マラキ書

2020年6月19日 (金)

マラキ4:1-6{新改訳(ヘブライ語聖書、新共同訳、岩波訳などは、マラキ3:19-24)} 主の裁きの日とその前に

 新改訳2017には、
1 「見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は藁となる。迫り来るその日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる──2 しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。3 あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。──万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる。4 あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を覚えよ。それは、ホレブでイスラエル全体のために、わたしが彼に命じた掟と定めである。5 見よ。わたしは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」”と記されています。

 1節には、「見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は藁となる。迫り来るその日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。」とあります。
 「高ぶる者」とは、主に対して高慢な者、主に従わない者、結局、自分の方が主よりも上位にあると考えている者のことです。
 「悪を行う者」とは、律法に違反する生き方をする者のことでしょう。
 余談になりますが、国の法律の中には、律法に違反している法律もあるというのが、人間が作った国の法律です。
 「迫り来るその日は彼らを焼き尽くし」とある箇所からは、黙示録18章全体を思い浮かべます。
その中の16-20節には、
16 「わざわいだ、わざわいだ、大きな都よ。亜麻布、紫布、緋色の布をまとい、金、宝石、真珠で身を飾っていたが、17 あれほどの富が、一瞬にして荒廃に帰してしまった。」また、すべての船長、その場所を航海するすべての者たち、水夫たち、海で働く者たちもみな、遠く離れて立ち、18 彼女が焼かれる煙を見て、「これほどの大きな都がほかにあっただろうか」と叫んだ。19 彼らは頭にちりをかぶり、泣き悲しんで叫んだ。「わざわいだ、わざわいだ、大きな都よ。海に船を持つ者たちはみな、ここでその繁栄から富を得ていたのに、その都が一瞬にして荒れ果ててしまうとは。」20 「天よ、この都のことで喜べ。聖徒たちも使徒たちも預言者たちも喜べ。神があなたがたのために、この都をさばかれたのだから。」”(新改訳2017)と記されています。

 2節には、「しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。」とあります。
 「義の太陽」とはイエス・キリスト様を擬人化した表現であろうと思います。
 「翼」と訳された語の原語は「カーナーフ」で、刃、先端、四肢、翼などの意があります。
太陽の先端は「光です」「光は」波動です。音も波動であり、電磁波も波動です。
癒されよ、と主が一言、お言葉を下されば、心であろうと体であろうと癒されるのです(マタイ85-13参照)。

 この2節は、悔い改めてイエス様を受け入れたイスラエル人全体にとっては、この世の終わりに実現する預言ですが、実は、いイエス様の初臨から、終わりの日、に突入しているのです。
イエス様の初臨以降、イエス様を信じた人にとっては、この2節は現実のものとなったのです。

 3節には、「あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。──万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる。」とあります。
 「わたしが事を行う日」と言うのは、主の裁きの日であり、主に敵対する者を裁く日です。
ですから、冒頭の「あなたがた」は、ユダのことであろうと思います。
この聖句からは、ゼカリヤ12章を思い起こします。
 ゼカリヤ121-9には、
1 宣告。イスラエルについての主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば。天を張り、地の基を定め、人の霊をそのうちに造られた方、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の告げられたことば。2 「見よ。わたしはエルサレムを、その周りのあらゆる民をよろめかせる杯とする。エルサレムが包囲されるとき、ユダについてもそうなる。3 その日、わたしはエルサレムを、どの民にとっても重い石とする。すべてそれを担ぐ者は、身にひどい傷を受ける。地のすべての国々は、それに向かって集まって来る。4 その日──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──わたしはすべての馬を打って驚かし、その乗り手を狂わせる。しかし、わたしはユダの家の上に目を見開き、もろもろの民のすべての馬を打ってその目を見えなくする。5 ユダの首長たちは心の中で言う。『エルサレムの住民は、彼らの神、万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕によって私の力となる。』6 その日、わたしはユダの首長たちを、薪の中にある火鉢のようにし、麦束の中にある燃えるたいまつのようにする。彼らは右も左も、周りにいるどの民も焼き尽くす。しかしエルサレムはなお、元の場所エルサレムに残る。7 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は最初にユダの天幕を救う。ダビデの家の栄えと、エルサレムの住民の栄えが、ユダ以上に大きくならないようにするためである。8 その日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はエルサレムの住民をかくまう。その日、彼らの中のよろめき倒れる者もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになって、彼らの先頭に立つ主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の使いのようになる9 その日、わたしはエルサレムに攻めて来るすべての国々を根絶やしにしよう。”(新改訳2017)と記されています。

 イエス様は、愛のお方ですが、義のお方でもあるので、裁く時には裁くのです。
ただし、教会時代は恵みの時代です。
 
 4節には、「あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を覚えよ。それは、ホレブでイスラエル全体のために、わたしが彼に命じた掟と定めである。」とあります。
律法には様々な規定がありますが、その中核をなすものは十戒(出エジプト203-17)です。そして、十戒を要約すると、神を愛し、人を愛する、ということになります(マタイ2237-40)。
キリスト者の場合でも、救われたからあとは自由だ、とばかり、肉の欲に走る人は放縦の人です。そのようになった人たちもいたのでしょう。その様にならないようにと、パウロは、「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」(ガラテヤ513・新改訳2017)と述べました。この聖句をリビングバイブルは、「愛する皆さん。あなたがたは自由を手にしているのです。それは、悪を行なうための自由ではなく、互いに愛し合い、仕え合うための自由です。」と訳しました。
 イスラエルが律法を守ったら、申命記281-13に記されているような、物質的・経済的祝福、健康的祝福、軍事的祝福、国家間の地位における祝福、自然界の祝福、等が与えられたのです。日本の神社などには、家内安全、無病息災、交通安全、商売繁盛、結婚成就、・・等の張り紙がありますが、聖書から言うと、主のみ旨に歩めば、イスラエルはそれを自分のものにすることが出来たのです。
キリスト者の場合:「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」(エペソ13・新改訳2017)と記されています。
「キリストにあって」と訳されている語の原語は、「エン クリストス」で、「キリストの中で」の意です。キリスト者は、キリストの内に在る、私たちに与えられている祝福を信仰によって引き出すのです。

 5.6節には、「5 見よ。わたしは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」とあります。
マタイ17章には、
10 すると、弟子たちはイエスに尋ねた。「そうすると、まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが言っているのは、どういうことなのですか。」11 イエスは答えられた。「エリヤが来て、すべてを立て直します。12 しかし、わたしはあなたがたに言います。エリヤはすでに来たのです。ところが人々はエリヤを認めず、彼に対して好き勝手なことをしました。同じように人の子も、人々から苦しみを受けることになります。」13 そのとき弟子たちは、イエスが自分たちに言われたのは、バプテスマのヨハネのことだと気づいた。”(新改訳2017)と記されています。
 マラキ45.6節の「エリヤ」は二重預言で、黙示録の11章に登場する二人の預言者の内の一人を指しているのではないかと推測します。
黙示録1136には、
3 わたしがそれを許すので、わたしの二人の証人は、粗布をまとって千二百六十日間、預言する。」4 彼らは、地を治める主の御前に立っている二本のオリーブの木、また二つの燭台である。5 もしだれかが彼らに害を加えようとするなら、彼らの口から火が出て、敵を焼き尽くす。もしだれかが彼らに害を加えようとするなら、必ずこのように殺される。6 この二人は、預言をしている期間、雨が降らないように天を閉じる権威を持っている。また、水を血に変える権威、さらに、思うままに何度でも、あらゆる災害で地を打つ権威を持っている。”(新改訳2017)と記されています。
黙示録115-6aの奇跡は、かつてエリヤが行った奇跡にもあります(1列王記17.18章参照)。
黙示録116bの奇跡は、かつてモ―セが行った奇跡です(出エジプト710章)。 

 6節には、「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」とあります。
 「父」とはヤハウェ、「子」とはイスラエルを指しているのではないかと思います。
出エジプト422には、「そのとき、あなたはファラオに言わなければならない。主はこう言われる。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。』」(新改訳2017)と記されていますから。
打ち滅ぼされないイスラエル人は、悔い改めて主に立ち返った人達です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私たちキリスト者は、イエス様を信じて(信じさせて頂いて)御父のもとに帰ることが出来ました。
感謝します。
日々、あなたを賛美し、あなたに感謝し、あなたとの豊かな交わりを持たせて頂きながら歩ませて頂けますように。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2020年6月18日 (木)

マラキ3:13-18 主に対して高慢な者と主に対して謙遜な者

 マラキ313-18には、
13 あなたがたのことばは、わたしに対して度を越している。──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる──あなたがたは言う。『私たちが何と言ったというのですか』と。14 あなたがたは言う。『神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても、万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前で悲しんで歩いても、何の得になろう。15 今、私たちは高ぶる者を幸せ者と言おう。悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる』と。」16 そのとき、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れる者たち〔主を畏れ敬う者たち(新共同訳)〕が互いに語り合った。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は耳を傾けて、これを聞かれた。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れ、主〔原語は「彼の」(筆者挿入)〕の御名を尊ぶ者たちのために、主の〔原語は「彼の」(筆者挿入)〕前で記憶の書が記された。17 「彼らは、わたしのものとなる。──万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる──わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。18 あなたがたは再び、正しい人と悪しき者、神に仕える者と仕えない者の違いを見るようになる。」”(新改訳2017)と記されています。

 13-15節は、エルサレムに帰還し、神殿を建てあげた後のユダヤ人達の中には、主(ヤハウェ)に対して高慢な人たち、即ち、主の教えに聞き従わない、主(ヤハウェ)を主とも思わない人達がいたことを述べています。

 主(ヤハウェ)を主とも思わない人たちは、
①神に仕えるのは無駄だ(14):(主を礼拝し、主に奉仕し、主にささげ物をしても無駄だ、何の得もないと言うような人たちことでしょう。)
②神の戒めを守っても何の得にもならない(14):(現代では、アメリカでさえオバマ時代には、聖書が禁じるようなことが法律で正しいとされ、聖書に従うと裁判で有罪とされるようなことさえ起きました)
③万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前で悲しんで歩いても、何の得にもならない(14):(罪を悔い改めたところで何の得もない)
④主(ヤハウェ)を主とも思わない、神などいないという者を幸せ者と言おう(15):(無神論者の言葉です)
⑤悪を行っても栄える(15):{主(ヤハウェ)なる神を神とも思わず、律法を守らなくても栄える}
⑥神を試みても罰を免れる(15
と思い、また語っていたのです。
(  )内は、今の時代で言えば、ということです。
紀元前のマラキの時代でも、現代でも同じような人たちはいたのです。

 この人たちは、この世のことしか考えない人達であると思います。
イエス様を信じる前の私も、このような人達と同類でした。
エペソ21-3には、“1 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者〔主なる神との交わりを持つことの出来ない者(筆者挿入)〕であり、2 かつては〔イエス・キリストの救いにあずかる前は(筆者挿入)〕、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者〔悪魔(サタン)、(1ヨハネ519、ルカ46参照)(筆者挿入)〕すなわち、不従順の〔主なる神に従わない(筆者挿入)〕子らの中に今も働いている霊〔悪しき霊(筆者挿入)〕に従って歩んでいました。3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。”(新改訳2017)と記されています。

 霊の世界が分からない人にとっては、五感で分かる世界がすべてです。霊の世界が分かると言う人でも、イエス様を心に受け入れていない人は、悪しき霊の世界を良く知ってはいても、主の王国の世界を知りません。

 一方、「主を畏れ敬う者たち」(16)もいます。
この人たちは、主との交わりを持っているのです。
「畏れ敬う」と言っても、ご神木を畏れ敬う、というような類の人たちもいます。
その人たちは、主との交わりがありません。
畏れ敬う対象は、万物の創造者なる神であって、万物の創造者に造られた被造物(太陽、月、樹木、動物、人間、etc.)ではないのです。被造物を拝むのは偶像礼拝です。「私には偶像はない」と言って自分を神としている人も偶像礼拝者です。

 16節を新共同訳は、「そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。」と訳しています。

 「記録の書が書き記された。」とあります。
出エジプト3232に、モーセのとりなしの祈りが、「今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば‥‥‥。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」(新共同訳)と記されています。
このモーセの嘆願に対して、主(ヤハウェ)は、「わたしの前に罪ある者はだれであれ、わたしの書物から消し去る。」(出エジプト3233・新共同訳)と答えました。
出エジプト3233の「わたしの書物」とは、「いのちの書」のことなのでしょう。
「いのちの書」ではない「数々の書物」というのが、黙示録2012に、「また私〔ヨハネ(筆者挿入)〕は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。・・・。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。」(新改訳2017)と記されています。
主を畏れ敬わない人の言動(マタイ1236.37も参照)が記されているのだと思います。
上記の「・・・。」の箇所には、「書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。」とあります。
「いのちの書」に名前がないとどうなるのでしょう?
黙示録2015には、「いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」(新改訳2017)と記されています。

イエス様を信じて、新生させて頂き、主の御迎えを待ち望んでいる人、そして既に天に帰った人は、このさばきの法廷に出ることはありません。それ以前に、キリストとの婚礼の儀も終わっており、キリストの花嫁となっているからです。

 現在はどのような時代なのでしょう。
黙示録2210.11に“10 ・・・。「この書の預言のことばを封じてはなりません。時が近いからです。11 不正を行う者には、ますます不正を行わせ、汚れた者は、ますます汚れた者とならせなさい。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」”(新改訳2017)と記されているような時代であると思います。

 私たちは、この世のことを見回しつつも、常に上にあるものを求めて地上生涯を送る者たちです。この世は益々困難な時代を迎えます。しかし、私たちの内には主が住んでおられます。
ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
困難な状況になればなるほど、益々、主により頼み、常にみ旨の内を歩む我らとならせてください。
私たち一人一人に主をお伝えする対象者をお与えくださり、かつ、聖霊様が共に働いてくださって、私たち一人一人に主の栄光を見させ、主の御業のゆえに主をほめたたえさせてください。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2020年6月17日 (水)

マラキ3:6-12 主は変わることのないお方/主の御言葉を信じる者は幸い

 マラキ36-12には、
6 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕であるわたしは変わることがない。そのため、ヤコブの子らよ、あなたがたは絶え果てることはない。7 あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちは帰ろうか』と。8 人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。9 あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。11 わたしはあなたがたのために、食い荒らすものを叱って、あなたがたの大地の実りを滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる──12 すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。──万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる。”(新改訳2017)と記されています。

 6節には、「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕であるわたしは変わることがない。」とあります。
聖書のあちらこちらに同じ意味の聖句があります。
 詩篇10225-27には、「25 あなたははるか昔に地の基を据えられました。天もあなたの御手のわざです。26 これらのものは滅びます。しかしあなたはとこしえの方です。すべてのものは衣のようにすり切れます。外套のようにあなたがそれらを取り替えられるとそれらはすっかり変えられます。27 しかしあなたは変わることがなくあなたの年は尽きることがありません。」(新改訳2017)と記されています。
 ヘブル138には、「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」(新改訳2017)と記されています。
 ヤコブ117には、「すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物〔わたしの場合は「イエス様」{コロサイ127(筆者挿入)}〕は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。」(新改訳2017)と記されています。

 主なる神様は変わることがないだけではなく、主が語られた御言葉も永遠です。
 マタイ2435には、「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(新改訳2017)というイエス様の御言葉が記されています。
 また使徒ペテロは、イザヤ書から引用して、
 1ペテロ124.25に、「24 人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、
花は散る。25 しかし、主のことばは永遠に立つ」(新改訳2017)と記し、
 1ペテロ26に、「この方〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕に信頼する者は決して失望させられることがない。」(新改訳2017)と記しました。

 私たちキリスト者は、永遠に変わることない御父や御子に、「あなたを愛しているよ」と言われ、御父からは、「あなたは私の子どもだよ」と言われ、イエス様からは、「あなたはわたしの花嫁だよ」と言われているのです。

 6節後半には、「そのため、ヤコブの子らよ、あなたがたは絶え果てることはない。」とあります。
主はアブラハムに、「4 これが、あなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。5 あなたの名は、もはや、アブラム〔高貴な父(筆者挿入)〕とは呼ばれない。あなたの名はアブラハム〔多くの国民の父(筆者挿入)〕となる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。6 わたしは、あなたをますます子孫に富ませ、あなたをいくつもの国民とする。王たちが、あなたから出てくるだろう。7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。8 わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。」(創世記17章・新改訳2017)と語られました。

イスラエルの歴史とまだ残されている将来の預言を見ると、主は約束を果たし続けていることが分かります。

 7節には、「あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる」とあります。
主は約束を守りますが、約束を破るのはいつも人間の方です。
 「わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。」という聖句を読むと、イエス様が語られた放蕩息子の父親(ルカ1511-32)を思い浮かべます。

マラキの時代は、「しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちは帰ろうか』と。」とあるような、主から離れた状態の中にありました。

 それに対して、主が教えられたことは、ささげものを規定通り献げなさい、ということでした。


ささげものを規定通りに献げないと、祭司は日ごとの糧を得るために時間を使い果たしてしまいます。
祭司がひたすら主に仕え、民に仕えることが出来るようにすることは、民の霊的生活の健全さを保つために非常に大切なことなのです。祭司は、教会時代で言えば、牧師等です。
 主は民に、主に立ち返るにはどうしたらよいと言われたのでしょうか?
それは、律法に定められているように、十分の一をきちんと献げなさい、ということでした。
この時代の民は貧しかったのです。
恐らく干ばつと、イナゴの害、その他の要因があったのでしょう。それは主の呪いでした。何故呪われたかというと律法を守らなかったからです。
「天の窓を開き」(10)とありますから、この預言がなされた頃は、雨が降らなかったのかも知れません。
「食い荒らすものを叱って」(11・新改訳2017)、「食い荒らすいなごを滅ぼして」(11・新共同訳)とありますから、イナゴの害もあったのでしょう。

 非常に貧しい中で、十分の一を献げなさい、と言われたのです。

 主は、十分の一をささげたらどのように祝福してくださると言われたでしょうか?

