哀歌

2021年9月10日 (金)

哀歌5章 エルサレムとその住民の荒廃を嘆くと共に憐れんで欲しいという祈り

(本文は新共同訳です)
 哀歌5章はアルファベット詩になっていません。
5:1 主よ
わたしたちにふりかかったことに心を留め
わたしたちの受けた嘲りに目を留めてください。

5:2 わたしたちの嗣業〔「相続地」(第三版)、「ゆずりの地」(2017)/ヤハウェ(主)が与えて下さった地(筆者挿入)〕は他国の民のものとなり
家は異邦の民のものとなった。

5:3 父はなく、わたしたちは孤児となり
母はやもめとなった。
〔2017は、“私たちは父のいないみなしごとなり、母はやもめのようになりました。”と訳しています。(筆者挿入)〕

5:4 自分の水をすら、金を払って飲み
自分の木からすら、価を払って取り入れる。

 新共同訳スタディ版の注は、“水と薪は生活必需品であった。B.C.586年の新バビロニア帝国の侵略により、ユダは帝国の一部となった。今や土地だけではなく、水や薪さえも他人のものとなっていた。捕囚とならなかった貧しい人々は支配者に頼らなければ生きていけなかった。”と述べています。

5:5 首には軛を負わされて追い立てられ
疲れても、憩いはない。
〔口語訳は、“われわれは首にくびきをかけられて追い使われ、疲れても休むことができない。”と訳しています。(筆者挿入)〕

5:6 わたしたちはエジプトに手を出し
パンに飽こうとアッシリアに向かった。

 エジプトやアッシリアは、ユダの人々の中でユダ国から逃げて行った人たちが助けを求めた国々であり、その他の近隣諸国にも逃れた人たちがいました。

5:7 父祖は罪を犯したが、今は亡く
その咎をわたしたちが負わされている。

 7節のように語っている人たちもヤハウェ(主)に背を向け、罪の内を歩み続けたのです。創世記3:12.13以来、人は自分の罪の責任を他者に持っていこうとします。それは罪の結果です。主の御救いにあずかるためには、自分の罪は自分の罪として主の御前に出ることが大切です。自分の罪を人に転嫁していては救われません。

5:8 奴隷であった者らがわたしたちを支配し
その手からわたしたちを奪い返す者はない。
〔リビングバイブルは、“以前は私たちに仕えていた召使が、今では主人に取って代わりました。私たちを救ってくれる者は一人もいません。”と意訳しています。(筆者挿入)〕

5:9 パンを取って来るには命をかけねばならない。
荒れ野には剣が待っている。
〔リビングバイブルは、“私たちは、敵に襲われていのちを落とすのを覚悟して、食べ物を捜しに荒野へ行きました。”と意訳しています。(筆者挿入)〕

5:10 飢えは熱病をもたらし
皮膚は炉のように焼けただれている。

5:11 人妻はシオンで犯され
おとめはユダの町々で犯されている。

5:12 君侯は敵の手で吊り刑にされ
長老も敬われない。

5:13 若者は挽き臼を負わされ
子供は薪を負わされてよろめく。
〔リビングバイブルは、“彼らは、ひき臼をひかせるために若い人たちを、重い荷をかつがせるために幼い子供たちを、労働力として連れ去りました。”と意訳しています。(筆者挿入)〕

5:14 長老は町の門の集いから姿を消し
若者の音楽は絶えた。

5:15 わたしたちの心は楽しむことを忘れ
踊りは喪の嘆きに変わった。

5:16 冠は頭から落ちた。
いかに災いなことか。
わたしたちは罪を犯したのだ。
〔リビングバイブルは、“私たちの栄光は去り、私たちの頭から冠が転げ落ちました。私たちが罪を犯したために、災難が降りかかったのです。”と意訳しています。(筆者挿入)〕

5:17 それゆえ、心は病み
この有様に目はかすんでゆく。

5:18 シオンの山は荒れ果て、狐がそこを行く。
〔リビングバイブルは、“エルサレムと神殿は荒れ果てて、住む人もなく、いるのは廃墟を歩き回る野獣だけです。”と意訳しています。(筆者挿入)〕

 1-18節は、おもに、エルサレムとユダの民の悲しむべき状況が描かれています。
19-22節は、ヤハウェ(主)への祈りに変わります。

5:19 主よ、あなたはとこしえにいまし
代々に続く御座にいます方。

5:20 なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ
果てしなく見捨てておかれるのですか。

5:21 主よ、御もとに立ち帰らせてください
わたしたちは立ち帰ります。
わたしたちの日々を新しくして
昔のようにしてください。

5:22 あなたは激しく憤り
わたしたちをまったく見捨てられました。
〔第三版は、“それとも、あなたはほんとうに、私たちを退けられるのですか。きわみまで私たちを怒られるのですか。”と疑問文として訳しています。(筆者挿入)〕

 21節には、「主よ、御もとに立ち帰らせてください。わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして、昔のようにしてください。」という著者の祈りがあります。
「昔のようにしてください。」という著者の祈り以上のことをヤハウェ(主)は、してくださいました。この祈りから約600年後のことでした。
父なる神は、神のひとり子の御子に人間の肉体を与えました。神であり人となったイエス・キリスト様は、ご自身の肉の体をもって贖いを成し遂げました。イエス・キリスト様を信じたユダヤ人たちは昔のようになったのではなく、新し契約のもと、まことの救いを得、更にその救いは全世界の人々へと広がったのです。

“11 実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。
12 その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、
13 祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れ〔キリストの空中再臨(筆者挿入)〕を待ち望むように教えています。
14 キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。”(テトス2:11-14・2017)

 「イエス・キリストの、栄光ある現れ」即ちキリストの空中再臨は、キリストが、神のラッパの響きの内に天から下って来られるときのことです(地上再臨のことを言っているのではありません)。その時に、既に天に帰っていたキリスト者は、霊の体を与えられ、地上で生活しているキリスト者は、霊の体に変えられるのです(1テサロニケ4:16.17)。このことは一瞬の内に起こります(1コリント15:52)。それ以降、とこしえに主と共にいることになるのです(1テサロニケ4:17)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたのご計画は、人の想像の及ばないものです。
著者は、「昔の幸せな時を」と祈りましたが、あなたは、それとは比べものにならない祝福を与えてくださるのですから。
それはそれとして、日々の歩みにおいて、常にあなたを愛し、あなたに信頼し、あなたに従い続ける歩みをさせて頂けますよう、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年9月 9日 (木)

哀歌4章 エルサレムの昔の栄光を顧みつつ現在の悲惨さを嘆く

(本文は新共同訳です)
第四の歌(アルファベットによる詩)
 〔アレフ(筆者挿入)〕
4:1 なにゆえ、黄金は光を失い
純金はさげすまれているのか。
どの街角にも聖所の石が打ち捨てられているのか。
〔リビングバイブルは次のように意訳しています。“どうして、純金は光沢を失ったのでしょうか。それを埋め込んだ神殿の壁がくずれ落ち、道ばたに散らばったからです。”とあります。(筆者挿入)〕

 〔ベート(筆者挿入)〕
4:2 貴いシオンの子ら、金にも比べられた人々が
なにゆえ、土の器とみなされ
陶工の手になるものとみなされるのか。
〔リビングバイブルは次のように意訳しています。“純金とも言うべき、えりすぐりの若者が、土の器のように扱われています。”(筆者挿入)〕

 〔ギメル(筆者挿入)〕
4:3 山犬ですら乳を与えて子を養うというのに
わが民の娘は残酷になり、荒れ野の駝鳥のようにふるまう。

 〔ダレット(筆者挿入)〕
4:4 乳飲み子の舌は渇いて上顎に付き
幼子はパンを求めるが、分け与える者もいない。
〔3.4節をまとめて、リビングバイブルは次のように意訳しています。“山犬でさえ、自分の子を育てるというのに、イスラエルは荒野のだちょうのように、赤ん坊の泣き声を聞いても知らぬふりをしています。一滴の水も残っていないので、子供たちは渇きのため、のどがかれています。幼子はパンが欲しくて泣きますが、誰ひとり、一かけらも与えることができません。”とあります。(筆者挿入)〕

 新共同訳スタディ版の注は、“B.C.587-586年にバビロニア軍が1年半にわたってエルサレムを包囲したため住民は飢餓状態となった(2列王記25:2.3)。人々は自分の子さえ養わなくなり、人肉を食したとさえ伝えられる(2:20、4:10)”と述べています。

 〔ヘー(筆者挿入)〕
4:5 美食に馴れた者も、街にあえぎ
紫の衣に包まれて育った者〔身分の高い家に育った人(筆者挿入)〕も塵にまみれている。
〔リビングバイブルは次のように意訳しています。“味にうるさい美食家たちも、口に入る物ならなんでも恵んでくれと、道ばたで物乞いをしています。宮殿育ちの貴族までが、ごみ捨て場をあさります。

