ホセア14:1―9{(新改訳)、ヘブライ語聖書・新共同訳は14:2―10} 主の愛は不変/喜びをもって主に仕えよ
ヘブライ語聖書のホセア14:2-4を
新改訳2017は、
“1 イスラエルよ。あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に立ち返れ。あなたは自分の不義〔罪(聖書協会共同訳)、咎(新共同訳)〕につまずいたのだ。2 あなたがたはことばを用意し、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に立ち返れ。主に言え。「すべての不義を赦し、良きものを受け入れてください。私たちは唇の果実をささげます。3 アッシリアは私たちを救えません。私たちはもう馬に乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』と言いません。みなしごがあわれまれるのは、あなたによってです。」”と記しています。
1節の「不義」(新改訳)、「罪」(聖書協会共同訳)、「咎」(新共同訳)と訳された語の原語は、「アーヴォン」で、強情、つむじ曲がり、罪、悪、不正、不道徳、過ち、過失、等の意があります。
1節に「あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に立ち返れ。」とあります。
罪の本質は主に背くことで、その結果、罪びとは、主の教え(orみ旨)に背いた考え、主に背いた歩みをすることになります。
「立ち返れ」というのは、新約では「悔い改めなさい」ということになります。
イエス様は、「罪とは、私イエス・キリストを信じないことだ。」と語られました(ヨハネ16:9)。
イエス様に立ち返ること、イエス様を信じること、これが悔い改めの根本です。
ローマ1章に、「24.26.27 性的不品行 29 不義、悪、貪欲、悪意、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧み、陰口、30 中傷、侮り、高ぶり、大言壮語、悪事の企み、親に逆らうこと、31 浅はか、不誠実、情け知らず、無慈悲」という罪のリストの一部があります。これらの罪のリストの中から、自分にもあるものを見つけて悔い改めたとしても、罪の本質である、まことの神、主イエス・キリスト様を信じなければ救われないのです。
イエス・キリストの父なる神は、万物の根源であられるお方です。
イエス様は、この父なる神様のもとへ行くには、イエス様を信じる以外にはないのだということを、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6・新改訳2017)と表現されました。
イエス様を信じて救いを体験した人は、主を賛美することが楽しくなります。
ホセア14:2(新改訳)に「私たちは唇の果実をささげます」とありますが、「唇の果実」とは、主への賛美です(ヘブル13:15)。
主イエス様を信じて、主と共に歩む人は、主のみ旨に叶うように変えられていきます。
主に立ち返ってからだいぶ年月が経った後に、主に立ち返る直前の時の自分がどのようであったかを思い返せば、主が様々なことを通してつくり変えてくださったことを列挙することが出来るでしょう。そして、自然に感謝することでしょう。
個々人で成長の速度は異なりますが、主は必ず成長させてくださるのです。
また、成長の速度は、個々人の心がけでも異なります。自分から、どんどん主につくり変えてくただく人は、早く成長します。
ローマ12:2には、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません〔直訳「この世と同じ形になってはなりません」(欄外注)〕。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。」(聖書協会共同訳)と記されています。
3節に、「アッシリアは私たちを救えません。」とあります。
イスラエルは、一時期アッシリアに助けを求め貢を納めましたが、後に、イスラエルは、アッシリアに滅ぼされたのです。
これは霊の世界ではよくあることです。
この世の君であるサタン(1ヨハネ5:19、エペソ2:2)に頼り、この世を上り詰めても、その先に待っているのは滅びです。
悔い改めると(主に立ち返ると)、主は喜んでくださり祝福してくださいます。
4-8節には、「4 わたし〔主(筆者挿入)〕は彼らの背信を癒やし、喜びをもって彼らを愛する。わたしの怒りが彼らから離れ去ったからだ。5 わたしはイスラエルにとって露のようになる。彼はゆりのように花咲き、レバノン杉のように根を張る。6 その若枝は伸び、その輝きはオリーブの木のように、その香りはレバノン杉のようになる。7 その陰に住むものたちは、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふく。その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。8 エフライムよ。わたしと偶像との間に、どういう関わりがあるか。わたしが応え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。わたしから、あなたは実を得るのだ。」(新改訳2017)と記されています。
主はイスラエルを愛し続けておられます。それはキリストの千年王国で明白となります。
イスラエルが罪の中を歩み続けている時、主はそれを裁かれますが、それは愛のむちでもあります。
キリスト者にも同じことが言えます。
主は、イエス・キリスト様を信じた人を愛し続けています。
主は愛する故に訓練もします(ヘブル12:5-11)。
主の愛は変わりませんから、バックスライドした人に対しても信仰復興のチャンスを狙っています。
イエス様を信じた人、即ちキリスト者は、罪赦され、永遠のいのちを頂いています。それは確定したことですが、キリスト者に対する裁きというのがあります(2コリント5:10)。
これは、信仰による救い、ということについてではなく、キリスト者として、どれだけ主を愛して主に仕えたか、という判定です。それは報酬を伴うのです。
①「よくやった。良い忠実なしもべだ。」(マタイ25:21.23)と言われ、主から豊かな報酬を受け取る人と、
②「かろうじて自分だけが火の中をくぐるようにして救われる」が、報酬をもらえない、という人もいるのです(1コリント3:10-15)。
詩篇100:2には、「喜びをもって主に仕えよ。」(新改訳、口語訳)とあります。
喜びは御霊の実の一つです。
神様とキリスト者の間の契約ではなく、神様とイスラエルとの間の契約ですが、祝福と呪いの条項に、「47 あなたが、すべてに豊かでありながら〔すべてのものに豊かになっても(聖書協会共同訳)〕、心からの喜びと幸せに溢れてあなたの神、主に仕えないので、48 あなたは主の差し向けられる敵に仕え、飢えと渇きに悩まされ、裸にされて、すべてに事欠くようになる。敵はあなたに鉄の首枷(くびかせ)をはめ、ついに滅びに至らせる。」(申命記28章・新共同訳)というものがあります。
キリスト者に直接適用される聖句ではありませんが、喜びと感謝をもって主に仕えることの大切さを教えられます。
ホセア書の最後の聖句は結びです。
「知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟れ。悟りのある者はだれか。その人はそれらのことをよく知れ。主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、背く者はこれにつまずく。」(ホセア14:9・新改訳2017)とあります。
箴言3:5-10には、
“5 心を尽くして主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。6 あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。7 自分を知恵のある者と考えるな。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れ、悪から遠ざかれ。8 それは、あなたのからだに癒やしとなり、あなたの骨に潤いとなる。9 あなたの財産で主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕をあがめよ。あなたのすべての収穫の初物で。10 そうすれば、あなたの倉は豊かさで満たされ、あなたの石がめは新しいぶどう酒であふれる。”(新改訳2017)と記されています。
<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたを愛し、喜びと感謝をもってあなたに仕える者であらせてください。
とこしえに、あなたの愛に包まれて歩ませて頂けますことを感謝し、我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン