ピリピ人への手紙

2013年9月 4日 (水)

ピリピ4:21-23 あいさつと祝祷

ピリピ4:21-23
4:21キリスト・イエスにある聖徒のひとりびとりに、よろしく。わたしと一緒にいる兄弟たちから、あなたがたによろしく。
4:22すべての聖徒たちから、特にカイザルの家の者たちから、よろしく。
4:23主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。”(口語訳)

 主イエス・キリストを信じる信仰によって、キリストの救いにあずかった者は皆、<キリスト・イエスにある聖徒>です。行いの観点から言っているのではありません。キリストの贖いの故に神のものとしてきよめ分かたれているからです。
パウロは、キリストの故に、ローマで獄中生活をしていたわけですが、獄中生活の間にパウロを通して救われたローマ帝国に仕える人達や奴隷が複数人おこされていたことが<カイザルの家の者たちから、よろしく。 >という内容で分かります。
ピリピの兄弟姉妹達が、パウロは獄中生活をしているので、大変な目に遭っているのではないか、と心配しているのではないかとパウロは思ったのかもしれません。それを安心させる意味でも「特にカイザルの家の者たちから、よろしく。 」と入れたのではないかと思います。

パウロの祝祷には次のようなものがあります。
礼拝の最後によく用いられているのは、2コリント13:13の「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてともにありますように。」ではないでしょうか。
その他の祝祷には次のようなものがあります。
「私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」(ローマ16:20)
「主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」(1コリント16:23)
「私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。」(ガラテヤ6:18)
「父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。」(エペソ6:23.24)
「恵みがあなたがとともにありますように。」(コロサイ4:18)
「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。」(1テサロニケ5:28)
「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。」(2テサロニケ3:18)
「恵みがあなたがたとともにありますように。」(1テモテ6:21)
「主があなたがたの霊とともにおられますように。恵みが、あなたがたとともにありますように。」(2テモテ4:22)
「恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。」(テトス3:15)
「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。」(ピレモン25)
「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。」(ピリピ4:23)

獄中書簡と言われているエペソ、ピリピ、コロサイ、ピレモン、テモテⅡの内、祝祷に「霊」が強調されているのが三つありました。
獄中書簡以外で、「霊」が強調されているのは、信仰のみによって義と認められるのですよ、と教えたガラテヤ人への手紙のみでした。
パウロは、獄中にあって肉体は束縛され不自由でした。しかし、パウロの新創造された霊は永遠であり自由でありました。主の恵みが豊かであれば、霊的に実に豊かであることを獄中書簡は見せてくれているように思います。これは、牢につながれていなくても、病の故に行動を制限されている人、中には、寝たきりの人にとっての朗報です。今までにも、行動制限はあっても満たされていた人達はいましたし、今もいることでしょう。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
たとえ肉体に制限が加えられていても、霊的には、あなたの恵みによって豊かな生活を送れますことを感謝します。
主の御名によって
アーメン

2013年9月 3日 (火)

ピリピ4:10-20 主は必要を満たしてくださる方

ピリピ4:10-20
4:10さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、わたしを思う心が、あなたがたに今またついに芽ばえてきたことである。実は、あなたがたは、わたしのことを心にかけてくれてはいたが、よい機会がなかったのである。
4:11わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。
4:12わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。
4:13わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。
4:14しかし、あなたがたは、よくもわたしと患難を共にしてくれた。
4:15ピリピの人たちよ。あなたがたも知っているとおり、わたしが福音を宣伝し始めたころ、マケドニヤから出かけて行った時、物のやりとりをしてわたしの働きに参加した教会は、あなたがたのほかには全く無かった。
4:16またテサロニケでも、一再ならず、物を送ってわたしの欠乏を補ってくれた。
4:17わたしは、贈り物を求めているのではない。わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実なのである。
4:18わたしは、すべての物を受けてあり余るほどである。エパフロデトから、あなたがたの贈り物をいただいて、飽き足りている。それは、かんばしいかおりであり、神の喜んで受けて下さる供え物である。
4:19わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。
4:20わたしたちの父なる神に、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。”(口語訳)