 〔ヴァヴ(筆者挿入)〕
4:6 ソドムは、その罪のゆえに
人の手によらず、一瞬にして滅んだが
わたしの民の娘〔娘である私の民(2017)=ヤハウェ(主)の民(筆者挿入)〕はそれよりも重い罪を犯したのだ。

 〔ザイン(筆者挿入)〕
4:7 この民のナジル人〔献身を誓った人(筆者挿入)〕らは雪よりも清く
乳よりも白く輝いていた。
骨は真珠よりも輝き、姿は水晶のようであった。

 〔ヘット(筆者挿入)〕
4:8 だが、彼らの容姿はすすよりも黒くなり
街で彼らと気づく者もないほどになり
皮膚は骨に張り付き、枯れ木のようになった。

 〔テット(筆者挿入)〕
4:9 剣に貫かれて死んだ者は
飢えに貫かれた者より幸いだ。
刺し貫かれて血を流す方が
畑の実りを失うよりも幸いだ。

 〔ユッドorヨッド(筆者挿入)〕
4:10 憐れみ深い女の手が自分の子供を煮炊きした。
わたしの民の娘〔娘である私の民(2017)〕が打ち砕かれた日
それを自分の食糧としたのだ。

 〔ハフorカフ(筆者挿入)〕
4:11 主の憤りは極まり、主は燃える怒りを注がれた。
シオンに火は燃え上がり、都の礎までもなめ尽くした。

 〔ラメッド(筆者挿入)〕
4:12 わたしたちを苦しめる敵が
エルサレムの城門から入るなどと
地上の王〔近隣諸国の王たち(筆者挿入)〕の誰が
この世に住む誰が、信じえたであろう。

 11.12節について、新共同訳スタディ版の注は次のように述べています。
“B.C.8世紀に預言者ミカが初めてエルサレムの滅びを語った(ミカ3:12)。神はダビデ王家の存続をダビデに約束したので(2サムエル7:16)、ダビデの町であるエルサレムの滅びを告げること自体が冒瀆であった。エレミヤはミカと同じ預言を語ったために逮捕された(エレミヤ19:15-20:2)。地上のいかなる権力者であってもこの偉大な都エルサレムを攻め落とせるわけがないという考えがユダ王国で広くいきわたっていた。イザヤ37:33.34参照。”とあります。

 〔メム(筆者挿入)〕
4:13 これはエルサレムの預言者ら〔偽予言者たち(筆者挿入)〕の罪のゆえ
祭司らの悪のゆえだ。
エルサレムのただ中に正しい人々〔主に従う人々(筆者挿入)〕の血を注ぎ出したからだ。

 〔ヌン(筆者挿入)〕
4:14 彼らは血に汚れ、目は見えず、街をさまよう。
その衣に触れることはだれにも許されない。

 〔サメフ(筆者挿入)〕
4:15 「去れ、汚れた者よ」と人々は叫ぶ。
「去れ、去れ、何にも触れるな」と。
「こうしてさまよい歩け」と国々は言う。
「再びここに住むことはならない」と。

 〔フェーorぺー(筆者挿入)〕
4:16 主は御顔を背け再び目を留めてはくださらない。
祭司らは見捨てられ
長老らは顧みられない。

 〔アイン(筆者挿入)〕
4:17 今なお、わたしたちの目は
援軍〔エジプト(筆者挿入)〕を求めていたずらに疲れ
救ってはくれない他国をなお見張って待つ。

 〔ツァディー(筆者挿入)〕
4:18 町の広場を歩こうとしても
一歩一歩をうかがうものがある。
終りの時が近づき、わたしたちの日は満ちる。
まさに、終りの時が来たのだ。
〔リビングバイブルは次のように意訳しています。“一歩外に出れば、身の危険にさらされどおしです。私たちの最期は間近です。私たちの余命は、もう数えるほどしかありません。私たちは滅亡の宣告を受けています。”とあります。(筆者挿入)〕

 〔クフ(筆者挿入)〕
4:19 わたしたちに追い迫る者〔バビロンの兵士たち(筆者挿入)〕は、空を飛ぶ鷲よりも速く
山々にわたしたちを追い回し
荒れ野に待ち伏せる。
〔リビングバイブルは次のように意訳しています。“敵はわしより速く飛ぶので、たとい山へ逃げても、すぐ見つかります。たとい荒野に隠れても、先回りして待っています。”とあります。(筆者挿入)〕

 〔レーシュ(筆者挿入)〕
4:20 主の油注がれた者〔ゼデキヤ王(筆者挿入)〕、わたしたちの命の息吹
その人が彼らの罠に捕えられた。
異国民の中にあるときも、その人の陰で
生き抜こうと頼みにした、その人が。

 〔シンorスィン(筆者挿入)〕
4:21 娘エドムよ、喜び祝うがよい
ウツの地に住む女よ。
お前にもこの杯は廻って来るのだ。
そのときは、酔いしれて裸になるがよい。
〔リビングバイブルは次のように訳しています。“ウツの地に住むエドムの人たちよ。喜んでいるのですか。しかしあなたがたも今に、主の恐ろしい怒りを受けるようになります。”とあります。(筆者挿入)〕

 〔タヴ(筆者挿入)〕
4:22 おとめシオンよ、悪事の赦される時が来る。
再び捕囚となることはない。
娘エドムよ、罪の罰せられる時が来る。
お前の罪はことごとくあばかれる。
〔口語訳は次のように訳しています。“シオンの娘〔エルサレムの民(筆者挿入)〕よ、あなたの不義の罰は終った。主は重ねてあなたを捕え移されない。エドムの娘〔エドムの民(筆者挿入)〕よ、主はあなたの不義を罰し、あなたの罪をあらわされる。”とあります。(筆者挿入)〕

 エドムはユダの南東に位置する隣国であり、バビロニア軍がユダに侵攻したとき、エルサレム攻略に参加し、エルサレム陥落後もユダの敗北につけ込みユダ南部に侵入したのです。

 申命記28章の祝福と呪いの条項の中に、ヤハウェ(主)に従わず、ヤハウェ(主)の教えに背を向け続けているとどうなるのか、ということが記されています。その一部の中に次のように記されている箇所があります。
“45 これらすべてののろいが、あなたに臨み、あなたを追いかけ、あなたに追いつき、ついにあなたは根絶やしにされる。あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に聞き従わず、主が命じられた命令と掟を守らなかったからである。
46 これらのことは、あなたとあなたの子孫に対して、いつまでも、しるしとなり、また不思議となる。
47 あなたがすべてのものに豊かになる中で、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に喜んで心の底から仕えようとしないので、
48 あなたは飢え渇き、裸となり、あらゆるものに欠乏し、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに差し向ける敵に仕えることになる。主はあなたの首に鉄のくびきをはめ、ついにはあなたを根絶やしにされる。
49 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は遠く地の果てから一つの国を来させ、鷲が獲物に向かって舞い降りるように、あなたを襲わせる。その話すことばをあなたが聞いたこともない国である。
50 その国は横柄で、老人に敬意を払わず、幼い者をあわれまず、
51 あなたの家畜が産むものや大地の実りを食い尽くし、ついにあなたは根絶やしにされる。彼らは穀物も新しいぶどう酒も油も、群れの中の子牛も群れの中の子羊も、あなたには少しも残さず、ついにはあなたを滅ぼす。
52 その国は、あなたの国中のすべての町囲みの中にあなたを閉じ込め、ついには、あなたが頼みとする高く堅固な城壁は落とされる。彼らが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が与えられた国中のすべての町囲みの中にあなたを閉じ込めるとき、
53 あなたは包囲と、敵がもたらす窮乏のために、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が与えてくださった、あなたの胎の実である息子や娘の肉を食べるようになる。
54 あなたのうちの最も優しく、ことのほか上品な男でさえ、兄弟や愛する妻や、まだ残っている子どもたちに対してさえ物惜しみをし、
55 自分が食べている子どもの肉をだれにも分け与えようとはしない。あなたのすべての町囲みの中には、包囲と、敵がもたらす窮乏のために、何も残されていないからである。
56 あなたのうちの優しく上品な女で、あまりにも上品で優しいために、足の裏を地面に付けようともしない者でさえ、愛する夫や、息子や娘に物惜しみをし、
57 さらには、あらゆる欠乏のために、自分の脚の間から出た後産や自分が産んだ子さえ、ひそかに食べることまでする。あなたの町囲みの中が包囲と、敵がもたらす窮乏の中にあるからである。”(2017)とあります。

 一方、もしイスラエルの民がヤハウェ(主)のみを礼拝し、ヤハウェ(主)の御教えに従っていたとしたらどうなっていたのでしょう。
祝福されたのです。
申命記28章には次のように記されています。
“1 もし、あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。
2 あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。
3 あなたは町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。
4 あなたの胎の実も大地の実りも、家畜が産むもの、群れの中の子牛も群れの中の子羊も祝福される。
5 あなたのかごも、こね鉢も祝福される。
6 あなたは入るときにも祝福され、出て行くときにも祝福される。
7 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、あなたに向かい立つ敵どもをあなたの前で敗走させる。彼らは一つの道からあなたを攻めて来るが、あなたの前で七つの道に逃げ去る。
8 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざが祝福されるように命じられる。あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。
9 あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令を守り主の道を歩むなら、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたに誓われたとおり、あなたをご自分の聖なる民として立ててくださる。
10 地上のあらゆる民はあなたに主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕名がつけられているのを見て、あなたを恐れるであろう。
11 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに与えるとあなたの父祖たちに誓われたその地で、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたの胎の実、家畜が産むもの、大地の実りを豊かに恵んでくださる。
12 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はその恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それで、あなたは多くの国々に貸すが、借りることはない。
13 私が今日あなたに命じる、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令に聞き従い、守り行うなら、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたをかしらとし、尾とはされない。あなたはただ上になり、下になることはない。”(2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
祝福の基はあなたを愛し、あなたに信頼し、あなたに従うことであることを覚えます。
あなたを愛する愛を益々豊かにしてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年9月 8日 (水)

哀歌3:40-66 悔い改めと主への祈りの勧め

(本文は新共同訳です)
 40-42の各節の最初の単語の1文字目は、「ヌン」です。
3:40 わたしたち〔著者+民、or著者の民への呼びかけ(筆者挿入)〕は自らの道を探し求めて主に立ち帰ろう。
3:41 天にいます神に向かって両手を上げ〔祈りの姿勢(筆者挿入)〕心も挙げて言おう〔主への祈り(筆者挿入)〕。
3:42 わたしたちは、背き逆らいました。
あなたは、お赦しになりませんでした。

 ユダの民は、ヤハウェ(主)に背き、罪の中に生きていました。この箇所で、著者は、「自らの道を探し求めて主に立ち帰」り(40)、天にいます神に向かって祈ろう(41)と勧めています。そして、その祈りの初めは、罪の告白です(42a)。

 43-45の各節の最初の単語の1文字目は、「サメフ」です。
3:43 あなたは怒りに包まれて追い迫り
わたしたちを打ち殺して容赦なさらない。
3:44 あなたは雲の中に御自分をとざし
どんな祈りもさえぎられます。
3:45 わたしたちを塵、芥(あくた)のようにして
諸国の民の中にお見捨てになりました。

 44節には、“あなたは、・・どんな祈りもさえぎられます。”とあります。
エレミヤはヤハウェ(主)から、とりなしの祈りをしても聞かない、と言われたことがあります。
 エレミヤ7:16には、「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。わたしにとりなしをしてはならない。わたしはあなたの願いを聞かないからだ。」(2017)と記され、
 エレミヤ11:14には、「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいにあって、わたしを呼び求めても、わたしは聞かないからだ。」(2017)と記されています。

 ヤハウェ(主)は、祈りを聞かない場合の理由を、イザヤに語られました。
 イザヤ59:1.2には、
見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。”(2017)と記され、
 イザヤ1:15-17には、
あなたがたが手を伸べ広げて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを多くしても聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。洗え。身を清めよ。わたしの目の前から、あなたがたの悪い行いを取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、虐げる者を正し、みなしごを正しくさばき、やもめを弁護せよ。”(2017)と記されています。

 ヤコブ5:16の後半には、“正しい人の執り成しは、大いに力があり、効果があります。”(聖書協会共同訳)と記されていますが、とりなしてもらいたい人が行うべきこととして、罪の告白、があります(ヤコブ5:16)。

 46-48の各節の最初の単語の1文字目は、「ぺー(フェー)」です。
3:46 敵は皆、わたしたちに向かって大口を開く。
3:47 恐れとおののきが、騒乱と破壊が、襲いかかる。
3:48 わたしの民の娘は打ち砕かれ
わたしの目は滝のように涙を流す。

 49-51の各節の最初の単語の1文字目は、「アイン」です。
3:49 わたしの目は休むことなく涙を流し続ける。
3:50 主が天から見下ろし、目を留めてくださるときまで。
3:51 わたしの都の娘ら〔エルサレムの住民(筆者挿入)〕を見て
わたしの目は魂に痛みをもたらす。
〔51節を、2017は次のように訳しています。“私の目は、都のすべての娘たち〔エルサレムの住民(筆者挿入)〕を見て、この心を苦しめる。”(筆者挿入)〕

 52-54の各節の最初の単語の1文字目は、「ツァディー」です。
3:52 敵はゆえなくわたしを追う、鳥を追う狩人のように。
3:53 命を絶とうとわたしを穴〔水溜めの穴(筆者挿入)〕に落とし
その上に石を投げる。
3:54 水はわたしの頭を越え
もう最期だとわたしは思った。

 55-57の各節の最初の単語の1文字目は、「クフ」です。
3:55 深い穴の底から
主よ、わたしは御名を呼びます。
3:56 耳を閉ざさず、この声を聞き
わたしを助け、救い出してください。
3:57 呼び求めるわたしに近づき、恐れるなと言ってください。

 58-60の各節の最初の単語の1文字目は、「レーシュ」です。
3:58 主よ、生死にかかわるこの争いを
わたしに代わって争い、命を贖ってください。
3:59 主よ、わたしになされた不正を見
わたしの訴えを取り上げてください。
3:60 わたしに対する悪意を
謀(はかりごと)のすべてを見てください。

 61-63の各節の最初の単語の1文字目は、「シンorスィン」です。
3:61 主よ、わたしに向けられる嘲りと
謀のすべてを聞いてください。
3:62 敵対する者の唇、吐く言葉は絶え間なくわたしを責めます。
3:63 御覧ください、彼らは座るにも立つにも
わたしを嘲って歌いはやします。

 64-66の各節の最初の単語の1文字目は、「タヴ」です。
3:64 主よ、その仕業にしたがって彼らを罰してください。
3:65 彼らの上に呪いを注いで
彼らの心を頑にしてください。
3:66 主よ、あなたのいます天の下から彼らを追い
御怒りによって滅ぼし去ってください。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
引き続きあなたのみ怒りを受けた者の悲惨さを見させられています。
日本でも第二次大戦中や大戦後は悲惨でした。
あなたを知らない人々は、ヒューマニズムの観点から、色々なことを言いますが、この世界に対して、宇宙に対して、霊界に対して、主権をもっておられるのは、あなたであり、イエス様の御復活後は、イエス様にすべての権威を委ねておられます。
あなたのみ旨に叶った歩みをしない限り、この世の悲惨は終わらないことを覚えますが、この世があなたのみ旨に叶った歩みをすることができないことを覚えます。
1ヨハネ5:19に記されているように、この世の支配者が悪魔であるからです。
あなたは、定めの時まで、そのことを許されます。
イエス様が、悪魔を牢に入れ、イエス様が全世界を統治なさるまでは、この世が良くなることはないと預言されています。
早く、イエス様がこの世を統治してくださいますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年9月 7日 (火)

哀歌3:19-39 詩人(著者)の希望{ヤハウェ(主)は慈しみ深く、憐れみ深く、真実なお方である}

(本文は新共同訳です)
 19-21の各節の最初の単語の1文字目は、「ザイン」です。
3:19 苦汁と欠乏の中で貧しくさすらったときのことを
3:20 決して忘れず、覚えているからこそ
わたしの魂は沈み込んでいても
3:21 再び心を励まし、なお待ち望む。

 日本でも、「艱難汝を玉にす」と言われますね。
懲らしめや艱難の故に主から離れてしまうのではなく、再び心を励まし、なお主を待ち望むことが大切であると教えられます。

 22-24の各節の最初の単語の1文字目は、「ヘット」です。
3:22 主の慈しみは決して絶えない。
主の憐れみは決して尽きない。
3:23 それは朝ごとに新たになる。
「あなたの真実〔契約に対する神の誠実さ(注解付新改訳聖書の注)〕はそれほど深い。
3:24 主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い
わたしは主を待ち望む。

 22-24節を第三版は次のように訳しています。
“3:22 私たちが滅びうせなかったのは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。
3:23 それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。
3:24 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。”とあります。

