ペテロの手紙Ⅰ

2014年2月 8日 (土)

1ペテロ5:12-14 結びの言葉

5:12わたしは、忠実な兄弟として信頼しているシルワノの手によって、この短い手紙をあなたがたにおくり、勧めをし、また、これが神のまことの恵みであることをあかしした。この恵みのうちに、かたく立っていなさい。
5:13あなたがたと共に選ばれてバビロンにある教会、ならびに、わたしの子マルコから、あなたがたによろしく。
5:14愛の接吻をもって互にあいさつをかわしなさい。キリストにあるあなたがた一同に、平安があるように。 ”(口語訳)

 シルワノという人はシラスと同じ人です。シルワノは、この手紙で分かるようにペテロの同労者でありますが、パウロの同労者でもあった人です。本人自身も預言者でした(使徒15:32)し、エルサレム教会の指導者の一人でした(使徒15:22)。また、エルサレム会議の決議事項を持って諸教会を訪問した人です(使徒15章)。また、パウロと共に福音を語った故に捕えられ鞭打たれ牢に入れられた人です。そして主が地震を起こされて牢の扉を開けられた時に自害しようとした牢屋の看守をパウロと共に救いへと導いた人です(使徒16章)。さらにテサロニケ、ベレヤ、コリント等でもパウロと共に福音の宣教に励んでいます(使徒17.18章)。以上のように主の忠実なしもべであり諸教会によく知られているシルワノにこの手紙を託すことは理にかなっていたのです。

 13節の新改訳の訳を見ると
「バビロンにいる、あなたがたとともに選ばれた婦人がよろしくと言っています。また私の子マルコもよろしくと言っています。」となっています。原語に一番近い訳は、前田訳の「バビロンに住む共に選ばれたものとわが子マルコからよろしく。」ということになろうかと思います。
「婦人」とは、キリストの花嫁である教会のことをいっているのだと思います。
また、13節におけるバビロンとは、ローマのことをいっていると多くの研究者は考えています。バビロンは霊的には神に敵対する都市(実際にはそこを支配している人とつき従う人々)を表していると考えられます。それは黙示録14.16.17.18章によって想像がつきます。
余談になりますが、大患難時代に神さまが立てられる二人の預言者が預言する場所はエルサレムですが、その場所を「霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる・・」と聖書は記しています(黙示録11:8)。
「わたしの子マルコ」とありますが、血縁によるものではなく、霊的な結びつきによる表現です。

 「愛の接吻をもって互にあいさつをかわしなさい。」とありますが、キリスト者個々人の置かれた土地の風習を無視して行うととんでもないことになります。特に日本で行うのは止めた方がよいと私は思います。その本質は、兄弟姉妹達と主にある愛を持ってかかわりなさい、あいさつしなさい、ということですからそのようにすれば十分であると思います。

 ペテロはこの手紙について、「これが神のまことの恵みであることをあかしした。」といっています。確かに1章1節からじっくりと読んでいくと私たちキリスト者は何と豊かな恵み(地上における恵み、天上における恵み)を与えられているのだろうと感嘆します。それと共に、神の子としてふさわしく整える為に神さまは、訓練なさることも教えられます。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めて感謝します。
あなたは私たちに大いなる恵みを与えてくださいました。
訓練も更なる祝福の為であることも学ばせて頂きました。
感謝して主イエス様の御名によってお祈りします。
アーメン

2014年2月 7日 (金)

1ペテロ5:10.11 整えられるためには苦しみも必要

5:10あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。
5:11どうか、力が世々限りなく、神にあるように、アァメン。 ”(口語訳)

 この手紙は迫害を受けているキリスト者に向けて書かれているので10節のような内容が書かれているのではないかと思われる人がいるかもしれませんが、敬虔なキリスト者は成長の過程でだれでもこの様なところを通るのではないかと思います。パウロは2テモテへの手紙3:12で、「キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。」(口語訳)と述べています。

 「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神」とあるように、罪の赦し、永遠の命、神の子どもとされること、やがては栄光に満ちた新天新地で生活できるようにして下さっておられること、天で暮らすための永遠に古びることの無い霊の体もキリスト様の空中再臨の時に与えられること等は、イエス・キリスト様を信じただけで与えられますが、神の子どもとしてふさわしくされていくためには、訓練が必要なのです。イエス・キリスト様を信じる信仰者として不動の者とされる為には苦しみも通ると書かれています。しかし、その苦しみは、「しばらくの」と10節にあるように、ある一定期間で終わるのです。

 苦しむからこそ、「癒し」を経験し、苦しみの中で主によって「強め」られることを経験し、苦しみの中で主によって「力づけ」られることを体験し、その結果、主に対する信頼は益々増加し、信仰者として不動の者とされていくのです。困難なところを通っているからということで、自分は救われていないとか、次々と罪を示されるからもうダメだ、ということではないのです。それは神にある者としてふさわしくあるように実質的にきよめるためであり、益々信仰から信仰へと進ませる為であり、より深く神の義を、神の恵みを、神の愛を知ることが出来て、益々神をほめたたえることが出来る為でもあります。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇め、あなたを賛美します。
イエス・キリスト様が十字架の上で罪の贖いを成し遂げ三日目によみがえってくださったことにより、あなたは、私たちが主イエス様を信じただけで、私たちの罪を赦し、義とし、神のものとして聖別し、永遠の命を与えてくださり、神の子どもとしてくださり、キリストの花嫁としてくださり、やがては霊の体を与えてくださり、やがて神さまが創造される新天新地でも永遠に神様を賛美しながら、義と愛の交わりの内に聖徒たちと共に過ごせる恵みを与えてくださっておられますから感謝します。
私たちは、今の世にあって、神さまから訓練を受けつつ整えを頂いていることも感謝です。訓練のきつい時は、辛いところを通りますが、それによって益々豊かな恵みを頂き、不動のものとして頂け、何よりも益々あなたを賛美する者として頂けますことを感謝し、主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2014年2月 6日 (木)

1ペテロ5:8.9 悪魔には立ち向かえ

5:8身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。
5:9この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。”(口語訳)

 同じような内容のことをパウロもヤコブも以下のように記しています。
 (ヤコブ4:7)
「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(新改訳)
 (エペソ6:11-18)
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊〔悪の諸霊(新共同訳)〕に対するものです。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け〔真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け(新共同訳)〕、
足には平和の福音の備えをはきなさい〔平和の福音を告げる準備を履物としなさい(新共同訳)〕。
これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい〔救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい(新共同訳)〕。
すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(新改訳)

 またヨハネは、信仰を守ることは肉体の命よりも大切であることを主イエス様から教えて頂いて次のように記しています。 
黙示録12:11では、「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」(新改訳)と記し、
黙示録2:10では、「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」(新共同訳)と記しています。

 悪魔(サタン)は、いつもいつも誰かを信仰から落とそうと狙っています。
私たちの戦いは、肉体の命が取られる取られないということではなく、霊に関するものなのです。地上の肉体は一時的であり、霊は永遠に続くものだからです。パウロは、2コリント4:16-18で、そのことを「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(新共同訳)と記しています。
 
 次にローマ8:31-39を記します。
「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
『わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。
しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています〔勝ち得て余りあり(文語訳)〕。
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(新共同訳)
 
 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めて感謝します。
サタンは世界中を闊歩し、政治家を動かし、経済界の多くの人達を動かし、キリスト様に対抗する宗教家を用い、メディアをも用い、即ちまことの神を信じない人達を用いてキリスト者を引きずり落とそうとし、キリスト様を信じようとする者たちの邪魔をしています。時にはキリスト者も騙されてサタンの手先に使われてしまうこともあります。
日本でも、多くの国々でも、サタンの働きは目に見えて顕著になって来ているように感じられます。
私たちは、主の御再臨を待ち望んでいます。
また、主の空中再臨の日までに祈っている方々が救われるようにとも願っています。万が一、空中再臨までに間に合わないような場合、殉教しても主のもとに帰ってくることを願っています。どうか助けてください。
サタンに対しては、主に教えられているように戦っていくことが出来ますように。
主の守りと助けを頼みとしながら、主イエス様の御名によってお祈りします。
アーメン

2014年2月 5日 (水)

1ペテロ5:7 思い煩いを神様に委ねることの出来る幸い

5:7神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。”(口語訳)

