テモテへの手紙Ⅰ

2016年8月27日 (土)

1テモテ6:17-21 富んでいる者への忠告、他

6:17この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、
6:18また、良い行いをし、良いわざに富み、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜び、
6:19こうして、真のいのちを得るために、未来に備えてよい土台を自分のために築き上げるように、命じなさい。
6:20テモテよ。あなたにゆだねられていることを守りなさい。そして、俗悪なむだ話と、偽りの「知識」による反対論とを避けなさい。
6:21ある人々はそれに熱中して、信仰からそれてしまったのである。
恵みが、あなたがたと共にあるように。”(口語訳)

 17節には、「この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、」とあります。
1テモテ6:9.10は、金持ちになりたがる人たちへの警告でしたが、この箇所は、既に「この世で富んでいる者たち」に対する教えです。
ローマ帝国は、奴隷制社会でもありましたから、「この世で富んでいる者たち」とパウロが言っているのは、奴隷を幾人も所有しているような金持ちのことかも知れません。教会の中には、大そう裕福な人から、生活に困らない程度に富を所有している人や、やもめや奴隷の人までいたのです。時代は変わって現代でも、教会の中には、個人用ジェット機を持ち、使用人を幾人も抱えているような人から、自宅は持っているけれどもローンの支払いに汲々としている人もいれば、更にはホームレスの人までいます。霊的には平等です(ガラテヤ3:28、コロサイ3:11、1コリント12:13)が、この世の地位や財力は平等ではありません。しかし、キリストにあって(in Christ)歩めば、「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(ローマ14:17・新共同訳)、「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」(詩篇34:1・新改訳)というように、誰でも喜びを持ち、主に感謝し、主を崇めて幸せに過ごすことが出来ます。

 さて、財産を多く持っている人たちは、高慢になりやすい、のかも知れません。それ故、高慢にならないように、と戒められています。
多額のお金を持っている人は、あまり持っていない人よりもこの世の生活の自由度はずーっと大きいでしょう。お金は便利なものなので、お金に頼ってしまいやすいのです。そこで、お金ではなく、神様に望みを置くように、と命じられています。ひとたびハイパーインフレが起これば、札束は紙くずになります。株も大暴落すれば、あっという間に財産は縮小してしまいます。

 お金を持っていようがいまいが、常に、私たちに必要なすべての物を備えて下さり心を楽しませてくさる神に信頼するように、のぞみをおくように、とパウロは勧めています。

 また、お金をたくさん持っている者も、良い行いをし、良いわざに富み、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜び、こうして、真のいのちを得るために、未来に備えてよい土台を自分のために築き上げるように、とパウロは勧めています(18.19)。

 20.21節には、「テモテよ。あなたにゆだねられていることを守りなさい。そして、俗悪なむだ話と、偽りの『知識』による反対論とを避けなさい。ある人々はそれに熱中して、信仰からそれてしまったのである。」とあります。
パウロは、エペソに遣わしたテモテが、偽りの教え(知識)や俗悪な無駄話を正そうとしながら引きずり込まれてしまわないように再度注意を喚起しました。
人間関係を悪化させないようにしながら改善していこうとするとき、サタンの悪の罠にはまってしまうことがあります。注意深さが必要なのです。ガラテヤ6:1には、「兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい〔自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい(新改訳)〕。」(口語訳)とあります。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
如何なる状況に置かれても、いつも主に信頼して歩む者であらせてください。
また、様々な関りの中で、罪の誘惑に落ち込んでサタンの餌食になることがないようお守りください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年8月26日 (金)

1テモテ6:11-16 テモテ(私たち)への命令

6:11しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。
6:12信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。
6:13わたしはすべてのものを生かして下さる神のみまえと、またポンテオ・ピラトの面前でりっぱなあかしをなさったキリスト・イエスのみまえで、あなたに命じる。
6:14わたしたちの主イエス・キリストの出現まで、その戒めを汚すことがなく、また、それを非難のないように守りなさい。
6:15時がくれば、祝福に満ちた、ただひとりの力あるかた、もろもろの王の王、もろもろの主の主が、キリストを出現させて下さるであろう。
6:16神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。ほまれと永遠の支配とが、神にあるように、アァメン。”(口語訳)

 11節には、「しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。」とあります。
「あなたはこれらの事を避けなさい」とは、これまでパウロが述べてきた不敬虔な心の思い、ことば、行動等を指すと思います。
パウロは避けるべき事柄に続いて、追及すべき事柄を「義〔正しさ(新改訳)、正義(新共同訳)〕と信心〔敬虔(新改訳)〕と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい」と命じました。