 この箇所は、ピリピ教会からの献金・献品に対するパウロの感謝とピリピ教会のキリスト者に対する霊的心遣いが書かれています。それに加えて、主に信頼して生きているパウロの生きざまを見させて頂けます。

10、14、15、16、18節は、色々な言い回しで献金や献品に対する感謝をしているのが分かります。
それと共に、献金や献品の感謝を受けたが故に、ピリピの人達が、信仰の本質を見誤ったり、いい気になったりして罪に陥らないよう配慮もしているように思います。それは11-13節や17節に見られます。

私は、高齢者と言われる年齢に至るまで、乏しさを経験したことが無かったので、ある意味弱さを覚えます。パウロのように「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。 わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。 わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。 」(11-13)と証することはできません。勿論、進んで貧しくなりたいとは思いませんが。何しろいと小さき者ですから。
何も無いところから、主に対する信仰だけで、教会を建て上げていく人達を主に在って尊敬し、主を崇めます。主は、そのような方を通して、主の真実を見させてくださいます。
また、キリスト者であっても、倒産や失業、その他で大変な思いをする方もいることでしょう。私自身は体験しなくても、そのような方々が、主に信頼して経済を再建させて頂いたというような証、また、世界を見渡すと、現代でも迫害下にあって食べ物にも困窮する様な状況下におかれても、主が支えてくださったという証を聞きます。

「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。」とパウロは述べていますが、新改訳では、「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」と訳しています。新共同訳や文語訳も断定的に訳されています。
主イエス様は、山上の垂訓の中で
「6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」{新共同訳(マタイ6:27-34)}と言われました。
主にある兄弟で、経済的に困った人や困窮が予想されて心配している人に、いつもしっかりと証してくれる人がいます。「主イエス様は、衣食住に関しては、必ず面倒を見てくださる。」と。私もその事実の一部を見させて頂いているので、ともに主を崇めます。
注意しなければならないのは、「あなたの欲望を満たしてくださる。」と書かれているのではなく、「必要を満たしてくださる。」というところです。
主がご覧になって、「これはあなたに必要だ。」というものは、主を第一として歩んでいる者には保証されるのです。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
主イエス様は、「日ごとの糧を与えたまえ」と祈る祈りを教えてくださいました。
すべてものは神様からくることをこの祈りから教えられると共に、主が与えてくださる方であることを覚えます。
日々、霊の糧、肉体の糧をともどもにお与えください。
いつも、与えて頂いたら、忘れず感謝する者であらせてください。
恵み深き主の御名をたたえつつ主の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年9月 2日 (月)

ピリピ4:4-9 幸せな生き方

ピリピ4:4-7
4:4あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。
4:5あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。
4:6何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
4:7そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。
4:8最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。
4:9あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。 ”(口語訳)

 1テサロニケ5:16-18には、
5:16いつも喜んでいなさい。
5:17絶えず祈りなさい。
5:18すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。”

 主にある喜び、寛容な心、感謝を伴った神への祈りや願い、このような生き方は、神が喜ばれることですし、自分自身も幸せに生きることが出来る方法です。
神の御心の内を歩むと神が常に共にいてくださるからです。
加山雄三は「君といつまでも」の間奏セリフで、「幸せだな―、僕は君といるときが一番幸せなんだ。」といっていますが、それ以上に、まことの神様を知ったなら、神様といるときが一番幸せになるでしょう。その為には、神様と深い関係になる必要があります。

主イエス様は、「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。」{新改訳(ヨハネ14:23.24)}と言われました。
主の中で、或いは主につながって、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝する生き方は、主が希望していることです。主が願っている生き方をするとき、そこには平安、満足、喜びがあります。主の御心にかなった歩みをするときは、主が常に共にいてくださり、主が常に共にいてくださると主の御旨の内を歩みやすいという正のスパイラルを生じます。

何を感謝したらよいのか、感謝する内容など思いつかない、という人は、自分に与えられているものが無くなったことを想像してみてください。空気は?水は?食物は?自分を取り巻く人は?神様は?

喜び、祈り、感謝は幼児でも分かりますし、行うこともできます。しかし、行うとなると年齢に関係なく易しくはありません。すべて、「主に在って」です。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
私も、何時も喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝する生き方、またあなたが8.9節で希望している善なる生き方についても、あなたにあって行っていくことが出来ますように。
常に主と共にあることが出来ますように。あなたから離れては、何もすることができませんからよろしくお願いします。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年9月 1日 (日)

ピリピ4:1-3 主に在って一つになってください

ピリピ4:1-3
4:1だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい。
4:2わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい。
4:3ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである。”(口語訳)

 <わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。>
ピリピの教会は、パウロの第二回伝道旅行の時に誕生した教会です。その時のいきさつは使徒16:6-40に書かれています。恐らく、救いを求めていたピリピ在住のルデヤを初めとする幾人かの人達が神様に祈っていたのではないかと思われるのです。その祈りに答えて、パウロは当初恐らく行こうとは思っていなかったピリピへと聖霊によって導かれて行ったのだろうと思います。その結果ルデヤとその家族が救われました。そこに滞在中に、占いの霊につかれた女奴隷から占いの悪霊を追い出したところ、その女奴隷の所有者の恨みを買い、捕えられ、鞭打たれ、牢に入れられたのです。その時パウロはシラスと一緒でしたのでシラスも一緒に捕えられました。牢の中で、この二人は、神様に文句をいうどころか、反対に神様を賛美していたのです。神様は地震を起こし、また、牢の鍵を全部開けてしまいました。牢番はビックリ仰天したのです。囚人に逃げられたらローマの決まりで身代わりに処刑されるからです。処刑されるよりは自害してしまおうと思ったその時、パウロは声をかけました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と。看守とともに、看守の家の者全員にパウロは福音を語りました。その結果全員が信じて洗礼を受けたのです。
 ピリピに導かれてある期間の間にこれらのことが起きたのです。しかし短い期間の間に、このピリピの人達は、パウロを通して働かれる神を体験することが出来ました。
この様にして誕生したピリピの教会は、その後、パウロの伝道に祈りと物質面で協力していったのです。「わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。」と自然にパウロの口から出てきたことが頷かれます。

パウロは、「主にあって堅く立ちなさい。」と勧めます。
主に在って[in the Lord]、主の内に無ければ堅く立つことなどできません。ピリピの教会の人達はその初めからパウロによって主の内にあるとはどのような事であるのかということを体験した人達でした。牢屋番はそれを通して救われたのですから生涯忘れることのできない強烈な体験であったでしょう。
イエス様は、主に在ってということについてブドウの木の喩えを話しています。その中で「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」(ヨハネ15:1-6)と語っておられます。
主の内に無ければ、主につながっていなければ、すべては空の空です。

 ピリピ教会には困った問題がありました。ユウオデヤさんとスントケさんの間に不仲があったのです。それは、この二人の罪でもありましたが、この二人がキリストの救いにあずかっていたことは確かなことであったのです。この二人は、<「いのちの書」に名を書きとめられている>と言われています。
喜ばしいことではありませんが、教会の中で、このようなことは時々起きます。大切なことは、キリストにあって誤解が解け、和解して、そのことが起こらなかったときよりもさらにキリストによる愛の結びつきが深くなればよいのです。サタンとその配下の悪霊たちは、常に教会の中に不和を入れようと狙っています。
さて、パウロは、<真実な協力者>と呼ばれている人に二人の和解の仲介をお願いしました。ピリピ教会には、ユウオデヤからもスントケからも尊敬されている人がいたのでしょう。現代の教会も内部分裂することなく主に従って行きたいものです。しかし仲良くすることを第一にして、福音の真理から外れてまで一致していくことは許されません。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
主に在って堅く立ち続ける者であらせてください。
いのちの書に名を記してくださっておられますことを感謝します。
主の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年8月31日 (土)

ピリピ3:17-21 天に国籍を持つ者

ピリピ3:17-21
3:17兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。
3:18わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。
3:19彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。
3:20しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。
3:21彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。”(口語訳)

 キリスト者は、二重国籍者です。日本人であれば、日本の国籍を持ち日本人としての保護と権利を有しています。日本の国籍は、地上に生きている間のみ効力を発揮しましが、天の国籍は永遠です。
キリスト者は、キリストを信じ受け入れさせて頂いた故に、永遠の命を持った神の子どもとさせて頂きました。キリスト者は、いつでも天に国籍がある者、即ち天国人として生活することを期待されています。キリストが空中再臨されるとき、キリスト者は、栄光の体即ち霊の体に変えて頂けます。
1テサロニケ4:16.17には、“・・・合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。”(新共同訳)とあります。
また、1コリント15:51-54に、“聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。”(新改訳)とあります。
この時にキリストの復活の体と同じかたちに変えて頂けるのです。(ピリピ3:21)
1コリント15:42-51には、“死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。
つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。
「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。
土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。
兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。
わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。”(新共同訳)とあります。

 以上のようなことが神によって約束され、その時になると、神がことを行って下さるのですから、天国人としてふさわしく生活しなさい、キリストに対するパウロの生き方をみならって生活しなさい、と勧められています。
教会には、いつの時代も、偽りの教えが入ってきましたし、今も見張っていないと入って来ます。
その教えは、必ずキリストの十字架をおとしめ、神の御旨からそらす教えです。十字架のほかに何かを付け加えなければ救われないとか、救われたら何でも自由だからといってほしいままに罪の行いをしていくというものです。一方は、律法主義的であり、一方は放縦です。しかし、どちらも「肉」から出てくるものであり、神の「霊」に属するものではありません。
“肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。”(新改訳)とガラテヤ人への手紙5:19-26にはあります。

<お祈り>
天のお父様
この世は、益々混乱がひどくなりつつありますが、天に国籍を持つ者としてふさわしい歩みをさせて頂けますよう主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年8月30日 (金)

ピリピ3:10-16 前に向かって

ピリピ3:10-16
3:10すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、
3:11なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。
3:12わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
3:13兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
3:14目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
3:15だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。
3:16ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。”(口語訳)

 キリスト者は、程度の差はあっても、<キリストとその復活の力とを知>っている者たちです。また、パウロほどの苦難に遭ったかどうかは別にしてキリストを信じたことの故に、神様が許されている範囲の中で<苦難にあずかっ>た者でもあります。また、信仰によってキリストの十字架上の死と合わされてキリストと共に葬られ、キリストの復活とともに新しく御霊によって霊的に生まれさせて頂いた者です。しかし、まだ、肉体は古いままです。この肉体は、主なる神様の定められた時に永遠に生きることのできる体に変えられます。その時の前に死なれた方の場合は、それまでの期間を霊として天で生活していますが、その時に体を復活させて頂けます。パウロは、霊だけ新しくなればよいというのではなく、体の復活はまだなので、体の復活を得たいと思って主の御前に歩んでいる、といっているのではないでしょうか。
パウロや迫害にあって殉教寸前までいった人達は、肉体においても<キリストの苦難にあずかって、その死の様とひとしくな>った人達でもありました。
霊はすでに新しくされ、キリストの空中再臨までも生きていて体も霊の体に変えられる者、
或いはキリストの空中再臨前に肉体の死を味わい、肉体は死んだけれども霊の体に復活させて頂けるという希望を持って天において主の御前を歩んでいる者、
いずれにしても完全な贖いによって完全な者とされることに望みを抱きつつ主の御前を歩んでいる、また、そのことを追い求めるような生き方をしている者は、キリスト・イエスが捕えてくださったからだといっているように私は解釈します。

パウロは、古びたり痛んだり病んだりすることのない永遠性を持った霊の体が与えられることを目当てに<後のものを忘れ、前のものに向かって>地上の馳場[競技場]を走っているといっていますが、さらにもう一つ<神の賞与を得ようとして>努めている、といっています。
キリスト者もキリストの裁きの場で裁かれますが、これは、おもに、罪に定められたり、滅びに定められたりすることではなく、地上の歩み方を評価をされる、というものです。{参照(マタイ25:14‐30)(ルカ19:11-27)タラントの喩え、ミナの喩え。}
賞を得た者たちには冠も与えられるでしょう。聖書には、朽ちない冠(1コリント9:25)、義の栄冠(2テモテ4:8)、いのちの冠(ヤコブ1:12)、栄光の冠(1ペテロ5:4)などが出てきます。
しかし中にはお仕置きを受ける者たちもいるかもしれません。{参照(マタイ24:48-51)(ルカ12:45-47)}
パウロは、その評価において神の賞与を得ようと努力しているといっています。
1コリント9:23-27にも似た内容のことが次のように書かれています。
“9:23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。
9:24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
9:25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
9:26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
9:27 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。”(新改訳)

<わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。>(15)
<全き人>を新改訳では<成人である者>そして欄外注には別訳として<完全>として記し、新共同訳では<完全な者>という翻訳になっています。
これの原語は、τέλειος テレイオスでストロング辞書では、complete (in various applications of labor, growth, mental and moral character, etc.)となっています。
12節における<完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。>という完全は、栄化された完全、即ち霊だけではなく肉体の贖いも完成した<完全>ということだろうと思います。
一方15節の<全き人><成人である者><完全な者>という完全は、「信仰的に大人となった者」と言い換えてもいいのではないかと思うのです。
参考になるかどうか分かりませんが、1ヨハネ2章で、使徒ヨハネは、信徒達をあるグループに分けて<子どもたちよ><父たちよ><若い者たちよ><小さい者たちよ>などと呼びかけています。
<成人である者><全き者><完全な者>は、キリストが与えてくださっておられる目標を目指して後のものを忘れ、前のものに向かって走っている者ということになるでしょうか。
信仰において、愛において、福音宣教において、・・・・、主が私たちに期待しておられるあり方に突き進んでいくのです。

その中にあって16節の「それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。」(新改訳)のみことばは、余分な力をそぎ落としてくれます。
一人一人の進み方は違うのです。人と比べる必要はないのです。

“こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。
信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。”(ヘブル12:1.2)

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
信仰生活において、間違った完全、もうこれでいいや、と腰をおろしてしまうことなく、既に与えられているところを基準として、常に前進していく者であらせてください。
御霊様が力を与えていて下さいますことを感謝します。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年8月29日 (木)

ピリピ3:1-9 人間的行為ではなくキリストを信じる信仰によって義と認められる

ピリピ3:1-9
3:1最後に、わたしの兄弟たちよ。主にあって喜びなさい。さきに書いたのと同じことをここで繰り返すが、それは、わたしには煩らわしいことではなく、あなたがたには安全なことになる。
3:2あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい。
3:3神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。
3:4もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。
3:5わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、
3:6熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。
3:7しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。
3:8わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、
3:9律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。”(口語訳)

 ピリピの教会にも正しい信仰からずれているユダヤ主義者の人たちの影響があったように見受けられます。この人達は「割礼を受けなければ救われない」と教えて、イエス・キリストを信じる信仰のみによって救われるという正しい信仰のあり方から引きずり出そうとする人達でした。
パウロは、ガラテヤ人への手紙5:2-4で<ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。(新共同訳)>と忠告しています。
男性性器である肉の割礼ではなく、心の割礼を受けている者であるキリスト者即ち<神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。 >(3)のです。
4-6節は、パウロは、自分の出生やユダヤ教における生き様、ユダヤ教に熱心なあまり、教会を迫害したことまでもあげてユダヤ主義者以上にユダヤ主義者であったといっています。そのパウロが、<わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。>(7.8)とあかししているのです。
パウロ[ヘブル名はサウロ]は、教会を迫害していました。キリスト者を次々と逮捕しようとしていたのです。そのパウロにダマスコの近くで、キリストが天から直接パウロに臨んだのです。それによってパウロはイエス・キリストが主であると知ったのです。このいきさつは使徒9章に書かれています。

 パウロは、律法を守ることによっては救われない。何故なら生涯落ち度なく守り切ることなど出来ないから、ということが分かったからです。さらにパウロは表面上の行為でななく、心の中を見詰めた時に自分には<むさぼり>の罪がある、このむさぼりの罪から逃れられないということを見出したというのです。このことはローマ7章に書かれています。(後に、義と認められた後に、御霊の法則によって生きるときその罪からも解放されるということを見出します。)
ここに至り、パウロは、自分の力によって律法の行いを守り、神から義と認められることは不可能であることを知ったのです。たった一つ罪を犯したらもう義とは認められないからです。もしむさぼったらそれで終わりです。父母を敬わなかったらそれで終わりです。偶像例えばマリヤ像を作ったり、拝んだりしたらそれで終わりです。まことの神以外を礼拝したらそれは大いなる罪なのですから。出エジプト記20章を読んでみてください。
パウロは、律法を守ることによって得られる義ではなく(律法を守ることによって義と認められようという方法は、義と認められるに至りません。)、救いはキリストのみをを信じることによって与えられるということを体験したのでした。即ちキリストを信じる信仰による義[キリストを信じたことにより神から義と認められること]を得たので、キリストのうちに自分を見出すようになったのです。(9)

パウロはこれらのことを踏まえて主に在って喜びなさい[rejoice in the Lord]と述べている(1)のだと思います。肉の思いや肉の感情による喜びではなく、主に在っての喜びです。
神の前に罪人であり、神によって裁きを受けて有罪とされるはずであった者が、キリストを信じる信仰のみによって義と認められる、ということを喜びなさい、とパウロは言っているように思います。神様とそのような交わりの関係にあるとき、ユダヤ主義者、現代では、諸種の異端と呼ばれる教えから守られますよ、といっているのではないかと思います。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
主イエス様の贖いを感謝します。
主の故に、滅びるしかなかったものが、義と認められ、永遠の命を頂き、神の子どもとして頂けましたことを感謝します。
時至って、信じられないほどの素晴らしい体験をさせて頂けることを感謝します。
主の御名によって。
アーメン

2013年8月28日 (水)

ピリピ2:19-30 テモテとエパフロデトの奉仕の姿勢

ピリピ2:19-30
2:19さて、わたしは、まもなくテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって願っている。それは、あなたがたの様子を知って、わたしも力づけられたいからである。
2:20テモテのような心で、親身になってあなたがたのことを心配している者は、ほかにひとりもない。
2:21人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。
2:22しかし、テモテの錬達ぶりは、あなたがたの知っているとおりである。すなわち、子が父に対するようにして、わたしと一緒に福音に仕えてきたのである。
2:23そこで、この人を、わたしの成行きがわかりしだい、すぐにでも、そちらへ送りたいと願っている。
2:24わたし自身もまもなく行けるものと、主にあって確信している。
2:25しかし、さしあたり、わたしの同労者で戦友である兄弟、また、あなたがたの使者としてわたしの窮乏を補ってくれたエパフロデトを、あなたがたのもとに送り返すことが必要だと思っている。
2:26彼は、あなたがた一同にしきりに会いたがっているからである。その上、自分の病気のことがあなたがたに聞えたので、彼は心苦しく思っている。
2:27彼は実に、ひん死の病気にかかったが、神は彼をあわれんで下さった。彼ばかりではなく、わたしをもあわれんで下さったので、わたしは悲しみに悲しみを重ねないですんだのである。
2:28そこで、大急ぎで彼を送り返す。これで、あなたがたは彼と再び会って喜び、わたしもまた、心配を和らげることができよう。
2:29こういうわけだから、大いに喜んで、主にあって彼を迎えてほしい。また、こうした人々は尊重せねばならない。
2:30彼は、わたしに対してあなたがたが奉仕のできなかった分を補おうとして、キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになったのである。 ”(口語訳)

 19-24節はピリピ教会へのテモテの派遣について。
25-30節はピリピ教会に属していたが、ピリピ教会から遣わされてパウロに仕えていたエパフロデトの近況とピリピ教会への派遣について記してあります。

<人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。>とありますが、確かに突き詰めるとキリスト者といえども私達の多くはこの成長段階なのだと思います。
主イエス様は、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。」(マタイ10:37.38)と言われましたが、愛する両親よりも、さらに自分よりも主イエス様を愛するという人は、そうそういるものではありません。自分のことが第一ということは普通のことです。しかし、テモテは誰よりも自分よりも主イエス様を愛していたのではないかと思うのです。テモテは、おくびょうなところがありましたので、パウロから「神が私達に与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(2テモテ1:7)よ、と言われたのです。また、病弱でもあったのです(1テモテ5:23)。パウロは恐らくローマに幽閉されていました。キリストとキリストの故にパウロにローマで仕えていた臆病で病弱なテモテが、ローマからギリシャのピリピまで行くということなのです。主の命であるならば、主への愛と主にある兄弟姉妹達への愛の故に、いつでもいのちをかけている様子を見させて頂けます。テモテを動かしていたのは、テモテの内で働かれる主の愛であったのではないかと思います。

ピリピ教会は、パウロの生活費の為の献金を集め、その献金を届けるために、また、パウロに仕えさせるために、エパフロデトを選びパウロのもとへ届けさせたのではないかと思うのです。ですから、エパフロデトはピリピからローマへ行った人です。エパフロデトもいのちをかけてキリストを愛していたということが記されています。エパフロデトは、キリストを愛し、キリストに仕えているので、パウロに仕えたのです。
パウロは、エパフロデトをピリピに派遣するにあたり、このようにキリストを愛してキリストの故にいのちをかけて奉仕する人を尊重しなさい、と手紙に書きました。
いのちをかけてキリストを愛する者を尊重するように、と教えられます。
「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(1コリント13:13)

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
キリストの贖いの故に救いにあずかり、キリストを愛す者に変えてくださいましたことを感謝します。
神の全き愛は、裁きに対する私の恐れを完全に締め出しますが、私もあなたに対して全き愛を持たせて頂くことによって、あらゆる恐れから解放されることを覚えます。
愛のうちに成長させて頂けますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年8月27日 (火)

ピリピ2:12-18 純真な者を目指して

ピリピ2:12-18
2:12わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。
2:13あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
2:14すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。
2:15それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。
2:16このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。
2:17そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。
2:18同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。”(口語訳)

 12節は、私パウロがいなくても私の語ることに従って霊的健全に努めなさい、と言いかえることが出来ると思います。
霊的健全・霊的健康に努めることは聖化の歩みです。
霊的健康の中に歩んでいるときは、きよき歩みです。

13節は、神様がきよくなりたいという願いを起こさせてくださり、それを実現させてくださるとあります。
ときに、この13節を間違って解釈している人を見受けます。
この一節だけを引っ張り出して、自分がしたいことの裏付けにしてしまうのです。
即ち、何かしたいことがあると、聖化されることの願いと全く関係ないところの自分のしたいことの願いを神様が起こしてくださったのだ、というものです。この一連の箇所をよく読んでいくとそれは違っていることが分かると思います。

14節の<疑わず>の原語の意味には、議論せずとか討論せず、という意があります。
私達は、ぶつぶつ言いたくなるような中を通過させられて、きよく整えられていくのだろうと思います。
神様は、元来、私達が責められるところのない純真な者、傷のない神の子となることを望んでおられるというか、そのようにする御計画を立てられたのです。
エペソ1:3-5に、<・・・神は、・・・みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。>とあることによっても分かります。
パウロはローマ12:2では<あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである>と述べています。
主イエス様は、マタイ5:48で<あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。>と愛における完全を命じています。愛におけると書いたのは、このみことばの前数節間の内容を汲んでのことです。

