マラキ4:1-6{新改訳(ヘブライ語聖書、新共同訳、岩波訳などは、マラキ3:19-24)} 主の裁きの日とその前に
新改訳2017には、
“1 「見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は藁となる。迫り来るその日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる──2 しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。3 あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。──万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる。4 あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を覚えよ。それは、ホレブでイスラエル全体のために、わたしが彼に命じた掟と定めである。5 見よ。わたしは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」”と記されています。
1節には、「見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は藁となる。迫り来るその日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。」とあります。
「高ぶる者」とは、主に対して高慢な者、主に従わない者、結局、自分の方が主よりも上位にあると考えている者のことです。
「悪を行う者」とは、律法に違反する生き方をする者のことでしょう。
余談になりますが、国の法律の中には、律法に違反している法律もあるというのが、人間が作った国の法律です。
「迫り来るその日は彼らを焼き尽くし」とある箇所からは、黙示録18章全体を思い浮かべます。
その中の16-20節には、
“16 「わざわいだ、わざわいだ、大きな都よ。亜麻布、紫布、緋色の布をまとい、金、宝石、真珠で身を飾っていたが、17 あれほどの富が、一瞬にして荒廃に帰してしまった。」また、すべての船長、その場所を航海するすべての者たち、水夫たち、海で働く者たちもみな、遠く離れて立ち、18 彼女が焼かれる煙を見て、「これほどの大きな都がほかにあっただろうか」と叫んだ。19 彼らは頭にちりをかぶり、泣き悲しんで叫んだ。「わざわいだ、わざわいだ、大きな都よ。海に船を持つ者たちはみな、ここでその繁栄から富を得ていたのに、その都が一瞬にして荒れ果ててしまうとは。」20 「天よ、この都のことで喜べ。聖徒たちも使徒たちも預言者たちも喜べ。神があなたがたのために、この都をさばかれたのだから。」”(新改訳2017)と記されています。
2節には、「しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。」とあります。
「義の太陽」とはイエス・キリスト様を擬人化した表現であろうと思います。
「翼」と訳された語の原語は「カーナーフ」で、刃、先端、四肢、翼などの意があります。
太陽の先端は「光です」「光は」波動です。音も波動であり、電磁波も波動です。
癒されよ、と主が一言、お言葉を下されば、心であろうと体であろうと癒されるのです(マタイ8:5-13参照)。
この2節は、悔い改めてイエス様を受け入れたイスラエル人全体にとっては、この世の終わりに実現する預言ですが、実は、いイエス様の初臨から、終わりの日、に突入しているのです。
イエス様の初臨以降、イエス様を信じた人にとっては、この2節は現実のものとなったのです。
3節には、「あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。──万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる。」とあります。
「わたしが事を行う日」と言うのは、主の裁きの日であり、主に敵対する者を裁く日です。
ですから、冒頭の「あなたがた」は、ユダのことであろうと思います。
この聖句からは、ゼカリヤ12章を思い起こします。
ゼカリヤ12:1-9には、
“1 宣告。イスラエルについての主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば。天を張り、地の基を定め、人の霊をそのうちに造られた方、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の告げられたことば。2 「見よ。わたしはエルサレムを、その周りのあらゆる民をよろめかせる杯とする。エルサレムが包囲されるとき、ユダについてもそうなる。3 その日、わたしはエルサレムを、どの民にとっても重い石とする。すべてそれを担ぐ者は、身にひどい傷を受ける。地のすべての国々は、それに向かって集まって来る。4 その日──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──わたしはすべての馬を打って驚かし、その乗り手を狂わせる。しかし、わたしはユダの家の上に目を見開き、もろもろの民のすべての馬を打ってその目を見えなくする。5 ユダの首長たちは心の中で言う。『エルサレムの住民は、彼らの神、万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕によって私の力となる。』6 その日、わたしはユダの首長たちを、薪の中にある火鉢のようにし、麦束の中にある燃えるたいまつのようにする。彼らは右も左も、周りにいるどの民も焼き尽くす。しかしエルサレムはなお、元の場所エルサレムに残る。7 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は最初にユダの天幕を救う。ダビデの家の栄えと、エルサレムの住民の栄えが、ユダ以上に大きくならないようにするためである。8 その日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はエルサレムの住民をかくまう。その日、彼らの中のよろめき倒れる者もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになって、彼らの先頭に立つ主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の使いのようになる。9 その日、わたしはエルサレムに攻めて来るすべての国々を根絶やしにしよう。”(新改訳2017)と記されています。
イエス様は、愛のお方ですが、義のお方でもあるので、裁く時には裁くのです。
ただし、教会時代は恵みの時代です。
4節には、「あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を覚えよ。それは、ホレブでイスラエル全体のために、わたしが彼に命じた掟と定めである。」とあります。
律法には様々な規定がありますが、その中核をなすものは十戒(出エジプト20:3-17)です。そして、十戒を要約すると、神を愛し、人を愛する、ということになります(マタイ22:37-40)。
キリスト者の場合でも、救われたからあとは自由だ、とばかり、肉の欲に走る人は放縦の人です。そのようになった人たちもいたのでしょう。その様にならないようにと、パウロは、「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」(ガラテヤ5:13・新改訳2017)と述べました。この聖句をリビングバイブルは、「愛する皆さん。あなたがたは自由を手にしているのです。それは、悪を行なうための自由ではなく、互いに愛し合い、仕え合うための自由です。」と訳しました。
イスラエルが律法を守ったら、申命記28:1-13に記されているような、物質的・経済的祝福、健康的祝福、軍事的祝福、国家間の地位における祝福、自然界の祝福、等が与えられたのです。日本の神社などには、家内安全、無病息災、交通安全、商売繁盛、結婚成就、・・等の張り紙がありますが、聖書から言うと、主のみ旨に歩めば、イスラエルはそれを自分のものにすることが出来たのです。
キリスト者の場合:「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」(エペソ1:3・新改訳2017)と記されています。
「キリストにあって」と訳されている語の原語は、「エン クリストス」で、「キリストの中で」の意です。キリスト者は、キリストの内に在る、私たちに与えられている祝福を信仰によって引き出すのです。
5.6節には、「5 見よ。わたしは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」とあります。
マタイ17章には、
“10 すると、弟子たちはイエスに尋ねた。「そうすると、まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが言っているのは、どういうことなのですか。」11 イエスは答えられた。「エリヤが来て、すべてを立て直します。12 しかし、わたしはあなたがたに言います。エリヤはすでに来たのです。ところが人々はエリヤを認めず、彼に対して好き勝手なことをしました。同じように人の子も、人々から苦しみを受けることになります。」13 そのとき弟子たちは、イエスが自分たちに言われたのは、バプテスマのヨハネのことだと気づいた。”(新改訳2017)と記されています。
マラキ4:5.6節の「エリヤ」は二重預言で、黙示録の11章に登場する二人の預言者の内の一人を指しているのではないかと推測します。
黙示録11:3‐6には、
“3 わたしがそれを許すので、わたしの二人の証人は、粗布をまとって千二百六十日間、預言する。」4 彼らは、地を治める主の御前に立っている二本のオリーブの木、また二つの燭台である。5 もしだれかが彼らに害を加えようとするなら、彼らの口から火が出て、敵を焼き尽くす。もしだれかが彼らに害を加えようとするなら、必ずこのように殺される。6 この二人は、預言をしている期間、雨が降らないように天を閉じる権威を持っている。また、水を血に変える権威、さらに、思うままに何度でも、あらゆる災害で地を打つ権威を持っている。”(新改訳2017)と記されています。
黙示録11:5-6aの奇跡は、かつてエリヤが行った奇跡にもあります(1列王記17.18章参照)。
黙示録11:6bの奇跡は、かつてモ―セが行った奇跡です(出エジプト7‐10章)。
6節には、「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」とあります。
「父」とはヤハウェ、「子」とはイスラエルを指しているのではないかと思います。
出エジプト4:22には、「そのとき、あなたはファラオに言わなければならない。主はこう言われる。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。』」(新改訳2017)と記されていますから。
打ち滅ぼされないイスラエル人は、悔い改めて主に立ち返った人達です。
<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私たちキリスト者は、イエス様を信じて(信じさせて頂いて)御父のもとに帰ることが出来ました。
感謝します。
日々、あなたを賛美し、あなたに感謝し、あなたとの豊かな交わりを持たせて頂きながら歩ませて頂けますように。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン