コロサイ人への手紙

2013年9月26日 (木)

コロサイ4:15-18 主から受けた務めをよく果たすように

コロサイ4:15-18
4:15ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会とに、よろしく。
4:16この手紙があなたがたの所で朗読されたら、ラオデキヤの教会でも朗読されるように、取り計らってほしい。またラオデキヤからまわって来る手紙を、あなたがたも朗読してほしい。
4:17アルキポに、「主にあって受けた務をよく果すように」と伝えてほしい。
4:18パウロ自身が、手ずからこのあいさつを書く。わたしが獄につながれていることを、覚えていてほしい。恵みが、あなたがたと共にあるように。 ”(口語訳)

 17節に<アルキポに、「主にあって受けた務をよく果すように」と伝えてほしい。>とあります。
アルキポについては、ピレモンへの手紙に、「キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する同労者ピレモン、姉妹アピヤ、わたしたちの戦友アルキポ、ならびに、あなたの家にある教会へ。」(1.2)ととありますから、アルキポは牧会伝道に携わっていたのかもしれません。
「務めをよく果たしなさい。」と言われている中の「よく」を新改訳では<注意してよく>、岩波訳では<心を配り>、新共同訳では<意を用い・・よく>、文語訳では<慎みて>となっています。
<務め>は、職責、奉仕などとも他の聖書では訳されています。
アルキポのような奉仕でなくてもキリスト者一人一人に主イエス様は、「私から受けた務めをよく果たしなさい。」と言われることと思います。

 ローマ12:4-8は、キリストの体である教会を構成しているキリスト者は、キリストの体の為に一人一人に与えられた務めがあることが書かれていますし、与えられている務めをよく果たすように勧めています。次のように記されています。
12:4なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、
12:5わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。
12:6このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、
12:7奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、
12:8勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。」

また、主イエス様は、タラントのたとえで次のように語られました。
25:14また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。
25:15すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。
25:16五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。
25:17二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。
25:18しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。
25:19だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。
25:20すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。
25:21主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。
25:22二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。
25:23主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。
25:24一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。
25:25そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。
25:26すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。
25:27それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。
25:28さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。
25:29おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
25:30この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。」(マタイ25:14‐30)

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
あなたが与えたくださいました務めを忠実に思慮深く果たして天に帰ることが出来ますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年9月25日 (水)

コロサイ4:14 ルカ、デマス

コロサイ4:14
“愛する医者ルカとデマスとが、あなたがたによろしく。”(口語訳)

 この箇所から、ルカは医者であったことが分かります。
ルカが聖書に初めて登場するのは、使徒16:10です。使徒16:10に「パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちにマケドニヤに渡って行くことにした。」とあります。ここで、使徒の働きの著者のルカは、初めて「わたしたち」と記しています。
ルカはルカによる福音書の著者でもあります。ルカは、主イエス様が地上におられるときに弟子になったのではありませんからルカの福音書を書くにあたっては、「すべてのことを初めから綿密に調べて、・・・順序を立てて書い」たと述べています。(ルカ1:3)ルカの福音書は、目撃者たちの証言に基ずいてルカが纏めたものであると共に、事実を述べることによって、テオピロ殿が救われるようにと記した文書伝道書でもあったのです。ルカの福音書の執筆年代は、57-60年位の間のどこかであっただろうと推測されています。使徒の働きの執筆年代は、61年ごろと推測されています。テオピロは、使徒の働きが書かれる以前にキリスト者となったであろうと思われます。それは、使徒1:1で、「テオピロよ。」という書き出しで始まっていることからの推測です。
個人宛に書かれた書簡が聖書の聖典になり、それによって、多くの人々がキリスト者とされ、また、そこに書かれているみことばによって成長させて頂けました。救いも成長もみことばを用いて働かれた聖霊によるのですけれども、いずれにしても、ルカさんは、後になって驚いたでしょうね。
注解付新改訳聖書(いのちのことば社)の緒論には、「パウロの第二回伝道旅行の際には、トロアスから同行して、ピリピまで行き、そこに数年間滞在した。第三回伝道旅行の帰途ピリピから再びパウロに同行して、エルサレムへ行き、さらにそこからローマへ行き、パウロが獄中にいるときにも、常に一緒にいた。」とあります。
ルカが獄中のパウロと共にいたことは、ピレモンへの手紙やテモテへの手紙Ⅱからも分かります。
「キリスト・イエスにあって、わたしと共に捕われの身になっているエパフラスから、あなたによろしく。わたしの同労者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからも、よろしく。」(ピレモン23.24)
「ただルカだけが、わたしのもとにいる。」(2テモテ4:11)

 デマスは、ピレモンへの手紙、コロサイ人への手紙、テモテへの手紙Ⅱに登場します。
「わたしの同労者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからも、よろしく。」(ピレモン24)
「愛する医者ルカとデマスとが、あなたがたによろしく。」(コロサイ4:14)
「デマスはこの世を愛し、わたしを捨ててテサロニケに行ってしまい、」(2テモテ4:10)
厳粛ですね。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
ルカのように愛を持って忠実に歩めますように。
デマスのようになってしまうことの無いようにお守りください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年9月24日 (火)

コロサイ4:12.13 エパフラス

コロサイ4:12.13
4:12あなたがたのうちのひとり、キリスト・イエスの僕エパフラスから、よろしく。彼はいつも、祈のうちであなたがたを覚え、あなたがたが全き人となり、神の御旨をことごとく確信して立つようにと、熱心に祈っている。
4:13わたしは、彼があなたがたのため、またラオデキヤとヒエラポリスの人々のために、ひじょうに心労していることを、証言する。”(口語訳)

 エパフラスは、コロサイ2箇所とピレモン一箇所に登場します。
コロサイ1:6-8には、「そして、この福音は、世界中いたる所でそうであるように、あなたがたのところでも、これを聞いて神の恵みを知ったとき以来、実を結んで成長しているのである。あなたがたはこの福音を、わたしたちと同じ僕である、愛するエペフラスから学んだのであった。彼はあなたがたのためのキリストの忠実な奉仕者であって、あなたがたが御霊によっていだいている愛を、わたしたちに知らせてくれたのである。」とあります。
 「あなたがたはこの福音を、わたしたちと同じ僕である、愛するエペフラスから学んだのであった。彼はあなたがたのためのキリストの忠実な奉仕者であって」(コロ1:7)とありますから、エパフラスはコロサイ教会の牧会者であったのだと思います。
また、コロサイの兄弟姉妹達は、イエス様を信じて救われて、御霊が与えられ、御霊による愛の交わりをしているとエパフラスは、パウロに報告した、とあります。

ピレモン23には、「キリスト・イエスにあって、わたしと共に捕われの身になっているエパフラスから、あなたによろしく。」とあります。
 ピレモンへの手紙は、ピレモン個人にあてた手紙です。ピレモンは、コロサイの人でありました。このピレモンへの手紙により、エパフラスもパウロと共に捕らわれの身となっていることが分かります。

 コロサイ4:12の「あなたがたのうちのひとり、キリスト・イエスの僕エパフラス」より、エパフラスは、コロサイに所属しているコロサイ教会の牧会者であることが分かります。エパフラスは牧会者でしたから、コロサイ教会のキリスト者達の一人一人の霊的状態をよく把握していたのでしょう。エパフラスのとりなしの祈りは、コロサイ教会の兄弟姉妹達が、全き人即ち完全な人となるように、神のみことばを、知的に霊的にことごとく理解して確信し、そのみことばを信じて立つことが出来るようにと、熱心に祈っていたというのです。また、コロサイ教会の兄弟姉妹達の為だけではなく、ラオデキヤやヒエラポリスの兄弟姉妹達の為にも暑い祈りをささげ続けている、とパウロは伝えています。

 ヘブル13:17に「指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。そうでないと、あなたがたに益となりません。」(新共同訳)というみことばがありますが、エパフラスは、まさに魂の見張りをし、整えられるように、成長するようにと熱く祈り続けている牧会者であったのです。

2013年9月23日 (月)

コロサイ4:10.11 マルコと呼ばれているヨハネ

コロサイ4:10.11

“4:10 わたしと一緒に捕われの身となっているアリスタルコと、バルナバのいとこマルコとが、あなたがたによろしくと言っている。このマルコについては、もし彼があなたがたのもとに行くなら、迎えてやるようにとのさしずを、あなたがたはすでに受けているはずである。
4:11 また、ユストと呼ばれているイエスからもよろしく。割礼の者の中で、この三人だけが神の国のために働く同労者であって、わたしの慰めとなった者である。”(口語訳)

 マルコは、母をマリヤといい、最後の晩餐は、マルコの母マリヤの家でもたれたという伝承があります。また、この家は、キリスト者の集会所ともなっていました。それ故、マルコの家には、主イエスも幾度か来られてでしょうし、使徒や弟子たちも始終集まっては祈っていた所なので、マルコは霊的に良い環境に置かれていたことが分かります。
使徒12:12には、「ペテロは・・・・、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家に行った。その家には大ぜいの人が集まって祈っていた。」とあります。この時のペテロは、時の権力者ヘロデに捕えられて牢に入れられ、危険な状態に置かれていたときでした。その時、キリスト者達がペテロの為に祈っていた家がマルコの母マリヤの家であったのです。ペテロは、神様から遣わされた天使によって助け出されますが、すぐに、マルコの母マリヤの家へ行ったのです。それが使徒12:12です。