 思い煩いについて聖書箇所を調べてみたところ以下の箇所がありました。
 (詩編94:19)
「私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。」(新改訳)
「わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、あなたの慰めはわが魂を喜ばせます。」(口語訳)
「わたしの胸が思い煩いに占められたとき、あなたの慰めが、わたしの魂の楽しみとなりました。」(新共同訳)

 (詩編139:23)
「神よ。わたしを探り、私の心を知ってください。わたしを調べ、私の思い煩いを知ってください。」(新改訳)

 (伝道2:22)
「実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。」(新改訳)

 (1コリント7:32)
「あなたがたが思い煩わないことを私は望んでいます。」(新改訳)
「思い煩わないでほしい。」(新共同訳)
「わたしはあなたがたが、思い煩わないようにしていてほしい。」(口語訳)

 (ピリピ4:6.7)
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(新改訳)
何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」(口語訳)
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(新共同訳)

 (1ペテロ5:7)
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(新改訳)
「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(新共同訳)

 私は、信仰を持つ前は、ほとんど毎日思い煩いながら生活していました。思い煩ったことのほとんどは、思い煩う必要の無い結果であったにもかかわらず、思い煩いに押し潰されてしまいそうな時もあったように思います。
 私が聖書を調べ始めたのは、この世はいずれ戦争によって滅びるであろうと想像し、約35年くらい前になるでしょうか、その当時、黙示録やダニエル書、エゼキエル書、福音書等を熱心に読みました。
救われる前に得た結論は、黙示録20:4‐6の「獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人達を見た。彼らは生き返って、・・・。これが第一の復活である。この第一の復活に与るものは幸いな者・・である。」
私は、何故かこのみことばを信じたのでした。しかし、自分の力で黙示録に書かれてあるような世界を生き抜いていく自身が無い。その頃、百万人の福音という雑誌を読んでいたところ、ある牧師さんの自伝が載っているのを読んだのです。その時、この人と一緒なら乗り越えられるかもしれないと思ったのでした。そして、その教会に行ったのですが、幸いなことに、神様は違う方法でこれを乗り越えさせてくれたのです。それは、イエス・キリストを信じるということでした。イエス・キリストを信じて平安が与えられ、永遠の命が与えられたことを確信し、結局は主イエス様に対する信頼が大切であると教えられつつ現在に至っています。

 主イエス様は、「真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32)と語られましたが、主イエス様こそが「真理」そのものであられたのでした。また「いのち」そのものでもあられたのです。主イエス様は、「わたしが道〔父なる神のもとに行く道〕であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)と語られました。
イエス様は、真理そのもののお方であり、イエス様が発するおことばは真理そのものであり、そのおことばを受け入れる者は、即ちイエス様を受け入れることになり、イエス様を受け入れることは、永遠の命そのものであるイエス様の命を内に宿すのです。

 前出の詩編のみことばや伝道者のみことばや自分の体験や、周囲の人の体験をを見てみると、だれでも思い煩いを持っていることが分かります。しかし、この思い煩いは「罪」(聖書の原語の意味は「的外れ」)即ち神さまの御旨から外れているということなのです。全能にして愛を持って私たちに接してくださる神様を信頼していないということになるのです。人間が思い煩いを持っているということだけでも、人間が罪人であることが分かります。多くの人はお金には信頼しても神様には信頼しません。神さまに信頼しないことは不信仰の罪です。
「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。」と主なる神様が語ってくださいます。(エレミヤ17:7)
この神様は、「光があれ。」すると光があった。(創世記1:3)という力を持っておられる神様です。その神様が、あなたに、私に、「主に信頼する者に祝福があるように。」と語ってくださいます。主に信頼した時、思い煩いは消え去ります。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇め、あなたを賛美し、あなたに感謝します。
あなたを信じる信仰を与えてくださりありがとうございます。
いつもあなたに信頼し、思い煩いから常に解放されて歩んでいけますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
追記
自分でなすべき分を果たさないですべてを神様に丸投げするということ≠神様にすべてを委ねていくこと

2014年2月 4日 (火)

1ペテロ5:5.6 へりくだりの勧め

5:5同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。
5:6だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。”(口語訳)

