ガラテヤ2:15-20 信仰と律法と善行の関係
聖書は新改訳2017を使用させていただいています。
ガラテヤ2:15には、“私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、「異邦人のような罪人」ではありません。”と記されています。
パウロは、ユダヤ人は「異邦人のような罪人」ではありません、と述べています。
まずはこの言葉を考えてみます。
当時のユダヤ人は、ヤハウェというまことの神が天地万物を創造したと信じていました。
ユダヤ人は、ヤハウェこそ唯一のまことの神、と信じていますが、ヤハウェこそ唯一のまことの神、と信じている異邦人は一体どの位いるのでしょう。聖書がいう異邦人とはユダヤ人以外の人です。
ガラテヤ2:16には、“しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。”と記されています。
ユダヤ人も異邦人も、神様から、「あなたを正しい人だと認めます」と言っていただくためには、すなわち「義と認められる」ためには、イエス・キリストを信じることが必要なのです、と記されています。
どうしてなのでしょう。
律法とは、神様がイスラエルに与えてくださった法律です。
その法律の根底はどのようなものでしょう。
主イエス様は、次のように教えてくださいました。
対神的には、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(マタイ22:37)ということと、
対人的には、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(マタイ22:39)ということです。
律法によって義と認められるように生きることの出来る人はいるのでしょうか。
歴史上、律法を全うできた人は、神が人となられたイエス・キリスト様しかいなかったのです。
マタイ22:37の「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と記されている聖句のもとの聖句は、申命記6:5にあります。
その箇所は、「あなたは心(レーバーブ)のすべてor全体で、そしてネフェシュ、すなわち命or魂のすべてで、そして熱情(メオードゥ)のすべてをもって、あなたの神、ヤハウェを愛しなさい。」と直訳できます。
このように歩める人はまずいないでしょう。
ですから律法を守ることは不可能なのです。
使徒2章に記されているペンテコステの日以前に、ユダヤ人の中で、イエス・キリストが神であると悟れた人はほとんどいませんでした。
ユダヤ人にとって、聖書といえば、私たちが旧約聖書と認識しているものです。
旧約聖書に精通すれば、神は唯一である、と記されていながら、神に位格があるということを悟ることができるのです。
創世記1:1の“はじめに神が天と地を創造された。”という個所の「神」は「エロヒーム」で、複数形です。
ゼカリヤ12:1とゼカリヤ12:10を読むと、ヤハウェがイエス・キリストであることが分かります。
神様は本質において唯一ですが、位格においては三位の方です。
新約聖書のマタイ28:19には「父と子と聖霊の名において」という個所が出てきます。
ここに出てくる「名」は単数形です。
マタイ28:19の聖句だけでも神が三位一体であることが分かります。
ペンテコステまでに、イエス・キリストが神であると悟らせていただけたユダヤ人は本当にわずかでした。
ペテロは主イエス様が十字架にかかられる以前に、父なる神様からの恵みによって「イエスが神の子キリストです」と告白できたのです(マタイ16:13-17)。
ユダヤ人がイエス様を十字架につけた理由の一つは、イエス様が、ご自分を神の子であると認めたことです(マタイ26:63-66)。
皮肉なことに、キリストの十字架処刑を執行していたローマの百人隊長や部下の幾人かは、十字架上のキリストのことばと様々な事象を見て「この方は本当に神の子であった。」と言ったのです(マタイ27:54)。
主イエス様は、十字架にかかられる前夜に、「その方〔聖霊(筆者挿入)〕が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」(ヨハネ16:8.9)と教えられました。
ユダヤ人は、異邦人のような罪人ではありません、と記されていましたが、ユダヤ人がイエス(イェシュア)をキリスト(メシア)と信じなかったこと、イエスが神であると信じなかったことが罪であったのです。
パウロは、ガラテヤ2:16-20で次のように述べました。
「16 しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって〔別訳「イエス・キリストの真実によって」(欄外注)〕義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。
17 しかし、もし、私たちがキリストにあって義と認められようとすることで、私たち自身も「罪人」であることになるのなら、キリストは罪に仕える者なのですか。決してそんなことはありません。
18 もし自分が打ち壊したものを再び建てるなら、私は自分が違反者であると証明することになるのです。
19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。
20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰に〔神の子の真実に(聖書協会共同訳)〕よるのです。」と記しています。
16節の本文と欄外注を見てください。
それを参考にして考察してみると、私たちは、キリストの真実のゆえに、キリストを信じることによって、救われた、ということが分かります。
20節も16節と同様に「神の子の真実によるものです」と逐語訳では訳せます。
20節を聖書協会共同訳は「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。」と訳しています。
キリスト者は、キリストの真実によって、そしてキリストを信じることによって義と認められた人たちです。
人は善行によって義と認められることは出来ません。
これからはうそをつかないようにしよう、うわさ話や陰口を言わないようにしよう、自分のすべてをもって神様を愛そう、自分と同じように隣人を愛そう、などと考えても、出来ないのです。
イエス・キリストを信じる信仰も恵みです。
すなわち神様が与えてくださるものです。
心から救われたいと願っている人に、イエス・キリストを信じる信仰が与えられるのです。
「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)と記されているように。
このところまでの「救い」に関することを、エペソ2:4-9は次のように記しています。
「4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。
6 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。
7 それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。
8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」と。
キリスト者は、救われたらそれでおしまい、もう十分、というわけではありません。
へブル6:1には「ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。」と記され、
エペソ2:10には「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」と記されています。
またコロサイ1:10には「また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。」というパウロのとりなしの祈りが記されています。
とはいえ「何が何でも頑張らなくては」、と思わなくても良いのです。
ユダ20節には「愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。」と記されています。
どのようにして善行の実を結ぶのでしょうか。
それはいつも主に心を向けることによるのです。
2コリント3:17.18には「17 主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。18 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」と記され、
へブル12:2には「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」と記されています。
なお2コリント3:17.18をギリシア語聖書に記されているように訳すと、「御霊」と訳されている個所は「霊」となります。
口語訳は「17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」と訳しています。
エペソ2:10によると、主は良い行いをも備えてくださったと記されています。
クリスチャンでなければ行えない善い行いとは何でしょうか。
人格的に立派な人はクリスチャンでなくてもたくさんいます。
クリスチャンでなければ行えない善い行いを少しリストアップします。
①礼拝や祈り、神様との交わり。
②伝道
③兄姉を愛すること。ヨハネ13:34に「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と記されています。
愛とは何かについての概要は1コリント13:4-7に記されています。
④教会の奉仕
⑤その他多数の主に在る行為があります。
教会内でのご奉仕やキリスト者同士の交わりは、人と人の間に心の葛藤を起こす場合もあります。
しかし主は、これをキリスト者一人一人の霊的成長につなげたい、と思っていることと思います。
クリスチャンは、天国でキリストの裁きの座に立たされます。
キリストの裁きの座は、クリスチャンに報酬を与えるためのものです。おもに用意された善き行いを行ってきましたか?と問われる場です。
1タラント与えられた人は1タラント、2タラント与えられた人は2タラント、5タラント与えられた人は5タラントの働きをすれば、主イエス様は「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたには~をあげよう。」と言われるのです。詳しくは2コリント5:10とマタイ25:14-30に記されています。
<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
今日は、律法を行うことによって救いに至ることが無理であるということ、
救われるためには、イエス・キリストを信じる信仰が必要であること、
救われた後には、いつもイエス様から目を離さず、聖霊に導かれ、助けられつつ神様の御旨の内を歩ませていただくことの大切さを教えて頂きました。
いつもイエス様と共に歩ませていただけますように。
あなたの御名を崇め感謝して私たちの主キリスト・イエス様の御名でお祈りいたします。アーメン。