2コリント

2025年1月12日 (日)

2コリント6章 神のみ旨に従った歩みをすることが霊的祝福の土台です

  聖書個所 2コリント6章(聖句は2017訳です)

「子どもに対して」というテーマを与えられていますが、「神のみ旨に従った歩みをすることが霊的祝福の土台です」というテーマでお話しします。

 1.2節には“私たち〔パウロとテモテ{2コリント11参照}(筆者挿入)〕は神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。”と記されています。

 2節の最後の個所に「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」とありますが、この個所をリビングバイブルは「まさしく今、神様はあなたを喜び迎えようとしておられます。今日、あなたを救おうとしておられます。」と意訳しています。

 「神の恵み」とは何でしょうか?
キリスト教辞典は“愛なる神の、人間に対する好意(愛顧)、またはそれに基づく働きかけである。それは、特に受けるに値しない対象に向けられた神のいつくしみである。”と述べています。
その中心はキリストの十字架と復活です。
キリストは私たちのすべての罪を、身代わりに引き受けて、神の罰を受けてくださいました。それ故、キリストを信じる者、すなわちキリストを心にお迎えする人は、神から、罪に対する罰を受け無くてよくなったのです。罪とは神に対する不従順です。

 キリストは十字架上で死んで葬られましたが、三日目に復活なさいました。
キリストの復活は、神がキリストの十字架上の贖いを「良し」と認めたことを明かにするため、及び、キリストを信じた人を、新生の恵みにあずからせるためであったのです。
1
ペテロ13は「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ〔新生(筆者挿入)〕、生ける望みを持たせてくださいました。」と記しています。

 主イエス様は、ユダヤの議員の一人であるニコデモの質問に答えて、「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ33)と言われました。
新生したクリスチャンは神の国に入れますから、神の国を見ることができるのです。
地上にいるときにも、神の国を知ることができるのです。神の国を体験することもできるのです。
「見る」と訳されている語のギリシア語原語は「エイド―」で、「見る」の他に「知る」の意味もあります。
「国」と訳されている語のギリシア語原語は「バシレイア」で、王国、国土、支配、・・等の意味があります。

 「神の国」と聞くと、「まず神の国と神の義を求めなさい。」(マタイ633)という主イエス様が語られた御言葉を思い起こす方も多いと思います。
この聖句は、リビングバイブル訳のように「神を第一とし、神が望まれるとおりの生活をしなさい。」と意訳することもできます。

 神様は、まだキリストの御救いを知らない人に、「私は救いの準備を整えたよ。今度は、あなたが、キリストを心に受け入れて、すなわちキリストを信じて、この素晴らしい救いを受け入れる番だよ。」と愛をもって語られるのです。
神様は人に幸せになってほしいのです。
幸せの土台は、罪を赦され、義とされて、神さまと仲良くなること(和解すること)なのです。

 キリストの救いにあずかった人は、エペソ28に記されている「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。」という聖句にアーメン、と言えるのです。

 2コリント63-10には、パウロたちの心のありようと生き方が証しされています。
司会者に読んでいただいた個所ですが、もう一度、御一緒に読んでみたいと思います。
パウロが滅びゆく人々を救いたくて、福音を語るにあたって、艱難辛苦にめげることなく、励んだ様子が2コリント1124-30にも記されています。

 2コリント1124-28には、
24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
26
何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、27 労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。
28
ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。”と記されています。

 この様な体験をしたパウロは、「神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのです。」とも語っています。(1コリント1510

 この個所を読むと、パウロが、人々に対して、どれほど救われてほしかったのかをかみしめることができると思います。これほどの苦難にあっても宣教を続けたのですから。
このような思いは、キリストから来るものなのです。

 パウロはガラテヤ219.20で「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなくキリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰〔「神の子の信実」(聖書協会共同訳)〕によるのです。」と述べています。
パウロは「私が生きているのではなくキリストが私のうちに生きておられる」という状態を豊かに体験しつつご奉仕したのです。

 14-18節を読んでみましょう。
14 不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。
15
キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう。
16
神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。
「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
17
それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。
──主は言われる──
汚れたものに触れてはならない。そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。」”と記されています。

 神の内にあるものと悪魔の内にあるものの対比が記されていますから、まずそれを見ていこうと思います。
☆ 神に在るグループの言葉(単語):正義(14)、光(14)、キリスト(15)、信者(15)、神の宮{(16)神殿}
★ 悪魔(サタン、ぺリアル)に在るグループの言葉:不法{(14)神の法に従わないこと}、闇(14)、ベリアル{(15)悪い者、よこしまな者の意、サタンの別名}、不信者(15)、偶像(16

 2コリント6章の16-18節の「 」内は、旧約聖書からの引用です。
この箇所を読むと、「神の子どもとなる」ということは、行いによるのだ、と思う方もいることでしょう。

 しかし今は新約の恵みの時代です。
ありがたいことに、新生したキリスト者は、すでに神の子どもです。
ヨハネ112.13には“この方〔御子キリスト・イエス(筆者挿入)〕を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。”と記され、
 1ヨハネ31.2には、
“私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。”と記されています。

 14節の「釣り合わないくびき」という聖句を考えてみます。
「釣り合わない」と訳されている語のギリシア語原語は「ヘテロズゲオー」という単語で、「異なった」という意味もあります。
キリスト者は、キリストと軛を共にしているのです(マタイ1130)。異なった軛を付けると辛いことになるのです。
もっと言うと、新生した人の霊はキリストの霊と結ばれているのです。(1コリント617

 「異なるくびき」「釣り合わないくびき」に該当するものは何でしょうか?

色々該当するものがあると思います。
キリスト信仰を土台として歩みたいのに、それをさせないようにしようとするくびき、それは釣り合わないくびきです。
14-18
節には色々と書いてありますが、この個所に記されていることの根底には「まず神の国と神の義を求めなさい。」(マタイ633)というあり方があると思います。

この聖句をリビングバイブルは「神を第一とし、神が望まれるとおりの生活をしなさい。」と訳しています。

神さまを第一にして歩む歩みは、生まれながらの人間の能力で出来るものではありません。

神さまを第一にして歩む歩みは、新生した人が、聖霊の助けをいただきつつ歩むことによって、できることです。

 神のみ旨に従った歩みをすることは、霊的祝福の土台です。
イスラエルへの祝福は地上の祝福でした(申命記28章)。←ポイント箇所を読むこと+説明
キリスト者への祝福は霊的祝福が第一です(エペソ13)。←読むこと+説明
キリスト者は、主を第一にしていれば、天にある霊的祝福だけではなく、地上の生活も保障されています(ピリピ419)。←読むこと+説明

今日の聖書個所の後半部分は「あなたがたは、神の子どもなのだから、それにふさわしく神のみ旨の内にあって、人間関係を持ち、また生活しましようね。」と語っておられるのです。

<お祈り>
天のお父様。
常に愛し続けてくださり、ありがとうございます。
何時でも、あなたを第一として歩む者であらせてください。
御名を崇め、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2013年4月 4日 (木)

2コリント13:13 祝祷

2コリント13:13
“主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。”

 主イエス・キリスト即ち御子なる神、父なる神、聖霊なる神は別々の神ではなく、お一人の神であられ、三様の働きを聖書から見ることがでる三位一体の神です。父、子、聖霊は同時同在相互内在されています。神が三位一体であることは、啓示なしに人間に与えられた能力によって知ることはできないのではないかと私は思います。ただ、聖書の啓示を受け取らせていただくほかありません。何故なら、神は人間とは比べものにならない大いなる存在だからです。人間は、神に創られた被造物です。神は万物の根源であり、あらゆるものの創造者です。驚くほど広大な宇宙から、それを構成している成分の最も小さい素粒子まで、また、生きとし生けるものすべてを造られた方です。
その神が、人を愛し、人とかかわり、何と信じる者のうちに内住してくださるのです。
この祝祷の広大さ、深さ、広さ、高さを知りつくすことはできないことでしょう。
しかし、その一部を理解することはできます。体験することもできます。
わたしたちは、永遠の中で神を知り続けていく存在、神を知ることによって神を賛美していく存在なのではないかと思います。
この祝祷の内容を理解する上で、エペソ人への手紙1章を読んでみたいと思います。

“1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
1:5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
1:6 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
1:7 この方[イエス・キリスト]にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
1:8 この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、
1:9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、
1:10 時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。
1:11 この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。
1:12 それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。
1:13 この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。”(エペソ1:3-14)

 聖書の中の多くの箇所から、父なる神について、御子イエス・キリストについて、聖霊について教えて頂くことができるならば、さらに豊かな恵みに満たされるでしょう。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇め、賛美し、感謝します。
祈りにおいても、父なる神に対し、聖霊の導きによって、御子イエスキリストの名によって祈れる幸いを感謝します。
三位一体の神様が常に、とこしえに、ともにいてくださって、守り、導き、支え、霊と肉の糧を日々与えて下さり、折にかなった助けを与えてくださる中で歩ませて頂けますことを感謝します。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン。

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本書の中のみことばで引用聖書名のない箇所は全て新改訳聖書です。

2013年4月 3日 (水)

2コリント13:11.12 神の臨在の条件

2コリント13:11.12
“13:11 終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。
13:12 聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。すべての聖徒たちが、あなたがたによろしくと言っています。”

 コリント教会にあてた手紙の結びのことばの一部ですが、重要なことを教えられます。それは神の臨在の条件です。主イエス・キリストを信じたことによって永遠の滅びから永遠の命へと移して頂けましたけれども、常に主なる神が私と共におられるという霊的実感は、霊的健全さを保つことと密接な関係にあることが分かります。その為には、みことばによって、聖霊によって、或いは良心によって、或いは誰かのことばによって、その他罪を示された時には、直ちに悔い改める必要があることを覚えさせられます。罪をそのままにしておくと、大切な大切な神の臨在を失います。神の臨在を失ったからといって救いを失ったわけではありません。主イエス・キリストを救い主として受け入れているならば救われています。
 喜びも、平安も、満ち足りた思いも主の臨在があってこそです。

 主イエス様は、十字架におつきになられる前に「だれでもわたしを愛する人は、私のことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14:23)と言われました。
主がともにいてくださる条件は、常に継続されていく必要があります。

 A.B.Simpsonは、主とともに歩む楽しさを含んだ歌詩を残しています。
主と共に歩むその楽しさよ 主のふみたまいし 御跡をたどる
一足(ひとあし)、一足、主にすがりて、絶えず、絶えず、我は進まん。

赤子に等しきかよわき我は ただ主にすがりて いのちに歩まん。
花咲く野原も 血にそむ谷も 導かるるまま主とともに歩まん。
一足、一足、主にすがりて 絶えず、絶えず、我は進まん。

エノクの如くに 我をも上に 移させたもうまで 日々主と歩まん。
一足、一足、主にすがりて 絶えず、絶えず、我は進まん。”

<お祈り>
天のお父様
あなたを崇めます。
いつもあなたの豊かな交わりの中で生きる者であらせてください。
あなたはそれを望んでいて下さいますから感謝します。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン。

2013年4月 2日 (火)

2コリント13:7-10 お願いだから裁かれないために悔い改めて

2コリント13:7-10
“13:7 私たちは、あなたがたがどんな悪をも行わないように神に祈っています。それによって、私たち自身の適格であることが明らかになるというのではなく、たとい私たちは不適格のように見えても、あなたがたに正しい行いをしてもらいたいためです。
13:8 私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。
13:9 私たちは、自分は弱くてもあなたがたが強ければ、喜ぶのです。私たちはあなたがたが完全な者になることを祈っています。
13:10 そういうわけで、離れていてこれらのことを書いているのは、私が行ったとき、主が私に授けてくださった権威を用いて、きびしい処置をとることのないようにするためです。この権威が与えられたのは築き上げるためであって、倒すためではないのです。”

 10節において、パウロは、使徒の権威が与えられたのは、一人一人の信仰と教会が健全に建て上げられていくためであって、罪を犯し続けている者たちに対してただ厳しい措置をとるためではない、と述べています。
 忠告を受け、回心する機会と期間を与えられながら、神の御旨に従えなかった古代の帝王がいます。その王はクリスチャンではありませんが、神様の取り扱い方の一端ををそこに見ることができます。その聖書箇所を引照します。
“4:1 ネブカデネザル王が、全土に住むすべての諸民、諸国、諸国語の者たちに書き送る。あなたがたに平安が豊かにあるように。
4:2 いと高き神が私に行われたしるしと奇蹟とを知らせることは、私の喜びとするところである。
4:3 そのしるしのなんと偉大なことよ。その奇蹟のなんと力強いことよ。その国は永遠にわたる国、その主権は代々限りなく続く。
4:4 私、ネブカデネザルが私の家で気楽にしており、私の宮殿で栄えていたとき、
4:5 私は一つの夢を見たが、それが私を恐れさせた。私の寝床での様々な幻想と頭に浮かんだ幻が、私を脅かした。
4:6 それで、私は命令を下し、バビロンの知者をことごとく私の前に連れて来させて、その夢の解き明かしをさせようとした。
4:7 そこで、呪法師、呪文師、カルデヤ人、星占いたちが来たとき、私は彼らにその夢を告げたが、彼らはその解き明かしを私に知らせることができなかった。
4:8 しかし最後に、ダニエルが私の前に来た。──彼の名は私の神の名にちなんでベルテシャツァルと呼ばれ、彼には聖なる神の霊があった。──私はその夢を彼に告げた。
4:9 「呪法師の長ベルテシャツァル。私は、聖なる神の霊があなたにあり、どんな秘密もあなたにはむずかしくないことを知っている。私の見た夢の幻はこうだ。その解き明かしをしてもらいたい。
4:10 私の寝床で頭に浮かんだ幻、私の見た幻はこうだ。見ると、地の中央に木があった。それは非常に高かった。
4:11 その木は生長して強くなり、その高さは天に届いて、地の果てのどこからもそれが見えた。
4:12 葉は美しく、実も豊かで、それにはすべてのものの食糧があった。その下では野の獣がいこい、その枝には空の鳥が住み、すべての肉なるものはそれによって養われた。
4:13 私が見た幻、寝床で頭に浮かんだ幻の中に、見ると、ひとりの見張りの者、聖なる者が天から降りて来た。
4:14 彼は大声で叫んで、こう言った。『その木を切り倒し、枝を切り払え。その葉を振り落とし、実を投げ散らせ。獣をその下から、鳥をその枝から追い払え。
4:15 ただし、その根株を地に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて、野の若草の中に置き、天の露にぬれさせて、地の草を獣と分け合うようにせよ。
4:16 その心を、人間の心から変えて、獣の心をそれに与え、七つの時をその上に過ごさせよ。
4:17 この宣言は見張りの者たちの布告によるもの、この決定は聖なる者たちの命令によるものだ。それは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最もへりくだった者をその上に立てることを、生ける者が知るためである。』
4:18 私、ネブカデネザル王が見た夢とはこれだ。ベルテシャツァルよ。あなたはその解き明かしを述べよ。私の国の知者たちはだれも、その解き明かしを私に知らせることができない。しかし、あなたにはできる。あなたには、聖なる神の霊があるからだ。」
4:19 そのとき、ベルテシャツァルと呼ばれていたダニエルは、しばらくの間、驚きすくみ、おびえた。王は話しかけて言った。「ベルテシャツァル。あなたはこの夢と解き明かしを恐れることはない。」ベルテシャツァルは答えて言った。「わが主よ。どうか、この夢があなたを憎む者たちに当てはまり、その解き明かしがあなたの敵に当てはまりますように。
4:20 あなたがご覧になった木、すなわち、生長して強くなり、その高さは天に届いて、地のどこからも見え、
4:21 その葉は美しく、実も豊かで、それにはすべてのものの食糧があり、その下に野の獣が住み、その枝に空の鳥が宿った木、
4:22 王さま、その木はあなたです。あなたは大きくなって強くなり、あなたの偉大さは増し加わって天に達し、あなたの主権は地の果てにまで及んでいます。
4:23 しかし王は、ひとりの見張りの者、聖なる者が天から降りて来てこう言うのをご覧になりました。『この木を切り倒して滅ぼせ。ただし、その根株を地に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて、野の若草の中に置き、天の露にぬれさせて、七つの時がその上を過ぎるまで野の獣と草を分け合うようにせよ。』
4:24 王さま。その解き明かしは次のとおりです。これは、いと高き方の宣言であって、わが主、王さまに起こることです。
4:25 あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、天の露にぬれます。こうして、七つの時が過ぎ、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになります。
4:26 ただし、木の根株は残しておけと命じられていますから、天が支配するということをあなたが知るようになれば、あなたの国はあなたのために堅く立ちましょう。
4:27 それゆえ、王さま、私の勧告を快く受け入れて、正しい行いによってあなたの罪を除き、貧しい者をあわれんであなたの咎を除いてください。そうすれば、あなたの繁栄は長く続くでしょう。」
4:28 このことがみな、ネブカデネザル王の身に起こった。
4:29 十二か月の後、彼がバビロンの王の宮殿の屋上を歩いていたとき、
4:30 王はこう言っていた。「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」
4:31 このことばがまだ王の口にあるうちに、天から声があった。「ネブカデネザル王。あなたに告げる。国はあなたから取り去られた。
4:32 あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、こうして七つの時があなたの上を過ぎ、ついに、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになる。」
4:33 このことばは、ただちにネブカデネザルの上に成就した。彼は人間の中から追い出され、牛のように草を食べ、そのからだは天の露にぬれて、ついに、彼の髪の毛は鷲の羽のようになり、爪は鳥の爪のようになった。
4:34 その期間が終わったとき、私、ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻って来た。それで、私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。
4:35 地に住むものはみな、無きものとみなされる。彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押さえて、「あなたは何をされるのか」と言う者もいない。
4:36 私が理性を取り戻したとき、私の王国の光栄のために、私の威光も輝きも私に戻って来た。私の顧問も貴人たちも私を迎えたので、私は王位を確立し、以前にもまして大いなる者となった。
4:37 今、私、ネブカデネザルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだった者とされる。”(ダニエル4章)

 裁きが執行される前に悔い改めて神に対して従順になれば大変な目に遭わないですんだのです。
キリスト者は、サタンの支配即ち暗闇の支配からキリストの支配即ち光の中へと移された者ですが、罪の中に留まり続けた場合、サタンに引き渡されることもあるのです。そのような事例を1コリント5:1-5に次のように見ることができます。
“5:1 あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。
5:2 それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行いをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。
5:3 私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行いをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。
5:4 あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、
5:5 このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。”


“・・・God is love”
(1ヨハネ4:8)

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
忠告されても悔い改めに至らず、サタンに引き渡されて、肉が滅ぼされた者をさえ、一度キリストを主と告白した者に対し、主の日には、その人の霊を救うという、まさに、「神は愛です。」
しかし、悔い改めない生き方ではなく、主に罪を示されたら、すぐに悔い改めて、いつも主とともに歩む者であらせてください。
罪と死の法則から解放されて、御霊の法則によって生きるとき、主の御旨の内を歩む歩みをし続けていくことができますからありがとうございます。
いつも御霊の導きに従って歩ませてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン。

2013年4月 1日 (月)

2コリント13:5.6 信仰を吟味するようにとの忠告

2コリント13:5.6
“13:5 あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか──あなたがたがそれに不適格であれば別です。──
13:6 しかし、私たちは不適格でないことを、あなたがたが悟るように私は望んでいます。”
(新改訳)

この箇所は色々な聖書の訳で比較したいと思います。

“13:5 信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。
13:6 わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るようにと願っています。”(新共同訳)

13:5 あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる。
13:6 しかしわたしは、自分たちが見捨てられた者ではないことを、知っていてもらいたい。”(口語訳)

“13:5あなたがたが信仰のうちにあるかどうか、あなたがたは自分自身を検証しなさい。自分自身を吟味しなさい。それともあなたがたは、自分自身を認識しないのか。すなわち、イエス・キリストが〔まさに〕あなたがたのうちに〔おられる〕ということを。もしも認識しないのなら、あなたがたは失格者である。
13:6しかし、私たちは失格者〔など〕ではないのだ、ということをあなたがたが承知しているよう、私は希望する。”(岩波訳)

“13:5 Examine yourselves as to whether you are in the faith. Test yourselves. Do you not know yourselves, that Jesus Christ is in you?-unless indeed you are disqualified.
13:6 But I trust that you will know that we are not disqualified.”(NKJV)

イエス・キリストに対する信仰のある人は、その人の内にイエス・キリストがおられます。

「わが内に主はいます くすしくも妙(たえ)なり 
わが内にいます主は 来るべき王なり」(A.B.Simpson)

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇め感謝します。
あなたは、私が主イエス様を信じた時、というか、信じさせて頂いた時、御子の御霊を内に遣わしてくださいましたことを感謝します。
この恵みに対する感謝を言葉では表しきれませんけれどもありがとうございます。
主の御名をほめたたえつつイエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン。

2013年3月31日 (日)

2コリント13:1-4 キリストは強いお方

2コリント13:1-4
“13:1 私があなたがたのところへ行くのは、これで三度目です。すべての事実は、ふたりか三人の証人の口によって確認されるのです。
13:2 私は二度目の滞在のときに前もって言っておいたのですが、こうして離れている今も、前から罪を犯している人たちとほかのすべての人たちに、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦はしません。
13:3 こう言うのは、あなたがたはキリストが私によって語っておられるという証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。
13:4 確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。”

 <ふたりか三人の証人の口によって>というのは、神様が、モーセを通してイスラエルに与えた律法の中の一文です。申命記19:15には<どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証言によって、そのことは立証されなければならない。>とあります。

 パウロは、コリント教会の中の問題に対して様々な忠告を与えて来ました。同時に悔い改める期間も与えました。しかし、悔い改めていない人々がいたとしたら、神の権威を帯びたパウロを通して、神が地上における裁きを行う時が来つつあったのです。それは、教会を聖く保つためでした。ここでのさばきは、教会からの除名ということでしょう。
神様は、聖餐のことに関連して裁きを行われてきたということを、パウロはすでに書いています。それは、1コリント11:27-32に“したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。”とあります。

 キリストによって使徒として立てられたパウロを受け入れないということは、キリストを受け入れないということになるのですが、反対者達は、そのことが分からなかったのでしょうし、また、パウロが語っていることが神の御旨であるということも分からなかったのかもしれません。即ち、ただの人か、ただの人(1コリ2:15-3:4)のようであって内に住む罪の支配(ローマ7:14b.23)のもとに生きていたのでしょう。

 キリストを知らない人達の中には、キリストは弱い人だ、という者もいます。私も、十字架につけられてしまうような弱い人を信じて何になるの、と親戚の人に言われたことがあります。私たち人間と同じような肉体を纏って下さったキリストの肉体だけを見たらそのように見えることでしょう。今まで、何人の人々が地上に誕生してきたことでしょうか、そしてこれからも生まれる人がいます。そのすべての人のすべての罪を身代わりに負って、その罰を受けてくださったことを思う時、何と強いお方だろうか、と私は思います。キリストは、十字架にかかるために神のあり方を止めて人となってくださったお方です。
しかし、復活された後は、天においても、地においても、いっさいの権威をもっておられるお方として御父の右の座におられます。
 キリストは、やがて王の王、主の主として天から降りて来られ、裁きをなさいます。その時に嘆いても、もう取り返しがつかないのです。そうなる前に、神の前に低くなって悔い改めてキリストを受け入れる者は幸いです。

 4節後半の“あなたがたに対する神の力の故に、キリストとともに生きているのです。”は、新改訳聖書よりも新共同訳聖書の“あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。”の方が分かりやすく思えます。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めます。
主イエス様は、再臨のとき、王の王、主の主として力をもって天から降りて来られ、敵対する軍勢を一瞬のうちに滅ぼしてしまわれます。主が再臨される前の警告として預言されているように、方々で地震が起こり、国は国に敵対し、民族は民族に敵対し、飢饉や穀物の高騰する時代に入っていますし、さらにエスカレートしていくことでしょう。
全世界への裁きの前に、教会に対して裁きを行なわれますが、主に指摘されたら、素直に悔い改めて主に従う者であらせてください。
今日は、主のご復活を記念するイースター礼拝です。
主をご復活させた御父を賛美し、主イエス様の十字架と復活を喜び、また感謝し、私たちキリストを信じる者も、キリストの復活の故に義と認められ、キリストの空中再臨のとき霊の体へと変えて頂ける事を期待し喜びながら過ごす日としてください。
あなたの御名を賛美し感謝します。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン。

2013年3月30日 (土)

2コリント12:19-21 自己弁明は教会建て上げの為

2コリント12:19-21
“12:19 あなたがたは、前から、私たちがあなたがたに対して自己弁護をしているのだと思っていたことでしょう。しかし、私たちは神の御前で、キリストにあって語っているのです。愛する人たち。すべては、あなたがたを築き上げるためなのです。
12:20 私の恐れていることがあります。私が行ってみると、あなたがたは私の期待しているような者でなく、私もあなたがたの期待しているような者でないことになるのではないでしょうか。また、争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、騒動があるのではないでしょうか。
12:21 私がもう一度行くとき、またも私の神が、あなたがたの面前で、私をはずかしめることはないでしょうか。そして私は、前から罪を犯していて、その行った汚れと不品行と好色を悔い改めない多くの人たちのために、嘆くようなことにはならないでしょうか。”

 今まで繰り返し述べてきた自己弁明は、自分を悪く言われないためではなく、主イエス・キリスト様を信じて救われ、キリストの体の一部とされた人達が、にせ使徒たちの間違った教えによって正しい信仰の道から逸脱してしまわないために、神の御前で、キリストに在って語ってきたと明確に述べています。パウロは、自分を悪く言う人達に対してもその人達を愛する故に語ってきたのです。

 パウロには、心配なことがありました。それは、コリント人への手紙1、2で指摘してきたような罪を本当に悔い改めているかということです。その罪のリストは、争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、騒動、汚れと不品行と好色であると書いています。
これらはすべて、古き人がキリスト共に十字架につけられていないことから発生します。
ローマ6:3-22でパウロは次のように述べました。
“6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
6:12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
6:13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
6:14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
6:15 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。
6:16 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。
6:17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、
6:18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
6:19 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。
6:20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
6:21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。
6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。”

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
パウロは、内に働く御子の御霊によって、敵対してくる者に対して愛をもって対処していることを見ます。
あなたは私たちに対してもそのようであることを期待しています。
どうか御霊によってあなたが求めているように歩めますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン。

2013年3月29日 (金)

2コリント12:11-18 親心をもった牧会

2コリント12:11-18
“12:11 私は愚か者になりました。あなたがたが無理に私をそうしたのです。私は当然あなたがたの推薦を受けてよかったはずです。たとい私は取るに足りない者であっても、私はあの大使徒たちにどのような点でも劣るところはありませんでした。
12:12 使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間で行われた、しるしと不思議と力あるわざです。
12:13 あなたがたが他の諸教会より劣っている点は何でしょうか。それは、私のほうであなたがたには負担をかけなかったことだけです。この不正については、どうか、赦してください。
12:14 今、私はあなたがたのところに行こうとして、三度目の用意ができています。しかし、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のためにたくわえる必要はなく、親が子のためにたくわえるべきです。
12:15 ですから、私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか。
12:16 あなたがたに重荷は負わせなかったにしても、私は、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったのだと言われます。
12:17 あなたがたのところに遣わした人たちのうちのだれによって、私があなたがたを欺くようなことがあったでしょうか。
12:18 私はテトスにそちらに行くように勧め、また、あの兄弟を同行させました。テトスはあなたがたを欺くようなことをしたでしょうか。私たちは同じ心で、同じ歩調で歩いたのではありませんか。”

 パウロは、コリントの反対者達から如何なる誤解をされ、悪口を言われてきたでしょうか。
パウロは、反対者達から使徒として任命されていないと言われました。(2コリ11:5、12:12)
反対者達はそれを裏付けようとしてパウロの言動の本質を捉えることなく見かけ上のことを曲解して批判し、間違った妄想をふくらまし、非難中傷したのです。
手紙には力があっても、直接会った時には弱々しく思えたということも、ただ、謙遜、柔和であったのかもしれません。当時の偉い人のように尊大ではありませんでした。そのように言う人達は、この世のあり方から抜け出ていなかったからかも知れません。御霊の実を知らなかったのかもしれません。(2コリ10:10)
また、話し方が巧みさに欠けるともいわれました。(2コリ11:6)
パウロは、計画を建てて公言するが実行しないことがあると言われました。(2コリ1:15-18)
パウロは、兄弟姉妹達の健全な霊的成長の為に、誤解を解いてもらい、自分が使徒であるということを敢えて言わなければなりませんでした。(2コリ3:1-6、5:12)
使徒としての報酬を受けなかったことを批判されました。(2コリ11:7)
エルサレムの困窮した聖徒たちへの寄付金を集めようとしたときは、それをくすねるのだと言われました。(2コリ7:2、8:20、12:16-18)

 私は、これらの背後即ち見えない霊的世界において、サタンが、にせ使徒たちを遣わし、偽りを吹き込み、コリント教会を内部から崩壊させようとしたたくらみがあったのではないかと思うのです。このサタンの働きは、現代の教会の中でも色々な形をとって現れているものと思います。
 一方、パウロは、反対者達から何と言われようと、教会を健全に建て上げていくために神からくる愛をもって、模範的な親が子供を育てるようなあり方で教会員に接していったのでした。それは、「今、私はあなたがたのところに行こうとして、三度目の用意ができています。しかし、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のためにたくわえる必要はなく、親が子のためにたくわえるべきです。ですから、私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか。あなたがたに重荷は負わせなかったにしても、私は、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったのだと言われます。」という表現に現れていると思います。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を感謝します。
あなたは、私の状態が如何様であっても愛し続けてくださいました。これからもそうしてくださいますことを感謝します。
あなたの限りない大きな愛に包まれて生かされていることを感謝し主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
“5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
5:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。”(ローマ5:6-11)

“「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたし[主なる神]はあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。”(イザヤ49:15.16)

2013年3月28日 (木)

2コリント12:1-10 困難・苦難に甘んじることのできた理由

2コリント12:1-10

“12:1 無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。
12:2 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に──肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、──第三の天にまで引き上げられました。
12:3 私はこの人が、──それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです、──
12:4 パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。
12:5 このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。
12:6 たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。
12:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。”

 パウロ自身が天に引き上げられたことを証しています。
天国を見てきたことは、パウロをあらゆる患難に立ち向かわせたことと思います。

http://www.youtube.com/watch?v=l0y6ipKca_k
これは、「本当にある天国と地獄の証」です。
信じるか否かは、見た人次第ですが、私はあり得ると考えています。
このビデオが、本当のものであれば、天国の素晴らしさの一端を知るのに膨大な時間を必要とするとは思えません。
また、天国の素晴らしさを味わったとしたら、また、人間は永遠の存在であるということを知ったら、また、殉教しても自分の行くところはこのように素晴らしい所だと知ったら、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難を乗り越えることは、比較的たやすいことでしょう。

 天国を見てきたパウロは、肉体的弱さをもっていました。それが何であるか、色々想像することはできますが、それはどうでもよいことです。一つ言えることは、体が元気一杯ではないことが、パウロに対する神の恵みであったのです。

 キリストの力、キリストの恵み、キリストの素晴らしさが現わされる為に、肉体の弱さが必要であるならば、神が与えてくださるもの、与えてくださったものを知っている者は、また、その弱さを神が恵みとして与えてくださったのであれば、キリストの為に受け入れます。それはキリストの栄光の為です。
この聖書箇所は、弱いままの自分を「弱くてもいいんだ」と、自分を納得させるための方便ではありません。
「キリストの為に」ということが大切です。
キリストを愛する愛の故の「キリストの為に」ではないならば、この箇所を用いることは、控えた方が良いのではないかと思います。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めます。
あなたは、パウロが、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に遭遇する前に、それらを超えることのできる恵みを与えておられましたから御名を賛美します。
パウロのようなあり方で、天国を見てこなかったとしても、あなたが啓示してくださっておられる恵みを信仰によって捉え、イエス・キリストから目を離すことなく、どのような状況の中に在っても御霊によって歩み続ける者であらせてください。
感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン。

2013年3月27日 (水)

2コリント11:16-33 パウロが受けた患難

2コリント11:16-33
“11:16 くり返して言いますが、だれも、私を愚かと思ってはなりません。しかし、もしそう思うなら、私を愚か者扱いにしなさい。私も少し誇ってみせます。
11:17 これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者としてする思い切った自慢話です。
11:18 多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。
11:19 あなたがたは賢いのに、よくも喜んで愚か者たちをこらえています。
11:20 事実、あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、だまされても、いばられても、顔をたたかれても、こらえているではありませんか。
11:21 言うのも恥ずかしいことですが、言わなければなりません。私たちは弱かったのです。しかし、人があえて誇ろうとすることなら、──私は愚かになって言いますが──私もあえて誇りましょう。
11:22 彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。
11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
11:24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、
11:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
11:28 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。
11:29 だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。
11:30 もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。
11:31 主イエス・キリストの父なる神、永遠にほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないのをご存じです。
11:32 ダマスコではアレタ王の代官が、私を捕らえようとしてダマスコの町を監視しました。
11:33 そのとき私は、城壁の窓からかごでつり降ろされ、彼の手をのがれました。”

 にせ使徒たちは、肉によって誇っていました。コリント教会の兄弟姉妹達の中には、肉による誇りの内容に引き寄せられた人達がいたのでしょう。それ故、パウロも正しい福音に留まってもらうために、敢えて肉によって誇ると思えるような言動に出たのです。
現代でも、霊的なことよりも肉による誇りに引きつけられる人々は多くいます。
パウロにとって、このように語らなければならなかったことは辛いことであったことでしょう。
パウロは、「誇る者は主にあって誇れ。」(1コリント1:31)、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)といってきたからです。

 にせ使徒たちは、恐らくイスラエルの血をひく者達であったのだろうと思います。それ故、パウロは、22節に書かれているような内容を述べました。
23節からは、パウロが受けた患難について列挙してあります。
AD63-66年に、テモテへの第1,2の手紙、テトスへの手紙が書かれたのではないか、それからももなくして殉教したのではないかといわれています。
今読んでいるコリント人への第二の手紙は、AD56~7年頃に、書かれたようです。
この箇所に出てくる患難は、この手紙が書かれるまでのことですから、パウロの生涯でパウロが受けた患難は、もっとたくさんあったことになります。
 パウロは、以上のように多くの患難を受けたうえで、「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35-39)と語ることができました。
主がそのように支えてくださったのでしょう。
 パウロの試練はすさまじいものですが、個々人に対する試練も、主が許可なさる範囲でやってきます。1コリント10:13には<神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。>とあります。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
生後6週間で医療ミスにより失明したファニー・クロスビーの詩を思い出します。
彼女は、「坂道に 強き御手を差し伸べ、試みのときは 恵みをたもう。」という詩を残しました。体験からであったのだろうと思います。
あなたはそのようなお方であり、それ以上のお方でありますから御名を賛美します。
感謝して主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン。

 「すくいぬしイェスと」 ―ファニー・クロスビー 
1)救い主イエスと共に行く身は 乏しきことなく恐れもあらじ
 イエスは安きもて心たらわせ 物事すべてをよきになしたもう
 物事すべてをよきになしたもう

2)坂道に、強き御手を差し伸べ、試みのときは恵みをたもう
 弱きわが魂の渇くおりしも 目の前の岩は裂けて水湧く
 目の前の岩は裂けて水湧く

3)如何に満ち満てる恵みなるかや 約束しませる家に帰らば
 我魂は歌わん力の限り 君に守られて今日まで来ぬと
 君に守られて今日まで来ぬと

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