ホセア書

2020年3月30日 (月)

ホセア14:1―9{(新改訳)、ヘブライ語聖書・新共同訳は14:2―10} 主の愛は不変/喜びをもって主に仕えよ

 ヘブライ語聖書のホセア142-4
新改訳2017は、
1 イスラエルよ。あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に立ち返れ。あなたは自分の不義〔罪(聖書協会共同訳)、咎(新共同訳)〕につまずいたのだ。2 あなたがたはことばを用意し、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に立ち返れ。主に言え。「すべての不義を赦し、良きものを受け入れてください。私たちは唇の果実をささげます。3 アッシリアは私たちを救えません。私たちはもう馬に乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』と言いません。みなしごがあわれまれるのは、あなたによってです。」”と記しています。

 1節の「不義」(新改訳)、「罪」(聖書協会共同訳)、「咎」(新共同訳)と訳された語の原語は、「アーヴォン」で、強情、つむじ曲がり、罪、悪、不正、不道徳、過ち、過失、等の意があります。

 1節に「あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に立ち返れ。」とあります。
罪の本質は主に背くことで、その結果、罪びとは、主の教え(orみ旨)に背いた考え、主に背いた歩みをすることになります。
 「立ち返れ」というのは、新約では「悔い改めなさい」ということになります。
イエス様は、「罪とは、私イエス・キリストを信じないことだ。」と語られました(ヨハネ169)。
イエス様に立ち返ること、イエス様を信じること、これが悔い改めの根本です。

 ローマ1章に、「24.26.27 性的不品行 29 不義、悪、貪欲、悪意、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧み、陰口、30 中傷、侮り、高ぶり、大言壮語、悪事の企み、親に逆らうこと、31 浅はか、不誠実、情け知らず、無慈悲」という罪のリストの一部があります。これらの罪のリストの中から、自分にもあるものを見つけて悔い改めたとしても、罪の本質である、まことの神、主イエス・キリスト様を信じなければ救われないのです。

 イエス・キリストの父なる神は、万物の根源であられるお方です。
イエス様は、この父なる神様のもとへ行くには、イエス様を信じる以外にはないのだということを、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ146・新改訳2017)と表現されました。

 イエス様を信じて救いを体験した人は、主を賛美することが楽しくなります。
ホセア142(新改訳)に「私たちは唇の果実をささげます」とありますが、「唇の果実」とは、主への賛美です(ヘブル1315)。

主イエス様を信じて、主と共に歩む人は、主のみ旨に叶うように変えられていきます。
主に立ち返ってからだいぶ年月が経った後に、主に立ち返る直前の時の自分がどのようであったかを思い返せば、主が様々なことを通してつくり変えてくださったことを列挙することが出来るでしょう。そして、自然に感謝することでしょう。
個々人で成長の速度は異なりますが、主は必ず成長させてくださるのです。
また、成長の速度は、個々人の心がけでも異なります。自分から、どんどん主につくり変えてくただく人は、早く成長します。
ローマ122には、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません〔直訳「この世と同じ形になってはなりません」(欄外注)〕。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。」(聖書協会共同訳)と記されています。

 3節に、「アッシリアは私たちを救えません。」とあります。
イスラエルは、一時期アッシリアに助けを求め貢を納めましたが、後に、イスラエルは、アッシリアに滅ぼされたのです。
これは霊の世界ではよくあることです。
この世の君であるサタン(1ヨハネ519、エペソ22)に頼り、この世を上り詰めても、その先に待っているのは滅びです。

 悔い改めると(主に立ち返ると)、主は喜んでくださり祝福してくださいます。
4-8
節には、「4 わたし〔主(筆者挿入)〕は彼らの背信を癒やし、喜びをもって彼らを愛する。わたしの怒りが彼らから離れ去ったからだ。5 わたしはイスラエルにとって露のようになる。彼はゆりのように花咲き、レバノン杉のように根を張る。6 その若枝は伸び、その輝きはオリーブの木のように、その香りはレバノン杉のようになる。7 その陰に住むものたちは、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふく。その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。8 エフライムよ。わたしと偶像との間に、どういう関わりがあるか。わたしが応え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。わたしから、あなたは実を得るのだ。」(新改訳2017)と記されています。

 主はイスラエルを愛し続けておられます。それはキリストの千年王国で明白となります。
イスラエルが罪の中を歩み続けている時、主はそれを裁かれますが、それは愛のむちでもあります。
キリスト者にも同じことが言えます。
主は、イエス・キリスト様を信じた人を愛し続けています。
主は愛する故に訓練もします(ヘブル125-11)。
主の愛は変わりませんから、バックスライドした人に対しても信仰復興のチャンスを狙っています。

 イエス様を信じた人、即ちキリスト者は、罪赦され、永遠のいのちを頂いています。それは確定したことですが、キリスト者に対する裁きというのがあります(2コリント510)。
これは、信仰による救い、ということについてではなく、キリスト者として、どれだけ主を愛して主に仕えたか、という判定です。それは報酬を伴うのです。
①「よくやった。良い忠実なしもべだ。」(マタイ2521.23)と言われ、主から豊かな報酬を受け取る人と、
②「かろうじて自分だけが火の中をくぐるようにして救われる」が、報酬をもらえない、という人もいるのです(1コリント310-15)。

 詩篇1002には、「喜びをもって主に仕えよ。」(新改訳、口語訳)とあります。
喜びは御霊の実の一つです。
 神様とキリスト者の間の契約ではなく、神様とイスラエルとの間の契約ですが、祝福と呪いの条項に、「47 あなたが、すべてに豊かでありながら〔すべてのものに豊かになっても(聖書協会共同訳)〕、心からの喜びと幸せに溢れてあなたの神、主に仕えないので、48 あなたは主の差し向けられる敵に仕え、飢えと渇きに悩まされ、裸にされて、すべてに事欠くようになる。敵はあなたに鉄の首枷(くびかせ)をはめ、ついに滅びに至らせる。」(申命記28章・新共同訳)というものがあります。
キリスト者に直接適用される聖句ではありませんが、喜びと感謝をもって主に仕えることの大切さを教えられます。

 ホセア書の最後の聖句は結びです。
「知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟れ。悟りのある者はだれか。その人はそれらのことをよく知れ。主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、背く者はこれにつまずく。」(ホセア149・新改訳2017)とあります。

 箴言35-10には、
5 心を尽くして主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。6 あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。7 自分を知恵のある者と考えるな。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れ、悪から遠ざかれ。8 それは、あなたのからだに癒やしとなり、あなたの骨に潤いとなる。9 あなたの財産で主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕をあがめよ。あなたのすべての収穫の初物で。10 そうすれば、あなたの倉は豊かさで満たされ、あなたの石がめは新しいぶどう酒であふれる。”(新改訳2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたを愛し、喜びと感謝をもってあなたに仕える者であらせてください。
とこしえに、あなたの愛に包まれて歩ませて頂けますことを感謝し、我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2020年3月29日 (日)

ホセア13:4―16{(新改訳)、新共同訳は13:4-14:1} エフライムに対する主の裁き(エフライムの終わりの預言)2/私たちの神、主にいつも感謝しつつ歩もう

 ホセア134
 新改訳2017は、「しかしわたしは、エジプトの地にいたときから、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はいない。」と訳し、
 新共同訳は、「わたしこそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。わたしのほかに、神を認めてはならない。わたしのほかに、救いうる者はない。」と訳し、
 岩波訳は、「わたしはヤハウェ、エジプトの地以来のあなたの神。わたしの他に、あなたは神を知らないはずだ。わたしの他に、救い出す者はいない。」と訳しています。

 「わたしのほかに神を知らない」(新改訳2017)、「わたしのほかに神を認めてはならない」(新共同訳)、の「知る」(新改訳)、「認める」(新共同訳)、と訳された語の原語は、「ヤーダー」で、知る、また認める、の意としても使われます。

 主(ヤハウェ)の他に神はいません。
ヤハウェの意味は、自存にして永遠、の意があります。
自ずから存在し、永遠であられるお方は、ヤハウェなる神しかいません。
その他のものは、皆、ヤハウェにつくられた被造物です。
ヤハウェ以外で、神、と名乗る者は悪霊です(1コリント1019-21)。
サタンは、元大天使でした。しかし、主に反逆したのです(イザヤ1412-14、エゼキエル2813-16)。堕天使たちは、サタン(悪魔となった元大天使)に従った者たち(元天使たち)です。
下級悪霊の出自は天使以外のもの、という説もありますが、聖書に記されていないので、ここには記しません。

 ホセア135を、
 新改訳2017は、「このわたしは荒野で、干ばつの地であなたを知っていた。」と訳し、
 新共同訳は、「荒れ野で、乾ききった地で、わたしはあなたを顧みた。」と訳し、
 リビングバイブルは、「あの乾いて一滴の水もない荒野で、わたしはあなたの面倒を見た。」と訳しています。

 「知る」(新改訳)、「顧みる」(新共同訳)、「面倒をみる」(リビングバイブル)と訳された語の原語は、「ヤーダー」です。「ヤーダー」には、知る、認める、の他に、面倒をみる(care)の意でも使われます。

 エジプトでの奴隷としての苦しみから、主によって救い出されたイスラエル。
主(ヤハウェ)は、イスラエルを、荒野においても、いつも配慮され、水のない地でも、イスラエルが水を求めれば水を与えてくださいました。
もしイスラエルが、主だけを見つめ、主と交わりを保ち、主に信頼して従い続ければ、困難に直面してもそれに押しつぶされることはなく、感謝だけがあったことでしょう。(実際はそうはいきませんでしたが)