 23節に、ヤハウェ(主)の真実は力強い、とあります。
主は真実なお方、変わらないお方です。祝福も呪いもレビ記26章、申命記28章に基づいていました。ヤハウェ(主)は、この契約を守っているのです。ですから、祝福を受ける生き方に戻れば祝福されるのです。
主は慈しみ深く、恵み深いお方です。
もし、主とイスラエルとが結んだ契約の通りに主が裁きを行ったとしたら、だれ一人律法を完全に守ることは出来なかったわけですから、全員滅びても良かったはずでした。しかし主は、裁くことについては、呪いと祝福の最も大切な核心部分を基にしたのです。律法の戒めのいくつかを守れなかったとしても、ヤハウェ(主)なる神様だけを自分の神としていた人は祝福を受けたのです。これは、新約時代も同じです。主イエス様を信じていれば、裁かれることなく、永遠のいのちが与えられたのです。厳密に言えば、神のみ旨に反することは、すべて的外れです。即ち罪です。神が人に定めた道から外れることは罪です。罪は的or道をはずすという単語から来ています。罪のヘブル語はいくつかありますが、その中に「ハーター」という語があります。これは、“もともとは「的(目標),または道をはずす」の意味で用いられた一般的な語である。それが聖であり,義である神との関係においては「罪」と訳され(創世記4:7,出エジプト10:17),神が人に定められた道を踏みはずすという意味を表す。”(聖書辞典)とあり、ギリシア語で書かれている新約聖書の場合の「罪」は、“〈ギ〉ハマルティアの動詞,ハマルタノーはもともと「的をはずす」,あるいは「迷う」「誤る」を意味する一般的な語であったが,70人訳において〈ヘ〉ハーターのギリシヤ語訳として用いられたことによって,専ら「罪を犯す」という聖書特有の意味を表す語となった。名詞の〈ギ〉ハマルティアも,70人訳においては通常〈ヘ〉ハッタースの訳語として〈ギ〉ハマルテーマと共に使われ,これらは新約においてもおもに複数形をとり,具体的な罪の行為や律法違反を意味する(マルコ1:5,ヨハネ8:24,使徒2:38,ヤコブ1:15,1ヨハネ1:9,3:4)。また,行為だけでなく人間の持っている神に敵対する性質をも意味して用いられている(ヨハネ8:34,9:41,15:22,ローマ3:20,1ヨハネ1:8)。”(聖書辞典)と記されています。
イエス様は、「内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(マルコ7:21-23・2017)と語られました。
これらの悪は、罪です。それにもかかわらず、イエス様が、十字架にかかられる前には、「罪とは、わたしを信じないことです。」(ヨハネ16:9・リビングバイブル)と語られたのです。それは、イエス様が十字架の上で人のすべての罪を身代わりに負って神の裁きを受けてくださったからです。イエス様を信じる人は、イエス様のなさってくださったことが自分のものとなるのです。しかし、イエス様と自分とは何の関係もないという人はイエス様の為してくださった行為はその人のものになりませんから、その人は、神であられる主キリスト・イエスを信じないこと、及び、淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさ、etc.の罪で裁かれるのです。
しかし、イエス様を信じないということをやめて、ひとたびイエス様を信じるなら、すなわちイエス様を心にお迎えするならば、その人は救われるのです。
まことの神は、憐れみと恵みに満ちた真実な神だからです。

 24節には、「ヤハウェこそ、私の受ける分です」とあります。
神様が信じる者に与えられるのです。
100%神であられ100%人となられたキリスト・イエス様を信じる人は、復活の主であられるキリスト様が心に住んでくださるのです。コロサイ1:27には、「あなたがたの中におられるキリスト」(新改訳)と記されています。そのありようもキリスト・イエス様を信じたがゆえに神によって新しく生まれさせて頂いた霊(ヨハネ3:3.6、1ペテロ1:3)とキリストの霊は一つとなるのです(1コリント6:17)。これは霊における結婚です。
イエス様を心に受け入れ、いつもイエス様と交わりを保ちながら歩むことはなんと幸いなことでしょうか。

 25-27の各節の最初の単語の1文字目は、「テット」です。
3:25 主に望みをおき尋ね求める魂に主は幸いをお与えになる。
3:26 主の救いを黙して〔信じて(筆者挿入)〕待てば、幸いを得る。
3:27 若いときに軛を負った人は〔苦難を味わった人は(筆者挿入)〕、幸いを得る。

 28-30の各節の最初の単語の1文字目は、「ユッド(ヨッド)」です。
3:28 軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。
3:29 塵に口をつけよ〔徹底的にへりくだること(筆者挿入)〕、望みが見いだせるかもしれない。
3:30 打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。

 31-33の各節の最初の単語の1文字目は、「ハフ(カフ)」です。
3:31 主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。
3:32 主の慈しみは深く
懲らしめても、また憐れんでくださる。
3:33 人の子らを苦しめ悩ますことがあっても
それが御心なのではない。

 34-36の各節の最初の単語の1文字目は、「ラメッド」です。
3:34 この地の捕われ人〔捕囚の民(筆者挿入)〕をだれかれなく
足の下に踏みにじったり〔過酷な扱いをしたり(筆者挿入)〕
3:35 いと高き神の御前をもはばからずに
他人の権利を奪ったり
3:36 申し立てを曲解して裁いたりすれば
主は決してそれを見過ごしにはされない。

 37-39の各節の最初の単語の1文字目は、「メム」です。
3:37 誰が「あれ」といってあらしめえようか。
主が命じられることではないか。
〔第三版は次のように訳しています。“主が命じたのでなければ、だれがこのようなことを語り、このようなことを起こしえようか。”とあります。(筆者挿入)〕
3:38 災いも、幸いも
いと高き神の命令によるものではないか。
3:39 生身の人間が、ひとりひとり
自分の過ちについてとやかく言うことはない。
〔リビングバイブルは次のように意訳しています。“どうしてただの人間にすぎない私たちは、自分の罪のために罰を受けたからといって、つぶやいたり、不平を言ったりするのでしょう。”とあります。

 ヘブル人への手紙12章には次のような文章があります。
“12:5 そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。
12:6 主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」
12:7 訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。
12:8 もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。
12:9 さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
12:10 肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。
12:11 すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。
12:12 ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。
12:13 また、あなたがたは自分の足のために、まっすぐな道を作りなさい。足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。”(2017)と記されています。

 霊の父は、私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練してくださるのです。この訓練を受けた人には安らかさがあります(ヘブル12:11)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたは、私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練してくださるお方ですから感謝します。
憐れみ深く、恵みに富み、真実そのものであられるあなたを賛美します。
御父と同じ御本質をお持ちの私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年9月 6日 (月)

哀歌3:1-18 苦しみの中にある詩人(著者)の嘆き

(本文は新共同訳)
第三の歌(アルファベットによる詩)
3:1 わたし〔エレミヤorユダの民の総称orエレミヤ以外の筆者(筆者挿入)〕は主の怒りの杖に打たれて苦しみを知った者。
3:2 闇の中に追い立てられ、光なく歩く。
〔2017は、“主は、私を連れ去り、光のない闇を歩ませ、”と訳しています(筆者挿入)〕
3:3 そのわたしを、御手がさまざまに責め続ける。
〔口語訳は、“まことにその手をしばしばかえて、ひねもすわたしを攻められた。”と訳しています。(筆者挿入)〕

 3章のアレフベート詩は、3節ずつ、アレフ、ベート、ギメル、・・・となっています。
1節の初めの単語は、「アニー」で、「わたし」です。「アニー」の1文字目は、「アレフ」です。
2節の初めの単語は、「エート」で、自分自身の意です。2017訳は「私を」と訳しています。「エート」の1文字目は、「アレフ」です。
3節の初めの単語は、「エーク」で、確かに、間違いなく、等の意です。口語訳は「まことに」と訳しています。「エーク」の1文字目は、「アレフ」です。

 1-3節より、エルサレム陥落後、国家が崩壊し、飢えにさいなまされ、希望はなく、ヤハウェ(主)とは断絶し、後悔の念に打ちひしがれている状態であることが分かります。すべてヤハウェ(主)に対する罪の刈り取りでした。

3:4 わたしの皮膚を打ち、肉を打ち、骨をことごとく砕く。
〔2017は、“主は、私の肉と皮をすり減らし、・・・”と訳し、
口語訳は、“彼はわが肉と皮を衰えさせ、”と訳しています。(筆者挿入)〕
3:5 陣を敷き、包囲してわたしを疲労と欠乏に陥れ
〔リビングバイブルは、“主は、私の前にとりでを築き、苦しみと悩みで私を取り囲みました。”と訳しています。(筆者挿入)〕
3:6 大昔の死者らと共にわたしを闇の奥に住まわせる。
〔2017は、“私を暗い所に住まわせられた。はるか昔に死んだ者のように。”と訳しています。(筆者挿入)〕

 4節の初めの単語は、「バーラー」で、失望させる、すり減らす、使い切る、摩滅させる、老朽化させる、衰えさせる、破壊する、・・等々の意があります。「バーラー」を2017は、「すり減らし」と訳し、口語訳は、「衰えさせ」と訳しています。「バーラー」の1文字目は、「ベート」です。

 5節の初めの単語は、「バーナー」で、建てる、造る、セットする、・・等の意があります。
「バーナー」をは、新共同訳では、「(陣を)敷き」、リビングバイブルでは、「(とりでを)築き」と訳しています。「バーナー」の1文字目は、「ベート」です。

 6節の初めの単語は、「べ マフシャーク」で、「ベ」は、接頭前置詞で、「・・(の中)で」の意で、2017は、「暗い所に」、新共同訳は、「闇の奥に」と訳しています。「ベ」は「ベート」です。
以下、7節以降も同じ要領で、アレフベート詩として続いていき、66節で終了します。

 4-6節も、1.2節と同じような状態を、言葉を変えて述べているのであろうと思います。
6節では、「はるか昔に死んだ者のように。私を暗い所に住まわせられた。」と述べて、心の状態を明らかにしています。
この時代、ヤハウェ(主)からの御告げがもうないのです。
 
 7-9の各節の最初の単語の1文字目は、「ギメル」です。
3:7 柵を巡らして逃げ道をふさぎ
重い鎖でわたしを縛りつける。
3:8 助けを求めて叫びをあげても
わたしの訴えはだれにも届かない。
3:9 切り石を積んで行く手をふさぎ
道を曲げてわたしを迷わす。

 7-9節をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“7 主が私を閉じ込めったので、どんなにもがいても逃げられません。主は私を重い鎖でつなぎました。
8 私がどんなに声を張り上げても、主は祈りを聞こうとしません。
9 私は、高い崖の周囲にそそり立つ所に閉じ込められ、どんなに急いでも、道を先へ進めません。”とあります。

 10-12の各節の最初の単語の1文字目は、「ダレット」です。
3:10 熊のようにわたしを待ち伏せ
獅子のようにひそみ
3:11 逃げ惑うわたしを引き裂いて捨てる。
3:12 弓に矢をつがえて引き絞り
わたしにねらいを定める。

 10-12節をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“10 主は熊やライオンのように、私に襲いかかろうと待ち伏せています。
11 主は私をやぶに引きずり込み、前足でずたずたに引き裂いて、置き去りにしました。
12 主は弓を引き絞り、私にねらいをつけました。”とあります。

 13-15の各節の最初の単語の1文字目は、「ヘー」です。
3:13 箙〔えびら{矢を入れておく用具}(筆者挿入)〕の矢を次々と放ち、わたしの腎臓を射抜く。
3:14 民は皆、わたしを嘲笑い(あざわらい)
絶え間なく嘲りの歌を浴びせる。
3:15 わたしを苦悩に飽かせ、苦汁を飲ませられる。

 13-15節をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“13 その矢は、私の心臓〔日本人的には「私の心に」(筆者挿入)〕に突き刺さりました。
14 同胞はわたしを笑いものにし、一日中、下品な歌であざけります。
15 主は私に悲しみの杯を飲ませたので、口の中が苦くなりました。”とあります。

 16-18の各節の最初の単語の1文字目は、「ヴァヴ」です。
3:16 砂利をかませてわたしの歯を砕き
塵の中にわたしを打ち倒す。
3:17 わたしの魂は平和を失い、幸福を忘れた。
3:18 わたしは言う
「わたしの生きる力は絶えた
ただ主を待ち望もう」と。
〔18節を2017は、“私は言った。「私の誉れと、主から受けた望みは消え失せた」と。”訳しています。口語訳も同じような意で訳しています。(筆者挿入)〕

 16-18節をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“16 小石を食べさせられ、歯が折れました。主は、私が灰とちりの中を転げ回るようにしました。
17 主よ、平和も繁栄も、ずっと前に姿を消しました。あなたが取り去ったからです。私は、楽しみとはどんなことか、すっかり忘れ、
18 夢も希望もなくなりました。もう気力さえ残っていません。主が私を置き去りにしたからです。”とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私たちキリスト者は、如何なる時にもあなたから与えられている希望を思い、あなたを賛美することができます恵みを感謝します。
それというのもイエス様が贖いを成し遂げてくださったからに他なりません。
わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられた私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
“・・あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。”(1コリント1:30・第三版)

2021年9月 5日 (日)

哀歌2章 聖都エルサレムに対する神の怒りについての祈りの歌(第2の歌)

(本文は新共同訳です)
第二の歌(アルファベットによる詩)
2:1 なにゆえ、主は憤り
おとめシオン〔「おとめシオン」はエルサレムを指すと思います。「シオンの娘」(第三版、口語訳)は、シオンの民の意でしょう。(筆者挿入)〕を卑しめられるのか。
イスラエルの輝きを天から地になげうち
主の足台と呼ばれたところを怒りの日に、見放された。

 ここでの「主の足台」は、契約の箱or神殿orエルサレムのことであろうと思います。
それ以外にも、「地」も「主の足台」と言われています。
 “地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。”(マタイ5:35・2017)
 “レバノンの栄光は、もみの木、すずかけ、檜も、ともに、あなたのもとに来て、わたしの聖所を輝かせる。わたしは、自分の足台を栄光あるものとする。”(イザヤ60:13・2017)
 “さあ主の住まいに行き、主の足台のもとにひれ伏そう。”(詩篇132:7・2017)
 “ダビデ王は立ち上がって、こう言った。「私の兄弟たち、私の民よ。私の言うことを聞きなさい。私は主の契約の箱のため、私たちの神の足台のために安息の家を建てる志を持ち、建築の用意をしてきた。

2:2 ヤコブの人里をすべて〔ヤコブのすべての住まいを(2017)〕、主は容赦せず圧倒し
憤って、おとめユダの砦〔「おとめユダの砦」は、ユダの砦の意でしょう。「ユダの娘の要塞or砦」(第三版、口語訳)は、ユダの民の砦の意でしょう。(筆者挿入)〕をことごとく破壊し
この国を治める者、君侯らを地に打ち倒して辱められた。

 「人里」(新共同訳)、「住まい」(2017)と訳された語の原語は、「ナーアー」で、住まい、牧草地等の意があります。

2:3 イスラエルの角〔「角」は力の象徴で、ここではイスラエルの軍隊(筆者挿入)〕をことごとく激しい怒りをもって折り砕き
敵の前から右の御手をひるがえされた。
御怒り〔神の怒り(筆者挿入)〕はヤコブ〔イスラエル12部族(筆者挿入)〕に対して烈火となり
炎となって焼き尽くした。

 北イスラエルはB.C.722or721年に滅ぼされ、南イスラエル(ユダ王国)はB.C.586年に滅ぼされました。それは偶像礼拝と主のみ教えに従わなかったことに対する神の怒りの故でした。

2:4 〔ヤハウェは、(筆者挿入)〕敵となって弓を引き絞り、右の御手を構え
瞳のように愛しておられたもの〔ユダの民(筆者挿入)〕を
苦しめる者となって皆殺しにし
おとめシオンの天幕に火のような怒りを注がれた。

2:5 主はまことに敵となられた。
イスラエルを圧倒し
その城郭をすべて圧倒し、砦をすべて滅ぼし
おとめユダの呻きと嘆きをいよいよ深くされた。

2:6 シオンの祭りを滅ぼし
仮庵をも、園をも荒廃させられた。
安息日をも、祭りをもシオンに忘れさせ
王をも、祭司をも激しい怒りをもって退けられた。

2:7 主は御自分の祭壇をすら見捨て
御自分の聖所をすら見捨て
城郭をも城壁をも、敵の手に渡された。
敵は主の家〔神殿(筆者挿入)〕で喚声をあげる〔主を賛美する場所で敵は勝利の歓声をあげた(筆者挿入)〕
あたかも祭りの日のように。

2:8 主はおとめシオンの城壁を滅ぼそうと定め
打ち倒すべき所を測り縄ではかり〔ヤハウェは城壁を壊す広さ長さまで決められている(筆者挿入)〕
御手をひるがえされない。
城壁も砦も共に嘆き、共に喪に服す。

2:9 城門はことごとく地に倒れ、かんぬきは砕けた。
王と君侯は異国の民の中にあり〔ゼデキヤ王や指導者たちはB.C.586年にバビロンに連行された(筆者挿入)〕律法を教える者は失われ〔祭司のかしらや次席祭司も連行されました{エレミヤ52:24.25}(筆者挿入)〕
預言者は主からの幻による託宣を
もはや見いだすことができない〔エレミヤにもヤハウェからの御告げがなかったということでしょう(筆者挿入)〕。

 ヤハウェからの御告げがいつまでもあるわけではありませんでした。
日本人である私たちは、聖書を求めれば手にすることの出来る幸いの中におかれています。 
とは言え、聖霊様が教えてくださらないと聖書を正しく読むことができません。

2:10 おとめシオンの長老は皆、地に座して黙し
頭に灰をかぶり、粗布を身にまとう〔悲しみの表現(筆者挿入)〕。
エルサレムのおとめら〔エルサレムの住民(筆者挿入)〕は、頭を地につけている。