 使徒13:1-5に「さて、アンテオケにある教会には、バルナバ[マルコのいとこ]、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、およびサウロ[パウロのヘブル名]などの預言者や教師がいた。
一同が主に礼拝をささげ、断食をしていると、聖霊が「さあ、バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当らせなさい」と告げた。
そこで一同は、断食と祈とをして、手をふたりの上においた後、出発させた。
ふたりは聖霊に送り出されて、セルキヤにくだり、そこから舟でクプロに渡った。
そしてサラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言を宣べはじめた。彼らはヨハネを助け手として連れていた。」とあります。第一次伝道旅行にヨハネ即ちマルコは、助けてとしてお供したのです。
ところが、マルコは、伝道旅行を投げ出してエルサレムに帰ってしまったのです。使徒13:13は、その事実だけを「パウロとその一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネは一行から身を引いて、エルサレムに帰ってしまった。」と書いていますが、第二次伝道旅行に行くに当たり次のようなことが起こりました。
“幾日かの後、パウロはバルナバに言った、「さあ、前に主の言葉を伝えたすべての町々にいる兄弟たちを、また訪問して、みんながどうしているかを見てこようではないか」。そこで、バルナバはマルコというヨハネも一緒に連れて行くつもりでいた。しかし、パウロは、前にパンフリヤで一行から離れて、働きを共にしなかったような者は、連れて行かないがよいと考えた。こうして激論が起り、その結果ふたりは互に別れ別れになり、バルナバはマルコを連れてクプロに渡って行き、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。そしてパウロは、シリヤ、キリキヤの地方をとおって、諸教会を力づけた。”(使徒15:36-41)
 パウロは、マルコが、弟子として、また宣教者としてふさわしくない、手足纏いだ、と思ったのではないでしょうか。
主イエス様が地上におられたとき、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(マルコ8:34)と言われました。マルコは、第一次伝道旅行のときは、まだ、このように整えられていなかったのでしょうね。
バルナバは、慰めの子と言われた人です。恐らく、バルナバは、マルコを慰め、励まし、マルコに応じた取り扱いをしながら、主にあってマルコを成長させたのでしょうね。
パウロの晩年の手紙に「マルコを連れて、一緒にきなさい。彼はわたしの務のために役に立つから。」(2テモテ4:11)と書いています。
マルコはあまちゃんでしたが、主は、バルナバを用いて、また、直接主ご自身で、主の働き人として成長させたのです。

コロサイの手紙では、マルコは、「神の国のために働く同労者であって、わたしの慰めとなった者である。」とパウロに言われているのです。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇め感謝し、賛美します。
あなたは、私には私に応じて対応してくださり、成長させてくださる方ですから感謝します。
あなたから目を離さず、あなたに従っていく者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年9月22日 (日)

コロサイ4:10.11 アリスタルコ、ユスト

コロサイ4:10.11
4:10わたしと一緒に捕われの身となっているアリスタルコと、バルナバのいとこマルコとが、あなたがたによろしくと言っている。このマルコについては、もし彼があなたがたのもとに行くなら、迎えてやるようにとのさしずを、あなたがたはすでに受けているはずである。
4:11また、ユストと呼ばれているイエスからもよろしく。割礼の者の中で、この三人だけが神の国のために働く同労者であって、わたしの慰めとなった者である。”(口語訳)

 割礼の者、即ちユダヤ人キリスト者の中でアリスタルコ、マルコ、ユストだけが、神の国の為に働くパウロの同労者であったのです。また、この三人は、パウロの慰めとなったとあります。
キリスト昇天後の初めのペンテコステの日に3000人ほどが弟子に加えられた(使徒2:41)とあります。その後も弟子は増え続けて行きました(使徒5:14、6:1)。しかし、ヘブル人への手紙が書かれたことからして、ユダヤ教に後戻りをしてしまう人達も多くいたのではないかと思います。
ユストと呼ばれているイエスについては、聖書の他の箇所に記載がありませんが、パウロの同労者であり、パウロの慰めとなったというのですから非常に素晴らしい信仰者であったのでしょう。

アリスタルコは、パウロと一緒に捕らわれの身となっていると書かれています。
アリスタルコは、本書を含め新約聖書の5箇所に登場しますので、その箇所のみことばを見ていきます。
「そして、町中が大混乱に陥り、人々はパウロの道連れであるマケドニヤ人ガイオとアリスタルコとを捕えて、いっせいに劇場へなだれ込んだ。」(使徒19:29)
暴動が起きて、アリスタルコが捕えられる原因となったのは、パウロの伝道が功を奏し、偶像製作者達が不安を覚えたことにあります。
この時の状況を聖書から拾い読みしてみたいと思います。
“そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。その人たちはみんなで十二人ほどであった。 (19:4-7)・・・彼は弟子たちを引き連れて、その人たちから離れ、ツラノの講堂で毎日論じた。それが二年間も続いたので、アジヤに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシヤ人も皆、主の言を聞いた。 神は、パウロの手によって、異常な力あるわざを次々になされた。たとえば、人々が、彼の身につけている手ぬぐいや前掛けを取って病人にあてると、その病気が除かれ、悪霊が出て行くのであった。(19:9-12)・・・このようにして、主の言はますます盛んにひろまり、また力を増し加えていった。 (19:20)”
この様な伝道の成果により黙っていられなくなった銀細工人デメテリオが扇動したので、騒乱に陥っていったのです。次のように書いてあります。
“デメテリオという銀細工人が、銀でアルテミス神殿の模型を造って、職人たちに少なからぬ利益を得させていた。この男がその職人たちや、同類の仕事をしていた者たちを集めて言った、「諸君、われわれがこの仕事で、金もうけをしていることは、ご承知のとおりだ。 しかるに、諸君の見聞きしているように、あのパウロが、手で造られたものは神様ではないなどと言って、エペソばかりか、ほとんどアジヤ全体にわたって、大ぜいの人々を説きつけて誤らせた。これでは、お互の仕事に悪評が立つおそれがあるばかりか、大女神アルテミスの宮も軽んじられ、ひいては全アジヤ、いや全世界が拝んでいるこの大女神のご威光さえも、消えてしまいそうである」。これを聞くと、人々は怒りに燃え、大声で「大いなるかな、エペソ人のアルテミス」と叫びつづけた。”(19:24-28)
とあります。
「そして、町中が大混乱に陥り、人々はパウロの道連れであるマケドニヤ人ガイオとアリスタルコとを捕えて、いっせいに劇場へなだれ込んだ。」(使徒19:29)と続くのです。

その後も騒動は続きましたが、市の書記役が説得に成功し、騒動は静まったのです。(19:30-41)
そして、「騒ぎがやんだ後、パウロは弟子たちを呼び集めて激励を与えた上、別れのあいさつを述べ、マケドニヤへ向かって出発した。そして、その地方をとおり、多くの言葉で人々を励ましたのち、ギリシヤにきた。彼はそこで三か月を過ごした。それからシリヤへ向かって、船出しようとしていた矢先、彼に対するユダヤ人の陰謀が起ったので、マケドニヤを経由して帰ることに決した。プロの子であるベレヤ人ソパテロ、テサロニケ人アリスタルコとセクンド、デルベ人ガイオ、それからテモテ、またアジヤ人テキコとトロピモがパウロの同行者であった。」(使徒20:1-4)とあるようにアリスタルコはひどい目にあってもなおパウロと行動を共にしていたのです。

「そしてわたしたちは、アジヤ沿岸の各所に寄港することになっているアドラミテオの舟に乗り込んで、出帆した。テサロニケのマケドニヤ人アリスタルコも同行した。」(使徒27:2)
このときのパウロは、未決囚人としてローマへ連れていかれるために船に乗っている状態でした。その時、アリスタルコも同行したのです。ここに至る騒動や数回の裁判等々については使徒の働き21:17から27:1まで続くのです。カイザリヤにおける裁判でローマ市民であるパウロは、カイザルに上訴したのです。それ故、ローマ行きとなったのですが、ローマ総督フェストは、宗教のからんだ裁判の判決をどのように下したらよいのか思い悩んだのでした。数日後、フェストをアグリッパ王が表敬訪問しました。アグリッパ王は、フェストから裁判の状況を聞きました。それでアグリッパ王は自分もパウロの話を聞きたいといったのです。フェストはカイザルへの上訴理由を書くことが出来ないのでアグリッパ王とともにもう一度パウロを呼び出して、パウロの弁明を聞いたのです。その話を聞いた後、アグリッパ王は総督フェストに「この人は、もしカイザルに上訴しなかったら、釈放されたであろうに」と言ったのでした。(26:32)

「わたしの同労者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからも、よろしく。」(ピレモン24)
以上を見てくると、アリスタルコは、パウロにとって慰めであったといわれることが分かるような気がします。

 主イエス様が、自分の罪の為ではなく、全人類の罪の為に、その罪を負って十字架につけられるというとき、弟子たちは、皆逃げてしまいました。
一方イエス様は、ご自分の働き人たちが福音宣教の故に辛い目にあわされているとき、そこに慰めてを置いてくださる方であることが分かります。誰もいないときには、主イエス様が現れてくださることもありました。さらに慰め主として聖霊がすべてのキリスト者に与えられているのです。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
あなたは、私たちの大変な時に、見て見ぬふりをするのではなく、慰めてを置いてくださったり、直接慰めてくださいますから感謝します。
大変であればある程、「あれがいけない、これがいけない、~があったからだ。」などと言っていないで、主から慰めを頂いて解決することが出来ますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年9月21日 (土)

コロサイ4:7-9 テキコとオネシモ

コロサイ4:7-9
4:7わたしの様子については、主にあって共に僕であり、また忠実に仕えている愛する兄弟テキコが、あなたがたにいっさいのことを報告するであろう。
4:8わたしが彼をあなたがたのもとに送るのは、わたしたちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるためなのである。
4:9あなたがたのひとり、忠実な愛する兄弟オネシモをも、彼と共に送る。彼らはあなたがたに、こちらのいっさいの事情を知らせるであろう。”(口語訳)

 7-14節までを読むと、捕らわれの身であるパウロとともに、多くの同労者達がいることが分かります。
かつて主イエス様が十字架につけられるために捕えられたとき、11弟子たちは皆逃げてしまいました。11弟子たちは、イエス様が復活され、弟子たちに聖霊が送られた後、聖霊によって非常に強められたのです。ヨハネを除く10人の使徒たちは、皆殉教したといわれています。ヨハネは、釜ゆでの刑にされましたが、死にませんでした。その後パトモス島に流刑にされヨハネの黙示録を書いたのです。ヨハネを見るとき、神様からの使命が終わらない限り、天に召されないと思えます。地上における使命がある間は、地上に留められるのです。
パウロの同労者達も聖霊に満たされていたので、捕らわれの身となっているパウロとともにいることが出来たのでしょう。パウロは一応囚人として捕らわれていましたから、囚人とともに災いをこうむることもあるのではないかと想像できたでしょうから。
パウロは、テモテに「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎み[思慮分別(新共同訳)]の霊です。」(2テモテ1:7)と語りましたが、聖霊に満たされ導かれることはすごいことですね。

 テキコは新約聖書に5回登場します。
この箇所の他には、使徒20:4、エペソ6:21、2テモテ4:12、テトス3:12があります。
「プロの子であるエペソ人ソパテロ、テサロニケ人アリスタルコとセクンド、デルベ人ガイオ、それからテモテ、またアジヤ人テキコとトロピモがパウロの同行者であった。」(使徒20:4)
「わたしがどういう様子か、何をしているかを、あなたがたに知ってもらうために、主にあって忠実に仕えている愛する兄弟テキコが、いっさいの事を報告するであろう。彼をあなたがたのもとに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるようになるためなのである。」(エペソ6:21.22)
「わたしはテキコをエペソにつかわした。」(2テモテ4:12)
「わたしがアルテマスかテキコかをあなたのところに送ったなら、急いでニコポリにいるわたしの所にきなさい。わたしは、そこで冬を過ごすことにした。」(テトス3:12)
以上から見ても、テキコは如何に忠実な人で信頼されていた人であったかが分かります。
コロサイ書に書かれているパウロによるテキコの紹介は、①パウロとともに主のしもべであるということ、②忠実に主に仕えている(それ故、忠実にパウロに仕えている)愛する兄弟であるということです。
テキコをコロサイに送るのは、①獄やにいるパウロとパウロとともにいる者達の様子、また、ローマの兵たちやその家族の中で救われた人達の様子のことなどを知ってもらって安心してもらい、そのことの故にも、共に主の御名を崇めることが出来るようになるともに適切に祈ってもらうためであったでしょう。また、②パウロにコロサイの人たちの情報を持ちかえることにより心に励ましを受けたかったのでしょう。その中には、コロサイ人への手紙に書かれているコロサイ教会のある人達の信仰のありようも正されましたよ、という内容が含まれていることを期待していることが暗示されているとみることも出来るのではないでしょうか。

 オネシモについてのいきさつは、ピレモンへの手紙に書かれています。
オネシモは、ピレモンの奴隷であったのです。オネシモはピレモンのもとを逃げ出してパウロのところへ行ったのです。オネシモは、そこで回心し忠実な愛する兄弟といわれるように変えられました。人間社会の中にあって主人と奴隷でも神の国では、人間同士は、神の前に平等です。キリストを受け入れれば、人間社会の奴隷の主人と奴隷の関係であっても、神なる主の御前では、お互いに神の子とされた者であり兄弟なのです。ただし、地上にあっては、地上における立場をわきまえて行動する必要があります。
パウロは、オネシモをピレモンのもとへかえしたのです。
ピレモンへの手紙の中に次のような記載があります。
「1:9 むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが、
1:10 獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。
1:11 彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。
1:12 そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。
1:13 私は、彼を私のところにとどめておき、福音のために獄中にいる間、あなたに代わって私のために仕えてもらいたいとも考えましたが、
1:14 あなたの同意なしには何一つすまいと思いました。それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。
1:15 彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。
1:16 もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか。
1:17 ですから、もしあなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。
1:18 もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。
1:19 この手紙は私パウロの自筆です。私がそれを支払います──あなたが今のようになれたのもまた、私によるのですが、そのことについては何も言いません。──
1:20 そうです。兄弟よ。私は、主にあって、あなたから益を受けたいのです。私の心をキリストにあって、元気づけてください。
」{(9-20)新改訳}

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
主に忠実に仕え続けていくことが出来ますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年9月20日 (金)

コロサイ4:5.6 未信者に対して

コロサイ4:5.6
4:5今の時を生かして用い、そとの人に対して賢く行動しなさい。
4:6いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう。”(口語訳)

 「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(1テモテ2:4)から、まだ、キリストを信じていない人に対して、キリスト者は、今の時を用いなさい、或いは、機会を捉えなさい、それも賢く[賢明に、知恵を用いて]行動しなさい、と命じられています。その際には、塩で味つけられた優しい[恵みの]言葉を用いなさいとも命じられています。

 私たちは、真理の故にではなく、自分の不注意や愛の無いことによって、少なくとも人を躓かせたり、遠ざけてしまうようなことがあってはならないと思います。そのような恐れのあるときには、静かにしておいた方が無難かもしれません。だからといってタラントの喩えの1タラントに人になったら大変です。(マタイ25:14‐30)
未信者の人は、語った人の生活態度がどのようであるかをよく見ています。生活そのものが証になっていきますから、普段の生活態度、それが現れる土台であるところの心のきよさが大切であると常に思わされることです。

ペテロは、信仰の故の苦難の中にあっての伝道について次にように語っています。
「もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。
いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。
むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。
ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。」(1ペテロ3:13-16)
また、伝道者であるテモテに対しては、時の善し悪しを言っていないで、しっかりのべ伝えるように、と次のように命じています。
「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(2テモテ4:1.2)
エペソ人への手紙には、「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(4:29)、「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。」(5:15-17)ともあります。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
私は時間を無駄に使ってしまうことが多いですから、時間を上手に管理し、用いることが出来るようにして下さい。私の口のことばと心の思いが主に喜ばれるものでありますよう整えてください。
悪い時代ですけれども、私のような者を通しても、あなたの尊い御救いに預かる人が起こされていきますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年9月19日 (木)

コロサイ4:2-4 感謝を持ってたゆみなく祈れ

コロサイ4:2-4
4:2目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい。
4:3同時にわたしたちのためにも、神が御言のために門を開いて下さって、わたしたちがキリストの奥義を語れるように(わたしは、実は、そのために獄につながれているのである)、
4:4また、わたしが語るべきことをはっきりと語れるように、祈ってほしい。”(口語訳)

 何が書かれているのかは読めばすぐにわかることですが、常に感謝、継続した祈り、自分の大変さは脇において宣教の為のとりなしの祈りの依頼等、どれもとても霊的レベルの高いことです。
自分が困難な状態に置かれていれば、或いは自分の愛する存在が困難に置かれていれば祈り続けるでしょう。しかし、主が安らぎの内において下さっておられるとき、どれだけ心を注ぎだしてキリストの教会(教会は全世界にあります)の為に祈ることが出来るでしょうか。
また、困難の中におかれているときも感謝とともに祈るのです。愛する者が大変な状況にあるとき、感謝とともに祈るのです。自分というものが、人間というものが、神様の前にいかなる存在なのか、ということが分かっていないと到底あらゆるときに感謝することはできません。今の時代は、良き状態が与えられることは、当然の権利のように思う時代です。空気も水も自分で作ったのではないのに。食料になるものもその初めは、自分で作ったのではないのに。太陽と地球の距離を適切においてくださったのは神様です。太陽の燃焼の仕方を調節しているのは神様です。最近は、太陽の燃え方を少し強くしてみたり、弱くしてみたりして人間に注意を促しておられるようですけれども。黙示録を読むと太陽の燃え方の強弱をもっと激しく変えるようなことが書かれています(黙示録8:12、16:8.9)。人間は、本当に小さな存在です。神様から見たら、国々は手桶のひとしずく、はかりの上のごみのよう(イザヤ40:15)なものなのです。それほどに神様と人間の間には差があるのです。しかし、愛である神様は、罪人の私たちを愛してくださって、私たち罪人が罪の為の裁きを受けなくても済むように、神とともに永遠に生きることが出来るように、愛してやまないひとり子の神[イエス・キリスト]を十字架にかけるために遣わされたのです。主イエス様も、御父の心を知り、また私たち罪人を愛してご自身から遣わされるように願ったのです(詩編40:6-8、ヘブル10:5-7、ヘブル2:14.15)。地上生活においても聖霊が内にいてくださいます。聖霊は、真理を教えてくださり、助けてくださり、慰めてくださり、必要を満たしてくださる方です。何しろ神様なのですから。キリスト者は、どのような環境に置かれても、感謝できるようにされているのです。秘訣は、自分を見るのでもなく、他人や環境を見るのでもなく、サタンやその配下の者たちの陰謀や働きを見るのでもなく、勿論、それらを知ることは悪いことではありませんが、私たちは、イエス様から目を離さないで生きるのです(ヘブル12:2)。いつもイエス様を思っていることなのです(2テモテ2:8)。パウロは、イエス様をみならうようにして生きていたのです(1コリント11:1)。

 パウロが、とりなしの祈りをして下さいと願った内容は、自分が出来るだけ早く牢から出されるようにとか、辛さから解放されるように、などというような内容ではなく、御霊の導きによって、福音を適切にはっきりと語れるように、語ることのできる環境がもっと開かれるように、ということでした。
この箇所に書かれている事柄は、すぐに分かりますけれども、私などは、もっと成熟させて頂かないとこの状態に届きません。
パウロは、ローマの教会へは、「望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。」(ローマ12:12)と勧めました。
ピリピの教会へは、「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。」(ピリピ4:6)と勧めました。
テサロニケの教会へは、「絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」(1テサロニケ5:17.18)と勧めました。
エペソの教会へは、「絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:18)と勧めました。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めて感謝します。
パウロを通してあなたが私に求めている内容を理解することは、難しいものではありませんが、そのように生きることは未熟な故、難しさを覚えます。
しかし、そのことが出来ていても出来ていなくても愛してくださっておられますから感謝します。
主が望んでおられるように、主が整えてくださって、少しでも近づくことが出来ますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年9月18日 (水)

コロサイ3:18-4:1 家族関係、主人としもべの関係

コロサイ3:18-4:1
3:18妻たる者よ、夫に仕えなさい。それが、主にある者にふさわしいことである。
3:19夫たる者よ、妻を愛しなさい。つらくあたってはいけない。
3:20子たる者よ、何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれることである。
3:21父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかも知れないから。
3:22僕たる者よ、何事についても、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、真心をこめて主を恐れつつ、従いなさい。
3:23何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。
3:24あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである。
3:25不正を行う者は、自分の行った不正に対して報いを受けるであろう。それには差別扱いはない。
4:1主人たる者よ、僕を正しく公平に扱いなさい。あなたがたにも主が天にいますことが、わかっているのだから。”(口語訳)

