救い・救われたい方へ

2025年6月17日 (火)

詩篇119:166 救いは恵みと信仰による

 詩篇119166を、
聖書協会共同訳は、“主よ、私はあなたの救いを望み、あなたの戒めに従います。”と訳し、
2017
は、“主よ、私はあなたの救いを待ち望んでいます。私はあなたの仰せを行っています。”と訳し、
リビングバイブルは、“主よ。私は救いを待ち望み、あなたの命令を守ってきました。”と訳しています。

 これを書いた詩聖は素晴らしい人だなー、と思います。
人は、この生き方によって罪と死から救われるでしょうか?
人は、生まれながらに罪の性質を持っています。
ですから、完全に律法に従うことなどはできません。
自分は律法を守れている、と自己評価する人は、律法の根底or真意を知らずに語っているのです。
とはいえ、今日の聖句のような歩みをしている人で、他者を罪定めしない人は、とても素晴らしいと思います。

 イエス様が地上におられた時代のこと、すばらしい人がいました。
その人は、その人なりに、十戒を守っていたのです。
 マタイ19章に次のような話が記されています。
16 すると、一人の人がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
17
 イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、私に尋ねるのか。善い方はおひとりである。命に入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
18
 彼が「どの戒めですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、
19
 父と母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
20
 この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
21
 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」
22
 青年はこの言葉を聞き、悩みつつ立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 16節の冒頭に、「すると」という単語があります。
この青年がこの質問をする前に、主イエス様は、どのような話をしたのでしょうか?
 マタイ1913-15には次のように記されています。
13 その時、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
14
 しかし、イエスは言われた。「子どもたちをそのままにしておきなさい。私のところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
15
 そして、子どもたちに手を置いてから、そこを立ち去られた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様を信じ、主イエス様の下に来て、「祝福してください」「わたしを救ってください」と心から願う者を、主はそのようにしてくださるのです。

 人を死に至らしめたのは罪です。(創世記3章)
ローマ623aには「罪の報酬は死です。」(2017)と記されています。
人は、自分の罪を自分で処理し、自分の力で永遠の命を獲得することは出来ません。
ローマ623bには、「神の賜物〔贈りもの(筆者挿入)〕は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(2017)と記されています。
罪と死に対処し、永遠の命を与えてくださるのは神様なのです。
神様は、愛なる神ですが、義なる神でもあります。
それ故、罪を罰することなく、罪あるものを罪なしとすることは出来ないのです。
罪は裁かれて、死刑の罰を受ける必要があるというのが、神様の法則です。
それ故、神のひとり子の御子は、人の肉をまとって地上に現れ、その肉においてすべての人の罪を身代わりに負って、十字架上で死んでくださったのです。
神様は、肉におけるキリストの死を、自分のためであると信じる者を赦し、救われたのです。キリストは死んで葬られましたが、3日目に復活されました。キリストの復活も、罪赦されたもののためだ、と信じた人は新生させていただいたのです。
新生させていただいた霊は永遠の命を持っています。
魂も救われ新しくされました。
肉体はキリストの空中再臨の時に、永遠に死なない霊の体が与えられます。
救いをもたらすことの出来るお方は「主なる神様」なのです。

 関連聖句を下記します。
22 「この方〔キリスト(筆者挿入)〕は罪を犯さず、その口には偽りがなかった。」
23
 罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。
24
 そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです
25
 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり監督者である方のもとへ立ち帰ったのです。”(1ペトロ2章・聖書協会共同訳)

“神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。”(ローマ832017

“この方〔キリスト(筆者挿入)〕こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥め(なだめ)のささげ物です。”(1ヨハネ222017

21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。

22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。

23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです

25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。

26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。

28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。

29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。

30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです

:31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。(ローマ3章・新共同訳)

“主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。”(ローマ4252017

“神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。”(1ペテロ132017

8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。
9
 それは、あなたがたが信仰の目標である魂の救いを得ているからです。(1ペトロ1章・聖書協会共同訳)”

“だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。”(2コリント517・口語訳)

52 終わりのラッパ〔キリストの空中再臨の時の終わりのラッパ(筆者挿入)〕の響きとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴り響くと、死者は朽ちない者に復活し、私たちは変えられます。
53
 この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬべきものは死なないもの〔霊の体(筆者挿入)〕を必ず着ることになるからです。”(1コリント15章・聖書協会共同訳)

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様、贖いを感謝します。
聖霊様、私がイエス・キリスト様を主と信じさせていただけた恵みを感謝します。
父、子、聖霊なる神様に栄光がとこしえにありますように。
ハレルヤ!
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2025年5月21日 (水)

コヘレト7:29 神に悪口を浴びせる人もいるが、神は正しいお方です

 コヘレト729を、
聖書協会共同訳は、“ただし、見よ、これを私は見いだした。神は人間をまっすぐに造ったのに、人間はさまざまな策略を練ろうとするのだ。”と訳し、
2017
は、“私が見出した次のことだけに目を留めよ。神は人を真っ直ぐな者に造られたが、人は多くの理屈を探し求めたということだ。”と訳し、
リビングバイブルは、“さらに、次のことも知りました。神は人を正しいものに造ったのに、人々は堕落の道に向かって行ったということです。”と訳しています。

 「見いだす」(聖書協会共同訳、2017)、「知る」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「マーツァー」で、やってくる、現れる、存在する、到達する、獲得する、見つける、発見する、得る、・・・等の意があります。

 「まっすぐに」(聖書協会共同訳)、「真っ直ぐな者」(2017)、「正しいもの」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ヤーシャール」で、真っ直ぐ、正しい、・・等の意があります。

 「策略」(聖書協会共同訳)、「理屈」(2017)、「堕落の道」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ヒッサーボーン」で、考案、仕掛け、計略、陰謀、悪だくみ、発明、捏造、・・等の意があります。

 未信者の中には、キリスト教は「罪」「罪」というけれど、神が人に罪を犯すように造ったのでしょ、などと言う人がいます。

 今日の聖句は、神は人を、正しい者、真っ直ぐな者、神に対して従順に生きれる者、として造られた、と記されています。

 また人は、神のかたちにつくられました。
創世記126.27には、“神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。”(2017)と記されています。

 人は、神に似たものとして、自由意思をも与えられたのです。

 最初の人アダムが、一人でいる間は、罪を犯しませんでした。
創造主である神様に対して、真っ直ぐな者、従順な者でありました。
しかしアダムは、自分を愛するように愛せる者エバが自分の前に現れたとき、一時、神様よりも自分の前に現れたエバを愛したのです。
そして神のご命令を捨てて、エバの言葉を優先したのです。
その結果アダムは堕罪しました。すなわち神様の御命令に従わなかったのです。

 関連聖句を下記します。
創世記126.27は、すでに記載してあります。
 創世記2章には、
7 神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。/
15
 神である主は、エデンの園に人を連れて来て、そこに住まわせた。そこを耕し、守るためであった。
16
 神である主は、人に命じられた。「園のどの木からでも取って食べなさい。17 ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる。」/
18
 また、神である主は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう。」/
21
 そこで、神である主は人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、そのあばら骨の一つを取り、そこを肉で閉ざされた。
22
 神である主は、人から取ったあばら骨で女を造り上げ、人のところへ連れて来られた。
23
 人は言った。「これこそ、私の骨の骨、肉の肉。これを女と名付けよう。これは男から取られたからである。」
24
 こういうわけで、男は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。
25
 人とその妻は二人とも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった。”(聖書協会共同訳)と記されています。
 創世記3章には、
1 神である主が造られたあらゆる野の獣の中で、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「神は本当に、園のどの木からも取って食べてはいけないと言ったのか。」
2
 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べることはできます。3 ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと、神は言われたのです。」
4
 蛇は女に言った。「いや、決して死ぬことはない。5 それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ。」
6
 女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた。彼女は実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えた。そこで彼も食べた。
7
 すると二人の目が開かれ、自分たちが裸であることを知った。彼らはいちじくの葉をつづり合わせ、腰に巻くものを作った。
8
 その日、風の吹く頃、彼らは、神である主が園の中を歩き回る音を聞いた。そこで人とその妻は、神である主の顔を避け、園の木の間に身を隠した。
9
 神である主は人に声をかけて言われた。「どこにいるのか。」
10
 彼は答えた。「私はあなたの足音を園で耳にしました。私は裸なので、怖くなり、身を隠したのです。」
11
 神は言われた。「裸であることを誰があなたに告げたのか。取って食べてはいけないと命じておいた木から食べたのか。」
12
 人は答えた。「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、その妻が木から取ってくれたので私は食べたのです。」
13
 神である主は女に言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたのです。それで私は食べたのです。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 その後、アダムの罪の性質を受け継いだアダムの子孫たちは、教えられなくても罪を犯して歩むようになったのです。罪からくる報酬は死でした。
ローマ512には、“一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 しかし神のひとり子の御子は、私たち罪人を救うために、私たちのすべての罪をその身に負って、罪の罰を十字架上で受けてくださり、血による贖いを成し遂げられたのです。
1
ペトロ(ペテロ)2章には、
22 「この方〔御子イエス・キリスト(筆者挿入)〕は罪を犯さず、その口には偽りがなかった。」
23
 罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。
24
 そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あな たがたは癒やされたのです。
25
 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり監督者である方のもとへ立ち帰ったのです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 ローマ623には、“罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。”(聖書協会共同訳)と記されています。
 またローマ8章には、
28 神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。
29
 神は前もって知っておられた者たちを、御子のかたちに似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くのきょうだいの中で長子となられるためです。
30
 神はあらかじめ定めた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とした者に栄光をお与えになったのです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 この箇所をリビングバイブルは次のように意訳しています。
28 私たちは、神を愛し神のご計画のうちを歩んでいる人のためには、その身に起こることはすべて、神が益としてくださることを知っているのです。
29
というのは、神はあらかじめ、ご自分のもとに来る人を知っていて、そのような人々がご自分の御子と同じになるように、最初から定めておられたからです。それは、御子イエスを多くの主を信じる者たちの長子とするためでした。
30
神はあらかじめ選んだ人々を招き、そして、彼らの罪を赦し、義(正しい者)と認められた人々には、さらに、栄光を与えると約束してくださいました。”とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは正しいお方です。
常にあなたを崇め、あなたにより頼み、あなたを愛して歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。

2025年5月10日 (土)

コヘレト7:20 義人はいない、一人もいない。しかし主イエス様は救い主。

 コヘレト720を、
聖書協会共同訳は、“地上には、罪を犯さずに善のみを行う正しき者はいない。”と訳し、
2017
は、“この地上に、正しい人は一人もいない。善を行い、罪に陥ることのない人は。”と訳し、
リビングバイブルは、“この世界には、いつも品行方正で一度も罪を犯さない人など一人もいません。”と訳しています。

 ダビデの詩篇の中の、詩篇14篇に今日の聖句が次のように出てきます。
1 指揮者によって。ダビデの詩。
愚か者は心の中で言う。「神などいない」と。彼らは堕落し、忌むべきことをした。善を行う者はいない。
2
 主は天から人の子らを見下ろし、神を求める悟りある者はいないかと探られる。
3
 すべての者が神を離れ、ことごとく腐り果てた。善を行う者はいない。一人もいない。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 ダビデの詩篇の中の、詩篇143篇にも今日の聖句の主旨を次のように述べています。
1 賛歌。ダビデの詩。主よ、私の祈りを聞いてください。嘆き願う声に耳を傾けてください。あなたの真実、あなたの義によって私に答えてください。
2
 あなたの僕を裁きにかけないでください。生ける者の中であなたの前に正しい者はいないからです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 今日の聖句をダビデの子のソロモンは、神殿奉献の祈りの中で用いています。
1
列王記844-50には次のように記されています。
44 あなたの民が敵に向かって出陣し、あなたが遣わされる道において、あなたが選ばれたこの都と、私が御名のために建てたこの神殿の方角に向かって 主に祈るなら、45 あなたは天でその祈りと願いを聞き、その訴えに答えてください。
46
 罪を犯さない者は一人もいませんから、人々はあなたに罪を犯し、あなたは怒ってその人たちを敵の手に渡されるでしょう。人々は敵の捕虜として遠く、あるいは近くの敵地へ連れて行かれるでしょう。
47
 しかし、捕らわれの地で人々が本心に立ち帰り、すなわち、その捕らわれの地であなたに立ち帰り、憐れみを乞い、『私たちは罪を犯し、過ちを犯し、悪を行いました』と言い、
48
 捕らえられた敵の地で、心を尽くし、魂を尽くしてあなたに立ち帰り、あなたが先祖に与えられた地と、あなたが選ばれた都と、あなたの名のために私が建てたこの神殿の方角に向かって祈るなら、49 あなたは住まいである天でその祈りと願いを聞き、その訴えに答えてください。
50
 あなたに罪を犯した民と、民があなたに背いて犯したあらゆる過ちを赦してください。彼らを捕らえた者たちの前で民を憐れみ、捕らえた者たちが民を憐れむようにしてください。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ソロモンの祈りから、人は生まれながらの罪人であり、罪を認識したときに、主なる神様に立ち返れば、主なる神様は赦してくださることを学べます。
罪の本質は、主なる神様に対する不従順です。

 私の場合、幼児の頃を思い浮かべても、主なる神様を知らなかったことを確信できます。
創造主なるまことの神様を唯一の神と認識していなかったのですから、まさしく罪の中に生まれてきた者、それが私です。
すなわち神様と断絶して生きてきたわけです。これでは、まことの神様に対して従順に生きるといっても、その土台さえないのです。
その後も、進化論を信じ、詩篇141に“愚か者は心の中で言う。「神などいない」と。彼らは堕落し、忌むべきことをした。善を行う者はいない。”と記されている者に該当するものでした。
進化論を信じているのに、正月には偶像礼拝をしているのです。
おかしな話ですが、矛盾を感じないというほどに愚かな状態でした。
様々な紆余曲折がありましたが、イエス様を信じて救われたのです。
その後、「罪とは、イエスを信じないことです。」(ヨハネ169)と語られた主イエス様のみことばを重く受け止めました。

 箴言209には“だれが、「私は自分の心を清めた。私は罪から離れ、きよくなった」と言えるだろうか。”(2017)と記されています。

 清くなりたいと思っても自力で聖くなれる人は一人もいない、と記されています。
私は、きよめの理論を学び、論理的には理解しました。
しかしいざ、日常生活において、聖く歩もうとするときに、肝心な基本的理論からはずれて、自力で聖く歩もうとして失敗するのです。
 しかし1ペトロ(ペテロ)115.16には、
15 あなたがたを召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のあらゆる面で聖なる者となりなさい。16 「聖なる者となりなさい。私が聖なる者だからである」と書いてあるからです。”と記されているのです。
そこで、また頑張ってみるのです。
しかし失敗します。
 15節の「なりなさい」という個所は、ギリシア語聖書では、受動態であったのです。
すなわち自力ではなく、他の個所の聖句と共に合わせ読むと、御霊によって聖く歩むようにされなさい、ということであったのです。

 救いの御業もきよめの御業も栄化(霊の体に変えられること)の御業もすべて、神様の恵みです。
「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11362017)という心境になります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたの恵みの内に生かされていますことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2025年5月 5日 (月)

詩篇119:155 救いに遠い人/キリストを求め、信じる人は救われる

 詩篇119155を、
聖書協会共同訳は、“悪しき者には救いは遠い。あなたの掟を求めないからです。”と訳し、
2017
は、“救いは悪しき者から遠く離れています。彼らがあなたのおきてを求めないからです。”と訳し、
リビングバイブルは、“あなたのおきてを気にも留めない悪者どもは、救いから遠ざかります。”と訳しています。

 「悪しき者」(聖書協会共同訳、2017)、「悪者」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ラーシャー」です。

 「救い」と訳されている語のヘブライ語原語は「イェシューアー」です。

 「おきて」と訳されている語のヘブライ語原語は「ホーク」です。

 「求める」(聖書協会共同訳、2017)と訳されている語のヘブライ語原語は「ダーラシュ」で、歩く、歩む、ついて行く、求める、従う、礼拝する、・・等の意があります。

 イエス・キリストの福音、いやそれどころか、律法が与えられる以前から福音はありました。
それは、黙示録146.7に、“また私は、もう一人の御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は地に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、言語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。彼は大声で言った。「神を恐れよ。神に栄光を帰せよ。神のさばきの時が来たからだ。天と地と海と水の源を創造した方を礼拝せよ。」”(2017)と記されています。

 創造主である神様を、畏れ敬い、礼拝し、すべての栄光を神に帰する、ということが永遠の福音です。
ノア、ヨブ、アブラハムなどは、律法が与えられる以前の人でしたが、創造主なる神を畏れ敬い、神を礼拝していた人たちであったと思います。

 創造主なる神様を畏れ敬わない人に対しても、神様は救いの御手を延ばされますが、それは何時までもそうであるということではありません。

ローマ1章には、人間の罪と神様の対応が次のように記されています。
18 不義によって真理を妨げる人間のあらゆる不敬虔と不義に対して、神は天から怒りを現されます。
19
 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らには明らかだからです。神がそれを示されたのです。
20
 神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです。したがって、彼らには弁解の余地がありません。
21
 なぜなら、彼らは神を知りながら、神として崇めることも感謝することもせず、かえって、空しい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。
22
 自分では知恵ある者と称しながら愚かになり、23 不滅の神の栄光を、滅ぶべき人間や鳥や獣や地を這うものなどに似せた像と取り替えたのです。
24
 そこで神は、彼らが心の欲望によって汚れるに任せられ、こうして、彼らは互いにその体を辱めるようになりました。
25
 神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられる方です、アーメン。
26
 それで、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられました。女は自然な関係を自然に反するものに替え、
27
 同じく男も、女との自然な関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。
28
 彼らは神を知っていることに価値があると思わなかったので、神は、彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。
29
 あらゆる不正、邪悪、貪欲、悪意に満ち、妬み、殺意、争い、欺き、邪念に溢れ、陰口を叩き、30 悪口を言い、神を憎み、傲慢になり、思い上がり、見栄を張り、悪事をたくらみ、親に逆らい、31 無分別、身勝手、薄情、無慈悲になったのです。
32
 彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自らそれを行うばかりか、それを行う者を是認さえしています。”(聖書協会共同訳)とあります。

 いつまでも悔い改めることをせず、創造主なる神様をまことの神とは思わず、神を無視し、あるいは神に敵対する人たちに対して、神様は、その人たちの心の欲望のなすがままにさせられました。

 キリストの十字架と復活以後からキリストの空中再臨までの間は、恵みの時代です。
キリストを求めれば救われるのです。

 ヨハネ316には、“神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”(2017)と記されています。

 主イエス様は「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ772017)と言われました。
またローマ623には“罪の報酬は死です。しかし神の賜物〔贈り物(筆者挿入)〕は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
願わくは、すべての人がキリスト・イエス様を信じて永遠の命を与えられますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2025年3月27日 (木)

