雅歌

2019年7月16日 (火)

雅歌8:11-14 主よ来たりませ

雅歌811には「ソロモンにはバアル・ハモンにぶどう畑があって、そのぶどう畑を、守る者たちに任せていた。それぞれは、そのぶどうの実に代えて銀千枚を納めることになっていた。」(新改訳2017)とあります。
「バアル・ハモン」を、ここでは土地の固有名詞として訳すべきであり、その様に訳されていますが、普通名詞として訳すと、「バアル」(主人、所有者、夫)・「ハモン」(民衆、大勢)は民の所有者or民の主、また大勢の夫、の意になります。

雅歌812には「これがわたしのぶどう畑、ソロモン様。銀一千はあなたの取り分。銀二百は世話をした番人へ。」(新共同訳)とあります。
「私のぶどう畑」を、新共同訳スタディー版の注は、「おとめが自分のからだを指していると思われる」と述べています。

11.12
節を合わせて、主キリスト・イエス様とキリスト者の関係で考えるとどうなるでしょうか。
私は、この箇所を、主イエス様から預けられたものをいかに管理したか、というマタイ2514-30の箇所を思い浮かべます。
すべての物、すべての人の所有者は、主なる神様であり、主イエス様です(申命記1014、ヨブ4111、詩篇241、コロサイ116)。
キリスト者は、主イエス様からタラント(マタイ2515)・ミナ(ルカ1913)を受け取っています。地上にいる間、主に在って、それをどのように用いるか、ということを問われています。自分に与えられている賜物や時間をどのように用いるのか、ということでしょう。

雅歌813を新共同訳は、若者〔ソロモン(筆者挿入)〕の歌として、「園に座っているおとめ〔花嫁(筆者挿入)〕よ、友は皆、あなたの声に耳を傾けている。わたしにも聞かせておくれ。」と訳し、
リビングバイブルは、おとめ〔花嫁(筆者挿入)〕の言葉として「庭園に住んでいる私の愛する方。お仲間は、あなたの声に聞きほれています。私にもぜひお聞かせください。」と訳しています。
 新共同訳スタディー版の注は「園は良い香りのするおとめの体を指す場合がある(41262.3)。若者はその園が自分だけのものだと言っている(51)。友は若者の仲間の牧童たちを指すと思われる(17)。園は愛の営みの場として雅歌に頻繁に現れる。」と述べています。
 リビングバイブルの訳をもとに、主キリスト・イエス様とキリスト者の関係で考えると、キリスト者たちは、キリストのことばに聞きほれています。花嫁である私にも是非あなたの御言葉を聞かせてください、という意になるだろうと思います。聞きほれるのですから、主が直接語ってくださっておられることば(レーマ)です。花嫁としては、私にも語って、というわけです。

 この箇所を新改訳2017は「庭の中に住む仲間たちは、あなたの声に耳を傾けている。私にそれを聞かせておくれ。」と訳しています。
新改訳と新共同訳の訳の違いは、ヘブライ語聖書の底本の違いなのかもしれません。
また、「園に座っているおとめよ」(新共同訳)、「庭園に住んでいる私の愛する方」(リビングバイブル)という箇所ですが「座っている」(新共同訳)、「住んでいる」と訳された語の原語は「ヤシャブ」で、それらのどちらの意味も持っています。この箇所の単語は、冠詞と接尾辞がついて「ハショヴェット」となっており、接尾辞は女性形です。
 13節を聖書協会共同訳は「園に座る人〔別訳「おとめ」(聖書協会共同訳注)〕よ、仲間たちはあなたの声に耳を澄ませています。私にも聞かせてください。」と訳しています。
この訳を、主キリスト・イエス様とキリスト者の関係で捉えると、花嫁であるキリスト者に対して、主イエス様が、キリスト者同士で話ばかりしていないで、私に話をして、即ち、お祈りをして、と語られているようにも思えます。

雅歌814には「私の愛する方よ、急いでください。かもしかのように、若い鹿のようになって、香料の山々へと。」(新改訳2017)とあります。
この節を、主キリスト・イエス様とキリスト者の関係で捉えると、
「香料の山々」とは雅歌62より、花嫁を指しているのであろうと思います。
これは、「主よ、来てください。」(1コリント1622)、「主イエスよ、来てください。」」(黙示録2220)という内容に、更に雅歌では、走ることの速い「かもしか」や「若い鹿」を用いて、急いでor早く来てください、と主イエス様に懇願しているかのようです。
蛇足になりますが、花婿イエス様が、花嫁である教会即ち主を待ち望んでいるキリスト者(ヘブル928)を迎えに来る時の実権を握っているのは御父です。

<お祈り>
天のお父様。
雅歌の最後も、キリスト者的に言うと、「主よ、速やかに来てください。」という文で閉じられていることを覚えます。
聖書に記されている預言から、主の空中再臨が近づいているように思える昨今です。
それ故、益々、主を愛し、主に信頼し、主に従って歩みつつ、主の御迎えを待ち望む者であらせてください。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2019年7月15日 (月)

雅歌8:7-10 御父の愛のご計画と御子の恵みと御霊の御働き

雅歌87
新改訳2017は「大水もその愛を消すことができません。奔流もそれを押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして自分の財産をことごとく与えたなら、その人はただの蔑みを受けるだけです。」と訳し、
リビングバイブルは「どんなに水をかけても、愛の炎を消すことはできません。大洪水でさえ、それを押し流すことはできません。たとい、全財産をはたいて愛を買おうとしても、できない相談です。」と意訳しています。
 「大水もその愛を」(新改訳)の「愛」(アハヴァー)には冠詞「その」(ハ)がついています。
この箇所の前半部分を、主キリスト・イエス様とキリスト者の関係で考えたときに、私は、ローマ835-39を思い起こしました。その箇所には、どんな人も、どんな出来事も、如何なるものも、キリストの愛から、私たちを引き離すことは出来ない、とあります。
 私たちがキリスト様を決して離すことがないようにつかんでいるのではなく、主キリスト・イエス様が私たちをしっかりご自身の内に保ってくださっておられるのです。
霊の父が、御子イエス様に与えられた者を、御父も御子も守ってくださるのです(ヨハネ1028.29、ヨハネ637)。
 後半部分の箇所を読んだとき、金で神の賜物を買おうとした人に対して、ペテロが「おまえの金は、おまえとともに滅びるがよい。」(使徒820)と言った箇所を思い浮かべました。
いくらお金を積んでも、主の愛を得ることは出来ないのです。主は主を信じる者、主を愛する者を愛してくださるのです(箴言817、ヨハネ1627)。
主を愛する者を主が愛してくださるといっても、主が愛してくださったことを知ったから主を愛することができるようになったのです(1ヨハネ47-19)。

 雅歌88-10の解釈の仕方は複数個ありますが、その内の二つを記します。
A
8.9節をおとめ(花嫁)の兄弟たちの言葉として捉える 
8 私たちの妹は若く、乳房もない。私たちの妹に縁談のある日には、彼女のために何をしてあげようか。9 もし彼女が城壁だったら、その上に銀の胸壁を建ててあげよう。彼女が戸だったら、杉の板でおおってあげよう。」(新改訳2017
「城壁」、「戸」はおとめの処女性の比喩。おとめは処女を保っているが、言い寄る男性からおとめの兄弟はさらにそれを守る、というもの。
注解付新改訳聖書の注は「もし花嫁が結婚するまで純潔であったら彼女をほめてやり、誘惑に負けそうになったら守ってやろうという意味。」と述べています。
 10節を兄弟に対するおとめ(花嫁)の答えとして捉える
「私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。そのために、私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」(新改訳2017
兄弟のおとめ理解に対して、おとめは、私は純潔を守ったし、体は結婚するのに十分成熟しています。それなので、求婚する人に安心を与えています、という意であろうと思います。
B
.リビングバイブルの解釈は下記のように、810節をおとめの言葉とし、9節をソロモン王の言葉としています。
8
節:おとめ「私たちには、まだ乳房がふくらんでいない妹がいます。だれかが彼女に結婚を申し込んだら、どうしましょう。」
9
節:ソロモン王「彼女がりっぱな城壁なら、銀の胸壁をつけてやろう。しかしただの戸であるなら、杉の板で囲んでやろう。」
10
節:おとめ「私はほっそりしていて、背は高く、乳房は十分にふくらんでいます。そのため、愛する方の目にとまり、かわいがっていただきました。」
私個人としてはAの方が良いかな、と思います。
 さて、主キリスト・イエス様とキリスト者の関係で考えるとどうなるでしょうか。
花婿イエス様が、花嫁である教会(キリスト者の総体)を、新生したキリスト者の霊のみならず、霊のからだをも含めて、結婚のために迎えに来るというのは、キリストの空中再臨の時のことです。キリストのもとへと空中に一気に引き上げられるのは、純粋に主を愛し、内に聖霊が内住している人です(マタイ2513)。
その様子は1テサロニケ416.17に記されています。
花婿イエス様が、花嫁を迎えに行くときには、
①号令{集合の合図(マタイ256)、
②御使いのかしらの声がある
③神のラッパの響き(レビ記23章にあるラッパを吹き鳴らす日のラッパは、100回吹くのです)のうちに、主ご自身が、天から空中まで降りて来られます(キリストの空中再臨)。
-ⓐキリストの内に在って、この時以前に肉体の死を迎えた人の体が霊のからだへとよみがえります。{終わりのラッパ〔100回目のラッパ(筆者挿入)〕とともに一瞬にして(1コリント1551.52)霊のからだを与えられるのです。}
-ⓑキリストの空中再臨の時に肉体を持っていた人で、その人の内に聖霊を宿している人(ローマ811)は一瞬のうちに霊の体に変えられるのです(1コリント1552)。
これによって既に神から誕生した霊だけではなく、体も霊の体に変えられて(栄化)、キリスト者は、その全体が神の子どもとしてふさわしいものとされたのです。
⑤霊のからだを与えられた人たち(教会=花嫁)は一瞬にして雲の中へと引き上げられ、空中で花婿主イエス様と会うのです。
余談になりますが、キリスト教の結婚式を思い出してください。
牧師の指示で、花婿は花嫁を待つ位置に立ちます。結婚行進曲がなります。純白のドレスに身を包んだ(キリストの血によって罪汚れなき者とされたのです)花嫁はバージンロードの上を歩いて花婿のところへと進み(携挙の時には一瞬の内の出来事です)、花婿に迎えられるのです。
 1テサロニケ417の最後の部分は、「このようにして、私たちは、いつまでも主と共にいることになります。」(新共同訳)とあります。
 これらの事は天地創造の前からの、霊の父のご計画であったのです。すべては三一の主なる神様の愛と恵みと働きです(エペソ1章)。
エフェソ1:3-5には、御父の愛のご計画が次のように記さ
ています。
3 ・・・。神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福し、4 天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。5 御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです。」(聖書協会共同訳)

<お祈り>
天のお父様。
あなた様の愛とイエス様の恵みと聖霊様の御働きを感謝し御名を崇めます。
三一の主のみ旨と御働きに日々感謝しながら歩む者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2019年7月14日 (日)

雅歌8:6 携挙と主の日

雅歌86を新改訳2017は「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。」と訳し、
口語訳は「わたしをあなたの心に置いて印のようにし、あなたの腕に置いて印のようにしてください。愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからです。そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です。」と訳し、
聖書協会共同訳は「印章のように、私をあなたの心に、印章のように、あなたの腕に押し付けてください。愛は死のように強く、熱情は陰府のように激しい。愛の炎は熱く燃え盛る炎。」と訳し、
リビングバイブルは「私をあなたの心に刻みつけて、どんなことがあっても見捨てないでください。愛は死のように強く、ねたみは地獄のように残忍だからです。その炎は、神様の炎に他なりません」と意訳しています。
「印章」(聖書協会共同訳、新共同訳、岩波訳)、「封印」(新改訳)、「印」(口語訳)と訳された語の原語は「ホタム」で、signature ring、印章、印、封印物、等の意があります。
signature ring
:指輪で印鑑になっている物がありますね。
新共同訳スタディー版の注は、印章について「印章が、法的な文章などを封印し、また所有者を明らかにしたりするために、蝋(ろう)あるいは粘土に押印された(エレミヤ3210.11)」と述べています。
「ねたみ」(新改訳、口語訳、リビングバイブル)、「熱情」(聖書協会共同訳、新共同訳)、「情熱」(岩波訳)と訳された語の原語は「キヌアー」で、ねたみ、うらやみ、熱心、熱中、熱意、等の意があります。
民数記2511の「ねたみ」(新改訳)、「熱情」(新共同訳、聖書協会共同訳)と訳された語の原語も同じ語です。
「陰府(よみ)」(新改訳、聖書協会共同訳)、「墓」(口語訳)、「地獄」(リビングバイブル)と訳された語の原語は「シェオール」で、ハデス(死者の国)、死の世界、墓、地獄、穴、等の意があります。
文章の最後の「すさまじい炎」(新改訳)、「最も激しい炎」(口語訳)、「燃え盛る炎」(聖書協会共同訳)、「神様の炎」(リビングバイブル)と訳された語の原語は「シャルヘヴェットゥヤー」で、「シャヘルヘヴェット」(火の炎)に「ヤー」(ヤーウェーorヤハウェの短縮形)の付いたもので字義通りには「ヤハウェの炎」で、リビングバイブルのような訳になります。

主キリスト・イエス様とキリスト者の関係で考えるとどうなるのでしょうか。
キリスト者は、神の第三位格の聖霊によって、証印(証明するための印)を押された存在なのです(エペソ113)。ハレルヤ!
文章の最後の「ヤハウェの炎」は、主の日(主の裁きの日)を思い起こします。
主の日の時代(黙示録6章~)に地上にいるキリスト者は、主に守られるのです。即ち天に移されて、主の裁きにあうことはありません(1テサロニケ110)。この箇所は携挙とその後のさばきを暗示しているように思えます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。イエス様を信じたことにより(信じさせて頂いたことにより)、聖霊による証印が押され、完全に保証されていることを感謝します。
私たちは、あなたを賛美するために新創造された者たちです。
いつもあなたをほめたたえながら歩ませて頂けますように。
われらの主キリスト・イエス様の御名によってお祈りします。アーメン

2019年7月13日 (土)