15節を新改訳は、15節と16節の前半として次のように訳出しています。
<それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。>
主イエス様は、「あなたがたは世の光である。・・・あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:14.16新共同訳抜粋)と言われたのです。

16節でパウロは、キリスト者が、天の父があがめられるような歩みをすることが出来るように整えられ、かつ歩んでくれたら大満足であるという意のことをいっています。

17.18節は、パウロの殉教のことをのべていますが、パウロが殉教する時、一緒に喜んでください、とパウロはいうのです。
私達は、迫害殉教、などと言うと恐れをなしてしまいますが、パウロだけでなく多くの兄弟姉妹達の中には、主が与えてくださった大いなる喜びの内に殉教していった人達もいたようです。
「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」(マタイ5:10-12)と主イエス様は言われたのです。
聖書を読んでいると、殉教者には、殉教者に与えられる恵みというのがあるように思います。大患難時代の聖徒たちでさえ、<この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。>(黙示録20:6)といわれているのです。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
あなたの御心は、私達がきよくなることです。
そして、私達を通してあなたがあがめられることです。
そのような歩みをさせてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年8月26日 (月)

ピリピ2:5-11 謙遜の模範であるキリスト

ピリピ2:5-11
2:5キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。
2:6キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
2:7かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
2:8おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
2:9それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。
2:10それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、
2:11また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。 ”(口語訳)

 5節は、前の箇所を受けています。5節の口語訳だけを読むと分かりにくいのですが、詳訳聖書の意訳の部分はは分かりやすいので、それを載せます。
<キリストをあなたがたの謙遜の模範としなさい。>
新共同訳では<互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。>と訳出しています。
パウロは、ほかの箇所でも似た内容の文章を残しています。
<わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めているわたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。>(1コリント10:33.11:1)

 6-8節は、キリストの謙遜の箇所として描かれている有名な箇所です。
キリストの謙遜の態度の根底にあったものは、父なる神への愛と人への愛であったと思います。
人間はというと、すぐに高慢になったり、卑屈になったりします。この心の現れは、原罪[Sin]としての罪の結果です。
本来は、愛を持って作ってくださった神様の作品である自分自身を感謝を持ってそのまま受け入れれば良かったのです。神様は、完璧な人間を作りませんでした。それぞれの人がお互いに尊敬できるところを見出せるように造られたのではないかと思うのです。(私の理解が正しいかどうかは定かではありませんが)

主イエス様の場合は、神である方が人のかたちをとってくださったのです。
人間の場合は、人間として健全になるようにと勧められているだけです。
そこには次元的に大きな違いがあります。
9-11節のキリストの栄誉は、謙遜の後に来ていますが、これも<謙遜は栄誉に先立つ>(箴言15:33)のですよ、と教えるために書かれているのだと思うのです。
神のひとり子に対して、被造物である天上の者達である天使たち並びに既に天に帰った聖徒たちや、地上の人間を含めたあらゆる生き物や、地下に生息している堕天使の一部や黄泉に下った人達は、ひざをかがめて、神のひとり子を礼拝することは至極当然のことであるのです。
罪によってその当たり前のことが当たり前で無くなってしまったのです。

感謝すべきことにキリスト者は神の愛とキリストの恵みを体験して心から主をほめたたえることが出来るように変えられました。

天と地と地の下と海の中にいるすべての造られた者達の賛美が次のように記されています。
<さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、 大声で叫んでいた、
「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。
またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、
「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。
四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。>(黙示録5:11-14)

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します
自分を正しく捉えて歩む者であらせてください。
尊大、高慢に陥ることなく、劣等感に満ちて卑屈になることもなく、健全な思いを持って主に感謝しつつ愛を基礎として歩む者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

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