 12節には、「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。」とあります。
「信仰の戦いをりっぱに戦いぬけ」とあります。敵は、人ではなく、サタンとその配下の悪霊たちです(エペソ6:11.12)。敵は、主と福音に敵対してくる人や権力の背後にいる目で見ることの出来ないサタン勢力なのです。サタン勢力との戦い方法は、エペソ6:10-18に記されています。
次に「永遠のいのちを獲得しなさい」とあります。
新生している人の霊は、すでに永遠ですが、体はまだ古いままです。永遠の命を持った霊の体は、キリストの空中再臨の時に与えられます。本文を間違った読み方をしてしまうと、立派に戦い抜かないと永遠の命を得ることが出来ないと捉えてしまうかもしれませんが、それは違います。新生の恵みを頂いた人の霊の内には、御霊が住んでくださっておられます。ローマ8:11には、「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(新改訳)と記されています。
パウロは、新生の恵みにあずかった人は誰でも永遠の命を頂けるのだけれども、あなた(テモテ)は、同じもらうにせよ、信仰の戦いをりっぱに戦いぬいた後、もらいなさい、と述べたのだと思います。ギリシャ語本文には、<のち>という語はないのですが、私は、「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて〔戦い抜いた後(筆者挿入)〕、永遠のいのちを獲得しなさい〔頂きなさい(筆者挿入)原語は「得る」であって「頂く」ではありませんが〕。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。」ということをパウロは語ったのではないのだろうかと想像します。
パウロは、キリストの空中再臨があることは教えられていましたが、それが起こる時については知らされていませんでした。主から教えられていたことは、それがいつ起きてもよいようにしていなさい、ということだけであったのでしょう。ですから、パウロは、14節で、「わたしたちの主イエス・キリストの出現〔空中再臨(筆者挿入)〕まで、その戒めを汚すことがなく、また、それを非難のないように守りなさい。」とテモテに命じたのでした。

 キリストの空中再臨の時について、パウロは、「神は、定められた時にキリストを現してくださいます。」(15・新共同訳)と述べました。

 余談になりますが、マタイ24章、ルカ21章、2テモテ3:1-7、エゼキエル38章、イザヤ17:1、ホセア4:2.3、ゼカリヤ12:2.3、黙示録に記されてある手や額の刻印の技術、その他数多くの預言が聖書に記されていますが、それらから時が近づいているのではないかという想像を致します。
キリストの空中再臨は、花婿であるキリストが花嫁である教会(キリスト者の集合体)を迎えに来てくれる時ですから、キリスト者自身に限って言えば大喜びの出来事ですが、地上に残された者にとっては、その後の数年間は、現在とは比べることが出来ないほど悲惨な状況になります。早く皆が信じてくれたらいいのにと思います。

 話を元に戻します。
パウロは、15bと16節で、「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。」(新改訳)と主なる神様をほめたたえました。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
パウロは、テモテに、「私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。」(14・新改訳)と命じましたが、私には、これはレベルが高く感じられます。
私に対しては、私に見合うように御霊様が日々導いてくださいますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年8月25日 (木)

1テモテ6:3-10 偽教師の状態と満足している信仰者の幸い

6:3もし違ったことを教えて、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心〔敬虔(新改訳)〕にかなう教に同意しないような者があれば、
6:4
彼は高慢であって、何も知らず、ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である〔病みつきになっています(新共同訳)〕。そこから、ねたみ、争い、そしり、さいぎの心〔悪意の疑り(新改訳)、邪推(新共同訳)〕が生じ、
6:5また知性が腐って、真理にそむき、信心〔敬虔(新改訳)〕を利得と心得る者どもの間に〔利得の手段と考えている人たちの間には(新改訳)〕、はてしのないいがみ合いが起るのである〔絶え間ない言い争いが生じるのです(新共同訳)〕。
6:6しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。〔しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。(新改訳)〕
6:7わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。
6:8
ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである〔満足すべきです(新改訳)〕。
6:9富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。〔金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。(新共同訳)〕
6:10金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。〔金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。(新改訳)、金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。(新共同訳)〕”(口語訳)

 読むだけでよく分かる箇所です。
偽教師は、主イエス様の教えや使徒たちの教えから逸脱したことを教えていました。また、偽教師たちの間でも、一致が見られず、議論し合うのです。キリスト教歴史を振り返ってみると、これは初代教会の時代から、現代まで続いています。偽教師の中には、宗教でお金を儲けようとする人もいると記されています。

