“5:16もしだれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々には、いのちを賜わるであろう。死に至る罪がある。これについては、願い求めよ、とは言わない。
5:17不義はすべて、罪である。しかし、死に至ることのない罪もある。”(口語訳)
「罪からくる報酬は死です」とローマ6:23にありますが、人類の始祖アダムが罪を犯した為アダムを初めとして、アダムの子孫であるすべての人は、霊的に死んで生まれ出で、やがて肉体の命も死ぬこととなったのです。ローマ5:12には、「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(新共同訳)とあります。
また、1コリント11:23-30の箇所には、主の晩餐(聖餐)の時、主のみ体をわきまえずに飲み食いした人たちは、結果として死を刈り取ってしまったことが次のように記されています。
“11:23 わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、
11:24 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。
11:25 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。
11:26 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。
11:27 だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。
11:28 だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。
11:29 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。
11:30 あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。”(口語訳)
この箇所の続きには、「しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受けることなのである。」{(1コリント11:32)口語訳}と記されています。
尚、注意したいのは、病気したからといって、病気がすべて病気した人の個人的な罪による神の裁きというわけではありません。ヨブのようにヨブのせいではなく、サタンによるものもあり、生まれつきの遺伝子によるものである場合もあり、やむを得ない生活環境の場合その他もあります。人類的には、病気は、アダムの罪の結果入ってきたものですが個人的にはまた別の考えが必要と思います。
また、体の不具合が神の栄光が現わされる為である場合もあります(ヨハネ9:1-3)。
また、1コリント5:1-5には、
“5:1 現に聞くところによると、あなたがたの間に不品行な者があり、しかもその不品行は、異邦人の間にもないほどのもので、ある人がその父の妻と一緒に住んでいるということである。
5:2 それだのに、なお、あなたがたは高ぶっている。むしろ、そんな行いをしている者が、あなたがたの中から除かれねばならないことを思って、悲しむべきではないか。
5:3 しかし、わたし自身としては、からだは離れていても、霊では一緒にいて、その場にいる者のように、そんな行いをした者を、すでにさばいてしまっている。
5:4 すなわち、主イエスの名によって、あなたがたもわたしの霊も共に、わたしたちの主イエスの権威のもとに集まって、
5:5 彼の肉が滅ぼされても、その霊が主のさばきの日に救われるように、彼をサタンに引き渡してしまったのである。”(口語訳)とあって、ひどい不品行の故に、肉体に対しては死に至る裁きがなされたとしても、霊は救われる、とあります。
救いに与ったことが確かであったとしたら、裁かれて肉体は滅んでも、霊は生かされています。新生された霊は、永遠の命を与えられているからです。
ヨハネ3:36には、はっきりと、「御子を信じる者は永遠の命をもつ」と記されています。しかし、罪についてはそれなりの対処をされるのです。(ルカ12:42-48、マタイ24:45-51、ヤコブ3:1、1コリント3:15)
また使徒5:1-10には、
“5:1 ところが、アナニヤという人とその妻サッピラとは共に資産を売ったが、
5:2 共謀して、その代金をごまかし、一部だけを持ってきて、使徒たちの足もとに置いた。
5:3 そこで、ペテロが言った、「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。
5:4 売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」。
5:5 アナニヤはこの言葉を聞いているうちに、倒れて息が絶えた。このことを伝え聞いた人々は、みな非常なおそれを感じた。
5:6 それから、若者たちが立って、その死体を包み、運び出して葬った。
5:7 三時間ばかりたってから、たまたま彼の妻が、この出来事を知らずに、はいってきた。
5:8 そこで、ペテロが彼女にむかって言った、「あの地所は、これこれの値段で売ったのか。そのとおりか」。彼女は「そうです、その値段です」と答えた。
5:9 ペテロは言った、「あなたがたふたりが、心を合わせて主の御霊を試みるとは、何事であるか。見よ、あなたの夫を葬った人たちの足が、そこの門口にきている。あなたも運び出されるであろう」。
5:10 すると女は、たちまち彼の足もとに倒れて、息が絶えた。そこに若者たちがはいってきて、女が死んでしまっているのを見、それを運び出してその夫のそばに葬った。”(口語訳)とアナニヤとサッピラの事件が記されています。この二人が、もし、救われていない人達であったら、罪を示し、救い主を示し、伝道し、救いに導く必要があったことでしょう。私は、この人達は救われていたのではないかと思うのですが、教会のきよさを保つために、罪の故に肉体の死を味わうことになったのだと思うのです。この時の神様の扱いがこの様であったのでしょう。
「死に至る罪」の「死」を霊的な死、永遠の死、を表していると捉える人もいますが、霊的に死んでいるという人は、まず、霊的に生まれなかった人です。霊的に生まれた人は永遠の命を頂いていますから、霊的には死なないのです。霊的に生きたり死んだりしているように見える人で、「霊的に死んでしまった。」と思われる人は本当は、再生(新生)していなかったのだと私は思うのです。霊的に新しく生まれた人は、神から生まれたのであって、アダムのように神によって造られた者とは異なるのです(ヨハネ3:3、1ヨハネ5:4[口語訳・新共同訳・KJV.etc.]、創世記1:26.27)。ただし、霊についてのみです。体の贖いはキリストの空中再臨の時になります(1テサロニケ4:16.17、1コリント15:52)。
「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」{(マルコ3:28.29)新改訳}とイエス様が言われたことがあります。聖霊は、イエスがキリストであると常に証しされるからです(ヨハネ15:26)。イエスがキリストであるということを受け入れなければ、その人に永遠の命は無いのです(1ヨハネ5:6-12)。
私の解釈が正しいのか間違っているのかはさておいて、「罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求めなさい。」(16)と命じられているように、とりなしの祈りをすることが大切です。それから、ガラテヤ6:1のおことばを実行するように示されている時は実行することになります。また、イエス様はマタイ18:15-17のおことばを命じられました。
私たち自身が罪に陥った時は、すぐに悔い改める必要があります。主は憐れみ深く恵み豊かであると共に、義なる神である故に、キリストが成し遂げられた贖いを無かったかのようにすることは出来ませんから私たちの悔い改めを無視することはありません。
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「しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。」{(1コリント11:31)新改訳}
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」{(1ヨハネ1:9)口語訳}
<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めます。
誰かが罪に陥っていると思った時には、あーだこーだと言っていないで、すぐにとりなしの祈りを第一にすることが出来ますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン