ヨブ記

2021年4月 6日 (火)

ヨブ42章 ヨブ記終章

 1節には、“ヨブは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に答えた。”(2017)とあり、ヨブは、ヨブに対するヤハウェ(主)のことば{38-41章(ヨブ40:3-5を除く)}を聞いた後、2-6節の内容をヤハウェ(主)に申し上げました。

 2-6節には、ヨブの悔い改めが次のように記されています。
“2 あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。
3 あなたは言われます。「知識もなしに摂理をおおい隠す者はだれか」と。確かに私は、自分の理解できないことを告げてしまいました。自分では知り得ない、あまりにも不思議なことを。
4 あなたは言われます。「さあ、聞け。わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ」と。
5 私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。
6 それで、私は自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で。”(2017)とあります。

 ヨブは、災いにあう前にヤハウェ(主)から御言葉をかけられたことが何度もあったと思われるのです(ヨブ29:2-4)。
しかし、この42章では、「今、私の目があなたを見ました。」と述べています。
ヨブが災いにあう前でさえ、ヨブは、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。」(ヨブ1:1・新共同訳)という評価を受けていた人でありました。
しかし、ヨブは、試みに会い、主にお会いし、悔い改め、より一層主に近い者とされたのです。

 ヤハウェ(主)は、テマン人エリファズとシュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルに対し、ヤハウェ(主)について、わたしの僕ヨブのように正しく語らなかった、ということで叱責なさいました。7.8節には次のように記されています。
“7 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がこれらのことばをヨブに語った後、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はテマン人エリファズに言われた。「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかったからだ。8 今、あなたがたは雄牛七頭と雄羊七匹を取って、わたしのしもべヨブのところに行き、自分たちのために全焼のささげ物を献げよ。わたしのしもべヨブがあなたがたのために祈る。わたしは彼の願いを受け入れるので、あなたがたの愚行に報いるようなことはしない。あなたがたは、わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかったが。」”(2017)とあります。

 ここに至って、ヨブ1:13-2:12の中に見られるヨブのあった災いは、ヨブの罪からではないことがヤハウェ(主)によって証明されました。
テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルたちは、ヨブをいじめに来たのではなく、ヨブに同情し、慰めようと、互いに打ち合わせて来たのです(ヨブ2:11)。ヨブのところに来た動機は良いものでした。その上、7日間も、何も言えずにヨブのそばに座っていたのです(ヨブ2:13)。その後、ヨブを良くしてあげようとヨブに色々と助言し、罪を悔い改めるように迫ったのです。しかし、ヨブへの助言の中に間違いがあったのです。ヤハウェ(主)について正しく語らなかったところがあったのです。ヤハウェ(主)は、それを悔い改めるようにテマン人エリファズに言ったのです。ヤハウェ(主)について正しく語らなかった罪をヤハウェ(主)に赦して頂くためには、雄牛七頭と雄羊七匹のささげものと、ヤハウェ(主)のしもべヨブの祈りが必要であったのです。
 キリスト者の場合には、雄牛七頭と雄羊七匹ではなく、まことのささげものであるイエス・キリスト様がおられます。「ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。」(ヘブル10:10・新共同訳)と記されています。
とはいえ、間違いを犯したときには、それを主に告白する必要があります。罪を持ったままでは、主との交わりに支障をきたすのです。キリスト者が罪を犯した場合には、1ヨハネ1:9の「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(2017)という聖句が適用されます。

 ヨブが語った中にも間違ったことはありました。しかし、7節後半には、「おまえたちがわたしについて言ったことは、わたしのしもべヨブほど正しくなかったからだ。」(リビングバイブル)と記されています。

 次の9節には、“テマン人エリファズと、シュアハ人ビルダデと、ナアマ人ツォファルは行って、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が彼らに命じられたようにした。すると主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はヨブの願いを受け入れられた。”(2017)と記されています。

 ヨブは、ヤハウェ(主)の命に従い、自分に散々ひどいことを言ったテマン人エリファズと、シュアハ人ビルダデと、ナアマ人ツォファルのために祈りました。主はその祈りを喜ばれました。そして、テマン人エリファズと、シュアハ人ビルダデと、ナアマ人ツォファルの罪を赦しただけではなく、ヨブに二倍の祝福と長寿を与えたのです。10-17節には次のように記されています。
“10 ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はヨブを元どおりにされた。さらに主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はヨブの財産をすべて、二倍にされた。
11 こうして彼のすべての兄弟、すべての姉妹、それに以前のすべての知人は、彼のところに来て、彼の家で一緒に食事をした。そして彼に同情し、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が彼の上にもたらされたすべてのわざわいについて、彼を慰めた。彼らはそれぞれ一ケシタ〔古代の貨幣で、羊一頭分の価値がある(筆者挿入)〕と金の輪一つずつを彼に与えた。
12 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はヨブの後の半生を前の半生に増して祝福された。それで彼は羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。13 また、息子七人、娘三人を持った。14 彼はその第一の娘をエミマ、第二の娘をケツィア、第三の娘をケレン・ハ・プクと名づけた。15 ヨブの娘たちほど美しい女は、この地のどこにも見つからなかった。彼女たちの父は彼女たちに、その兄弟たちの間で相続地を分け与えた。
16 この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。
17 こうしてヨブは死んだ。年老いて満ち足りた生涯であった。”(2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
ヨブ記42章からいくつかの聖句を思い浮かべました。
あなたのみ前にへりくだって歩むことこそ、あなたから祝福を受ける基礎になることを覚えます。
聖霊様に導かれて、日々あなたのみ旨の内を歩み続ける者であらせてください。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(ヨハネ13:7・新共同訳)
「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44・2017)
「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」(1ペテロ3:9・2017)
“5 そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。
6 主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」
7 訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。
8 もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。
9 さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
10 肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。
11 すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。
12 ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。
13 また、あなたがたは自分の足のために、まっすぐな道を作りなさい。足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。”(ヘブル12章・2017)

2021年4月 5日 (月)

ヨブ41:1-34(新改訳2017) ヨブへのヤハウェ(主)のことば4

 ヘブライ語聖書は、40章は32節まであります。新共同訳、聖書協会共同訳、岩波訳などは、32節までを40章にしています。新改訳は、新共同訳の25-32節を、41章の1-8節としています。

 この章では、“レビヤタンは神だけが治めることの出来る諸々の勢力を象徴している。また悪や神の敵を指すこともある(3:8、詩篇74:14、104:26、イザヤ27:1)。この章では、捕えにくく(41:1.2)、馴らしにくく(41:5)、恐ろしい歯と(41:14)、盾のような背中(41:15)を持つ恐ろしいワニのような生き物として描かれている。またレビヤタンは火の息を出すとあるように超自然的な力を持ち(41:18-20)、剣や槍などの人間が作った武器は歯が立たないと言われている(41:26-29)。ここでは神以外にレビヤタンを攻めて打ち負かせる者はなく(26:13)、人間に過ぎないヨブに神を攻めることは出来ない。”(新共同訳スタディー版の注を参照)ということが記されています。

 レビヤタンについて、聖書辞典は、“わにに似た巨大な怪獣(ヨブ41:1)。聖書の他の箇所では,海で戯れる巨獣(詩篇104:26)、神に逆らう神話的怪獣(ヨブ3:8)、また神によってさばかれるべき神に敵する勢力としてのエジプト(詩篇74:14)、アッシリヤ,バビロニヤ(イザヤ27:1)を象徴すると思われる動物などとして描かれている。ヨブ41:1‐34では,レビヤタンは、全身うろこ状の堅い皮で覆われ、釣り上げることも、もり、剣、槍などによって捕獲することも不可能な、他に類を見ない、「誇り高い獣の王」(34節)とされている.詩篇104:26の巨獣を、まっこう鯨ではないかと考えたり、ヨブ3:8のレビヤタンを、ウガリット(シリヤ北部の古代沿岸都市)神話の怪獣ロタンと同一視する者があるが、断定はできない。”と記しています。

 41章を2017は次のように訳しています、
“1 あなたは釣り針でレビヤタンを釣り上げることができるか。輪縄でその舌を押さえつけることができるか。
2 あなたは葦をその鼻に通すことができるか。鉤をそのあごに突き通すことができるか。
3 これが、しきりにあなたに哀願し、優しく語りかけるだろうか。
4 これがあなたと契約を結び、あなたがこれを捕らえて、永久に奴隷とすることになるだろうか。
5 あなたは鳥と戯れるように、これと戯れ、娘たちのために、これをつなぐことができるか。
6 漁師仲間がこれを競りにかけ、商人たちの間で分けるだろうか。
7 あなたは銛(もり)でその皮を、やすでその頭を突くことができるだろうか。
8 その上にあなたの手を置いてみよ。その戦いを思い出して、二度と手を出すな〔その戦いを思い起こせば、二度と手を出すことはない(聖書協会共同訳)〕。
9 見よ。それに立ち向かう期待は裏切られる。それを見ただけで圧倒されるではないか。
10 それを起こすほどの狂暴な者はいない。そうであれば、だれがいったい、わたしの前に立つことができるだろうか。
11 だれが、まずわたしに与えたというのか。わたしがそれに報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ。
12 そのからだの部分についてわたしは黙ってはいられない。それの力強さと、その体格の見事さについて。
13 だれが、その外套をはぎ取ることができるか。胸当ての折り目の間に入ることができるか。
14 だれが、その顔の戸を開けることができるか。その歯の周りには恐怖がある。
15 その背は並んだ盾、封印したように固く閉じている。
16 一つ一つぴったり付いて、風もその間を通れない。
17 互いにくっつき、固くつながって離れない。
18 そのくしゃみは光を放ち、その目は暁のまぶたのようだ。
19 その口からは、たいまつが燃え出し、火花が噴き出す。
20 その鼻からは煙が出て、煮え立つ釜や、燃える葦のようだ。
21 その息は炭火をおこし、その口からは炎が出る。
22 その首には力が宿り、その前には恐れが踊る。
23 その肉のひだはつなぎ合わされ、その身に固く付いて、揺るがない。
24 その心臓は石のように硬く、臼の下石のように硬い。
25 それが起き上がると、力ある者もおじけづき、おろおろして逃げ惑う。
26 それを剣で襲っても無駄だ。槍でも、投げ矢でも、矢じりでも。
27 それは鉄を藁のように、青銅を腐った木のように見なす。
28 矢によっても、それが逃げるようにはできず、石投げの石も、それには藁となる。
29 こん棒さえ藁のように見なし、投げ槍のうなる音をあざ笑う。
30 その下腹は鋭い土器のかけら、それは打穀機のように泥の上に身を伸ばす。
31 それは深みを釜のように沸き立たせ、海を、香油をかき混ぜる鍋のようにする。
32 それが通った跡には光が輝き、深淵は白髪のように見なされる。
33 地の上に、これと似たものはなく、恐れを知らないものとして造られた。
34 高いものすべてを見下ろし、誇り高い獣すべての王である。”(2017)とあります。

 結局、レビヤタンに合致する生き物を私たちは知らないと思います。
私の想像ですが、レビヤタンは、元大天使で堕落してサタン(悪魔)となったものが、蛇になってみたり(創世記3章)、大きな竜になってみたり(黙示録12:7-9)するのではないだろうか、サタンは、蛇にも竜に変装するだけではなく光の御使いにも変装することの出来るもの(2コリント11:14)ですから、レビヤタンとはサタンや堕天使たちの様々な変装の姿なのかな、と私は考えるのですが、何の確証もありません。私の考えなどは眉唾ものですから読み流すだけにしてください。

 まとめとして、ウェスレアン聖書注解は、“文章全体の単純な意味は、ヨブあるいは他のいかなる人も、レビヤタンを支配する知恵や力を何も持っていないように、人は世界を支配するにおける神の知恵と力を理解することを望むことはできないということのようである。”と述べています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
パウロと共に、“33 ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。34 「だれが主の心を知っているのですか。だれが主の助言者になったのですか。35 だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか。」36 すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。”(ローマ11章・2017)と祈ります。我が主キリスト・イエスの御名によって。

2021年4月 4日 (日)

ヨブ40:6-24 ヨブへのヤハウェ(主)のことば3

 6節には、“主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は嵐の中からヨブに答えられた。”(2017)とあるように、この章もヤハウェ(主)がヨブに語る箇所です。

 嵐の中からヤハウェ(主)が語ってこられるのですから、そのようにされたら私であったら恐怖を覚えます。ヨブも恐怖を覚えたのではないかと思います。

 7節には、“さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。”(2017)とあり、ヤハウェ(主)はヨブに答えを要求しています。
ヨブがヤハウェ(主)に答えるのは、42章1‐6節です。そこまではヤハウェ(主)の御言葉が続きます。

 ヤハウェ(主)はヨブに、あなたには神のような力があるのか、と迫ります。8-14節には次のように記されています。
“8 あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするため、わたしを不義に定めるのか。9 あなたには神のような腕があるのか。神のような声で雷鳴をとどろき渡らせるのか。10 さあ、誉れと気高さで身を飾り、威厳と威光を身にまとえ。11 あなたの激しい怒りを吐き散らし、すべて高ぶる者を見て、これを低くせよ。12 すべて高ぶる者を見て、これを押さえ、悪者どもを、その場で踏みにじれ。13 彼らをともに土のちりの中に隠し、その顔を隠れた所につなぎとめよ。〔彼らをちりの中に沈め、死者の牢獄につなげ。(リビングバイブル)〕14 そうすれば、わたしもあなたをたたえて言う。「あなたの右の手は自分を救うことができる」と。”(2017)とあります。

 8節に、「あなた〔ヨブ(筆者挿入)〕はわたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のさばきを無効にするつもりか。自分を義とするため、わたしを不義に定めるのか。」とあります。
新共同訳スタディ版の注は、ヨブがヤハウェ(主)にそのように言った箇所として、ヨブ9:20-24、19:5.6、24:1、27:2-6を挙げています。

 神の裁きについて、私たちは聖書を通して知識が与えられています。しかし、ヨブの時代はそうではありませんでした。
神のさばきは、人が生きている間に行われるものだけとは限りません。とはいえ生きている間にも一定の裁きはあります。それは申命記28章を見れば分かります。
しかし、究極の神の裁きは、人の死後に行われます。
イエス様は、「5 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。/27 また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。29 そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。30 わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。」(ヨハネ5章・2017)と記されています。
その他にも、裁きについて記されている箇所はありますが、私たちキリスト者は、救い主イエス・キリスト=さばき主イエス・キリストによって救われた者です。
御子を信じる者はさばかれない。」(ヨハネ3:18・2017)と記されています。

 8節の「あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするため、わたしを不義に定めるのか。」というお言葉を、イエス様を知らない世界にあてはめることもできます。
自分にとって、何か悪いことが起こると、「神はいない」とか、「神は不公平だ」とか、「神など信じない」と言うのです。人の罪の結果から来たものを神に擦り付けるのです。

 また、多くの人は、三一の神に救いを求めないで、人間の力で人間を救おうと努力します。まことの神を除外して、人が人を救おうとする世界に私たちは住んでいます。8-14節を読むと、人を救うには神と同等の力を持っていないと救えないということが分かります。 

 ヤハウェ(主)はヨブに、カバ(原語は「ベヘモート」)について語り、ヨブにカバを支配できるか、と尋ねます。15-24節には次のように記されています。
“15 さあ、河馬を見よ。これはあなたと並べてわたしが造ったもの。牛のように草をはむ。16 見よ。その力は腰にあり、その強さは腹の筋にある。17 尾は杉の木のように垂れ下がり、ももの筋は絡み合っている。18 骨は青銅の管、肋骨は鉄の棒のようだ。19 これは神の作品の第一のもの、これを造った者が、その剣でこれに近づく。〔これこそ神の傑作、造り主をおいて剣をそれに突きつける者はない。(新共同訳)〕20 山々はこの獣のために産物をもたらし、野の獣もみなそこで戯れる。21 蓮の下にそれは横たわる。葦の茂み、沼地の中で。22 蓮はこれをその陰でおおい、川の柳はこれを囲む。23 たとえ川があふれても、慌てない。ヨルダン川が口に注ぎ込んでも、動じない。24 その目をつかんで、これを捕らえられるか。罠にかけて、その鼻を突き通せるか。”(2017)とあります。

 ヤハウェ(主)はヨブに、被造物であるカバに対処することもできないのに、ヤハウェ(主)に対抗することができるのか、ということを言っているのであろうと思います。
「カバ」と訳されている語のヘブライ語原語は「ベヘーモートゥ」で、一節によると「恐竜」ではないかと言われています。
恐竜と捉えると巨大な草食恐竜の記述にぴったり当てはまるような気がします(15-24節を参照)。

<お祈り>
天のお父様。
御名を崇めます。
私たちは、神の裁きについて詳しく教えられていますが、ヨブの時代はまだあまり明らかにされていませんでした。
イエス様は、「人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。」(マタイ12:36・2017)と語られました。
イエス様の救いにあずかっていなかったとしたら、大変なことになります。
イエス様の救いのありがたさが身に沁みます。
感謝し、我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2021年4月 3日 (土)