 8節には、「食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。」(新共同訳)とあります。
寒い地方で暮らしている人は、着る物以外にも寒さをしのぐものが必要でしょうし、とても暑い地方に暮らしている人は、暑さをしのげるものも必要でしょう。人は霊と魂だけで生きているのではなく、人には肉体も与えられていますから、与え主である神様は、人の必要をすべてご存知です。イエス様は、「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる」(マタイ6:8・新改訳)と言われました。

 また、1テモテ6:6には、「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」(新改訳)とあります。
感謝の心をもって、主を愛し、主に信頼し、主が与えてくださった約束に希望を置き、主に従う者に、主は大きな益(エペソ1:3)を与えてくださいます。霊と魂が主の霊によって満たされて満足していれば、不必要な物質や金銭に心が向くことはないのではないかと思います。
主の霊に満たされている者には、主がその人に必要な物を満たしてくださると約束しておられるのです。そのような人に主が必要を満たされない場合には、主に何かのお考えがあってのことでしょう。イエス様が、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33・新改訳)と断言されているのですから。
新共同訳の詩篇33:10.11には、「主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。若獅子は獲物がなくて飢えても、主に求める人には良いものの欠けることがない。」とあります。
また、詩篇37:25には、「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者〔主に従う人(新共同訳)〕が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。」(新改訳)とあります。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
感謝の心をもって、主を愛し、主に信頼し、主が与えてくださった約束に希望を置き、主に従い続ける生涯を送らせてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年8月24日 (水)

1テモテ6:1.2ab 奴隷への勧め

6:1くびきの下にある奴隷はすべて、自分の主人を、真に尊敬すべき者として仰ぐべきである。それは、神の御名と教とが、そしりを受けないためである。
6:2信者である主人を持っている者たちは、その主人が兄弟であるというので軽視してはならない。むしろ、ますます励んで仕えるべきである。その益を受ける主人は、信者であり愛されている人だからである。”(口語訳)

 1節には、「軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒涜されないようにするためです。」(新共同訳)とあります。
この節は、奴隷の身分で、キリスト者となった人と、キリスト者ではない主人の関係が記されています。
この手紙が記された時代は、奴隷制社会の時代でした。パウロは、社会運動家として奴隷制廃止の運動をしたのではありませんでした。神様がパウロをそのように導かれたのではなかったからです。神様が奴隷制度を廃止するために用いた人たちは後世の別の人たちでした。

 キリスト者となった奴隷は、奴隷であっても、奴隷の所有者であっても、神は差別しない、即ち神の御前においては平等である、という教えを受けていたことでしょう。
ガラテヤ3:27.28には、「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(新共同訳)とあり、
コロサイ3:9-11には、「・・あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありませんキリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」(新改訳)とあります。

 パウロは、霊においては神の御前に平等なので、教会内においては、奴隷と自由人の区別はありません、と教えたのでした。
しかし、社会においては、社会制度というものがありますから、そうはいきません。キリスト者でない奴隷所有者によって、キリストの御名が汚されないために、奴隷の身分にあるキリスト者に対して、「自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。」(新共同訳)と指導したのでした。
その他、パウロは、1コリント7:21では、「召されたとき奴隷であっても、それを気にしないがよい。しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい。」(口語訳)と述べ、
エペソ6:5-8では、「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。」(新改訳)とのべ、
コロサイ3:22-25では、「奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。不正を行う者は、自分が行った不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません。」(新改訳)と述べています。

 次に、2節で、奴隷と奴隷の主人とが、共にキリスト者である場合の奴隷に対して、どのように指導したら良いのか、ということを、パウロはテモテに、「信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽く見ず、むしろ、ますますよく仕えなさい。なぜなら、その良い奉仕から益を受けるのは信者であり、愛されている人だからです。あなたは、これらのことを教え、また勧めなさい。」(新改訳)と述べました。

 余談になりますが、パウロはローマ市民権を持っている自由人でしたが、イエス・キリストの奴隷として歩み続けた人でした。
パウロは、1コリント7:22.23では、「奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。」(新改訳)と述べています。
また、ローマ人の手紙の初めの節で、パウロは、「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」と自己紹介しました。
「しもべ」も「奴隷」もギリシャ語の原語では同じδοῦλος ドゥーロス です。愛の関係に基づく「しもべ」であったのでした。イエス様を愛しイエス様に自らをささげて、イエス様に従ったのです。それは限りない愛をもってイエス様が愛してくださっておられることを体験したからです。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
現代日本は、奴隷制の社会ではありませんが、仕えるべき人には、主に仕えるように仕えることが出来ますように。
その報いは主からくることを覚えて感謝します。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年8月23日 (火)

1テモテ5:21-25 テモテへの命令

5:21わたしは、神とキリスト・イエスと選ばれた御使たちとの前で、おごそかにあなたに命じる。これらのことを偏見なしに守り、何事についても、不公平な仕方をしてはならない。
5:22軽々しく人に手をおいてはならない。また、ほかの人の罪に加わってはいけない。自分をきよく守りなさい。
5:23(これからは、水ばかりを飲まないで、胃のため、また、たびたびのいたみを和らげるために、少量のぶどう酒を用いなさい。)
5:24ある人の罪は明白であって、すぐ裁判にかけられるが、ほかの人の罪は、あとになってわかって来る。
5:25それと同じく、良いわざもすぐ明らかになり、そうならない場合でも、隠れていることはあり得ない。”(口語訳)

 21節には、「わたしは、神とキリスト・イエスと選ばれた御使たちとの前で、おごそかにあなたに命じる。これらのことを偏見なしに守り、何事についても、不公平な仕方をしてはならない〔えこひいきはなりません(新共同訳)〕。」とあります。
「これらのこと」は、これ以前に命じられてきたことでしょう。「これらのこと」に関することは、すべて人が絡むのです。人との相性とか、それまでの関りとかがあります。それらをすべて脇に置いて、偏見を持つことなく、不公平になることなく、命じられた通り対処するようにとパウロはテモテに命じました。その命じ方も、「神とキリスト・イエスと選ばれた御使たちとの前で厳かに」です。大変な責務です。

 22節には「軽々しく〔性急に(新共同訳)〕人に手をおいては〔按手をしては(新改訳)〕ならない。また、ほかの人の罪に加わってはいけない。自分をきよく守りなさい。」とあります。
ここでは、長老への按手を述べているのだと思います。その他、信仰から離れた者が再び帰って来た時に按手して赦した、という場合もあったようです。よく吟味しないで、罪の故に按手すべきでない人に軽率に按手することは、教会に罪を持ち込むことになります。それ故、他人の罪に気付かない内に、その罪を身に負ってしまうことになるのです。教会が腐敗していく原因を作ってしまうからです。

 23節には、「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。」(新改訳)とあります。
恐らく、テモテは、度重なる緊張状態から、胃痛をおこしたり、その他の症状が起きたりしていたのでしょう。少量のぶどう酒を、緊張を和らげる為に用いるように勧めたのだと思います。
この聖句を悪用して、アルコールに酔うことを楽しむ人も出てきかねません。パウロは、「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。」(エペソ5:18・新改訳)と放蕩の罪に陥るような飲み方を禁じています。

 24節には、「ある人の罪は明白であって、すぐ裁判にかけられるが、ほかの人の罪は、あとになってわかって来る。」とあります。
この箇所は、「長老の中のある人たちの罪は、裁きを受ける前から、誰の目にも明らかであるので、テモテはそのような人に按手をすることはないでしょう。しかし、長老の中の他の人たちの罪は、すぐには分からず時が経って分かってくるものなので、按手するのに注意する必要があります。それだからこそ、誰にでも軽々しく按手をしてはいけませんよ。」とパウロはテモテに述べたのではないかと思います。

 25節には、「それと同じく、良いわざもすぐ明らかになり、そうならない場合でも、隠れていることはあり得ない。」とあります。
このようなことはよく体験することです。また、善いことでも悪いことでも、誰にも知られない内に肉体の死を迎えたとしても神様はご存知です。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私の生来の気質の中には性急なところがあります。それでどれだけ失敗したことでしょうか。
御霊の導きよりも先に出ることなく行動することが出来ますように。また語ることが出来ますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年8月22日 (月)

1テモテ5:17-20 長老に対する扱い

5:17よい指導をしている長老、特に宣教と教とのために労している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である。
5:18聖書は、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」また「働き人がその報酬を受けるのは当然である」と言っている。
5:19長老に対する訴訟は、ふたりか三人の証人がない場合には、受理してはならない。
5:20罪を犯した者に対しては、ほかの人々も恐れをいだくに至るために、すべての人の前でその罪をとがむべきである。 ”(口語訳)

 17節には、「よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしい、と考えるべきです。」(新共同訳)とあります。
長老と監督とは、同じ人の異なった呼び名です。
使徒20:17.28には、「パウロは、ミレトからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼んだ。・・中略・・あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」(新改訳)と記されています。

 17節では、長老たち全員は、とは書かれておらず、「よい指導をしている長老、特に宣教と教とのために労している長老」(口語訳)とあります。パウロはそのような長老は、二倍の報酬を受けるにふさわしいと考えるべきであると記しました。「尊敬」と訳されている原語には「報酬」の意味もあります。

 17節に述べた内容を裏付ける為に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」(18・新共同訳)と申命記25:4のおことばを引用しました。更に続けて同じ18節で、「働き人がその報酬を受けるのは当然である」とイエス様が語られたおことば(マタイ10:10)を引用しました。
パウロ自身は働きながらみことばを宣教し、みことばを教え、教会を建て上げていったときもありましたが、それは教会としては健全なことではなく、救われた人たちの霊的成長がまだ赤子や幼児のような状態であった故に、つまずきを与えないようにとの配慮からでありました。少なくとも、社会で働いている人が10人いたとしたら、そして、給与の10分の1がささげられたら、牧師は主から与えられた任を全うしていくことが出来るのです。実際には、給料取りが10人だけでは教会運営費もありますから、経済面における健全な教会運営の為には、少なくとももう少し多い人数を必要としますが。

 19節には、「長老に対する訴訟は、ふたりか三人の証人がない場合には、受理してはならない。」とあります。
長老は、みことばを教えるだけではなく、霊的指導、実生活上の指導も行います。何も問題のない信徒に対しては指導する必要はありませんが、問題を抱えている信徒に対しては指導しなければならないこともあります。指導内容が正しいとしても、指導を受けた信徒やその仲間が、それを受け入れることが出来ず、自分を棚に上げて指導した長老を悪く言う場合も出てきます。
また長老といえども、主のみ旨からずれてしまって、教会財とのかかわり、異性とのかかわり、信徒の模範となるのではなく権力をかさに着るというあり方等において問題のある場合も出てくるかもしれません。
長老に対する訴えがなされた場合、本当に長老が悪いのか、訴えた方が悪いのかを識別する必要に迫られます。長老は、悪意、誤解、偏見のただ中に立たされることもあるので、パウロは、「長老に対する訴訟は、ふたりか三人の証人がない場合には、受理してはならない。」と命じました。

 20節には、「罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい。ほかの人をも恐れさせるためです。」(新改訳)とあります。
「罪を犯している者」の「者」は文脈上、長老を指していると考えられます。「罪を犯している者」をNKJVは"Those who are sinning"と訳しています。
パウロは、罪を犯し続けている長老を、「すべての人の前で責めなさい」と語りました。それは教会を聖く保つためです。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたがお立てになられた長老たちの霊・魂・体を健全にお守りください。
あなたのみ旨に叶った教会の建て上げ、運営がなされていきますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年8月21日 (日)

1テモテ5:11-16 やもめについて2

5:11若いやもめは除外すべきである。彼女たちがキリストにそむいて気ままになると、結婚をしたがるようになり、
5:12初めの誓いを無視したという非難を受けねばならないからである。
5:13その上、彼女たちはなまけていて、家々を遊び歩くことをおぼえ、なまけるばかりか、むだごとをしゃべって、いたずらに動きまわり、口にしてはならないことを言う。
5:14そういうわけだから、若いやもめは結婚して子を産み、家をおさめ、そして、反対者にそしられるすきを作らないようにしてほしい。
5:15彼女たちのうちには、サタンのあとを追って道を踏みはずした者もある。
5:16女の信者が家にやもめを持っている場合には、自分でそのやもめの世話をしてあげなさい〔信者の婦人で身内にやもめがいれば、その世話をすべきであり(新共同訳)〕。教会のやっかいになってはいけない。教会は、真にたよりのないやもめの世話をしなければならない。”(口語訳)

 11-15節は、若いやもめについて、教会として、どのようにしたらよいかが記されています。
文脈の中で、若いやもめとは、60歳未満のやもめを指します(1テモテ5:9)。また、この箇所は、教会で世話をすべきやもめについて規定している箇所であることも前提になります。
やもめになった段階で、本当の夫であるキリストにのみ仕えることが出来たらなんと幸いなことであろうかと思いますが、そのようなキリスト者は少ないのかも知れません。

 9.10節には、「やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません。」(新共同訳)とありますから、教会で世話をするやもめは、教会の働きの手伝いをしたのではないかと考えられています。その手伝いの中には、恐らく、孤児の子育てや旅人のもてなしや聖なる者たちの足を洗うことや苦しんでいる人々を助けることやその他教会内の働きの手伝いが含まれていたのだろうと想像されます。また、13節より、家庭訪問もしたのではないかと考える人もいます。
そこで問題になるのは、キリストに献身していないやもめです。
11-15節には、献身していない若いやもめ、霊の人となっていないやもめの問題が記されているように私には思えます。
教会で食べることに不自由しなくなったやもめが、霊の人となっていなければ、肉の人としての歩みをすることは自然のことでしょう。
そうであれば、11-13節の「彼女たちは、情欲にかられてキリストから離れると、結婚したがるようになり、前にした約束を破ったという非難を受けることになるからです。その上、彼女たちは家から家へと回り歩くうちに怠け癖がつき、更に、ただ怠けるだけでなく、おしゃべりで詮索好きになり、話してはならないことまで話しだします。」(新共同訳)という言動に出ることは自然の流れです。

 15節には、「既に道を踏み外し、サタンについて行ったやもめもいるからです。」(新共同訳)と記されています。
罪を示されても悔い改めることをしなければ、サタンに引きずられていくことになってしまいます。

 そこでパウロは、「だから、わたしが望むのは、若いやもめは再婚し、子供を産み、家事を取りしきり、反対者に悪口の機会を一切与えないことです。」(14・新共同訳)とテモテに若いやもめに対する指導方法を教示しました。この内容は、前出の1テモテ2:15の「女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。」(新改訳)に通じるところがあると思います。
パウロはやもめの再婚について、1コリント7:39.40に、「妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主に結ばれている者に限ります。しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です。」(新共同訳)と記しています。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
現代の日本の教会では、国の保証がそれなりにあるので、やもめの衣食の面倒をみる必要がなくなりましたが、これらの箇所から、男女にかかわらず、健全な信仰生活を送ることの大切さを教えられます。
私たちが霊の人としての歩みをし続けていくことが出来ますよう助けてください。
やもめとなった後、再婚したい人は、キリスト者と再婚することが出来ますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年8月20日 (土)

1テモテ5:3-10 やもめについて1

5:3やもめについては、真にたよりのないやもめたちを、よくしてあげなさい。
5:4やもめに子か孫かがある場合には、これらの者に、まず自分の家で孝養をつくし、親の恩に報いることを学ばせるべきである。それが、神のみこころにかなうことなのである。
5:5真にたよりのない、ひとり暮しのやもめは、望みを神において、日夜、たえず願いと祈とに専心するが、
5:6これに反して、みだらな生活をしているやもめは、生けるしかばねにすぎない。
5:7これらのことを命じて、彼女たちを非難のない者としなさい。
5:8
もしある人が、その親族を、ことに自分の家族をかえりみない場合には、その信仰を捨てたことになるのであって、不信者以上にわるい。
5:9やもめとして登録さるべき者は、六十歳以下のものではなくて、ひとりの夫の妻であった者、
5:10また子女をよく養育し、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助け、種々の善行に努めるなど、そのよいわざでひろく認められている者でなければならない。”(口語訳)

 現代の日本においては、年金制度や生活保護の制度などがありますが、この当時はそのようなものはありませんでした。ですから、財産を持っていないキリスト者のやもめの生活を支えるために、教会としてどのように対処したらよいのかを示す必要があったのです。
如何なるやもめを支援するのかについて、やもめのそれまでの歩み方、現在の状況、血族の存在等を基に判断を下すように勧めています。

 3節には、「やもめの中でもほんとうのやもめを敬いなさい。」(新改訳)とあります。
「ほんとうのやもめ」とありますから、やもめと言われても「ほんとうの」がつかない人もいるわけです。その中には、
①血筋の繋がりのある人がまだ地上にいる場合です。
4節には、「もし、やもめに子どもか孫かがいるなら、まずこれらの者に、自分の家の者に敬愛を示し、親の恩に報いる習慣をつけさせなさい。それが神に喜ばれることです。」(新改訳)とあり、
また、8節には、「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」(新改訳)とあり、
16節には、「もし信者である婦人の身内にやもめがいたら、その人がそのやもめを助け、教会には負担をかけないようにしなさい。」(新改訳)と記されています。
②やもめで、キリスト者であると自分では思っている人であっても(本当にキリスト者である場合もありますが)、6節にあるように、「自堕落なやもめ」(新改訳)、「みだらな生活をしているやもめ」(口語訳)、「放縦な生活をしているやもめ」(新共同訳)は援助から除外されたようです。16節には、「・・・教会はほんとうのやもめを助ける・・」(新改訳)とありますから。パウロは、「放縦な生活をしているやもめは、生きていても死んでいるのと同然です。」(7・新共同訳)と述べました。
③「ほんとうのやもめ」は、以下のⓐ~Ⓒを網羅している人、と記されています(9.10)。
 ⓐ60歳以上の人
 ⓑひとりの夫の妻であった人
 Ⓒ良い行いによって認められている人{(イ)子どもを育てた人、(ロ)旅人をもてなした人、(ハ)聖徒の足を洗った人、(ニ)困っている人を助けた人、(ホ)その他すべての良いわざに励んだ人}。
ほんとうのやもめがどのような生き方をしているかについては、5節に、「ほんとうのやもめで、身寄りのない人は、望みを神に置いて、昼も夜も絶えず神に願いと祈りをささげています」(新改訳)と記されています。

 ルカ2:36-38にアンナというやもめの話が記されています。アンナの結婚生活は7年間でした。アンナは、その後、ずーっとやもめでしたが、いつも宮にいて、昼も夜も、断食と祈りをもって神に仕えていた人でした。そして、主によって預言者として立てられた人でもありました。

 大分以前にやもめの方から聞いた話で且つ余談になりますが、自立した生活をしているある高齢の老婦人の方が、「私は、お食事のとき、イエス様のお茶碗も自分の前に並べるの、そして、お話しながら食べるの」と証してくれたことを思い出します。主との交わりを持ったことの無い人のために一言、このご婦人の精神状態、霊的状態はすこぶる良い状態でした。今は天に帰っておられるかも知れません。 

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
この箇所に記されている「ほんとうのやもめ」の様に、いつでも主に信頼し、主に望みを置き、主のみ旨に叶った生活を送ることが出来ますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン   

2016年8月19日 (金)

1テモテ5:1-1.2 勧告の仕方(勧告する人の心のあり方)

5:1老人をとがめてはいけない。むしろ父親に対するように、話してあげなさい。若い男には兄弟に対するように、
5:2年とった女には母親に対するように、若い女には、真に純潔な思いをもって、姉妹に対するように、勧告しなさい。”(口語訳)

 1節aの口語訳は、「老人をとがめてはいけない。むしろ父親に対するように、話してあげなさい。」とあります。
新改訳は、「年寄りをしかってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。」と訳し、
新共同訳は、「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。」と訳しています。ここに記されている「老人」、「年寄り」は、男性であることが文脈から分かります。
男女にかかわらず、高齢者の霊の人は、益々神のご性質に預かる者(2ペテロ1:4)とされていく方向に向かっていますから、キリストに似た者とされていきます。
霊の人は、改善すべきである、と指摘されたことが、その通りであると思えば、直ちに迷惑をかけた方にお詫びをし、改善するでしょう。指摘が正しいかどうか判別に困る場合は、そのことを、主に祈りの中で尋ねるでしょう。確かに忠告の通りでると示されれば、改めるでしょう。
言動を改善するように勧めなければならない人の多くは肉的な部分が残っている人、或いは肉的に歩んでいる人です。肉的に歩んでいる人は、キリストの救いに預かっていない人とあまり変わらない歩みをしています(1コリント3:3)。1コリント3:1-3には、
“3:1 兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。
3:2 あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。
3:3 あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間〔新生していない人(筆者挿入)〕のように歩いているためではないか。”(口語訳)と記されています。

 新生していない高齢者は、不安を持っています。悲しみを抱えていることが多いです。殻に閉じこもったり、うつ状態になりやすいです。体力知力の衰えの故に自信を無くし、その反動で高ぶったり強がったり、少しのことで怒ったりする人もいます。プライドの高い人も多いです。また、その他多くの問題をも抱えている場合もありますが、特に男性はそれを口に出さない人が多いです。

 新生していても肉の人は似た状態にありますから忠告の仕方にも注意を払う必要があるのです。霊の食物(みことば)も乳は飲めても堅い食物は食べれない場合が多いのです。
それ故、この箇所では、「老人〔男性高齢者(筆者挿入)〕を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って〔愛をもって(筆者挿入)〕諭しなさい。」と教えられてるのだと思います。同じように、2節には、「年とった婦人たちには母親に対するように・・・〔愛をもって(筆者挿入)〕勧めなさい」、と記されています。

 「若い男には兄弟に対するように〔愛をもって(筆者挿入)〕・・勧めなさい。」(1)
 「若い女性には、真に純潔な思いをもって、姉妹に対するように、勧告しなさい。」(2)とパウロはテモテに命じました。テモテは、「純潔な思いをもって」と言われるような年齢であったのでしょう。主に祈らずに出来ることは一つもありませんでした。忠告する為には、相手を愛する愛に満たされなくては出来ませんし、異性に対しては肉的感情を聖別しつつ愛によって忠告する必要がありました。

 その他、1テサロニケ5:14の「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。」(新共同訳)とか、ガラテヤ6:1の「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人〔霊の人(口語訳)〕であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」(新改訳)というおことばも参考になると思います。 

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
もしも勧告を受けた時は、あなた様の御前にへりくだり、み旨に叶った対応をとることが出来ますように。
誰かに忠告を与えなければならない立場に立たされた時には、キリストの愛をもって対処させて頂くことが出来ますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン 

2016年8月18日 (木)

1テモテ4:12-16 信者の模範となりなさい

4:12あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない。むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい。
4:13わたしがそちらに行く時まで、聖書を朗読することと、勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい。
4:14長老の按手を受けた時、預言によってあなたに与えられて内に持っている恵みの賜物を、軽視してはならない。
4:15すべての事にあなたの進歩があらわれるため、これらの事を実行し、それを励みなさい。
4:16
自分のことと教のこととに気をつけ、それらを常に努めなさい。そうすれば、あなたは、自分自身とあなたの教を聞く者たちとを、救うことになる。”(口語訳)

 12節には、「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」(新改訳)とあります。
エペソの長老たちはテモテよりも年上であったのでしょう。自分よりも年上の人たちが実権を握っている教会にテモテは遣わされたのです。テモテは、ユダヤ人である母ユニケと祖母ロイスのもとで成長しました。ですから律法にも詳しかったでしょうし、律法に忠実であるべく歩んできたことと思います。その律法の中には、「あなたの父と母を敬え。」(出エジプト2:12)や「あなたは白髪の人の前では、起立しなければならない。また老人を敬い、あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」(レビ19:32)といった命令もありますから、恐らく気弱であったテモテ(2テモテ2:1)には、エペソの年上の長老たち、特に偽りの教えを説く長老たちに相対する時を想定して、パウロはこの様に勧めたのだろうと思います。

 この節は、「ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範」であるような人は、年齢に関係なく、軽く見られることはない、と教えてくれています。
若くして、牧者として教会に遣わされた人には、特にこのおことばは大切であると思います。神の権威を笠に着るのではなく、信者の模範になることが大切であると、使徒ペテロも、1ペテロ5:3で、「・・ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。」(口語訳)と述べています。

 13節には、パウロがエペソに到着するまでの間、テモテが為すべきこととして、「聖書の朗読と勧めと教えとに専念」すべきであることが命じられています。まことの神様の教えは、偽りの教えを駆逐することが出来ます。しかし、サタンを父としている人には効果がない可能性があります。それはイエス様が語られた次のおことばにあります。
“8:42 イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。
8:43 あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。
8:44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。
8:45 しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。
8:46 あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。
8:47 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」”(ヨハネ・新改訳)。

 14節には、「長老の按手を受けた時、預言によってあなたに与えられて内に持っている恵みの賜物を、軽視してはならない。」とあります。
恐らく、エペソ教会において、一定の職務に就くための按手を長老から受けることを言っているのでしょう。任職の為の按手であろうと想像します。パウロは、その時に、「預言によってあなた〔テモテ(筆者挿入)〕に与えられて内に持っている恵みの賜物を、軽視してはならない。」と語っています。
それに加えて、聖き内を歩み、聖書の朗読と勧めと教えとに専念するように、心を砕きしっかりやるように、と命じました。そして、そのようにしていくとき、テモテの進歩はすべての人に明らかになるでしょう、とパウロは語りました(15)。

 更に、パウロはテモテに、念を押すように、「自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。」(16・新改訳)と命じ、そのようにすれば、「自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。」(16・新改訳)と語ったのでした。パウロは、「・・御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」(ガラテヤ6:8.9・新改訳)とも述べています。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたから与えられた務めを御霊によって忠実に果たしていく者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

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