 「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。」は箴言3:34からの引用であり、ヤコブ4:6にも引用されています。
 「若い人たちよ。長老たちに従いなさい。」とありますが、子供には反抗期があります。反抗期の無い子供もいますが、それは子供がよく出来た子か自立心に欠けた子かによって中身はだいぶ違います。 親から自立しようとして或いは、一人の人格を持った者として認めてもらいたくて反抗するということは普通のことなのでしょう。ユダヤ教のように男子は13歳で宗教的、社会的に成人としての責任を負うことになると反抗する子供は少なくなるかもしれません。女子は12歳です。

 この世では成人している人であっても、キリスト者は、神さまに対しては、永遠に子供です。キリスト者は、まことの神を父として崇め、へりくだって従っていく者たちです。
世の中には、まことの神様を知らなくても謙遜に見える人がいます。しかし、そのような人が謙遜とは限らないのです。少なくとも神さまに対しては謙遜で無いからです。ですからそのような人は、神のことばを聞いた時、謙遜ではいられません。本当に謙遜であれば、罪の赦しを請い、罪を悔い改め、イエス・キリスト様を自分の救い主として受け入れるはずです。自分の存在、生存がすべて神様に端を発し、神さまにかかっていると知らない人が本当に謙遜になることは出来ないのではないでしょうか。

 「若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。」といわれる背後に、長老たちやそれぞれの立場についておられる方を任命しているのは神様であるという認識が若い人達及びすべてのキリスト者に無いとこのみことばの実行は難しいかもしれません。何故なら、人間は全員が不完全だからです。

 「みな互いに」とありますが、キリスト者は、神が愛されて救われて神の子どもとされた人達です。ただの人間ではなく、神の子どもであり、神の所有物なのです。ローマ14:4に「あなたはいったいだれなので、他人〔神〕のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人〔神〕の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」とあります。キリスト者は、みな神のしもべであり、神の子です。

 長老をはじめ、上に立てられた人達は、神の子どもたちが健全に成長するようにと神様が立てられた人達なのです。中には神様が立てたのではないにもかかわらず立っている人もいるかもしれませんが。上に立てられた人達に問題があって従うことが難しいと思われる場合は、神さまに直訴(祈ること)したらよいでしょう。また、そのような場合でも、その人の語ることが神のみことばに一致しているならば従うべきなのです(マタイ23:1-3)。神様は、神さまに従う人を祝福してくださいます。

 「あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。」とありますが、その中の「時が来れば」という「時」は、原文のギリシャ語ではκαιρός カイロス が使われています。ですから、ここでは、ある時、或いはセットされた時を意味しています。「時が来れば」を他の聖書は、「時至って」、「時に及びて」、「かの時には」と訳していますが、新改訳は「丁度よい時に」と訳しています。
少なくとも、キリスト様が再臨された時には、神の前にへりくだって救われた人達は、高くされます。また、この世にあっても主の前に謙遜に歩んでいる人は、丁度よい時に高くされることもあるでしょう。いずれにしても高くされるということはどうでもよいことで、大切なことは、まことの神様に対して謙遜に歩むことだと思います。

 旧約聖書に「モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」(民数紀12:3)と記されてあります。
新約聖書では、主イエス様がすべてに勝って謙遜であられたことと高められたことを次のように記しています。
「2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」{フィリピ2:6-11(新共同訳)}と。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めて感謝します。
あなたが、私を存在せしめてくださっておられるからこそ、存在している存在、それが私です。
あなたは、私に対して常に愛を持って最善に導いて下さっておられますから感謝します。
いつまでもあなたに対してへりくだって生きるものであらせて下さい。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン 

2014年2月 3日 (月)

1ペテロ5:1-4 長老たちへの勧め

5:1そこで、あなたがたのうちの長老たちに勧める。わたしも、長老のひとりで、キリストの苦難についての証人であり、また、やがて現れようとする栄光にあずかる者である。
5:2あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。
5:3また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。
5:4そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。”(口語訳)

 ペテロは、主イエス様が地上におられた時に直接任命された12使徒の内の一人でしたが、この箇所では、「私も長老の一人で」と言っています。長老=使徒ではありませんが、使徒の中には長老の働きもしていた者もいたということであろうと思います。長老は、必ずしも「キリストの苦難と復活についての証人」というわけではありませんが、使徒は原則として苦難と復活の証人の人が任命されています。使徒として、聖書に登場するのは、主イエス様が直接選出された12使徒と、イスカリオテのユダの代わりに祈ってくじによって選ばれたマッテヤ(使徒1:15-26)、及び私には理由は分かりませんがバルナバ(使徒14:14)がいます。

 長老たちに対して使徒ペテロ(1:1)がまず述べている職務は、「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れ〔信徒達〕を牧しなさい。」ということです。動物の羊の牧者は、羊を守り、食物を与えて導き、世話をし、健康を気遣い、病気のものを介抱し、迷子になった羊を探して連れ戻すといったような働きをしていました。長老も動物の羊の牧者と同じようにしなさいとペテロは述べているようです。エゼキエル34章は預言が含まれていますが、良い牧者と悪い牧者について対比して書かれています。
 いずれにしても長老は神さまに強いられて牧者としての働きをするのではなく、また、利得の為にするのでもなく、神様に従って、自分から進んで、自分に委ねられている神の羊の群れを、権力をふるうのではなく群れの模範となって、その任を果たすように命じられています。

 長老の働きを御旨に従って行った者に対して、神様は、栄光の冠を授ける、とあります。
また、長老に限らず、与えられたご奉仕をきちんと果たした者には、「よくやったよい忠実なしもべだ。」とのお言葉を主イエス様から頂き、それなりの報酬が与えられます。(マタイ25:15-30)

 一言でいえば、主によって上に立てられた人は、自分の利得や自己満足、自己実現のためではなく、主の為に、主の御旨に従って、主に委ねられた人の為に、委ねられた人達の模範となって、委ねられた人達を牧していく、ということがここに書いてあるように思います。
 極めつけは、主イエス様の「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊の為にいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)ですね。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めて感謝します。
長老として立てられている人達の為に、すべての信徒がとりなしの祈りをささげていけますように。
長老として、或いは、教会の中で、何かしらの立場が与えられて労している人達が、上に立って権力を行使して支配するのではなく、群れの模範となることによって導いていくことが出来ますように。
権威を行使しなければならない時もありますが、それは常に主の御旨に従ったあり方でありますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2014年2月 2日 (日)

1ペテロ4:17-19 迫害の時には自分の魂を主に委ねよ

4:17さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。
4:18また義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか。
4:19だから、神の御旨に従って苦しみを受ける人々は、善をおこない、そして、真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい。”(口語訳)

 「さばきが神の家から始められる時が来た。」とありますが、これは、この手紙が執筆された当時の迫害のことをいっているのだと思います。また、そのようなことは歴史上幾度も繰り返されましたし、現代でも様々な地域で同じことが起きています。神様は、迫害や様々な試練を与えられます。それは、それらを通して聖徒〔立場としての聖〕が益々聖〔実質的な聖〕なる者とされるためです。患難を通して、キリスト者は益々主に信頼するようになり、キリストを本当に主とするようになり、究極はすべてが剥ぎ取られてもキリストがおられるだけでよいというところまできよめられていきます。逆境の中にあっても神の栄光のみを求める状態へと至るのです。19節に「真実〔誠実〕であられる創造者に、自分の魂を委ねなさい。」とあるような状態に置かれるからです。この様な状態は、迫害の場合で肉体を脱ぐ必要が出てきたときや、病気や事故で同様の状態に置かれた時、自分に残るものは、魂とその内にある新生されている霊と霊の内に住んでいて下さる御霊しかないのです。わが魂が肉体を去る時には、肉体にまとっていた服も住まいとしていた住居も地上の生活で使用していた様々な道具も食物や飲料も必要なくなるのです。

 主イエス様は、マタイ10章で次のように言われました。
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。
だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。
ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。
わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者〔キリストよりも父や母を第一とする者〕は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する〔第一とする〕者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」{新改訳(マタイ10:28-39)}

 私たちキリスト者の命である新生された霊は、地上にいる間は肉体を纏っていますが、天上では天にふさわしい霊の体を与えられるのです。パウロはこのことを説明した後、それ故、励みなさいと奨励している1コリント15:42-58を新共同訳で下記します。〔 〕( )内は筆者の挿入です。
「死者の復活もこれと同じです。蒔かれる〔この世を去る〕ときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる〔肉体の死の〕ときは卑しい〔土の(成分)から造られた〕ものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。
つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。
「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダム〔キリスト〕は命を与える霊となったのです。
最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体〔肉体〕があり、次いで霊の体があるのです。
最初の人〔アダム〕は土ででき、地に属する者であり、第二の人〔キリスト〕は天に属する者です。
土からできた者たちはすべて、土からできたその人〔アダム〕に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人〔キリスト〕に等しいのです。
わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。
兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血〔地上にいる間霊と魂を入れている肉体〕は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。
わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。(1テサロニケ4:16.17参照)
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(ホセア13:14からの引用)
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。
わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
この地上にあって、肉体を纏って生かされている間、地上のことと肉体のことのみに目がいきがちでありますけれども、常に本質的なところに目を留めて歩んでいけますようお守りください。
もし、日本において、再度迫害が起こるようなことがあったとしても、あなたのお言葉を思い起こさせて下さり、おことばに励まされて、あなたの御旨に従って歩んでいくことが出来ますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン 

2014年2月 1日 (土)

1ペテロ4:15.16 クリスチャンとして受難するならば恥じるな

4:15あなたがたのうち、だれも、人殺し、盗人、悪を行う者、あるいは、他人に干渉する者として苦しみに会うことのないようにしなさい。
4:16しかし、クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない。かえって、この名によって神をあがめなさい。”(口語訳)

 キリスト者でなくとも、人殺し、盗人、悪を行う者として苦しみに会うようなことは、まずいことだと思っていると思います。
「他人に干渉する者」を、新改訳では「みだりに他人に干渉する者」、塚本訳では「おせっかい屋」、文語訳は「妄りに他人の事に干渉する者」となっています。
「お節介を焼いて苦しみに会うことの無いようにしなさい。」と勧められているのです。
兄弟姉妹との距離の取り方は、時として難しいこともあります。
1テモテ5:10には「困っている人を助け、すべての良いわざに務め励む」事を「良い行い」の一部としています。それは当然のことと思いますが、良いことをしていると思っていたのに、お節介になってしまっていて相手方を困らせてしまった結果、関係がぎくしゃくするというような場合もあることと思います。難しいですね。少なくとも、動機において、愛から出るものであって、決して自己満足のため、自己アピールのためというような肉の性質によるもので無いようにと思うことです。
助けられて良かった、と思うのと、おせっかいでいやだな、と思うのは、同じことをしても人によって受け取り方が違うのですから難しいですね。また「妄りに干渉」とありますが、それだけは行わないで済むようにしたいと思うことです。

 「クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば」即ちイエス・キリストを信じる故の信仰の試練ですね。信仰の故に当局によって捕えられ苦しみを受けるような場合には、恥じることはありません。このことの故に神を崇めなさい、と勧められています。信仰の故に逮捕されるような時代、状況になった時、相手を呪ったり、嘆いたり、取り乱したりするのではなく、まず信仰を表明し何があっても信じ続けることが出来るようにして下さっておられる神に感謝し、神を崇めることであると教えられます。何かあった時、まず祈り、かつ使徒信条を思い浮かべ熟考し、更にたくましく信仰に立たせて頂くという方法も一つではないかと思います。
 <使徒信条>
「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独(ひと)り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生(うま)れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。 かしこより来たりて生(い)ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。 聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命(いのち)を信ず。」

 日常生活でも、三位一体の神を信じ、その神に守られ、導かれている人は幸いです。
すでに、全能の父なる神を信じているのです。その神にいつでも祈ることが出来るのです。
神のひとり子のイエス・キリストを信じているのです。
イエス・キリストは、父なる神の右の座で私たちの為にとりなしの祈りをささげてくれているのです。イエス・キリスト様を信じさせて頂いたことにより、罪を赦され、永遠の命を頂いているのです。更に時至って、天上の体を頂くのです。
クリスチャンにして頂いたということはすごいことですね。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めて感謝します。
順風満帆の時も、逆風が吹いていると思われる時も、常に変わらずあなたが共にいてくださいますからありがとうございます。
すべてのことの中にあって、すべての時にあなたは共にいてくださり、多くの場合、みことばを用いて、慰め励ましてくださいますことを感謝します。
神のみことばは生きていて力がある、とありますが、みことばを単なる文字の羅列と捉えてしまって力無く過ごすのではなく、常にみことばを用いて聖霊様が働いてくださることを体験しつつ歩む者であらせて下さい。
それ故、より一層、みことばを蓄えていくことが出来ますように。
折に触れて、強められ、励まされ、慰められ、助けられ、導かれて行くことが出来るために。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2014年1月31日 (金)

1ペテロ4:12-14 迫害は珍しくない

4:12愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、
4:13むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。
4:14キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。”(口語訳)

 キリスト者にとって迫害、試練、というものは不思議なことではありません、とペテロは言っています。このことは、主イエス様が地上におられた時、弟子たちにも、ヨハネ15:18-25で次のように語っておられます。
「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。
もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。
しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。
しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行います。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。
もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。
わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです。
もしわたしが、ほかのだれも行ったことのないわざを、彼らの間で行わなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。
これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。」
主イエス様は、これを語って終わりではありません。
ヨハネ16:31で、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」と語られたのです。
弟子たちは、主の十字架の少し前にこれらの主が語られたおことばを聞いたのですが、敵が主を捕えに来た時、弟子たちは皆逃げてしまったのでした。

 ところが、イエス様が復活した後に弟子たちに聖霊が遣わされた後、聖霊が内に住んでいて下さった弟子たちは、皆勇敢になり迫害に屈せず、ほとんどの者が殉教していったのです。使徒ヨハネだけは、釜ゆでにされたり、恐らく80~90歳前後になってから島流しにされましたが、死ななかったのです。それは神さまの御計画の故でしょう。パトモス島に島流しとされ、そこでヨハネの黙示録にある内容を主から与えられ、その後ヨハネの福音書やヨハネの手紙などを残していると思われるのですから、まさに肉体の命も神様次第なのです。ヨハネが執筆したものを聖書から取り去ってしまったとしたら、・・・・。私は、ヨハネの執筆したものからたくさんの恵みを頂いております。

 キリスト者は、神様が、「天国に来てよし。」と決定して下さらないと、人の目にはどんなに死にそうに見えても、地上で肉体を纏っていなければならないのです(これは私の体験です)。神様は、キリスト者一人一人に御計画をお持ちであると思います。ですから、キリスト者は、それぞれその人の使命が全うされるまでは、原則としては地上にいることになるのではないかと思うのです。

 ステパノという人は、キリスト者となってから数年しかたっていなかったのに、素晴らしい説教をしている最中に、敵から石打ちにされて、天に召されたのです。このときは、主イエス様がステパノを励まし、かつ迎えに来られました。(使徒6:8-7:60)
パウロも石打ちにされ、人の目には死んだと思えた状態でしたが、主イエス様は、パウロを天国に入れてくれたのではありませんでした。パウロはわずかの時間の後には歩きだし、翌日には次の宣教地へと向かったのです(使徒14:19.20)。これはパウロがすごいのではなく、主の御計画なのです。パウロは、コリントの地における宣教の時、主イエス様に「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。」(使徒18:9)と語られた人なのです。人ではなく神様を見ないと誤ってしまします。

 黙示録には、大患難時代に殉教していく多くの聖徒たちがいます。その聖徒達は、いのちの書に世の初めから名の書きしるされている者たちなのです(黙示録13:8)。いのちの書に名の書きしるされている者たちは、反キリストが現れてもあまり驚かないのです(黙示録17:8)。そして、その聖徒達は、キリストが地上に再臨された時、復活させてもらって、キリストの千年王国において王とされるのです(黙示録20:4)。

 キリストにあるならば、勝利者となります。ローマ8章には次のようにあります。
“ 8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36 「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてある(詩編44:22からの引用)とおりである。
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。”{(ローマ8:35-39)口語訳}

 迫害にあった者の幸いを主イエス様は、「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。」(マタイ5:10-12)と語られました。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めて感謝します。
あるキリスト者達は生まれた国と生まれた時代の故、ほとんど迫害されることなく一生を終えた、ということもあったと思います。
また、あるキリスト者達は、信仰を持つその時からいのちを狙われるという中で信仰を持ち、ある信仰者は信仰を持ってから間もなくして殉教し、ある信仰者は迫害されたけれども逃れることが出来て宣教を続けているという状況を現代でも見ることのできる複数の地域があります。
いかなる状況、環境に置かれても、いつも神様の御配慮のもとに、そこで御霊によって強められてあかしを立てさせて頂くために立てられているということを忘れることなく、愚痴をいわず、愚痴をいいたい時は、主に祈りをささげながら歩む者であらせて下さい。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン 

2014年1月30日 (木)

1ペテロ4:11 御霊による奉仕

4:11語る者は、神の御言を語る者にふさわしく語り、奉仕する者は、神から賜わる力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは、すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるためである。栄光と力とが世々限りなく、彼にあるように、アァメン。”(口語訳)

 塚本訳は“(例えば)もし或る人が(預言の賜物を与えられて)語るならば、(自分の言をまじえず、ただ)神の言として(語れ)。もし(また)或る人が(職務を行う賜物を与えられそれを以て)奉仕するならば、(自分の力を以てせず、)神が授け給うた力によって(これを行え)。これはイエス・キリストにより何事においても神が栄光を受け給わんためである。栄光と権力とは代々限りなく彼のものである、アーメン。”と( )内に訳者の挿入を入れて理解し易くしてくれています。

 旧訳聖書の中にあるゼカリヤ書4:6には“すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。”とありますが、この神様からの「(この世における、或いは肉におけるあなたの力によらず)わたし〔主〕の霊によって。」というお言葉は、キリスト者全員へのお言葉でもあります。神さまから与えられたご奉仕に与るとき、肉の力は何もなし得ません。それどころか害をなすことも多々あります。
主イエス様が、ヨハネ15章で語られた次のみことばを実感することです。
“15:4 わたし〔イエス・キリスト〕にとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。”

 自己実現のために神を利用するのではなく、神さまの栄光の為に主の霊によって自分の為にではなく主の為に労することを要求されています。その要求に従う者には、結果として、祝福がついて回るのです。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めて感謝します。
何をするにも、主の導きに従って、主が与えてくださる力によって、主の為に為していく者であらせて下さい。
主は、その備えをすべて既に与えてくださっておられますから感謝します。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

Ⅰヨハネの手紙 Ⅰ歴代誌 Ⅱ歴代誌 アモス書 イエス・キリストのことば イザヤ書 ウェブログ・ココログ関連 エステル記 エズラ記 エゼキエル書 エペソ人への手紙 エレミヤ書 オバデヤ書 ガラテヤ コヘレトの言葉 コロサイ コロサイ人への手紙 ゼカリヤ書 ゼパニヤ書 ダニエル書 テトスへの手紙 テモテへの手紙Ⅰ テモテへの手紙2 ナホム書 ネヘミヤ記 ハガイ書 ハバクク書 ピリピ人への手紙 ピレモンへの手紙 フィリピの信徒への手紙 ヘブル ヘブル人への手紙 ペット ペテロの手紙Ⅰ ペテロの手紙2 ホセア書 マタイによる福音書 マラキ書 ミカ書 ヤコブの手紙 ユダの手紙 ヨエル書 ヨシュア記 ヨナ書 ヨハネの手紙Ⅱ ヨハネの手紙Ⅲ ヨハネの福音書 ヨブ記 ルカ ルツ記 レビ記 ローマの信徒への手紙 ローマ人への手紙 伝道者の書 使徒の働き 使徒言行録 信仰 共観福音書 出エジプト記 創世記 哀歌 士師記 平安 悪しき霊 救い 救いと裁き 救いの確かさ 救い・救われたい方へ 日ごとの恵み 日ごとの恵みXⅢ 日ごとの恵みⅡ 日ごとの恵みⅢ 日ごとの恵みⅣ 日ごとの恵みⅤ 日ごとの恵みⅥ 日ごとの恵みⅦ 日ごとの恵みⅧ 日ごとの恵みⅨ 日ごとの恵みⅩ 日ごとの恵みⅩⅢ 日ごとの恵みⅩⅣ 日ごとの恵みⅪ 日ごとの恵みⅫ 日ごとの恵み27 日毎の恵み15 日毎の恵み16 日毎の恵み17 日毎の恵み18 日毎の恵み19 日毎の恵み20 日毎の恵み21 日毎の恵み22 日毎の恵み23 日毎の恵み24 日毎の恵み25 日毎の恵み26 日記・コラム・つぶやき 民数記 申命記 箴言 終末 終末預言 経済・政治・国際 聖化 詩編 趣味 雅歌 黙示録 黙示録(2回目) 1コリント 1サムエル記 1テサロニケ 1列王記 2コリント 2サムエル記 2テサロニケ 2列王記

カテゴリー

2025年4月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