ヨブ38:39-40:5 ヨブへのヤハウェ(主)のことば2とヨブの悔い改め1

 ヤハウェ(主)は、地上の生き物を取り上げ、様々な観点からヨブに質問していきます。38:39-39:30には次のように記されています。 
 〔ヤハウェ(主)は、39-41節で、ヨブに、ライオンやカラスの肉体の糧を備えることができるか?と聞きました。私たち人間も、日ごとの糧はヤハウェ(主)から与えられています{主の祈りを参照}。(筆者挿入)〕
“38:39 あなたは雌獅子のために獲物を狩り若い獅子の食欲を満たすことができるか。40 それらが洞穴に伏し、茂みの中で待ち伏せしているときに。41 烏に餌を備えるのはだれか。烏の子が神に向かって鳴き叫び、食物がなくてさまようときに。
 〔次にヤハウェ(主)はヨブに、野やぎと雌鹿等に関することについて、どれだけ知っているのかと質問しました。(筆者挿入)〕
39:1 あなたは岩間の野やぎが子を産む時を知っているか。雌鹿が子を産むのを見守ったことがあるか。2 あなたはこれらがはらんでいる月を、数えることができるか。それらが子を産む時を知っているか。3 それらは身をかがめて子を産み落とし、その胎児を放り出す。4 その子たちは強くなり、野で大きくなる。すると出て行って、元のところには帰らない。
 〔次にヤハウェ(主)はヨブに、5-8節で、野生のろばとヤハウェ(主)の関係を教え、野生のろばの性格についても語りました。(筆者挿入)〕
5 だれが野ろばを解き放ったのか。だれが野生のろばの綱をほどいたのか。6 わたしが、荒れた地をその家とし、不毛の地をその住みかとしたのだ。7 それは町の騒ぎをあざ笑い、追い立てる者の叫び声を聞かない。8 山々を自分の牧場として歩き回り、青草なら何でも探し求める。
 〔次にヤハウェ(主)はヨブに、9-12節で、野牛を思い通りに扱うことができるか、と質問しました。(筆者挿入)〕
9 野牛が喜んであなたに仕えるだろうか。あなたの飼葉桶のそばで夜を過ごすだろうか。10 あなたはあぜ溝で、野牛に手綱をかけることができるか。それが、あなたに従って谷間を耕すだろうか。11 その力が強いからといって、あなたはそれに拠り頼むだろうか。あなた自身の働きをこれに任せるだろうか。12 あなたはそう信じているのか。それがあなたの穀物を持ち帰り、あなたの打ち場で、これを集めるとでも。
 〔次にヤハウェ(主)はヨブに、13-18節で、ダチョウを取り上げて質問し、恐らくヨブが気にしたこともないことをも語りました。(筆者挿入)〕
13 だちょうは翼を誇らしげに羽ばたかせるが、その羽はこうのとりの羽毛のようだろうか。14 だちょうは卵を地面に置き去りにし、これを砂の上で温まるに任せ、15 自分の足がそれをつぶすかもしれないことを忘れている。野の獣が踏みつけるかもしれないことも。16 だちょうは自分の子を、自分のものでないかのように荒く扱い、その産みの苦しみが、無駄になることも全く気にしない。17 神がこれに知恵を忘れさせ、これに悟りを授けなかったからだ。18 それが高く飛び跳ねるとき、馬とその乗り手をあざ笑う。
 〔次にヤハウェ(主)はヨブに、19-25節で、馬の肉体的精神的性質を取り上げ、だれがその性質を与え、また馬に力を与えたのか、と質問しました。(筆者挿入)〕
19 あなたが馬に力を与えるのか。その首にたてがみを付けるのか。20 あなたはこれを、いなごのように飛び跳ねさせることができるのか。その威厳あるいななきは恐ろしい。21 馬は谷間で、前かきをして力を喜び、武器に立ち向かって進んで行く。22 恐怖をあざ笑って、ひるむことなく、剣の前から退くことはない。23 矢筒はその上でうなり、槍と投げ槍はきらめく。24 荒れ狂って、地を駆け回り、角笛の音に、じっとしてはいられない。25 角笛が鳴るごとに、ヒヒーンといななき、遠くから戦いを嗅ぎつける。隊長の怒号、ときの声さえも。
 〔次にヤハウェ(主)はヨブに、鷹に関係することを質問しました。(筆者挿入)〕
26 あなたの考えによってか。鷹が舞い上がり、南にその翼を広げるのは。27 あなたの命令によってか。鷲が高く上がり、その巣を高いところに作るのは。28 それは岩場に宿って住み、近寄りがたい切り立つ岩の上にいる。29 そこから獲物をうかがい、その目は遠くまで見渡す。30 ひなは血を吸い、殺されたもののところに、それはいる。”(2017)とあります。

 続くヤハウェ(主)とヨブのやり取りが、ヨブ40:1-5に次のように記されています。
“40:1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はヨブに答えられた。
2 非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それに答えよ。
3 ヨブは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に答えた。
4 ああ、私は取るに足りない者です。あなたに何と口答えできるでしょう。私はただ手を口に当てるばかりです。5 一度、私は語りました。もう答えません。二度、語りました。もう繰り返しません。”(2017)とあります。

 ヨブは、ヤハウェ(主)に対する高慢を打ち砕かれ、ヤハウェ(主)の前にへりくだりました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの偉大さを思うとき、私たちは謙遜にさせられます。
しかし、あなたの偉大さのみならず、あなたの私たちへの愛を思うとき、かくも偉大な御父が私たちを愛し、私たちを守り、私たちを支えていてくださっておられることを思い、さらに一層の安らぎを覚えます。
いつも私たちを祝福しようとしてくださっておられるあなたの御名をほめたたえ、感謝し、我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2021年4月 2日 (金)

ヨブ38:1-38 ヨブへのヤハウェのことば1

 38章から41章までは、ヤハウェの言葉が続きます。
 1節には、“主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は嵐の中からヨブに答えられた。”(2017)とあり、ヤハウェがヨブに対し畏怖の念を起こさせる力をもって語り始められたのであろうと思います。
ヤハウェが嵐の中から声を発せられたら、それだけで人は低くされることでしょう。

 ヤハウェ(主)の第一声は、2節の“知識もなしに言い分を述べて、摂理〔神の経綸(新共同訳)、神のはかりごと(口語訳)、主の計画(聖書協会共同訳)〕を暗くするこの者はだれか。”(2017)というものでした。

 「摂理」について、デジタル大辞泉には、「キリスト教で、創造主である神の、宇宙と歴史に関する永遠の計画、配慮のこと。神はこれによって被造物をそれぞれの目標に導く 」、とあります。
摂理(2017)、神の経綸(新共同訳)、神のはかりごと(口語訳)、主の計画(聖書協会共同訳)と訳された語の原語は、「エツァー」で、忠告、助言、計画、目的等の意があります。

 ヤハウェ(主)は、ヨブに、「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。」(3・2017)と語られた後、4節からヨブへの質問攻勢が始まります。

 ヤハウェ(主)は地、地の下、海、天空の創造と統治についてヨブに語り、また質問します。4-38節には次のように記されています。
“4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。分かっているなら、告げてみよ。5 あなたは知っているはずだ。だれがその大きさを定め、だれがその上に測り縄を張ったかを。6 その台座は何の上にはめ込まれたのか。あるいは、その要の石はだれが据えたのか。7 明けの星々がともに喜び歌い、神の子たちがみな喜び叫んだときに。
〔ヤハウェ(主)はヨブに、地が造られた時、あなたはどこにいたのか?と問われました。(筆者挿入)〕
 8 海が噴き出て、胎内から流れ出たとき、だれが戸でこれを閉じ込めたのか。9 そのとき、わたしは雲をその衣とし、暗黒をその産衣とした。10 わたしは、これを区切って境を定め、かんぬきと戸を設けて、11 言った。「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。おまえの高ぶる波はここでとどまれ」と。
〔リビングバイブルは、“8.9 海が地の底から吹き出た時、だれが、その境界線を決めたか。だれが、雲と暗やみを海の着物とし、10 海岸線で区切って、それをせき止め、11 『ここまでだ。これ以上、来てはいけない。おまえの高ぶる波はここで止まるのだ』と言ったか。”と意訳しています。/ヤハウェ(主)は海に関することをヨブに問いかけています。/海の水は地中から出て来たのですね!海底に熱水噴出孔などがあることはテレビで見たことがあります。(筆者挿入)〕
 12 あなたは生まれてこのかた、朝に対して命令を下し、暁に対してあるべき場所を指し示して、13 これに地の縁をつかませ、悪しき者〔原語は「ラーシャー」(悪しき者)の複数形で「ラーシャーイーム」(筆者挿入)、神に逆らう者ども(新共同訳)悪しき者ども(聖書協会共同訳)〕をそこから振り落としたことがあるか。14 地は押印された粘土のように姿を変え、そこにあるものは王服のように彩られる。15 その光は悪しき者から退けられ、振り上げられた腕は折られる。
〔12-15節まで、朝ごとに暗黒を追放される神のみわざが述べられている。13.15節は自然現象を倫理的な問題と絡ませて述べている。(新聖書注解)〕
〔リビングバイブルは、12-15節を次のように意訳しています。“12 おまえはただの一度でも、朝に姿を現わせと命じ、暁を東の空からのぼらせたことがあるか。13 夜明けの光に、地上をくまなく照らし、不法な夜の支配にとどめを刺せと命じたことがあるか。14 暁をあかく彩り、15 悪者の巣を乱し、振り上げられた腕をとどめたことがあるか。”と。/ヤハウェ(主)は以上のようにヨブに質問しています。(筆者挿入)〕
 16 あなたは海の源まで行ったことがあるか。深淵の奥底を歩き回ったことがあるか。17 死の門があなたに現れたことがあるか。死の陰の門を見たことがあるか。18 地の広さを見極めたことがあるか。そのすべてを知っているなら、告げてみよ。19 光の住む所への道はどこか。闇のあるその場所はどこか。20 光をその国境まで連れて行くというのか。闇の家に至る通りを見分けるというのか。21 あなたはよく知っているはずだ。そのとき、あなたは生まれていて、あなたの日数は多いのだから〔そのときお前は既に生まれていて人生の日数も多いと言うのならこれらのことを知っているはずだ(新共同訳)〕
〔ヤハウェ(主)はヨブに世界の深さと広さ、光と闇の住まいについて質問されます。(筆者挿入)〕
〔リビングバイブルは、16-21節を次のように意訳しています。“16 おまえは海の源の泉を探り、深海の底を歩いたことがあるか。17.18 死の門のありかを突き止めたことがあるか。地の広さを見きわめたことがあるか。知っているなら言ってみるがいい。19 光はどこから来るか。どうしたらそこへ行き着けるか。暗やみについてはどうか。それはどこから来るか。20 その境を見つけ、その源まで行くことができるか。21 おまえがこれらのものが造られる前に生まれ、十分な人生経験を積んでいるというのなら、そんなことは、すべて知っているはずだ。”と。〕
 〔22-38節で、ヤハウェ(主)はヨブに天候と天体に関連することを質問します。(筆者挿入)〕
22 あなたは雪の倉に入ったことがあるか。雹の倉を見たことがあるか。23 これらは、わたしがとどめているのだ。苦難の時のため、争いと戦の日のために〔災いの時のために、戦いや争いの日のために、わたしはこれらを蓄えているのだ(新共同訳)〕
24 光〔光を稲妻と捉えることもできます(筆者挿入)〕が分かれる道はどこか。東風が地の上で分かれ広がる道は。25 だれが、大水のために水路を、稲光のために道を切り開き、26 人のいない地、人間のいない荒野に雨を降らせ、27 荒れ果てた廃墟の地を満ち足らせ、それに若草を生えさせるのか。28 雨に父があるのか。露のしずくはだれが生んだのか。29 氷はだれの胎から出て来たのか。空の白い霜はだれが生んだのか。30 水は姿を変えて石のようになり、深い淵の面は凍る。
31 あなたはすばるの鎖を結ぶことができるか。オリオン座の綱を解くことができるか。32 あなたは十二宮をその時にかなって、引き出すことができるか。牡牛座をその子の星とともに導くことができるか。33 あなたは天の掟を知っているか。地にその法則を立てることができるか。34 あなたの声を密雲にまであげ、みなぎる水にあなたをおおわせることができるか〔お前が雨雲に向かって声をあげれば洪水がお前を包むだろうか(新共同訳)〕。35 あなたは稲妻を向こうに行かせ、あなたに向かって「私たちはここです」と言わせることができるか〔いなずまを呼び寄せ、意のままに雷を落とすことができるか(リビングバイブル)〕。36 だれが、隠されたところ〔内奥(聖書協会共同訳の欄外注)〕に知恵を置いたのか。だれが、秘められたところに悟りを与えたのか。37 だれが知恵をもって、雨雲を数えることができるか。だれが天の水袋を傾けることができるか。38 土が溶け合って塊となり、土くれが硬く固まるときに。〔37.38節をリビングバイブルは、“雲をぜんぶ数えられるほど知恵のある者がいるか。土地が乾ききって固まり、ほこりだらけになるとき、だれが天の水がめを傾けることができるか。”と意訳しています。”(2017)とあります。

私には何もコメントすることができませんのでご容赦ください。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
今日の箇所に記されている質問に正しくこたえることは出来ません。
質問内容のテーマを研究している科学者や勉強した人は、内容に異議を唱えたり、質問に答える個所もあると思いますが、それも本当に合っているのかいないのかも、私には分かりません。
私に言えることは、あなたは万物を創造されたお方、万物を保持しておられるお方であるということです。
私にとっては、あなたが偉大な力を持っておられることを信じさせて頂いていることだけで十分です。
私は、あなたのその御力によって守られていますことを感謝します。
御名を賛美し、我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2021年4月 1日 (木)

ヨブ36:27-37:24 エリフの弁論6

 36:27から37:24まで、エリフは神こそが自然の統治者であることを述べ、それ故、人は神を畏れるべきである、と締めくくっています。 
 36:27-33には、雨に関連したことが次のように記されています。
“27 神は水のしずくを引き上げ、それが雨を滴らせて、水の流れとなる。28 雨雲がこれを降らせ、人の上に豊かに滴らせる。29 いったい、だれが濃い雲の広がりと、その幕屋のとどろきを理解できるだろうか。30 見よ。神はご自分の光をその上に照り渡らせ、また、海の底〔天の海の底(筆者挿入)〕をおおわれる。31 神はこれらによって民をさばき、食物を豊かにお与えになる。32 神は稲妻を両手に包み、これに命じて的を撃たせられる。33 その雷鳴は、神について告げ、家畜もまた、起こることについて告げる。”(2017)とあります。

 27-33節をリビングバイブルは、
“27 神は水蒸気を吸い上げ、冷やして雨とし、28 空から地上に降らせる。29 だれが雲の広がりと、雲の中の雷とを正確に知っているだろう。30 どのようにして神がいなずまを走らせ、山々の頂上を雲でおおうかを見よ。31 神は、自然界のとてつもない力によって、人々を罰し、祝福し、食べ物を豊富に与える。32 神は両手にいなずまの矢をたくさん握っていて、その一本一本を的めがけて投げつける。33 雷の中には神の気配が感じられる。牛でさえ、いつ嵐が来るのかを知っているのだ。”と意訳しています。

 エリフの弁論は37章で終わります。
稲妻と雷鳴についてのエリフの話が、37:1-5には次のように記されています。
“1 これによって私の心は震え、そこから離れ去るほどだ。2 よく聞け。その御声が荒れ狂うのを。その御口から出るとどろきを。3 神は、天の下のいたるところで放たれる。その稲妻を、地の隅々までも。4 その後で雷が鳴りとどろく。神はいかめしい声で雷鳴をとどろかせ、その御声が聞こえるとき、手加減をなさらない。5 神は御声で、驚くほどに雷鳴をとどろかせ、私たちの知り得ない大きなことをされる。”(2017)とあります。

 エリフはことのほか雷を怖がった人なのかもしれないと思います。

 1-5節をリビングバイブルは、
“1 私の心はおののく。2 神の声である雷の音を聞け。3 雷が天を渡って来ると、いなずまの閃光が四方八方に散る。4 そのあとで、耳をつんざくような雷鳴がとどろく。神の威厳を告げ知らせているのだ。5 雷鳴は神の声に栄光を添える。神の力の偉大さは測り知れない。”と意訳しています。

 冬を支配している神についてのエリフの言葉が6-10節に次のように記されています。
“6 神は雪に対して、地に降れと命じ、夕立〔原語は「マータール」で雨の意(筆者挿入)〕に、激しい大雨〔原語は「マータール」の複数形「マーターロット」(筆者挿入)〕にも命じられる。〔雪と激しい大雨は、冬のパレスチナを特徴づける現象である。(注解付新改訳聖書の注)〕7 神はすべての人の手を封じ込められる。神の造った人間が知るために。8 獣は巣にもぐり、洞穴の中にうずくまる。9 つむじ風は天の間から、寒さは北の方から来る。10 神の息によって氷が張り、広々とした水が凍りつく。”(2017)とあります。

 再度、雷を含めた雨雲を支配する神についてのエリフの見解を述べています。11-13節には次のように記されています。
“11 神は濃い雲に水気を含ませ、雲がその稲妻を放つ。12 それは神の指図によって巡り回り、事を行う。神が命じるすべてのことを、世界の地の面で。13 神は、懲らしめのため、ご自分の地のため、または恵みのために、これが起こるようにされる。”(2017)とあります。

 エリフはエリフの観察や考えに従っていくつかの例を挙げ、ヨブに、神を畏れよ、と勧告して弁論を終えます。14-24節には次のように記されています。
“14 ヨブよ、これに耳を傾けよ。神の奇しいみわざを、立ち止まって考えよ。15 あなたは知っているか。神がどのようにこれらに命じ、その雲に稲妻をひらめかせられるのかを。16 あなたは知っているか。濃い雲のつり合いを、知識の完全な方の不思議なみわざを。17 また、南風で地が黙するときに、あなたの衣がいかに熱くなるかを。18 あなたは大空を神とともに張り広げられるのか。鋳た鏡のように硬いものを。
19 神に何と言うべきかを私たちに教えよ。闇〔無知の闇(新聖書注解)〕があるので、ことばを並べることができない。20 私が語りたいと、神に伝えられるだろうか。人がことばを発すれば、その人は必ず滅ぼされる。
〔19.20節をリビングバイブルは、“自分には豊富な知識があると考える人がいたら、神に近づく方法を教えてもらいたい。私たちはあまりにも鈍く、何もわかっていないからだ。さあ、そんな知識で神に近づけるだろうか。生きたままのみ込まれてもよいというのか。”と意訳しています。〕
21 今、光は見ることができない。それは雨雲の中に輝いている。しかし、風が吹いて雲を払いのけると、22 北から黄金の輝きが現れ、神の周りには恐るべき威厳がある。
〔21.22節をリビングバイブルは、“21 風が雲を吹き払うと、まぶしくて、太陽をまともに見ることができないように、22 天の切れ間から差し込む、目のくらむような輝きを放つ神の威厳を見つめることは不可能だ。”と意訳しています。〕
23 私たちが見出すことのできない全能者は、力にすぐれた方。さばきと正義に富み、苦しめることをなさらない。24 だから、人々は神を恐れなければならない。神は心に知恵ある者を顧みられないだろうか。”(2017)とあります。

 エリフの自然に関する記述に対しては、子どもでも現代の自然科学の知識をもとに反論するかもしれません。
9節に“寒さは北の方から来る”とありますが、南半球に住んでいる人は、寒さは南から来ると言うでしょう。
エリフは北半球に住んでいたのであり、南極があることも知らなかったでしょう。エリフは自分が住んでいる所をもとに語っているのです。

 19.20節のリビングバイブル訳は、“自分には豊富な知識があると考える人がいたら、神に近づく方法を教えてもらいたい。私たちはあまりにも鈍く、何もわかっていないからだ。さあ、そんな知識で神に近づけるだろうか。生きたままのみ込まれてもよいというのか。”とあります。
今日はこの中から、「自分には豊富な知識があると考える人がいたら、神に近づく方法を教えてもらいたい。」という箇所を文章の流れから切り離して考えたいと思います。
新約時代の私たちは、乏しい知識しかなくても、ただ一つのことを知っていれば、神に近づくことができます。
イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6・2017)と語られました。
私たちは、その気があればだれでもイエス様を通して万物の根源であるイエス・キリスト様の父である神様のもとにたどり着くことができるのです。
その方法は、イエス様を自分の救い主として、自分の主として信じること、イエス様を心に受け入れることなのです。
イエス様を上記のように信じるためには、まず自分の罪が分からないと信じる必要を感じないかも知れません。
また、自分の罪を認めることなくイエス様を信じてもそれでは救いが分かりません。
罪とは、神様のみ旨に反する思い、言葉、行動等です。
最大の罪は、神を認めないことです。
イエス様は、「罪とは、わたしを信じないことです。」(ヨハネ16:9・リビングバイブル)と教えてくれました。
人は、罪をもって生まれてきています(ローマ5:12、詩篇51:5)から、「イエス様の、『罪とは、わたしを信じないことです。』」という言葉にさえ、怒りを覚える人達もいると思います。
しかし、その怒りも罪です。
神を認めようとしないと人はどうなるのでしょう。
ローマ1章には、
“18 というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。19 神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。20 神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。21 彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。22 彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、23 朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。24 そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。25 彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、27 同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。28 また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。29 彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、30 人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、31 浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。32 彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。”(2017)と記されています。

 罪からの救いについて、使徒ヨハネは次のように述べています。
“16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。
36 御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。”(2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
イエス様を信じることができるように導いてくださいましたことを感謝します。
イエス様を信じさせて頂けたことによって、罪赦され、新生させて頂き、希望をもって生きる歩みを得させて頂けましたことを感謝します。
御父を愛し、イエス様を愛し、愛する故に従い、喜びをもってあなたに仕える歩みをし続けて行くことができますように。
御名をほめたたえ、我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2021年3月31日 (水)

ヨブ36:1-26 エリフの弁論5

 1-4節には、“1 エリフはさらに続けて言った。2 しばらく待て。あなたに示そう。まだ神のために言い分があるからだ。3 私は遠くから私の意見を持って来て、私の造り主に義を返そう。4 まことに、私の言い分は偽りではない。知識の完全な方が、あなたのそばにおられるのだ。”(2017)とあります。

 この箇所をリビングバイブルは、“1 エリフのことばの続き。2 「もう少し続けさせてほしい。まだ、神について語るべきことがある。3 私を造った方の正しさを説明するために、例話を引き合いに出そう。4 私は豊富な知識を持っている。私が話すことは混じり気のない真実ばかりだ。”と意訳しています。

新改訳は、4節の「知識の完全な方が、あなたのそばにおられるのだ。」と訳して、神を指して訳しています。
新共同訳も神を指して訳しています。
新共同訳は4節を“完全な知識を持つ方をあなたに示そう。”と訳しています。
一方、口語訳、文語訳、リビングバイブルは、神ではなくエリフ自信を指して語っているように訳しています。
口語訳は、“知識の全き者があなたと共にいる。”と訳しています。

 いずれにしても、エリフは、神に変わってヨブに神について話し始めるということです。

 人に対する神の取り扱いをエリフは次のように語りました。5-15節には次のように記されています。
“5 見よ。神は強いが、だれをも蔑まれない。その理解の力は強い。
〔「神は力強く、誰をも退けず、その心の力は強い。」(聖書協会共同訳)、「まことに神は力強く、たゆむことなく、力強く、知恵に満ちておられる。(新共同訳)
6 神は悪しき者を生かしてはおかず、苦しむ者には権利を与えられる。
神に逆らう者を生かしてはおかず、貧しい人に正しい裁きをしてくださる。(新共同訳)〕
7 神は正しい者から目を離さず、彼らを王座にある王たちとともに、永遠に座に着かせる。こうして彼らは高くなる。
神に従う人から目を離すことなく、王者と共に座につかせ、とこしえに、彼らを高められる。(新共同訳)、新約的にはエペソ2:6を思い浮かべます(筆者挿入)〕
8 もし、彼らが鎖で縛られ、苦しみの縄に捕らえられたら、9 神は彼らの行いを彼らに告げられる。彼らの背きを。彼らがおごり高ぶったからである。10 神は彼らの耳を開いて戒め、不法から立ち返るように命じる。11 もし彼らが聞き入れて神に仕えるなら、彼らは自分の日々を幸せのうちに、自分の年々を楽しみのうちに全うする。12 しかし、もし聞き入れなければ、彼らは槍によって滅び、知識のないまま息絶える。13 心で神を敬わない者は怒りを蓄え、神が彼らを縛るときでも、助けを叫び求めない。14 彼らは若くして死に、そのいのちは腐れている。
〔8 彼らが災いに会い、奴隷となって苦しむと、9 災いが起こった理由を示し、どのような悪いことをしたのか、またどのように思い上がっていたかを指摘してくれる。10 神は、彼らが神の戒めを聞き、罪から離れるように力を貸す。11 彼らが神に従うなら、一生のあいだ祝福されて繁栄する。12 しかし、神のことばを聞かないなら、良識を失って戦場で倒れる。13 一方、神を信じない者は神の怒りを買う。彼らは神に懲らしめられているときでも、神に立ち返ろうとしない。14 快楽にうつつを抜かして堕落し、若死にする。(リビングバイブル)〕
15 神は苦しむ人をその苦しみの中で助け出し、抑圧の中で彼らの耳を開かれる。
神は悩んでいる者を救い出す。人は苦しむと、神のことばを聞くようになる。(リビングバイブル)〕
”(2017)とあります。

