雅歌8:11-14 主よ来たりませ
雅歌8:11には「ソロモンにはバアル・ハモンにぶどう畑があって、そのぶどう畑を、守る者たちに任せていた。それぞれは、そのぶどうの実に代えて銀千枚を納めることになっていた。」(新改訳2017)とあります。
「バアル・ハモン」を、ここでは土地の固有名詞として訳すべきであり、その様に訳されていますが、普通名詞として訳すと、「バアル」(主人、所有者、夫)・「ハモン」(民衆、大勢)は民の所有者or民の主、また大勢の夫、の意になります。
雅歌8:12には「これがわたしのぶどう畑、ソロモン様。銀一千はあなたの取り分。銀二百は世話をした番人へ。」(新共同訳)とあります。
「私のぶどう畑」を、新共同訳スタディー版の注は、「おとめが自分のからだを指していると思われる」と述べています。
11.12節を合わせて、主キリスト・イエス様とキリスト者の関係で考えるとどうなるでしょうか。
私は、この箇所を、主イエス様から預けられたものをいかに管理したか、というマタイ25:14-30の箇所を思い浮かべます。
すべての物、すべての人の所有者は、主なる神様であり、主イエス様です(申命記10:14、ヨブ41:11、詩篇24:1、コロサイ1:16)。
キリスト者は、主イエス様からタラント(マタイ25:15)・ミナ(ルカ19:13)を受け取っています。地上にいる間、主に在って、それをどのように用いるか、ということを問われています。自分に与えられている賜物や時間をどのように用いるのか、ということでしょう。
雅歌8:13を新共同訳は、若者〔ソロモン(筆者挿入)〕の歌として、「園に座っているおとめ〔花嫁(筆者挿入)〕よ、友は皆、あなたの声に耳を傾けている。わたしにも聞かせておくれ。」と訳し、
リビングバイブルは、おとめ〔花嫁(筆者挿入)〕の言葉として「庭園に住んでいる私の愛する方。お仲間は、あなたの声に聞きほれています。私にもぜひお聞かせください。」と訳しています。
新共同訳スタディー版の注は「園は良い香りのするおとめの体を指す場合がある(4:12、6:2.3)。若者はその園が自分だけのものだと言っている(5:1)。友は若者の仲間の牧童たちを指すと思われる(1:7)。園は愛の営みの場として雅歌に頻繁に現れる。」と述べています。
リビングバイブルの訳をもとに、主キリスト・イエス様とキリスト者の関係で考えると、キリスト者たちは、キリストのことばに聞きほれています。花嫁である私にも是非あなたの御言葉を聞かせてください、という意になるだろうと思います。聞きほれるのですから、主が直接語ってくださっておられることば(レーマ)です。花嫁としては、私にも語って、というわけです。
この箇所を新改訳2017は「庭の中に住む仲間たちは、あなたの声に耳を傾けている。私にそれを聞かせておくれ。」と訳しています。
新改訳と新共同訳の訳の違いは、ヘブライ語聖書の底本の違いなのかもしれません。
また、「園に座っているおとめよ」(新共同訳)、「庭園に住んでいる私の愛する方」(リビングバイブル)という箇所ですが「座っている」(新共同訳)、「住んでいる」と訳された語の原語は「ヤシャブ」で、それらのどちらの意味も持っています。この箇所の単語は、冠詞と接尾辞がついて「ハショヴェット」となっており、接尾辞は女性形です。
13節を聖書協会共同訳は「園に座る人〔別訳「おとめ」(聖書協会共同訳注)〕よ、仲間たちはあなたの声に耳を澄ませています。私にも聞かせてください。」と訳しています。
この訳を、主キリスト・イエス様とキリスト者の関係で捉えると、花嫁であるキリスト者に対して、主イエス様が、キリスト者同士で話ばかりしていないで、私に話をして、即ち、お祈りをして、と語られているようにも思えます。
雅歌8:14には「私の愛する方よ、急いでください。かもしかのように、若い鹿のようになって、香料の山々へと。」(新改訳2017)とあります。
この節を、主キリスト・イエス様とキリスト者の関係で捉えると、
「香料の山々」とは雅歌6:2より、花嫁を指しているのであろうと思います。
これは、「主よ、来てください。」(1コリント16:22)、「主イエスよ、来てください。」」(黙示録22:20)という内容に、更に雅歌では、走ることの速い「かもしか」や「若い鹿」を用いて、急いでor早く来てください、と主イエス様に懇願しているかのようです。
蛇足になりますが、花婿イエス様が、花嫁である教会即ち主を待ち望んでいるキリスト者(ヘブル9:28)を迎えに来る時の実権を握っているのは御父です。
<お祈り>
天のお父様。
雅歌の最後も、キリスト者的に言うと、「主よ、速やかに来てください。」という文で閉じられていることを覚えます。
聖書に記されている預言から、主の空中再臨が近づいているように思える昨今です。
それ故、益々、主を愛し、主に信頼し、主に従って歩みつつ、主の御迎えを待ち望む者であらせてください。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン