アモス書

2020年5月 1日 (金)

アモス9:11-15 主はイスラエルを回復させる/すべてのものは神から発し、神によって保たれ、神の栄光のために

 アモス911-15には、
11 その日、わたしは倒れているダビデの仮庵を起こす。その破れを繕い、その廃墟を起こし、昔の日のようにこれを建て直す。12 これは、エドムの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての国々を、彼らが所有するためだ。──これを行う主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば。13 見よ、その時代が来る。──主〔ヤハウェ(筆者挿入)のことば──そのとき、耕す者が刈る者に追いつき、ぶどうを踏む者が種蒔く者に追いつく。山々は甘いぶどう酒を滴らせ、すべての丘は溶けて流れる。14 わたしは、わたしの民イスラエルを回復させる。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。15 わたしは、彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが与えたその土地から、もう引き抜かれることはない。──あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)は言われる。」”(新改訳2017)と預言されています。

 11節には、「その日、わたしは倒れているダビデの仮庵を起こす。その破れを繕い、その廃墟を起こし、昔の日のようにこれを建て直す。」とあります。

 「その日」とは、何時の時代のことでしょうか?
アモスの預言は、恐らくB.C.762年頃のことと思います。

 イスラエル(北イスラエル王国)がアッシリアによって滅ぼされたのがB.C.722年です。
イスラエル(北イスラエル王国)は10氏族から成っていましたが、捕囚となった多くの子孫たちのその後の行方は定かではありません。

 ユダ王国(南イスラエル)がバビロンによって滅ぼされ、多くの民が捕囚とされたのは、B.C.587/586年です。
 ユダを中心とする南イスラエルの人たちが捕囚から解放されてユダの地に戻り始めたのはB.C.538年です。
11
節は、この時のことを預言しているのでしょうか?

 しかし、その後、A.D.70年にローマによってエルサレムは滅ぼされ、ユダの民たちは世界に散っていきました。
 1948年に、主は、主の預言にあるように(エゼキエル368-11)イスラエルを再建しました。
11
節は、この時のことを言っているのでしょうか?
現在、イスラエルは、11節の預言「わたしは倒れているダビデの仮庵を起こす。その破れを繕い、その廃墟を起こし、昔の日のようにこれを建て直す。」と語られた状態に近くなっています。

 しかし、近未来に、イスラエルはまた廃墟に近い状態になることでしょう。
それは、エゼキエル38章の預言の戦いがありますし、
ダニエル1140-12:1には、“40 終わりの時に、南の王が彼と戦いを交える。北の王は戦車、騎兵、および大船団を率いて南の王を襲撃し、国々に侵入し、洪水のように通り過ぎる。41 彼は麗しい国〔イスラエル(筆者挿入)〕に攻め入り、多くの者が倒れる。しかし、エドムとモアブ、またアンモン人のおもだった人々は、彼の手から逃げる。42 彼は国々に手を伸ばす。エジプトの地もその手を免れることはない。43 彼は金や銀の秘蔵物と、エジプトのすべての宝物を手に入れ、ルブ人とクシュ人が彼につき従う。44 しかし、東と北からの知らせが彼をおびえさせる。彼は多くのものを絶滅させようとして、激しく怒って戦いに出て行く。45 彼は、海〔地中海(筆者挿入)〕と聖なる麗しい山〔エルサレム(筆者挿入)〕との間に、本営の天幕を張る。しかし、だれも助ける者はなく、ついに彼は終わりを迎える。1 その時、あなた〔ダニエル(筆者挿入)〕の国〔イスラエル(筆者挿入)〕の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしその時、あなたの民で、あの書〔いのちの書(筆者挿入)〕に記されている者はみな救われる。”(新改訳2017)と記されていますから。

 更に、この世の終わりには、主キリスト・イエス様が、王の王として、主の敵に立ち向かわなければ、選民(イスラエル人)は滅んでしまうと、主は言われました。
 マタイ2415-22には、
15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所〔エルサレム神殿(筆者挿入)〕に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──16 ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。17 屋上にいる人は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはいけません。18 畑にいる人は上着を取りに戻ってはいけません。19 それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。20 あなたがたの逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい。21 そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。22 もしその日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます。”(新改訳2017)と記されています。

 この状態を終わらせるために、主は王の王、主の主として、天から下って来られます。
黙示録1911-21には、
11 また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方〔主キリスト・イエス様(筆者挿入)〕は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。12 その目は燃える炎のようであり、その頭には多くの王冠があり、ご自分のほかはだれも知らない名が記されていた。13 その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。14 天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て〔黙示録198参照(筆者挿入)〕、白い馬に乗って彼に従っていた。15 この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧する〔黙示録125参照(筆者挿入)〕のは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。16 その衣と、もものところには、「王の王、主の主」という名が記されていた。17 また私は、一人の御使いが太陽の中に立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛んでいるすべての鳥たちに言った。「さあ、神の大宴会に集まれ。18 王たちの肉、千人隊長の肉、力ある者たちの肉、馬とそれに乗っている者たちの肉、すべての自由人と奴隷たち、また小さい者や大きい者たちの肉を食べよ。」19 また私は、獣と地の王たちとその軍勢が集まって、馬に乗る方とその軍勢に戦いを挑むのを見た。20 しかし、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた者たちと、獣の像を拝む者たちを惑わした偽預言者も、獣とともに捕らえられた。この両者は生きたまま、硫黄の燃える火の池に投げ込まれた。21 残りの者たちは、馬に乗っている方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が彼らの肉を飽きるほど食べた。”(新改訳2017)と記されています。
というわけで、この時のイスラエルの状態は、主の地上再臨がなければ、滅んでしまうような状態です。(何度も書いていますが、キリストの地上再臨より前に、キリスト者は、天において、キリストとの婚礼の儀を終え、美しくきよく且つ永遠に滅びることのないキリストの花嫁とされています)

 さて、アモス911の「その日」は、この主の勝利の日を言うのでしょうか?
この時即ちキリストの地上再臨を契機に、キリストの千年王国が始まっていきます。
キリストの千年王国であれば、
アモス911.12の預言はすべて頷けます。
 リビングバイブルは、11.12節を
“「11 その時には、今は荒れ果てたままになっているダビデの町を再建し、以前のように栄えた町にする。12 イスラエルは、エドムの残りの者と、わたしに属するすべての国の残りの者とを所有する。」このすべてを計画した主が、このように言うのです。”と意訳しています。

 キリストの千年王国では、イスラエルの12氏族全体が回復されています(エゼキエル48章)。更には、大患難時代を死なずにすんだ諸国の民の内、マタイ2531-34に該当する人たちは、キリストの千年王国において諸国民として記されています(ゼカリヤ1416.17)。
アモス913-15は、キリストの千年王国時代のイスラエル(全氏族から成るイスラエル)の状態に合致する預言であると思います。
 その箇所をリビングバイブルは、
“「13 大豊作で、やっと収穫が終わると思ったら、息つく暇もなく別の種をまく有様で、イスラエルの丘のぶどう畑は甘いぶどう酒をしたたらせるようになる時が来る。14 わたしは、わたしの国民イスラエルの繁栄を回復する。彼らは荒れた町々を建て直し、再びそこに住んで、ぶどうや果樹を栽培する。自分たちの収穫した物を食べ、ぶどう酒を飲む。15 わたしは彼らを、わたしが与えた地にしっかり植えつける。彼らは、再び引き抜かれることがない。」あなたの神、主がこう言うのです。”と意訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
パウロはローマ1133-36で、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(新共同訳)とあなたを賛美しています。
私も一緒に賛美させて頂きます。主の御名によってアーメン。

2020年4月30日 (木)

アモス9:1-10 主は主を信じる者とそうでない者とを区別される

 アモス91には、
“私は、祭壇の傍らに主〔アドナイ(筆者挿入)〕が立っておられるのを見た。すると、主〔彼(筆者挿入)〕は言われた。「柱頭を打ちたたき、敷居が震えるようにせよ。すべての者の頭を打ち砕け。彼らのうち、生き残った者をわたしは剣で殺す。彼らのうち逃げられる者はなく、彼らのうち逃れられる者もない。”(新改訳2017)と記されています。
 「祭壇の傍らに」の「傍らに」と訳された語の原語は「アル」で、~の上方に、~の上に、~に対して、~の間に、~の傍らに等の意があります。
多くの日本語聖書は、「傍らに」と訳しています。文語訳は「上に」と訳し、新改訳2017は、欄外に“あるいは「上に」”と記しています。
 「祭壇」は、この書の流れから、偶像を祀ってあるベテルの祭壇のことでしょう。
1
節のポイントは、主が、預言者を遣わして、主に立ち返れ、と語り続けたのに、主に立ち返ることなく偶像を崇拝しているイスラエル人をすべて殺す(主に立ち返った人々もいました)、ということです。どこに逃げても引きずり出してきて滅ぼす、と主は次の2-4節で述べています。

 24節には、
2 たとえ、よみに入り込んだとしても、わたしの手が、彼らをそこから引きずり出す。たとえ、天に上ったとしても、わたしが彼らをそこから引きずり降ろす。3 たとえ、カルメルの頂に身を隠したとしても、わたしが彼らをそこから捜し出して捕まえる。たとえ、わたしの目を避けて海の底に身を隠したとしても、わたしが蛇に命じて彼らをそこでかませる。4 たとえ、敵の捕虜となって行ったとしても、わたしが剣に命じてそこで彼らを殺させる。わたしは彼らの上に目を注ぐ。それは、わざわいのためであって、幸いのためではない。」”(新改訳2017)と記されています。

 実際には、肉体のままで天に上るとか陰府(よみ)に入り込むということは出来ませんが、もし、現代であれば、飛行機やヘリコプターで空(原語は「シャマイーム」で、空の意もあります)に逃げるとか、墓や地下の穴(よみと訳された語の原語は「シェオール」で、よみ、地獄、墓、地下の穴、等の意があります)に逃げることも可能でしょう。
海の底に身を隠しても、とありますが、現代であれば潜水艦や海底住居を造ることもできるでしょう。

 しかし、人間の本体は、肉体ではありません。
主を信じて新生していない人であれば、「たましい」が本体となるでしょう。
イエス様が、「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」(新改訳2017)と語られたように、魂を滅ぼす主なる神様がおられるということです。

 あるいはまた、死んだものが最終の裁きを受けるために出てくるときには、よみがえってから裁きを受けるのです。
イエス様は、「22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子〔主キリスト・イエス(筆者挿入)〕に委ねられました。23 それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。24 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。25 まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。27 また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです〔ダニエル713.14参照(筆者挿入)〕。28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子〔主キリスト・イエス(筆者挿入)〕の声を聞く時が来るのです。29 そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」(ヨハネ5章・新改訳2017)と語られました。
 また、最後の裁きに関する記述の中に、「海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。」(黙示録2013・新改訳2017)というものもあります。

 今日の聖書箇所から逸脱した内容まで記したようにも思えますが、主の裁きは徹底しているのです。

 その一方で、主の救いも徹底しています。
主を信じる者は、すべての罪を赦され、主のみ前に義人とされ、神の子どもとして霊の誕生をし、霊的教会を構成している全て者を花嫁とされるのです。これは、御父の愛に基づくみ旨であり、イエス・キリスト様の十字架と復活の御業、及び御父と聖霊の働きによってもたらされる主イエス様に対する信仰によります。信仰も賜物です。(エペソ1.2.5章、ヨハネ33.61ヨハネ31.2、ローマ322.24、マタイ16171コリント123
御父と御子の王国の都、即ち天の都は、御父と御子を愛する者たちによって構成される王国の都なのです(黙示録21章)。天国は少しでも暗闇を愛する人には耐えられたものではありません。

 アモス95.6には、
5 万軍の神、主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕が地に触れると、それは溶け去る。そこに住むすべての者は喪に服す。地のすべてのものは、ナイル川のように持ち上がり、エジプトの大河のように沈む。6 天に高殿を建て、地の上に丸天井を据え、海の水を呼んで、地の面に注がれる方、その名は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕。”(新改訳2017)と記されています。
 主は、万物の創造者であり、み旨に従って思うままに何でもできることを表している言葉であると思います。
 5節には、「万軍の神、主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕が地に触れると、それは溶け去る。」とありますが、ひょっとすると、このことが起きたのは創世記11の後であったのかもしれません。これは私の想像です。この件での論争を私は避けたいのでこれ以上は書きません。このようなことは天国に行けば分かりますから。

 アモス97には、
“イスラエルの子らよ。あなたがたは、わたしにとってクシュ人と同じではないのか。──主のことば──わたしは、イスラエルをエジプトの地から、ペリシテ人をカフトルから、アラムをキルから、連れ上ったではないか。”(新改訳2017)と記されています。
 新共同訳スタディー版の注は、
“クシュはエジプト南部および現在のエチオピアとスーダンにまたがる地域。ペリシテ人はB.C.12世紀にクレタ島(カフトル)からカナン西部の海岸平野に移住してきた。アラム人はキル〔メソポタミアの町(聖書辞典)〕から移住してきた。アモスはイスラエルの敵の移住とイスラエルの民の出エジプト、カナン到来を比較している(出エジプト13章―民数記36章)。イスラエルの民の移住はペリシテやアラムの移住とほぼ同時期に起こっている。イスラエルは自分たちの移住を特別なものと理解していたが、神は他の民族をも導いたとアモスは語る。”と述べています。

 そして、8節前半で、アモスは、「見よ、主なる神は罪に染まった王国に目を向け、これを地の面から絶たれる。」(新共同訳)と語り、
続く8節後半では、「ただし、わたしはヤコブの家〔イスラエル(筆者挿入)〕を全滅させはしないと、主は言われる。」(新共同訳)と語りました。

 イスラエルは根絶やしに滅ぼされることはないのです。預言者の言葉を聞き、主に立ち返った人たちもいたからです。主は、主に立ち返った人とそうではない人を分けて対処されます。
そのことが9.10節に、
9 見よ。わたしは命じて、すべての国々の間で、イスラエルの家をふるいにかける。ふるっても、小石は地に落ちないようにする。10 わたしの民の中の罪人はみな、剣で死ぬ。彼らは『わざわいは私たちに近づかない。私たちまでは及ばない』と言っている。”(新改訳2017)と記されています。

9
節の「ふるい」とは、穀粒から小石を除くためのふるいでしょう。小石、即ち主に従わない(主の民と認められない)人たちは除かれる、ということを述べています。その人たちは、預言者の言葉に敵対し、主に立ち返ることはなく、あくまでも偶像に従い続け、「わざわいは私たちに近づかない。私たちまでは及ばないと言っている」人たちなのです。
ふるいの目を通過した穀粒は、8節後半の滅ぼされない人たちのことです。この人たちは、捕囚となるか、イスラエルの地に残された人たちです。これはアッシリア軍の攻撃によって起こりました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたは、如何なる災いの時にも、あなたを信じる者とそうでない者とを分けて対処されるお方であることをこの箇所からも、また、聖書の他の箇所からも教えてくださいますから感謝します。
いつもあなたに従い続けて行くことができますよう祝福してください。
御名を賛美しつつ、主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年4月29日 (水)

アモス8章 イスラエルの終わりについての預言と警告/今の世の終わりについての警告

 アモス81.2(先半部分)には、
1 主なる神〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕はこのようにわたしに示された。見よ、一籠の夏の果物(カイツ)があった。主は言われた。2 「アモスよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「一籠の夏の果物です。」”(新共同訳)とあり、主(ヤハウェ)が、アモスに夏の果物(カイツ)を幻で見せられたことが記されています。
「夏の果物」(カイツ)は、冷蔵庫のない時代では、熟すとその後まもなく食べれない状態になりました。

 アモスが、「一籠のカイツです。」と答えると、主は、イスラエルに「ケーツ」が来た、と答えられました。
2
節後半と三節には、「2 ・・。わが民イスラエルに最後(ケーツ)が来た。もはや、見過ごしにすることはできない。3 その日には、必ず、宮殿の歌い女は泣きわめく〔神殿の歌声は悲鳴に変わる(新改訳2017)〕と、主なる神は言われる。しかばねはおびただしく、至るところに投げ捨てられる。声を出すな。」(新共同訳)と記されています。
夏の果物(カイツ)のスペルは、クフ・ユッド・ツァディで、終わり(ケーツ)のスペルは、クフ・ツァディです。
イスラエルは、裁きの為に主から遣わされたアッシリア軍によって殺される人も多いので、その死体は、非常に多く、至るところに投げ捨てられた状態になるという預言です。この預言の時点では、アッシリア軍かどうかは分からないのですが、預言の成就はアッシリア軍によってでした。

 アモス94-8には、
4 聞け。貧しい者たちを踏みつけ、地で苦しむ者たちを消し去ろうとする者よ。5 あなたがたは言っている。「新月の祭りはいつ終わるのか。私たちは穀物を売りたいのだが。安息日はいつ終わるのか。麦を売りに出したいのだが。エパを小さくし、シェケルを重くし、欺きの秤で欺こう。6 弱い者を金で買い、貧しい者を履き物一足分で買おう。屑麦を売ろう。」7 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はヤコブの誇りにかけて誓われる。「わたしは、彼らのしていることをみな、いつまでも決して忘れない。8 地はこのために震えないだろうか。地に住むすべての者は喪に服さないだろうか。地のすべてのものはナイル川のように持ち上がり、エジプトの大河のように、うねっては沈まないだろうか。”(新改訳2017)とあります。
 46節は、主なる神様よりも、また、人の命よりも、金もうけを優先する商人たちがいたことが述べられています。
そのような悪徳商人たちに対して、主なる神様は、「わたしは、彼らのしていることをみな、いつまでも決して忘れない。」と語られます。
 
 そのような悪徳に対して、主は、8節に記されている事柄を語られました。
8
節の冒頭を新共同訳は、「このために、大地は揺れ動かないだろうか。」と反語で訳しています。
「大地が揺れ動くこと」を文語訳は「地震」と訳しています。
裁きとしての「地震」の意でしょう。
 話は飛びますが、黙示録にも大患難時代の僅か7年の間に、「地震」の記載が二回(黙示録85119)、「大きな地震」が二回(黙示録6121113)、更には、いまだかつてなかったほどの、大きな強い地震が一回(黙示録1618)記されています。

 黙示録の最初の大きな地震のときには、人々は、これは神のさばきだ、と直感するのです。
その箇所には、
12 また私〔使徒ヨハネ(筆者挿入)〕は見た。子羊〔主キリスト・イエス(筆者挿入)〕が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。太陽は毛織りの粗布のように黒くなり、月の全面が血〔恐らく「血の色」(筆者挿入)〕のようになった。13 そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが大風に揺さぶられて、青い実を落とすようであった〔数多くの隕石が落ちてくるのでしょう(筆者挿入)〕。14 天は、巻物が巻かれるように消えてなくなり〔星々が見えなくなるような大気の状態となるのでしょう(筆者挿入)〕、すべての山と島は、かつてあった場所から移された〔天変地異です(筆者挿入)〕。15 地の王たち、高官たち、千人隊長たち、金持ちたち、力ある者たち、すべての奴隷と自由人が、洞穴と山の岩間に身を隠した。16 そして、山々や岩に向かって言った。「私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。17 神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」”(黙示録6章・新改訳2017)と記されています。

 また、イザヤは地震と裁きが関係するという預言として、イザヤ24章に、「19 地は割れに割れ、地は破れに破れ、地は揺れに揺れる。20 地は酔いどれのようによろめき、仮小屋のように揺れ動く。地の背き〔そむきの罪(新改訳第三版)、「背き」とはまことの神に対する背き、まことの神の教えに対する背きということでしょう(筆者挿入)〕はその上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない。」(新改訳2017)と記しています。
主は救い主であると共にさばき主です。恵みの時代(教会時代)は救い主です。裁きは教会が地上から取り上げられた後に起こります。現在の様々な災いは、警告です。警告は主の裁きよりもずっと軽いのです(黙示録6-19章参照)。

 話を元に戻します。
8
節の後半をリビングバイブルは、「この地は〔イスラエルは(筆者挿入)〕、増水したナイル川のように盛り上がり、激しく揺れ動き、再び沈む。」と訳しています。

 913節には、イスラエル(北イスラエル)の終わりの日{9節に「日」は単数形(ヨーム)11節は複数形で、日々(ヨミーム)}の預言が以下のように述べられています。
9 その日〔単数形(筆者挿入)〕には、──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くする。10 あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたの歌をすべて哀歌に変える。すべての腰に粗布をまとわせ、頭を剃らせる。その時をひとり子を失ったときの喪のように、その終わりを苦渋の日のようにする。11 見よ、その時代〔ヨミーム(筆者挿入)〕が来る。──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばを聞くことの飢饉である。12 彼らは海から海へと、北から東へとさまよい歩く。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばを探し求めて行き巡る。しかし、それを見出すことはない。13 その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。14 彼らは、サマリアの罪過にかけてこう誓う。『ダンよ、あなたの神は生きている。』『ベエル・シェバの道は生きている。』しかし、彼らは倒れて二度と起き上がれない。」”(新改訳2017)と記されています。

 9節には、「その日〔単数形(筆者挿入)〕には、──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くする。」とあります。
この預言を、「日食」と捉える人もいますが、私は、敵の大軍の攻撃による土ぼこりによって暗くなったということ、or又は&、厚い雲にさえぎられて暗くなるということ、なのではないかと思います。新共同訳スタディー版の注によると、「B.C.784年とB.C.763年に日食があった」とありますが、それらの年は、イスラエルの終わりの日(B.C.722年)に合致しませんし、また御言葉の飢饉も起きていませんでした。何故なら主(ヤハウェ)の預言者が遣わされていた時代だからです。

 14節を新共同訳は、“サマリアの罪にかけて誓う者ども。「ダンよ、お前の神は生きている。
ベエル・シェバよ、お前の愛する者は生きている」と言う者どもは、倒れて再び立ち上がることはない。”と訳しています。
この節は、偶像礼拝者は滅ぼされる、という預言です。
 リビングバイブルは、「サマリヤ、ダン、ベエル・シェバの偶像を拝む者は倒れて、二度と起き上がらない。」と意訳しています。

 アモス81-3を読んだとき、私は、今の時代のことを思いました。
今の時代も、主が与えてくださっておられる終末の預言が、次々と成就しつつあることを覚えます。
今日は、聖書から二か所を取り上げます。
2テモテ31-7には、
1 終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。2 そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒瀆(ぼうとく)し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。3 また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者になり、4 人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になり、5 見かけは敬虔であっても〔神を敬っているようであっても(筆者挿入)〕、敬虔の力〔神の御言葉を信じる信仰の結果もたらされる神の力(筆者挿入)〕を否定する者になります。こういう人たちを避けなさい。6 彼らの中には、家々に入り込み、愚かな女たちをたぶらかしている者たちがいます。その女たちは様々な欲望に引き回されて罪に罪を重ね、7 いつも学んでいるのに、いつになっても真理を知ることができません〔{主キリスト・イエス様に立ち返っていないから(2コリント316参照)}(筆者挿入)〕”(新改訳2017)と記されています。
②ルカ218-11には、
8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れて、『私こそ、その者だ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人たちの後について行ってはいけません。9 戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」10 それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に国は国に敵対して立ち上がり、11 大きな地震があり、方々に飢饉疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。”(新改訳2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたは、予め、この世の終わりがどのようになるのかを教えてくださり、警告を発しておられますから、御名を崇めて感謝します。
何時、神のラッパが鳴り、主イエス様が御迎えに来てくださっても良いように、いつも主と共に歩む者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年4月28日 (火)

アモス7:10―17 ベテルの祭司アマツヤによるアモスへの脅迫とアマツヤ家への主のことば/携挙

 アモス1010.11には、
10 ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った。「アモスは、イスラエルの家のただ中で、あなたに謀反を企てています。この国は彼のどのことばも受け入れることができません。11 アモスはこう言っています。『ヤロブアムは剣で死に、イスラエルはその土地から必ず捕らえられて行く。』」”(新改訳2017)とあります。

 「ベテルの祭司アマツヤ」とありますが、先ず「ベテルの祭司」の由来について復習したいと思います。1列王記12章には、
25 ヤロブアム〔ヤロブアム一世、北王国の創始者、治世はB.C.931-910年(筆者挿入)〕はエフライムの山地にシェケムを築き直し、そこに住んだ。さらに、彼はそこから出て、ペヌエルを築き直した。26 ヤロブアムは心に思った。「今のままなら、この王国はダビデの家に帰るだろう。27 この民が、エルサレムにある主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の宮でいけにえを献げるために上ることになっているなら、この民の心は彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、彼らは私を殺して、ユダの王レハブアム〔ユダ王国(南イスラエル)の王、治世はB.C.931-913年(筆者挿入)〕のもとに帰るだろう。」28 そこで王は相談して金の子牛〔偶像、出エジプト32章を参照(筆者挿入)〕を二つ造り、彼らに言った。「もうエルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上った、あなたの神々がおられる。」29 それから彼は一つをベテルに据え、もう一つをダンに置いた。30 このことは罪となった〔ヤロブアムの罪(筆者挿入)〕。民はこの一つを礼拝するためダンまで行った。31 それから彼は高き所の宮を造り、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。32 そのうえ、ヤロブアムはユダにある祭りに倣って、祭りの日を第八の月の十五日〔仮庵の祭の一ヶ月後(筆者挿入)〕と定め、祭壇でささげ物を献げた。こうして彼は、ベテルで自分が造った子牛にいけにえを献げた。また、彼が造った高き所〔ヤロブアムが造った宮(筆者挿入)〕の祭司たちをベテルに常駐させた。33 彼は、自分で勝手に考え出した月である第八の月の十五日に、ベテルに造った祭壇でいけにえを献げた。このように、彼はイスラエルの人々のために祭りの日を定め、祭壇でいけにえを献げ、香をたいた。”(新改訳2017)と記されています。

 ヤロブアム一世は、主(ヤハウェ)が定めた聖所ではなく、自分勝手に造った礼拝所、それも金の子牛を置いた礼拝所で、北イスラエル10部族の民に主を礼拝させました。即ちイスラエルの民たちに偶像礼拝をさせたのです。この罪が如何に大きいものであったかは、出エジプト32章を読めば分かります。
この聖所に仕える祭司も、主が定めた祭司ではなく、王が勝手に任命した人たちでした。
ベテルとダンに置いた金の子牛礼拝を「ヤロブアムの罪」と表現している箇所が列王記(1,2)には9回出てきます。

 「ベテルの祭司アマツヤ」は、レビ族でもなく、まして祭司アロンの家系の者でもない、金の子牛に仕える祭司です。

 祭司アマツヤは、アモツの預言を聞いたのです。
それも誤解して聞いた部分がありました。
 アモツの預言でアモツ78.9に記されている内容は、
8 ・・・。見よ。わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は下げ振りを、わたしの民イスラエルの真ん中に垂れ下げる。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。9 イサクの高き所は荒らされ、イスラエルの聖所は廃墟となる。わたしは剣をもって、ヤロブアムの家に向かって立ち上がる。」(新改訳2017)というものです。

 祭司アマツヤは、時の王ヤロブアム二世(治世B.C.783-743年)に、アモツが次のように預言していると報告しました。その内容は、「10 アモスは、イスラエルの家のただ中で、あなたに謀反を企てています。この国は彼のどのことばも受け入れることができません。11 アモスはこう言っています。『ヤロブアムは剣で死に、イスラエルはその土地から必ず捕らえられて行く。』」(新改訳2017)というものでした。
「ヤロブアムは剣で死に」と言っていますが、アモスはそのようには言いませんでした。
(アモスはこのように訴えられましたが、聖書には、ヤロブアム二世がアモスを殺したという記事はありません)

 祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアム二世に、アモスのことを報告した後、次のようにアモスを脅迫しました。それは、アモス712.13に、
12 アマツヤはアモスに言った。「先見者よ。さあ、ユダの地へ逃げるがよい。そこでパンを食べ、その地で預言するがよい。13 ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の宮だからだ。」”(新改訳2017)と記されています。
 
 この箇所から、アモスは、金の子牛の祭壇のあるベテルで預言していたことが分かります。
ですから、ベテルに礼拝にくるイスラエルの民は、アモスの預言の言葉を聞いたでしょう。
それ故、ベテルに礼拝しに行く人たちは減少していったかも知れません。そうなれば、祭司アマツヤにとっては痛手です。

 アモスは、祭司アマツヤの脅迫に対して、先ず、召命の証を述べています。14.15節には、
14 アモスはアマツヤに答えた。「私は預言者ではなかったし、預言者の仲間でもなかった。私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。15 しかし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、群れの世話をしていたところから私を取り、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私にこう言われた。『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ』と。”(新改訳2017)と記されています。

 「いちじく桑の木」というのは、いちじくの木ではありません。
食用のいちじくの実をならすのはいちじくの木で、ザアカイの登った木はいちじく桑の木です。
いちじく桑の木について、注解付新改訳聖書の注は、「家具の材料に用いられた」と述べています。
 アモスは、「私は預言者ではなかったし、預言者の仲間でもなかった。」とあります。
アモスは、牧者(羊飼い、ヤギも飼っていたかもしれませんが)であり、いちじく桑の木を栽培している人でした。聖書を読んでいると、預言者たちの集団に関する記事がよく出てきますが、アモスは預言者たちの集団に属していたわけではありませんでした。しかし主がアモスを用いたということは、主(ヤハウェ)なる神様と良い関係を持っていた人であり、主の御言葉を聞くことの出来た人なのだろうと思います。
今の時代で言えば、フルタイムの献身者ではないけれども、主のみ声をよく聞くことの出来る人、主に素直に従える人であった、ということになると思います。
エゼキエルは、よく「我が主、主は、」(アドナイ・ヤハウェ)と語っていました。同じようなことをアモスにも見ることが出来るように思います。
現代でいえば、「アドナイ・イェシュア」、即ち、「我が主イエス様」ということになり、主イエス様と非常に親しい関係、密なる交わりを持っている、ということになるのだろうと思います。

 アモスは自分の証を終えた後、強迫してきた祭司アマツヤに対して、主から与えられたアマツヤに対する預言を語りました。16.17節には、
16 今、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばを聞け。あなたは『イスラエルに向かって預言するな。イサクの家に向かって戯言を言うな』と言っている。17 それゆえ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる。『あなたの妻は町で遊女となり〔殺されないけれども売春婦になるのです(筆者挿入)〕、あなたの息子、娘たちは剣に倒れ〔息子と娘はアッシリア軍に殺されるということでしょう(筆者挿入)〕、あなたの土地は測り縄で分割される〔アマツヤの土地はほかの人たちのものになるのでしょう(筆者挿入)〕。あなたは汚れた土地で死〔アマツヤは捕囚となって他国で死ぬということでしょう(筆者挿入)〕に、イスラエルはその土地から必ず捕らえられて行く〔アッシリア軍によって殺されなかった人達の多くは、他の土地に連れて行かれるというのです(筆者挿入)〕。』」”(新改訳2017)と記されています。

 新共同訳スタディー版の注には、「B.C.722年、アッシリアはイスラエルに侵攻してサマリアを陥落させ、財宝を略奪した。B.C.720年には多くの人々を連れ去った」と記されています。

 「連れ去さられる」と言うと、嫌なイメージが付きまといますが、主が迎えに来てくださることを待ち望んでいるキリスト者は、主によって、「天に連れ去られるのです。」
「携挙」とは、一瞬の内に、主に、天へ、連れ去られることです。
携挙の前に、神のラッパが鳴ります。
ラッパが鳴ると、主を待ち望んでいるキリスト者の体は、一瞬にして霊の体に変えられます。
主が私たちを連れ去るという時に使われている、「連れ去る」はギリシア語で「ハルパゾー」で、catch (up)です。主がcatch up(掴み上げる)のですから、寝ていても、おしゃべりしていても、食事をしていても、何をしていても大丈夫です。
主イエス様は、天に私たちを連れて行ってくださるのです。
ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
御父のラッパが鳴ると、私たちの肉体は、一瞬にして霊の体に変えられ、その後、天地万物を保持する力を持つイエス様が、これまた一瞬の内に天に引き上げてくださいますからありがとうございます。
連れ去られる、と言っても、イエス様に連れ去られることは大歓迎です。
待ち望んでいます。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1コリント1552)「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(新改訳2017
1テサロニケ416.17)「号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(新改訳2017

2020年4月27日 (月)

アモス7:1―9 イスラエルへの裁きの幻とアモスのとりなしの祈り/新天新地を仰ぎ見て

 アモス71-3には、
1 神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕は私に示された。見よ。王が刈り取った後の二番草が生え始めたころ、主はいなごを備えられた。2 そのいなごが地の青草を食い尽くそうとしたとき、私は言った。「神、主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕よ。どうかお赦しください。ヤコブはどうして生き残れるでしょう。彼は小さいのです。」3 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこれを思い直された。そして「そのことは起こらない」と主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われた。”(新改訳2017)とあります。

 1節の「神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕は私に示された。」の中にある「私に示された」の直訳は、「私に見せた」です。
主(ヤハウェ)なる神様がアモスに幻を見せたのです。
1
9節は、その幻の中での主なる神様とのやり取りです。

 余談になりますが、
主は、預言者によく幻や夢を見させました。
エゼキエルも多くの幻を与えられた預言者でした。
 民数記125-8には、
5 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は雲の柱の中にあって降りて来られ、天幕の入り口に立って、アロンとミリアムを呼ばれた。二人が出て行くと、6 主は言われた。「聞け、わたしのことばを。もし、あなたがたの間に預言者がいるなら、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕であるわたしは、幻の中でその人にわたし自身を知らせ、夢の中でその人と語る。7 だがわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者。8 彼とは、わたしは口と口で語り、明らかに語って、謎では話さない。彼は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の姿を仰ぎ見ている。なぜあなたがたは、わたしのしもべ、モーセを恐れず、非難するのか。」9 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。”(新改訳2017)という、嫉妬のゆえに正義をかざしてモーセを非難した〔民数記121.2(筆者挿入)〕姉のミリアムと兄のアロンに対する主の御言葉が記されています。
この叱責のお言葉の中に、「あなたがたの間に預言者がいるなら、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕であるわたしは、幻の中でその人にわたし自身を知らせ、夢の中でその人と語る。」と出てきます。

 さて、本題に戻ります。
1
節後半には、「見よ。王が刈り取った後の二番草が生え始めたころ、主はいなごを備えられた。」とあります。
 「王が刈り取った後の二番草」について。
「草」とありますが、これは小麦や牧草のことであろうと思われます。
「王が刈り取った」というのは、王が刈り取りに来たということではなく、年貢のことです。この時代、最初に取れた方を年貢として出し、二番目に取れたものを自分たちの分としたのであろうということが分かります。イスラエルには、先の雨と後の雨という表現があります。先の雨とは秋の雨、後の雨とは春の雨のことで、その最初の収穫物を王様に取られたのです。

 1節後半から2節の冒頭には、「王が刈り取った後の二番草が生え始めたころ、主はいなごを備えられた。そのいなごが地の青草を食い尽くそうとした・・」とあります。
主によるいなごの裁きです。
このさばきで、最初に被害を受けるのは一般庶民です。
預言者アモスは、すぐに主(ヤハウェ)に、「神、主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕よ。どうかお赦しください。ヤコブはどうして生き残れるでしょう。彼は小さいのです。」と、とりなしの祈りをしました。
リビングバイブルはとりなしの部分を、「神、主よ。どうか、あなたの民をおゆるし下さい。このような災いに会わせないでください。神がイスラエルに立ち向かったら、ひとたまりもありません。イスラエルはこんなに小さいのです。」と意訳しています。
 主はアモスのとりなしの祈りを受け入れてくれました。
3
節には、「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこれを思い直された。そして『そのことは起こらない』と主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われた。」と記されています。
 私たちのとりなしの祈りの重要性を覚えますが、それ以上に、イエス様が天において御父の右におられ、私たちのためにとりなしてくださっておられるという有難さを覚えます。
ローマ834には、「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」(新改訳2017)と記されています。

 アモス74-6には、
4 神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕は私に示された。見よ、神〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕である主は、責める火を呼ばれた。火は大いなる淵を呑み込み、割り当て地を焼き尽くそうとしていた。5 私は言った。「神、主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕よ。どうかおやめください。ヤコブはどうして生き残れるでしょう。彼は小さいのです。」6 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこれを思い直された。そして「そのことも起こらない」と神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われた。”(新改訳2017)とあります。

 次の裁きの幻は、全土を焼き尽くす火による裁きでした。
4
節には、「・・・。見よ、神〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕である主は、責める火を呼ばれた。火は大いなる淵〔地下水のあるところ(筆者挿入)〕を呑み込み、割り当て地を焼き尽くそうとしていた。」とあります。
 「大いなる淵」というのを聖書から探し、分かり易いと思える箇所は、ノアの時代の大洪水の箇所です。
創世記711には、「ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、大いなる淵の源がことごとく裂け、天の水門が開かれた。」(新改訳2017)と記され、大洪水の原因に地下水が一役買っていたことが分かります。
 極度の乾燥状態が続いた後の山火事がなかなか消えないことを私たちはニュースで見ることがあります。
この箇所は、主が、イスラエルに雨を降らさず、からからに乾燥させた上で火を放つというのでしょうか、よく分かりませんが、兎に角、地下水も蒸発してしまうほどの火で、イスラエル全土を焼き尽くしていくという災害の幻です。

 この幻の時も、アモスのとりなしによって、主は、火による裁きを中止することにしました。
5.6
節には、“5 私〔アモス(筆者挿入)〕は言った。「神、主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕よ。どうかおやめください。ヤコブはどうして生き残れるでしょう。彼は小さいのです。」6 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこれを思い直された。そして「そのことも起こらない」と神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われた。”(新改訳2017)と記されています。

 アモス77-9には、
7 主は私に示された。見よ。主は下げ振り〔垂直かどうかを調べる道具(筆者挿入)〕を手に持って、下げ振りを使って築かれた城壁の上に立っておられた。8 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私に言われた。「アモス、何を見ているのか。」私が「下げ振りです」と言うと、主は言われた。「見よ。わたしは下げ振りを、わたしの民イスラエルの真ん中〔イスラエルの支配層のことだろうと思います(筆者挿入)〕に垂れ下げる。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。9 イサク〔ここでは北イスラエル王国を指していると思います(筆者挿入)〕の高き所〔偶像が安置された礼拝所(筆者挿入)〕は荒らされ、イスラエルの聖所〔偶像礼拝をし、主を礼拝もした聖所(筆者挿入)〕は廃墟となる。わたしは剣をもって、ヤロブアムの家に向かって立ち上がる。」”(新改訳2017)とあります。

 この幻は、北イスラエルの王家、即ちヤロブアムの家に剣による裁きを下す、というものでした。
恐らくアモスの預言後、約40年、ヤロブアム二世の死後約30年で北イスラエル王国の首都サマリアは陥落し、殺されなかった人たちの多くは捕虜として連れて行かれたのです。

 新生したキリスト者に与えられている主の約束は何でしょうか?
それは、刑罰を受けることではなく、主と、とこしえに幸いな日々を送るということです。

 主は、私たちの代表として、使徒ヨハネに幻を見せられました。
1 また私〔ヨハネ(筆者挿入)〕は、新しい天と新しい地を見た〔これはキリストの千年王国の後のことです(筆者挿入)〕。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」5 すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」”(新改訳2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
コロサイ31には、「あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。」と命じられています。
上にあるものを望み見ながら歩ませて頂ける幸いを感謝します。
地上に置かれている間、あなたから与えられた使命を全うしていくことができますように。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年4月26日 (日)

アモス6:4―14 主なる神様から離れ豊かさを謳歌したイスラエルへの裁き/主に感謝する歩み

 アモス64-7には、
4 象牙の寝台に横たわり長椅子でからだを伸ばし、群れのうちから子羊を、牛舎の中から子牛を取って食べている者、5 琴の音にのせて即興の歌を作り、ダビデに倣って自分たちの楽器を考え出す者。6 彼らは鉢から酒を飲み、最上の香油を身に塗り、ヨセフの破滅のことで嘆き悲しむことがない。7 それゆえ、今、彼らは最初の捕囚の民として引いて行かれる。大の字になった者どもの、弔いの酒宴は除かれる。”(新改訳2017)とあります。 

 4節の「象牙の寝台に横たわり」から、6節の「最上の香油を身に塗り」というところまでは、主が遣わした預言者たちの言葉に耳を傾けることもなく豊かさを謳歌しているイスラエルの富豪たちの生活が描き出されています。
預言者が、その人たちに、主(ヤハウェ)に立ち返らないとイスラエルは裁かれ滅びる、といくら語っても聞く耳を持たず、また預言者の言葉を信じませんから、ヨセフの破滅のことで嘆き悲しむこともないのです。

 そのような人達はどのような結末を迎えると預言され、また事実そのようになったのでしょうか。
それは7節に預言されています。7節を聖書協会共同訳は、「それゆえ、今や彼らは捕囚の列の先頭を行く。寝そべる者たちの酒宴も終わる。」と訳しています。

 イスラエルの首都サマリアの富豪の妻たちに対する預言は、アモス41-3に、
1 このことばを聞け。サマリアの山にいるバシャンの雌牛ども〔サマリアの富豪の妻たち(筆者挿入)〕よ。おまえたちは弱い者を虐げ、貧しい者を迫害し、自分の主人〔夫(筆者挿入)〕に「何か持って来て、飲ませよ」と言っている。2 神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕は、ご自分の聖にかけて誓われる。「見よ、その時代〔裁きの時(筆者挿入)〕がおまえたちに来る。おまえたちは釣り針にかけて引き上げられる。最後の一人までが、銛で突かれる。3 おまえたちは、城壁の破れ口からそれぞれまっすぐに出て行き、ハルモンに放り出される。──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば。”(新改訳2017)と記されていました。(420日のブログの箇所です)
富豪の妻たちも捕虜として連れて行かれたのです。

 アモス68-11
 新改訳2017は、
8 神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕は、ご自分にかけて誓われる。──万軍の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──「わたしはヤコブの誇り〔原語は「ガーオン」で、横柄、傲慢、尊厳、威厳、誇り、自慢、プライド、等々の意があります(筆者挿入)〕を忌み嫌い、その宮殿を憎む。わたしはこの都と、その中のすべての者を引き渡す。」9 たとえ、一つの家に十人が残っても、彼らもまた死ぬ。10 親戚の一人でこれを焼く者が、家から死体を持ち出すためにこれを取り上げ、その家の奥にいる人に向かって言う。「あなたのところには、まだいるか。」彼は言う。「だれもいない。」また言う。「口をつぐめ。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の名を口にするな。」〔主に生きていることを知られたら殺されると思ったのかも知れません(筆者挿入)〕11 まことに、見よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は命じられる。「大きな家を打ち砕き、小さな家を粉々にせよ。」”と訳し、
 リビングバイブルは、
8 全能の主は、ご自分の名にかけて誓います。「わたしはイスラエルの思い上がりと偽りの栄光を嫌い〔私は私に対するイスラエルの高慢を忌み嫌い(筆者挿入)〕、彼らの美しい宮殿を憎む。この町とその中にあるすべての物を敵の手に渡す。」 9 一つの氏族で十人が残ったとしても、彼らもまた死にます。10 親せきの者が葬ることになり、死体を家から運び出す時、家の中に一人だけ生き残っている者に、「ほかに残っている者がいるか」と聞くと、「いない」という答えが帰ってきます。すると、「しーっ。声を出すな。主の名を口にするな。おまえの言うことを聞いているかもしれないから」と言うのです。11 主がこのように命じられたからです。大きな氏族も小さな氏族も粉々にせよと。”と意訳しています。

 主はイスラエル(北イスラエル王国)を裁くためにアッシリア軍を派遣しました。
アッシリア軍によって首都サマリアはB.C.722年に陥落し、B.C.720年には多くの人々を連れ去ったのです。

 アモス612
 新改訳2017は、「馬が岩の上を走るだろうか。人がそこを牛で耕すだろうか。しかしあなたがたは、公正を毒に変え、正義の実を苦よもぎに変えた。」と訳し、
 新共同訳は、「馬が岩の上を駆けるだろうか、牛が海を耕すだろうか。お前たちは裁きを毒草に、恵みの業の実を苦よもぎに変えた。」と訳しています。
 聖書協会共同訳は、「馬が岩の上を駆けるだろうか、牛で海を耕すだろうか〔(ヘ)牛で耕すだろうか(欄外注)〕。あなたがたは公正を毒草に、正義の実を苦よもぎに変えた。」と訳しています。
 新改訳2017が「人がそこを牛で耕すだろうか」という箇所を、新共同訳、新改訳第三版、口語訳は「牛が海を耕すだろうか」と訳しています。
この箇所の「牛」と訳されている語の原語は、牛の複数形の「バーカーリーム」というヘブライ語が使われています。これは「牛」の複数形です。「バーカーリーム」の語を二つに分けて、「バーカール」(牛)と「ヤーム」(ヤーム)とすると、一頭の牛と海、となります。
岩波訳の注は、“マソラ本文は「牛の群れで耕すだろうか」となっているが、主語に「人」を補い、本文の校訂者の示唆によって「牛で海を」と読む”と述べて、岩波訳は、「人は牛で海を耕すだろうか。」と訳しています。
尚、「馬」のヘブライ語も複数形で書かれています。ですから、私は新改訳2017の訳で良いのではないかなと思います。馬の群れ、牛の群れ、ということであろうと思います。
細かいことが気になるので調べてみたのです。

 この節の大意は、リビングバイブルが、
“馬は岩の上を走れるでしょうか。牛は海を耕せるでしょうか〔或いは「牛で岩を耕すでしょうか」(筆者挿入)〕。これは聞くだけ愚かなことですが、あなたがたのやっていることより愚かなことはありません。正義をあざけり、良いこと、正しいことを腐敗させ、堕落させているではありませんか。”と意訳しています。

 主(ヤハウェ)なる神様は、ご自身が教えられた律法をあざけり、それと反対のことをするというのは愚かさの極致であると語られているのだと思います。

 13節には、「あなたがたは、ロ・ダバル〔ロ・デバル(口語訳、岩波訳)〕を喜び、こう言う。「私たちは自分たちの力でカルナイムを取ったではないか」と。」(新改訳2017)と記されています。
「ロ・デバル」は地名です(2サムエル94.5)。
「ロ・デバル」について、岩波訳の注は、「ガリラヤ湖の南、東ヨルダンにある地名で、ダン部族の境界にある町として知られていたようである。」と述べています。
「ロ・ダバル」の「ロ」はnotの意で、「ダバル」(ダーバール)は言葉、物質、事柄、・・等の意があります。新共同訳は、この箇所を「お前たちはロ・ダバル(空虚)を喜び、」と訳しています。
ヘブライ語は子音字で単語ができており、それに母音記号を付けて読みますが、母音記号を付け無い文章もあります。そのような文章では、ロ・ダバルもロ・デバルも同じアレフベート(アルファベット)文字の羅列になるのです。
主(ヤハウェ)なる神様は、それを利用して同じ子音字の単語を異なる意味で用いて皮肉を言ったりすることがあるのです。聖書の中には何箇所もあります。

 「カルナイム」について、岩波訳の注は、“「二本の角」の意。東ヨルダンの町で、ロ・デバルと同じようにヤロブアム二世がアラムから奪還した町で、アシュテロト・カルナイム(創世記145)とも呼ばれていた。二本の角を帯びた女神の町で、ロ・デバルと同様に異教に喜悦するイスラエルに対するアモスの痛烈な皮肉が込められていると思われる。”と述べています。
主に対して高ぶっている人にとっては皮肉にも取れますが、主のみ前にへりくだる人にとっては大いなる警告であり、「あー、そうだなー、」と思い、悔い改めるチャンスにもなります。悔い改めに導かれた人にとっては恵みです。
アモスが語っていますが、主(ヤハウェ)なる神様の御言葉です。

 ヤロブアム二世は、ソロモン時代に所有した土地の中から、これまで他国に奪われていった土地を次々と奪還していきました。そしてヤロブアム二世は、「俺は偉大だ」と意気揚々としていたのだと思います。主は、それを「ヤコブの誇り」(8)と述べています。

 実際は、主がイスラエルを憐れんで、奪われた土地を回復してくださったのです。
2
列王記1425-27には、
25 彼〔ヤロブアム二世(筆者挿入)〕は、レボ・ハマテ〔ハマテの入り口。ハマテは現シリアのハマー(筆者挿入)〕からアラバの海〔死海(筆者挿入)〕までイスラエルの領土を回復した。それは、イスラエルの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、そのしもべ、ガテ・ヘフェル出身の預言者、アミタイの子ヨナを通して語られたことばのとおりであった。26 イスラエルの苦しみが非常に激しいのを、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がご覧になったからである。そこには、奴隷も自由な者もいなくなり、イスラエルを助ける者もいなかった。27 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言っておられなかった。それで、ヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われたのである。”(新改訳2017)と記されています。

 ヤロブアム二世は、主に栄光を帰すことなく、すべてを自分の手柄とし、おごり高ぶったのだろうと思います。
 13節をリビングバイブルは、相当意訳して、「また、無に等しい者なのに、愚かにも、偉い者であるかのように喜びます。ちっぽけな力をたいそう自慢しています。」と記しています。

 それに対する主の処罰が、アモス614に、「しかし、イスラエルの家よ、今わたしは、あなたがたに敵対する一つの国を起こす。──万軍の神、主のことば──彼らはレボ・ハマテからアラバの水無し川まで、あなたがたを虐げる。」(新改訳2017)と預言されています。
北イスラエル王国全土をアッシリア軍が踏みにじるという預言です。

 イスラエルは、主によって救われたのです。
霊的に盲目になっていたイスラエルの人たちには、それがわかりませんでした。

 現代の教会にも、色々な事柄で困難を抱えた人が来ます。
その人たちが主に祈り、主が助けてくださって、苦難から解放されると、中には教会を去って行く人がいます。そして、その苦難からの解放も、主がしてくださったとは思わなくなります。良いことは、自分が頑張ったから、自分が優れていたから、とすり替えてしまうようなことまで起こります。
そのような在り方は災いを招くかも知れないということを今日の箇所は教えてくれているような気がします。
すべてのことを主に感謝して歩む人達は幸いです(1テサロニケ518)。人が不幸と思えることでさえ、主は益にしてくださるからです(ローマ828)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
聖書を通して、あなたは、「すべてのことを感謝しなさい」と教えてくださいました。
物事を深く霊的に捉えて、すべてのことを感謝しつつ歩む生涯を送ることができますよう祝福してください。
我が主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2020年4月25日 (土)

アモス6:1―3 おごれる者久しからず/主に対して謙遜であることの重要性

 アモス61.2を、
 新改訳2017は、「1 わざわいだ。シオンで安逸を貪る者、サマリアの山に信頼している者。イスラエルの家が頼って行く、国々の最高の首長たち。2 カルネに渡って行って見よ。そこから大ハマテに行け。またペリシテ人のガテに下って行け。あなたがたはこれらの王国よりすぐれているのか。彼らの領土はあなたがたの領土より大きいのか。」と訳しています。

 1節前半には、「わざわいだ。シオンで安逸を貪る者、サマリアの山に信頼している者。」とありますから、シオン(エルサレム)を首都とする南イスラエル(ユダ王国)とサマリアを首都とする北イスラエル王国の両方に対して、「わざわいだ」(新改訳2017)、「災いあれ」(聖書協会共同訳)とアモスは預言しています。
「サマリアの山に信頼している者」とありますが、サマリアの山は軍事的要害でした。
「シオン」、エルサレムは、主(ヤハウェ)の神殿があることと、この地も一応要害であり、城壁に囲まれていました。

 アモスが預言した年代は、アモス11に、「テコアの牧者の一人であったアモスの言葉。それは、ユダの王ウジヤとイスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて示されたものである。」(新共同訳)とあるように、ユダ王国(南イスラエル)の王ウジヤ、イスラエル(北イスラエル)の王ヤロブアム二世の時代でした。
この二人の王は、この世的には優秀な王と見られていました。

 ユダの王ウジヤについて、2歴代誌26章は、
6 彼〔ウジヤ(筆者挿入)〕は出陣してペリシテ人と戦い、ガテの城壁、ヤブネの城壁、アシュドデの城壁を打ち壊し、アシュドデをはじめとするペリシテ人の領土に町々を建てた。7 神は彼を助けて、ペリシテ人、グル・バアルに住むアラビア人、メウニム人に立ち向かわせられた。8 アンモン人はウジヤのもとに貢ぎ物を納めた。こうして、彼の名はエジプトの境にまで届いた。その勢力がこの上なく強くなったからである。”(新改訳2017)と記しています。

 ヤロブアム二世について、2列王記14章は、
23 ユダの王ヨアシュの子アマツヤの第十五年に、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアム〔ヤロブアム二世(筆者挿入)〕が王となり、サマリアで四十一年間、王であった/
25
彼は、レボ・ハマテからアラバの海〔「死海」のこと(筆者挿入)〕までイスラエルの領土を回復した。/
28
ヤロブアムについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、彼が戦いであげた功績、すなわち、かつてユダのものであったダマスコとハマテをイスラエルに取り戻したこと、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。”(新改訳2017)と記しています。
「ダマスコ」は現シリアのダマスカス、「レボ・ハマト」はダマスコの北方約192kmの町です。
「かつてユダのものであったダマスコとハマテをイスラエルに取り戻した」とあります。
「ユダのものであった」という記述は、ユダ族出身のイスラエルの王ソロモンの時代には、ソロモンが、ダマスコもハマテも支配していたのです(1列王記865)。

 南北イスラエルの二人の王は、意気揚々としていたことでしょう。
その時代、アモスは、「災いあれ、シオンに安住し、サマリアの山を頼みとする者」(聖書協会共同訳)と語ったのです。
主(ヤハウェ)が勇気を与えてくれなければ、とても預言できないと思います。
預言したとしても、こいつは何を言ってるのだ、ということになっていたのではないかと思います。南北イスラエルは繁栄していたのですから。

 アモス61の後半部分を、
 新改訳2017は、「イスラエルの家が頼って行く、国々の最高の首長たち。」と訳し、
 文語訳は、「諸(もろもろ)の國にて勝(すぐ)れたる國の中なる聞え高くしてイスラエルの家に就きしたがはるる者」と訳し、
 新共同訳は、「諸国民の頭である国に君臨し、イスラエルの家は彼らに従っている。」と訳し、
 岩波訳は、「諸々の国民に君臨する貴族たち、彼らはイスラエルの家に入り込んでいる。」と訳しています。
 前述した列王記の歴史的記述より考えると、イスラエルの王ヤロブアム二世は近隣諸国との戦いに勝利したのですから、その時代の預言者アモスは、「サマリアは、諸国の君主たちの上に君臨し、イスラエルの民はサマリアにいる王とその側近たちに従っている」ということを言いたかったのではないかと、私は思います。しかし、イスラエルの王たちに対し、いい気になっているけれども「災いだ」と述べたのであろうと思います。

 2節には、「カルネに渡って行って見よ。そこから大ハマテに行け。またペリシテ人のガテに下って行け。あなたがたはこれらの王国よりすぐれているのか。彼らの領土はあなたがたの領土より大きいのか。」とあります。
 「あなたがたはこれらの王国よりすぐれているのか」(新共同訳)とあります。
「あなたがた」ですから南北イスラエル即ちユダ王国とイスラエル王国の二人の王ウジヤとヤロブアム二世を指していると思います。二人の領土は、カルネ(シリア北部の町)、大ハマテ、ガテよりも大きかったのです。ですから、この言葉は、イスラエルを皮肉っているのでしょう。或いは、「大きい」と答えれば、それは何故なのか、と主は問われるでしょう。

 実は、イスラエルが勝利できたのは、主(ヤハウェ)の故であったのです。
イスラエルの二人の王が、恐らく、「自分の力だ」と思っていたゆえに語られた言葉ではないかと思います。

 2歴代誌264.5は、主(ヤハウェ)がウジヤ栄えさせた理由を、「4 彼〔ウジヤ(筆者挿入)〕は、すべて父アマツヤが行ったとおりに、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の目にかなうことを行った。5 神を認めることを教えたゼカリヤが生きていた間、彼は神を求めた。また彼〔ウジヤ(筆者挿入)〕が主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を求めていた間、神は彼を栄えるようにされた。」(新改訳2017)と記されています。

 2列王記14章には、主(ヤハウェ)がヤロブアム二世に勝利を与えられた理由が、「26 イスラエルの苦しみが非常に激しいのを、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がご覧になったからである。そこには、奴隷も自由な者もいなくなり、イスラエルを助ける者もいなかった。27 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言っておられなかった。それで、ヨアシュの子ヤロブアム〔ヤロブアム二世(筆者挿入)〕によって彼ら〔イスラエル(筆者挿入)〕を救われたのである。」(新改訳2017)と記されています。
 イスラエルは主(ヤハウェ)の憐れみによって領土を回復したのです。それに用いられたリーダーがヤロブアム二世であったのです。ヤロブアム二世の場合は、ヤロブアム二世が主に立ち返ったからというわけではありませんでした。2列王記1424には、「彼〔ヤロブアム二世(筆者挿入)〕は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアム〔ヤロブアム一世(筆者挿入)〕のすべての罪から離れなかった。」(新改訳2017)と記されています。

 栄えているように見えても、その理由は色々です。
この二人の場合は、どちらもいい気になってしまったのです。
いつも、主に目を留めていないと、主のみ旨を求めていないと、すべての栄光を主に帰していないと恐ろしいことになるのです。

ダビデは、「1力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。2 御名の栄光を主に帰せよ。聖なる装いをして主にひれ伏せ。」(詩篇29篇・新改訳2017)と歌いました。

驕る者はさばかれるのです。
主に対して高ぶる者はさばかれるのです。
箴言には、「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」(新改訳2017)と記されています。
これは対人的にも真実ですが、対神的には極めて大切なことです。
主なる神様に対する高慢は、必ず裁かれます。主なる神様のみ前にへりくだる者は祝福を受けます。

 続くアモス63には、「あなたがたは、わざわいの日を遠ざけているつもりで、暴虐の時代を近づけている。」(新改訳2017)と記されています。
リビングバイブルは、3節を、「あなたがたは、迫っている罰を考えようとしません。しかし、その行ないによって、さばきの日は近くなっているのです。」と意訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
いつもあなたに対してへりくだり、あなたを愛して、あなたに従う者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年4月24日 (金)

アモス5:18-27 偶像礼拝と主の裁き/主を信じる者にとっての主の日は救いの日

 アモス521-26には、イスラエルの神信仰、神礼拝について、主(ヤハウェ)は、
21 「わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときの香りも、わたしはかぎたくない。22 たとえ、あなたがたが、全焼のささげ物や穀物のささげ物をわたしに献げても、わたしはこれらを受け入れない。肥えた家畜の交わりのいけにえを献げても、わたしは目を留めない。23 あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。あなたがたの琴の音を、わたしは聞きたくない。24 公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。25 イスラエルの家よ。あなたがたは荒野にいた四十年の間に、いけにえとささげ物を、わたしのところに携えて来たことがあったか。26 あなたがたは自分たちの王シクテと自分たちの像キユン、自分たちのために造った神々の星を担いで来た。”(新改訳2017)と語られました。

 21節の「祭」とは、過越の祭(ヘブライ語では「ペサハ」)、七週の祭{ヘブライ語では「シャブオット」。七週の祭は、刈り入れの祭(ハグ・ハカツィール)とも初穂の祭(ハグ・ハビクリーム)とも呼ばれます。}、仮庵の祭(ヘブライ語では「スコット」)という三大祭り(申命記1616)のことです。
 
 余談になりますが、
過越の祭に関連して、マタイ2617には、“さて、種なしパンの祭りの最初の日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、どこに用意をしましょうか。」”(新改訳2017)と記されています。
この箇所をリビングバイブルは、“過越の祭りの日、すなわちイースト菌を入れないパンの祭りの最初の日に、弟子たちが来て、イエスに尋ねました。「先生。過越の食事は、どこですればよろしいでしょうか。」”と意訳しています。
 「過越の祭り」は、厳密に言うと、「過越の祭り」+「種を入れないパンの祭り」となり、8日間続く祭りの初日だけ、ニサンの月の14日の日没から15日の日没までを「過越の祭り」と言い、ニサンの月の15日の日没後から21日までの7日間を「種を入れないパンの祭り」と言います。
この8日間のすべてを過越の祭とも言い、また、種なしパンの祭(申命記1616、マタイ2617)とも言います。
 さらに脱線しますが、過越はキリストの十字架による贖いを象徴し、7は完全数であり、種の入っていないパンはイエス・キリスト様を象徴しているのであろうと思います。
即ち、イエス・キリスト様によって贖われた者は、復活のキリスト様を内にいただいて、贖われた後の生涯をキリストにあって歩みなさい、ということを主は述べているのだろうと思います。
 パウロは、「19 私〔新生する前の私(筆者挿入)〕は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私〔新生する前の私(筆者挿入)〕はキリストとともに十字架につけられました〔ガラテヤ524参照(筆者挿入)〕。20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私〔新生後の私即ち霊(筆者挿入)〕が肉において〔肉体の中で(筆者挿入)〕生きているいのち〔新生した霊の命(筆者挿入)〕は、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰〔神の子の真実(聖書協会共同訳)、神の御子の信仰or神の御子の実体{ギリシア語のピスティス(信仰、真実)の定義であるヘブル111のギリシア語聖書、KJV参照。或いは1コリント617で頷けるかもしれません}(筆者挿入)〕によるのです。」(ガラテヤ2章・新改訳2017)と証ししました。
理屈に関係なく、これは自分の霊的体験です、と言われる方もおられるでしょう。
キリストと一つ霊となった(1コリント617)霊によって生きる「霊の人」(1コリント21531・新共同訳、口語訳、聖書協会共同訳)の証です。

 話を元に戻します。
「きよめの集会のときの香り」とは、神を礼拝するための集会における薫香をたいた香りです。
「香」とは、黙示録58の解説によると、「聖徒たちの祈り」である、とあります。

 アモス521-23は、旧約時代の礼拝です。
新約時代にあてはめると、礼拝、その中での祈り、賛美(23)等に言及されていることになります。
これを受け入れない、と主(ヤハウェ)なる神様は言われるのです。
この箇所は、私たちにも示唆を与えてくれます。
礼拝していても、主が受け入れてくれない。
祈っても、主が受け入れてくれない。
と置き換えることが出来ると思います。

 その理由をアモス524-26において、主は、
①義なる歩みをしていない(24
②偶像を心の中に秘めている(25.26
と述べられました。
 
 キリスト者と雖も、主のみ旨から外れること、即ち不義なる言動は、ときにorしばしばあるかも知れません。
しかし、義なる神様は、新契約のゆえに、その不義(罪)を告白すれば、赦しきよめてくださるのです(1ヨハネ19)。義なる神は、契約を破ることが出来ません。
御父と隔たりのない豊かな交わりをもっていつも生活したいと思います。

 本文に戻ります。
 主は、その結果、イスラエルを次のようにさばくと、アモス518-20.27で、
18 ああ。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の日を切に望む者。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の日はあなたがたにとって何になろう。それは闇であって、光ではない。19 人が獅子の前を逃げても、熊が彼に会い、家の中に入っても、手で壁に寄りかかると、蛇が彼にかみつくようなものだ。20 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、そこには輝きはない。/
27
わたしはあなたがたを、ダマスコのかなたへ捕らえ移す──その名が万軍の神である主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が言われる。”(新改訳2017)と語られました。

 「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の日」というのは、主の敵にとっては裁かれる日であり、主に在る者にとっては救われる日です。

 イスラエルが、主の教えに従って歩んでいたら、主の日は敵からの救いの日となったはずでした。
イスラエルの過去の例では、過越の祭の言いつけを守ったイスラエルは救われ、主に敵対したエジプトの上には主の裁きが下ったのです(出エジプト11.12章)。
 キリストの地上再臨という主の日の時にも、その時、主イエス様を信じた者は救われ、主に敵対した者は滅ぼされるのです(ゼカリヤ12-14章)。

 アモスのこの箇所では、不義の内を歩み、主なる神を礼拝するといっても、心の内に偶像を持ち続けているイスラエルに対しての主の日は、裁きの日になるという預言が述べられています。
 キリストの空中再臨の日をキリストの日(1コリント18、ピリピ110)と言いますが、キリストの日も主の日の一つです。キリストの日に携挙された人は大患難から救われます。キリストの日に残された人は大患難時代の主の裁きにあうことになります。
 ある意味、新生したキリスト者が、この世を去るときも同じことが言えるかもしれません。肉体はそのうちに罪を宿しています(ローマ720)から死にます。新生した霊は、神から生まれた霊ですから永遠に死ぬことはありません。新生した霊は肉体から解放されるのです。その時が、この世では人の死、と言われる時です。生殺与奪の権は主が握っています(伝道者31-11)。ですから人の死、キリスト者の召天は、ある意味、個人的な主の日であると思います。霊において天に帰ったキリスト者は、キリストの空中再臨の日に、霊の体を与えられます。この体は栄光ある不死の体です。

 話を本文に戻します。
アモス527の「わたしはあなたがたを、ダマスコのかなたへ捕らえ移す。」というのは、
主がアッシリアを用いて、イスラエル人たちをアッシリアに捕囚とする、ということです。
歴史書である2列王記1723は、「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、そのしもべであるすべての預言者を通して告げられたとおり、ついにイスラエルを御前から除かれた。こうして、イスラエルは自分の土地からアッシリアに引いて行かれた。今日もそのままである。」(新改訳2017)と記しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名が崇められますように。
いつもイエス様を愛し、イエス様に信頼し、イエス様の導きに従って歩み続けることができますように。
あなたのみ旨から外れた言動をした時には、それを教えてくださり、それをあなたに告白し、いつもあなたと豊かな交わりの内に歩み続けることを得させてください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年4月23日 (木)

アモス5:10-17 主を求め、主を信じ、主に従え

 アモス510-17には、
10 彼らは門でさばきをする者を憎み、まっすぐに語る者を忌み嫌う。11 あなたがたは貧しい者を踏みつけ、彼から小作料を取り立てている。それゆえ、切り石の家々を建てても、あなたがたはその中に住めない。麗しいぶどう畑を作っても、そのぶどう酒を飲めない。12 私は、あなたがたの背きが多く、あなたがたの罪が重いことをよく知っている。正しい者を迫害する者、賄賂を受け取る者。彼らは門で、貧しい者を押しのけている。13 それゆえ、このようなときには、賢い者は沈黙を守る。時が悪いからだ。14 善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、ともにいてくださる。15 悪を憎み、善を愛し門で正しいさばきを行え。もしかすると、万軍の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はヨセフの残りの者をあわれんでくださるかもしれない。16 それゆえ、主なる万軍の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる。「すべての広場に嘆きが起こる。すべての通りで、人々は『ああ、ああ』と叫ぶ。農夫を呼んで来て泣かせ、泣き方を心得た者を呼んで来て嘆かせる。17 すべてのぶどう畑に嘆きが起こる。それは、わたしがあなたがたの中を通り過ぎるからだ。──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる。」”(新改訳2017)とあります。

 10節には、「彼らは門でさばきをする者を憎み、まっすぐに語る者を忌み嫌う。」とあります。
「門で裁きをする者」とありますが、町の門で長老たちが裁判を開き判決を下したのです。
悪から離れようとしない人は、正しくさばきをする者を憎み、まっすぐに語る者を忌み嫌うものです。
アモスが預言していた時代のイスラエルの人々には、このような人が多かったのかも知れません。

 11節には、「あなたがたは貧しい者を踏みつけ、彼から小作料〔穀物の貢ぎ物(聖書協会共同訳)〕を取り立てている。それゆえ、切り石の家々を建てても、あなたがたはその中に住めない。麗しいぶどう畑を作っても、そのぶどう酒を飲めない。」とあります。
 「あなたがたは貧しい者を踏みつけ」と記されている「あなたがた」とは、その後の文章より、富裕層の人たち、ということでしょう。
 「切り石の家々を建てても、あなたがたはその中に住めない。麗しいぶどう畑を作っても、そのぶどう酒を飲めない。」とありますが、これは預言された後、そう遠くない未来に主がアッシリア軍を遣わすからでしょう。

 12節には、「私は、あなたがたの背きが多く、あなたがたの罪が重いことをよく知っている。正しい者を迫害する者、賄賂を受け取る者。彼らは門で、貧しい者を押しのけている〔退けた(聖書協会共同訳)〕。」とあります。

 「門」では、裁判が行われました。
 12節は、上に立つ者たちが、
①正しい者、即ち主に従った歩みをする者を迫害する(苦しめる、抑圧する)
②わいろを贈る者に良くしてあげる(裁判においてはもみ消してあげる)
③貧しい者に対しては、その訴えを退ける
というような不正を行っていた、ということを糾弾し、また、不正な裁判をすることが如何に重い罪であるかを述べています。

 出エジプト23章には、「6 訴訟において、あなたの貧しい者たちへのさばきを曲げてはならない。7 偽りの告訴から遠く離れなければならない。咎のない者、正しい者を殺してはならない。わたしが悪者を正しいとすることはない。8 賄賂を受け取ってはならない。賄賂は聡明な人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめる。」(新改訳2017)と記されています。
 申命記2719には、“「寄留者、孤児、やもめのさばきを曲げる者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。”(新改訳2017)と記されています。

 また12節には、「私は、あなたがたの背きが多く、あなたがたの罪が重いことをよく知っている。」ともあります。
もし、不正な裁判官たちが、この世においてなんの害を受けることがなかったとしても、主の裁きの日には、厳しく裁かれるのです。
 ヨハネ522には、「父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。」(新改訳2017)と記されています。
 ローマ216には、「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって、人々の隠された事柄をさばかれるその日に行われるのです。」(新改訳2017)と記されています。
 ヨハネ318には、「御子を信じる者はさばかれない。」とあります。
何故でしょうか。
それは、イエス様が、十字架上で、イエス様を自分の救い主と信じた者の罪の罰を受けてくださったからです。
このことは、御父が天地創造の前から、計画された事でした。
エフェソ14を聖書協会共同訳は、「天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。」と訳しています。

 神の選び、神の予知、についての私の見解は、このブログの1ペテロ12の箇所に次のように記しておきました。
 “ペテロは、2節でキリスト者と三位一体の神との関係について述べています。
 父なる神は、キリストの救いが提示された時、信じる人が誰であるのかを予知され、選ばれました。そのことに関連する他の書簡のみことばに、「神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」(エペソ1:3‐5)、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。」(ローマ8:29)などを思い浮かべます。私は、神学によってではなく聖書のみことばのみによって書き進めたいと思います。
 子なる神であるイエス・キリスト様との関係については、「イエス・キリストに従い、かつ、その血の注ぎを受けるために」と書かれています。
十字架の上でイエス・キリストの血が流されキリストの身代わりの死が無ければ、罪の赦しも、罪のきよめもありませんでした。人間はただ絶望したまま神の裁きの前に立つことになったのです。しかし、キリストの血による贖いの故に信じる者は喜びを持って父なる神と御子なるキリストの前に立つことが出来たのです。
 聖霊は、父なる神の予知に従い、キリストが流された血を、キリストを受け入れる人に適用し聖別して下さったのです。聖別のみならず、心の思いや行いにおいても、「わたしたちが光の中を歩んでいるなら、キリスト者同士は互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪より私たちをきよめ続けるのです。」(1ヨハネ1:7)。聖霊は、キリストの血を用いてこのことを行って下さいます。”(2013.12.23 トミーの聖書理解)と。

 またアモス512には、「私は、あなたがたの背きが多く、あなたがたの罪が重いことをよく知っている。正しい者を迫害す〔苦しめ(聖書協会共同訳)〕る者、」とあり、13節には、「それゆえ、このようなときには、賢い者は沈黙を守る。時が悪いからだ。」とあります。

 「正しい者」とは、主なる神様を信じ、主なる神様に従う者のことです。
「賢い者は沈黙を守る」とあります。
正しい者たちは、無実であるにもかかわらず、また、正しいことを言うことのゆえに、迫害される、抑圧される、ということを経験し、また見たりするのです。
それ故「賢い者は沈黙を守る」とあるように、自分と主との関係の中に埋没してしまうのでしょう。
しかし、中には、預言者のように、反対されようが、投獄されようが、最後は殺されるようなめにあっても、主の霊に導かれて神の言葉を語り続ける人達もいます。
イエス様は、「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺しおまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。」(マタイ2337・口語訳)と嘆かれました。

 16.17節には、“16 それゆえ、主なる万軍の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる。「すべての広場に嘆きが起こる。すべての通りで、人々は『ああ、ああ』と叫ぶ。農夫を呼んで来て泣かせ、泣き方を心得た者を呼んで来て嘆かせる。17 すべてのぶどう畑に嘆きが起こる。それは、わたしがあなたがたの中を通り過ぎるからだ〔「審判を行うからだ」の意(筆者挿入)〕。──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる。」”とあります。
 主はアッシリア軍を遣わして、北イスラエル王国を裁きました。
北イスラエル王国は、ヨルダン川の東側に、マナセの半部族、ルベン族、ガド族が住み、ヨルダン川西側には、10部族の中のその他の部族が住んでいましたが、ヨルダン川の東側の部族は、北イスラエル王国の首都サマリアが陥落(B.C.722年)するより前に、アッシリアに捕囚となっていました。1歴代誌526には、「そこで、イスラエルの神は、アッシリアの王プルの霊、すなわちアッシリアの王ティグラト・ピレセルの霊を奮い立たせられた。それで彼は、ルベン人とガド人、およびマナセの半部族を捕らえ移し、彼らをハラフ、ハボル、ハラ、ゴザンの川に連れて行った。今日もそのままである。」(新改訳2017)と記されています。新共同訳スタディー版の列王記下1529の注によるとB.C.733年頃とあります。列王記下1529によると、ヨルダン川の東側ののみならずヨルダン川の西側のガリラヤも含まれています。

 しかし、殺されもせず、捕虜にもされずにイスラエルの地に残された者もいました。
主はその人たちを念頭において、
14 善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、ともにいてくださる。15 悪を憎み、善を愛し門で正しいさばきを行え。もしかすると、万軍の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はヨセフの残りの者をあわれんでくださるかもしれない。”と語られたのではないかと思います。
歴史書である歴代誌Ⅱには、北イスラエル王国が滅びた後、ユダ王国の王ヒゼキヤが、北イスラエル王国の残りの者に礼拝の招きを行ったところ、アシェル、マナセ、ゼブルン、エフライム、イッサカルの一部の人々は、エルサレムで主を礼拝したのです(2歴代誌30章)。北イスラエル王国の主の民が、主の宮であるエルサレムで主に礼拝をささげたのは、200年余ぶりのことであっただろうと思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたはあなたに仕える者を心に留めてくださっておられますから感謝します。
私たちキリスト者は、イエス様を信じただけで(信じさせて頂けただけで)永遠の救いにあずかった者です。
イエス様が、私たちのすべての罪を身代わりに負って、十字架の上で裁かれてくださったからであることを覚え心から感謝します。
三一の神、父、子、聖霊の神にとこしえに栄光、ほまれ、賛美がありますように。
我が主、わが救い主、キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2020年4月22日 (水)

アモス5:4-9 主を求めて生きよ/主を求め、主に救われた者の幸い

 アモス54-9には、主が、悲痛な叫びをもって、イスラエルに、「主を求めて生きなさい」と勧めている内容が、
4 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はイスラエルの家にこう言われる。「わたしを求めて生きよ。5 ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバに赴くな。ギルガルは必ず捕らえ移され、ベテルは無に帰するからだ。」6 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を求めて生きよ。そうでないと、主は火のように、ヨセフの家に激しく下る。火はこれを焼き尽くし、ベテルにはそれを消す者がいなくなる。7 彼らは、公正を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている。8 すばるやオリオン座を造り、暗黒を朝に変え、昼を暗くして夜にし、海の水を呼び集めて、それを地の面に注ぐ方。その名は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕。9 主は、強い者を踏みにじり、要塞を破壊する。”(新改訳2017)と記されています。

 4.5節には、“4 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はイスラエルの家にこう言われる。「わたしを求めて生きよ。5 ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバに赴くな。ギルガルは必ず捕らえ移され、ベテルは無に帰するからだ。」”(新改訳2017)と記されています。

 4節からは、「わたしを求めて生きよ。」という、イスラエルを愛する主(ヤハウェ)の悲痛な叫びが聞こえてきます。
「私はあなたを愛している。私はあなたを裁きたくない。何とか、私に立ち返って、生きてくれ!」という主の悲痛な叫びが聞こえるように私は感じるのです。

 「ベテル」とは、主が嫌われた金の子牛(出エジプト32章参照)の祭壇のあった所です。
金の子牛の祭壇は、北イスラエル王国の初代の王ヤロブアムが造ったものでした(1列王記1225-1310)。
ヤロブアム王はイスラエルの民にこの金の子牛を拝ませたのです。
 「ギルガル」も偶像礼拝地でした。ホセア1211には、「・・、ギルガルの罪は相も変わらず、公然と行われています。畑の畝のように何列にも祭壇が築かれ、偶像へのいけにえのために使われています。・・・。」(リビングバイブル)と記されています。
 「ベエル・シェバ」(2列王記231-24、特に8節参照)も、この時代、偶像礼拝の中心地のひとつとなっていたのです。

 主は偶像の神々(悪霊ども)の所に行くことを止め、悔い改めて私のもとに来なさい、そして「生きなさい」と語られたのです。

 6節には、「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を求めて生きよ。そうでないと、主は火のように、ヨセフの家に激しく下る。火はこれを焼き尽くし、ベテルにはそれを消す者がいなくなる。」とあります。
 主は偶像と偶像礼拝者を裁きますから、偶像礼拝を止めずに続けていると主に裁かれることになるという預言です。偶像が置かれていたベテルの祭壇もその偶像も偶像に仕える祭司も消滅するという預言でしょう。
歴史は、主がアッシリアを遣わして北イスラエル王国を滅ぼしたことを記しています。

 7節には、「彼らは、公正を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている。」とあります。
「彼ら」即ちベテルやギルガルに行って偶像礼拝する者たちは、政治や裁判で不正を行い、主が正しいと教えた教えを廃棄している、ということでしょう。
リビングバイブルは、「邪悪な者たち。あなたがたは正義の名のもとに貧しい人を虐げています。正義も公正も、あなたがたには無意味な絵空事です。」と意訳しています。

 8節には、「すばるやオリオン座を造り、暗黒を朝に変え、昼を暗くして夜にし、海の水を呼び集めて、それを地の面に注ぐ方。その名は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕。」とあります。

 主を信じている人は、主が万物をつくられたことを疑わないでしょう。
主イエス様を信じていると公言する人で、主が万物をつくられたことを信じない人は、キリストの霊を持っていないのかも知れません。
ローマ89には、「キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。」(口語訳)とあります。
ヨハネ13には、「すべてのものは、この方〔イエス・キリスト様(筆者挿入)〕によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」(新改訳2017)と記されています。
コロサイ116には、「事実、キリスト様は、すべてのものの創造者なのです。天にあるものも地にあるものも、目に見えるものも見えないものも、霊の世界の王座や主権や支配や権威もすべて、この方がご自分の目的と栄光のために、お造りになったのです。」(リビングバイブル)とあります。

 「すばるやオリオン座を造り」とあるのは、星々が礼拝の対象とされ、また占星術があったからでしょう。しかし、それらの星々を造られたのは主です。
 「暗黒を朝に変え、昼を暗くして夜にし」とありますが、これは太陽礼拝者に対するものであろうと思います。太陽も月も主が造られた物です。
 「海の水を呼び集めて、それを地の面に注ぐ方」とあるのは、主が雨を降らせるお方、ということを述べているのだと思います。偶像バアルのところに行って雨乞いの儀式をしなくても良いのです。
 万物をつくり、万物を保持している主であるわたしを礼拝しなさい、と主は語っておられるのだと思います。

 現在の宇宙もあっという間に消滅する時が来ます。
2
ペテロ310には、「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。」(新改訳2017)と記されています。これはキリストの千年王国の後に起こります。
 この後どうなるのでしょう。
イザヤ6517には、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。」(新共同訳)と記され、
黙示録211には、「また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」(新改訳2017)と記されています。
 
 天地が滅びる、と言うと現代人は宇宙物理学的に考えることと思います。
しかし、今の天地(宇宙)を保持しているのは、主なのです。
ヘブル13には、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。」(新改訳2017)と記されています。
またコロサイ117には「彼〔イエス・キリスト様(筆者挿入)〕は萬(よろず)の物より先にあり、萬の物は彼によりて保つことを得るなり。」(文語訳)と記されています。

 主なる神様が、現在の宇宙を消滅させ、新天新地を創られる時が来るのです。
それ以前に、キリスト者は霊の体を与えられていますから、物質的な物が破壊されても霊の体は破壊されることがないのです。
永遠のいのちを頂いているのですから。

 9節の、「主は、強い者を踏みにじり、要塞を破壊する。」(新改訳2017)と記されている預言は、主がアッシリア軍をイスラエルに遣わしイスラエルを武力によって踏みにじるときに起こるという預言ですが、歴史は、B.C.722年にサマリアが陥落したことを記しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名が崇められますように。
主は「求めなさい。そうすれば与えられます。」と語られましたが、私たちが、主イエス様を求めたとき、私たちを救ってくださり永遠のいのちを与えてくださいましたことを感謝します。
新天新地においても私たちをあなたと御子と共に新エルサレムで一緒に暮らさせて頂けますことを感謝します。
私たちはとこしえにあなたをほめたたえます。
感謝しつつ、主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

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