2コリント6章 神のみ旨に従った歩みをすることが霊的祝福の土台です
聖書個所 2コリント6章(聖句は2017訳です)
「子どもに対して」というテーマを与えられていますが、「神のみ旨に従った歩みをすることが霊的祝福の土台です」というテーマでお話しします。
1.2節には“私たち〔パウロとテモテ{2コリント1:1参照}(筆者挿入)〕は神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。”と記されています。
2節の最後の個所に「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」とありますが、この個所をリビングバイブルは「まさしく今、神様はあなたを喜び迎えようとしておられます。今日、あなたを救おうとしておられます。」と意訳しています。
「神の恵み」とは何でしょうか?
キリスト教辞典は“愛なる神の、人間に対する好意(愛顧)、またはそれに基づく働きかけである。それは、特に受けるに値しない対象に向けられた神のいつくしみである。”と述べています。
その中心はキリストの十字架と復活です。
キリストは私たちのすべての罪を、身代わりに引き受けて、神の罰を受けてくださいました。それ故、キリストを信じる者、すなわちキリストを心にお迎えする人は、神から、罪に対する罰を受け無くてよくなったのです。罪とは神に対する不従順です。
キリストは十字架上で死んで葬られましたが、三日目に復活なさいました。
キリストの復活は、神がキリストの十字架上の贖いを「良し」と認めたことを明かにするため、及び、キリストを信じた人を、新生の恵みにあずからせるためであったのです。
1ペテロ1:3は「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ〔新生(筆者挿入)〕、生ける望みを持たせてくださいました。」と記しています。
主イエス様は、ユダヤの議員の一人であるニコデモの質問に答えて、「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)と言われました。
新生したクリスチャンは神の国に入れますから、神の国を見ることができるのです。
地上にいるときにも、神の国を知ることができるのです。神の国を体験することもできるのです。
「見る」と訳されている語のギリシア語原語は「エイド―」で、「見る」の他に「知る」の意味もあります。
「国」と訳されている語のギリシア語原語は「バシレイア」で、王国、国土、支配、・・等の意味があります。
「神の国」と聞くと、「まず神の国と神の義を求めなさい。」(マタイ6:33)という主イエス様が語られた御言葉を思い起こす方も多いと思います。
この聖句は、リビングバイブル訳のように「神を第一とし、神が望まれるとおりの生活をしなさい。」と意訳することもできます。
神様は、まだキリストの御救いを知らない人に、「私は救いの準備を整えたよ。今度は、あなたが、キリストを心に受け入れて、すなわちキリストを信じて、この素晴らしい救いを受け入れる番だよ。」と愛をもって語られるのです。
神様は人に幸せになってほしいのです。
幸せの土台は、罪を赦され、義とされて、神さまと仲良くなること(和解すること)なのです。
キリストの救いにあずかった人は、エペソ2:8に記されている「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。」という聖句にアーメン、と言えるのです。
2コリント6:3-10には、パウロたちの心のありようと生き方が証しされています。
司会者に読んでいただいた個所ですが、もう一度、御一緒に読んでみたいと思います。
パウロが滅びゆく人々を救いたくて、福音を語るにあたって、艱難辛苦にめげることなく、励んだ様子が2コリント11:24-30にも記されています。
2コリント11:24-28には、
“24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
26 何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、27 労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。
28 ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。”と記されています。
この様な体験をしたパウロは、「神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのです。」とも語っています。(1コリント15:10)
この個所を読むと、パウロが、人々に対して、どれほど救われてほしかったのかをかみしめることができると思います。これほどの苦難にあっても宣教を続けたのですから。
このような思いは、キリストから来るものなのです。
パウロはガラテヤ2:19.20で「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰〔「神の子の信実」(聖書協会共同訳)〕によるのです。」と述べています。
パウロは「私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」という状態を豊かに体験しつつご奉仕したのです。
14-18節を読んでみましょう。
“14 不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。
15 キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう。
16 神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。
「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。
──主は言われる──
汚れたものに触れてはならない。そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。」”と記されています。
神の内にあるものと悪魔の内にあるものの対比が記されていますから、まずそれを見ていこうと思います。
☆ 神に在るグループの言葉(単語):正義(14)、光(14)、キリスト(15)、信者(15)、神の宮{(16)神殿}
★ 悪魔(サタン、ぺリアル)に在るグループの言葉:不法{(14)神の法に従わないこと}、闇(14)、ベリアル{(15)悪い者、よこしまな者の意、サタンの別名}、不信者(15)、偶像(16)
2コリント6章の16-18節の「 」内は、旧約聖書からの引用です。
この箇所を読むと、「神の子どもとなる」ということは、行いによるのだ、と思う方もいることでしょう。
しかし今は新約の恵みの時代です。
ありがたいことに、新生したキリスト者は、すでに神の子どもです。
ヨハネ1:12.13には“この方〔御子キリスト・イエス(筆者挿入)〕を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。”と記され、
1ヨハネ3:1.2には、
“私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。”と記されています。
14節の「釣り合わないくびき」という聖句を考えてみます。
「釣り合わない」と訳されている語のギリシア語原語は「ヘテロズゲオー」という単語で、「異なった」という意味もあります。
キリスト者は、キリストと軛を共にしているのです(マタイ11:30)。異なった軛を付けると辛いことになるのです。
もっと言うと、新生した人の霊はキリストの霊と結ばれているのです。(1コリント6:17)
「異なるくびき」「釣り合わないくびき」に該当するものは何でしょうか?
色々該当するものがあると思います。
キリスト信仰を土台として歩みたいのに、それをさせないようにしようとするくびき、それは釣り合わないくびきです。
14-18節には色々と書いてありますが、この個所に記されていることの根底には「まず神の国と神の義を求めなさい。」(マタイ6:33)というあり方があると思います。
この聖句をリビングバイブルは「神を第一とし、神が望まれるとおりの生活をしなさい。」と訳しています。
神さまを第一にして歩む歩みは、生まれながらの人間の能力で出来るものではありません。
神さまを第一にして歩む歩みは、新生した人が、聖霊の助けをいただきつつ歩むことによって、できることです。
神のみ旨に従った歩みをすることは、霊的祝福の土台です。
イスラエルへの祝福は地上の祝福でした(申命記28章)。←ポイント箇所を読むこと+説明
キリスト者への祝福は霊的祝福が第一です(エペソ1:3)。←読むこと+説明
キリスト者は、主を第一にしていれば、天にある霊的祝福だけではなく、地上の生活も保障されています(ピリピ4:19)。←読むこと+説明
今日の聖書個所の後半部分は「あなたがたは、神の子どもなのだから、それにふさわしく神のみ旨の内にあって、人間関係を持ち、また生活しましようね。」と語っておられるのです。
<お祈り>
天のお父様。
常に愛し続けてくださり、ありがとうございます。
何時でも、あなたを第一として歩む者であらせてください。
御名を崇め、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。