キリスト者に与えられた恵み2/義認
以前にも書きましたが、人は、生まれながらに罪をもって生まれてきます。
人は、生まれつきサタンの支配下にあります(エペソ2:1-3)。
人は、神の正しさ(義)の規範である律法を守ることが出来ません(ローマ3:10-12.23)。
それ故神にあっては、人は犯罪人です。不義の人に対する神の法廷における判決は、死刑というものでした。
ローマ6:23aには、“罪の報酬は死です。”(2017)と記されています。
ローマ3:10には、「義人はいない。一人もいない。」(2017)、「正しい者はいない。一人もいない。」(新共同訳)と記されています。
神である主から見ると、人は生まれながらに悪人(悪い人)なのです。
聖書は、人を性悪(しょうわる)であると述べています。
アダムは、罪を持たない人として創造されました。
しかし、ある時、神よりもエバを愛し、サタンの誘惑に乗ってしまったエバの勧めを断ることが出来ず、神に禁止されていた唯一の条項を破って堕罪しました(創世記3章)。
アダムは人の祖先です。
人は堕罪したアダムの罪の性質を受け継いで生まれることとなったのです。
それ故、アダムの子孫である人間は、罪の性質をもって生まれてくるようになりました(ローマ5:12、詩篇51:5)。
罪を持たずに誕生し、罪を犯さずに生涯を終えた人は、神が人となられたイエス・キリスト様ただ一人です。
義と認める(義認)とは、それは主なる神の法廷上におけることであり、人は、義なる行為が完璧に出来るようになるというものではありません。
おそらく義なる行為を自然に行うことが出来るようになるのは、黙示録19:8の時以降のことではないかと思います。
霊の体を与えられたからといって、それだけで義の行為を完璧に行えるものではないのだろうと思います。
サタンは、元大天使であり、サタンに従った多くの堕天使たちも、霊的存在者でしたから。
さて、主である神様は、どのようにして不義なる人を義と認めることができたのでしょうか?
聖句は次のように教えてくれています。
ローマ3:21-31は次のように述べています。
新共同訳には、
“21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。
31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。”と記されています。
リビングバイブル旧版は次のように意訳しています。
“21.22 しかし今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、実際には新しい道とは言えませんが〕。神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
23 そうです。すべての人は罪を犯しました。神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
24 けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。
25 神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
26 そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。いいえ、そんなことはありません。なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。
27 それでは、救われるために、私たちは何か誇れるようなことをしたでしょうか。何もしていません。なぜでしょう。私たちは自分の善行によって無罪とされるのではないからです。それは、キリスト様が成し遂げてくださったことと、キリスト様に対する私たちの信仰に基づいているのです。
28 つまり、私たちが救われるのは、キリスト様を信じる信仰だけによるのであって、善行によるのではありません。
29 神様はこの方法で、ユダヤ人だけをお救いになるのでしょうか。
いいえ、それ以外の外国人も、同じようにして神様のもとに行くことができます。
30 神様はすべての人を全く平等に取り扱われます。ユダヤ人であろうと外国人であろうと、人はみな、信仰があれば無罪とされるのです。
31 それでは、信仰によって救われるのなら、もはや神様のおきてに従う必要はないことになるのでしょうか。正反対です。実のところ、私たちはイエス様を信じきってこそ、ほんとうに神様に従うことができるのです。”と記されています。
1コリント1:30を、
新改訳第3版は、“・・あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。”と記し、
口語訳は、“あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。”と記しています。
ローマ4:25を、
2017は、“主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。”と記し、
新共同訳は、“イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。”と記しています。
義認について聖書辞典は次のように述べています。
“義認は司法的宣言行為であるから、神に義と認められるためには、神との間に正しい法的関係が存在しなければならない。しかし、罪人にはそれがないし、また罪人自身にそれをつくり出すことはできない。それは、神によってのみ可能なのである。神は単に御自分との正しい関係を宣言されるだけでなく、その正しい関係をつくり出してくださるのである。それは,キリストの義を罪人に転嫁することによってなされる。その転嫁されたキリストの義に基づいて義と認められるのである。キリストの義とは、キリストが十字架の死に至る完全な従順によって獲得された義のことである。
義認の根拠はこのキリストの義であって、人の側の行いでも信仰でもない。しかし、創世記15:6、ローマ4:3.9.22、ガラテヤ3:6、ヤコブ2:23で、アブラハムについて、「彼は主を信じた.主はそれを彼の義と認められた」と言われていることから、アブラハムが義と認められた根拠は彼の信仰であったと理解されやすい。もしそうであったとすれば,アブラハムは信仰のゆえに義とされたということになる。しかし、聖書は決してそのような理解を示してはいない。聖書は常に、信仰によって、信仰を通して、信じて、義とされると言っているのであって、信仰のために、信仰のゆえに義とされるとは決して語っていないのである。義認の根拠は罪人に転嫁されたキリストの義であって、人の側の行いでも信仰でもない。
しかし,キリストの義が罪人に転嫁されるのは信仰によって、信仰を通して、である(ローマ1:17、3:22.25‐28.30、4:3.5.16.24、5:1、ガラテヤ2:16、3:8‐9、5:4‐5、ピリピ3:9)。
ここで誤解してならないことは、この信仰は私たちが義と認められていることを信じる信仰のことではない。すなわち、すでに義と認められているのにそれを知らず、あるいは、疑っていた人が真実を知り、信じるようになるという意味の信仰のことではない。
信じることによって初めて義と認められる信仰のことである。キリストを信じる信仰が義認に先行するのであって、義認が信仰に先行しているのではない。
ただし、神の永遠の計画において、キリストにあって救いに選ばれた者は、永遠においてすでに義と認められているとか、キリストが十字架の死に至る従順を全うされた時に、キリストにあって選ばれた者はキリストにあってキリストと共に従順を全うしたので義と認められていると言われるような意味の義認であるならば、信仰に先行していると言うこともできるであろう。しかし、それは神の計画の上でのことであり、また十字架のキリストにおいて起っていたことであって、この世に生きている者が現実に義と認められるのはキリストを信じる信仰によってのみなのである。”(抜粋・筆者:松田一男氏)と記しています。
<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
わたしの様に、不義の内に生まれた者が、あなたの恵みによって義と認めて頂けましたことを感謝します。
イエス様、あなたの十字架と復活を感謝します。
日々、御聖霊に導かれ、助けられて、できるだけ義なる歩みをしていくことができますよう助けてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。