ヨシュア記

2020年7月21日 (火)

ヨシュア24:14-33 幸いなのは、主を畏れ敬い、主に仕えること

ヨシュア24章の本文(新改訳2017)は斜体です。

14 今、あなたがたは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れ、誠実と真実をもって主に仕え〔原語の直訳は「彼に仕え」(筆者挿入)〕、あなたがたの先祖たちが、あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除き、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に仕えなさい。15 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に仕える。」

 主なる神様と良い関係を持つ方法が14節に短い文章で述べられています。
新共同訳の訳文を用いると「主を畏れ、真心を込め真実をもって主に仕える」ことです。
 エジプトでの十の災いは、如何にエジプトの神々が主(ヤハウェ)に歯が立たないかを証明したものでもありました(出エジプト7-12章)。エジプトの神々と呼ばれていたものは悪霊でした(1コリント1019.20)。

 15
節を読むと、信仰の決断というか、何を神とするかについては、その人の自由意思に任されていることが分かります。
但し、何を自分の神としたかについての責任は選んだ人が負います。

 ヨシュアは、「私と私の家は主に仕える。」と公言しました。
ヨシュアは、私の神はヤハウェ(主)であり、私はヤハウェ(主)に仕える、と公言したのです。
確かにヨシュアの生涯は、モーセに仕えていたときからそのようでした。
しかしヨシュアから約500年後、ヨシュアの末裔はアッシリアに連れて行かれたか殺されたか、・・・か、ということであったでしょう。

 イスラエルの民は、ヨシュアに、「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。」(14.15・新共同訳)と言われ、1618節の答えをします。

16 民は答えた。「私たちが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にあり得ないことです。17 私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私たちと私たちの先祖たちをエジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、そして、私たちの目の前であの数々の大きなしるしを行い、私たちが進んだすべての道で、また私たちが通ったあらゆる民の中で、私たちを守ってくださった方だからです。18 〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあらゆる民を、この地に住んでいたアモリ人を私たちの前から追い払われました。私たちもまた、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に仕えます。このお方が私たちの神だからです。」

 イスラエルの民は、私たちは主に仕えます、と言いましたが、ヨシュアは、何と「あなたがたは主に仕えることはできない。」(19)と答えたのです。

19 ヨシュアは民に言った。「あなたがたは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に仕えることはできない。主は聖なる神、ねたみの神であり、あなたがたの背きや罪を赦さないからである。20 あなたがたが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を捨てて異国の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、主は翻って、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」

 ヨシュアは、イスラエルの民が、「あなたがたは主に仕えることはできない。」(19)と言ったのには理由がありました。ヨシュアは、イスラエルの民が偶像を持っている、或いは心に偶像を秘めているのを知っていたからです(23)。
そして、ヨシュアは、イスラエルの民が、主(ヤハウェ)に仕えず、偶像に仕えるのならば、主はイスラエルに災いを下し、最後には滅ぼし尽くす、と忠告しました。

21 民はヨシュアに言った。「いいえ。私たちは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に仕えます。」

24:22 ヨシュアは民に言った。「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を選んで主に仕えることの証人はあなたがた自身です。」彼らは「私たちが証人です」と言った。23 「今、あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、イスラエルの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に心を傾けなさい。」24 民はヨシュアに言った。「私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に仕え、主の御声に聞き従います。」25 ヨシュアはその日、民と契約を結び、シェケムで彼らのために掟と定めを置いた。26 ヨシュアはこれらのことばを神のみおしえの書に記し、大きな石を取り、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の聖所にある樫の木の下に立てた。27 ヨシュアは民全体に言った。「見よ、この石は私たちに対して証しとなる。この石は、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私たちに語られたすべてのことばを聞いたからである。あなたがたが自分の神を否むことがないように、これはあなたがたに対して証しとなる。」

 イスラエルの民は、ヨシュアに「今、あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」(23)と言われたとき、「私たちの中に異国の神々はありません。」とは答えていません。また、「私たちの中にある異国の神々を取り除きます」とも答えないで、「私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。」(24)と答えています。
罪をしっかり処理しておかないと禍根を残します。

28 ヨシュアは民をそれぞれ自分の相続地に送り出した。29 これらのことの後、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。30 人々は彼をガアシュ山の北、エフライムの山地にある、彼の相続地の領域にあるティムナテ・セラフに葬った。

 ヨシュアは110歳で死に、ヨシュアの相続地の中にあるティムナテ・セラフ(ヘレス)に葬られました。

31 ヨシュアがいた間、また、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がイスラエルのために行われたすべてのわざを経験して、ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、イスラエルは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に仕えた。

 ヨシュア記の次に士師記がありますが、士師記2章には、
7 ヨシュアがいた間、また、主がイスラエルのために行われたすべての大いなるわざを見て、ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、民は主に仕えた。8 主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。9 人々は彼をガアシュ山の北、エフライムの山地にある、彼の相続地の領域にあるティムナテ・ヘレスに葬った。10 その世代の者たちもみな、その先祖たちのもとに集められた。そして彼らの後に、主を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない、別の世代が起こった。11 すると、イスラエルの子らは主の目に悪であることを行い、もろもろのバアルに仕えた。12 彼らは、エジプトの地から自分たちを導き出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、すなわち彼らの周りにいるもろもろの民の神々に従い、それらを拝んで、主の怒りを引き起こした。13 彼らが主を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、14 主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪する者の手に渡して略奪されるままにし、周りの敵の手に彼らを売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。15 彼らがどこへ行っても、主の手は彼らにわざわいをもたらした。主が告げ、主が彼らに誓われたとおりであった。彼らは大いに苦しんだ。”(新改訳2017)と記されています。

32
イスラエルの子らがエジプトから携え上ったヨセフの遺骸は、シェケムの地、すなわち、ヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子たちから買い取った野の一画に葬った。そこはヨセフ族の相続地となっていた。

 ヨセフは、エジプトの宰相でした(創世記4141以下)。ヨセフの父ヤコブ(イスラエル)は、ヨセフの子マナセとエフライムを自分の子とし、エフライムとマナセに、主がアブラハム、イサク、ヤコブに約束された地の相続を受けることの出来るものとしました(創世記481-5)。

 ヨセフの遺骸はシェケムの地に葬られました。シェケムは、かつてヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子たちから買い取った野の一部であったのです。
 創世記33章には、
18 こうしてヤコブは、パダン・アラムからの帰途、カナンの地にあるシェケムの町に無事に着き、その町の手前で宿営した。19 そして、天幕を張った野の一画を、シェケムの父ハモルの息子たちの手から百ケシタで買い取った。20 彼はそこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラエルと呼んだ。”(新改訳2017)と記されています。

 相続地の分割では、シェケムはエフライムとマナセの隣接している場所にあります。
そこにヨセフの遺骸は葬られたのです。

 ヨセフは、死ぬ前に、兄弟たちに「私は間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたがたを顧みて、あなたがたをこの地から、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」(創世記5024・新改訳2017)と語り、また、イスラエルの子らに、「神は必ずあなたがたを顧みてくださいます。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上ってください」(創世記5025・新改訳2017)と語り、また、そうするよう誓わせたのです。

33
アロンの子エルアザルは死んだ。彼は、自分の子ピネハスに与えられた、エフライムの山地にあるギブアに葬られた。

 アロンの子エルアザルは、レビ人の長の長に任じられ(民数記332),さらには父アロンの死去に際して大祭司職を継いだ(民数記2022-29、申命記106)人です。
 エルアザルの子ピネハスは、エルアザルの死後大祭司職を継ぎました(民数記2511-13、士師記2028)。
 エルアザルは、エルアザルの子ピネハスに与えられたエフライムの山地にあるギブアという町に葬られました。

 主に真実に仕えたヨセフ、ヨシュア、エルアザルについては葬りのこと迄聖書に記録されています。

 
主は、家族ごとに救いを与えたいと思っておられることが聖書のあちらことらに記されています。ノアの家族、過越の時の出来事、新約では牢屋版の家族、異邦人で初めて救にあずかったコルネリオの家族等というように。
 しかし、同時に、救いは、「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血〔原語は複数形、「肉体の命」の意(筆者挿入)〕によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ112.13・新改訳2017)という一面もあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
地上に置かれている残りの生涯、主を畏れ敬い、主を愛し、主に信頼し、主にお従いする歩みを継続することを得させてください。
天においても地においても地の下においてもあなたの御名が崇められますように。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年7月20日 (月)

ヨシュア24:1-13 聖であられる主なる神こそ主権者

ヨシュア24章の本文(新改訳2017)は斜体です。

1 ヨシュアはイスラエルの全部族をシェケムに集め、イスラエルの長老たち、かしらたち、さばき人たち、つかさたちを呼び寄せた。彼らが神の前に立ったとき、2 ヨシュアは民全体に言った。「イスラエルの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう告げられる。『あなたがたの父祖たち、アブラハムの父でありナホルの父であるテラは昔、ユーフラテス川の向こうに住み、ほかの神々に仕えていた。3 わたしはあなたがたの父祖アブラハムを、あの大河の向こうから連れて来てカナンの全土を歩かせ、子孫を増し、イサクを与えた。4 そして、わたしはイサクにヤコブとエサウを与え、エサウにはセイルの山地を与えてそれを所有させた。一方、ヤコブと彼の子たちはエジプトに下った。5 わたしはモーセとアロンを遣わし、エジプトに災害を下した。わたしがそのただ中で行ったとおりである。その後、わたしはあなたがたを導き出した。6 わたしはあなたがたの父祖たちをエジプトから導き出した。あなたがたが海まで来たとき、エジプト人は、戦車と騎兵であなたがたの父祖たちを葦の海まで追いつめた。7 彼らは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に叫び求め、主はあなたがたとエジプト人の間に暗闇を置き、海に彼らを襲わせ、彼らをおおわせた。あなたがたの目は、わたしがエジプトで行ったことを見た。そして、あなたがたは長い間、荒野に住んだ。8 わたしは、ヨルダンの川向こうに住んでいたアモリ人の地に、あなたがたを導き入れた。彼らはあなたがたと戦ったが、わたしは彼らをあなたがたの手に渡し、あなたがたは彼らの地を占領した。わたしはあなたがたの前から彼らを一掃した。9 モアブの王、ツィポルの子バラクは立ってイスラエルと戦い、あなたがたを呪うために、人を遣わしてベオルの子バラムを呼び寄せた。10 しかし、わたしはバラムに耳を傾けようとしなかった。彼はかえって、あなたがたを祝福し、こうして、わたしはあなたがたをバラクの手から救い出した。11 あなたがたはヨルダン川を渡り、エリコに来た。エリコの住民やアモリ人、ペリジ人、カナン人、ヒッタイト人、ギルガシ人、ヒビ人、エブス人はあなたがたと戦った。しかし、わたしは彼らをあなたがたの手に渡し、12 あなたがたの前にスズメバチを送ったので、スズメバチがアモリ人の二人の王をあなたがたの前から追い払った。あなたがたの剣にもよらず、あなたがたの弓にもよらなかった。13 わたしは、あなたが労したのではない地と、あなたがたが建てたのではない町々をあなたがたに与えた。あなたがたはそこに住み、自分で植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑から食べている。』

 ヨシュアは、自分の地上生涯の終わりが近づいたとき、イスラエルの全部族をシェケムに集めました。
1
節には、「ヨシュアはイスラエルの全部族をシェケムに集め、イスラエルの長老たち、かしらたち、さばき人たち、つかさたちを呼び寄せた。彼らが神の前に立ったとき、」とあります。
イスラエルの全部族、即ちイスラエルの長老たち、かしらたち、さばき人たち、つかさたちを呼び寄せた、ということであろうと私は考えますが、
「即ち」という単語はヘブライ語聖書にはありません。
しかし、イスラエル人をみな集めたら200万人以上になるでしょうから、イスラエルの全部族といっても、それは各部族の長老たち、かしらたち、さばき人たち、つかさたちのことであったのではないかと思います。いわゆる各部族の代表者たちです。もしその捉え方が正しければ最低でも48人が集合したことになります。私の想像ですが、各部族の長は一人であったとしても、さばきびとやつかさ{役人(新共同訳)}は複数人はいたでしょうから実際にはもっと多くの人たちが集められたのではないかと想像します。

 2節冒頭には、“ヨシュアは民全体に言った。「イスラエルの神、主はこう告げられる。”(新改訳2017)と記されています。
そして、それに続く言葉から13節までは主(ヤハウェ)なる神様の御言葉になります。

 213節で、主(ヤハウェ)は、イスラエルの父祖たちから始めて、ヨシュア記24章の時に至るまでの主の主権と主の働き(御業、導き)について、創世記、出エジプト記、民数記、ヨシュア記に記されている内容をヨシュアを通して話されました。

 余談になりますが、
私たちキリスト者の場合、御父は、私たちに対する関与を天地創造の前から始めています。
エペソ14.5には、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(新共同訳)と記されています。
また、ローマ829.30には、「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」(新共同訳)と記されています。
また、1ペテロ12には、「父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たち・・」(新改訳2017)と記されています。
(私は、神学論争をしたくないので、御言葉のみを記します。)

 わたし自身の救いを考えてみても、救われてからの年数がたてばたつほど、主なる神様の愛、恵み、主権、導き、助け、etc.が第一であったと思います。一方、自分の意志、行動はそれに続くものであるというように思います。

 主なる神様の知性の偉大さは、見えるもの(人の目で見える被造物)見えないもの(人の目で捉えることの出来ない被造物)の創造の御業を見れば歴然としています。

 主なる神様からすれば、国々でさえ手桶の一滴のようなものです。
イザヤ4015には、「見よ。国々は手桶の一しずく、秤の上のごみのように見なされる。見よ。主は島々をちりのように取り上げる。」(新改訳2017)と記されています。
主なる神様の偉大さに比べて人は何と小さなものであろうかと思います。
主は創造者であられ、人は被造物です。主が万物をつくられた知性と力はいかほどのものなのか想像もつきません。

 申命記2929には、「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」(新改訳2017)と記されています。

 主の英知の多くは聖書に記されていないことでしょう。
であるとすると、聖書からだけで神学を建てあげても100%正しいといえるものができるはずがないと思います。しかし、主が語られた御言葉そのものは、主の御言葉です。
イエス様は、「天地は過ぎゆかん、されど我が言は過ぎ往くことなし。」(ルカ21:33・文語訳)と語られました。

 2-13節で主が語られたところの「わたし{主(ヤハウェ)}は(が)、・・・をした。」という箇所を列挙すると
①主が、アブラハムをカナンの地に連れて来た(2)。
②主は、アブラハムにカナンの全土を歩かせた(2)。
③主は、アブラハムにイサクを与えた(2)。
④主は、イサクにヤコブとエサウを与えた(4)。
⑤主は、エサウにセイルの山地を与えた(4)。
⑥主は、モーセとアロンを遣わした(5)。
⑦主は、エジプトに災害を下した(5)。
⑧主は、イスラエルをエジプトから導き出した(5.6)。
⑨主は、イスラエルがエジプト軍に追い詰められたとき、両者の間に暗闇を置いた(7)。
⑩主は、紅海で、海をエジプト軍に襲いかからせて彼らを覆われた(7)。
⑪主は、イスラエルをアモリ人の地に導き入れた(8)。
⑫主は、アモリ人がイスラエルに戦いを挑んだので、主はアモリ人をイスラエルの前から一掃した(8)。
⑬主は、バラクの手からイスラエルを救い出した(10)。
⑭主は、カナンの地のエリコの住民、アモリ人、ペリジ人、カナン人、ヒッタイト人、ギルガシ人、ヒビ人、エブス人をイスラエルの手に渡した(11.12)。
⑮主は、イスラエルが労したのではない地と、イスラエルが建てたのではない町々をイスラエルに与えた(13)。
とあります。

 自分自身を振り返ると、私が求道を始めた頃、「私は探求した」そして、「私は主を信じた」、そして、「私は主に信頼した」・・・、という具合でしたが、年数が進む中に、様々なことを体験し、また色々と主から教えて頂き、「主は私に様々な経験をさせ、主を求める道へと私を導いてくださった」、「主は私に、主を信じる信仰を与え、主を信じることが出来るようにして下さった。」、「主は私が意識する、意識しないに関係なく導き続けて下さっておられる」・・・、というように変化したと思うのです。
主は苦難をも与えられますが、多くの場合、その原因は自分にあります(自分にない場合もあります)。また、苦難を与えられますが、主はそれを通してそれ以上の祝福を与えてくださいます。私は、そのように体験してきました。
自分自身にとって不幸と思えることも主は祝福に変えてくださいます。
それ故、「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。」(エペソ520・新改訳2017)という聖句が成り立つのでしょう。すべてを感謝できる人は幸いです。
ローマ11章に「33 ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。36 すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。」(新改訳2017)とありますが、私もパウロと共に、主を賛美し、「アーメン」と言います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたにすべてをゆだねさせて頂けますことを感謝します。
日々、あなたの御手の中にあって歩ませて頂けます幸いを感謝し、我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2020年7月19日 (日)

ヨシュア23:12-16 主に従うようにとの勧め/主に在る者の祝福 

ヨシュア23章の本文(新改訳2017)は斜体です。

12
しかし、もしも、あなたがたが再び堕落して、これらの異邦の民の生き残っている者、すなわち、あなたがたの中に残っているこれらの者たちと親しく交わり、彼らと姻戚関係に入り、あなたがたが彼らの中に入って行き、彼らもあなたがたの中に入って来ることがあれば、13 あなたがたは、このことをしっかりと知らなければならない。あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、もはやこれらの異邦の民をあなたがたの前から追い払われない。彼らはあなたがたにとって、罠となり、落とし穴となり、あなたがたの脇腹にむちとなり、あなたがたの目にとげとなる。そして、あなたがたは自分たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がお与えになったこの良い地から滅び失せる。

 12節冒頭には、「しかし、もしも、あなたがたが再び堕落して」とあります。
日本では、「堕落」を、品行が悪くなり、生活が乱れること。又は、身をもちくずすこと、という意で捉える人が多いのではないかと思います。
しかし、この箇所で、主(ヤハウェ)なる神様は、主なる神様以外のものを神としている人達と深く交わること、姻戚関係に入ることを「堕落」とヨシュアを通して述べています(12)。

 堕落(ここでの堕落とは異宗教の民と深く交わり、異宗教の民と姻戚関係に入ること)したらどうなるのでしょうか。
13
節によると、イスラエルに対しては、「主は、もはやこれらの異邦の民をあなたがたの前から追い払われない。彼らはあなたがたにとって、罠となり、落とし穴となり、あなたがたの脇腹にむちとなり、あなたがたの目にとげとなる。そして、あなたがたは自分たちの神、主がお与えになったこの良い地から滅び失せる。」と記されています。

 本当にそうなるのか、と思われる人は、士師記や列王記などの歴史書を読むと13節に書かれていることが現実に起きたことを知ることが出来ます。

 私たちキリスト者の場合はどうなのでしょう。
現在、100%キリスト教国という国はないでしょう。
日本では、キリスト者は非常に少ないです。
パウロは、1コリント510で、「それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、いっさい付き合わないようにという意味ではありません。そうだとしたら、この世から出て行かなければならないでしょう。」(新改訳2017)と述べています。

 一方でパウロは、「14 不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。15 キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう。16 神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。」(2コリント6章・新改訳2017)と述べています。
キリスト者の場合も、キリストを信じない者と結婚すると大変ですよ、とパウロは述べています。ヨシュア2313の御言葉を借りれば、それは、「彼らはあなたがたにとって、罠となり、落とし穴となり、あなたがたの脇腹にむちとなり、あなたがたの目にとげとなる。」と記されているようなことになりかねません。
主は、愛をもって、そうならないように、という意で述べてくれていると思います。

 しかし、キリスト者でない人と結婚する人は、相手の人を、闇から光へ、サタンの支配から神の支配へと移すため、と思うのだと思います。それは相手の人を非常に好いているからです。中には上手くいく人もいますが、上手くいかない人も多いのではないかと思います。

 日本のキリスト者の男女比がどれくらいかは知りませんが、明らかに女性が多いです。ですから、女性は、キリスト者の男性と結婚したくてもなかなか相手がいない、ということが起きてきます。婚約する前までに、相手の人がイエス様を信じてくれればよいのですが。そのように上手くいく事例もあれば、そうでない事例もあります。

 主を第一とし、主に従って歩んでいるうちに、いわゆる婚期を逃してしまった、その間も、よき伴侶者が与えられるようにと主に祈り続けたのに、という人もいるかも知れません。

 主イエス様は、キリスト者の花婿です。婚姻の儀は携挙の後、天でもたれますが、地上にいる間も、主は花婿として、その人の主人として存在し続けてくださいます。主イエス様と霊においてだけではなく、魂においても一つとなる生活、そのようにできたら、いつも心は満たされます。

 人と人との結婚を、主は、「彼らはもはやふたりではなく一体なのです」(マタイ196)と語られます。
 一方、人が主と結ばれるのは霊においてであり、「主と交わる者は、主と一つの霊になるのです」(新改訳2017)と記されています。
「交わる」と訳されている語の原語は「コルラオー」で、膠で接着する、が原義です。
新共同訳は、1コリント617を「主に結び付く者は主と一つの霊となるのです」と訳しています。
正しく霊における結婚です。
それを霊的感覚で感じ取って日々生活できる人はとても幸いであると思います。
その人と主の関係は、主人とはしための関係ではなく、私の花婿である主人の為には私は自分のすべてを献げて何でもする、という関係になると思います。ものすごく愛に満ちた関係です。

14 見よ。今日、私は地のすべての人が行く道を行こうとしている。あなたがたは心を尽くし、いのちを尽くして、知りなさい。あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたについて約束されたすべての良いことは、一つもたがわなかったことを。それらはみな、あなたがたのために実現し、一つもたがわなかった。

 14節でヨシュアは二つのことを述べています。
①ヨシュアはまもなく地上からいなくなる
②主はご自身が約束されたすべての良きことを果たされた
ということです。

 主は、約束されたことを実行されます。
主は契約の神ですから。
主はイスラエルと契約したことを果たされるのです。時系列的には、過去において果たされ、現在も果たしておられ、将来もこれから果たされるのです。
もしそうでなければ、聖書を信じる必要はありません。
しかし、主は有言実行のお方です。
聖書に書かれている預言は成就してきましたし、未だ成就していない預言はこれから成就するのです。
イザヤ4610を新共同訳は、「わたしは初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り、わたしは望むことをすべて実行する。」と訳し、
口語訳は、「わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、『わたしの計りごと〔計画(新改訳2017)〕は必ず成り、わが目的〔望むこと(新改訳2017)〕をことごとくなし遂げる』と。」と訳しています。

 私たちキリスト者に対する主のご計画もすべて成し遂げてくださるのです。
ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!です。

15
あなたがたの神、主
〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたに約束されたすべての良いことが、あなたがたに実現したように、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はまた、すべての悪いことをあなたがたにもたらし、ついには、あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がお与えになったこの良い地からあなたがたを根絶やしにされる。16 主があなたがたに命じられた、あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の契約を破り、行ってほかの神々に仕え、それらを拝むなら、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の怒りはあなたがたに対して燃え上がり、あなたがたは、主がお与えになったこの良い地から速やかに滅び失せる。」

 主は、主が約束されたことを実行されます。
主の約束には、祝福もあれば呪いもあります。
祝福と呪いについては、レビ記26章、申命記28章をご覧ください。

 16節には、「主があなたがたに命じられた、あなたがたの神、主の契約を破り、行ってほかの神々に仕え、それらを拝むなら、主の怒りはあなたがたに対して燃え上がり、あなたがたは、主がお与えになったこの良い地から速やかに滅び失せる。」とあります。
 北イスラエル王国も、ユダを中心とするユダ王国(南イスラエル王国)も共に16節を体験しました。
 ここでは北イスラエル王国の例だけを上げますが、2列王記17章には、
1 ユダの王アハズの第十二年に、エラの子ホセアがサマリアでイスラエルの王となり、九年間、王であった。2 彼は主の目に悪であることを行ったが、彼以前のイスラエルの王たちのようではなかった。3 アッシリアの王シャルマネセルが攻め上って来た。そのとき、ホセアは彼に服従して、貢ぎ物を納めた。4 しかし、アッシリアの王はホセアの謀反に気がついた。ホセアがエジプトの王ソに使者たちを遣わし、アッシリアの王には年々の貢ぎ物を納めなかったからである。そこで、アッシリアの王は彼を捕らえて牢獄につないだ。5 アッシリアの王はこの国全土に攻め上り、サマリアに攻め上って、三年間これを包囲した。6 ホセアの第九年に、アッシリアの王はサマリアを取り、イスラエル人をアッシリアに捕らえ移し、彼らをハラフと、ゴザンの川ハボルのほとり、またメディアの町々に住まわせた。7 こうなったのは、イスラエルの子らが、自分たちをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王ファラオの支配下から解放した自分たちの神、主に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、8 主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習にしたがって歩んだからである。9 イスラエルの子らは、自分たちの神、主に対して、正しくないことをひそかに行い、見張りのやぐらから城壁のある町に至るまで、すべての町に高き所を築き、10 すべての小高い丘の上や、青々と茂るどの木の下にも石の柱やアシェラ像を立て、11 主が彼らの前から移された異邦の民のように、すべての高き所で犠牲を供え、悪事を行って主の怒りを引き起こした。12 主が彼らに「このようなことをしてはならない」と命じておられたのに、彼らは偶像に仕えたのである。13 主はすべての預言者とすべての先見者を通して、イスラエルとユダに次のように警告された。「あなたがたは悪の道から立ち返れ。わたしがあなたがたの先祖たちに命じ、また、わたしのしもべである預言者たちを通してあなたがたに伝えた律法全体にしたがって、わたしの命令と掟を守れ。」14 しかし、彼らはこれを聞き入れず、彼らの神、主を信じなかった彼らの先祖たちのように、うなじを固くした。15 彼らは主の掟と、彼らの先祖たちと結ばれた主の契約と、彼らに与えられた主の警告を蔑み、空しいものに従って歩んだので、自分たちも空しいものとなり、主が倣ってはならないと命じられた、周囲の異邦の民に倣って歩んだ。16 彼らの神、主のすべての命令を捨て、自分たちのために、鋳物の像、二頭の子牛の像を造り、さらにアシェラ像を造り、天の万象を拝み、バアルに仕えた。17 また、自分たちの息子や娘たちに火の中を通らせ、占いをし、まじないをし、主の目に悪であることを行うことに身を任せ、主の怒りを引き起こした。18 そのため主はイスラエルに対して激しく怒り、彼らを御前から除かれた。”(新改訳2017)と記されています。

 一方、大きな罪も犯しましたが、主に信頼し続けたダビデの最後の記事には、
26 このようにして、エッサイの子ダビデは全イスラエルを治めたのである。27 彼がイスラエルの王であった期間は四十年であった。ヘブロンで七年治め、エルサレムで三十三年治めた。28 彼は幸せな晩年を過ごし、齢も富も誉れも満ち足りて死んだ。彼の子ソロモンが代わって王となった。29 ダビデ王についての事柄は、最初から最後まで、『予見者サムエルの働き』、『預言者ナタンの働き』、『先見者ガドの働き』にまさしく記されている。30 そこには、彼の統治のすべてとその功績、また、彼とイスラエル、および諸国のすべての王国の上に過ぎていった時代についても記されている。」(1歴代誌29章・新改訳2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私たちキリスト者はイエス様の血による契約を結んだ新約の民です。
あなたは天にあるすべての霊的祝福を与えてくださっておられますから感謝します。
私たちは、その中から一つ又一つと、現在も享受し、天においては天で享受し、千年王国では千年王国で享受し、新天新地では新天新地で享受させて頂けますから感謝します。
また、この世においては必要を満たしてくださいますから感謝します。
御名を崇め、御名を賛美し、我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2020年7月18日 (土)

ヨシュア23:6-11 神の民であるイスラエルは律法を守れ/救いときよめについて(主と共に歩む)

ヨシュア23章の本文(新改訳2017)は斜体です。

6
また、モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行いなさい。そこから右にも左にも外れず、7 これらの国々、あなたがたの中に残っている、これらの異邦の民と交わらないようにするためである。彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。8 ただ今日までしてきたように、あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にすがりなさい。9 〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、大きくて強い異邦の民をあなたがたの前から追い払われた。だから今日まで、あなたがたの前に立ちはだかることのできる者は、一人としていなかった。10 あなたがたは一人で千人を追うことができる。あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。11 だからあなたがたは自分自身に十分に気をつけて、あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を愛しなさい。

 今日の箇所は単純明快です。
①ヤハウェを愛し、ヤハウェに信頼し、律法を守りなさい(6.7.8.11)。
②ヤハウェを愛し、ヤハウェに信頼し、律法を守る者には祝福が与えられる(9.10)。

 律法を守ることによる祝福については、申命記28章に、
1 もし、あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。2 あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。3 あなたは町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。4 あなたの胎の実も大地の実りも、家畜が産むもの、群れの中の子牛も群れの中の子羊も祝福される。5 あなたのかごも、こね鉢も祝福される。6 あなたは入るときにも祝福され、出て行くときにも祝福される。7 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、あなたに向かい立つ敵どもをあなたの前で敗走させる。彼らは一つの道からあなたを攻めて来るが、あなたの前で七つの道に逃げ去る。8 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざが祝福されるように命じられる。あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。9 あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令を守り主の道を歩むなら、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたに誓われたとおり、あなたをご自分の聖なる民として立ててくださる。10 地上のあらゆる民はあなたに主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の名がつけられているのを見て、あなたを恐れるであろう。11 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに与えるとあなたの父祖たちに誓われたその地で、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたの胎の実、家畜が産むもの、大地の実りを豊かに恵んでくださる。12 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はその恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それで、あなたは多くの国々に貸すが、借りることはない。13 私が今日あなたに命じる、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令に聞き従い、守り行うなら、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたをかしらとし、尾とはされない。あなたはただ上になり、下になることはない。”(新改訳2017)と記されています。

 イスラエルは神の民とされた民族です。それを出エジプト記3章から見ると、
7 ・・。わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。・・。10 今、行け。わたしは、あなた〔モーセ(筆者挿入)〕をファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」(新改訳2017)とあります。

 主(ヤハウェ)なる神様は、主の民をエジプトから救い出した後、イスラエルに律法を与え、イスラエルは律法を守ると約束し、そこに旧契約が実現したのです。
契約を結んだ箇所は、出エジプト24章に、
3 モーセは来て、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のすべてのことばと、すべての定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えた。「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の言われたことはすべて行います。」4 モーセは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のすべてのことばを書き記した。モーセは翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、また、イスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。5 それから彼はイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ、また、交わりのいけにえとして雄牛を主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に献げた。6 モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。7 そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の言われたことはすべて行います。聞き従います。」8 モーセはその血を取って、 民に振りかけ、 そして言った。 「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたと結ばれる契約の血である。」”(新改訳2017)と記されています。

 私たちキリスト者からすれば、以上が旧契約です。
そして、この契約には、祝福と呪いが伴いました。
申命記11章に、
26 見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福とのろいを置く。27 祝福とは、私が今日あなたがたに命じる、あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令〔律法のこと(筆者挿入)〕に聞き従った場合であり、28 のろいとは、あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令に聞き従わず、私が今日あなたがたに命じる道から外れて、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行った場合である。”(新改訳2017)と記されています。

 イスラエルの歴史は、主が約束を実行されたことを見せてくれています。
主が語られた御言葉は実現するのです。
ルカ137には、いつも御父の近くで仕えている天使ガブリエルの言葉が、「神が語られたすべてのことば(「語られたことば」の原語は「レーマ」)に、不可能なことは何もない。」(私訳)と記されています。(新改訳2017のルカ137の欄外を参照してください。)
この箇所を文語訳は、「それ神の言(ことば)には能(あた)はぬ所なし」と訳しています。

 さて、キリスト者の場合、今日の聖書箇所をどのように考えたら良いのでしょうか?
キリスト者の中には、律法不要論の人がいます。
しかし、イエス様は、律法は天地が滅び失せない限りなくならない、と語られました。
マタイ518には、「まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。」(新改訳2017)と語られ、それに続いて、「ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。」(マタイ519・新改訳2017)と語られたのです。

 キリスト者の中には、このような聖句に触れると、律法を守らなければ救われないのだろうとか、と不安を覚える人もいますが、上記の御言葉は天の御国に入っている人に対しての御言葉です。

 ご安心ください。
救いは、律法を守れるか守れないかとは関係ありません。
イエス・キリスト様を信じる者は誰でも救われるのです。
ローマ人への手紙10章には、
9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。11 聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」12 ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。13 「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。”(新改訳2017)と記されています。

 イエス様を信じた人は「永遠のいのち」を得ます(ヨハネ336)。
イエス様を信じた人は、永遠の滅びへ行くという裁き(火と硫黄の池)を受けることがありません(ヨハネ318)。{キリスト者は、キリストの裁きの座に立たされる、というのはあります(2コリント510)。このさばきは報酬と関係があります(1コリント310-15、マタイ2514-30、ルカ1912-27参照)。}
イエス様を信じた人は神の子どもです(1ヨハネ31.2)。
イエス様を信じた者の集合体{教会(エクレシア)}はキリストの花嫁です(2コリント112、エペソ532、黙示録196-8)。
イエス様を信じた結果与えられた驚くべき恵みです。

 今日の聖書箇所は、救われたキリスト者の聖なる歩みに関することと関係します。
キリスト者が地上に置かれているとき、キリスト者は、主のみ旨の内を御霊の導きによって歩むほうが、そうではない歩みよりも御父から祝福されます。この祝福は霊的なものです。とはいえ、物質的にも祝福される場合が多いですが、物質的祝福については絶対とは言えません。しかし、主は必要を満たしてくださいます(ピリピ419)。
主のみ旨の内を歩む歩みを聖い歩みと言います。
きよい歩みのすばらしさは、主をより豊かに知ることが出来ること、主との交わりがとても豊かになることです。きよい歩みの根底には、主への愛があります。
 世の中には、主イエス様を信じようとはしないけれども人格的に優れている人たちがいます。そのような人達は、対人的に、ある意味かなり正しい人かもしれませんが、きよくはありません。
黙示録2211に、「・・・。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」(新改訳2017)という面白い表現の聖句が記されています。
私たち、キリスト者は、「聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」に該当します。
本質的に聖なるお方は、三一の主なる神様だけです。
聖とは、他の者と区別されている、ということです。
主のお名前は、ヤハウェですが、ヤハウェには、自存と永遠という意があります。
自存にて永遠なるお方は、主しかいません。それ故、主は聖なるお方です。
他のすべてのものは、主によってつくられたもの、すなわち被造物です。
但し、例外が一つあります。
それは新生したキリスト者の霊です。
イエス様は、「まことに〔原語は「アーメン」(筆者挿入)〕、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ33・新改訳2017)と語られ、更に、「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」(ヨハネ36・新共同訳)と語られました。
神の霊から生まれた霊は聖いものです。そこにイエス様がお住みになられるのです。
更にイエス様が魂にも満ち、体にも満ちてくださったら素晴らしいです。
そのためには、魂のきよめが必要です。魂は、イエス様を信じた時に救わました(1ペテロ19)。魂は、救われた時に初次的聖化を受けました。即ち、イエス様を信じない魂から、イエス様を信じ、イエス様に従いたいという思いを与えられたのです。
そして、主と共に歩み続けることによって、あの部分もこの部分も一つ一つ、主は、主のみ旨と一致するように変えてくださるのです。これを聖化と言います。
主は、一人一人にご計画をお持ちですから、一人一人の聖なる歩みの外見は、皆同じ、というわけではありません。人と比べないように、人と比べるのではなく、わたしイエスについて来なさい、というのがイエス様の教えです(ヨハネ2122)。
主と共に歩めば、聖徒は益々聖なる者とされるのです(1ヨハネ17、黙示録2211参照)。
主と共に歩むという聖なる歩みは、益々豊かに、主の愛の中で、主のすばらしさを知り、主の豊かさを知りながら歩む地上生涯となるのです。
ヘブル1214には、「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。」(新改訳2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
主を愛し、主に信頼し続け、いつも主と共に歩む聖い歩みをする者であらせてください。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2020年7月17日 (金)

ヨシュア23:1-5 ヨシュアの告別の言葉1/キリストの信仰によって生かされているキリスト者

ヨシュア23章の本文(新改訳2017)は斜体です。

1
〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、周囲のすべての敵からイスラエルを守って安息を与えられてから、多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。2 ヨシュアは全イスラエル、その長老たち、かしらたち、さばき人たち、つかさたちを呼び寄せて彼らに言った。「私は年を重ねて老人になった。3 あなたがたは、自分たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が自分たちのために、これらすべての国々に行ったことをすべて見てきた。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である。4 見よ。私はヨルダン川から日の入る方の大海まで、これらの残っている国々と、すでに私が絶ち滅ぼしたすべての国々を、相続地としてあなたがたの部族にくじで分けた。5 あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕ご自身が、彼らをあなたがたの前から追い払い、あなたがたの目の前から追い出される。あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたに告げたように彼らの地を占領しなさい。

 1節に、「ヨシュアは年を重ねて老人になっていた」とあります。
ヨシュアは、自分が110歳になったからということよりも、自分自身の体の衰えを感じていたからということではないかと思います。

 2節には、「ヨシュアは全イスラエル、その長老たち、かしらたち、さばき人たち、つかさたちを呼び寄せて彼らに言った。」とあります。
ヨシュアがイスラエルの指導者たちを呼び寄せた場所は記されていません。
呼び寄せた場所はどこなのでしょう?
ヨシュアの相続地は、ヨシュア記1950に、「エフライムの山地にあるティムナテ・セラフ」と記されています。
ヨシュアが高齢になったからといって、主の大切なお仕事を自宅でしたとは思えません。
この時、主の箱が安置されている主の天幕(会見の天幕)は「シロ」にありました(ヨシュア181)。
相続地の分割は、ギルガルとシロで行われました。
ギルガルでは、ユダ、ヨルダン川西側のマナセの半部族、エフライムの相続地の割り当てをしました(ヨシュア14-17章)。
シロでは、ベニヤミン、シメオン、ゼブルン、イッサカル、アシェル、ナフタリ、ダンの相続地の割り当てをしました(ヨシュア18.19章)。
ヨシュア1951には、「これらは祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、そしてイスラエルの諸部族の一族のかしらたちが、シロにおいて会見の天幕の入り口、すなわち主の前で、くじによって割り当てた相続地である。彼らは地の割り当てを終えた。」と記されています。
以上の流れから、シロでこの告別説教がなされたのかな、とも思いますが、何とも言えません。ヨシュア24章では、ヨシュアはイスラエルの全部族をシェケムに集めた、と記されていますから。
それ故、集合場所の件は、分からないままにしておきます。

 2節の「ヨシュアは全イスラエル、その長老たち、かしらたち、さばき人たち、つかさたちを呼び寄せて」と訳している新改訳2017の箇所を、
 岩波訳は、「ヨシュアは、全イスラエルを、すなわちイスラエルの長老、〔部族の〕長(おさ)、裁き人(さばきびと)、役人を呼び寄せ」と訳し、
 新共同訳は、「ヨシュアは、長老、長、裁判人、役人を含む全イスラエルを呼び寄せて」と訳し、
 口語訳は、「ヨシュアはイスラエルのすべての人、その長老、かしらたち、さばきびと、つかさびとたちを呼び集めて」と訳し、
 文語訳は、「ヨシユア一切のイスラエル人すなはち其長老首領裁判人官吏などを招きよせて」と訳し、
 リビングバイブルは、「彼はイスラエルの指導者である長老、裁判官、長たちを呼び」と訳しています。

 イスラエルは、主の命により、ヨルダン川を渡る前、モアブの地で、軍務につくことの出来る人数の調査をしました。その人数は、601,730人でした(民数記261-51)。
そして、ヨシュア記23章は、それから大分年月が経っているのですから、モアブの地での人口調査の人数よりも、もっと多かったのではないかと思います。
それ故、この箇所の意味は、「ヨシュアは、全イスラエルを、すなわちイスラエルの長老、〔部族の(訳者挿入)〕長(おさ)、裁き人(さばきびと)、役人を呼び寄せ」(岩波訳)ということではないかと思います。いわゆるイスラエルの代表たちを呼んだのだと思います。拡声器のない時代ですから。

 2bの「私は年を重ねて老人になった。」というところから16節までは、ヨシュアの告別の言葉です。

 3節には、「あなたがたは、自分たちの神、主が自分たちのために、これらすべての国々に行ったことをすべて見てきた。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主である。」(新改訳2017)とあり、戦いに勝利させてくださったのは主(ヤハウェ)なる神であることを強調しています。それは、エリコやアイのことを思い起こせばよく分かることです。

 これは、私たちキリスト者の信仰の戦いも主によるのだ、ということを思い起こさせてくれています。

 ガラテヤ220を新改訳2017は、「・・・。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」と訳していますが。「神の御子に対する信仰によるのです。」の部分は、「神の御子の信仰によるのです」とも訳せます。
 永井訳は、ガラテヤ220を、「我はキリストと同に(ともに)十字架につけられたり。されど生く、尚ほ我にあらず、キリスト我にありて生きたもふなり。されどわれ今肉にありて生くるは、我を愛し給ひ、且つ我がために己自らを付し(わたし)給ひし神の子の信仰に在りて生くるなり。」と訳し、
 聖書協会共同訳は、ガラテヤ219b.20を、「私はキリスト共に十字架につけられました。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるのです。」と訳しています。

 キリストの信仰によって生かされている、ということは本当に幸いなことだと思います。
イエス様は祈りの中で、「あなた〔御父(筆者挿入)〕が世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。」(ヨハネ176・新改訳2017)と御父に語り、
また別の箇所では、「27 わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。29 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。30 わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10章・新改訳2017)と語られました。

 4節には、「見よ。私はヨルダン川から日の入る方の大海〔地中海(筆者挿入)〕まで、これらの残っている国々と、すでに私が絶ち滅ぼしたすべての国々を、相続地としてあなたがたの部族にくじで分けた。」(新改訳。2017)とあり、各部族への相続地の割り当てについて述べています。

 5節には、「あなたがたの神、主ご自身が、彼らをあなたがたの前から追い払い、あなたがたの目の前から追い出される。あなたがたの神、主があなたがたに告げたように彼らの地を占領しなさい。」(新改訳2017)とあります。
4
節の一部に、「これらの残っている国々と」とあり、イスラエル諸部族への土地の割り当ては終わっていますが、多くの部族は、与えられた相続地の中にまだ聖絶しなければならない国々を残していたのです。それを占領しなさい、と5節で命じています。

 この節をキリスト者にあてはめると、
これは実質的なきよめと関係すると考えることが出来ると思います。
キリスト者は、主の血潮によって立場的には、全く聖とされました(ヘブル1010)。
しかし、実際には、主と一つとなっていない部分を少し、或いは多く残しているのではないかと思います。
ペテロは、「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。」(1ペテロ115・新共同訳)と述べています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
主の内に在って守られていることを感謝します。
あなたを愛し、あなたに信頼し、あなたに在って信仰の戦いに勝利し、あなたのみ旨と一つになっていない部分を教えて頂き、あなたに変えていただいてみ旨の如く歩む者とさせてください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年7月16日 (木)

ヨシュア22:9-34 二部族半の人たちが勝手に建てた大きな祭壇/主のみ旨の内を歩むのが一番

ヨシュア22章の本文(新改訳2017)は斜体です。

9
ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるシロでイスラエルの子らと別れ、モーセを通して示された主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命により、彼らが得た自分の所有地、すなわちギルアデの地へ帰って行った。

22:10 ルベン族、ガド族、マナセの半部族はカナンの地のヨルダン川の流域まで来たとき、そこ、ヨルダン川のそばに一つの祭壇を築いた。それは遠くから見えるほど大きな祭壇であった。

 ヨルダン川東岸の二部族半の人たちは、カナンの地における自分たちの任務が終わりギルアデの地に帰っていきました。彼らは、ヨルダン川のそばに遠くからも見える大きな祭壇を築いたのです。

 枝葉のことかもしれませんが、
新改訳2017が「ヨルダン川の流域」と訳した箇所を、新改訳第三版は「ヨルダン川のほとりの地」、口語訳は「ヨルダン川のほとり」と訳し、
新共同訳、聖書協会共同訳、岩波訳は、ヘブライ語聖書の単語と同じ「ゲリロト」と訳しています。地名として捉えて訳しているのだろうと思います。
ヨルダン川のゲリロトについて、新共同訳スタディー版の注は、“ギルガルの別名と思われる。*単に「ヨルダン地方」とも理解される。”と述べています。

 この祭壇建設は、主(ヤハウェ)なる神様が、その地に造りなさいと命じたわけでもなく、他の部族との了解のもとに作ったのでもありませんでした。
いずれにしても、祭壇は、主の聖なるものですから、主の命によらずに造ること自体間違っているのです。

11 イスラエルの子らは、「ルベン族、ガド族、マナセの半部族がカナンの地の国境、ヨルダン川のイスラエルの子らの側の流域に、祭壇を築いた」と聞いた。12 イスラエルの子らがそれを聞いたとき、イスラエルの全会衆は彼らと戦おうとシロに集まった。

 二部族半の人たちが祭壇建設を行ったということを聞いた九部族半のイスラエルの民は、彼らと戦おうとシロに集合しました。

13 イスラエルの子らは、ギルアデの地のルベン族、ガド族、マナセの半部族のところに祭司エルアザルの子ピネハスを送った。14 彼に同行したのは、イスラエルの全部族の中から一族につき族長一人ずつ、計十人の族長であった。彼らはみな、イスラエルの分団の中で一族のかしらであった。

 カナンの地のイスラエルの民は、ヨルダン川東岸の二部族半の人たちに、祭司エルアザルと各部族の族長を代表団として送りました。

15 彼らはギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに行き、彼らに告げた。16 「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の全会衆はこう言っている。『これは何事か。あなたがたが今日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に従うことをやめてイスラエルの神の信頼を裏切るとは。あなたがたは自分のために祭壇を築いて、今日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に反逆したのだ。17 ペオルでの不義は、私たちにとって小さなことだっただろうか。私たちは今日まで、あの不義から身をきよめていないではないか。そのために神の罰が主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の会衆の上に下ったのだ。18 あなたがたは今日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に従うことをやめようとしている。あなたがたは今日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に反逆しようとしている。明日、イスラエルの全会衆に向かって主は怒られるだろう。

 17節の「ペオルでの不義」とは、民数記251.2に記されている淫乱と偶像礼拝です。
この偶像礼拝等の罪を主は怒られ、主の罰で24000人が死んだのです(民数記253-9)。
民数記259には、「この主の罰で死んだ者は、二万四千人であった。」(新改訳2017)と記されています。
「罰」と新改訳2017が訳した語の原語は「マゲファー」で、原義は、ペスト、疫病、等の意です。新共同訳は「災害」と訳し、聖書協会共同訳、口語訳、文語訳は「疫病」と訳しています。

 十部族の代表団は、「あなたがたは今日、主に従うことをやめようとしている。あなたがたは今日、主に反逆しようとしている。明日、イスラエルの全会衆に向かって主は怒られるだろう。」(18)とヨルダン川東岸の二部族半の人たちに語りました。
 カナンの地のイスラエルの民及びその十部族の代表団は、主が怒りを発せられて、疫病等の災害を罰として下されるのではないだろうと恐れていたことが分かります。

19
ただし、あなたがたの所有地が汚れているのなら、主
〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の幕屋が建つ主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の所有地に渡って来て、私たちの間に所有地を得なさい。私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の祭壇のほかに自分たちのために祭壇を築いて、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に反逆してはならない。私たちに反逆してはならない。

 十部族の代表団は、いきなり二部族半の人たちと戦いを交えるということを言うために来たのではなく、よき条件を携えて、罪を悔い改めさせようとして来ていることが分かります。
二部族半の兵士として参戦した人たちは、カナンの地を取得するために良き働きをしてきた人たちです。それ故、19節にあるように「あなたがたの所有地が汚れているのなら、主の幕屋が建つ主の所有地に渡って来て、私たちの間に所有地を得なさい。」と言っているのであろうと思います。

20 ゼラフの子アカンが、聖絶の物のことで主の信頼を裏切り、イスラエルの全会衆の上に御怒りが下ったではないか。彼の不義によって死んだ者は彼一人ではなかった。』」

 アカン一人の罪の罰はイスラエル全体に及びました。イスラエルから主の臨時がなくなったのです。それ故、アイとのいくさでアカンに関係のない兵士36人も死に、アイとの最初の戦いで、イスラエルは敗北しました。また、アカンの罪の罰は家族や牛、ろば、羊をも含む所有物にも及び、みな滅ぼされたのです(ヨシュア7章)。

 21-29節迄は、ルベン族、ガド族、マナセの半部族からなる二部族半の人たちが、なぜ祭壇を造ったのかということについての二部族半の人たちの弁明です。

21 ルベン族、ガド族、マナセの半部族はイスラエルの分団のかしらたちに答えて言った。22 「神の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、神の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はご存じです。イスラエルもこれを知りますように。もしこれが、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に対する反逆や不信の罪をもってなされたのなら、今日、私たちをお救いにならないでください。23 私たちが祭壇を築いたことが、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に従うのをやめることであるなら、あるいは、その上で全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げるため、あるいはその上で交わりのいけにえを献げるためであるなら、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕ご自身が私たちを責めてくださいますように。24 しかし、私たちがこのことをしたのは次のことを恐れたからです。後になって、あなたがたの子らが、私たちの子らに次のように言うかもしれません。『あなたがたとイスラエルの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕との間に何の関係があるのか。25 〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はヨルダン川を、私たちと、あなたがたルベン族、ガド族との間の境界とされた。あなたがたは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のうちに取り分がない。』こうして、あなたがたの子らが私たちの子らに、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れることをやめさせるかもしれません。26 私たちは考えました。さあ、私たちは自分たちのために祭壇を築こう、と。全焼のささげ物のためではなく、いけにえのためでもありません。27 それは、私たちとあなたがたとの間、私たちの後の世代との間の証拠となり、私たちが全焼のささげ物といけにえと交わりのいけにえを献げて、主の前で主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕への奉仕をするためです。こうすれば、後になって、あなたがたの子らが私たちの子らに『あなたがたは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のうちに取り分がない』と言うことはないでしょう。28 私たちは考えました。後になって、もし私たち、また私たちの子孫がそう言われたとしても、私たちはこう言うことができる。『私たちの父祖が造った主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の祭壇の型を見よ。これは全焼のささげ物のためでもなく、いけにえのためでもなく、私たちとあなたがたとの間の証拠なのだ』と。29 私たちが、主の幕屋の前にある私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の祭壇のほかに、全焼のささげ物や穀物のささげ物や、いけにえを献げる祭壇を築いて、今日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に反逆して主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に従うことをやめるなど、絶対にあり得ないことです。」

 3033節には、二部族半の人たちの弁明を聞いた十部族の代表団の人達の納得と、カナンの地のイスラエル人たちが、代表団の報告を聞いて、その内容に満足し、主を賛美し、いくさが回避されたことが記されています。

30 祭司ピネハス、会衆の上に立つ族長たち、彼とともにいたイスラエルの分団のかしらたちはルベン族、ガド族、マナセ族が語ったことばを聞いて、それに満足した。31 エルアザルの子、祭司ピネハスはルベン族、ガド族、マナセ族に言った。「今日、私たちは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私たちの中におられることを知った。あなたがたが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の信頼を裏切らなかったからである。あなたがたは今、イスラエルの子らを主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の手から救い出した。」32 エルアザルの子、祭司ピネハスと族長たちは、ルベン族およびガド族と別れ、ギルアデの地からカナンの地のイスラエルの子らのところに帰り、このことを報告した。33 イスラエルの子らはこれに満足した。彼らは神をほめたたえた。そしてもはや、ルベン族とガド族が住んでいる地を滅ぼすために戦をしよう、とは言わなかった。

34 ルベン族とガド族はその祭壇に「これは私たちの間での、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が神であることの証しだ」と言って名をつけた。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
二部族半の人たちの動機は純粋でも、行動に難があったことを覚えます。
二部族半の人たちが過越の祭にエルサレムに上ることは、ヨルダン川を渡った時期の頃なので大変であったろうな、と思います。
それを考えるとヨルダン川の西側に相続地を得た方が良かったであろうに、と思います。
主がアブラハムに約束したのは、カナンの地でした。
箴言192の「たましいに知識がないことは良くない。急ぎ足の者は罪に陥る。」(新改訳2017)という聖句を思い浮かべます。
主を知る知識に満たされ、主を第一とし、主のみ旨に従って歩み続けることが出来ますように。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年7月15日 (水)

ヨシュア21:43-22:9 諸部族への土地の分割後、ヨルダン川東岸の諸部族が帰還する/与えられたものを獲得する

ヨシュア2143-229の本文(新改訳2017)は斜体です。

21:43
〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、イスラエルの父祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられた。彼らはそれを占領し、そこに住んだ。44 〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、彼らの父祖たちに誓ったように、周囲の者から守って彼らに安息を与えられた。すべての敵の中にも、一人として彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はすべての敵を彼らの手に渡された。45 〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がイスラエルの家に告げられた良いことは、一つもたがわず、すべて実現した。

 43節には、「主は、イスラエルの父祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられた。彼らはそれを占領し、そこに住んだ。」とあります。

 「イスラエルの父祖たちに与えると誓った地」とありますが、主はアブラハムに先ず誓いました。創世記177.8には、「わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、わたしの契約を、わたしとあなた〔アブラハム(筆者挿入)〕との間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。」(新改訳2017)と記されています。
 また、創世記263.4には、「あなた〔イサク(筆者挿入)〕はこの地に寄留しなさい。わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたとともにいて、あなたを祝福する。あなたとあなたの子孫に、わたしがこれらの国々をすべて与える。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす。」(新改訳2017)と記されています。
 また、創世記2813.14には、「わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなた〔ヤコブ(筆者挿入)〕が横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。」(新改訳2017)と記されています。

 43節には、「主は、イスラエルの父祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられた。彼らはそれを占領し、そこに住んだ。」とありますが、この節の前半部分は、神の側から見ての真実でした。主はカナンの地を与えたのです。そして、主に信頼して戦い取った地は、確かにイスラエルのものとなりました。主に対する信頼が欠如して恐れをもって戦った部族等は、与えられた地を得なかったのではないかと思います。主は、カナンの地に入る前に、ヨシュアに「2 わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。3 わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。4 あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。5 あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。6 強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。7 ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。8 このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたとともにおられるのだから。」(ヨシュア1章・新改訳2017)と語られました。
主が語られたことを信じるべきである人は、ヨシュアだけではなく、イスラエルの民全員であるべきでした。
ユダ族のカレブは、「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたとともにおられるのだから。」(9)という神のことばを信じて自分に与えられた分の地を戦い取っていったと思います。しかし、その信仰に立てなかった部族の人達の中には、与えられていても獲得しきれない地を残したままにしたのです。

 43節には、「主は、イスラエルの父祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられた。彼らはそれを占領し、そこに住んだ。」とありますが、その後半部分の、「彼らはそれを占領し、そこに住んだ。」というのは、占領できた部分の地に住んだ、ということです。
それは、ヨシュア234.5のヨシュアの言葉に表れています。
ヨシュア234.5には、「見よ。私はヨルダン川から日の入る方の大海まで、これらの残っている国々と、すでに私〔ヨシュア(筆者挿入)〕が絶ち滅ぼしたすべての国々を、相続地としてあなたがたの部族にくじで分けた。あなたがたの神、主ご自身が、彼らをあなたがたの前から追い払い、あなたがたの目の前から追い出される。あなたがたの神、主があなたがたに告げたように彼らの地を占領しなさい。」(新改訳2017)と記されています。

 私たちキリスト者に対して、「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」(エペソ13・新改訳2017)と記されています。
キリスト者であれば、だれでもキリストによって罪赦され、永遠のいのちを与えられたことを確信していることと思います。しかし、天上にあるすべての霊的祝福は、それだけではありません。
それ故、パウロは、「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」(エペソ117-19・新改訳2017)と祈ってくれています。

22:1 そのとき、ヨシュアはルベン人、ガド人、およびマナセの半部族を呼び寄せて、2 彼らに言った。「あなたがたは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のしもべモーセがあなたがたに命じたことをことごとく守り、私があなたがたに命じたすべてのことについても、私の声に聞き従った。3 今日まで、この長い間あなたがたの兄弟たちを捨てず、あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令に対する務めを果たしてきた。4 今あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、約束したとおりに、あなたがたの兄弟たちに安息を与えられた。今、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のしもべモーセがヨルダンの川向こうであなたがたに与えた、自分たちの所有地、自分たちの天幕に引き返しなさい。

 1-4節は、民数記32章を読み直すとよく分かります。
新共同訳スタディー版の注は、「ルベン、ガド、東マナセの各部族はモーセの時に既に割り当て地を得ていたが、カナン攻撃の先鋒に立つよう命じられた(ヨシュア112-15、民数記321-27、申命記312-17)。ヨシュアはヨルダン川東岸に家と家族を残してきた兵士たちに語りかけている。イスラエルの民がヨルダン川西岸の地域を征服した今、ルベン、ガド、マナセの半部族は東岸の自分たちの領土に戻ることが出来た。」とまとめてくれています。

5
ただ、主
〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のしもべモーセがあなたがたに命じた命令と律法をよく守り行い、あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守り、主にすがり、心を尽くし、いのちを尽くして主に仕えなさい。」

 ヨシュアは、主がイスラエルに命じられた命令を短い文でまとめています。
主のご命令は、一方的なものではなく、イスラエルは主と律法を守るという契約を結んだのです。
契約には祝福と呪いもついていました。5節に記されていることを実行すれば、イスラエルは主から豊かな祝福が与えられ、反対に主のご命令に背けば呪いが与えられたのです(レビ26章、申命記28章)。

6
ヨシュアが彼らを祝福し、送り出したので、彼らは自分たちの天幕に行った。7 マナセの半部族にはモーセがバシャンに所有地を与えたが、残りの半部族には、ヨシュアがヨルダン川の反対側、すなわち西の方に、彼らの兄弟たちと並んで所有地を与えた。ヨシュアは彼らを天幕に送り出すとき、彼らを祝福して、8 こう言った。「あなたがたは多くの財、つまり、非常に多くの家畜と銀、金、青銅、鉄、たくさんの衣服を持って天幕に帰りなさい。敵からの分捕り物はあなたがたの兄弟たちと分け合いなさい。」9 ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるシロでイスラエルの子らと別れ、モーセを通して示された主
〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命により、彼らが得た自分の所有地、すなわちギルアデの地へ帰って行った。

 ヨシュアは、ヨルダン川東岸の二部族半の人たちに、ただ「帰っていいよ」と言ったのではなく、彼らを祝福して、「あなたがたは多くの財、つまり、非常に多くの家畜と銀、金、青銅、鉄、たくさんの衣服を持って天幕に帰りなさい。敵からの分捕り物はあなたがたの兄弟たちと分け合いなさい。」と語ったのでした。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私たちキリスト者は、天に帰れば、天にあるすばらしいものを目で見、手で触れ、耳で聞くことが出来ますが、地上にいる間も、地上での務めを果たしつつ、天上のものを霊の感覚で感得させて頂きながら歩むことが出来ますように。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年7月14日 (火)

ヨシュア21:1-42 レビ人の町/配慮の神

ヨシュア211-42の本文(新改訳2017)は斜体です。

1
レビ人の一族のかしらたちは、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、そしてイスラエルの人々の部族の、一族のかしらたちのところに近寄って来て、2 カナンの地のシロで彼らに告げた。

 「祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、そしてイスラエルの人々の部族の、一族のかしらたち」とは、現代的に言えば、土地分割委員会です(ヨシュア141.2参照)。

 この当時、契約の箱はシロに置かれていましたが、ダビデの時代からはエルサレムに移ります。

 「主
〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、住む町と家畜の放牧地を私たちに与えるよう、モーセを通して命じられました。」

 民数記351-8には、
1 エリコをのぞむヨルダン川のほとりのモアブの草原で、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセに告げられた。

2 「イスラエルの子らに命じ、その所有となる相続地のうちから、居住のための町々をレビ人に与えよ。また、その町々の周りの放牧地はレビ人に与えなければならない。3 その町々は彼らが住むためのものであり、その放牧地は彼らの家畜、群れ、そしてすべての動物のためのものである。4 あなたがたがレビ人に与える町々の放牧地は、町の城壁から外側に向かって周囲一千キュビト〔440m or 450m(筆者挿入)〕である。5 あなたがたは、町の外側に、町を真ん中として東側に二千キュビト、南側に二千キュビト、西側に二千キュビト、北側に二千キュビトを測れ。これが彼らの町々の放牧地となる。
 6 レビ人に与える町々については、人を殺した者を逃れさせる六つの逃れの町がなければならない。
また、このほかに、四十二の町を与えなければならない。

7 レビ人に与える町は、全部で四十八の町で、放牧地付きである。

8 あなたがたがイスラエルの子らの所有地のうちから与える町々は、大きい部族からは多く、小さい部族からは少なくしなければならない。それぞれ自分が受け継いだ相続地の大きさに応じて、自分の町々の一部をレビ人に与えなければならない。」”(新改訳2017)と記されています。

 レビ部族以外の部族は、主からの相続地として、カナンの地及びヨルダン川の東側の地を与えられましたが、レビ部族は、相続地から産物を得て生計が成り立つようには土地を与えられませんでした。
 イスラエルの民は、土地から得た産物の十分の一を主に捧げましたが、レビ族の人は、主にささげられた物を主から頂いたのです。それ故、レビ族のゆずりは、主であると言われるのです。
 民数記18章には、「21 ・・、レビ族には、わたしは・・、彼らが行う奉仕、会見の天幕での奉仕に報い、イスラエルのうちの十分の一をみな、ゆずりのものとして与える。/24 ・・、イスラエルの子らが奉納物として主に献げる十分の一を、わたしが相続のものとしてレビ人に与える・・。」(新改訳2017)と記されています。

 牧師のような直接献身者の場合は、本質的に同じような対応がされます(全く同じというわけではありませんが)。
直接献身者だけではなく、一般信徒も、主は、祭司であるといいます(1ペテロ29)。一般信徒の場合も、糧を得る為の職業は、祈って主から与えられたものであるのです。
 目に見える物質的なもの以上に、地上におけるキリスト者のゆずりは、喩え様もなく素晴らしいものです。それは、主ご自身がキリスト者の霊の内に住んでおられるからです。即ちキリストを相続しているのです。
 天のエルサレムにおける相続もあります。それは地上を去った後のことなのでここでは割愛します。

3
イスラエルの子らは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命により、自分たちの相続地から次の町々とその放牧地をレビ人に与えた。

4 ケハテ人諸氏族のためにくじが引かれた。ユダ部族、シメオン部族、ベニヤミン部族から、くじによって十三の町がレビ人の祭司アロンの子らのものになった。

 くじの中に、主が働いておられます。「くじは膝に投げられるが、そのすべての決定は主から来る。」(箴言1633・新改訳2017)とあるように。

以下の箇所は、本文のみです。レビ人の相続地と放牧地が列挙されています。

5
エフライム部族の諸氏族、ダン部族、マナセの半部族から、くじによって十の町が、残りのケハテ族のものになった。
 6 イッサカル部族の諸氏族、アシェル部族、ナフタリ部族、バシャンのマナセの半部族から、くじによって十三の町がゲルション族のものになった。
 7 ルベン部族、ガド部族、ゼブルン部族から、十二の町がメラリ人の諸氏族のものになった。
 8 イスラエルの子らは、主
〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がモーセを通して命じられたとおりに、次の町々とその放牧地をくじによってレビ人に与えた。

9 ユダ部族、シメオン部族からは次に名を挙げる町を与えた。10 これらは、レビ族に属するケハテ人諸氏族の一つ、アロンの子らのものになった。最初のくじが彼らに当たったからである。11 彼らにはユダの山地にあるキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンとその周囲の放牧地を与えた。アルバはアナクの父である。12 しかし、この町の畑と村々はエフンネの子カレブに、その所有地として与えた。

13 祭司アロンの子らに与えられたのは、殺人者の逃れの町ヘブロンとその放牧地、リブナとその放牧地、14 ヤティルとその放牧地、エシュテモアとその放牧地、15 ホロンとその放牧地、デビルとその放牧地、16 アインとその放牧地、ユタとその放牧地、ベテ・シェメシュとその放牧地。これら二部族から与えられた九つの町である。
 17 またベニヤミン部族の中からのギブオンとその放牧地、ゲバとその放牧地、18 アナトテとその放牧地、アルモンとその放牧地の四つの町である。
 19 アロンの子らである祭司たちの町は、全部で十三の町とその放牧地である。

20 レビ人であるケハテ人諸氏族に属する、ケハテ人の残りには、エフライム部族から、くじによって次の町々が与えられた。21 彼らに与えられたのは、エフライムの山地にある殺人者の逃れの町シェケムとその放牧地、ゲゼルとその放牧地、22 キブツァイムとその放牧地、ベテ・ホロンとその放牧地の四つの町。
 23 またダン部族からエルテケとその放牧地、ギベトンとその放牧地、24 アヤロンとその放牧地、ガテ・リンモンとその放牧地の四つの町。25 またマナセの半部族からタアナクとその放牧地、ガテ・リンモンとその放牧地の二つの町。
 26 残りのケハテ族の諸氏族には、全部で十の町とその放牧地が与えられた。

27 レビ人の諸氏族の一つゲルション族に与えられたのは、マナセの半部族から、殺人者の逃れの町バシャンのゴランとその放牧地、ベエシュテラとその放牧地の二つの町。
 28 またイッサカル部族からキシュヨンとその放牧地、ダベラテとその放牧地、29 ヤルムテとその放牧地、エン・ガニムとその放牧地の四つの町。
 30 またアシェル部族からミシュアルとその放牧地、アブドンとその放牧地、31 ヘルカテとその放牧地、レホブとその放牧地の四つの町。
 32 またナフタリ部族から、殺人者の逃れの町であるガリラヤのケデシュとその放牧地、ハモテ・ドルとその放牧地、カルタンとその放牧地の三つの町。
 33 ゲルション人の諸氏族の町は、全部で十三の町とその放牧地である。

34 レビ人の残りのメラリ人諸氏族に与えられたのは、ゼブルン部族から、ヨクネアムとその放牧地、カルタとその放牧地、35 またディムナとその放牧地、ナハラルとその放牧地の四つの町。
 36 またルベン部族からベツェルとその放牧地、ヤハツとその放牧地、37 ケデモテとその放牧地、メファアテとその放牧地の四つの町。38 ガド部族から殺人者の逃れの町、ギルアデのラモテとその放牧地、マハナイムとその放牧地、39 ヘシュボンとその放牧地、ヤゼルとその放牧地、これら四つの町すべて。
 40 これらの町はすべて、レビ人の諸氏族の残りの、メラリ族の諸氏族のものであり、くじによって与えられた十二の町である。

41 イスラエルの子らの所有地の中で、レビ人の町は全部で四十八の町とその放牧地である。42 これらの町はそれぞれその周囲に放牧地があった。これらの町はすべてそうであった。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたはすべてをご配慮くださるお方ですから御名を崇めて賛美します。
文語訳の1ペテロ57には、「神なんぢらの爲に慮(おもん)ぱかり給へばなり」とあるように、あなたは、愛をもって色々と考え配慮してくださるお方ですからありがとうございます。
あなたにすべてをゆだねて歩める幸いを感謝し、主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年7月13日 (月)

ヨシュア20章 過失により他者を死に至らせた者の為の逃れの町の制定/主は心を見るお方

ヨシュア20章の本文(新改訳2017)は斜体です。

1
〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はヨシュアに告げられた。2 「イスラエルの子らに告げよ。『わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、逃れの町を定めよ。3 意図せずに誤って人を打ち殺してしまった殺人者が、そこに逃げ込むためである。血の復讐をする者から逃れる場所とせよ。4 人がこれらの町の一つに逃げ込む場合、その人はその町の門の入り口に立ち、その町の長老たちに聞こえるようにその事情を述べよ。彼らは自分たちの町に彼を受け入れ、彼に場所を与える。そして彼は彼らとともに住む。5 たとえ血の復讐をする者が彼を追って来ても、その手に殺人者を渡してはならない。彼は隣人を意図せずに打ち殺してしまったのであって、前からその人を憎んでいたわけではないからである。6 その人は会衆の前に立ってさばきを受けるまで、あるいはその時の大祭司が死ぬまでその町に住む。その後で、殺人者は自分の町、自分の家、自分が逃げ出した町に帰って行くことができる。』」

7 彼らはナフタリの山地のガリラヤのケデシュ、エフライムの山地のシェケム、ユダの山地のキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンを聖別した。8 ヨルダンの川向こう、エリコの東の方ではルベン部族から台地の荒野のベツェルを、ガド部族からギルアデのラモテを、マナセ部族からバシャンのゴランをこれに当てた。

9
これらはすべてのイスラエルの子ら、および彼らの間に寄留している者のために設けられた町である。すべて、誤って人を打ち殺してしまった者がそこに逃げ込むためであり、会衆の前に立たないうちに、血の復讐をする者の手によって死ぬことがないようにするためである。

 逃れの町の制定は、民数記359-34に記されている主のご命令の実行です。
民数記359-34には、
9 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセに告げられた。10 「イスラエルの子らに告げ、彼らに言え。ヨルダン川を渡ってカナンの地に入るとき、11 あなたがたは町々を定めて、自分たちのために逃れの町とし、誤って人を打ち殺してしまった殺人者がそこに逃れることができるようにしなければならない。

12 この町々は、復讐する者からあなたがたが逃れる場所となる。殺人者が、さばきのために会衆の前に立たないうちに死ぬことのないようにするためである。13 あなたがたが与えるべき町は六つの逃れの町で、それらは、あなたがたのためのものである。14 このヨルダンの川向こうに三つの町を、カナンの地に三つの町を与えて、逃れの町としなければならない。15 イスラエルの子ら、または彼らの間に在住している寄留者のために、これら六つの町は逃れの場所となる。すべて誤って人を打ち殺してしまった者が、そこに逃れるためである。
 16 もし鉄の器具で人を打って死なせたなら、その人は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。17 もし、人を殺せるほどの、手に持てる石で人を打って死なせたなら、その人は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。18 あるいは、人を殺せるほどの、片手に持てる木製の器具で人を打って死なせたなら、その人は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。
 19 血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよい。彼に出くわしたときに、殺してもよい。

20 もし、人が憎しみをもって人を突き倒すか、あるいは悪意をもって人に物を投げつけて死なせたなら、21 または、敵意をもって人を手で打って死なせたなら、その打った者は必ず殺されなければならない。その人は殺人者である。その血の復讐をする者がその殺人者に出くわしたときには、彼を殺してもよい。
 22 もし敵意もなく突然人を突き倒し、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、23 または、人を死なせるほどの石を、よく見ないで人の上に落としてしまい、それによってその人が死んだなら、しかもその人が自分の敵ではなく、害を加えようとしたわけではないなら、

24 会衆は、打ち殺した者と、血の復讐をする者との間を、これらの定めに基づいてさばかなければならない。

25 会衆は、その殺人者を血の復讐をする者の手から救い出し、彼を、逃げ込んだその逃れの町に帰してやらなければならない。彼は、聖なる油を注がれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。

26 もしも、その殺人者が、自分が逃げ込んだ逃れの町の境界から出て行き、27 血の復讐をする者がその逃れの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺すことがあっても、その人には血の責任はない。28 その殺人者は、大祭司が死ぬまでは、逃れの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後に、その殺人者は自分の所有地に帰ることができる。

29 これらのことは、あなたがたがどこに住んでも、代々守るべき、あなたがたのさばきの掟となる。

30 もしだれかが人を打ち殺したなら、証人たちの証言によってその殺人者を殺す。一人の証人の証言だけで、人を死刑にすることがあってはならない。
 31 あなたがたは、殺人者のいのちのために贖い金を受け取ってはならない。彼は死ぬべき悪しき者なのである。彼は必ず殺されなければならない。32 逃れの町に逃れさせる代わりに贖い金を受け取り、祭司が死ぬ前に、彼を帰らせて国に住むようにさせてはならない。

33 あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地にとって、そこで流された血は、その血を流した者の血以外によって宥められることはない。34 あなたがたは、自分たちの住む土地、わたし自身がそのただ中に宿る土地を汚してはならない。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕であるわたしが、イスラエルの子らのただ中に宿るからである。」”(新改訳2017)と記されています。

逃れの町は、レビ人の町にありました(民数記35:6)。

 主は、故意と過失を分けて考えられるお方です。
主は、うわべではなく、心を見るお方であることが分かります。
主は、サムエルに、「・・。わたしは・・・人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(1サムエル167・新改訳2017)と語られました。

 余談になりますが、「私の知り合いの牧師が、だから外面も大切だ、人は外を見るから。」と語ったことを思いだします。この牧師の真意は、外面だけで、拒否されてしまっては関わりをもつこともできない、という意があったのだと思います。

 私たちは、愛の動機で様々なことをしますが、上手くいくとは限りません。上手くいかないときでも、主は私たちの動機を見てくださいます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私は粗忽者ですから主が助けてくださって、他者に危害を及ぼすことのないようお守りください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年7月12日 (日)

ヨシュア18:11-19:51 七部族の相続地の割り当て/信仰によってすでに与えられているものを頂戴する

ヨシュア18.19章の本文(新改訳2017)は斜体です。

ベニヤミン族(1811-27)、シメオン族(191-9)、ゼブルン族(1910-16)、イッサカル族(1917-23)、アシェル族(1924-31)、ナフタリ族(1932-39)、ダン族(1940-48
 地名がカタカナで数多く記されています。読むことが辛い人は聖書地図で各部族の割り当て地の箇所をご覧ください。カタカナの土地名を飛ばして読まれる方は、最後のまとめの部分だけは読んでくださると嬉しいです。

 ベニヤミン族の相続地
1811 ベニヤミン部族の諸氏族のくじが引かれた。くじで当たった彼らの地域はユダ族とヨセフ族の間にあった。12 北側の境界線はヨルダン川から始まる。その境界線はエリコの北の傾斜地に上り、西の方へ山地を上る。その終わりはベテ・アベンの荒野である。13 さらに境界線はそこからルズに向かい、ルズの南の傾斜地を過ぎる。ルズはベテルである。それから境界線は、下ベテ・ホロンの南にある山の近くのアテロテ・アダルを下る。14 さらに境界線は折れ、西側を、ベテ・ホロンの南向かいの山から南へ回る。その終わりはユダ族の町キルヤテ・バアル、すなわちキルヤテ・エアリムである。これが西側である。15 南側はキルヤテ・エアリムの外れを起点とする。その境界線は西に出て、メ・ネフトアハの泉に出る。16 さらに境界線は、レファイムの谷間にあるベン・ヒノムの谷を北から見下ろす山の外れへ下り、ヒノムの谷をエブスの南の傾斜地に下り、エン・ロゲルを下り、17 北の方に折れ、エン・シェメシュに出て、アドミムの坂の反対側にあるゲリロテに出て、ルベンの子ボハンの石に下り、18 アラバに面する傾斜地を北へ進み、アラバに下る。19 そして境界線はベテ・ホグラの傾斜地を北へ進む。境界線の終わりは塩の海の北の入江、ヨルダン川の南端である。これが南の境界である。20 ヨルダン川が東側の境界線である。これがベニヤミン族の諸氏族の相続地であり、その周囲の境界線である。
21
ベニヤミン部族の諸氏族の町々はエリコ、ベテ・ホグラ、エメク・ケツィツ、22 ベテ・ハ・アラバ、ツェマライム、ベテル、23 アビム、パラ、オフラ、24 ケファル・ハ・アンモニ、オフニ、ゲバ。十二の町とその村々。25 ギブオン、ラマ、ベエロテ、26 ミツパ、ケフィラ、モツァ、27 レケム、イルペエル、タルアラ、28 ツェラ、エレフ、エブスすなわちエルサレム、ギブア、キルヤテ。十四の町とその村々。これがベニヤミン族の諸氏族の相続地である。
 

シメオン族の相続地
19:1
二番目のくじはシメオン、すなわち、シメオン部族の諸氏族に当たった。彼らの相続地はユダ族の相続地の中にあった。2 彼らの相続地はベエル・シェバ、シェバ、モラダ、3 ハツァル・シュアル、バラ、エツェム、4 エルトラデ、ベトル、ホルマ、5 ツィクラグ、ベテ・マルカボテ、ハツァル・スサ、6 ベテ・レバオテ、シャルヘン。十三の町とその村々。7 アイン、リンモン、エテル、アシャン。四つの町とその村々。8 これらの町々の周りにあって、バアラテ・ベエル、ラマテ・ネゲブにまで及ぶすべての村。これがシメオン部族の諸氏族の相続地である。9 シメオン族の相続地はユダ族の割り当て地から取られた。ユダ族の割り当て地が彼らには広すぎたので、彼らの相続地の中にシメオン族は相続地を受けたのである。

 ゼブルン族の相続地
10 三番目のくじはゼブルン族の諸氏族のために引かれた。彼らの相続地の領域はサリデに及んでいた。11 境界線は西へ上って行き、マルアラに至り、ダベシェテに達し、またヨクネアムの向かいの川に達した。12 サリデから反対方向へ、東、すなわち日の昇る方へ向かうと、キスロテ・タボルの地境に至り、ダベラテに出てヤフィアに上る。13 そこから東、すなわち日の出る方へ進んで、ガテ・ヘフェルとエテ・カツィンを過ぎ、リンモンに出てネアの方に折れる。14 北の境界線はそこでハナトンに回る。その終わりはエフタフ・エルの谷である。15 カタテ、ナハラル、シムロン、イデアラ、ベツレヘム。十二の町とその村々。16 これがゼブルン族の諸氏族の相続地であり、その町々とそれらの村々である。

 イッサカル族の相続地
17
四番目のくじはイッサカル、すなわち、イッサカル族の諸氏族に当たった。18 彼らの地域はイズレエル、ケスロテ、シュネム、19 ハファライム、シオン、アナハラテ、20 ラビテ、キシュヨン、エベツ、21 レメテ、エン・ガニム、エン・ハダ、ベテ・パツェツである。22 その境界線はタボルに達し、シャハツィマとベテ・シェメシュに向かう。境界線の終わりはヨルダン川である。十六の町とその村々。23 これがイッサカル部族の諸氏族の相続地であり、その町々とそれらの村々である。

 アシェル族の相続地
24 五番目のくじはアシェル部族の諸氏族に当たった。25 彼らの地域はヘルカテ、ハリ、ベテン、アクシャフ、26 アラメレク、アムアデ、ミシュアルである。西に向かってカルメルとシホル・リブナテに達し、27 日の昇る方、すなわちベテ・ダゴンに戻り、ゼブルンに、さらに北の方でエフタフ・エルの谷に達し、ベテ・ハ・エメク、ネイエルを経て左の方、カブルに出て、28 エブロン、レホブ、ハモン、カナを経て大シドンに至る。29 その境界線はラマの方に戻り、城壁のある町ツロに至る。それから境界線はホサの方に戻る。その終わりは海である。マハレブ、アクジブ、30 ウマ、アフェク、レホブ。二十二の町とその村々。31 これがアシェル部族の諸氏族の相続地であり、その町々とそれらの村々である。

 ナフタリ族の相続地
32 六番目のくじはナフタリ族に、すなわち、ナフタリ族の諸氏族に当たった。33 彼らの地域は、ヘレフと、ツァアナニムの樫の木から、アダミ・ハ・ネケブ、ヤブネエルを経てラクムに至る。その終わりはヨルダン川である。34 その境界線は西の方、すなわちアズノテ・タボルに戻り、そこからフコクに出て、南でゼブルンに達し、西でアシェルに達し、日の昇る方のヨルダン川でユダに達する。35 城壁のある町はツィディム、ツェル、ハマテ、ラカテ、キネレテ、36 アダマ、ラマ、ハツォル、37 ケデシュ、エデレイ、エン・ハツォル、38 イルオン、ミグダル・エル、ホレム、ベテ・アナト、ベテ・シェメシュ。十九の町とその村々。39 これがナフタリ部族の諸氏族の相続地であり、その町々とそれらの村々である。

 ダン族の相続地
40 七番目のくじはダン部族の諸氏族に当たった。41 彼らの相続地の領域はツォルア、エシュタオル、イル・シェメシュ、42 シャアラビン、アヤロン、イテラ、43 エロン、ティムナ、エクロン、44 エルテケ、ギベトン、バアラテ、45 エフデ、ベネ・ベラク、ガテ・リンモン、46 メ・ハ・ヤルコン、ラコン、およびヤッファに面する地域である。47 ダン族の地域は彼らから失われたので、ダン族は上って行き、レシェムと戦った。彼らはそこを取り、剣の刃で討つと、これを占領してそこに住み、自分たちの先祖ダンの名にちなんでレシェムをダンと呼んだ。48 これがダン部族の諸氏族の相続地であり、その町々とそれらの村々である。
 ダン族に割り当てられた地は41-46節の箇所ですが、実際は所有地とすることは出来ませんでした。その理由は、戦い取ることが出来なかったからです。それで、47節のことが起こりました。レシェムとは士師記187のライシュです。47節の関連記事は士師記17.18章をご覧ください。

 ヨシュアの相続地
49 地を地域ごとに相続地として割り当て終えたとき、イスラエルの子らは、自分たちの間に一つの相続地をヌンの子ヨシュアに与えた。50 〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命により、ヨシュアが求めた町、すなわち、エフライムの山地にあるティムナテ・セラフを彼に与えた。彼は町を建てて、そこに住んだ。

 各部族に相続地を割り当てるための担当者たちと割り当ての方法
51
これらは祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、そしてイスラエルの諸部族の一族のかしらたちが、シロにおいて会見の天幕の入り口、すなわち主
〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前で、くじによって割り当てた相続地である。彼らは地の割り当てを終えた。

 
主(ヤハウェ)は、「わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。」(出エジプト38・新改訳2017)とモーセに語られました。

 カナンの地は、乳と蜜が流れる良い地であったのです。
このことは何の予表なのでしょうか?
カナンの地は、霊的な意味で、キリストの予表であると思います。
キリスト者は、御父の愛に基づく御好意によって、キリストの内に置かれました。
1
コリント130には、「あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。」(新改訳2017)と記されています。
キリスト者は、キリストから、乳と蜜を豊かに、流れるほど頂けるのです。
ダビデが詩篇235.6で、「私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。」(新改訳2017)と歌った詩を思い浮かべます。

 キリスト者の受けた恵みは、上記のダビデの詩の内容どころではありません。
エペソ13には、「神はキリストにあって〔in ChristKJV)〕、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」(新改訳2017)と記されています。
御父は、既に祝福してくださったのです。
私たちが為すことは、それを信仰によって引き出すことです。この場合の信仰とは、たとえて言えば、無尽蔵に入っている預金通帳から制限なしで引き出せるキャッシュカードのようなものです。

 部族によっては、主を信じる信仰に立ち切れなかった故に、主が与えると言われた相続地を得ることが出来なかったところがありました。

 一方、信仰の勇者カレブのような人もいました。

 ヨシュア146-14には、
6 ユダ族の人々がギルガルのヨシュアのところにやって来た。その一人ケナズ人エフンネの子カレブがヨシュアに言った。「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がカデシュ・バルネアで、私とあなたについて神の人モーセに話されたことを、あなたはよくご存じのはずです。7 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のしもべモーセがこの地を偵察させるために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。私は自分の心にあるとおりを彼に報告しました。8 私とともに上って行った私の兄弟たちは民の心をくじきました。しかし私は、私の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に従い通しました9 その日、モーセは誓いました。『あなたの足が踏む地は必ず、永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが私の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に従い通したからである。』10 ご覧ください。イスラエルが荒野を歩んでいたときに、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がこのことばをモーセに語って以来四十五年、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は語られたとおりに私を生かしてくださいました。ご覧ください。今日、私は八十五歳です。11 モーセが私を遣わした日と同様に、今も私は壮健です。私の今の力はあの時の力と変わらず、戦争にも日常の出入りにも耐えうるものです。12 今、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があの日に語られたこの山地を、私に与えてください。そこにアナク人〔巨人(筆者挿入)〕がいて城壁のある大きな町々があることは、あの日あなたも聞いていることです。しかし主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私とともにいてくだされば、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が約束されたように、私は彼らを追い払うことができます。」13 ヨシュアはエフンネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えた。14 このようにして、ヘブロンはケナズ人エフンネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。彼がイスラエルの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に従い通したからである。15 ヘブロンの名は、かつてはキルヤテ・アルバであった。これは、アルバがアナク人の中の最も偉大な人物であったことによる。こうして、その地に戦争はやんだ。”(新改訳2017)と記されています。

 カレブは主(ヤハウェ)を信じる信仰に立脚して戦い勝利を得たのでした。
キリスト者の場合は、対人的には戦いませんが、主が与えてくださった(与えてくださっておられる)祝福を信仰によって引き出してくるのです。
但し、いつも主と良き関係を保っている必要があります。
主は、「聖徒は聖くあり続けよ」(黙示録2211)と語られます。
聖い、というのは、主の内に在ることを言うと私は思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
いつもあなたのみ旨の内を歩む者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

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