 ホセア136
 新改訳2017は、「しかし牧草で満腹したとき、彼らは満ち足り、心は高ぶり、そうしてわたしを忘れた。」と訳し、
 新共同訳は、「養われて、彼らは腹を満たし、満ち足りると、高慢になり、ついには、わたしを忘れた。」と訳し、
 岩波訳は、「わたしが彼らを養い、彼らは満ち足りるにつれて、彼らは〔食べ(訳者挿入)〕飽き、その心が高ぶり、そのようにしてわたしを忘れるに至った。」と訳しています。

 ダビデは、「1 わがたましいよ。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。2 わがたましいよ。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇1031.2・新改訳第三版)と歌いました。

 余談になりますが、
何か問題がある故に教会に来る人がいます。しかし中には、それが解決すると、教会を卒業してしまう人たちがいます。そして、いつの間にか、問題課題を解決したのは、自分の力によると思いこんでしまう場合さえあるのです。祝福のみを求めるのではなく、主ご自身を求めて頂きたいです。
「あなたがたがわたし〔主なる神様(筆者挿入)〕を捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。わたしはあなたがたに見出される──主のことば──。」(エレミヤ2913.14a・新改訳2017)とあります。

 新約の民に対しても、主は、「すべての事について、感謝しなさい。」(口語訳)、「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。」(新改訳2017)と命じておられます。

 主に感謝をささげることをしないで、不平、不満、愚痴、非難、・・・等々に陥るとき、大喜びするのはサタン一族です。それらの罪に、悪しき霊たちは、足場を見出し、それを増幅し、落ち込ませたり、怒らせたり、‥して、キリスト者をキリストとの交わりから引き離しにかかるのです。

 話を元に戻します。
イスラエルは、主(ヤハウェ)への忘恩と、更には主(ヤハウェ)に満足せずバアル等の偶像に住み着いている悪霊を頼り、礼拝した(ホセア131後半.2)結果、イスラエルはその実を刈り取ることになるという預言が、ホセア137-16(新改訳、口語訳)、ホセア137-141(ヘブライ語聖書、新共同訳、岩波訳)に次のように記されています。
(忘恩と背教の民イスラエル対して、主が裁きの道具として用いるのは残虐なアッシリア軍です。)

 新改訳2017は、
7 わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼ら〔イスラエル(筆者挿入)〕に対して獅子のようになり、豹のように道端で待ち伏せる。8 子を奪われた雌熊のように彼らに襲いかかり、彼らの胸をかき裂いて、その場で雌獅子のように食らう。野の獣は彼らを引き裂く。9 イスラエルよ、あなたは滅ぼされる。あなたの助け手である、わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に背いたからだ。10 では、あなたの王はどこにいるのか。すべての町のうちで、あなたを救う者は。あなたをさばく者たちはどこにいるのか。かつてあなたが『私に王と高官たちを与えよ』と言った者たちは。11 わたしは、怒ってあなたに王を与え、また憤ってこれを奪い取る。12 エフライムの不義は束ねられ、その罪は蓄えられている。13 子を産む女の激しい痛みが彼のところに来るが、彼は知恵のない子で、時が来ても、母の胎から出て来ない〔陣痛が長く続く(筆者挿入)〕。14 わたしはよみの力から彼らを贖い出し〔あがなうことがあろうか(口語訳)〕、死から彼らを贖う〔あがなうことがあろうか(口語訳)〕。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。よみよ、おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている〔わたしはイスラエルを地獄から解き放ち、死から救い出すべきだろうか。死よ、その恐ろしさをイスラエルに存分に味わわせよ。墓よ、その災いをはっきり示せ。わたしはかわいそうに思わないからだ(リビングバイブル)、14節は新改訳のようにも口語訳のようにも訳すことが可能です(筆者挿入)〕。15 彼は兄弟たちの中で栄えている。だが、東風が吹いて来て、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の息が荒野から立ち上り、水源は涸れ、泉は干上がる。それはすべての尊い器がある宝物倉を略奪する。16 サマリアは咎ある者となる。自分の神に逆らったからだ。彼らは剣に倒れ、幼子たちは八つ裂きにされ〔赤子は地面にたたきつけられ(リビングバイブル)〕、妊婦たちは切り裂かれる。」と記しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
いつもあなたの内に在って喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝する歩みをすることの幸いを覚えます。
そのような、あなたが喜ばれる歩みをし続けることができますよう祝福してください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年3月28日 (土)

ホセア13:1―3 エフライムに対する主の裁き(エフライムの終わりの預言)1/まず神の国とその義とを求めよ

 ホセア131を、
 新改訳2017は、「エフライムは震えながら語ったとき、イスラエルの中であがめられた。しかし、バアルのことで咎ある者となって死んだ。」と訳し、
 新共同訳は、「エフライムが語れば恐れられ、イスラエルの中で重んじられていた。しかし、バアルによって罪を犯したので彼は死ぬ。」と訳し、
 聖書協会共同訳は、「エフライムが語ると、人々〔訳者挿入(欄外注)〕は恐れ、彼はイスラエルの中で地位を高めた〔直訳「高められた」(欄外注)〕。だが、バアルによって罪を犯したので彼は死ぬ。」と訳しています。

 北イスラエルは10部族からなっていましたが、その中心部族はエフライムでした。
北イスラエル王国を樹立した人は、エフライム族出身のヤロブアム(一世)です(1列王記11261220)。
ヤロブアムは、ソロモン王に仕えていた有能な人であったのですが、シロ人の預言者アヒヤの言葉によってソロモン王に反逆した故、ソロモン王から追われました(1列王記1126-40)が、やがてソロモンの子レハブアムの時代に北イスラエルの王となったのです(1列王記121-20)。

 預言者アヒヤとヤロブアムの出会いの時の情景が、1列王記1129-31aに、「29 そのころ、ヤロブアムがエルサレムから出て来ると、シロ人で預言者であるアヒヤが道で彼に会った。アヒヤは新しい外套を着ていた。彼ら二人だけが野にいた。30 アヒヤは着ていた新しい外套をつかみ、それを十二切れに引き裂き、31 ヤロブアムに言った。」(新改訳)と記されています。 

 ヤロブアムは、預言者アヒヤからなんと言われたのでしょう。
ヤロブアムは、預言者アヒヤから、「31 ・・。イスラエルの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる。『見よ。わたしはソロモンの手から王国を引き裂き、十部族をあなたに与える。32 ただし、ソロモンには一つの部族だけ残る。それは、わたしのしもべダビデと、わたしがイスラエルの全部族の中から選んだ都、エルサレムに免じてのことである。33 というのは、人々がわたしを捨て、シドン人の女神アシュタロテや、モアブの神ケモシュや、アンモン人の神ミルコムを拝み、父ダビデのようには、わたしの目にかなうことを行わず、わたしの掟と定めを守らず、わたしの道に歩まなかったからである。34 しかし、わたしはソロモンの手から王国のすべてを取り上げることはしない。わたしが選び、わたしの命令と掟を守った、わたしのしもべダビデに免じて、ソロモンが生きている間は、彼を君主としておく。35 わたしは彼の子の手から王位を取り上げ、十部族をあなたに与える。36 彼の子には一つの部族を与える。それは、わたしの名を置くために選んだ都エルサレムで、わたしのしもべダビデが、わたしの前にいつも一つのともしびを保つためである。37 わたしがあなたを召したなら、あなたは自分の望むとおりに王となり、イスラエルを治める王とならなければならない。38 もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行ったように、わたしの掟と命令を守って、わたしの目にかなうことを行うなら、わたしはあなたとともにいて、わたしがダビデのために建てたように、確かな家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与える。39 このために、わたしはダビデの子孫を苦しめる。しかし、それを永久に続けはしない。』」(新改訳2017)という主の御言葉を聞いたのです。

 ヤロブアムはアヒヤから、「37 わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたを召したなら、あなたは自分の望むとおりに王となり、イスラエルを治める王とならなければならない。38 もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行ったように、わたしの掟と命令を守って、わたしの目にかなうことを行うなら、わたしはあなたとともにいて、わたしがダビデのために建てたように、確かな家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与える。」という主の御言葉を聞きましたが、
ヤロブアムの心に留まった言葉は、「このために〔忌むべき偶像礼拝のために(筆者挿入)〕、わたしはダビデの子孫を苦しめる。しかし、それを永久に続けはしない。」(39)という言葉であったのではないかと思います。
 
 上記の38節の部分のヤロブアムへの主(ヤハウェ)の約束、その約束を信じる主(ヤハウェ)への信仰が、ヤロブアムにはなかったのでしょう。そして、「永久に続くことはない」という言葉が残ってしまったのでしょう。
ヤロブアムは偶像を造ってイスラエルの人々に拝ませるという方法を取ったのです。主の御言葉全部が心に留まっていて、かつ、主への信仰があれば心配する必要はなかったのですが、1列王記1225-33には、
25 ヤロブアムはエフライムの山地にシェケムを築き直し、そこに住んだ。さらに、彼はそこから出て、ペヌエルを築き直した。26 ヤロブアムは心に思った。「今のままなら、この王国はダビデの家に帰るだろう。27 この民が、エルサレムにある主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の宮でいけにえを献げるために上ることになっているなら、この民の心は彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、彼らは私を殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。」28 そこで王は相談して金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もうエルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上った、あなたの神々がおられる。」29 それから彼は一つをベテルに据え、もう一つをダンに置いた。30 このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためダンまで行った。31 それから彼は高き所の宮を造り、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。32 そのうえ、ヤロブアムはユダにある祭りに倣って、祭りの日を第八の月の十五日と定め、祭壇でささげ物を献げた。こうして彼は、ベテルで自分が造った子牛にいけにえを献げた。また、彼が造った高き所の祭司たちをベテルに常駐させた。33 彼は、自分で勝手に考え出した月である第八の月の十五日に、ベテルに造った祭壇でいけにえを献げた。このように、彼はイスラエルの人々のために祭りの日を定め、祭壇でいけにえを献げ、香をたいた。”(新改訳2017)と記されています。

 北イスラエルの初代の王ヤロブアムによって、金の子牛の偶像礼拝が導入されました。これだけでも大いなる罪です(出エジプト321-335)。
 北イスラエルの7代目の王アハブはさらにより一層主に対して悪を行いました。
1
列王記1629-33には、
29 オムリの子アハブは、ユダの王アサの第三十八年に、イスラエルの王となった。オムリの子アハブはサマリアで二十二年間、イスラエルの王であった。30 オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の目に悪であることを行った。31 彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪〔金の子牛礼拝(筆者挿入)〕のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ32 さらに彼は、サマリアに建てたバアルの神殿に、バアルのために祭壇を築いた33 アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前の、イスラエルのすべての王たちにもまして、ますますイスラエルの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の怒りを引き起こすようなことを行った。”(新改訳2017)と記されています。

 ホセア131をリビングバイブルは、「かつては、イスラエルが何か言うと、国々は〔訳者挿入(筆者挿入)〕恐れのあまり震え上がったものです。イスラエルが強力な君主だったからです。ところが、イスラエルはバアルを拝んで、滅びを決定的なものにしました。」と意訳しています。
 
 北イスラエル王国の末期に預言者として立てられたホセアの時代、人々は自分のために偶像を造ったのです。
 ホセア132を、
聖書協会共同訳は、「今も、彼らは罪を重ね、自分たちのために銀の像を造る。偶像はすべて職人たちの巧みな技。彼らは言う。『いけにえを献げる者たちは〔別訳「人を献げる者たちよ」(欄外注)〕子牛に口づけせよ。』」と訳しています。
「いけにえを献げる」と訳された語の原語は二語で、「ザーバハ アダム」で、人を殺す、人を献げ物として捧げる、という意で、人身御供です。

 このようなことをしていた北イスラエルへの宣告が、3節に、「それゆえ、彼らは朝もやのように、朝早く消え去る露のようになる。打ち場から吹き散らされる籾殻のように、また、穴から出る煙のようになる。」(新改訳2017)と預言として記されています。
 岩波訳は、「それゆえ、彼らは朝靄(あさもや)のようになり、露のように朝早く消え去る。もみがらのように麦打ち場から吹き散らされ、煙のように窓から〔消え去る(訳者挿入)〕。」と訳しています。
北イスラエルがバアルを礼拝したのは豊かになるためであったのですが、その偶像礼拝のゆえに北イスラエル王国は滅びるという預言です。

 イエス様は、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(新改訳2017)と言われました。
リビングバイブルは、「神を第一とし、神が望まれるとおりの生活をしなさい。そうすれば、必要なものは、神が与えてくださいます。」と意訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
日本は偶像大国です。
しかし私たちは、主なる神様を第一とし、主のみ旨に叶った歩みをしたいと望んでいます。主が助け導いてくださいますように。
あなたは、あなたに信頼し、あなたのみ旨に従って歩む者には、必要なものをすべて与えてくださるお方ですから、御名を崇めて感謝します。
主を賛美しつつ、主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年3月27日 (金)

ホセア12:7―14{(新改訳)新共同訳は12:8―15} イスラエルの罪と裁き/私たちの罪の罰を身代わりに受けてくださったイエス様 

 ヘブライ語聖書のホセア128
新改訳2017は、「商人〔あるいは「カナン」(欄外注)〕は手に欺きの秤を持ち、虐げることを好む。」(ホセア127)と訳し、
新共同訳は、「商人は欺きの秤を手にし、搾取を愛する。」(ホセア128)と訳し、
岩波訳は、「カナンはその手に欺きのはかりを持ち、強迫することを好む。」(ホセア128)と訳しています。

 「商人」、「カナン」と訳された語の原語は、「ケナアン」で、カナン、商人、貿易、・・等の意があります。
 「虐げる」、「搾取する」と訳された語の原語は、「アシャク」で、虐げる、圧迫する、詐欺行為をする、だまし取る、等の意があります。

 この節をリビングバイブルは、「ところがわたしの同胞は、不正なはかりで物を売る、ずる賢い商人のようです。だますことが好きなのです。」(ホセア127)と意訳しています。

 預言者ホセアは、北イスラエル(特にエフライム)に対して、「あなたがたは、財を増やすため、不正なはかりで物を売るような商人のように弱者貧者を圧迫搾取している。」という意味のことを言っているのであろうと思います。

 これに対し、イスラエル、とりわけその中心部族のエフライムは何と言ったのでしょうか。
ヘブライ語聖書のホセア129を、
新改訳2017は、“エフライムは言った。「確かに私は富んでいる。私には力がある。私のすべての勤労の実があれば、私のうちに、罪となる不義は見つからない。」”(ホセア128)と訳し、
新改訳第三版は、“エフライムは言った。「しかし、私は富む者となった。私は自分のために財産を得た。私のすべての勤労の実は、罪となるような不義を私にもたらさない。」”と訳しています。
「見つける」(2017)、「もたらす」(第三版)と訳された語の原語は、「マーツァー」で、どちらの意味もあります。「マーツァー」という単語の前に「ロー」(notの意)があるので上記のような訳になっています。

 ホセアに対するエフライム(イスラエル)の主張は、「財産は神様の祝福によって与えられた勤労の結果でしょ。何か文句あるの?」というような感じであったと思います。

 ヘブライ語聖書のホセア1210-15を新共同訳を基にして考察したいと思います。この箇所は新改訳ではホセア129-14になります。
 新共同訳は、
10 わたしこそあなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕。エジプトの地からあなたを導き上った。わたしは再びあなたを天幕に住まわせる。わたしがあなたと共にあった日々のように。11 わたしは預言者たちに言葉を伝え、多くの幻を示し、預言者たちによってたとえを示した〔わたしは預言者たちに語ってきた。わたしが多くの幻を示し、預言者たちによってたとえを示したのだ(新改訳2017)〕。12 ギレアドには忌むべきものがある。まことにそれらはむなしい。ギルガルでは雄牛に犠牲をささげている〔ギルガルで雄牛が献げられたが(新改訳2017)〕、その祭壇は畑の畝に積まれた石塚にすぎない〔彼らの祭壇は畑のうねに積んだ石塚のようになる(口語訳)〕。13 ヤコブはアラムの野に逃れ、イスラエルは妻を得るために仕え、また妻を得るために群れを守った。14 主は一人の預言者によって、イスラエルをエジプトから導き上らせ、預言者によって彼らを守られた。15 エフライムは主を激しく怒らせた。主は流血の報いを彼に下し、その恥辱を彼に返される。”と訳しています。

 主(ヤハウェ)は、預言者を通して、「わたしこそあなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である(10)。わたしが、エジプトの地からあなたがたを、一人の預言者モーセを立ててエジプトから導きだし、また守ったのだ(10.14)。更に、わたしは預言者たちに語ってきた。わたしが多くの幻を示し、預言者たちによってたとえを示したのだ(11)。あなたがたの先祖であるヤコブが兄とのトラブルからアラムの野に逃れ、イスラエル(ヤコブ)は妻を得るためにラバンに仕え、また妻を得るために群れを守った。ヤコブは妻を愛して、妻のために労苦を惜しまなかった(13)。そのように、わたしもイスラエルを愛し、導き守ってきた。それなのに、イスラエルは偶像礼拝に明け暮れ、偶像に牛をささげ、また、子牛に献げものをしている。偶像礼拝の場所の中にはギレアドやギルガルもあるがそれらは石塚となるのだ(12)。イスラエルを愛するわたしヤハウェを、イスラエルは非常に怒らせた。それ故イスラエルは、自分が犯した罪の罰を受けるのだ(15)。わたしは再びあなたを捕囚地において天幕に住まわせる。(10)」というような意味のことを語られたのではないかと思います。

 余談になりますが、11節に、「ギルアデは不法そのもの。いや、彼らはむなしいものとなった。ギルガルで雄牛が献げられたが、その祭壇も、畑の畝の石くれの山になる。」(新改訳2017)と記されています。
ギルアデ、ギルガル、石くれの山、の三つの単語の最初の二文字は、ギメル(英文字ではg)、ラメッド(英文字ではl(エル))です。母音記号を「ア」にすると、ガラ、ガラ、ガラとなります。岩波訳の注は、これを捉えて、「石塚は、ヘブライ語でガッリーム。ギルアド、ギルガルと共にいずれもガラガラと崩壊することを暗示する語呂合わせとなっている。」と注しています。

 私たちキリスト者も、イエス様を信じなければ、自分が犯した罪、即ち神様のみ旨に反したことの罰を受ける者であったのです。罪の刈り取りは「死」です。しかし、イエス様を信じた(信じさせていただけた)ゆえに、死の対極にある永遠のいのちを与えられたのです。本当に大感謝です。
イエス様が私たちの罪を身代わりに負ってくださったからです。

 使徒ペテロは、「22 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。25 あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。」(1ペテロ2章・新改訳2017)と述べ、

 パウロは、「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ623・新改訳2017)と記し、
また、エペソ人への手紙には、「1 以前のあなたがたは、罪のために永遠に滅びる定めにありました。2 この世の人と同じ生き方をし、罪にまみれ、主に反抗する人の心に今も働いている、力ある支配者サタンの言うままになっていたのです。3 私たちもみな、以前はほかの人たちと同じで、その生活は、心にある悪を反映したものでした。欲望や心のおもむくままに生き、行動していたのです。私たちは、生まれながらに神の怒りを受けて当然の者でした。4 しかし神は、なんとあわれみに満ちたお方でしょう。こんな私たちを深く愛してくださって、5 罪のために霊的に死に果て、滅びる定めにあった私たちを、キリストの復活と共に生かしてくださいました。救われる価値などない私たちに、ただ一方的な恵みが注がれたのです。6 そして、キリストと共に、私たちを墓の中から栄光へと引き上げ、キリストと共に席に着かせてくださいました。7 神がキリスト・イエスを通してなしてくださった、すべてのことからも、神の恵みのすばらしさがわかります。私たちは今、その恵みがどんなに豊かであるかを示す見本とされているのです。8 あなたがたは、恵みにより、キリストを信じることによって救われたのです。しかも、そのキリストを信じることすらも、あなたがたから自発的に出たことではありません。それもまた、神からの賜物(贈り物)です。9 救いは、私たちの良い行いに対する報酬ではありません。ですから、だれ一人、それを誇ることはできません。10 私たちをこのように造り変え、キリスト・イエスによる新しい生活に入れてくださったのは神です。この新しい生活は、神がずっと以前から計画してくださったものであり、私たちが互いに助け合って過ごすためでした。」(2章・リビングバイブル)と記しました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたの憐れみと恵みによって、私たちは救われました。
感謝します。
日々、あなたみ旨に適う歩みをさせて頂けますように。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年3月26日 (木)

ホセア12:2―6{(新改訳)新共同訳は12:3―7} 主に立ち返れ/主に在って祈れる幸い

 ヘブライ語聖書のホセア123
 新改訳2017は、「主には、ユダに対して言い分がある〔言い争う(新改訳第三版)〕。主は、生き方に応じてヤコブを罰し、行いに応じて彼に報いる。」(ホセア122)と訳し、
 岩波訳は、「ヤハウェは、ユダに対して訴訟を起こされる。その歩みに従ってヤコブに報い、その行いを彼に返される。」(ホセア123)と訳し、
 聖書協会共同訳は、「主はユダを告発し、ヤコブをその歩みによって罰し、その行いに従って報復する。」(ホセア123)と訳し、
 口語訳は、「主はユダと争い、ヤコブをそのしわざにしたがって罰し、そのおこないにしたがって報いられる。」と訳しています。

 「言い分がある」(新改訳2017)、「言い争う」(新改訳第三版)、「訴訟を起こす」(岩波訳)、
「告発する」(聖書協会共同訳)、「争う」(口語訳)と訳された語の原語は、「リーブ」で、各聖書のように訳すことができます。
いずれにしても、主(ヤハウェ)は、ユダに対しても、その元であるというかユダをも含めたイスラエル、即ちヤコブに対しても、分け隔てはなく、生き方に応じて罰し、また、行いに応じて報いる、ということでしょう。
2
節はイスラエルに対するホセアの忠告であろうと思われます。

 主(ヤハウェ)なる神様の基本ルールの一つに「公正」があります。
詩篇8914aには、「義と公正はあなたの王座の基(もとい)」(新改訳2017)と記されています。
ただし、詩篇8914bには、「いつくしみ〔恵み(新改訳)〕と、まことはあなたの前に行きます。」(口語訳)と述べられているのです。
 聖書協会共同訳は、「正義と公正は王座の礎(いしずえ)。慈(いつく)しみとまことはあなたの前を進みます。」(詩篇8915)と訳しています。

 主(ヤハウェ)は公正をもって統治なさるのですが、その御前に慈しみ(恵み)とまことが進むのです。
 余談になりますが、教会時代は恵みの時代です。教会時代が閉じられると、義と裁きの時代です。その後のキリストの千年王国では、主は、義と公正によって統治なさると思います(黙示録125)。

 ヘブライ語聖書のホセア124.5
 新改訳2017は、「3 ヤコブは母の胎で兄のかかとをつかみ、その力で神と争った。4 御使いと格闘して勝ったが、泣いてこれに願った〔泣いて恵みを乞うた(新共同訳)〕。ベテルでは神に出会い、神はそこで彼に語りかけた。」(ホセア123.4)と訳し、
 リビングバイブルは、「3 ヤコブは生まれる時兄弟と争い、大人になってからは神とさえ戦ったのです。4 まさに、御使いと格闘して勝ちました。彼は御使いに、祝福してくれるようにと泣いて頼みました。ベテルでは、神と顔と顔を合わせるようにして出会い、神は彼に語りかけました〔そこで我々に語られた(聖書協会共同訳)〕。」(ホセア123.4)と意訳しています。

 新聖書注解ホセア書の担当の鈴木牧師は、4節(ヘブライ語聖書の.5節)を、イスラエルの民がホセアに、「先祖ヤコブは自分の力で御使いと格闘して勝った時、泣いて願い求めた。その時、神はヤコブを祝福されたではないか。しかも、その後ベテルでヤコブに現れ、アブラハム契約を彼に確認して祝福されたではないか。われわれもベテルに行けば、彼(神)はわれわれに出会ってくださる。そして、そこで彼(神)はわれわれに語ってくださる」と語った言葉ではないか、と捉えることも可能であると述べています。

 確かに、「主には、ユダに対して言い分がある。主は、生き方に応じてヤコブを罰し、行いに応じて彼に報いる。」(新改訳2017)という2節のホセアの言葉に対して、3.4節(新改訳)をイスラエルの民の言葉とすると、5.6節(新改訳)の「5 主は万軍の神。その呼び名は主。6 あなたは、あなたの神に立ち返り、誠実と公正を守り、絶えずあなたの神を待ち望め。」(新改訳2017)というホセアの言葉の内容がしっくりします。

 新改訳20175.6節の箇所を岩波訳は、「6 しかし、ヤハウェこそ万軍の神、ヤハウェこそその名7 ゆえにあなたは、あなたの神に立ち帰れ、愛と公正とをあなたは守れ、常にあなたはあなたの神を待ち望め。」と訳しています。

 人によって神に対する思いは色々です。
ある人は、神は恐ろしい方、と捉え、
ある人は、神は何をしても愛してくださるお方、と捉え、
ある人は、神は何をしても甘えさせてくださるべきお方、と捉え、
ある人は、裁く神などいらない、と考え、
ある人は、人が神をつくったのだ、と捉えるなど、
その他、色々です。

 しかし、先に詩篇8914の「義と公正はあなたの王座の基(もとい)、いつくしみ〔恵み(新改訳)〕と、まことはあなたの前に行きます。」という聖句を読みましたが、神様は、慈しみ深く恵みに富み、真実、誠実なお方であると共に、正義と公正をもって統治(&さばきを)なさいます。

 そして、神様の名前は、「ヤハウェ」(ホセア126・岩波訳)とあります。
ヤハウェとは、他の何ものにもよらずに自ずから存在し、しかも永遠に存在するお方、という意です。ヤハウェ以外のすべてものは、ヤハウェによってつくられた被造物です。

 イスラエル(北イスラエル)の民は、偶像礼拝に熱心でしたから、それではいけない、という意味で、ホセアは、「6 ・・、ヤハウェこそ万軍の神、ヤハウェこそその名7 ゆえにあなたは、あなたの神に立ち帰れ、愛と公正とをあなたは守れ、常にあなたはあなたの神を待ち望め。」(岩波訳)と語りましたが、私は、別の意味で、「ヤハウェこそ万軍の神、ヤハウェこそその名」ということをいつも忘れることなく生活するようにすべきであると考えます。「ヤハウェ」のところに「主イエス」といれることもできます(ヨハネ11-3、マタイ2818、黙示録117.181コリント116)。
イエス・キリスト様は、救い主であるだけではなく、天地の主権者としてたてられています(マタイ2818)。そのイエス様の御名で祈ることの出来るキリスト者はなんと幸いな者たちでしょうか。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
イエス様の御名であなたにお祈りさせて頂けます恵みを感謝します。
何事でもあなたのみこころにしたがって願うなら、あなたは聞いてくださるお方ですから御名を崇めて感謝します。
主と一つ霊とされている霊によって祈ることができますように。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「どのような時にも、霊によって祈り、願い求め、・・・・」(エフェソ618・聖書協会共同訳)
「主と交わる者は、主と一つの霊となる・・」(1コリント617・聖書協会共同訳)

2020年3月25日 (水)

ホセア11:12―12:1{(新改訳)新共同訳は12:1.2} イスラエルとユダのむなしい歩み/主に感謝し、主を愛し、主に従う歩み

 ヘブライ語聖書のホセア121を新改訳、口語訳、文語訳、リビングバイブル、KJVNIV等(①)はホセア1112とし、新共同訳、聖書協会共同訳、岩波訳等(②)はホセア121としています。それ故、ホセア12章は①の方の聖書群と②の方の聖書群とでは節がずれています。

 ヘブライ語聖書のホセア121の前半部分の訳の意味については、各聖書でほぼ変わりはありません。
 新共同訳は、「エフライムは偽りをもって、イスラエルの家は欺きをもって、わたしを取り巻いた。」(ホセア121)と訳し、
 新改訳2017は、「わたしは、エフライムの偽りと、イスラエルの家の欺きで囲まれている。」(ホセア1112)と訳しています。

 この箇所の「わたし」は、主(ヤハウェ)なのか、それともホセアなのか?どちらでしょう。
主なる神様は天におられると共に偏在のお方であられ、また主の宮はエルサレムにあるので、この箇所の「わたし」は、主(ヤハウェ)ではなく、ホセアではないかと私は思います。

 さて、ヘブライ語聖書のホセア121の後半部分の訳については、聖書によって色々な訳し方をしています。それは、原文の中の、おもに二つの単語の捉え方によります(その捉え方によって副詞や前置詞等の訳も色々変化します)。
預言者ホセアはどのように言いたかったのでしょうか。

 ヘブライ語聖書のホセア121の後半部分について、
 聖書協会共同訳は、「だがユダはなお神と共に歩み、聖なる者たちと共に忠実である。」(ホセア121)と訳し、
 新改訳2017は、「しかしユダは、なお神とともに歩み、聖なる方に対して忠実である。」(ホセア1112)と訳し、
 口語訳は、「しかしユダはなお神に知られ、聖なる者に向かって真実である。」(ホセア1112)と訳し、
 新改訳第三版は、「しかし、ユダはなおさまよっているが、神とともにあり、聖徒たちとともに堅く立てられる。」(ホセア1112)と訳し、
 岩波訳は、「ユダはいまだに神と共にさまよい、聖なる者たちに忠実だ。」(ホセア121)と訳し、
 新共同訳は、「ユダはいまだに神から離れてさまよい、偶像を聖なるものとして信頼している。」(ホセア121)と訳しています。

 ホセアが北イスラエル(イスラエル、エフライムはイスラエルの首都)で預言活動をしていた時代、ユダ王国(南イスラエル)に、主(ヤハウェ)が遣わした有名な預言者はイザヤでした。
ホセア11には、「ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアにあった主のことば。」(新改訳2017)とあり、
イザヤ11には、「アモツの子イザヤの幻。これは彼がユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。」とあります。

 ユダの王ウジヤについて、2歴代誌261-5には、
1 ユダの民はみな、当時十六歳であったウジヤを立てて、その父アマツヤの代わりに王とした。2 彼は、アマツヤが先祖とともに眠りについた後、エイラトを築き直し、それをユダに復帰させた。3 ウジヤは十六歳で王となり、エルサレムで五十二年間、王であった。彼の母の名はエコルヤといい、エルサレム出身であった。4 彼は、すべて父アマツヤが行ったとおりに、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の目にかなうことを行った。5 神を認めることを教えたゼカリヤが生きていた間、彼は神を求めた。また彼が主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を求めていた間、神は彼を栄えるようにされた。”(新改訳2017)と記されています。

 ユダの王ヨタムについて、2歴代誌271.2には、
1 ヨタムは二十五歳で王となり、エルサレムで十六年間、王であった。彼の母の名はエルシャといい、ツァドクの娘であった。2 彼は、すべて父ウジヤが行ったとおりに、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の目にかなうことを行った。ただし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の神殿に入ることはしなかった〔前王ウジヤは主の神殿に入り不法を行ったので主に裁かれました(筆者挿入)〕。民は依然として滅びに向かっていた〔民が偶像礼拝を止めず不道徳であった故、滅びに向かっていた、ということでしょう(筆者挿入)〕。”(新改訳2017)と記されています。

 ユダの王アハズについて2歴代誌281-422-25には、
1 アハズは二十歳で王となり、エルサレムで十六年間、王であった。彼はその父祖ダビデとは違って、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の目にかなうことを行わず、2 イスラエルの王たちの道〔偶像礼拝と不道徳の道(筆者挿入)〕に歩み、そのうえ、バアルの神々のために鋳物の像を造った。3 彼は、ベン・ヒノムの谷で犠牲を供え〔モレク神に人身犠牲をささげた(筆者挿入)〕、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の、忌み嫌うべき慣わしをまねて、自分の子どもたちに火の中を通らせた〔生きたままの幼児を火によるいけにえとして偶像にささげた(筆者挿入)〕。4 彼は高き所、丘の上、青々と茂るあらゆる木の下で、〔偶像に(筆者挿入)〕いけにえを献げ、犠牲を供えた。/22 アッシリアの王が彼〔アハズ王(筆者挿入)〕を苦しめたとき、このアハズ王は、さらに主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の信頼を裏切った。23 彼は、自分を打ったダマスコの神々にいけにえを献げて言った。「アラムの王たちの神々は彼らを助けている。この神々に、私もいけにえを献げよう。そうすれば私を助けてくれるだろう。」これらの神々は、彼と全イスラエルをつまずかせるものとなった。24 アハズは、神の宮の用具を集めた。彼は神の宮の用具を取り外し、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の宮の戸を閉じ、エルサレムの街角のいたるところに〔偶像の(筆者挿入)〕祭壇を造った。25 またユダの町という町にはすべて、ほかの神々に犠牲を供えるための高き所を造り、彼の父祖の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の怒りを引き起こした。”(新改訳2017)とあり、極めて主(ヤハウェ)に対して悪を行った王であると記されています。

 ユダの王ヒゼキヤについて2歴代誌291.2には、
1 ヒゼキヤは二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間、王であった。彼の母の名はアビヤといい、ゼカリヤの娘であった。2 彼は、すべて父祖ダビデが行ったとおりに、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の目にかなうことを行った。”(新改訳2017)と記されています。

 以上の王たちについての記述を考慮すると、ヘブライ語聖書のホセア121の後半部分を、聖書翻訳者の方々が、どの時代のことを想定して訳したかを想像できます。
預言者ホセアの真意はどのようであったのでしょうか、

 私は、新聖書注解のホセア書の担当の鈴木牧師に賛同し、鈴木牧師のまとめを下記します。
“今までのユダへの言及から(ホセア55以下、同64.11、同814)、ここでも恐らくユダは北王国と同様に、神に非難される存在として見られていると言えよう。従って「ユダはなおも神に対し、真実である聖なる方に対して、さまよっている」と解したい。”とあります。

 ヘブライ語聖書のホセア122
 聖書協会共同訳は、「エフライムは風〔別訳「風の牧者」(欄外注)〕を養い、一日中、東風を追い、虚偽と暴虐を増す。アッシリアと契約を結びながらエジプトに油を贈る。」(ホセア122)と訳し、
 新共同訳は、「エフライムは風の牧者となり、一日中、熱風を追って歩く。欺瞞と暴虐を重ね
アッシリアと契約を結び、油をエジプトへ貢ぐ。」(ホセア122)と訳し、
 口語訳は、「エフライムはひねもす風を牧し、東風を追い、偽りと暴虐とを増し加え、アッスリヤと取引をなし、油をエジプトに送った。」(ホセア121)と訳し、
 新改訳2017は、「エフライムは風を飼い、一日中、東風の後を追う。重ねるのは虚偽と暴行。アッシリアと契約を結び、エジプトに油を送る。」(ホセア121)と訳し、
 新改訳第三版は、「エフライムは風を食べて生き、いつも東風を追い、まやかしと暴虐とを増し加えている。彼らはアッシリヤと契約を結び、エジプトへは油を送っている。」(ホセア121)と訳しています。
 
 冒頭の部分を直訳すると、「イスラエルは風の牧者」です。
風を牧しても無に帰するだけであるとこと、また、時間を浪費してしまうことを述べているように思えます。
 「エフライムは、・・・いつも東風を追い、まやかしと暴虐とを増し加えている。」(新改訳第三版)とあります。
イスラエルにおける東風は、熱風であるので、作物を枯らします。エフライムがおこなっていることは実を実らさないものであるばかりでなく、まやかしと暴虐とを増し加えているのだ、ということです。
 「アッシリアと契約を結び、エジプトに油を送る。」とあります。
イスラエル(北イスラエル)の最後の王はホシェア(在位B.C.732-723年)ですが、その少し前に、メナヘム(在位B.C.743-738年)という王がいました。
メナヘム王は、B.C.738年にアッシリアの王ティグラト・ピレセル三世に貢物を送って同盟を結んだのです。イスラエルの最後の王であるホシェアは、アッシリアの王シャルマナサル五世に貢物を納めた後、方針を変え、エジプトの王ソに援助を求めました。
ホシェア王とイスラエルの刈り取りは、北イスラエル王国の滅びとアッシリアへの捕囚でした。

 2列王記171-6には、
1 ユダの王アハズの第十二年に、エラの子ホセアがサマリアでイスラエルの王となり、九年間、王であった。2 彼は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の目に悪であることを行ったが、彼以前のイスラエルの王たちのようではなかった。3 アッシリアの王シャルマネセルが攻め上って来た。そのとき、ホセアは彼に服従して、貢ぎ物を納めた。4 しかし、アッシリアの王はホセアの謀反に気がついた。ホセアがエジプトの王ソに使者たちを遣わし、アッシリアの王には年々の貢ぎ物を納めなかったからである。そこで、アッシリアの王は彼を捕らえて牢獄につないだ。5 アッシリアの王はこの国全土に攻め上り、サマリアに攻め上って、三年間これを包囲した。6 ホセアの第九年に、アッシリアの王はサマリアを取り、イスラエル人をアッシリアに捕らえ移し、彼らをハラフと、ゴザンの川ハボルのほとり、またメディアの町々に住まわせた。”(新改訳2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたに従う歩みをしないと、どのようになるのかということを、いやというほど教えられます。
イエス様が十字架にかかられて私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったほどに、私たちを愛してくださっておられますことを感謝します。
御父を愛し、主イエス様を愛し、すべてのことを感謝し、主の教えと導きに従い続ける者として歩むことができますよう祝福してください。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2020年3月24日 (火)

ホセア11:8-11 聖であられる主の偉大な愛

 ホセア118-11には、
8 エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り〔わたしは激しく心を動かされ(新共同訳)、岩波訳は直訳的に「わたしの心はわたしに向かって向きを変え」と訳しています、(筆者挿入)〕、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。9 わたしは怒りを燃やして再びエフライムを滅ぼすことはしない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者だ。わたしは町に入ることはしない。10 彼らは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の後について行く。主は獅子のようにほえる。まことに主がほえると、子らは西から震えながらやって来る。11 鳥のようにエジプトから、鳩のようにアッシリアの地から、彼らは震えながらやって来る。わたしは彼らを自分たちの家に住ませよう。──主のことば。”(新改訳2017)とあります。

 8節には、「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り〔わたしは激しく心を動かされ(新共同訳)、岩波訳は直訳的に「わたしの心はわたしに向かって向きを変え」と訳しています、(筆者挿入)〕、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」(新改訳2017)とあります。

 アデマとツェボイムが聖書に最初に登場するのは、創世記1019で、その箇所には、「カナン人の領土は、シドンから南下してゲラルを経てガザまでを含み、更に、ソドム、ゴモラ、アドマ、ツェボイムを経てラシャまでを含んだ。」(新改訳2017)と記されています。その次は、創世記142で、「これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シンアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラすなわちツォアルの王と戦った。」(新改訳2017)と記されています。

 ソドムとゴモラは、極めて重い罪(創世記1820.21)の故に天からの硫黄と火で滅ぼされたとある(創世記1924)のは有名ですが、ソドムとゴモラ以外にも滅ぼされた町々がありました。創世記1925には、「こうして主は、これらの町々〔ソドムとゴモラ(筆者挿入)〕と低地全体と、その町々の全住民と、その地の植物を滅ぼされた。」(新改訳2017)と記されています。
この節に記されている「その町々」の中に、アデマとツェボイムがあります。
どうしてそのように言えるかというと、申命記2923に「・・主が怒りと憤りをもって滅ぼされたソドム、ゴモラ、アデマ、ゼボイム〔ツェボイム(新改訳)〕の破滅・・」(口語訳)と述べられているからです。

 8節の前半部分の、「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。」というのは、「主が怒りと憤りをもって滅ぼされたソドム、ゴモラ、アデマ、ゼボイム〔ツェボイム(新改訳)〕の」ように、主はエフライムで代表される北イスラエルを滅ぼし尽くしてしまうことは出来ない、ということを述べています。
それは、主(ヤハウェ)が、イスラエルを愛しているからです。主のイスラエルを愛する愛は消えないのです。
それが後半部分に、「どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り〔わたしは激しく心を動かされ(新共同訳)、岩波訳は直訳的に「わたしの心はわたしに向かって向きを変え」と訳しています(筆者挿入)〕、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」(新改訳2017)と記されています。

 9節を、
新改訳2017は、「わたしは怒りを燃やして再びエフライムを滅ぼすことはしない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者だ。わたしは町に入ることはしない。」と訳し、
 新改訳第三版は、「わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない。」と訳し、
 新共同訳は、「わたしは、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」と訳し、
 口語訳は、「わたしはわたしの激しい怒りをあらわさない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたのうちにいる聖なる者だからである。わたしは滅ぼすために臨むことをしない。」と訳し、
岩波訳は、「わたしは、もはや怒りを、燃やすことはなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であって、人ではない。あなたがたのただ中にいる聖なるもの。わたしは激怒の中に入りはしない」と訳しています。

 最後の部分について、新改訳2017は「町に入る」、岩波訳は「激怒の中に入る」と訳していますが、「町」「激怒」と訳された語の原語の子音字は同じで母音記号の付き方で意味が変わるのです。
9
節は、2017以外の訳の方が前後の文章の関係を考えると良いのではないかと私は思います。

 連綿と続いた北イスラエルの背教、偶像礼拝に対して、主(ヤハウェ)は、アッシリアを用いて裁きを下しました。その際、捕囚となった北イスラエルの民及びその子孫たちは、ほんの一部を除いてイスラエルの地に未だに帰還していません。アッシリアへの捕囚以来、約2740年たっています。このブログを読まれる方の中には、皇紀、と書くと身震いする方もいるかも知れませんがご容赦ください。令和2年は皇紀2680年になります。日本の歴史を考えると、ずいぶん長いこと北イスラエルの民がどこに行っているのかが分からないのですが、主(ヤハウェ)は、ご存知です。そして、主(ヤハウェ)は、北イスラエルの民(子孫たち)をイスラエルの地に呼び戻すのです。ひょっとすると日本にも北イスラエルの子孫がいるかも知れないというので、このような書き方をしました。
 なお、主に従わなかった場合の「呪いの条項」の最後の方の部分に、「主は地の果てから地の果てまでのあらゆる民の間にあなたを散らす。あなたはそこで、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった、木や石で造られたほかの神々に仕える。」(申命記2864・新改訳2017)というのがあります。

 私は、福音を伝えたけれどもその時には信じなかった人たちの中から、幾人かでもキリストの千年王国で、会うことの出来る人達がいたらいいな、と思っています。
「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」(イザヤ4522・新改訳)という聖句に期待しながら。

 10.11節を新共同訳は、
10獅子のようにほえる主に彼らは従う。主がその声をあげるとき、その子らは海のかなたから恐れつつやって来る。11彼らは恐れつつ飛んで来る。小鳥のようにエジプトから、鳩のようにアッシリアの地から。わたしは彼らをおのおのの家に住まわせると、主は言われる。”と訳しています。

 主(ヤハウェ)の御発声によって、北イスラエルの民(子孫たち)は、世界の各地からイスラエルの地に畏れと共に、喜びに体を震わせながら帰還するのではないかと想像します。北イスラエルの10部族の人たちがイスラエルのどの地に住むのかは、すでにエゼキエル48章に預言されています。

 この箇所を通して、変わることのない主の愛を教えられます。
キリスト者についてあてはめて考えると、バックスライドした人であっても主は覚えておられる、ということです。
信仰告白をし、洗礼を受けた人が、主から離れ、この世に埋没してしまう、ということが起こり得ます。しかし、主が一たび働かれると、主から離れていた人が主のもとに帰って来る、というのを私たちは見ています。
主が愛であられる故、私たちは失望せずに祈る必要があることを覚えます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたは聖なるお方、偉大なる愛をお持ちのお方ですから御名を崇めて賛美します。
あなたが、あなたから離れている人達の心に働いてくださいますように。
私たちも祈り続けます。
また、救いを求めている人達が、イエス様だけが救い主であることを悟り、イエス様を信じることができますように。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年3月23日 (月)

ホセア11:1-7 イスラエルへの神の愛とイスラエルの背信とその結果の預言/信仰を回復してくださる主

 ホセア111-4には、
1 「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した。2 彼らは、呼べば呼ぶほどますます離れて行き、もろもろのバアルにいけにえを献げて、刻んだ像に犠牲を供えた。3 このわたしがエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いたのだ。しかし、わたしが彼らを癒やしたことを彼らは知らなかった。4 わたしは人間の綱、愛の絆で彼らを引いてきた。わたしは彼らにとってあごの口籠(くつこ)〔直訳は「くびき」(欄外注)〕を外す者のようになり、彼らに手を伸ばして食べさせてきた。”(新改訳2017)とあります。 

 1-4節は、主(ヤハウェ)が、イスラエルを如何に愛して導いてきたかを、イスラエルの歴史を通して語っています。

 1節は、エジプトで奴隷として働かされていたイスラエルを、主(ヤハウェ)が、モーセを立ててエジプトから解放し、アブラハム、イサク、ヤコブに約束していた地であるカナンへと、モーセの後継者ヨシュアをリーダーとしてたてて導き入れたことを述べているのだろうと思います。
 人の目には、リーダーとしてのモーセ、ヨシュアが大きく映りますが、実際のところは、イスラエルの出エジプトは、主の御力の現れであり(エジプトにおける10の災い)、荒野においても、雲の柱、火の柱に臨在された主(ヤハウェ)の助けと導きと養いのおかげであり、ヨシュアにおいては、主の軍の将{主なる神様の軍隊(主の命令で戦う天使たちの軍隊)の最高司令官}の力によるのです。