コヘレト7:1-4 生きる苦しみ、老いる苦しみ、病気の苦しみ、死の苦しみについて考える

 コヘレト71-4には次のように記されています。
1 名声は良質の香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる。
2
 弔いの家に行くのは酒宴の家に行くにまさる。そこには、すべての人間の終わりがある。生きる者はそれを心に留めよ。
3
 悩みは笑いにまさる。顔が曇っても、心は晴れるのだから。
4
 知恵ある者の心は弔いの家に、愚かな者の心は喜びの家にある。”(聖書協会共同訳)とあります。

 仏教に四苦というのがあります。「生老病死」という苦しみです。
生まれてくることは苦しみだというのです。それは生きることに伴う苦しみです。

 老いることも苦しみです。人によって、老いを感じる年齢は異なるでしょうが、肉体が老いるということの大変さは、その状態にならないと良くは分からないでしょう。
私が若い頃は、老化で苦しむ人に、老化が引き起こされる理由や、慰めの言葉を与えても効果は薄かったです。そして中には「先生も年を取れば分かります。」と言われたこともありましたけれど、今では老人に、「年を取ると大変ですよね。私もそうですよ。」と具体例をあげれば、皆納得します。中にはホッとして涙ぐむ人もいるのです。

 第二次世界大戦以降、医薬学は長足の進歩を遂げてきました。20世紀以前には直せなかった病気のうちの相当数を治せるようになりました。しかし今でも治せない病気は数多く存在します。
病気から抜け出せない人、致死的な病に侵されている人は、苦しみますし、その病人を愛している人も苦しみます。

 誰でも死を避けて通ることは出来ません。
唯物論は、死に対してあきらめの境地をもたらしてくれますが、それは浅知恵です。聖書を読んだことのある人はご存知だと思いますが、神様は人に永遠を思う思いを与えられたからです。人には魂があり、魂を滅ぼすことの出来るお方はまことの神様しかいません。

四苦から抜け出す方法について、仏教と聖書の教えの間には大きな違いがあります。
私はキリストにたどり着く前に、仏教の本を色々と読みました。それによって一時の平安を得ましたが永続する平安は得られず、私はそこに記されている解決法で満足することができませんでした。

 仏教の本には、万物の創造主が、聖書の神であるということが記されていないので、神ヤハウェから出発することができません。
それ故、聖書が教えてくれる、すなわち神ヤハウェが教えてくださる真理にたどり着けないのです。これは支配している霊の違いでしょう。
コロサイ28には“あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。”(2017)と記されています。

 1節後半部分には“死ぬ日は生まれる日にまさる。”と記されています。
本当に、死ぬ日が生まれる日にまさる人は、キリストを信じて永遠の命を与えられている人です。
キリスト者にとって、死ぬ日は天での生活の始まる初日です。その日から天国生活が始まるのです。
パウロは次のように語りました。「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。」(ピリピ123抜粋・2017)と。

 黙示録21章には、天の都エルサレムの情景が次のように少し記されています。
10 天使は、霊に満たされた私〔使徒ヨハネ(筆者挿入)〕を大きな高い山へ連れて行った。そして、聖なる都エルサレムが神のもとを出て、神の栄光のうちに天から降って来るのを私に見せた。
11
 都は神の栄光に輝いていた。その輝きは最も高価な宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。
12
 都には高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。
13
 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
14
 都の城壁には十二の土台があり、そこには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。
15
 私に語りかけた天使は、都と門と城壁を測るために、金の物差しを持っていた。
16
 この都は四角形で、長さと幅が同じであった。天使が物差しで都を測ると、一万二千スタディオン〔2200㎞(リビングバイブル)〕あった。長さも幅も高さも同じ〔立方体(筆者挿入)〕である。
17
 また、城壁を測ると、百四十四ペキス〔65m(リビングバイブル)〕であった。これは人間の尺度であって、天使が用いたのもこれである。
18
 都の城壁は碧玉で築かれ、都は混じりけのないガラスのような純金でできていた。
19
 都の城壁の土台は、あらゆる宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、20 第五は赤縞めのう、第六はカーネリアン、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
21
 また、十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠でできていた。そして、都の大通りは、混じりけのないガラスのような純金であった。
22
 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが神殿だからである。
23
 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。25 ・・。そこには夜がない・・。”(聖書協会共同訳)とあります。

 「死」とは分離、を意味します。
霊の死は、創造主である神様との分離です。
肉体の死は、肉体と魂の分離です。
魂の死は、永遠に神様と分離することを意味します。

 キリスト者でも地上において様々な苦しみに遭います。
しかし、それはキリスト者にとって有益なのです。
ローマ828には“神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる・・。”(口語訳)と記され、
 詩篇11971には“苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。”(2017)と記され、
 ヘブライ(へブル)125-11には次のように記されています。
5 ・・・。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主によって懲らしめられても弱り果ててはならない。
6
 主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
7
 あなたがたは鍛錬として耐え忍びなさい。神は、あなたがたを子として扱っておられるのです。一体、父から鍛えられない子があるでしょうか。
8
 誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、あなたがたは庶子〔私生児(口語訳・新改訳)〕であって、実の子ではありません。
9
 さらに、私たちには、鍛えてくれる肉の父がいて、その父を敬っていました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
10
 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私たちの益のために、ご自分の聖性〔聖さ(口語訳・新改訳)〕にあずからせようとして、鍛えてくださるのです。
11
 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後には、それによって鍛え上げられた人々に、平安な義の実を結ばせるのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ペトロ(ペテロ)は信徒に次のように語りました。
3 主イエスは、ご自身の神としての力によって、命と敬虔とに関わるすべてのものを、私たちに与えてくださいました。それは、私たちをご自身の栄光と力ある顕現とで召された方を、私たちが知ることによるのです。
4
 この栄光と力ある顕現によって、私たちには尊く大いなる約束が与えられています。それは、あなたがたがこの約束によって、世の欲にまみれた腐敗を免れ、神の本性にあずかる者となるためです。
5
 こういうわけで、あなたがたは力を尽くして、信仰には徳を、徳には知識を、6 知識には節制を、節制には忍耐を、忍耐には敬虔を、7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
8
 これらのものが備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、怠惰な者、実を結ばない者とはならず、私たちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。”(2ペトロ1章・聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私たちが経験する様々な苦しみは、主に在っては無駄に終わることがなく、益をもたらしてくださいますから感謝します。
どのような場合にも、主に心を留め、みことばに生かされて、歩ませていただけますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名でお祈りいたします。アーメン。

2025年3月23日 (日)

コヘレト6:10-12 人と神様の能力の違い

 コヘレト610-12を、
聖書協会共同訳は、
10 すでに存在するものは名前で呼ばれる。人間とは何者なのかも知られている。人は自分より強い者を訴えることはできない。
11
 言葉が増せば、空しさも増す。それが人にとって何の益になるのか。
12
 空である短い人生の日々に、人にとって何が幸せかを誰が知るのだろう。人はその人生を影のように過ごす。その後何が起こるかを、太陽の下、誰も人に告げることができない。”と訳し、
 2017は、
10 存在するようになったものは、すでにその名がつけられ、それが人間であることも知られている。その人は、自分より力のある者と言い争うことはできない。
11
多く語れば、それだけ空しさを増す。それは、人にとって何の益になるだろうか。
12
だれが知るだろうか。影のように過ごす、空しい人生において、何が人のために良いことなのかを。だれが人に告げることができるだろうか。その人の後に、日の下で何が起こるかを。”と訳しています。

 10節前半部分には「すでに存在するものは名前で呼ばれる。」(聖書協会共同訳)と記されています。
コヘレト6章全体は人間について記されているので、「存在するもの」というのも人間を指して言っているのでしょう。
文語訳は「在し者」と訳しています。

 10節中間部分には「人間とは何者なのかも知られている。」(聖書協会共同訳)と記されています。
人とは何者なのでしょう。
 創世記1章には、“26 神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
27
 神は人を自分のかたちに創造された。神のかたち〔「かたち」と訳されたヘブライ語は「ツェレム」で、shade,figure,image,etc.の意がありますがKJV,NIVimageと訳しています(筆者挿入)〕にこれを創造し、男と女に創造された。
28
 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。」
29
 神は言われた。「私は全地の面にある、種をつけるあらゆる草と、種をつけて実がなるあらゆる木を、あなたがたに与えた。それはあなたがたの食物となる。」”(聖書協会共同訳)と記され、
 創世記27には“神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者〔「生きるたましい」とも訳せます(筆者挿入)〕となった。”(聖書協会共同訳)と記され、
 詩篇8篇には、
5 人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは。
6
 あなたは人間を、神に僅かに劣る者とされ、栄光と誉れの冠を授け、7 御手の業を治めさせ、あらゆるものをその足元に置かれた。”(聖書協会共同訳)と記され、
 詩篇144篇には、“3 主よ、人とは何者なのか、あなたがこれを知るとは。人の子とは何者なのか、あなたがこれを思いやるとは。4 人間は息に似ている。その日々はさながら過ぎゆく影。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 キリストに贖われたキリスト者は、やがてキリストの花嫁として天で婚礼が持たれます(黙示録196-9)。

 10節の最後の部分には「人は自分より強い者を訴えることはできない。」と記されていますが、「訴える」(聖書協会共同訳)、「言い争う」(2017)、「議論する」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ディーン」で、支配する、裁定する、判定する、抗争する、・・等の意があります。
「自分より強い者」とは、ここでは神ヤハウェのことを指しているのではないかと想像します。

 ヨブはさんざん神様と抗争しました。
ヨブに対する神様のおことばは「知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。」(ヨブ3822017)というものでした。
 悟りを開いたヨブの言葉は、「私は取るに足りない者、何を言い返せましょうか。私は自分の口に手を置きます。私は一度語りましたが、もう答えません。二度語りましたが、もう繰り返しません。」(ヨブ404.5・聖書協会共同訳)という答えや、
2 私は知りました。あなたはどのようなこともおできになり、あなたの企てを妨げることはできません。
3
 『知識もないまま主の計画を隠すこの者は誰か。』〔ヤハウェのことば(筆者挿入)〕
そのとおりです。私は悟っていないことを申し述べました。私の知らない驚くべきことを。
4
 『聞け、私が語る。私が尋ねる、あなたは答えよ。』〔ヤハウェのことば(筆者挿入)〕
5
 私は耳であなたのことを聞いていました。しかし今、私の目はあなたを見ました。6 それゆえ、私は自分を退け、塵と灰の上で悔い改めます。」(ヨブ422-6・聖書協会共同訳)というものでした。

 11.12節には、
11 多く語れば、それだけ空しさを増す。それは、人にとって何の益になるだろうか。
12
だれが知るだろうか。影のように過ごす、空しい人生において、何が人のために良いことなのかを。だれが人に告げることができるだろうか。その人の後に、日の下で何が起こるかを。”(聖書協会共同訳)と記されています。
ヨブは以上のようなことを経験してきましたが、神様は、ヨブに次のような啓示を与えたのです。
25 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に塵の上に立たれる。26 私の皮膚がこのように剝ぎ取られた後、私は肉を離れ、神を仰ぎ見る。27 この私が仰ぎ見る。ほかならぬ私のこの目で見る。私のはらわたは私の内で焦がれる。」(ヨブ19章・聖書協会共同訳)と記されています。
ヨブは、贖い主であるイエス、神であるキリストを啓示されたのです。

 キリスト者はなんと幸せなのでしょう。
キリスト者は“3 ・・・。神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福し、4 天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。5 御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです。6 それは、神がその愛する御子によって与えてくださった恵みの栄光を、私たちがほめたたえるためです。”(聖書協会共同訳)と記されていることを知っています。
主を賛美しながら日々歩みたいですね。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたがヨブに「知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。」と言われました。
キリスト教世界を見たとき、特にイスラエルの戦争に関して、霊的真理を知らずに、色々なことを述べる人がいます。
あなたの摂理に反することがありませんように。
あなたの御心がなりますように。

私たちの主キリスト・イエス様の御名でお祈りいたします。アーメン。

2025年3月19日 (水)

コヘレト6:7-9 主を愛し、主に感謝し、主を賛美しながら日々を過ごそう

 コヘレト67-9を、
聖書協会共同訳は、“7 人の労苦はすべて口のためである。だが、それだけでは魂〔別訳「食欲」(欄外注)〕は満たされない。
8
 愚かな者にまさる益が知恵ある者にあるのか。人生の歩み方を知る苦しむ人に、何の益があるか。
9
 目に見えるほうが、欲望が行き過ぎる〔別訳「魂が去りゆく」(欄外注)〕よりもよい。これもまた空であり、風を追うようなことである。”と訳し、
 2017は、“7 人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。
8
知恵のある者は、愚かな者より何がまさっているだろう。人の前でどう生きるかを知っている貧しい人も、何がまさっているだろうか。
9
目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさる。これもまた空しく、風を追うようなものだ。”と訳し、
 リビングバイブルは、“7.8 知恵ある者も愚か者も、食べ物を得るために人生を費やすが、もうこれで十分だということはない。しかし、貧しくても知恵ある人は、ずっと良い生活をしています。
9
手の中の一羽の鳥は、やぶの中の二羽より価値があります。あこがれているものを夢見ているだけであればむなしいことで、風を追いかけるようなものです。”と意訳しています。

 7節には、人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。2017)とあります。

 人の労苦は食べる為だというのです。
「労苦」と訳されている語の原語は「アーマール」で、苦しい仕事、骨折って働く、心配、不安などの意があります。
人が労苦して食を得なければならなくなったのは、人祖アダムが堕罪した故に、主なる神様に呪われたからです。
 創世記317には、「あなた〔アダム(筆者挿入)〕が妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。」(2017)と、主のみことばが記されています。

 このことに関して、主を第一としているキリスト者は幸いです。
主イエス様は「わたしはあなたがたに言います。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」{マタイ629.31-33(抜粋)・2017}と言われました。

 またピリピ419には「・・私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(2017)と記されています。

 これからの世界は、物価高騰、食糧難の方向へと向かっていきます。現在もその様な傾向にありますが、それがもっと進んで行くのです。その原因は、戦争や異常気象が関与しているのです。(マタイ246-8
主を信じた人は、主に信頼し続けて歩みましょう。
“若い獅子も乏しくなり飢える。しかし主を求める者は、良いものに何一つ欠けることがない。”{詩篇3410(新共同訳は11節)・2017}と記されています。

 8節には、知恵のある者は、愚かな者より何がまさっているだろう。人の前でどう生きるかを知っている貧しい人も、何がまさっているだろうか。2017)とあります。

 伝道者の書215には、私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、なぜ、私は並外れて知恵ある者であったのか。」私は心の中で言った。「これもまた空しい」と。2017)とありましたから、8節の箇所は、肉体の死を前にした時のこと、あるいは肉体の死を考えた時のことを述べているのであろうと思います。

 しかしキリスト者は異なります。
キリスト者は、自分の本体が魂と霊であることを知っていることでしょう。
そこでパウロと同じように次のように語ることができます。
1 私たちの地上の住まいである幕屋〔肉体(筆者挿入)〕は壊れても、神から与えられる建物〔霊の体(筆者挿入)〕があることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住まいです。2 私たちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に望みながら、この地上の幕屋〔肉の体(筆者挿入)〕にあって呻いています。3 それ〔霊の体(筆者挿入)〕を着たなら、裸ではないことになります。4 この幕屋〔地上の肉の体(筆者挿入)〕に住む私たち〔私たちの魂(筆者挿入)〕は重荷を負って呻いています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではなく、死ぬべきものが命に呑み込まれてしまうために、天からの住まいを〔霊の体を魂が(筆者挿入)〕上に着たいからです。5 私たちをこのことに適う者としてくださったのは、神です。神は、その保証として霊〔聖霊{エペソ113.14}(筆者挿入)〕を与えてくださったのです。6 それで、私たちはいつも安心しています。」(2コリント5章・聖書協会共同訳)と。

 9節には、目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさる。これもまた空しく、風を追うようなものだ。2017)とあります。
注解付新改訳聖書の注は、ここの解釈について「手に入らないものにあこがれて、心が満たされないでいるよりは、現在与えられているもので満足した方がよい。」と述べています。

 エペソ520には、「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。」(2017)と記されていますが、すべてのことに感謝して歩む人を主は祝福してくださいます。
主に感謝しつつ歩める人は、地上的なもの、物質的なものを見つつも、同時に、霊的なものを常に見続けているのではないかと思います。
エペソ13には「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」(抜粋・2017)と記されていますから。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
いつも主に心を向けながら、主を愛し、主に感謝し、主を賛美しつつ地上生涯を送っていく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名でお祈りいたします。アーメン。

2025年3月15日 (土)

コヘレト6:1-6 主イエス様と共にある人はむなしくはならず、満ちたりることができる

 コヘレト61-6には次のように記されています。
1 太陽の下に、次のような不幸があって、人間を大きく支配しているのをわたしは見た。
2
ある人に神は富、財宝、名誉を与え、この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった。しかし神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかったので、他人がそれを得ることになった。これまた空しく、大いに不幸なことだ。
3
人が百人の子を持ち、長寿を全うしたとする。しかし、長生きしながら、財産に満足もせず、死んで葬儀もしてもらえなかったなら、流産の子の方が好運だとわたしは言おう。
4
その子は空しく生まれ、闇の中に去り、その名は闇に隠される。
5
太陽の光を見ることも知ることもない。しかし、その子の方が安らかだ。
6
たとえ、千年の長寿を二度繰り返したとしても、幸福でなかったなら、何になろう。すべてのものは同じひとつの所に行くのだから。”(新共同訳)とあります。

 1節で、太陽の下に、次のような不幸があって、人間を大きく支配しているのをわたしは見た。(新共同訳)と述べ、コヘレトは幾つかの不幸な例を挙げていきます。

 2節には、ある人に神は富〔原語は「オーシェル」(筆者挿入)〕、財宝〔原語は「ネケス」(筆者挿入)〕、名誉〔原語は「カーボードゥ」(筆者挿入)〕を与え、この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった。
しかし神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかったので、他人がそれを得ることになった。これまた空しく、大いに不幸なことだ。とあります。

 コヘレトとは、講演者、説教者、伝道者、・・等の意です。
コヘレト11には「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。」(新共同訳)と記され、この2節の文とを合わせると、2節は、ソロモン自身のことを述べているのではないかと推測されます。
「神は富、財宝、名誉を与えてくださり、望むところは何ひとつ欠けていなかった。しかし神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかった」というのは、自分自身の証を述べているのでしょう。

 ソロモンは、王になりたての頃、1列王記37-14に記されているような次のような体験をしました。
“7
「わが神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ。今あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべ〔ソロモン(筆者挿入)〕を王とされました。しかし私は小さな子ども〔おそらく19歳の頃のことです(筆者挿入)〕で、出入りする術を知りません。8 そのうえ、しもべは、あなたが選んだあなたの民の中にいます。あまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど大勢の民です。9 善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」
10
これは主のみこころにかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。
11
神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、12 見よ、わたしはあなたが言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに、知恵と判断の心を与える。あなたより前に、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない。13 そのうえ、あなたが願わなかったもの、富と誉れもあなたに与える。あなたが生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者は一人もいない14 また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしの掟と命令を守ってわたしの道に歩むなら、あなたの日々を長くしよう。」2017)とあります。

 ソロモンは、主なる神様から、知恵、富、誉れを頂いたのです。その程度について言えば、あなたが生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者は一人もいない、と言う祝福です。
しかし、ソロモンの富を楽しんだのは、ソロモンの回りにいる人達でした。莫大な遺産は子供が引き継いだのです。

 いくら稼いでも他の人が使ってしまう、というような話を聞くことがあります。しかし、親の金を使いたいだけ使ったからと言って、心に満足を覚えるとは限りません。永続する満足は主と共に生きることにしかないのです。
 ソロモンの父親であるダビデは、「脂肪と髄をふるまわれたかのように私のたましいは満ち足りています。喜びにあふれた唇で私の口はあなたを賛美します。」(詩篇6352017)と賛美していますが、この様に賛美したのは、ダビデが王宮にいたときではなく、ダビデがサウルに追われユダの荒野にいたときであったのです(631)。ダビデは物ではなく、主が共におられたので、ダビデのたましいは満ち足りたのです。

 3-6節には、
“3
人が百人の子を持ち、長寿を全うしたとする。しかし、長生きしながら、財産に満足もせず、死んで葬儀もしてもらえなかったなら、流産の子の方が好運だとわたしは言おう。
4
その子は空しく生まれ、闇の中に去り、その名は闇に隠される。
5
太陽の光を見ることも知ることもない。しかし、その子の方が安らかだ。
6
たとえ、千年の長寿を二度繰り返したとしても、幸福でなかったなら、何になろう。すべてのものは同じひとつの所に行くのだから。(新共同訳)と記されています。

 簡略化して言えば、コヘレトは、大切にされなかったり、人生を楽しむことが出来なかったら、どんなに長生きしたところで、生まれてこない方がましだ、と言っているのでしょう。
旧約時代、多くの子どもが与えられるのは、主の祝福でした(詩篇1273)。長寿も主の祝福でした。しかしコヘレトは、結局は皆陰府に行くのだから、と言うのです。

 キリスト者は本当に幸いです。イエス様を信じたからです。イエス様を信じさせて頂けたからです。
イエス様は、「生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11262017)と語られました。
新生させていただいた霊は死ぬことがないのです。
神のみ前に、死なない、と言うのは、いつも主なる神様と一緒であるということでもあります。キリスト者の霊は陰府にはいきません。
パウロは、「主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。」(1コリント6172017)と述べています。
キリスト者の肉の体が死んでしまっても、主はキリスト者の体を霊のからだによみがえらせてくださいます。
イエス様は、「わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11252017)と語られ、
パウロは、
“35
・・、死者〔キリストにある死者(筆者挿入)〕はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。/
40
・・、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。/
42
死者〔キリストにある死者(筆者挿入)〕の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるもの〔肉体のこと(筆者挿入)〕でも、朽ちないもの〔霊の体のこと(筆者挿入)〕に復活し、43 蒔かれるときは卑しいもの〔肉体のこと(筆者挿入)〕でも、輝かしいもの〔霊の体(筆者挿入)〕に復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。44 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。/
48
土からできた者たちはすべて、土からできたその人〔アダム(筆者挿入)〕に等しく、天に属する者〔キリストを信じて新生させて頂いた人達(筆者挿入)〕たちはすべて、天に属するその人〔キリスト(筆者挿入)〕に等しいのです。1コリント15章・新共同訳)と述べています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様と共にあれば、心満ち足りて生活できますことを感謝します。
更に死後にはよみに行くのではなく、直接天のあなたの王国に入れて頂けますことを感謝します。
御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名でお祈りいたします。アーメン。

2025年3月11日 (火)

コヘレト5:17-19 この世の楽しみ/死後の後悔

 コヘレト517-192017とリビングバイブルは18-20節)を、
聖書協会共同訳は、
17 見よ、私が幸せと見るのは、神から与えられた短い人生の日々、心地よく食べて飲み、また太陽の下でなされるすべての労苦に幸せを見いだすことである。それこそが人の受ける分である。
18
 神は、富や宝を与えたすべての人に、そこから食べ、その受ける分を手にし、その労苦を楽しむよう力を与える。これこそが神の賜物である。
19
 人は人生の日々をあまり思い返す必要はない。神がその心に喜びをもって応えてくれる。”と訳し、
 2017は、
18 見よ。私が良いと見たこと、好ましいこととは、こうだ。神がその人に与えたいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦にあって、良き物を楽しみ、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。
19
実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。
20
こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。”と訳し、
 リビングバイブルは、
18 でも、良いことが少なくとも一つあります。生きている限りは、おいしい物を食べ、上等のワインを飲み、置かれた立場を受け入れ、与えられた仕事がどのようなものであれ、それを楽しむことです。
19.20
主のおかげで資産家になり、健康にも恵まれているとしたら、それこそ申し分のないことです。仕事を楽しみ、与えられた人生に満足することこそ、神からの贈り物です。こういう人は、神から喜びを与えられているのですから、悲しい思いで過去を振り返る必要などありません。”と訳しています。

 今日の聖書個所は、キリストを信じていない人が読んでも、自分もその様に思えると納得できる人が多いだろうと思える箇所ではないかと思います。

 しかし主イエス様は次のようなお話をされました。
15 ・・・。「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである。」
16
 そこで、イエスはたとえを話された。
「ある金持ちの畑が豊作だった。17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らし、18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊し、もっと大きいのを建て、そこに穀物や蓄えを全部しまい込んで、19 自分の魂にこう言ってやるのだ。「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」』
20
 しかし、神はその人に言われた。
『愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか。』
21
 自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこのとおりだ。」”(ルカ22章・聖書協会共同訳)と記されています。

 主イエス様は次のようにも語られました。
34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。
35
 自分の命を救おうと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである。
36
 人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。
37
 人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。
38
 神に背いた罪深いこの時代に、私と私の言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう。」”(マルコ8章・聖書協会共同訳)と記されています。

 35節の「命」、36節の「命」、37節の「命」と訳されている語のギリシア語原語は「プシュケー」で、命、の他、魂、・・の意もあります。
ですから次のようにも訳すこともできます(私訳)
35 自分のプシュケー(肉体の命)を救おうと思う者は、それ〔プシュケー(魂)〕を失うが、私のため、また福音のために自分のプシュケー(肉体の命)を失う者は、それ〔プシュケー(魂)〕を救うのである。
36
 人が全世界を手に入れても、自分のプシュケー(魂)を損なうなら、何の得があろうか。
37
 人はどんな代価を払って、プシュケー(魂)を買い戻すことができようか。」

 主イエス様は次のようにも言われました。
「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」(マタイ10282017)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
この世のことだけではなく、永遠の観点から物事を考える人が増えていきますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名でお祈りいたします。アーメン。

2025年3月 6日 (木)

コヘレト5:12-16 この世のことだけに目を向けるのは不幸なこと/主に在って歩むことが幸いなこと

 コヘレト512-16(口語訳、新改訳、リビングバイブルは伝道者の書513-17です)を、
聖書協会共同訳は、
12 太陽の下で私は痛ましい不幸を見た。富を蓄えても、持ち主には災いとなる。
13
 その富はつらい務めの中で失われる。子が生まれても、その手には何もない。
14
 母の胎から出て来たように、人は裸で帰って行く。彼が労苦してもその手に携えて行くものは何もない。
15
 これもまた痛ましい不幸である。人は来たときと同じように去って行くしかない。人には何の益があるのか。それは風を追って労苦するようなものである。
16
 人は生涯、食べることさえ闇の中。いらだちと病と怒りは尽きない。”と訳し、
 2017は、
13 私は日の下に、痛ましいわざわいがあるのを見た。所有者に守られていた富が、その所有者自身に害を加えることだ。
14
その富は不運な出来事で失われ、息子が生まれても、その者の手もとには何もない。
15
母の胎から出て来たときのように、裸で、来たときの姿で戻って行く。自分の労苦によって得る、自分の自由にすることのできるものを、何一つ持って行くことはない。
16
これも痛ましいわざわいだ。出て来たときと全く同じように去って行く。風のために労苦して何の益になるだろうか。
17
しかも、人は一生、闇の中で食事をする。多くの苛立ち、病気、そして激しい怒り。”と訳し、
 
リビングバイブルは、
13.14 私はまた、ここかしこに深刻な問題があるのに気づきました。せっかくの貯金が危険な投資に使われ、子供に残す財産もなくなってしまうという現実です。
15
投機に手を出す者は、すぐさま、無一文の振り出しに戻ります。
16
これはすでに言ったように、深刻な問題です。どんなに働いても、ざるで水をくむようなものであり、風を追うようなものです。せっかく手に入れたものが、全部なくなってしまうのです。
17
残る生涯を暗い気持ちで、失意と挫折感、怒りを抱えながら生きることになります。”と意訳しています。

 ここに記されている内容は、キリスト者であろうとなかろうと、多かれ少なかれ、その通りだな、と思われることでしょう。

 人は物質的な何かを持たずに生まれてきます。
そして地上で得た全てのものを地上に残して何も持たずに死んでいくのです。
生きている期間は人によって異なりますが。

 この世の財産は、次の世では役に立ちません。
しかし多くの人は、この世において、肉の欲、目の欲、生活の誇りを求めて生きています。
1
ヨハネ216には“すべての世に属するもの―—罪の性質から起こる欲望、性的な欲望、暮らし向きの虚栄心―—は、神から出たものではなく、みな、この世の産み出したものです。”(リビングバイブル)と記されています。

 とはいえ、この世で生きていくのにお金は多くの必要を満たしてくれます。
貧困に苦しみ、それから抜け出したくて主イエス様を信じた人や、この世の事柄に関する自分の願望が主イエス様によってかなえられた人は、神のご性質にあずかろうとするのではなくこの世のものを手に入れることによって自己満足を得よう、承認欲求を満たそうとする方向へと進みやすいかもしれません。キリスト教界でも繁栄の神学というものがあるくらいですから。
しかし、この世でどれほどの成功をおさめても、病が癒されても、人は何も持たずに死んでいくのです。

 唯物論的な考えの人の中には、人生とはなんとむなしいものだろうと思う人もいるでしょう。
救われる以前の私は、創造主はいない、と考えていたほぼ唯物論者のような者でしたから、最後は死んで、自分を構成していた原子は他のものに使われることはあっても自分は消滅してしまう、なんとむなしいことか、と考えていた者です。
今から約50年前の私は、この世は戦争で滅びていくのだろうと想像し、不安でいっぱいでした。

 しかしまことの神様は、私を憐れんで下さり、まことの神が万物を創造なさった事、イエス・キリストを信じれば救われ、平安をいただけることを教えてくださったのです。
私は、主イエス様を信じた瞬間に、それまで経験をしたことのない平安をいただきました。

 先ほど1ヨハネ216の聖句を引用いたしましたが、次の17節には次のように記されています。
“この世は、やがて滅び去ります。同時に、これらの禁じられた欲望も消滅します。しかし、常に神に従って歩む者は永遠に生きるのです。”(リビングバイブル)とあります。

 1ヨハネ519に“私たち〔新生したキリスト者(筆者挿入)〕は神に属していますが、世全体は悪い者〔サタン{悪魔}(筆者挿入)〕の支配下にある・・・。”(2017)と記されているように、この世のものだけを追い求めて生きる生き方は、サタンの配下にあって生きることであり、その終わりはみじめなものです。

 新生したキリスト者は、霊と魂と肉体から構成されています。
やがて肉体を脱ぎ捨てるときが来ますが、霊と魂は永遠です。
それだけではなく、定めの時に、滅びることのない霊の体をも与えていただけます。

 永遠に幸いな生き方は、まことの神様に従った生き方です。
マタイ56には「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」(新共同訳)という主イエス様のみことばが記されています。
また主イエス様は「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6332017)とも語られました。
そして、1テモテ66には「満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。」(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主に在って歩むことが幸いな歩み方であることを教えてくださり感謝します。
満たされない心で歩んでいる人々が、キリスト・イエス様を主として歩むことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名でお祈りいたします。アーメン。

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