに倣う」「キリストの心を心とせよ」(ピリピ2:5・文語訳)という方向へと移行していったと思います。
③17-34節は、主の晩餐を、主を覚え、兄姉を愛して、秩序正しく行いなさい、という内容が記されています。
11:27には“・・・ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。”(新改訳初版~第三版)と記されています。
「ふさわしくないままで」と訳されているギリシア語原語は「アナキオース」で、不敬に、不敬な態度で、心をくばることをせずに、・・等の意があります。
27節の後半部分の聖句を考えると、「ふさわしくないままで」という個所は、キリストの十字架、キリストの贖い、等を理解し感謝することなしに、という意になると思います。
ですから「キリストの贖いを理解し、感謝することをせずに、パンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。」ということになるでしょう。
御言葉を基に考えると、「キリストの贖いは、自分のためであった。」ということを体験し、感謝できる人が、聖餐を正しく受けれるのでしょう。
また11:25には「食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」と記されています。
「わたしの血による新しい契約」と主イエス様は語られました(ルカ22:20も参照)。
「新しい契約」=「新約」です。モーセ律法は「旧契約」=「旧約」です(出エジプト20:1-24:8、申命記27:1-29:1,10-15)。
聖餐式は「飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」と記されています。十字架上の主イエス様の血によって、贖いが為され、私たちの罪が赦されたのですから、私たちは、「聖餐式の時に、主に感謝し、主を賛美することでしょう。」
イエス様は「わたしの血による新しい契約」と語られました。
すなわち、新契約(新約)です。
聖餐式の時には、
ⓐ旧約(古い革袋=律法を守ることによって救われる)から新約(新しい革袋=イエス様を信じることによって救われる)へと、移ったことを確認し、感謝することができます。
私たちは律法を完全に行うことなど誰も出来ないのですから。
また聖餐式の時には、
ⓑ主の十字架によって罪赦されたことへの感謝と共に、主を賛美をすることができます。
©また、聖餐式の時に、主が罪を示してくださったならば、その罪をきよめていただく機会ともしていただけます。
1ヨハネ1:9には「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」と記されています。
主は「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これ(聖餐式)を行いなさい。」と語られました。
旧契約(旧約)によって救いを獲得するためにはどのようにしたらよかったのでしょう。
ルカ10:25-28に次のような主イエス様のおことばがあります。
“25 ・・、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」”と記されています。
一方、新契約(新約)の救いは、イエス・キリストの贖罪と贖罪を成し遂げてくださったイエス・キリストを信じることによって得られる救いです。
リビングバイブル(意訳)の3:25.24を、更に分かりやすく記すと、
“神は、私たちを、ご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト・イエスを遣わし、キリストの血によって、私たちの罪に対する償(つぐな)いをさせ、かつ私たちの信仰を用いられました(25)。私たちはみな、キリストを信じるという、この方法によって救われるのです(24)。”となります。
エペソ2:8は“あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。”(口語訳)と述べています。
新契約にプラスして旧約律法を行わなければ救われない、と考える人は救われていないか、もし主の救いにあずかっていたとしても、救いの確信を持つことができなくなります。
旧約の律法を守って救われることは無理だとわかるとき、新約の恵み、主イエス様の贖いを心から感謝することができるでしょう。
さらに、信仰さえも神様からの贈り物(賜物)であったのですから。
私たちは、聖餐式のたびに、主イエス様を遣わしてくださった御父に感謝を捧げ、贖いを成就してくださったイエス様に感謝を捧げることができるでしょう。