 余談になりますが、大患難時代、イスラエルは大苦境に立たされます。
その時、主(ヤハウェ)から遣わされるのはミカエルです。
ダニエル121には、「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。」(新改訳2017)と記されています。
 主が天使を遣わして守られるのは、主に信頼しているキリスト者でも同じです。
ヘブル114には、「御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされている」(抜粋・新改訳2017)と記され、
詩篇919-11には、「9 それはわが避け所主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕いと高き方をあなたが自分の住まいとしたからである。10 わざわいはあなたに降りかからず疫病もあなたの天幕に近づかない。11 〔原文には冒頭に「キィー」の語があるので、「何故なら」と訳出したいところです(筆者挿入)〕主があなたのために御使いたちに命じてあなたのすべての道であなたを守られるからだ〔「キィー」を「からだ」と訳しているのでしょう(筆者挿入)〕。」
詩篇91篇を人の側に立って理解するとき、主に全幅の信頼を置くことの大切さを詩篇91篇は教えてくれています。神の側からすると、主に100%の信頼を置く者を主は守る、ということになります。
世の中が騒々しい時ですが、マスコミに踊らされないようにしたいと思います。私たちを愛する主は、全知全能であり、絶対的な主権者であられる主ですから、主にのみ信頼を置くことの重要性を覚えます。

 話を元に戻します。
 2節には、「彼らは、呼べば呼ぶほどますます離れて行き、もろもろのバアルにいけにえを献げて、刻んだ像に犠牲を供えた。」とあります。

 主(ヤハウェ)が預言者たちを次から次へと送って、預言者を通して、主(ヤハウェ)は、イスラエルの王や民に、「主に立ち返るように」と、語られたのです。
しかしイスラエルは、主に立ち返るのではなく、悪の道へと邁進したのです。

 歴史書である列王記には、
7 こうなったのは、イスラエルの子らが、自分たちをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王ファラオの支配下から解放した自分たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、8 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習にしたがって歩んだからである。9 イスラエルの子らは、自分たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に対して、正しくないことをひそかに行い、見張りのやぐらから城壁のある町に至るまで、すべての町に高き所を築き、10 すべての小高い丘の上や、青々と茂るどの木の下にも石の柱やアシェラ像を立て、11 主が彼らの前から移された異邦の民のように、すべての高き所で犠牲を供え、悪事を行って主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の怒りを引き起こした。12 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が彼らに「このようなことをしてはならない」と命じておられたのに、彼らは偶像に仕えたのである。13 主はすべての預言者とすべての先見者を通して、イスラエルとユダに次のように警告された。「あなたがたは悪の道から立ち返れ。わたしがあなたがたの先祖たちに命じ、また、わたしのしもべである預言者たちを通してあなたがたに伝えた律法全体にしたがって、わたしの命令と掟を守れ。」14 しかし、彼らはこれを聞き入れず、彼らの神、主を信じなかった彼らの先祖たちのように、うなじを固くした。15 彼らは主の掟と、彼らの先祖たちと結ばれた主の契約と、彼らに与えられた主の警告を蔑み、空しいものに従って歩んだので、自分たちも空しいものとなり、主が倣ってはならないと命じられた、周囲の異邦の民に倣って歩んだ。16 彼らの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のすべての命令を捨て、自分たちのために、鋳物の像、二頭の子牛の像を造り、さらにアシェラ像を造り、天の万象を拝み、バアルに仕えた。17 また、自分たちの息子や娘たちに火の中を通らせ〔生きている幼児を火で焼くいけにえとして偶像(実質は悪魔悪霊)に献げ(筆者挿入)〕、占いをし、まじないをし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の目に悪であることを行うことに身を任せ、主の怒りを引き起こした。18 そのため主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はイスラエルに対して激しく怒り、彼らを御前から除かれた。”(2列王記17章・新改訳2017)と記されています。

 3.4節をリビングバイブルは、「3 わたしは、彼が赤ん坊の時から面倒を見、歩くことを教え、腕に抱いた。だが彼は、彼を育てたのはこのわたしであることを、知りもしなければ心にかけようともしない。4 人が大切な牛を引いて歩くように、わたしはイスラエルを愛の綱で導いた。食べるときには、くつわをゆるめ、わたし自身が身をかがめて食べさせてやった。」と意訳しています。

 主(ヤハウェ)が、愛をもって忍耐深く、あの手この手を用いて、主に立ち返らせようとしたにもかかわらず、主に立ち返らないイスラエルに対しての預言が、5-7節に、
5 彼〔イスラエル(筆者挿入)〕はエジプトの地には帰らない。アッシリアが彼の王となる。彼らがわたしに立ち返ることを拒んだからだ。6 〔アッシリア軍の(筆者挿入)〕剣は、その〔イスラエルの(筆者挿入)〕町々に対して荒れ狂い、かんぬきの取っ手を打ち砕き、彼らのはかりごとのゆえに、町々を食い尽くす。7 わたしの民〔イスラエル(筆者挿入)〕は頑なにわたしに背いている。いと高き方〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に呼ばれても、ともにあがめようとはしない〔彼らがいと高き者に向かって叫んでも決して届かない(聖書協会共同訳)、たとえ彼らが天に向かって叫んでも助け起こされることは決してない。(新共同訳)〕。”(新改訳2017)と記されています。

 ホセアは主からの預言を上記のように語りましたが、この預言の結果はどのようになったでしょうか?
歴史書である列王記には、
1 ユダの王アハズの第十二年〔B.C.732年(筆者挿入)〕に、エラの子ホセアがサマリアでイスラエルの王となり、九年間、王であった。2 彼は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の目に悪であることを行ったが、彼以前のイスラエルの王たちのようではなかった。3 アッシリアの王シャルマネセルが攻め上って来た。そのとき、ホセアは彼に服従して、貢ぎ物を納めた。4 しかし、アッシリアの王はホセアの謀反に気がついた。ホセアがエジプトの王ソに使者たちを遣わし、アッシリアの王には年々の貢ぎ物を納めなかったからである。そこで、アッシリアの王は彼を捕らえて牢獄につないだ。5 アッシリアの王はこの国全土に攻め上り、サマリアに攻め上って、三年間これを包囲した。6 ホセアの第九年に、アッシリアの王はサマリアを取り、イスラエル人をアッシリアに捕らえ移し、彼らをハラフと、ゴザンの川ハボルのほとり〔いずれも現シリア北東部からイラク北部(筆者挿入)〕、またメディアの町々〔現イラン北部(筆者挿入)〕に住まわせた。”(2列王記17章・新改訳2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたは、北イスラエルの偶像礼拝を約200年間忍耐されたことを覚えます。
その間、預言者を送って、あなたの言葉を語らせ、立ち返らせようとさせましたが、反抗的なイスラエルは立ち返りませんでした。
その結果として、国は滅び、捕囚とされた人たちは現在どこにいるのか、色々うわさされますが、厳密には分かりません。
しかし、このイスラエルの子孫たちを、あなたはキリストの千年王国時代にはイスラエルの地に帰らせ、部族ごとに土地を与えるのですから驚きます。
それと同じように、バックスライドした一人一人のキリスト者に対しても対処なさるのであろうと、私は推測します。
あなたの愛の偉大さを覚え、あなたの御名を賛美し、我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2020年3月22日 (日)

ホセア11:1 イスラエルは主に愛されている子ども/新生したキリスト者は神の子ども

 ホセア111には、「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した。」(新改訳2017)と記されています。

 イスラエルはエジプトで奴隷とされていましたが、主(ヤハウェ)がイスラエルをエジプトから解放した時のことを言っています。
主(ヤハウェ)は、イスラエルについて、
①愛している
②わたしの子である
と言っています。

 この節の表現を借りると、出エジプトとは、主(ヤハウェ)が、イスラエルをイスラエル(カナン)の地へ呼び出すことであったのです。

 話は変わりますが、イエス様の降誕に伴う出来事の中に、東方の博士たちがイエス様を礼拝しに来た話があります。そして、博士たちが帰途についた後のことが、マタイ213-15に、
13 彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」14 そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と語られたことが成就するためであった。”(新改訳2017)と記されています。

 マタイの福音書は、ホセア111は、主イエス様に関する預言の成就である、と語ります。
このことは聖霊の導きによることですから(2テモテ3162ペテロ121)、イスラエルがエジプトに下り、エジプトから呼び出されたことは、イエス様のこの出来事の予表でもあったのです。

 イスラエルがエジプトに下ったのは、飢饉によって死んでしまわないようにするためでした。
イエス様がエジプトに下ったのは、ヘロデによって殺されてしまわないためでした。
イエス様がエジプトからイスラエルの地へと呼び出されたのは、ヘロデが死んだからでした。
イスラエルがエジプトから呼び出されたのは、イスラエルの地で食べて行くことが出来るようになったからでした。(イスラエルの場合には、それ以外にも色々な理由がありますが)

新生したキリスト者を「神の子ども」と聖書は述べています。
 1ヨハネ31.2には、「1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。2 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。」(新改訳2017)と記され、
 ローマ816には、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」(新改訳第三版)と記され、
 ガラテヤ326には、「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。」(口語訳)と記され、また、KJVには、“For ye are all the children of God by faith in Christ Jesus.”(新改訳2017)と記されています。

天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
天地創造の前からの、あなたの壮大なご計画の一端を見せて頂きました。
全知全能にして、愛をもって導いてくださるあなたの御手の中にあって歩ませて頂けますことを感謝します。
今日は、あなたの壮大なご計画の中のほんのわずかな部分を見せて頂けただけですが、それを文書にすることの出来ないもどかしさを感じます。
どうか表現力を与えてください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年3月21日 (土)

ホセア10:9-15 イスラエルへの刑罰の預言4/主を愛し主に仕える

 ホセア109.10には、
9 「イスラエルよ。ギブアの日以来、あなたは罪を犯してきた。そこで彼らは同じことを行っている。ギブアで、戦いがこの不法の民を襲わないだろうか。10 彼らを懲らしめることがわたしの願いだ。二つの不義のために彼らが捕らえられるとき、諸国の民が集められて彼らに敵対する。”(新改訳2017)とあります。

 「ギブアの日」と記されている罪は、甚だしい性的不品行(士師記19章)を指しているのだと思いますが、その内容がひどいのでここに記すことをためらいます。ご存知ない方はその箇所を読んでみてください。ソドムとゴモラは同じような罪で主なる神様から滅ぼされました(創世記1820191-29)。

 「イスラエルよ。ギブアの日以来、あなたは罪を犯してきた。そこで彼らは同じことを行っている。」という箇所をリビングバイブルは、「ああ、イスラエルよ。あのギブアでの恐怖の夜以来、ただ罪、罪、罪の連続だ。あなたがたには全く進歩が見られない。」と意訳しています。
それ故、主(ヤハウェ)は、イスラエルを懲らしめることが願いだ(10)、と言われます。

 「ギブアで、戦いがこの不法の民を襲わないだろうか。」(反語)とありますが、ホセアが預言当時のギブアは北イスラエルの最南端の町であったのです。敵は、北側からやってきますから、その南まで敵が蹂躙してくるということです。ギブアはエルサレムから5km北にありました。ですからユダにとっても恐怖のときであったでしょう。

 歴史を紐解くと、北イスラエルはアッシリア帝国によって滅ぼされましたから、10節の「諸国の民が集められて彼らに敵対する」というのは、アッシリアに従属している国々の民たちのことです。
また、「二つの不義のために彼らが捕らえられる」とある「二つ」について、様々な解釈がありますが、偶像礼拝と性的不品行の罪をあげておきます。
偶像礼拝は、金の子牛礼拝やバアル礼拝、etc.等、及び主(ヤハウェ)に頼ることをしないで、人(諸国)に頼るということも含まれるであろうと思います。イスラエルは神権国家として建国され、主(ヤハウェ)が王であったにもかかわらず、イスラエルは、主(ヤハウェ)を退け、人間の中から王をたてました。その最初の王であるサウルが居を構えたのがギブアでした(1サムエル810章)。

 アッシリアがイスラエルに攻めてきたのは、イスラエルがアッシリアへの貢を止めたこと、即ちアッシリアに従属するのではなく、エジプトに鞍替えしたからです。
ホセア書のこの箇所は預言ですが、歴史書である列王記には、
1 ユダの王アハズの治世第十二年に、エラの子ホシェアがサマリアでイスラエルの王となり、九年間王位にあった。2 彼は主の目に悪とされることを行ったが、彼以前のイスラエルの王たちほどではなかった。3 アッシリアの王シャルマナサルが攻め上って来たとき、ホシェアは彼に服従して、貢ぎ物を納めた。4 しかし、アッシリアの王は、ホシェアが謀反を企てて、エジプトの王ソに使節を派遣し、アッシリアの王に年ごとの貢ぎ物を納めなくなったのを知るに至り、彼を捕らえて牢につないだ。5 アッシリアの王はこの国のすべての地に攻め上って来た。彼はサマリアに攻め上って来て、三年間これを包囲し、6 ホシェアの治世第九年にサマリアを占領した。”(2列王記17章・新共同訳)と記されています。

 見えるところでは、アッシリアに対する不実のゆえにイスラエルは滅ぼされたのですが、アッシリアであろうとイスラエルであろうとすべての国々の上にあってすべてを支配しておられる主(ヤハウェ)によるイスラエルへの懲らしめの原因は、主に対する不実です。主への罪の故に、主がアッシリアを用いてイスラエルを懲らしめたのです。この懲らしめは半端なものではなく、北イスラエル王国の滅亡、捕囚、ということになるのですが、懲らしめですから、それで終わりということではなく、北イスラエルの子孫たちは、キリストの千年王国時代には、イスラエルの地に割り当て地をもらうのです(エゼキエル48章)。

 ホセア1011.12には、
11 エフライムは飼いならされた雌の子牛、麦打ち場で踏むことを好む。しかし、わたしはその美しい首にくびきを掛ける。わたしがエフライムに乗り、ユダが耕し、ヤコブが馬ぐわを引くようになる。12 あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れ、耕地を開拓せよ。今が主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を求める時だ。ついに主は来て、正義の雨をあなたがたの上に降らせる。」”(新改訳2017)とあります。

 11節に「エフライムは飼いならされた雌の子牛、麦打ち場で踏むことを好む。」とあるように、主は、農耕の譬えをもって語られます。
 「私と私の家は主に仕える。」(ヨシュア記2415)と語ったモーセの後継者のヨシュアは、エフライム族の出身でした(1歴代誌720-28)。
「エフライム」とは、実りが多い、の意です。

 11節の前半部分を岩波訳は、「エフライムは飼い馴らされた雌の子牛、脱穀するのを私は楽しんだ。」と訳しています。
「飼い馴らされた雌の子牛」は従順です。エフライムは最初の頃は、主に対して従順でした。
牛が脱穀する時、「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」(申命記254・新改訳2017)とあるように、牛は自由に穀粒を食べることが出来ました。
エフライムは、脱穀したものを自由に食べることができた、ということを言っているのだろうと思います。

 しかし、11節の「しかし」から様相は一転するのです。
後半部分には、「しかし、わたしはその美しい首にくびきを掛ける。わたしがエフライムに乗り、ユダが耕し、ヤコブが馬ぐわを引くようになる。」(新改訳2017)と記されています。
この箇所は、一言で言えば、イスラエルの12部族は奴隷状態になるということを暗示する預言です。北イスラエルはアッシリアに捕囚となり、その後南イスラエル即ちユダ王国はバビロンに捕囚となったのです。根本的な罪は主を捨てたことでした。それ故主に捨てられたのです。

 主は11節では譬えを用いてイスラエル民族が大変なことになるということを預言として与え、その預言が成就しないようにと、その預言の後で悔い改めることを勧めたのでした。
それが、12節に述べられていることです。
12
節をリビングバイブルは、「正義という種をまけ。そうすれば、わたしの愛という実を刈り取る。堅くなった心を耕せ。今は主を求める時だ。主は来て、救いを雨のように注いでくださる。」と訳しています。

 主のありがたいお勧めをイスラエルが受け入れないことを主は知っておられます。
主の御勧めを無視してしまったイスラエルへの預言が、13-15節に、
13 あなたがたは悪を耕し、不正を刈り取り、偽りの実を食べた。それはあなたが自分の力に、自分の勇士の数に拠り頼んだからだ。14 あなたの民の中で戦塵が起こり、要塞はみな打ち滅ぼされる。戦いの日にシャルマンがベテ・アルベルを踏みにじった〔この出来事は聖書に記されていません(筆者挿入)〕ように、母親は子どもたちのそばで八つ裂きにされる。15 ベテルよ。あなたがたの悪があまりにもひどいので、このようなことがあなたがたになされる。夜明けには、イスラエルの王は全く滅ぼされる。”(新改訳2017)と記されています。

 主のみ旨に従わなかったイスラエルは、悲惨な結果を刈り取るという預言です。
これはキリスト者でも同じです。1例を挙げると、マタイ2445-51には、
45 ですから、主人によってその家のしもべたちの上に任命され、食事時に彼らに食事〔霊的食物(筆者挿入)〕を与える、忠実で賢いしもべとはいったいだれでしょう。46 主人が帰って来たとき〔キリストの空中再臨の時(筆者挿入)〕に、そのようにしているのを見てもらえるしもべ〔主の働き人(筆者挿入)〕は幸いです。47 まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。48 しかし彼が悪いしもべで、『主人の帰りは遅くなる』と心の中で思い、49 仲間のしもべたち〔主のしもべたち(筆者挿入)〕をたたき始め、酒飲みたちと食べたり飲んだりしているなら、50 そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、51 彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ報いを与えます。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。”(新改訳2017)と記されています。
この譬えの箇所の、悪いしもべであっても、主のしもべなのですから、主イエス様を信じた人でしょう。主を信じた人は永遠のいのちが与えられています。このような人は、大患難時代やキリストの千年王国時代に懲らしめを受けるのかも知れません。しかし、救われていますから、新天新地の時代には、永遠の祝福に入るのです。

 ヨシュアの死ぬ少し前のヨシュアとイスラエルの民たちとの会話の中に、
14 14.15節はヨシュアの言葉(筆者挿入)〕今、あなたがた〔イスラエルの民(筆者挿入)〕は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れ、誠実と真実をもって主〔彼(新共同訳)〕に仕え、あなたがたの先祖たちが、あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除き、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に仕えなさい。15 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私〔ヨシュア(筆者挿入)〕と私の家は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に仕える。」
16
民は答えた。「私たちが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にあり得ないことです。17 私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私たちと私たちの先祖たちをエジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、そして、私たちの目の前であの数々の大きなしるしを行い、私たちが進んだすべての道で、また私たちが通ったあらゆる民の中で、私たちを守ってくださった方だからです。18 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあらゆる民を、この地に住んでいたアモリ人を私たちの前から追い払われました。私たちもまた、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に仕えます。このお方が私たちの神だからです。」
19
ヨシュアは民に言った。「あなたがたは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に仕えることはできない。主は聖なる神、ねたみの神であり、あなたがたの背きや罪を赦さないからである。20 あなたがたが主を捨てて異国の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、主は翻って、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」”(新改訳2017)というものがあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたを愛し、あなたに信頼し、あなたに従い続ける者であらせてください。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

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