 エリフはヨブを「あなた」と指し示し、勧告しています。16-21節には次のように記されています。
“16 神はまた、あなたを苦難の中から誘い出し、束縛のない広いところに導かれる。豊かな食物が備えられた、食卓での安らぎに。
神はどんなにか、あなたを危険から救い出し、心地いい広々とした所へ連れて行き、そこであなたを繁栄させたいと思っていることか。(リビングバイブル)〕
17 あなたには悪しき者へのさばきが満ちている。さばきと公正があなたを捕らえる。
〔{16.17節は(筆者挿入)}ヨブの未来に横たわる二つの可能性として、祝福と呪いを対照的に描く。(注解付新改訳聖書の注)〕
18 だからあなたは、憤って、豊かさに誘い込まれないようにせよ。身代金が多いからといって、それに惑わされないようにせよ。
だから注意せよ。富の力に惑わされないように。身代金が十分あるからといって、道を誤らないように。(新共同訳)〕
19 あなたの叫びが並べ立てられても、力の限りが尽くされても、それは役に立たないのではないか。
20 人々が取り去られる夜を、あえぎ求めてはならない。
神のさばきによって人々が取り去られる夜を求めるな。(リビングバイブル)〕
21 不法に向かわないように注意せよ。あなたは苦しみよりも、これを選んだのだから。
警戒せよ。悪い行いに顔を向けないように。苦悩によって試されているのは、まさにこのためなのだ。(新共同訳)〕”(2017)とあります。

 一般論としては、エリフの語っていることにも一理ありますが、ヨブの受けた災いについてその理論をヨブに当てはめるということに関しては間違っています。エリフもサタンの策略や行動については無知であったか、あまり知らなかったのだろうと思います。

 神は偉大なのだから神を賛美せよ、とエリフは勧めます。22-26節には次のように記されています。
“22 見よ、神は力にすぐれておられる。神のような教師が、だれかいるだろうか。23 だれが神にその道を指図したのか。だれが「あなたは不正をした」と言ったのか。24 神のみわざを覚えて賛美せよ。人々がほめ歌った、そのみわざを。25 すべての人がこれを見、人が遠くからこれを眺める。26 見よ。神はいと高く、私たちには知ることができない。その年の数も測り知ることができない。”(2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
7節の「神は正しい者〔神に従う人(新共同訳)〕から目を離さず、彼らを王座にある王たちとともに、永遠に座に着かせる。こうして彼らは高くなる。」とエリフは語りました。
この箇所を読んだとき、エペソ2:6の「神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」(2017)の箇所を思い起こしました。
あなたの御愛顧を思い心から感謝申し上げます。
あなたの御愛、あなたの恵みの偉大さの故にあなたをほめたたえ、我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2021年3月30日 (火)

ヨブ35章 エリフの弁論4

 1-2節には次のように記されています。
“1 エリフはさらに言った。
2 あなたは、このことが正義によると見なしているのか。「私の義は神からだ」とでも言うのか。3 というのは、あなたがこう言っているからだ。「何があなたの役に立つのでしょうか。私が罪から離れると、どんな利益があるのでしょうか」と。”(2017)とあります。

 この箇所は色々に訳せるようです。
2.3節を、
 口語訳は、“2 「あなたはこれを正しいと思うのか、あなたは『神の前に自分は正しい』と言うのか。3 あなたは言う、『これはわたしになんの益があるか、罪を犯したのとくらべてなんのまさるところがあるか』と。”と訳し、
 新共同訳は、“2 「神はわたしを正しいとしてくださるはずだ」とあなたは言っているが、あなたのこの考えは正当だろうか。3 またあなたは言う。「わたしが過ちを犯したとしても〔「罪から離れても」と訳すこともできる(新共同訳スタディー版の注)〕、あなたに何の利益があり、わたしにどれほどの得があるのか。」”と訳し、
 岩波訳は、“2 あなたは、これが公正だと考えるのか、あなたは語るのだ、「わが正義は神に勝る」と。3 まことに、あなたは言う、「一体、私に何か益するのか、私が罪を離れても、何の得になるのか」と。”と訳しています。

 次に岩波訳を基にして、岩波訳の注を記します。
「わが正義は神に勝る」(2)について、“ヨブは「神に対し、人はどうして正しくありうるだろう」(9:2)と語っていたが、エリフはヨブの認識を正反対に歪曲する。”と述べ、
3節の「私に」という訳について、“本文の間接話法を直接話法で訳出したので、「あなたに」とあるのを「私に」と変更する。”と述べ、
「一体、私に何か益するのか、私が罪を離れても、何の得になるのか」(3)について、“エリファズは、人が神を益することはなく、ただ人は自分を益するだけだと語っていた(22:2)。エリフは、ヨブはそれをも認めず、自分の罪を反省していないと批判する。”と述べています。
 ヨブ22:2.3のエリファズの言葉を2017は、「2 人は神の役に立てるだろうか。賢い人でさえ、ただ自分自身の役に立つだけだ。3 あなたが正しいからといって、それが全能者の喜びとなるだろうか。あなたの行いが全きものであるからといって、それが神にとって益になるだろうか。」と訳しています。

 エリフは、ヨブが語っていないことをヨブが語っているとし、それを前提にして話を進めます。4-16節には次のように記されています。
“4 私はあなたにことばを返そう。あなたとともにいる友人たちにも。
5 天を仰ぎ見よ。あなたより、はるかに高い雲をよく見よ。6 あなたが罪を犯したとしても、あなたは神に対して何ができるのか。あなたの背きが多くあるとしても、神に対して何をなし得るのか。7 あなたが正しかったとしても、神に何を与えられるのか。神は、あなたの手から何を受けられるのか。8 あなたの悪は、ただあなたのような人間に、あなたの正しさは、人の子に関わるだけだ。9 人々は、激しい抑圧のために泣き叫び、偉大な者の腕のために、助けを叫び求める。10 しかし、だれも問わない。「私の造り主である神はどこにおられるのか。夜、ほめ歌を下さる方は。11 地の獣に教えるより、私たちに多くを教え、空の鳥より、私たちを賢くする方は」と。12 そこでは、彼らが泣き叫んでも神は答えない。悪人がおごり高ぶっているからだ。13 神は決して偽りの叫びを聞き入れず、全能者はこれに心を留めない。14 「神を見られない」とあなたが言うときには、なおさらだ。しかし訴えは神の前にある。あなたは神を待て。15 しかし今、神は怒って罰しないだろうか。ひどい罪を知らずにいるだろうか。16 ヨブは空しい口を開き、知識もなしに、自分の言い分を並べ立てている。”(2017)とあります。

 主なる神様についての知識がヨブよりも劣っているエリフの言葉をヨブは黙って聞いています。ヨブに対して正しくない言葉を発しているエリフの言葉の前に。

 4-16節をリビングバイブルは、
“4 今、あなたばかりか、ここにいる皆の前で答えよう。5 はるかに高い天を見上げてみよ。6 あなたが罪を犯したところで、天をゆさぶり、神を御座から突き落とすことができようか。罪を山と積んだところで、神にとって、それが何になるのか。7 あるいは、あなたが正しいとしても、それで神に恩を着せることになろうか。8 あなたの罪は他の人を傷つけ、善行は他の人の役に立つこともあるだろうが、それだけなのだ。9.10 人々は抑圧されて叫び声をあげ、金持ちの力に屈してうめく。しかし、誰ひとり、神に泣きつき、『私を造った神はどこにいるのか。夜には私に歌を与え、11 私たちを獣や鳥より多少でも賢くするお方はどこにいるのか』と尋ねようとしない。12 神にこう問いかけたところで、神は、抑圧するものにすぐさま報復してくれるわけではない。13 かといって、神がこのような叫びに耳をふさいでいると思うのは間違いだ。14.15 神は事の成り行きを見ていないと考えるのは、いっそう大きなまちがいだ。神を待ち望みさえすれば、正しい裁きをしてくださる。神が怒ってすぐ罰しないからといって、大声をあげて神にかみついてはいけない。16 ヨブさん、あなたは愚か者のような口のきき方をしている。」”と意訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
エリフのヨブに対する言葉には的外れが多くて少し疲れました。
この章のことばの中に、“「私の義は神からだ」とでも言うのか。”という箇所があります。
御父と御子イエス様に感謝します。
イエス様が、十字架上で贖いを完了し、3日目にご復活くださったことにより、イエス様を信じる私たちは義とされていますから感謝します。
罪と何のかかわりもない方〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(2コリント5:21・新共同訳)とありますからありがとうございます。
あなたの豊かなお恵みに感謝し、我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2021年3月29日 (月)

ヨブ34章 エリフの弁論3

 1-3節には、“1 エリフはさらに言った。2 知恵のある人々〔ヨブとヨブの3人の友人たち(筆者挿入)〕よ、私のことばを聞け。知識のある人々よ、私に耳を傾けよ。3 耳はことばを聞き分け、口は食物を味わうからだ。4 さあ、私たちのために正しいことを選び、私たちの間で、何が良いことかをよく知ろう。”(2017)とあり、エリフはヨブにだけではなくテマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルに対しても語っています。

 エリフはヨブの言った言葉を取り上げて次のように述べています。5-9節には次のように記されています。
“5 ヨブはこう言っているからだ。
「私は正しい。神が私の正義を取り去ったのだ。6 私の正義に反して、私は偽りを言えるだろうか。背きがないのに、私の矢傷〔病気と苦痛のこと(筆者挿入)〕は治らない。」
7 ヨブのような人がほかにいるだろうか。彼は嘲りを水のように飲み、8 不法を行う者どもとよく交わり、悪人たちとともに歩む。
9 彼は言っている。「神に喜ばれようとしても〔親しんでも(口語訳、第三版)〕、それは人の役に立たない。」”(2017)とあります。

 ヨブの言葉であるとエリフが言うヨブ34:9の「神に喜ばれようとしても〔親しんでも(口語訳、第三版)〕、それは人の役に立たない。」(2017)という内容は、主を信じない者たちの歩みや言葉に関してヨブが言ったことくらいしか思い浮かびません。
参考としてヨブ21章の一部を下記します。ここではヨブが、悪しき者(神に逆らう者)について語っているのです。
“7 なぜ悪しき者〔神に逆らう者(新共同訳)〕が生きながらえて年をとっても、なお力を増し加えるのか。8 その子孫は彼らとともにあって、彼らの前に堅く立ち、その末裔は彼らの目の前に堅く立つ。9 彼らの家は平和で恐れもなく、神のむちが彼らの上に下されることもない。10 その雄牛は、はらませて失敗することがなく、その雌牛は、子を産んで仕損じることがない。11 彼らは幼子たちを羊の群れのように自由にさせ、彼らの子どもたちは飛び跳ねる。12 彼らはタンバリンや竪琴に合わせて歌い、笛の音で楽しむ。13 幸せのうちに寿命を全うし、安らかによみに下る。14 彼〔神に逆らう者(筆者挿入)〕らは神に向かって言う。「私たちから離れよ。私たちは、あなたの道を知りたくない。15 全能者とは何なのか。私たちが仕えなければならないとは。どんな益があるのか。私たちが彼に祈り願ったところで」と。16 見よ、彼らの繁栄はその手の中にはない。悪者のはかりごとは、私とは何の関係もない。”(2017)とある中の15節です。

 ただし、ヨブ34:9 の“「神に喜ばれようとしても何の益もない」と彼は言っている。”(2017)の言葉には、一面の真理があります。
新約的に言えば、イエス・キリスト様を信じることなく、自分の肉の行いで、神に喜ばれるように行動しよう、或いは自分で良いと思っている良き行為によって神に認めてもらおうと思い、そのように行動しても、それは、その人のためにしていることであって、主の裁きの前では、何の効力も発揮しないのです。
一方、主イエス・キリストを信じ、救われたキリスト者が、主を愛し、主が喜んでくださるので、或いは主の栄光のために、主に喜ばれることをしよう、という場合には、キリストの裁きの場においてご褒美を頂けるでしょう(2コリント5:10、マタイ25:21.23)。

 10-12節にはエリフの言葉として次のように記されています。
“34:10 だから、あなたがた良識のある人々〔ヨブ及び3人の友人(筆者挿入)〕よ、私に聞け。神が悪を行うなど、全能者が不正をするなど、絶対にあり得ない。11 神は、人の行いに応じて報いをし、それぞれをその道にしたがって取り扱われる。12 神は決して悪を行わない。全能者はさばきを曲げない。”(2017)

 神は公正なお方であって、不正を行わず、応報理論を実行なされる、ということを語っています。
その通りなのですが、ヨブの災いは神からの裁きではありませんでした。サタンが神に挑戦し、その結果としてヨブに災いが及んだのです。もし、主が、ヨブ2章10節のヨブの言葉をもって、主とサタンとの戦いを終了させていれば、主はヨブを通して100%の勝利を収めたのです。しかし、そこで終わらせなかったのには主の深い読みがあったのです。ヨブ2:1-10には次のように記されています。
“1 またある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来て、主の前に進み出た。
2 主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」
「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。
3 主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」
4 サタンは答えた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。5 手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
6 主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」
7 サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。
8 ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。
9 彼の妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、
10 ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。”(新共同訳)とあります。
このこと以前に、ヨブは自分の子どもたち全員と、財産の多くをサタンによって奪われていたのですが、罪は犯していませんでした(ヨブ1:6-22)。
主が、ヨブの災難をヨブ2:10までで終わらせなかったのには、理由がありました。それはヨブをさらに整え、祝福するためでした(ヨブ42章)。

 エリフは、神が全世界の統治者であること、人も神の統治の下にあるということを、次のように語りました。13-15節には次のように記されています。
“13 だれが、この地を神にゆだねたのか。だれが、全世界を神に任せたのか。14 もし、神がご自分だけに心を留め、その霊〔原語は「ルーアハ」(筆者挿入)〕と息〔原語は「ネシャーマー」(筆者挿入)〕をご自分に集められたら、15 すべての肉なるもの〔原語は「バーサール」で、肉、体の意(筆者挿入)〕はともに息絶え、人は土のちりに帰る。”(2017)とあります。

 エリフは、神の統治と公正について次のように述べていますが、真偽が混交していると思います。16‐30節には次のように記されています。
“16 悟ることができるなら、これを聞け。私の言うことに耳を傾けよ。
17 いったい、公正を憎む者が、治めることができるだろうか。正しく力ある方を不義に定めることができるだろうか。
18 人が王に向かって「よこしまな者」と言い、高貴な人に向かって「悪者」と言えるだろうか〔歴史に照らし合わせるとエリフのこの例証は間違いです(筆者挿入)〕。
19 この方〔神(筆者挿入)〕は、首長たちをえこひいきせず、上流の人を貧しい民より重んじることはない。彼らはみな、神の御手のわざ〔神によって造られたもの=被造物(筆者挿入)〕だからだ。20 彼らは瞬く間に、それも真夜中に死に、民は動揺のうちにいなくなる。強い者たちも人の手によらずに〔神の御手によって(筆者挿入)〕取り去られる。21 神の御目が人の道の上にあり、その歩みのすべてを神が見ておられるからだ。22 不法を行う者どもが身を隠せる闇はなく、暗黒もない。23 神は人について、それ以上調べる必要はない。さばきのときに、神の前に出させてまでして。〔死後には、一定の時の後に神のさばきがあり、それによってその魂の行き先が決定される{使徒17:31、ヨハネ5:27-29}(筆者挿入)、23節について新共同訳は「人は神の前に出て裁きを受けるのだが、神はその時を定めてはおられない。」と訳しています。〕
24 神は力ある者を、取り調べなしに打ち滅ぼし、彼らに代えてほかの者たちを立てられる。25 神は彼らのしわざを知っており、夜に彼らを打ち倒される。彼らは砕かれる。〔物理的な夜及び対神的な闇の行いをも含めれば正しいと思います(筆者挿入)〕26 神は、人々の見ているところで、彼らをその邪悪さのゆえに打ちたたかれる。27 それは、彼らが神に背いて従わず、神のどの道にも心を留めなかったからだ。28 こうして、弱い者の叫びを神に届かせ、神は苦しむ者たちの叫びを聞き入れられる。
29 神が黙っておられるなら、だれがとがめることができるだろうか。神が御顔を隠しておられるなら、だれが神を認めることができるだろうか。一つの国民においても、一人の人間においても同様だ。
30 それは、神を敬わない人間が治めたり、民を罠にかけたりしないようにするためだ。”(2017)とあります。

 エリフはヨブに対して次のように語りました。31-37節には次のように記されています。
“31 神に向かってだれかが言ったか。「私は懲らしめを受けました。私はもう悪いことはいたしません。32 私が見ていないことを、あなたが私に教えてください。私が不正をしたのでしたら、もういたしません」と。〔エリフはヨブに悔い改めの祈りを勧めています。この様な祈りの内容をヨブに勧めるエリフが悔い改めの祈りを必要としています。何故ならヨブの災いは神の懲らしめではないからです。(筆者挿入)〕
33 あなたが反対するからといって、神はあなたの願うとおりに報復されるだろうか。私ではなく、あなたが選ぶがよい。あなたの知っていることを言うがよい。34 良識のある人々や、私に聞く、知恵のある人は私に言うだろう。
35 「ヨブは知識もなしに語る。彼のことばは聡明さに欠けている」と。
36 どうか、ヨブが最後まで試されるように。彼は不法者のように、ことばを返すからだ。37 彼は自分の罪にさらに背きを加え、私たちの間で手を打ち鳴らし、神に対してことば数を多くする〔わたしたちに疑惑の念を起こさせ、神に向かってまくしたてている(新共同訳)〕。”(2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
苦しみの中にあるときには、この苦しみが早く終わらないかな、と思いますが、苦しみの最後に、或いはその途中をも含めて、主によって整えて頂くと、私たちは主に、「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたの~を学びました。」(詩篇119:71を参考にして)というように変えられますから感謝します。
至る所であなたの御名が崇められますように。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2021年3月28日 (日)

ヨブ33章 エリフの弁論2

 33章におけるヨブへのエリフの語りかけの始まりは、ヨブの心を開かせようとするものでした。1-7節には、次のように記されています。
“1 そこでヨブよ、どうか私の言い分を聞いてほしい。私のすべてのことばに耳を傾けてほしい。2 さあ、私は口を開き、私の口の中の舌が語る。3 私の言うことは、直ぐな心から出る。私の唇は、率直に知識を語る。4 神の霊〔原語は「ルーアハ」(筆者挿入)〕が私を造り、全能者の息〔ネシャーマー(筆者挿入)〕が私にいのちを下さる。5 あなたにできるのであれば、私に返事をし、ことばを並べ立てて、私の前に立ってみよ。6 実に、神にとって、私はあなたと同様だ。私もまた粘土で形造られた。7 見よ、私の脅しも、あなたをおびえさせない。あなたに私の力がのしかかっても、重くはない。〔見よ、わたしには脅かすような威力はない。あなたを押さえつけようとしているのではない。”(2017)とあります。

 エリフがヨブのこれまでの発言を聞いていて、エリフがヨブの言葉に不適切さを見出した言葉をエリフはヨブに指摘します。8-11節には次のように記されています。
“8 確かにあなたは、この耳に言った。私はあなたの話す声を聞いた。9 「私はきよく、背きがない。私は純潔であり、咎もない。10 それなのに、神は私を攻める口実を見つけ、私を神の敵のように見なされる。11 神は私の足にかせをはめ、私の歩みをことごとく見張られる。」”(2017)とあります。

 エリフは12.13節で、神は人よりも偉大なのだから神と言い争うことは良くないとヨブに語ります。
“12 聞け。私はあなたに答える。このことであなたは正しくない。神は人よりも偉大なのだから。13 なぜ、あなたは神と言い争うのか。自分のことばに、神がいちいち答えてくださらないからといって。”(2017)とあります。

 神様は、人が罪に陥らないようにするために、夢の中で語ってくださる場合もありますよ、とエリフは語ります。14-18節には次のように記されています。
“14 神はある方法で語り、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。15 夢の中で、夜の幻の中で、深い眠りが人々を襲うとき、また寝床の上でまどろむとき、16 そのとき、神はその人たちの耳を開き、彼らを懲らしめて、それを封印される。17 神は、人間がその悪いわざを取り除くようにし、人から高ぶりを離れさせ、18 人のたましいが滅びの穴に入らず、そのいのちが投げ槍で滅びないようにされる。”(2017)とあります。

 私も夢による警告受けたことがあります。すぐに悔い改めたので、現象化しませんでした。だいぶ前のことなので、内容は覚えていませんが、主は優しいお方だな、と思ったものです。

 次にエリフは、主が病を与えることによって人を矯正する場合があることを語ります。19-22節には次のように記されています。
“19 神は、床の上で痛みをもって人を責め、いつまでも続く骨の病によってお叱りになる。20 彼のいのちは食物を嫌い、そのたましい〔原語は「ネフェシュ」(筆者挿入)〕はうまい物を嫌う。21 その肉は衰え果てて見えなくなり、見えなかった骨があらわになる〔骨と皮だけになり(リビングバイブル)〕。22 そのたましい〔原語は「ネフェシュ」(筆者挿入)〕は滅びの穴〔原語は「シャハト」(筆者挿入)〕に、そのいのち〔原語は「ハイ」(筆者挿入)〕は殺す者たちに近づく。〔死の一歩手目まで近づく(リビングバイブル)〕”(2017)とあります。

 エリフは暗にヨブを指し示して語っているように思えますが、私たち読者は、ヨブの病は、罪からではなく、サタンの神に対する挑戦の場がヨブの体にも及び、ヨブは骨と皮だけのような、死の直前のように見える状態にまでなっているのであって、ヨブに対してこの言葉は適切でないことを知っています。しかしながら、エリフの語っていることは条件を付ければ間違っているわけではなく実際に起こることです。

 エリフの口から、仲保者キリストによる救いを思わせるような言葉が出てきます。23-29節には次のように記されています。
“23 もし彼のそばに、一人の御使いが、千人に一人の仲介者がいて、その方が彼に代わって彼が誠実であることを告げてくれるなら、24 神は彼をあわれんで仰せられる。「彼を救って、滅びの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を見出した」と。25 その肉は幼子のように新しくされて、彼は青年のころに戻る。26 彼は、神に祈ると受け入れられる。彼は歓喜の声をもって御顔を仰ぎ、神はその人の義に報いてくださる。27 彼は人々を見つめて言う。「私は罪ある者で、真っ直ぐなことを曲げてきた。しかし私は、当然の報いを受けなかった。28 神は、私が滅びの穴に下らないように、私のたましいを贖い出してくださった。私のいのちは光を見ることができる」と。29 見よ、このすべてのことを神は行われる。二度も三度も、人に対して。30 人のたましいを滅びの穴から引き戻し、いのちの光で照らされる。”(2017)とあります。

 この箇所をリビングバイブルは、次のように意訳しています。
“23.24 しかし、そこに御使いがいて、友人として彼を取りなし、彼がいかに正しいかを告げるなら、神は彼をあわれんでこう言う。『彼を自由の身にせよ。死なせるな。彼の身代わりができたからだ。』25 すると彼は、子どものように元気になり、若さを取り戻して健康になる。26 彼が祈ると、神はすぐさま答え、喜んで彼を受け入れ、彼をもとの働き場に戻す。27 彼は大声で友人に言う。『私は罪を犯したが、神は釈放してくださった〔わたしは罪を犯し正しいことを曲げた。それはわたしのなすべきことではなかった(新共同訳)〕。28 私が死ぬのをお許しにならなかった。これからは光の中で生活しよう。』29 神はたびたび、このようにして、30 人のたましいを深い穴から引き上げ、いのちの光の中で生きるようにしてくださる。”とあります。

 新生した人であるならば、キリストとキリスト者の影絵を見ているようです(内容が正確なわけではありませんが)。

 31-33節を2017は次のように訳しています。
“31 ヨブよ、耳を傾けて私に聞け。黙れ。この私が語る。32 もし、ことばがあるなら、私に返事をせよ。言え。あなたが正しければ、それを私は喜ぶから。33 もし、ことばがないなら、私に聞け。黙れ。私はあなたに知恵を教えよう。”とあります。
 この箇所をリビングバイブルは、
「31 ヨブさん、そのことをよく考えてもらいたい。話すことはまだある。続けて聞いてもらいたい。32 これまでのところで何か言い分があるなら、遠慮しないで言ってほしい。私はあなたの正しさを認めたいと思っているのだから、喜んで聞く。33 言うことがなければ、黙って、おとなしく聞いてもらいたい。これから、あなたに知恵を教えよう。」と意訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
エリフが、仲保者や身代金即ち贖いの概念を持ち出したことに驚きました。
ヨブが、「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。 私の皮がこのように剝ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。 この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない。私の思いは胸の内で絶え入るばかりだ。」(ヨブ19:25-27)と語ったことをエリフが聞いていて、エリフがそれに反応したのでしょうか。
私にはよく分かりませんが、私たちキリスト者は、イエス様が贖ってくださったことを体験しています。
ありがとうございます。
あなたの御名を崇め、感謝し、我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

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