雅歌8:5b 新しく生まれる

雅歌85bを岩波訳は「りんごの木の下で、私はあなたをゆり覚ました〔あなたの目を覚まさせた(新改訳)〕。そこであなたの母も、あなたを身ごもりました。そこであなたを産んだ人が、身ごもりました。」と訳しています。
新共同訳も岩波訳に類似して「りんごの木の下で、わたしはあなたを呼びさましましょう。あなたの母もここであなたをみごもりました。あなたを産んだ方もここであなたをみごもりました。」と訳しています。
新改訳2017は「私はりんごの木の下であなたの目を覚まさせた。そこは、あなたの母があなたのために産みの苦しみをした所。そこは、あなたを産んだ人が産みの苦しみをした所。」と訳しています。
「産む」(新改訳)と「みごもる」(新共同訳)の間には、約40週の差があります。
「みごもる」(岩波訳、新共同訳)、「産みの苦しみをする」(新改訳)と訳された語の原語は「ハーバル」で、(ロープのようなもので)しっかり巻く、たばねて縛る、(痛みに)もだえ苦しむ、子どもを産む、誓約する、固く誓う、誓約を取って横たえる、固く誓って横たえる、苦労する、産みの苦しみをする、etc.の意があります。
「あなたを産んだ方」(新共同訳)、「あなたを産んだ人」(新改訳)の「産む」と訳された語の原語は「ヤラド」で、産む、の意です。
以上のようなわけで、新改訳の訳のようにも、新共同訳の訳のようにも訳せるのだと思います。
或いは、りんごの木の下でみごもり(固く誓って横たえる)、りんごの木の下で出産した、と訳すことも可能なのかな、とも思います。
「りんごの木」は雅歌23にも出てきます。その「りんご」は命を養うものとして描かれています。
雅歌23には「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木々の中のりんごの木のようです。その木陰に私は心地よく座り、その実は私の口に甘いのです。」(新改訳2017)とありました。
雅歌85bの箇所を、主キリスト・イエス様とキリスト者の関係で考えるとどうなるのでしょうか。
少し強引に思えるかもしれませんが、私は次のように考えました。
先に救われた者(キリスト者)が、サタンの支配下にある者を救い出すときには、その人に、りんごの木の実、即ち、いのちのことば(1ヨハネ11)・神のことば(ヨハネ11.14、黙示録1913)・キリストのことば〔(ローマ1017・口語訳、新共同訳){ここの「ことば」の原語は「レーマ」(筆者挿入)}}を与えなければ、第一歩が始まりません。救いに導かれる人が、みごもり、即ち、神のことばによって心を動かされ或いはキリスト者の内におられるキリストが語りだされたことばによって心を動かされ、それが熟成し、やがてイエス様を心に受け入れて、新しく生まれるのです(上からの霊の誕生をするのです)。新生に至るのも、クリスチャンホームでない場合には大変です。その人の家族との確執、会社の人たちや学校の友人たちとの確執等もあるかも知れません。即ち産みの苦しみの後に生み出されるのです。
余談になりますが、ヨハネ33.6について:
イエス様は「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ33・新改訳2017)と言われました。
「まことに、まことに」と訳された語の原語は「アーメン、アーメン」です。
「新しく」と訳された語の原語は「アノーセン」で、①上から、②新しく、の意があります。
正しく、「新生」とは、新しく上から生まれることです。
また、イエス様は「霊から生れる者は霊である。」(ヨハネ36・口語訳)、「霊から生まれたものは霊である。」(ヨハネ36・新共同訳、聖書協会共同訳、岩波訳)とも語られました。
更に余談になりますが、1ヨハネ31には「・・・私たちは神の子どもです。・・・」(新改訳2017)とあり、1ヨハネ39には「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。」(新改訳2017)とありますが、原文を直訳すると「神から生まれたすべて〔「霊」(筆者挿入)〕は罪を犯しません。」となります。人の肉体は、両親からのものですが、それは、堕罪したアダムからのものです。パウロは体の中に罪(原罪or罪を犯させるもの)が住んでいると言いました(ローマ715-25)。霊によって歩むとき聖く歩めるのです。新しく上から生まれた霊は主と一つ霊となるのです(1コリント617)。「霊の人」(1コリント31・口語訳、新共同訳)としての歩みの大切さを覚えます。それは御霊に導かれた歩みです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
今日も御霊に導かれて歩ませて頂けますように。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2019年7月12日 (金)

雅歌8:3-5a 主の恵みの中で生かされている

雅歌83には「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあって、右の腕が私を抱()いてくださるとよいのに。」(新改訳2017)とあります。
この文は雅歌26と同じです。
「抱いてくださると」の「抱く」の原語の動詞はピエル態が使われているので、激しく抱く、繰り返し抱く、の意になりますから、NIVは、embraces、と複数形に訳しています。

雅歌84には「エルサレムの娘たち。私はあなたがたにお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」(新改訳2017)とあります。
雅歌27には「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」(新改訳2017)とあります。
「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」という箇所は同じように訳されていますが、私が読んでいるヘブライ語聖書は同じ文ではありません。
雅歌27は上記に訳されている通り、「~しないで」{(ヘ)イム=not}、となっていますが、
雅歌84の方は、「イム」ではなく、「マー」=(what?why?how?when?)、となっているのです。
岩波訳は「どうして愛を覚()ましたり、どうして邪魔したりするの、十分に楽しむまでに。」と訳しています。
主キリスト・イエス様とキリスト者の関係で考えると、主と私との霊的な愛の交わりのうちにある時、どうしてそれを邪魔するの?邪魔しないで!という感じになるのではないかと思います。
主と交わっている時には邪魔されたくはありませんから。
イエス様と御父との関係を聖書から見ると、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ135・新共同訳)とあります。
詩篇を読むと、ダビデも主とのふたりの交わりを豊かに頻繁に持っていたように思えます。
主との交わりの中では、雅歌83の文の現在形のようなことも霊的なあり様で起こるでしょう。
雅歌83を文語訳は「かれが〔彼の(筆者挿入)〕左の手はわが頭の下にあり
その右の手をもて我を抱く」と訳し、
NIV
は“His left arm is under my head and his right arm
embraces me.
”と訳しています。
(ヘブライ語聖書の雅歌83は現在形ではありませんが)

雅歌85aには「自分の愛する方に寄りかかって、荒野から上って来る女の人はだれでしょう。」(新改訳2017)とあります。
主キリスト・イエス様とキリスト者の関係で捉えると、
この問いに対して、主に在るキリスト者は、「それは私です。」と答えることでしょう。
キリスト者にとって、この世は「荒野」です。キリスト者は、自主独立で生きているのではなく、いつも主イエス様に寄りかかってor主の内に在ってor主に助けられ励まされてor主から力を頂いて、主と共に歩んでいる存在です。
イエス様を自分の救い主、主、として信じていない人でも、本当は主に寄りかかって生きているのです。空気も水も食料の原料も、兎に角、人が生きていくのに必要なすべてのものをつくられたのは主なる神様だからです。主イエス様を信じない人は、その知識を聞いたり読んだりしたことがないのか、或いは知らされたけれども、それを受け入れないという人達です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
今日もまたとこしえまでも、主に在って歩ませて頂ける恵みを感謝します。
あなたからの祝福が豊かであることを感謝し、主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2019年7月11日 (木)

雅歌8:1.2 長子と弟妹

雅歌81.2には「1 ああ、もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら、私が外であなたに会ってあなたに口づけしても、だれも私を蔑まないでしょうに。2 私はあなたを導いて、私を育ててくれた私の母の家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの果汁をあなたに飲ませて差し上げましょう。」(新改訳2017)とあります。
「兄」「母」に関連して、新共同訳スタディー版の注は「女性は自分の兄弟にくちづけの挨拶をすることはあったが、親族以外の男性へのくちづけは慎むべきとされた。おとめは若者の姉妹のようになることではなく、二人の愛が公に認められることを望んでいる。若者を母の家に連れて行くことは関係を公にする為の第一歩である。」と述べています。

「ああ、もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら、」という箇所を、直訳的に「私の母の乳房を吸った私の兄弟のようにあなたを〔私に(筆者挿入)〕与えるのは誰?」とも訳せるのではないかと思います。
岩波訳は「誰かがあなたを、私の母の乳房を吸った私の兄弟のようにしてくれたら。」と訳しています。

主キリスト・イエス様とキリスト者の関係の結婚は肉体的なものではなく、愛における霊的な結びつきです。
神の子どもという観点で、主キリスト・イエス様とキリスト者の関係は、主イエス様が完璧な「長子」であり、キリスト者は「弟妹」です。
ローマ829には「神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。」(新改訳2017)と記されている通りです。
新生したもの(霊)は神から生まれた神の子どもであるからです(ヨハネ361ヨハネ32)。
体の方はキリストの現れの時に霊の体に変えられるor与えられるのです(ピリピ3211コリント1551.521テサロニケ416.17

<お祈り>
天のお父様。
あなたは、主イエス様を長子とし、私たちを弟妹としてくださったこと、また愛において、花婿(イエス様)と花嫁(キリスト者の総体)の関係にしてくださいましたことを感謝します。
今日もイエス様を愛し、イエス様に従い、あなたの御名を崇めながら歩めますように。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2019年7月10日 (水)

雅歌7:10-13 主にすべてをささげ、主と交わり、主と共に働く

雅歌7:10-13には「10 私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。11 さあ、私の愛する方よ。私たちは野に出て行って、村で夜を過ごしましょう。12 私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、ぶどうの木が花を咲かせたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見ましょう。そこで私は、私の愛をあなたにささげます。13 恋なすびは香りを放ち、私たちの門のそばには、すべての最上の果物があります。新しいものも、古いものも。私の愛する方よ、これはあなたのために蓄えておいたものです。」(新改訳2017)とあります。    
この箇所を読み、これを新約的に捉えると、使徒の働きの中のパウロを思い浮かべました。今回は、キリストとパウロの関係、という観点で述べたいと思います。実は、この箇所を書き上げたと思ったら、すべて消えてしまったのです。それ故、時間の都合で、要点だけを記します。

10節の「私は、私の愛する方のもの」というのは、全き献身です。
私のすべてをささげます、ということです。

11節は「私の愛する方」即ち、主イエス様、「私たちは野に出ていって」即ち、宣教に出ていって、「村で夜を過ごしましょう」即ち、夜は教会の中で(キリストを信じる人達の中で)集会を持ち、また休みましょう、ということでしょう。{ここの「村の中で」は複数形(バケファリーム・村々の中で)であり、この単語は、(壁で守られたような)村の意です。「バ」は前置詞で、~の中で。}

12節は「私たちは朝早くからぶどう畑、即ち教会、に行き、ぶどうの木(ヨハネ15:1-9)が芽を出したか、即ち、信徒が順調に成長しているか、ぶどうの木が花を咲かせたか、即ち益々成長しているか、ざくろの花(ざくろの実には種がたくさん入っています)が咲いたか、即ち教会の活動は順調に進んでいるか、を見ましょう。

13節は「恋なすびは香りを放ち、即ち、私パウロと主イエス様の間の聖なる愛は良き香を放ち、私たちの門のそばには、即ち、天の門のそばには、イエス様の救いに与って年数の長い者も、最近救われた者もおります。これらの人たちは、主イエス様の血潮によって洗われた者たちであり、イエス様に贖われた故に最上の者たちです。このような人たちがたくさんいるのです。」ということでしょう。
以上のように私は解釈してみました。

キリストの花嫁であるキリストによって罪赦され新生し、時至って霊のからだをいただいた者たちの新天新地における装いは、透き通った宝石のようです(黙示録21:9-11)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたのご計画と主イエス様の御業に感謝します。
あなたに与えられたタラントに従い、その分を果たしていけますように。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2019年7月 9日 (火)

雅歌7:8-10 主を愛し主に従う

雅歌7:8.9aには❝8 私は言った。「なつめやしの木に登り、その枝をつかみたい。あなたの乳房はぶどうの房のようであれ。息の香はりんごのようであれ。9あなたの口は最良のぶどう酒のようであれ。」❞(新改訳2017)とあります。
この文には、人間の肉体で考えたら、考えられない要素が入っています。
これを主キリスト・イエス様と一(いち)キリスト者の関係で捉えても理解の難しさを覚えます。
キリスト・イエス様(花婿)の結婚相手がエクレシア(教会)であると考えるとやっと理解できるようになります。エクレシアとは新生したキリスト者の総体です。
「なつめやしの木に登り」とありますが、なつめやしの木は20-30mくらいの高さになるそうです。
成長したなつめやしの木を思う時「そしてついに、私たちはみな、救いについて、また救い主である神の子について、同じ信仰を持つに至り、主にあって完全に成長した者となるのです。――そうです、キリスト様に完全に満たされた状態にまで、成長するのです。」(エペソ4:13・リビングバイブル)という箇所を思い起こします。これはキリスト者の総体(エクレシア・教会)に当てはまる聖句です。その様に取ると「あなたの乳房はぶどうの房のようであれ」という表現が理解できます。人間一人には乳房は二個しかないのにぶどうの房のようであれ、というのはおかしいですから。しかし、教会(キリスト者の総体)と考えればおかしくはありません。乳房は前にも書きましたヘブライ語では「シャド」(単数形)です。「エル・シャダイ」は乳房の神(全能の神)と、創世記17:1で主ご自身が自己紹介しているのです。即ち私たちの命を担保してくださる神様であるということです。
教会(キリスト者の総体)が成熟した時、「ぶどうの房のよう」とありますから、皆が命の言葉を供給することができるようになるということであろうと思います。
「息の香はりんごのよう」とありますが、「りんご」は雅歌2:5によると、力づけることの出来るものであると考えられます。また雅歌2:3では、花婿(キリスト・イエス様)をリンゴの木に喩えています。「鼻の香」とありますが、鼻で息をするので、これは鼻から出る息の香はりんごのようである、ということでしょう。鼻ですから、言葉を使っているわけではありません。それ故、この箇所は、ただ一緒にいるだけで元気づけることができる、というように私は考えます。
「あなたの口は最良のぶどう酒」とありますが、適した量のぶどう酒は人を朗らかにさせるものです。それ故、この箇所は、あなたの語る言葉は人を明るくする、と捉えることができるのではないかと思います。
成長した教会は、キリストに似た品性を備え、その与える実は人々を養い、語る言葉によって人々を明るくすることができ、また教会即ちキリスト者たちの中にいるだけで人々は力づけられる、という意を含んでいると思います。
この箇所は、イエス様が、キリスト者全員に、その様であってね、と語っているように思えるのです。

雅歌7:9bには「そのぶどう酒は、わたしの愛する方に流れ、眠っている者たちの唇に流れる。」(新改訳2017)とあります。
主を愛するキリスト者のキリストに語る言葉は、感謝の言葉、愛の言葉、賛美の言葉、・・と、主キリスト・イエス様にとって良いものです。眠っている者たちに対するぶどう酒の流れは、気つけ薬です。「眠っている者よ目を覚ませ」(エペソ5:14)ということです。霊的に眠っているものにはその眠りを覚醒する御言葉が必要です。

雅歌7:10には「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」(新改訳2017)とあります。
聖書協会共同訳は「私は愛する人のもの。あの方は私を求めています。」と訳しています

後半部分を直訳すると「そして彼の望み(欲求)は私の上に」となります。 
「あの方は私を求めています」(聖書協会共同訳)とありますが、その為に主イエス様は、エペソ5章によると「教会を愛し」(25)「教会をきよめて聖なるものとする為に」(26)「ご自身をささげられた」(25)のです。それ故、教会(花嫁)は「私は私の愛する方のもの」(雅歌7:10)となり、「妻(教会)は夫(キリスト・イエス様)に従うのです」(エペソ5:24)。

<お祈り>
天のお父様。
とこしえにイエス様を愛して、イエス様に従う者とさせてください。
わが主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2019年7月 8日 (月)

雅歌(新改訳)7:5-7 キリストの花嫁の美しさ2

雅歌7:5には「あなたの頭はカルメル山のようにそびえ、あなたの乱れた髪は紫色。王はそのふさふさした髪のとりこになった。」(新改訳第三版)とあります。
「頭はカルメル山のようにそびえ」(新改訳)を岩波訳は、直訳的に「君の上の頭は、カルメル山のよう。」と訳しています。
キリストの花嫁の思考や意志は、主に在って崇高である、というように捉えることもできるのではないかと思います。
「あなたの乱れた髪は紫色」(新改訳)と訳されている箇所を直訳すると「あなたのたばねていない髪は紫色」となります。
聖書を読んでいると、「紫」は、王や貴人や富豪が身につける色として用いられている場合が多いです。
「たばねられていない」状態は、自由を表しているものと思います。
女性の「髪」についてパウロは、髪は女性のかぶり物であり、長い髪は、栄光or尊厳or品位である、と述べています(1コリント11:15)。
忙しい現代社会では、長い髪を保つには時間がかかるor夏は暑くてかなわない、という人もいるでしょう。大切なのんは外面的なことではなく「心」ですよ、とペテロは言っています(1ペテロ3:3.4)。
主キリスト・イエス様(花婿)はキリスト者(花嫁)の主と一つである志、思い、また主が花嫁に与えた気品を喜ばれるということではないかと思います。それこそ、主と一つ霊(1コリント6:17)になる状態にふさわしいものです。

雅歌7:6には「ああ、人を喜ばせる愛〔愛「アハバー」はここでは恋人のこと(岩波訳注)〕よ。あなたはなんと美しく、麗しいことよ。」(新改訳2017)とあります。
口語訳は「愛する者よ、快活なおとめよ、あなたはなんと美しく愛すべき者であろう。」と訳しています。
聖書協会共同訳は「喜びにあふれた愛よ、あなたはなんと美しく、なんと麗しい。」と訳しています。
主が整えられる主の花嫁の内面は、美しく、麗しく、快活で、喜びのあふれた愛を持っているのです。そして、栄光の体を与えられたときには、それらの内面が体にもあらわれるのです。
律法の根底は「愛」です(マタイ22:36-40)。

雅歌7:7には「あなたの背丈はなつめやしの木のよう、乳房はその実のようだ。」(新改訳2017)とあります。
「背丈」で思い浮かべる御言葉に「キリストの満ち満ちた身丈」(エペソ4:13・新改訳2017)というのがあります。
「キリストの満ち満ちた身丈」(新改訳)を、口語訳は「キリストの満ち満ちた徳の高さ」と訳しています。
「乳房は」のヘブライ語は「シャド」で、双数系は「シャダイ」、以前にも「エル・シャダイ」=乳房の神=全能の神については述べました。
花嫁は、神の御性質にあずかり(2ペテロ1:4)、御言葉の乳(1ペテロ2:2)を与えることの出来る者となるのです。
黙示録22:17には、❝御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。❞(新改訳)を2017)と記されています。
花嫁は、飢え渇く者に、霊の飲食物を与えることができるのです。

<お祈り>
天のお父様
エペソ4:13には「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致に到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ち満ちた徳の高さにまで至るためである。」(口語訳)とあるように、あなたは私たちを祝福してくださいますからありがとうございます。
日々あなたに導かれて歩ませて頂けますことを感謝し、主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2019年7月 7日 (日)

雅歌(新改訳)7:1-4 キリストの花嫁の美しさ1

新改訳の雅歌7:1-13は新共同訳では7:2-14になっています。ヘブライ語聖書の番号のつけ方は新共同訳のようです。
7章は肉体的に読むと花婿と花嫁の二人の愛の賛歌になってしまいますが、この箇所も主キリスト・イエス様とキリスト者の関わりの中で見られる何かを歌っているものとして見ていきたいと思います。
雅歌7:1には「なんと美しいことか。高貴な人の娘よ、サンダルをはいたあなたの足は。あなたのももの丸みは飾りのようで、名人の手のわざだ。」(新改訳2017)とあります。
ローマ10:15には、イザヤ52:7の一部を引用して「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人達の足は」(新改訳2017)と記されています。
「高貴な人の娘よ」とありますが、キリスト者の霊の父は、キリストの父なる神です。
また、福音を宣べ伝えるキリスト者の霊を持ち運ぶ足はとても美しいのです。

雅歌7:2には「あなたのほぞ〔へそ(筆者挿入)〕は、混ぜ合わせたぶどう酒の尽きることのない丸い杯(さかずき)。あなたの腹は、ゆりの花で囲まれた小麦の山。」(新改訳第三版)とあります。
「混ぜ合わせたぶどう酒」とありますが、何と何を混ぜ合わせるのでしょうか?辞書には「mingle(water with wine)」とあります。ぶどう酒に水を混ぜ合わせるのです。これは「血と水」を思い浮かべます。ヨハネ19:34には、イエス様が十字架の上で死んだので、「・・兵士の一人は、イエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、すぐに血と水が出て来た。」(新改訳2017)とあります。イエス・キリスト様の血によって罪が赦されるのです。水は命を与える霊を表していると思います(ヨハネ7:39、1コリント15:45)。
「小麦」は復活のキリストを表しています(レビ23:13)。
「(白い)ゆりの花」は純潔を表していますから、キリストへの純粋な信仰を思い浮かべます。
この詩的表現は、イエス・キリストの血による罪の赦しと霊における新生(再生)、キリストの満たし(充満)を思い浮かべます。
イエス様を純粋に信じ、イエス様の血によって罪を完全に赦され、イエス様の水=霊によって新しい霊の誕生をし、唯キリストだけというありようによってキリスト・イエス様に満たされている人は幸いであると思います。

雅歌7:3には「二つの乳房は、二匹の小鹿、双子のかもしかのようだ。」(新改訳2017)とあります。
「乳房」と訳された語の原語は「シャド」(単数形)、ここでは「あなたの二つの乳房」=「シェネー シャダイフ」となっています。
「エル シャダイ」(創世記17:1)は「全能の神」と訳されています。直訳すると、「乳房の神」です。母乳は赤子の完全栄養食です。霊的には御言葉の乳は新生したキリスト者を育てる完全栄養食です。主なる神様は、霊的にも肉体的にも必要を満たしてくださるお方です。
鹿にしても羊(ここにはありませんが)にしても年を重ねると、その肉は臭みが増すので人によっては嫌がる人もいますが、小鹿や子羊はあまり臭みがありません。食べやすいのです。
この文は、キリスト者に対して語られている言葉として捉えることができますから、成長したキリスト者は、赤子や幼子のキリスト者に、御言葉の乳を与えることができる、ということでしょう。
キリストの花嫁は、御言葉を必要としている人に、いのちの言葉を与えることができるように成長しているのです。

雅歌7:4には「首は象牙のやぐらのようで、目は、バテ・ラビムの門のそばのヘシュボンの池。鼻はダマスコの方を見張るレバノンのやぐらのようだ。」(新改訳2017)とあります。
この文には、「首」と「目」と〔鼻」が出てきます。
キリストの花嫁の「首」、「目」、「鼻」とは何を意味するのでしょうか?
どのように捉えたらよいのか自信がありませんが、「目」は霊的なことを見通す必要があるので、透き通っている、という意でしょうか。
「鼻」はここでは気高さ、気品を表しているのかな、と思います。
「首」はスッとして美しい、ということでしょうか、首は頭を載せています。頭はいつも花婿であるイエス様を見ている必要があります(ヘブル12:2)。
キリストの花嫁は、いつも花婿キリストを見つめ、目は澄んで邪念がなく、即ち心がきよくて、キリストの花嫁としてふさわしい気品を持っている、ということではないかと想像します。

<お祈り>
天のお父様。
キリストの花嫁はキリストに似てとても素晴らしく整えられているのを見ますが、それはすべてあなたの恵みがそのようにしてくださったことであることを覚え、御名を賛美します。
恵みの上に恵みを与え続けてくださっておられるあなたの御名を崇め、主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

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