 この箇所は、現代の考え方に照らして、色々反論をのべたくなる人が出てくる箇所ではないかと思います。私は、神様が教えてくださるいつの時代にも不変の真理について考えてみたいと思います。
 ここに書かれている内容は、御霊によって新しく生まれていない人が実行することは難しいことではないかと考えます。新しく生まれさせて頂いた人であっても現代の考え方からすると反論したくなる人もいると思います。私は、現代の考え方はわきに置いて、まず、キリストとキリスト者との関係で考えたいと思います。
 妻たる者よ、とありますが、キリスト者の集合体の教会(初代教会の初めから教会時代が閉じられるまでのすべてのキリスト者の総体)は、キリストの花嫁、妻です(黙示録21:9、エペソ5:22-33)。夫であるキリストに対して妻であるキリストの教会は愛を持って仕える者です。
 夫たる者よ、とありますが永遠における本当の夫は、キリストです。夫であるキリストは、自分の命を投げ出して妻を救ってくださいました。救った後も、妻が不従順になったり、万が一浮気をしたりしても愛し続けていてくださるというお方です(キリストから心を移さないように願いますが)。
 子たる者よ、とあります。キリスト者は、キリストの故に父なる神の養子である子として頂きました。キリスト者が、父なる神の御命令に従う、或いは従う姿勢で歩むということは当り前のことです。
御父に徹底的に従ったのは、主イエス様でした。(ヨハネ5:19、8:28)
 父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。とあります。父なる神は、キリスト者に聖霊を遣わしてくださって、父なる神の御命令に対して苛立たないで済むようにして下さっておられますが、御霊の助けがよくわからない方の場合、御父の命令は、生まれながらのありようでは出来ないものだらけですから、そのようなキリスト者が、御父の命令を義務として、強制と感じていやいやながら行うような状況では、喜びを持って従うなどということが出来るはずもありません。神との関係にあって苛立ってしまうのは、神の側の問題というよりも人の側にあるのです。人間の親子関係でも似たような関係を見たことがあります。
 僕たる者よ、何事についても、肉による主人に従いなさい。とあります。
キリスト者は、キリストのしもべでもあります。霊的に健康なキリスト者は、キリストのしもべとして、キリストに従えるのではないでしょうか。難しい課題を与えられるときもありますが、その時にはその備えもして下さっておられるのです。備えを感じることが出来るか出来ないか、用いることが出来るか出来ないか、約束を信仰によって捉えることが出来るか否かによって、課題が難しい時には従うことが出来るか否かがきまる場合もあるでしょう。   
 いずれにしても、主に対してするように心からすることが大切ですが、主に対していい加減なことをして歩んでいると、このことを正しく理解し、みことばが意味しているように従うことは出来ないでしょう。
時代の流れとは関係なく、主のお言葉に従って、何をするにも主に対して心からする、という姿勢でことをなしている人は、主から良き報いを受けるでしょう。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
私のレベルでは、到底、主と同じようにというわけにはいきませんが、主に倣っていく者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン 

2013年9月17日 (火)

コロサイ3:12-17 新しくされた人の生き方

コロサイ3:12-17
3:12だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。
3:14これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。
3:15キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。
3:16キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。
3:17そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。”(口語訳)

 キリスト者になったと証して下さる方の内、聖書に長く触れていても、みことばを読んで、~しなければ神様から罰を受ける、と捉えてしまう人も中にはいます。罰ではなく、叱られたり、矯正されたりすることもありますが、健全な信仰生活を送っている人や、神様の方を向いている人に、神様は結構優しいお方だと思います。
ここでは何と言っているでしょうか?
イエス様は、優しい声で、「あなたは、神に選ばれた者なんですよ、聖なる者とされたんですよ、私に愛されている者なんですよ。」、だから「憐れみの心を持ちなさい、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい、忍びあいなさい、赦しなさい、私もあなたを赦してあげたでしょ、私があなたを愛したようにあなたも愛しなさい、同じように出来なくてもみならいなさい、いつも私に信頼し、私と交わりを持って私の平安で包まれていなさい、そうすればいつも感謝できるでしょ。感謝の生活をしていると幸せですよ、・・・」と語りかけられると思います。私の場合はそのようであったのです。その優しさに心が溶かされたのです。
イエス様の語り口調は、人によってそれぞれ異なるのでしょうが、ほかの人になったことが無いので、詳しくは分かりません。私の場合は、イエス様の優しさが心にしみたのと小さいけれども強い霊的力で語られたので赦せないと思ったことも赦せたり、愛することが出来たりしたのです。
17節は、(NKJV)では、“And whatever you do in word or deed, do all in the name of the Lord Jesus, giving thanks to God the Father through Him.”となっています。
私の言動が、イエス様から外れてしまわないようにと切に願うことです。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
あなたは、どのように歩んだら良いかを教えてくださいますから感謝します。
それだけではなく、歩めるようにして下さいますから感謝します。
選んでくださり、あなたのものとして聖別してくださり、愛してくださり、いつも、守り導いていて下さいますからありがとうございます。
あなたが望んでおられるように、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけさせてください。兄弟姉妹達の中で、互いに忍びあい、赦しあって歩んでいく者であらせてください。
いつもあなたに信頼してあなたが与えてくださる平安を持っていることが出来ますように。
キリストのことばを私の内に豊かに宿らせてください。必要な時々に、あなたが思い起こさせてくださり、また語ってください。
教えたり、訓戒したりしなければならないときは、あなたの愛に満たされ、あなたが知恵を与えてくださいますように。
また、教えられたり、訓戒されたりするときは、謙遜に感謝して受け止めることが出来ますように。
詩と賛美と感謝の歌をもって、心から神様をほめたたえる者あらせてください。
私のすることが、すべて主の名の中で行われることが出来ますように。あなたからはみ出てしまうことがありませんよう助けてください。
すべてのことを主の御名の中でし、主イエス様の御名によって父なる神様に絶えず、感謝を捧げることが出来ますように。
主の御名によって
アーメン

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