2:11 わたしの目は涙にかすみ、胸は裂ける。
わたしの民の娘〔エルサレムの住民(筆者挿入)〕が打ち砕かれたので
わたしのはらわたは溶けて地に流れる〔悲しみの誇張表現(筆者挿入)〕。
〔極度の食糧難と母乳が出ないことにより(筆者挿入)〕幼子も乳飲み子も町の広場で衰えてゆく。

2:12 幼子は母に言う
パンはどこ、ぶどう酒はどこ、と。
都の広場で傷つき、衰えて
母のふところに抱かれ、息絶えてゆく。

 飢え死にしていく幼子たちの悲惨さ。
エレミヤを通してヤハウェ(主)が語られたように、ヤハウェからの御告げがあった時に、バビロンにへりくだっていれば、属国にされることはあったでしょうが、このような目にあうことはありませんでした。このような目にあっているのは、ヤハウェ(主)の御言葉に従わなかったゆえです。
今の時代も基本は同じです。
ヨハネ3章には、
“35 父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。36 御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。”(2017)と記されています。

2:13 おとめエルサレムよ〔「おとめエルサレム」は、エルサレムを一人の女性に譬えています。「エルサレムの娘」(第三版、口語訳、岩波訳)と訳すと、エルサレムの住民ということになると思います。(筆者挿入)〕
あなたを何にたとえ、何の証しとしよう。
おとめシオンよ〔「おとめシオン」も「おとめエルサレム」の箇所と同じ解釈です。(筆者挿入)〕
あなたを何になぞらえて慰めよう。
海のように深い痛手を負ったあなたを誰が癒せよう。

 新共同訳スタディ版の注は、“女性になぞらえた都エルサレムの痛みはあまりにもひどく、だれも慰め癒すことはできない。”と解釈しています。

2:14 預言者はあなたに託宣を与えたが
むなしい、偽りの言葉ばかりであった。
あなたを立ち直らせるには一度、罪をあばくべきなのに
むなしく、迷わすことを
あなたに向かって告げるばかりであった。

 エレミヤ書やエゼキエル書を読むと、この時代には偽予言者が多くいたのです。偽予言者も、「主のことば」と言って語るのです。その上、偽予言者も、自分は主から言葉をもらった、と思っているのです。偽予言者が言葉をもらったとしたら、サタンからか、自分の妄想からか、自分の夢などからであったことでしょう。
本当に主から預言者として立てられた人は良いのですが、自分は、預言者です、ということは怖いことです。
 申命記18章には、ヤハウェ(主)の言葉として、次のように記されています。
“18 わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなた〔モーセ(筆者挿入)〕のような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる。
19 わたしの名によって彼が告げる、わたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしはその人に責任を問う。
20 ただし、預言者であっても、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする者がいるなら、その預言者は死ななければならない。」
21 あなたが心の中で、「私たちは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が語られたのではないことばを、どのようにして知ることができるだろうか」と言うような場合、
22 預言者が主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼におびえることはない。”(2017)とあります。

 エレミヤの時代にも、エレミヤの言葉を聞いた者たちと、偽予言者の言葉を聞いた者たちがいたのです。
エレミヤの言葉を信じなかった人には、申命記18:19の御言葉が適用されました。
偽予言者には、申命記18:20の御言葉が適用されました(エレミヤ28章参照)。

2:15 道行く人はだれもかれも手をたたいてあなたを嘲る。
おとめエルサレム〔エルサレムのこと(筆者挿入)〕よ、あなたに向かって
口笛を吹き、頭を振ってはやしたてる
「麗しさの極み、全地の喜びとたたえられた都がこれか」と。

 詩篇48篇には、
“1 主は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。主の聖なる山、私たちの神の都で。2 高嶺の麗しさは全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都。”(2017)と謳われています。

2:16 敵は皆、あなた〔エルサレム(筆者挿入)〕に向かって大口を開け
歯をむき、口笛を吹き、そして言う
「滅ぼし尽くしたぞ。
ああ、これこそ待ちに待った日だ。たしかに見届けた」と。

2:17 主は計画したことを実現し
約束したことを果たされる方。
昔、命じておかれたところのゆえに
あなた〔エルサレム(筆者挿入)〕を破壊し、容赦されなかった。
敵はそのあなたを見て喜び
あなたを苦しめる者らは角を上げる〔勝利を誇る(筆者挿入)〕。

2:18 おとめシオンの城壁よ
主に向かって心から叫べ。
昼も夜も、川のように涙を流せ。
休むことなくその瞳から涙を流せ。

 18節を2017は次のように訳しています。
彼らは主〔アドナイ(筆者挿入)〕に向かって
心の底から叫んだ。
娘シオンの城壁よ、
昼も夜も、川のように涙を流せ。
自分に休みを与えるな。
あなたの瞳を休ませてはならない。”と。

 リビングバイブルは次のように意訳しています。
その時、人々は主の前で泣きました。
エルサレムの城壁よ、昼も夜も、
存分に泣きなさい。

涙が川となって落ちるまでに。”と。

2:19 立て、宵の初めに。夜を徹して嘆きの声をあげるために。
主の御前に出て水のようにあなたの心を注ぎ出せ。
両手を上げて命乞いをせよ
あなたの幼子らのために。
彼らはどの街角でも飢えに衰えてゆく。

2:20 主よ、目を留めてよく見てください。
これほど懲らしめられた者がありましょうか。
女がその胎の実を、育てた子を食い物にしているのです。
祭司や預言者が主の聖所で殺されているのです。

 2017は次のように訳しています。
主よ、よくご覧ください。
だれにこのような仕打ちをなさったのかを。
女たちが、自分の胎の実を、
養い育てた幼子を食べてよいでしょうか。
祭司や預言者が、
主の聖所で虐殺されてよいでしょうか。

 飢饉がひどくて、母親が乳児や幼児を食べているというのです。

2:21 街では老人も子供も地に倒れ伏し
おとめも若者も剣にかかって死にました。
あなたは、ついに怒り
殺し、屠って容赦されませんでした。

 人が死んでも葬られずに放置しておかれている状態になっています。
死体にはウジがわいていることでしょう。

 余談になりますが、間もなく訪れるであろうと思われる携挙後の世界でも同じようなことが起こるでしょう。
黙示録6章には、
“7 子羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が「来なさい」と言うのを聞いた。8 私は見た。すると見よ、青ざめた馬がいた。これに乗っている者の名は「死」で、よみがそれに従っていた。彼らに、地上の四分の一を支配して、剣と飢饉と死病と地の獣によって殺す権威が与えられた。”(2017)と預言されていますから。

2:22 祭りの日のように声をあげて脅かす者らを呼び
わたし〔擬人化されたエルサレム(筆者挿入)〕を包囲させられました。
主が怒りを発したこの日に
逃げのびた者も生き残った者もなく
わたし〔エルサレム(筆者挿入)〕が養い育てた子ら〔エルサレムの住民(筆者挿入)〕は
ことごとく敵に滅ぼされてしまいました。

 2017は次のように訳しています。
あなた〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、例祭の日のように、
私〔エルサレム(筆者挿入)〕の恐怖〔敵のこと(筆者挿入)〕を、四方から呼び集めました。
そのため主の御怒りの日には、
生き残る者も逃れる者もいませんでした。
私が養い育てた者たちを、
私の敵は滅ぼし尽くしました。”と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
主に従わなかった者たちの悲惨さを見させて頂きました。
一方、主に従う者たちに対して、イエス様は、「正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。」と教えてくださっておられます。
常に、主に信頼して歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・
(マタイ13:36-43)
“36 それから、イエスは群衆を解散させて家に入られた。すると弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
37 イエスは答えられた。「良い種を蒔く人は人の子です。
38 畑は世界で、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らです。
39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫は世の終わり、刈る者は御使いたちです。
40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそのようになります。
41 人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、42 火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。43 そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。”(2017)

2021年9月 4日 (土)

哀歌1:12-22 エルサレムの荒廃の現状について嘆く歌2

(本文は新共同訳です)
1:12 〔ラメッド(筆者挿入)〕
道行く人よ、心して目を留めよ、よく見よ。
これほどの痛みがあったろうか。
わたし〔(筆者挿入)〕を責めるこの痛み
主がついに怒ってわたし〔エルサレム(筆者挿入)〕を懲らす
この痛みほどの。

 12節を2017は、
あなたがたには関係がないのか。
道行くすべての人よ、よく見よ。
このような苦痛がほかにあるか。
私が被り、
主の燃える怒りの日に
主が私を悩ませたような苦痛が。”と訳しています。

 ヘブライ語聖書の最初の単語は、「ロー」で、not の意です。「ロー」の1文字目は、「ラメッド」です。
2017は、1行目を、「あなたがたには関係がないのか。」と訳していますが、この文の「ない」が「ロー」です。

1:13 〔メム(筆者挿入)〕
主は高い天〔高い所(第三版)〕から火を送り〔滅亡はヤハウェ(主)からのものであるということ(筆者挿入)〕
わたし〔エルサレム(筆者挿入)〕の骨に火を下し
足もとに網を投げてわたしを引き倒し
荒廃にまかせ、ひねもす病み衰えさせる。

 ヘブライ語聖書の最初の単語は、「ミ マーローム」で、「ミ」は接頭前置詞で、「~から」の意です。「ミ」という語が「メム」です。「マーローム」は、高い所、高さ、等の意です。

1:14 〔ヌン(筆者挿入)〕
背いたわたし〔エルサレム(筆者挿入)〕の罪は御手に束ねられ
軛とされ、わたしを圧する。
主の軛を首に負わされ
力尽きてわたしは倒れ
刃向かうこともできない敵の手に引き渡されてしまった。

 ヘブライ語聖書の最初の単語は、「ニ サーカード」で、「サーカード」は束ねる、留める、結びつける、等の意で、冒頭の「ニ」はそれの受動態です。ゆえに、「束ねられ」と訳されています。1文字目の「ニ」が「ヌン」です。

 “バビロニア軍はB.C.587年にユダに侵攻し、エルサレム周辺の都市を落とし、エルサレムを1年半にわたって兵糧攻めにした。ついにB.C.586年エルサレムの城壁は破られ、神殿の財宝は略奪された(2列王記25:9-17、エレミヤ52:17-23)。時の王ゼデキヤは息子たちを目の前で殺され、自分自身も両目をつぶされた(2列王記25:6.7)。”と新共同訳スタディ版の注は述べています。

1:15 〔サメフ(筆者挿入)〕
わたし〔エルサレム(筆者挿入)〕のもとにいる力ある者を主はすべて退けられた。
わたしに対して時を定め
若者らを砕かれた。
主は、酒ぶねを踏むかのように
娘ユダのおとめら〔ユダの娘なるおとめ(口語訳)〕を踏みにじられた。

 ヘブライ語聖書の最初の単語は、「サーラ―」で、つるす、重さをはかる、軽蔑する、踏みつぶす、踏みにじる、等の意があります。新共同訳の「退けられた」の箇所に該当します。「サーラー」の1文字目は、サメフです。

 「ユダの娘」という表現は、ユダの民のことです。

1:16 〔アイン(筆者挿入)〕
それゆえわたし〔エルサレム(筆者挿入)〕は泣く。
わたしの目よ、わたしの目よ
涙を流すがよい。
慰め励ましてくれる者は、遠く去った。
敵は勢いを増し
わたしの子らは荒廃に落ちてゆく。

 ヘブライ語聖書の最初の単語は、「アル」で、~の上に、~に反対して、~のために、~のせいで、の意があります。
この文章では、アル エレー ・・とあり、「エレー」はこれら、それらの意ですから、16節の1行目は、「それゆえ」と訳されています。
「アル」の1文字目は、アインです。

1:17 〔フェーorペー(筆者挿入)〕
シオンは手を差し出す〔助けを求める(注解付新改訳聖書の注)〕が、慰める者はない。
主は敵に命じてヤコブ〔イスラエル(筆者挿入)〕を包囲させられた。
エルサレムは敵の中で、笑いものになっている。

 ヘブライ語聖書の最初の単語は、「パーラス」で、壊す、破る、追い散らす、(前に、外に)伸ばす、開く、広げる、等の意があります。
「パーラス」の次の次の語は、「ヤード」で、手、なので、本文は、「手を差し出す」と訳しています。
「パーラス」の1文字目は、「ペー」です。

1:18 〔ツァディ(筆者挿入)〕
主は正しい。わたし〔エルサレム(筆者挿入)〕が主の口に背いたのだ。
聞け、諸国の民よ
見よ、わたしの痛みを。
わたしのおとめらも若者らも捕えられ、引かれて行った〔バビロン捕囚のこと(筆者挿入)〕。

 ヘブライ語聖書の最初の単語は、「ツァディーク」で、正しい、公正な、の意です。「ツァディーク」の1文字目は、「ツァディ」です。

1:19 〔クフ(筆者挿入)〕
わたしは愛した人々〔ユダと同盟を結んでいた国々(注解付新改訳聖書の注)〕に呼びかけたが
皆、わたしを裏切った。
わたし〔エルサレム(筆者挿入)〕の祭司ら長老らは、都で息絶える
命をつなごうと、食べ物を乞いながら。

 ヘブライ語聖書の最初の単語は、「カーラー」で、呼ぶ、呼びかける、叫ぶ、等の意があります。「カーラー」の1文字目は、「クフ」です。

1:20 〔レーシュ(筆者挿入)〕
御覧ください、主よ、この苦しみを。
胸は裂けんばかり、心は乱れています。
わたしは背きに背いたのです。
外では剣が子らを奪い
内には死が待っています。

 ヘブライ語聖書の最初の単語は、「ラーアー」で、見る、という意です。この文の初めの2単語は、ラーアー ヤハウェとなっていますから、「見て、ヤハウェ」ということなので、「御覧ください、主よ、」と訳されています。「ラーアー」の1文字目は、レーシュです。

 “わたしは背きに背いたのです。”と罪を告白しています。ヤハウェ(主)に対する背きが罪です。
痛い目にあわされて、罪を告白していますが、ヤハウェ(主)は、痛い目に会う前に、預言者を遣わして悔い改めを迫っておられたのです。
新約の私たちの時代には、預言者が遣わされなくても、私たちには聖書が与えられています。
2テモテ3:16には、“聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。”(聖書協会共同訳)と記されています。
ヘブライ(ヘブル)人への手紙1:1.2には、“神は、かつて預言者たちを通して、折に触れ〔直訳は「多くの部分で」(訳者挿入)〕、さまざまなしかたで先祖たちに語られたが、この終わりの時には、御子を通して私たちに語られました。”(聖書協会共同訳)と記されています。

1:21 〔シンorスィン(筆者挿入)〕
聞いてください、わたしの呻きを。
慰めてくれる者はありません。
敵は皆、わたしの受けた災いを耳にして
あなたの仕打ちを喜んでいます。
彼らにも定めの日〔預言者を通してヤハウェ(主)が語った諸国民への裁きの日のこと。エレミヤ25章参照(筆者挿入)〕を来らせ
わたしのような目に遭わせてください。

 ヘブライ語聖書の最初の単語は、「シャーマー」で聞く、の意です。ヤハウェに対しての語りかけですから、「聞いてください」と訳されています。「シャーマー」の1文字目は、スィンです。

1:22 〔タヴ(筆者挿入)〕
敵の悪事が御前に届きますように。
あなたの懲らしめを受けますように。
あなたに背いたわたしが
こんなにも懲らしめられたように。
わたしはこうして呻き続け、心は病に侵されています。

 ヘブライ語聖書の最初の単語は、「ティ ボー」で、「ボー」には、行く、来る、・・、等の意があります。ここでは「届く」と訳されています。「ティ」は未来形or未完了形にするときにつけます。ここでは「届きますように」と訳されています。「ティ」は、タヴです。
以上のように、哀歌1章はアレフベート詩(アルファベット詩)となっています。2ー4章も同じように作られています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたは、私たちを愛し、私たちに聖書を与えてくださいました。
ありがとうございます。
あなたの仰せに従って歩み続ける者として整え、あなたに喜ばれる歩みをし続けて行くことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年9月 3日 (金)

哀歌1:1-11 エルサレムの荒廃の現状について嘆く歌1

(本文は新共同訳)
第一の歌(アルファベットによる詩)
 ヘブライ語のアルフベート(アルファベット)は、アレフ、ベート(ヴェート)、ギメル、ダレット、ヘー、ヴァヴ、ザイン、ヘット、テット、ユッド、ハフ(カフ)、ラメッド、メム、ヌン、サメフ、アイン、フェー(ペー)、ツァディ、クフ、レーシュ、シン(スィン)、タヴの22文字です。

1:1 〔アレフ(筆者挿入)〕
なにゆえ、独りで座っているのか
 人に溢れていたこの都〔エルサレム(筆者挿入)〕が。
やもめとなってしまったのか
 多くの民の女王〔エルサレムを人に譬えている(筆者挿入)〕をであったこの都が。
奴隷となってしまったのか
 国々の姫君であったこの都が。

 最初の単語は、「エーク」で何ゆえ、の意、エークの1文字目は、アレフです。
一節の「この都」について、新共同訳スタディ版の注は、
“〔この都とは(筆者挿入)〕エルサレムのこと。ダビデがB.C.1000年ころ王国の首都とした。その後ソロモンが都を拡張し、宮殿と神殿を建設した。王国が分裂し、諸外国によって支配を受けた後も、エルサレムは聖なる都と信じられてきた。第一の歌ではエルサレムは一人の女性にたとえて描かれている。繁栄のときには「国々の姫君」と呼ばれたが、今や嘆き悲しむばかりのやもめとなってしまった。”と述べています。

