祈り無しに福音は語れない
<私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。>(コロサイ4:4)
パウロなら、他の兄弟姉妹の執り成しの祈りを必要とすることなく、当然語るべき語り方で語れるのではないかと思ってしまいますが、神様の働きに関することはそうはいかないのですね。皆さん、私のためにも祈ってください。
今日は、タッチパネルで入力しましたので、文章が短くなりました。
<私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。>(コロサイ4:4)
パウロなら、他の兄弟姉妹の執り成しの祈りを必要とすることなく、当然語るべき語り方で語れるのではないかと思ってしまいますが、神様の働きに関することはそうはいかないのですね。皆さん、私のためにも祈ってください。
今日は、タッチパネルで入力しましたので、文章が短くなりました。
<主人たちよ。あなたがたは、自分たちの主も天におられることを知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。>(コロサイ4:1-4)
<主人たちよ。あなたがたは、自分たちの主も天におられることを知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。>:主人と奴隷の記載は、現代日本では、雇用主と被雇用者、或いは、上司と部下と言ったところでしょうか。
<目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。>:私は、このみことばにふれると、出来ていないなーと胸が重くなります。また、パウロのような使徒であっても背後の祈りを必要としていたことを教えられます。
<神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。>:みことばを語ることに関しても、主が閉じられていたら前には進めないことを覚えます。パウロは、自由にみことばをのべ伝えたかったのかもしれませんが、主の深いお考えに基づき牢に入れられてました。しかし、牢に入れられていた間に、聖霊の導きによって書かれた、エペソ・ピリピ・コロサイの各手紙は、何と奥深く尊いものであったことでしょうか。2000年近くたった今まで光を放ち続け多くの兄弟姉妹方に豊かな霊的恵みを与え続けています。このようなことを知らなければ、私などは、牢に入れられることは不幸なこと、外で自由にできることは幸いなことと思ってしまいますが、それは浅はかなことであることをこれらのことからも教えられます。使徒ヨハネも、パトモスという島に島流しにあっていたときに主の導きで黙示録を書きました。人の考えと神の考えには隔たりがありますね。
<ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。>(ローマ11:33-36)
<妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。不正を行う者は、自分が行った不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません。>(コロサイ3:18-25)
これは、キリスト者に対する手紙ですから、それを前提に読む必要があるのだと思います。これを未信者の人に当てはめても無理があります。特にゴシック体にしたところは、当てはまらないのですから。
ここの箇所は、読むだけで十分理解できるところですね。
お勧めを戴いている内容は、キリスト者といえどもなかなかできにくいところなのだと思います。妻は夫に従えない。夫は、妻に辛く当ってしまいやすい。子供には、がみがみ言って、子供に恐怖心を抱かせるだけで結果が思わしくない。仕事は、ついつい手抜きをしてしまう等々。
しかし、「主のお言葉ですから」とみことばに従える報酬を主は用意して下さっておられます。感謝。
さらに一歩進んで、主のお勧めのような思い行動をとれるように変えてくださる主により一層感謝。となりたいと思います。
<妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。>(コロサイ3:18)
「とてもとても従いたくありません。」「夫は妻に従うべきです。」などという声が聞こえてきそうです。「模範的な素晴らしい夫なら従ってもいいですよ。」という妻もいるかもしれません。
多くのキリスト者は、主に従順に従う方だと思います。そのような方々は、夫がどのようであれ、主が従いなさい、と言われるので、主の御旨に照らしつつ夫に従っていく、と答えるかもしれません。
話は変わって、夫婦とは何でしょうか?
イエス様は、(マタイ19:4-6)で「「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。」
といっています。
人間の夫婦は、どうやら性的関係を結んだ相手のようですね。
イサクは結婚式を挙げませんでした。しかし、肉体的関係を持って夫婦となりました。勿論、イサクもリベカも主の導きを信じていたように見受けられます。
<しもべは自分がしてきたことを残らずイサクに告げた。イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。>(創世記24:66.67)
どうやら、二人が結ばれて一つになった状態が結婚のようです。
キリスト者は、キリストを信じた時に、霊において、キリストと結ばれます。(1コリント6:17)に<主と交われば、一つ霊となるのです。>とあります。
地上において、キリスト者は、キリストの花嫁です。故に、キリストを愛し、愛をもってキリストに従うのです。
やがて、時至って、キリスト者は、栄光の体を与えられます。その時には、天において盛大なキリストと教会(キリストの花嫁)との結婚式がもたれます。(黙示録19:6-9)
<また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」御使いは私に「小羊(キリスト)の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。>(黙示録19:6-9)
昨日の続きです。
私の敬愛する一人の兄弟(Br S.)がいます。その兄弟は、「・・・・イエス・キリストの御名の中で祈ります。」と祈ります。
私は、信仰を持ってから、いつも「イエス・キリストの御名によって」or「イエス・キリストの御名を通して」と祈ってきました。あるとき、Br Sの祈りに心を合わせていたとき、兄弟が「・・・イエス・キリストの御名の中で祈ります。」と祈りました。それは私の心の中に留まりました。
さて、
昨日は、言葉においても、行動においても「主イエス・キリストの御名の中で」をテーマに書きましたが、祈りも同じであると思います。
“And whatever you do in word or deed, do all in the name of the Lord Jesus, giving thanks to God the Father through Him.”{(NKJV)コロサイ3:17}
使徒ヨハネの残したみことばをみてみます。
<何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。>(1ヨハネ5:14)
“Now this is the confidence that we have in Him, that if we ask anything according to His will, He hears us.”{1ヨハネ5:14(NKJV)}
<あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。>(ヨハネ14:14)
“If you ask anything in My name, I will do it.”{ヨハネ14:14(NKJV)}
<マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」>(ヨハネ11:21.22)
祈りは、イエス・キリストの御名の中で祈ることが重要だと教えられます。
<あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。>(コロサイ3:17)
“And whatever you do in word or deed, do all in the name of the Lord Jesus, giving thanks to God the Father through Him.”(NKJV)
キリスト者が発する言葉、書くことば、キリスト者の行いは、do all in the name of the Lord Jesus(すべてにおいて主イエス・キリストの御名の中で行いなさい)。
と書いてあるのですね。
常に主の内にあっていきることを求められているのですね。それとともに恵みによってその備えをも主はして下さいました。
与えられた恵みを無駄にしないで、主のみこころの内を歩んでいきたいと再度思わせられました。
<キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。>{口語訳(コロサイ3:16)}
“ Let the word of Christ dwell in you richly in all wisdom, teaching and admonishing one another in psalms and hymns and spiritual songs, singing with grace in your hearts to the Lord.”(NKJV)
1節の中に多くのことがかkれていますので、箇条書きにしてみます。
①キリストのことばを私たちの内に豊かに宿らせること。
みことばリッチになりなさい、というのですね。
みことばを暗記して蓄えることも素晴らしいですけれど、主イエス様が折々に語ってくださったみことばをたくさん持っていたら、それはとてもリッチなことだと思います。
お金や物の豊かさrichnessではなく、みことばの豊かさ。
②知恵を尽くして:知恵の性質について(ヤコブ3:13-17) には<あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。 しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。>とあります。ここでの知恵を尽くしてというのは、上からの知恵ですね。
③互いに教え:キリスト者同士互いに教えあうということですね。教える人と教えられる人がちょくちょく入れ替わるのです。お互いに主の前に謙遜にされていないと問題を生じそうですね。
④互いに訓戒し:これも③と同じように謙遜にされていることが必須ですね。
<モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。>(民数紀12:3)というみことばを思い浮かべます。
⑤詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。
みことばリッチ・・・いいですね。
訓戒してくださる人がいるのもいいですね。自分自身のことは、自分では気づかないことが多々ありますからね。
ただし謙遜でない人には訓戒しない方が良い場合が多いかも。
<キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。>{新改訳(コロサイ3:15)}
“And let the peace of God rule in your hearts, to the which also ye are called in
one body;and be ye thankful . ”(KJV)
新改訳・口語訳・新共同訳が「キリストの平和」と翻訳しているところをKJVでは「神の平和」と翻訳しています。詳しく調べてないので確かなことは分かりませんがギリシャ語聖書の底本の違いかもしれません。
<また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。>(新共同訳)
< キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。>(口語訳)
<キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい>:キリストの平和が私たちの心を支配する、なんと素晴らしいことでしょうか。しかし、支配するようにしなさい、とありますから、自動的にキリストの平和が私たちの心を支配してくれるわけではなさそうです。
キリスト者はすでに「神との平和は持っています」(ローマ5:1)。しかし、この箇所では、私たち(複数形)の心をキリストの平和が支配されるように、ということですから、キリスト者の間にキリストの平和が支配する必要があるのだと思います。<あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。>というみことばからもそのように思います。キリストの御霊による一致がないと難しいことだと思います。
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)と主イエスさまは言われましたが、キリスト者一人一人が、このキリストの平安を持たないと、真の意味でのキリスト者間の平和は難しいのかなと思います。
主のみこころの内を歩み、主に信頼して主に委ねきった歩みをしているとき、平安が支配することを覚えます。
<また、感謝の心を持つ人になりなさい。>“and be ye thankful”このみことばの成就は、自己実現を目指す人にとっては難しいと思われます。主の按配を心から受け入れ、何が起こっても、どのような環境に置かれても主に信頼し、主に委ねていく生き方でないと、すべてに感謝するということはできないことと思われます。
私はこれを書きながら、自分自身がどの程度主に信頼しているだろうか、と考えさせられます。
「主よ。あなたに全き信頼をおいて歩むことができますように。」
<こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。 私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです。あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。>(コロサイ3:1-14)
コロサイ書の<愛は結びの帯として完全なものです>という箇所までの勧めを読んでいると、「あなたがたは、」とか「私たちは」などのように複数になっています。
あなたは、私は、という単数ではありません。あなただけ・・・・となりなさい。と言っているのではなく、キリストの体(教会)を構成している一人一人がみな・・・・となりなさい。と言っているように私には思えます。
複数で表しているのは、全員が整えられることによって、キリストの体(教会)が、キリストの体としてふさわしくなるということであろうと思います。
キリストの体は、一人一人のキリスト者の集合でありますから、正に、愛は結びの帯として完全な働きをすることと思います。
<愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。>(1コリント13:4-7)
このコリント書にあるような生き方をしたら、確かにキリストの体は、キリスト者一人一人によってふさわしい統一体となるのでしょうね。
神は愛です(1ヨハネ4:8)とありますが、その神の御霊が、私たち一人一人の内から輝き出ないと実現は難しいように思います。輝き出るためには、立場上の聖のみではく、実質的な聖さの成就が必要になることを覚えます。主は、その備えもして下さいましたから感謝です。
<そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。>(コロサイ3:14)
私がキリストに出会う前は、自分は結構愛があると思っていました。
キリストに出会って、自分の内に愛があると思ったことは、100%間違いであることが分かりました。
<私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。>(ローマ5:6-8)
キリストは、神の敵であった私の為に、私を救うために、死んでくださいました。まさに、敵の為に、敵を愛して死んでくださいました。
< ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。>(ルカ23:32-39)
キリストは、罪人を救うために十字架に付けられる前に、鞭で打たれて肉は裂け、血を流し、さらに十字架に付けられて死にました。
私たちの罪を身代わりに引き受けて私たちを贖うために。
生まれながらの人間の中には、このような愛はありません。しかし、キリストの全き支配にすべてを委ねるとき、同じような愛を表すことができます。私たちは、それをステパノ(使徒6.7章)から始まって、歴代の多くの殉教者たちに見ることができます。
主ご自身が栄光を表されるのだろうと思います。
内なるキリストが輝き出でて、愛の生涯を送りたいと思いますが、振り返って自分を眺めて見ると、大分違うかなという感じです。私などは、理屈は言えても実質は?という状態ですね。
最初の殉教者ステパノの場合
<しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。>(使徒7:55-60)
ステパノも素晴らしい兄弟であったと思いますが、主が栄光を表されたのではないでしょうか。
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