主は、「10 わたしがあなたがたのために天の窓を開き〔恵みの雨を降らせ(筆者挿入)〕、11 わたしはあなたがたのために、食い荒らすもの〔イナゴ等(筆者挿入)〕を叱って、あなたがたの大地の実りを滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。12 すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地〔豊作の地(筆者挿入)〕となるからだ。」と言われたのです。

 貧しい人に、十分の一をきちんと献げなさい、と言うことは勇気のいることです。
貧しい人の多くは反発してくるでしょう。あるいは教会から姿を消すかもしれません。
主の約束を信じて、献げた人は幸いです。

 まもなく飢え死にするであろうというようなやもめの話が、1列王記17章に
1 ギルアデ〔ヨルダン川の東側(筆者挿入)〕の住民であるティシュベ〔ヤベシュ・ギルアデの東約8km(筆者挿入)〕人エリヤ〔預言者(筆者挿入)〕はアハブ〔北イスラエルの王(筆者挿入)〕に言った。「私が仕えているイスラエルの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」2 それから、エリヤに次のような主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばがあった。3 「ここ〔サマリア(筆者挿入)〕を去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。4 あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」5 そこでエリヤは行って、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。6 何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。7 しかし、しばらくすると、その川が涸れた。その地方に雨が降らなかったからである。8 すると、彼に次のような主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばがあった。9 「さあ、シドン〔悪王アハブの妃で超悪女イゼベルの出身地(筆者挿入)〕のツァレファテ〔シドンの南約13kmにある地中海沿岸の地(筆者挿入)〕に行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」11 彼女が取りに行こうとすると、エリヤは彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」12 彼女は答えた。「あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は生きておられます〔「主に誓(ちか)って言います」の意(筆者挿入)〕。私には焼いたパンはありません。ただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本の薪を集め、帰って行って、私と息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです。」13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。14 イスラエルの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、こう言われるからです。『主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。16 エリヤを通して言われた主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。”(新改訳2017)と記されています。

 主は、主を信じているやもめの所に、エリヤを遣わして御言葉を述べさせ、やもめを守り、エリヤにも食を与え、両者の信仰をより高められたのです。

 神の国(原語には「支配」の意もあります)と神の義を第一に求めなさい(マタイ633)という御言葉を思い起こします。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたは永遠であられ、全能全知であられ、万軍の主です。そして、約束を必ず守られますから御名を崇めます。
その上、あなたは愛に満ちたわたしの父です。
イエス様は救い主であり、主であるというだけではなく、愛に満ちた花婿です。
あなたの約束の御言葉は変わることがありませんから感謝します。
いつもあなたの御言葉に信頼して歩み続ける者であらせてください。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2020年6月16日 (火)

マラキ3:2-5 精錬される者と滅ぼされる者/きよい歩みをする者の幸い

 マラキ32-5には、
2 だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。3 この方は、銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、金や銀にするように、彼らを純粋にする。彼らは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にとって、義によるささげ物を献げる者となる。4 ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日々のように、ずっと以前の年々のように主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を喜ばせる。5 「わたしは、さばきのためにあなたがたのところに近づく。わたしは、ためらわずに証人となって敵対する。呪術を行う者、姦淫をする者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人を虐げてやもめやみなしごを苦しめる者、寄留者を押しのけてわたしを恐れない者に。──万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる──”(新改訳2017)と記されています。

 2節冒頭には、「だれが、この方の来られる日に耐えられよう。」とありますから、これはキリストの初臨についてのことではありません。
イエス様の初臨の時には、「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。」(ヨハネ1246.47・新改訳2017)とイエス様は語られました。
イエス様は、このように話された後、終わりの時の裁きについても次のように話されました。
「わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。」(ヨハネ1248・新改訳2017)とあります。

 マラキ35には、「わたしは、さばきのためにあなたがたのところに近づく。わたしは、ためらわずに証人となって敵対する。呪術を行う者、姦淫をする者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人を虐げてやもめやみなしごを苦しめる者、寄留者を押しのけてわたしを恐れない者に。」とありますが、これは明らかに裁きについて述べている聖句です。
 黙示録の最後の章である2215節には、「犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、外にとどめられる。」(新改訳2017)と記されています。

 黙示録2215に、「犬ども」とありますが、犬どもとは何でしょうか。
イエス様は、「聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。」(マタイ76・新改訳2017)と語られました。
イエス様が語られた「犬」や「豚」は、ある種の人間を指して言っています。
聖なるもの、例えば、みことばを犬に語っても向き直って、あなたがたをかみ裂くようなことはないでしょう。
「犬」や「豚」とは、御言葉を語ると、むきになって咬みついてくる人、あかしをするとむきになって襲って来るor襲わんばかりに向かってくる人のことを述べているのだと思います。
御言葉に激しく敵対する人は、主なる神に敵対しているのです。

 イエス・キリスト様は、神のことば、と言われたお方です。
黙示録1913には、“その名は「神のことば」と呼ばれていた。”(新改訳2017)と記されています。
ヨハネ1章には、“1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2 この方は、初めに神とともにおられた。3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。/14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(新改訳2017)と記されています。
イエス・キリストというお名前は一度も出てきませんが、この箇所の「ことば」が、イエス・キリスト様を指しているのは明白です。

 神のことばを拒否する人は、主イエス・キリストを拒否しているのです。
主を拒否することが、罪の本質です。〔アダムは主なる神のことばを拒否して堕罪したのです(創世記31-12参照)。それは主なる神を拒否し、サタンを受け入れたということでした(当人がそのように思わなかったとしても)。それ故、アダムの子孫であるすべての人に罪{Sin、原罪、罪の性質、(内に住んでいる)罪}が入ったのです(ローマ512720)〕。
ヨハネ169には、「罪とは、わたしを信じないことです。」(リビングバイブル)と書いてある通りです。この真理は、助け主(パラクレイトス)即ち、聖霊(ト・プニューマ・ト・ハギオン)が来ると分かる、と主は言われました(ヨハネ167.81426)。

 2c.3節には、「まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。この方は、銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、金や銀にするように、彼らを純粋にする。彼らは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にとって、義によるささげ物を献げる者となる。」とあります。
 ここには、主の懲らしめによってレビの子らは清められ、主にささげ物を献げる者として、主が整えられるということが述べられています。
キリストの千年王国では、再び、祭壇に献げ物がささげられるようになります。
 
 この預言は、大患難時代のことではないかと思います。
エレミヤ307には、「災いだ、その日は大いなる日、このような日はほかにはない。ヤコブ〔イスラエル(筆者挿入)〕の苦しみの時だ。しかし、ヤコブはここから救い出される。」(新共同訳)と記されています。
また、ゼカリヤ138.9には、「この地〔イスラエルの地(筆者挿入)〕のどこでもこうなる、と主は言われる。三分の二は死に絶え、三分の一が残る。この三分の一をわたしは火に入れ、銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え、『彼こそわたしの民』と言い、彼は、『主こそわたしの神』と答えるであろう。」(新共同訳)と記されています。

 精錬されたこのイスラエルの人たちは、皆救われるのです(ローマ1126.27)。
イスラエル人と言ってもキリストを抜きにして救いはありません。
 ゼカリヤ1210-14には、
10 わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。11 その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダド・リンモンのための嘆きのように大きくなる。12 この地は、あの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。13 レビの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。シムイの氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。14 残りのすべての氏族は、あの氏族もこの氏族もひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。”(新改訳2017)と記されています。
ここに記されている「嘆く」人たちは、嘆きと共に罪を悔い改め、イェシュア(イエス)をメシア(キリスト)として信じる人達です。

 時系列的には、ゼカリヤ12章のこの箇所は、キリストの地上再臨に伴うイスラエルの地におけるこの嘆きの前に、天における花婿キリストと花嫁{(すなわちエクレシア・天にいるキリスト者の総体}との婚宴が終わった後のことです。大患難時代の前にキリストの花嫁は天に上げられると私は考えています。

 キリスト者は、立場としては、聖なる者とされました。
ヘブル1010には、「・・・イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」(新改訳2017)と記されています。
しかし、日々の歩みにおいては、サタンの惑わしや、十字架につけたはず(ガラテヤ524)の肉の働き等によってきよくない歩みをすることがあります。
それゆえかどうかは分かりませんが、使徒ペテロは、“13 ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。14 従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、15 むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。16 「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。”(1ペテロ1章・新改訳2017)と述べています。

 聖なる歩みは、いつも主と交わり、サタンの策略を見破ってサタンを撃退し、また、十字架につけられたはずの肉による言動が現れそうになるときには、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」(ガラテヤ524・新改訳2017)という御言葉に立脚し、即ちその御言葉に信仰を働かせ、聖霊に満たされて(聖霊の支配の下に)歩むということが肝要であることを体験上思います。しかし、失敗することもあります。主は、そのためにも1ヨハネ19の「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(新改訳2017)という御言葉を用意してくださいました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたとの間に罪のゆえに壁が出来てしまうようなことがなく、いつも三一の主なる神様との親しい交わりを頂きつつ歩む者であらせてください。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2020年6月15日 (月)

マラキ3:1 バプテスマのヨハネと主イエス様の初臨の預言

 マラキ31は、「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。──万軍の主は言われる。」(新改訳2017)と記されています。

 マルコの福音書11-5には、
1 神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。2 預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。5 ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。”(新改訳2017)と記されています。

 イザヤ403には、“荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。」”(新改訳2017)と記されています。

 マラキ31の「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。」という預言箇所は、マルコ12の後半部分に引用されています。
マルコの福音書の12の前半部分には、「預言者イザヤの書にこのように書かれている。」とありますが、イザヤの預言(403)は、マルコ13の「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と引用されています。

 マラキ31の「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。」と預言された中の「わたしの使い」とは、バプテスマのヨハネであったことがマルコ14で明らかにされています。

 バプテスマのヨハネは、イエス様の初臨の公生涯が始まる前に、人々に悔い改めを説き、イエス様を迎え入れる準備の役目をし、また、イエス様を指して、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。31 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」(ヨハネ129-31・新改訳2017)と証ししました。

バプテスマのヨハネとイエス様は、肉においては親類でした。
マリアに対して、天使ガブリエルは、「見なさい。あなたの親類のエリサベツ〔バプテスマのヨハネの母(筆者挿入)〕、あの人もあの年になって男の子〔バプテスマのヨハネ(筆者挿入)〕を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。」(新改訳2017)と語っています。
ですから、バプテスマのヨハネとイエス様とは面識があったのではないかと思うのです。しかし、バプテスマのヨハネは、イエス様がメシア(キリスト)であるとは知らなかったのです。

 どの様にして、イエス様がメシア(キリスト)であると知ったのでしょうか、それは、
ヨハネ1章に、“32 そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。33 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』34 私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」”(新改訳2017)と記されています。

 バプテスマのヨハネは、国主ヘロデ・アンテパスに罪を指摘しました(マタイ141-4)。それがもとでバプテスマのヨハネは、獄に入れられていたのですが、その頃のこと、イエス様は、「10 この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。11 まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。」(マタイ11章・新改訳2017)と語られました。

 マタイ1111に、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。」とあります。
バプテスマのヨハネは、預言者の中でも最大の人であったのです。多くのことを預言したからではなく、イエシュア(イエス)がメシア(キリスト)であると直接証言したからではないかと思います。

 余談になりますが、続く文章に、「天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。」とあります。
イエス様は、神から生まれた神の子であるキリスト者(ヨハネ33.6.1ヨハネ31.2)は、バプテスマのヨハネよりも偉大だ、と言われました。
また主イエス様は、「天の御国で一番小さい者でさえ」と言われています。
「天の御国で小さい者」があるのですから、「大きい者」もいるのでしょう。
それは何によって決まるのでしょうか。
イエス様は、「18まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。19ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。」(マタイ5章・新改訳2017)と語りました。
天の御国で偉大な者と呼ばれるのは、主イエス様しかいません。
上記の文章をもとに考えると、私は、天の御国で最も小さい者ということになります。
「これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は」と主が語っておられますから。
それはそれとして、天の御国の住人としていただけでも、大感謝です。
私は、イエス様を信じさせて頂けなかったら、火の池に行くことになったのですから(黙示録2011-15)。
キリスト者は天の御国の住人というだけではなく、神の子どもであり、キリストの花嫁なのですから大大大感謝です。

 マラキ31の中間から後半の部分には、
「あなたがたが尋ね求めている主〔アードーン(筆者挿入)〕が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。──万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる。」(新改訳2017)と記されています。
主〔アードーン(筆者挿入)〕には冠詞が付いています。「アードーン」は主人の意ですが、冠詞が付いているので、これは主イエス・キリスト様についての預言です。
幼子イエス様が初めに神殿に行った記述はルカ222-38に記され、さらにイエス様が12歳になられた時に神殿に行った記述はルカ242-50に記されています。
しかし、「あなたがたが尋ね求めている主〔アードーン(筆者挿入)〕が、突然、その神殿に来る。」と記されている預言ですから、ユダの多くの人にとっては、棕櫚の日曜日の出来事を指しているのではないかと推測します。マタイ2115には、“宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいる”と記されていますから。
しかし公生涯に入ってから、それ以前にも、主はたびたび宮で語られました。そして、この方こそ「主」だ、と分かる人には分かったのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私は、天の御国で最も小さい者と呼ばれるものですが、兎に角、入れて頂けるので大感謝です。
それだけではなく、神の子どもとして頂き、キリストの花嫁の一人として頂けるのですから、これほど嬉しいことはありません。
大いなる感謝をささげつつ主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年6月14日 (日)

マラキ2:13ー17 聞かれない祈りのいくつかの原因

 マラキ213-16には、
13 あなたがたはもう一つのことをしている。あなたがたは、涙と悲鳴と嘆きで、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の祭壇をおおっている。主が、もうささげ物を顧みず、あなたがたの手からそれを喜んで受け取られないからだ。14 「それはなぜなのか」とあなたがたは言う。それは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、あなたとあなたの若いときの妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。15 神は人を一体に造られたのではないか。そこには、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、自分の霊に注意せよ。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。16 「妻を憎んで離婚するなら、──イスラエルの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる──暴虐がその者の衣をおおう。──万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる。」あなたがたは自分の霊に注意せよ。裏切ってはならない。17 あなたがたは、自分のことばで主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を疲れさせた。あなたがたは言う。「どのようにして、私たちが疲れさせたのか。」それは、あなたがたが「悪を行う者もみな主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の目にかなっている。主は彼らを喜ばれる。いったい、さばきの神はどこにいるのか」と言うことによってだ。”(新改訳2017)と記されています。

 13.14a節には、“・・・。あなたがたは、涙と悲鳴と嘆きで、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の祭壇をおおっている。主が、もうささげ物を顧みず、あなたがたの手からそれを喜んで受け取られないからだ。14 「それはなぜなのか」とあなたがたは言う。”(新改訳2017)と記されています。
 この箇所をリビングバイブルは、“13 それでも、あなたがたは涙で祭壇をぬらしています。もう主があなたがたのささげ物に目を向けず、主の祝福が受けられなくなったからです。14 「なぜ神は私たちを見捨ててしまったのか」と、あなたがたは泣き叫んでいます。」と意訳しています。

 13節を新約的に言えば、「いくら祈っても、泣き叫んで祈っても、献金しても、主は祈りを受け取ってくれない。全く無視している、門前払いをする。」という状態です。
そして、14節冒頭に、「主が祈りを受け入れてくれない理由は、何なのだろう。」と続くのです。

 13節の冒頭には、「あなたがたはもう一つのことをしている。」(新改訳2017)と記されています。
13
節以降がもう一つのことであるとすると、その前のことは何なのか、というと、偶像礼拝でした(マラキ210.11)。

 主が偶像礼拝をすごく嫌がる理由
 ①契約不履行の故。
イスラエルは、主(ヤハウェ)との契約で、偶像礼拝をしない、偶像を造らない、という契約を結んでいました(出エジプト202-4243-8、申命記2617-19)。
偶像礼拝をするということは、神とイスラエルとの契約を破るということです。

 ②偶像礼拝はサタン(悪魔)礼拝だから。
主なる神様とサタンとの間には戦いがあります。但し、戦いがあると言っても、力関係では圧倒的に主なる神様が強いので、サタンが敗れるのは必然です。
サタンは極悪であるばかりではなく、光の御使いにも変装することもあるのです(2コリント1114)。
サタンとは、敵対者、という意味です。誰に対する敵対者なのでしょうか。主なる神に対する敵対者なのです。サタンは、もとは大天使ヘイレル(ルシファー)であり、主に仕えていました(「ヘイレル」はヘブライ語)。
そのときには、神の国だけがあったのですが、ある時、同調する天使たちを引き連れて、主なる神様に反逆し、サタンの国をつくったのです。
人間の目で見ることの出来ない霊の世界の話です。

 余談になりますが、サタンとサタンにつく悪霊たち、サタンに属する者たちの行き先は決められています。それは、永遠の火(マタイ2541)、硫黄の燃える火の池(黙示録1920)、火の池(黙示録2014)と言われている所です。
神の王国を選び取らないと、サタンに属する者のままの将来を迎えるのです。神の王国に入るためには、イエス様を自分の救い主として信じ、イエス様を主とすることです。

 ③主とイスラエルの結びつきを壊すから
キリスト者と主イエスの場合は、
主イエスとキリスト者の関係は、霊における結びつきです。
1
コリント617には、「主と交わる者は主と一つの霊になる。」(新改訳2017)と記されています。
霊において結ばれるということは、霊における結婚です。
偶像礼拝はそれを犯すのです。主を礼拝し、偶像も礼拝するとなると、霊における姦通、不倫、ということになります。
偶像の方のみに行けば、主と離婚する、ということになります。

 人間同士の結婚は、一つ体となると表現されています(創世記224、マタイ196、1コリント616)。
余談になりますが、キリスト者がキリスト者と結婚すると、体も霊も一つとなれますが、
キリスト者がキリスト者でない人と結婚すると、体は一つになっても、本質的な霊においては、キリスト者はサタンの支配下にある霊と共にいることになるのです。
このような話を、霊の世界の分からないキリスト者に話すと嫌な顔をされます。まして、キリスト者でない人に話したらとんでもないことになるかも知れません。

 今日の本題に移ります。
今日の箇所は、主は、離婚を憎む。
主は、主に対して、また配偶者に対して誓約したことを破ること、即ち契約不履行を憎む、ということが記されている内容です。

 1416節をリビングバイブルは、
14 「なぜ神は私たちを見捨ててしまったのか」と、あなたがたは泣き叫んでいます。そのわけは、主があなたの裏切り行為を見たからです。あなたは、長い間あなたに真実を尽くした妻を裏切り、大切に養うことを約束した伴侶を離縁したのです。
15
あなたがたは主によって妻と一体にされました。結婚した二人は、神から見れば一人なのです。それが神の深いご計画です。神は何を望んでいるのでしょうか。それは、あなたがたから生まれる、主に従順な子どもたちです。ですから情欲に気をつけなさい。若い時の妻に誠実でありなさい。16 イスラエルの神、主は離婚を憎み、心ない男を嫌うと言っているからです。それゆえ、情欲を抑えなさい。妻を離縁してはなりません。”と意訳しています。

 キリスト者の結婚については、今日の箇所と共に、1コリント71-1625-40を参考にしてください。
未婚のキリスト者は、結婚相手がいないことに悲観することはありません。
パウロは、「7私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。8結婚していない人とやもめに言います。私のようにしていられるなら、それが良いのです。」(1コリント7章・新改訳2017)と述べています。
但し、パウロのように思えるかどうかは、主との交わりの深さによると思います。
主との交わりの深い未婚の人は、私の伴侶者はイエス様です、と言えると思います。
実際にそのように証言する高齢のご婦人の話を聞いたことがあります。

 パウロはさらに続けて、「しかし、〔情欲を(筆者挿入)〕自制することができないなら、結婚しなさい。欲情に燃えるより、結婚するほうがよいからです。」(1コリント79・新改訳2017)と述べています。

 マラキ227
 新改訳2017は、“あなたがたは、自分のことばで主を疲れさせた。あなたがたは言う。「どのようにして、私たちが疲れさせたのか。」それは、あなたがたが「悪を行う者もみな主の目にかなっている。主は彼らを喜ばれる。いったい、さばきの神はどこにいるのか」と言うことによってだ。”と訳し、
 リビングバイブルは、“あなたがたは、自分のことばで主を煩わしたのです。「主をわずらわしたですって?どのようにして?」あなたがたはそう言って、わざと驚いてみせます。あなたがたはこう言ったのです。「悪を行なうのはいいことだ。主は喜んでいる。」また、こうも言いました。「神は私たちを罰しない。気にも留めていない。」”と意訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
今日の箇所から、あなたが祈りを聞かれない原因のいくつかを学びました。
今日の箇所では、契約不履行、偶像礼拝、姦淫、離婚、善悪の倒錯等がありました。
しかし、そのどれでも悔い改めて主に立ち返れば、赦してくださる主ですから心から御名を賛美します。
願わくは、荒野の生活ではなく、いつも御国の生活を送らせてください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年6月13日 (土)

マラキ2:10ー12 神に不倫を働く者、神を棄てる者を主は嫌われる/いつも主の御臨在の中で

 マラキ210-12には、
10 私たちすべてには、唯一の父がいるではないか。唯一の神が、私たちを創造されたではないか。なぜ私たちは、互いに裏切り、私たちの先祖の契約を汚すのか。11 ユダは裏切り、イスラエルとエルサレムの中で忌まわしいことが行われた。まことにユダは、主が愛された主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の聖所を汚し、異国の神の娘をめとった。12 このようなことをする者を、どうか主がヤコブの天幕から一人残らず断ち切ってくださるように。たとえその者が万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にささげ物を献げても。”(新改訳2017)と記されています。

 この箇所をリビングバイブルは、
10 私たちはアブラハムという共通の先祖を持ち、同じ神によって創造された者です。それなのに先祖の結んだ契約を破り、互いに不信事実なことをしています。11 ユダの中で、イスラエルの中で、エルサレムの中で、〔主なる神に対して(筆者挿入)〕裏切りが行なわれています。ユダの人々が偶像を拝む外国の女と結婚して、神が愛する聖所を汚したからです。12 主がこのようなことをする者を、祭司であっても祭司以外のものであっても、一人残らず契約から断ち切りますように。”と意訳しています。

 11節に「異国の神の娘をめとった」(新改訳2017)、「偶像を拝む外国の女と結婚して」(リビングバイブル)、「異国の神を信じる娘をめとっている」(聖書協会共同訳)とあります。
この背景を知るには、エズラ9章全部を読む必要があります。ここでは最初の部分だけを下記します。
1 これらのことが終わった後、指導者たちが私のところに近づいて来て次のように言った。「イスラエルの民、祭司、レビ人は、カナン人、ヒッタイト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人など異国の忌み嫌うべき習慣と縁を絶つことなく、2 かえって、彼らも息子たちも、これらの国々の娘を妻にし、聖なる種族がもろもろの地の民と混じり合ってしまいました。しかも、指導者たち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです。」3 私はこのことを聞いて、衣と上着を引き裂き、髪の毛とひげを引き抜き、茫然として座り込んでしまった。4 捕囚から帰って来た人々の不信の罪のことで、イスラエルの神のことばを恐れかしこむ者はみな、私のところに集まって来た。私は夕方のささげ物の時刻まで、茫然としてそこに座っていた。”(エズラ91-4・新改訳2017)と記されています。

 主なる神と主の民の霊的な関係は、霊における結婚関係の状態です。
霊の世界における国の分類は二分類で、神が支配する神の国と、サタン(悪魔)が支配するサタンの国です。
1
ヨハネ519には、「私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。」(新改訳2017)と記されています。第三の中間の国はありません。
 主なる神に背を向けて偶像礼拝することは、主に対する背信の罪で、これは大いなる罪です。
中には、主を礼拝し、偶像も礼拝するという人がいるかも知れません。これは霊的姦通の罪です。
 主なる神様は、主なる神様だけを愛してもらいたい、礼拝してもらいたいのです。
人間関係に置き換えれば、よく分かる話です。
結婚していながら、配偶者とともに住まず、他の愛人と住んでいたとしたらどうでしょうか。
配偶者と一緒に住んではいても、愛人をつくり、不倫関係を続けていたとしたらどうでしょうか。

 主なる神様は全知のお方ですから、すべてを見抜いておられます。心の中までも。
繰り返しますが、主なる神様は、主なる神様だけを愛してもらいたい、礼拝してもらいたいのです。それだけ愛しているのですから。偶像を愛されるのは嫌なのです。

 新生したキリスト者はそのことをよく分かっているものと思います。
イエス様は、私たちを愛し、私たちの罪ために、ご自分の命をも捨てられたのですから。
それほど愛しているのですから、不倫されたらねたみます(出エジプト205)。主なる神様は妬むほどに愛しておられるのです。人が他者を妬むのは肉的自己愛の故であり、そこに他者を愛する愛はありません。
 使徒ヨハネは、「8愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。9神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。10私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(1ヨハネ4章・新改訳2017)と述べました。 

 一途に主を愛する人は幸いであると思います。
箴言817には、「わたしを愛する者を、わたしは愛する。」(新改訳2017)と記されています。
1
サムエル230には、「・・・・わたしを重んじる者をわたしは重んじ・・るからだ。」(新改訳2017)と記されています。
詩篇9114-16には、「14彼がわたしを愛しているからわたしは彼を助け出す。彼がわたしの名を知っているからわたしは彼を高く上げる。15彼がわたしを呼び求めればわたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて彼を救い彼に誉れを与える。16わたしは彼をとこしえのいのちで満ち足らせわたしの救いを彼に見せる。」(新改訳2017)と記されています。
そして極めつけが、
ヨハネ14章に、「21わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。23・・・。だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(新改訳2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
御父を、そして我らの主イエス様を愛する故に、イエス様の御言葉を守る者であらせてください。
そして、三一の主の豊かな御臨在の中で日々過ごす者であらせてください。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2020年6月12日 (金)

マラキ2:1ー9 祭司への警告と断罪/キリスト者は新約の祭司

 マラキ25-7には、
5 わたしの、彼〔「レビ」であることが前節から分かります(筆者挿入)〕との契約は、いのちと平安であった。わたしはそれらを彼〔レビ(筆者挿入)〕に与えた。それは恐れ〔畏れ(聖書協会共同訳)〕であったので、彼はわたしを恐れ、わたしの名の前に、おののいた。6 彼の口には真理のみおしえがあり、彼の唇には不正がなかった。平和と公平さのうちに、彼はわたしとともに歩み、多くの者を不義から立ち返らせた。7 祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口からみおしえを求める。彼が万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の使いだからだ。”(新改訳2017)と記されています。

 5節には、「わたしの、彼〔「レビ」(筆者挿入)〕との契約は、いのちと平安であった。わたしはそれらを彼〔レビ(筆者挿入)〕に与えた。それは恐れ〔畏れ(聖書協会共同訳)〕であったので、彼はわたしを恐れ、わたしの名の前に、おののいた。」(新改訳2017)と記されています。

 この節の「彼」とは、レビであることが、4節の「・・・わたしがレビとの契約を保つために・・・」の「レビ」を指して「彼」と言っていることから分かります。
レビは、主の御用をするために直接的に主から召されました。

 民数記311-13には、
11 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセに告げられた。12 「見よ。わたしは、イスラエルの子らのうちで最初に胎を開いたすべての長子の代わりに、イスラエルの子らの中からレビ人を取ることにした。レビ人はわたしのものとなる。13 長子はすべて、わたしのものだからである。エジプトの地でわたしがすべての長子を打った日に、わたしは、人から家畜に至るまで、イスラエルのうちのすべての長子をわたしのものとして聖別した。彼らはわたしのものである。わたしは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である。」”(新改訳2017)と記されています。
ここには、レビ人は主(ヤハウェ)のものである、とあります。また、その理由が記されています。

 次に、レビに与えられた生活の保障が、
民数記1821に、「レビ族には、わたしは今、彼らが行う奉仕、会見の天幕での奉仕に報い、イスラエルのうちの十分の一をみな、ゆずりのものとして与える。」(新改訳2017)と記されています。

 次にマラキ25に記されている「わたしの、彼〔「レビ」(筆者挿入)〕との契約は、いのちと平安であった。わたしはそれらを彼〔レビ(筆者挿入)〕に与えた。」とある内容については、
民数記2512に、「・・、見よ、わたしは彼にわたしの平和の契約を与える。これは、彼とその後の彼の子孫にとって、永遠にわたる祭司職の契約となる。それは、彼が神のねたみを自分のものとし、イスラエルの子らのために宥めを行ったからである。」(新改訳2017)と記されています。
民数記2512だけではよく分からないので、その節に記されているの内容の出どころの経緯を少し述べる必要があると思いますので下記します。

 民数記251-13には、
1 イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと淫らなことをし始めた〔姦淫の罪(筆者挿入)〕。2 その娘たちが、自分たちの神々のいけにえの食事に民を招くと、民は食し、娘たちの神々を拝んだ〔偶像礼拝の罪(筆者挿入)〕。3 こうしてイスラエルはバアル・ペオルとくびきをともにした。〔1コリント616.17参照、霊的にも肉体的にも交わるものと一つになる(筆者挿入)〕。すると、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の怒りがイスラエルに対して燃え上がった。4 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセに言われた。「この民のかしらたちをみな捕らえて、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前で、白日の下にさらし者にせよ。そうすれば、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の燃える怒りはイスラエルから離れ去る。」5 そこでモーセはイスラエルのさばき人たちに言った。「あなたがたは、それぞれ自分の配下でバアル・ペオルとくびきをともにした者たちを殺せ。」6 ちょうどそのとき、一人のイスラエル人の男がやって来た。彼は、モーセと、会見の天幕の入り口で泣いているイスラエルの全会衆の目の前で、一人のミディアン人の女を自分の兄弟たちに近づかせた。7 祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスはそれを見るや、会衆の中から立ち上がり、槍を手に取り、8 そのイスラエル人の男の後を追ってテントの奥の部屋に入り、イスラエル人の男とその女の二人を、腹を刺して殺した。するとイスラエルの子らへの主の罰が終わった。9 この主の罰で死んだ者は、二万四千人であった。10 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセに告げられた。11 「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、イスラエルの子らに対するわたしの憤りを押しとどめた。彼がイスラエルの子らのただ中で、わたしのねたみを自分のねたみとしたからである。それでわたしは、わたしのねたみによって、イスラエルの子らを絶ち滅ぼすことはしなかった。12 それゆえ、言え。『見よ、わたしは彼にわたしの平和の契約を与える13 これは、彼とその後の彼の子孫にとって、永遠にわたる祭司職の契約となる。それは、彼が神のねたみを自分のものとし、イスラエルの子らのために宥めを行ったからである。』」”(新改訳2017)という内容が記されています。

 この当時のレビ族は、主を畏れ敬っていたのです(マラキ25)。
これは出エジプト後の荒野の時代の出来事であり、カナンの地に入る少し前の出来事です。
この時代、主に立てられたリーダーはモーセでした。
モーセは、レビ族の両親から生まれた人でした。
初代大祭司アロンは、モーセの兄であり、同じくレビ族の人でした。
 
 マラキ26.7には、「6 彼の口には真理のみおしえがあり、彼の唇には不正がなかった。平和と公平さのうちに、彼はわたしとともに歩み、多くの者を不義から立ち返らせた。7 祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口からみおしえを求める。彼が万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の使いだからだ。”(新改訳2017)と記されていますが、これらをモーセは網羅していると思います。
アロンは、モーセの指示に従って補佐をしました。アロンはモーセのいないときに大失敗をしたこともありますが(出エジプト32章)。

 一方、マラキの時代の祭司(祭司はレビ族の一部です)のありようと、それに対する主の刑罰の預言が、マラキ21-48.9に、
1 「祭司たちよ、今、この命令があなたがたに下される。2 もし、あなたがたが聞き入れず、もし、わたしの名に栄光を帰することを心に留めないなら──万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる──わたしは、あなたがたの中にこののろいを送り、あなたがたの祝福をのろいに変える。もう、それをのろいに変えている。あなたがたがこれを心に留めないからだ。3 見よ。わたしは、あなたがたの子孫を責め、あなたがたの顔に糞をまき散らす。あなたがたの祭りの糞を。あなたがたはそれとともに投げ捨てられる。4 このときあなたがたは、わたしがレビとの契約を保つために、あなたがたにこの命令を送ったことを知る。──万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる──/8 しかし、あなたがたは道から外れ、多くの者を教えによってつまずかせ、レビとの契約を損なった。──万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる──9 わたしもまた、あなたがたを、すべての民に蔑(さげす)まれ、軽んじられる者とする。あなたがたがわたしの道を守らず、えこひいきをしながら教えたからだ。」”(新改訳2017)と記されています。

 さて、私たちキリスト者は、新約時代の祭司です。
1
ペテロ29には、「・・、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」(新改訳2017)と記されています。

 マラキ25-7を新共同訳は、
5 レビと結んだわが契約は命と平和のためであり、わたしはそれらを彼に与えた。それは畏れをもたらす契約であり、彼はわたしを畏れ、わが名のゆえにおののいた。6 真理の教えが彼の口にあり、その唇に偽りは見いだされなかった。彼は平和と正しさのうちに、わたしと共に歩み、多くの人々を罪から立ち帰らせた。7 祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。彼こそ万軍の主の使者である。”と訳しています。

 5節に、「わが契約は命と平和」とあります。
イエス様を信じたこと(信じさせて頂いたこと)によって、永遠のいのちが与えられました(ヨハネ316.36)。また、イエス様は、「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」(ヨハネ1427・新改訳2017)と語られました。キリスト者が主に信頼しきっているときには、この平安を体験します。また、主の方から一方的にこの平安を与えられるときもあります。

 5節には「それは畏れをもたらす契約であり」とありますが、健全な状態のキリスト者は皆、主を畏れ敬い、主を愛します。

 6.7節には、「6 真理の教えが彼の口にあり、その唇に偽りは見いだされなかった。彼は平和と正しさのうちに、わたしと共に歩み、多くの人々を罪から立ち帰らせた。7 祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。彼こそ万軍の主の使者である。」とあり、健全な歩みをしているキリスト者の姿でしょう。
これは主の恵みです。

 エペソ210には、「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」(新改訳2017)と記されています。
この箇所を口語訳は、「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」と記しています。
善い行いは、恵みであって、肉の努力でするものではありませんし、肉の内には善いものはありません。

 6節には、「多くの人々を罪から立ち帰らせた」とありますが、その最大のことは、イエス様を信じていない人をイエス様のもとへと聖霊の導きに従ってお連れすることです。
ヨハネ168.9には、「8その方〔聖霊(筆者挿入)〕が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。9罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」(新改訳2017)と記され、
1
コリント123には、「・・・聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」(新改訳2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
今日もあなたに導かれて歩む一日でありますように。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年6月11日 (木)

マラキ1:6ー14 主に受け入れられないものをささげるな/あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。

 マラキ16-8には、
6 「子は父を、しもべはその主人を敬う。しかし、もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れ〔畏れ(聖書協会共同訳)〕があるのか。──万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる──あなたがたのことだ。わたしの名を蔑(さげす)む祭司たち。しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、あなたの名を蔑みましたか』と。7 あなたがたは、わたしの祭壇に汚れたパンを献げていながら、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の食卓は蔑まれてもよい』とあなたがたは思っている。8 あなたがたは盲目の動物を献げるが、それは悪いことではないのか。足の萎えたものや病気のものを献げるのは、悪いことではないのか。さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたを受け入れるだろうか。あなたに好意を示すだろうか。──万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる──”(新改訳2017)と記されています。

 マラキの時代の祭司たちは、主を畏れ敬うことをせず、主が与えてくださった律法の学びをあまりしていなかったのかも知れません。その祭司に律法を教えられる民衆は哀れです。

 祭司は、主が与えてくださった律法に基づいていけにえを献げ、律法に基づいて主に仕え、民に律法を教える立場にありました。
この時代の祭司たちは、主に対して甚だしく不敬であったのです。

 :8節には、「あなたがたは盲目の動物を献げるが、それは悪いことではないのか。足の萎えたものや病気のものを献げるのは、悪いことではないのか。」とあります。
 ささげものの規定の一部をレビ記から少しだけ抜粋します。
レビ13には、「そのささげ物が牛の全焼のささげ物である場合には、傷のない雄を献げなければならない。」(新改訳2017)と記されています。
レビ110には、「そのささげ物が、羊の群れ、すなわち羊またはやぎの中からの全焼のささげ物である場合には、傷のない雄を献げなければならない。」(新改訳2017)と記されています。
レビ31には、「そのささげ物が交わりのいけにえの場合には、献げようとするのが牛であるなら、雄でも雌でも傷のないものを主の前に献げなければならない。」(新改訳2017)と記されています。
レビ36には、「交わりのいけにえとしての、主へのささげ物が羊であるなら、雄でも雌でも傷のないものを献げなければならない。」(新改訳2017)と記されています。
レビ42.3には、「イスラエルの子らに告げよ。人が、主がしてはならないと命じたすべてのことから離れて、気づかずに罪に陥り、その一つでも行ってしまった、以下のような場合には──油注がれた祭司が罪に陥って、民が責めを覚える場合には、その祭司は自分が陥った罪のために、傷のない若い雄牛を罪のきよめのささげ物として主に献げる。」(新改訳2017)と記されています。
レビ422.23には、「族長が罪に陥って、その神、主がしてはならないと命じたすべてのうちの一つでも、気づかずに行ったが、後になって責めを覚える場合、または、自分が陥っている罪が知らされた場合には、ささげ物として傷のない雄やぎを連れて来る。」(新改訳2017)と記されています。
レビ2222-25には、「盲目のもの、折れたところのあるもの、傷のあるもの、あるいは、うみの出るもの、湿疹のあるもの、かさぶたのあるもの、あなたがたはこれらのものを、主に献げてはならない。また、これらのものを主への食物のささげ物として祭壇の上に献げてはならない。牛や羊で、足が伸びすぎているか、または萎え縮んだものは、進んで献げるものとすることはできるが、誓願のささげ物としては受け入れられない。あなたがたは、睾丸の押しつぶされたもの、砕けたもの、裂かれたもの、切り取られたものを主に献げてはならない。あなたがたの地でそのようなことをしてはならない。また、あなたがたは、異国人の手から何かこのようなものを受けて、あなたがたの神のパンとして献げてはならない。これらのものは損なわれていて欠陥があるから、あなたがたは受け入れられない。」(新改訳2017)と記されています。

 マラキの時代の祭司たちは、祭司、レビ人が知っていなければならない最低限のこともわきまえていなかったのです。

 余談になりますが、
これらの献げ物は、すべてイエス様の予表であったのです。
イエス様は、御父に全焼のささげものとなられました。即ち、全き献身をなされたのです。
イエス様は、罪の為のささげものとなってくださいました。もし、イエス様に傷、即ち、罪があれば、私たちの罪を贖うことは出来なかったのです。もし傷があれば、自分の罪の故に死ぬだけです。
 ペテロは、「ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(1ペテロ118.19・新改訳2017)と語り、
「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅(おど)すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」(1ペテロ222-24・新改訳2017)と語りました。

 主(ヤハウェ)なる神様が、私たちの贖いのために、傷もの、即ち、罪ある人を贖いとしたらどうでしょう。それは、私たちの贖いのためには何の効力もなく、私たちは、火と硫黄の池に行くことになったのです。

 話を元に戻します。
 続く9.10.12.13節と14節前半には、主の律法に従わないささげものを、主は拒絶するということが述べられています。
 9-14節は、意訳になりますがリビングバイブルで下記します。
9 あなたがたは唱える。「神よ、あわれんでください。恵みをお与えください。」しかし、そのようなささげ物を持ってくる者に、どうして好意を示せるというのか。10 ああ、あなたがたの中に、神殿の扉を閉ざして、このようないけにえを拒絶する祭司が、一人でもいればいいのだが。わたしはあなたがたに喜びを感じない。あなたがたのささげ物は受け取らない。主は言います。12 「しかし、あなたがたはわたしをあがめず、祭壇など大切ではないと言って、病気にかかった弱々しい動物を神にささげるよう、人々に教えている。」主は言います。13 「『ああ、神に仕え、神の言うとおりにしなければならないとは、なんとやっかいなことだろう』とあなたがたは言う。そして神が与え、守るようにと言った規則を、気にもかけない。どういうことか。盗んだ動物や、足の悪い動物や病気の動物を、神へのささげ物にするとは。わたしはそのようなささげ物を受け入れなければならないというのか。」主は問います。14ab 「神へのいけにえとして、自分の群れの中から上等の雄羊をささげると約束しながら、病気の雄羊を神にささげる者はのろわれよ。わたしは大いなる王だから。」”とあります。

 一方、主に感謝し、主を畏れ敬い、主を愛する人は、主の命じられた御言葉に従おうとします。

 11節と14節後半は、キリストの十字架と復活後以降の預言です。
 リビングバイブルは、
11 「わたしの名は、外国人の間で、朝から晩まであがめられるようになる。世界中で人々がわたしの名をあがめ、かぐわしい香りと、きよいささげ物をささげるようになる。国々の間で、わたしの名が大いに高められるからだ。」主は言います。/14(後半) 全能の主は語ります。「わたしの名は異邦人の間で、大いに尊ばれるようになるからだ。」”と意訳しています。

 新約における「かぐわしい香り」とは、聖徒たちの祈りのことです(黙示録58参照)。
 新約における「きよいささげ物」とは、献身です。
ローマ121には、「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(口語訳)と記されています。
献身という言葉を聞くと、牧師になることしか思い浮かばない人がいるかも知れません。
牧師にならなくても、
「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」(新改訳2017)とあるような命令に従う人は献身した生き方をしている人です。
ローマ121の御言葉は、すべてのキリスト者に対して語られています。
しかし、このお言葉で牧師になるべく召される人もいます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
イエス様は御自分のからだで私たちを贖ってくださいました。
私たちも、私たち自身を主にささげて歩み続ける者であらせてください。
主に感謝しつつ、我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2020年6月10日 (水)

マラキ1:1-5 主の愛と矯正

 マラキ書は、記されている内容とエズラ記、ネヘミヤ記との関係から考えると、エズラ6章と7章の間に預言した預言者ではないかと思います。(注解付新改訳聖書のマラキ書緒論を参考)
 エズラ615には、「この神殿は、ダレイオス王の治世第六年のアダルの月の二十三日に完成した。」(新共同訳)とあり、新共同訳スタディー版の注は、「B.C.515年。アダルの月はヘブライ歴第12の月で現2.3月にあたる。」と述べています。
 エズラ7章はペルシアの王アルタクセルクセスの時代で、エズラがエルサレムに到着した日付は、アルタクセルクセス王の第7年第5の月とエズラ77.8にあります。
アルタクセルクセス王の第7年は、B.C.458年で、ヘブライ歴の第5の月はアブの月で現7.8月にあたります。
以上のようなわけで、エズラ6章と7章の間には、約57年の期間があります。
 また、ネヘミヤ記によるとネヘミヤがエルサレムに行く許可をアルタシャスタ王から得たのは、王の第20年のニサンの月(太陽暦の3-4月)でした。アルタシャスタ王の第20年は、B.C.446年(新共同訳スタディー版の注)です。

 注解付新改訳聖書のマラキ書の緒論の中に、「本書の内容から言えば、マラキはエズラ、ネヘミヤによる宗教改革前のように思われるが、明らかではない。いずれにしろ、ハガイやゼカリヤからは五、六十年後の、旧約最後の預言者である。」とあります。

 マラキ11-5を、
 新改訳2017は、
1 宣告〔託宣(新共同訳)〕。マラキを通してイスラエルに臨んだ主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば。2 「わたしはあなたがたを愛している。──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。エサウはヤコブの兄ではなかったか。──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──しかし、わたしはヤコブを愛した。3 わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の相続地を荒野のジャッカルのものとした。4 たとえエドムが、『私たちは打ち砕かれたが、廃墟を建て直そう』と言っても、──万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる──彼らが建てても、わたしが壊す。彼らは悪の領地と呼ばれ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がとこしえに憤りを向ける民と呼ばれる。5 あなたがたの目はこれを見る。そして、あなたがたは言う。『主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、イスラエルの地境を越えて、なお大いなる方だ』と。」”と訳し、

 リビングバイブルは、
1 これは、神が預言者マラキを通してイスラエルに与えたことばです。
2.3
「わたしはあなたがたを心から愛してきた」と主は言います。
ところが、あなたがたは問い返します。
「ほんとうですか。いつ、そうしてくださいましたか」
主は答えます。
「わたしはあなたがたの先祖ヤコブを愛することによって、あなたがたに対する愛を示した。そうする理由などなかったのに。わたしは、ヤコブの兄エサウを退け、エサウの住む山々と相続地を荒廃させ、荒野のジャッカルに与えた。4エサウの子孫が、『廃墟を建て直そう』と言うなら、全能の主はこう言う。『建て直したいのなら、建て直すがいい。わたしは再びそれを打ち壊す。』彼らの国は『悪の地』と呼ばれ、彼ら住民も『神に赦されない者たち』と呼ばれるからだ。」 5さあ、イスラエルよ、目を上げて、神が世界中でしていることを見なさい。そのとき、あなたがたはこう言うようになります。「ほんとうに神の大いなる御力は、私たちの国境をはるかに越えている。」”と意訳しています。

 「憎む」という語の考察 
3
節に、「わたしはエサウを憎み」という表現が出てきます。
「憎み」と主が言われる場合、人が「憎む」という感情とは異なる場合があると思います。
主はすべての人を愛しているのですから。
それは、1ヨハネ22に「この方〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。」(新改訳2017)と記されているように、主の十字架は、すべての人のためでした。

 主は、十戒の中で、「あなたの父と母を敬え。」と語られました。
また、律法の根底は、神と人を愛することだとも語られました(マタイ2237.39)。

 それにもかかわらず、主は、「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ1426・新改訳2017)と語られました。
福音書の著者マタイは、この箇所の「憎む」の真意を、異なった言葉で次のように記しました。
「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ1037・新改訳2017)と。

 自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、自分のいのちを愛しなさい。しかし、それ以上に主を愛しなさい、ということを教えられたのです。このようなことは教えられてできることではなく、自分を含めた誰にもまさって主を愛する愛を与えられて愛することが出来るようになるのだと思います。

 マラキ12.3の「・・・わたしはヤコブを愛した。わたしはエサウを憎み・・・」というのは、
主はエサウをも愛しましたが、それ以上にヤコブを愛したということであると私は思います。
ヤコブは人格的に問題がありましたが、兎に角、主に頼りました。
一方、エサウは、人間としては結構良いところもありましたが、主を軽視したのです。
それでも主はエサウを祝福しました(創世記331.9366.7)。
しかし、エサウは、主(ヤハウェ)を自分の主(アドナイ)とすることはなかったと思います。
主(ヤハウェ)を自分の主(アドナイ)としない人は、自分では気づかなくてもサタンが主となってしまうのです(1ヨハネ519、ヨハネ843-45、エペソ22.3)。それが霊の世界であると思います。

 マラキが預言した時代のエルサレムにいるユダヤ人たちの生活は苦しかったのです。
それで、民たちは、主は自分たちを愛してくれていない、と考えていたのです。
それに対して、主は「愛しているよ」と答えました。
マラキ書を読むと、豊かになれない理由が次々と出てきます。

 主は愛している者を、主に在って健全にするために矯正します(ヘブル125-11)。
主に在って健全ではないことを教えるために、主は、敢えて苦しみを与えることがあります。苦しみを通して、気付いてほしいと主は願っています。

 主を愛する故に苦しみを味わうということがあります。同じ苦しみでもこれは矯正ではありません。この苦しみに対しては、キリストの裁きの座(2コリント510)で幸いな報酬が与えられます(マタイ512)。

 マラキ13.4からは、いつまでも主に立ち返ることなく、主の観点から見て、悪と言えることを行い続けると滅ぼされることが分かります。これはエサウに限ったことではなく、世界全体に対しても同じです。主の裁きの後には神の国の住人とサタンの国の住人とは明確に分けられます(黙示録19202011-15211-411-225、マタイ2541)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
エペソ14の「わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」(口語訳)という聖句を思い浮かべています。
「あなたの愛のうちに」という箇所から、より一層愛されていることを感じます。
あなたは天地万物をつくられたお方です。
あなたは、「国々は手桶の一しずく、秤の上のごみのように見なされる。主は島々をちりのように取り上げる。」(イザヤ4015)と言えるような力のあるお方です。 
国々でさえ、ひとしずくです。わたしを表現するとしたらどうなるのでしょう。当然ひとしずく以下です。
しかし、あなたは、あなたの愛のゆえに、私をも尊く扱ってくださいましたことを感謝します。
神の子どもとして下さり、キリストの花嫁として下さるとは!
その関係性の中で永遠を過ごさせて頂けるとは!
ただ感謝しかありません。
御名を崇め感謝し、我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

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