1:2 〔ベートorヴェート(筆者挿入)〕
夜もすがら泣き、頬に涙が流れる。
彼女を愛した人のだれも、今は慰めを与えない。
友は皆、彼女を欺き、ことごとく敵となった。

 ヘブライ語聖書の最初の単語は、「バーカー」で、涙を流す、涙を流して嘆く、の意、バーカーの1文字目は、ベートです。
 1:1の「奴隷」~1:2の「ことごとく敵となった」について、新共同訳スタディ版の注は、
“B.C.586年、新バビロニア帝国の攻撃を受け、エルサレムの指導者階級は約800km離れたバビロンに連行されていった。ユダに残された人々はその後も神に頼ろうとはせず、エジプトに頼ってバビロニアに反逆したが、愛人や友と表現されているかつての同盟国はことごとく敵となった。”と述べています。
 “約800km離れたバビロンに連行されていった”とありますが、東海道山陽新幹線で、東京駅から東広島駅までが791.9km、広島駅までが821.2kmとのことです。

1:3 〔ギメル(筆者挿入)〕
貧苦と重い苦役の末にユダは捕囚となって行き
異国の民の中に座り、憩いは得られず
苦難のはざまに追い詰められてしまった。

 ヘブライ語聖書の最初の単語は、「ガーラ―」で、裸にする、滅ぼし尽くす、国外追放、捕囚等の意があります。「ガーラ―」の1文字目は、ギメルです。
 3節について、新共同訳スタディ版の注は、
“〔貧苦と重い苦役とは、(筆者挿入)〕バビロニア軍によるエルサレムの略奪と破壊を指す。バビロニア軍はB.C.587年ユダに侵攻し、エルサレムを1年半にわたって兵糧攻めにした。ついにB.C.586年エルサレムの城壁が破られ、神殿の財宝は略奪され、多くの人がバビロンに連れ去られた。占領下にエジプトなど国外に逃亡した人もいた。”と述べています。

1:4 〔ダレット(筆者挿入)〕
シオンに上る道は嘆く
祭りに集う人がもはやいないのを。
シオンの城門はすべて荒廃し、祭司らは呻く。
シオンの苦しみを、おとめら〔民たち(筆者挿入)〕は悲しむ。

 ヘブライ語聖書の最初の単語は、「デレク」で、道、の意です。「デレク」の1文字目は、ダレットです。
 新共同訳スタディ版の注は、
“〔シオンとは(筆者挿入)〕エルサレム神殿があった丘の名。エルサレム全体を指して使われることが多い。主要な祭を祝うため巡礼の旅をしてエルサレムに上った。”と記しています。

1:5 〔ヘー(筆者挿入)〕
シオンの背きは甚だしかった。
主は懲らしめようと、敵がはびこることを許し
苦しめる者らを頭とされた。
彼女〔エルサレム(筆者挿入)〕の子らはとりことなり
苦しめる者らの前を、引かれて行った。

 ヘブライ語聖書の最初の単語は、「ハーヤー」で、存在する、~である、~となる、の意です。「ハーヤー」の1文字目は、へーです。
 ヤハウェ(主)に対する背きが、ヤハウェ(主)に懲らしめられた原因です。厳しい懲らしめでした。

1:6 〔ヴァヴ(筆者挿入)〕
栄光はことごとくおとめシオン〔シオンの娘{第三版、口語訳}=シオンの民(筆者挿入)〕を去り
その君侯らは野の鹿となった。
青草〔野の鹿の食物は草や葉や木の実(筆者挿入)〕を求めたが得られず
疲れ果ててなお、追い立てられてゆく〔捕囚民として心身共に疲れ果て、なお追い立てられて歩いていく。エルサレムからバビロン迄約800km(筆者挿入)〕。
 6節を岩波訳は次のように訳しています。
“シオンの娘〔エルサレムの民(筆者挿入)〕から、栄華はことごとく去って行き、彼女〔エルサレム(筆者挿入)〕の高官たちは、草地を見つけられない鹿のようになった。そして、追う者〔バビロン軍の兵士(筆者挿入)〕の前を、力なく歩いて行った。”とあります。

 ヘブライ語聖書の最初の単語は、「ヴェ・ヤーツァー」で、「ヴェ」は、ここでは、そして、の意です。
ヤハウェ(主)への背信の罪の罰の厳しさをひしひしと感じます。
ヤハウェ(主)を自分の神としていたら、ヤハウェ(主)は祝福してくださったのです。
この構図を見るとき、イエス様が、「罪とは、わたしを信じないことです。」(ヨハネ16:9・リビングバイブル)と語られたことがよく分かります。

1:7 〔ザイン(筆者挿入)〕
エルサレムは心に留める
貧しく放浪の旅に出た日を
いにしえから彼女〔エルサレム(筆者挿入)〕のものであった宝物のすべてを。
苦しめる者らの手に落ちた彼女〔エルサレム(筆者挿入)〕の民を助ける者はない。
絶えゆくさまを見て、彼らは笑っている。

 「放浪の旅・・・助ける者はない」という箇所について、新共同訳スタディ版の注は次のように述べています。
“第一次捕囚(B.C.597年)から第二次捕囚(B.C.586年)までの騒然とした10年間に多くの人がエドム、モアブ、アンモンなどの隣国に避難した。エジプトには特に多くの人々が移り住んだと言われる。エドムとモアブはユダを助けるどころか攻撃に加担した。”とあります。

 ヘブライ語聖書の最初の単語は、「ザーカル」で、記憶にとどめる、思い出す、印をつける、・・等の意があります。「ザーカル」の1文字目は、ザインです。

 7節を口語訳は次のように訳しています。
エルサレムはその悩みと苦しみの日〔バビロン捕囚の時(筆者挿入)〕に、昔から持っていたもろもろの宝〔ヤハウェから与えられた霊的物質的祝福(筆者挿入)〕を思い出す。その民があだの手に陥り、だれもこれを助ける者のない時、あだはこれを見て、その滅びをあざ笑った。”とあります。

1:8 〔ヘット(筆者挿入)〕
エルサレムは罪に罪を重ね笑いものになった〔そのため、汚らわしいものとなった(2017)〕
恥があばかれたので重んじてくれた者〔ユダと同盟を結んだ近隣諸国(注解付新改訳聖書の注)〕にも軽んじられる。
彼女は呻きつつ身を引く。

 ヘブライ語聖書の最初の単語は、「ヘットorハーター」で、罪、誤り、過失、等の意があります。「ヘットorハーター」の1文字目は、ヘットです。

 新共同訳スタディ版の注は、「罪に罪を重ね」について、
“エルサレムの破壊は偶然ではなく、人々の罪に対する神の罰であった。偽りの神々を信頼するという最大の罪を犯した。”と述べています。

1:9 〔テット(筆者挿入)〕
衣の裾には汚れが付いている。
彼女は行く末を心に留めなかったのだ。
落ちぶれたさまは驚くばかり。慰める者はない。
「御覧ください、主よ
わたしの惨めさを、敵の驕りを。」

 ヘブライ語聖書の最初の単語は、「ツマー」で、汚れ、不純、等の意で、「ツマー」の1文字目は、テットです。
9節について、新共同訳スタディ版の注は、
“祭儀的に「汚れ」が付いているということは、神への奉仕にふさわしい状態ではないことであり、その汚れに応じた清めが必要とされた。女性に譬えられているエルサレムに祭司のイメージも重ねられている。”と述べています。

 汚れた状態で歩むということは悲惨なことです。
“落ちぶれたさまは驚くばかり。慰める者はない。「御覧ください、主よ、わたしの惨めさを、敵の驕りを〔敵が勝ち誇っています(2017)〕。」”と記されている状態になります。
キリスト者の場合には、「敵」のところにサタンと入れることが出来ます。

 キリスト者が穢れた場合には、キリストの尊い御血があります。
1ヨハネ1:7には、「・・・御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」(2017)と記されています。

1:10 〔ユッドorヨッド(筆者挿入)〕
宝物〔ここの「宝物」は神殿の器具類(筆者挿入)〕のすべてに敵は手を伸ばした。
彼女〔エルサレム(筆者挿入)〕は見た、異国の民が聖所を侵すのを。
聖なる集会に連なることを主に禁じられた者らが。

 ヘブライ語聖書の最初の単語は、「ヤード」で、その意は、手、です。「ヤード」の1文字目は、ユッドorヨッドです。

バビロンの王ネブカドネツァルは、ヤハウェ(主)に用いられた裁きの器でした。
ネブカドネツァル王のもとにはダニエルがおり、ネブカドネツァルはヤハウェ(主)の偉大さをダニエルから聞いていたのです(ダニエル2:28)。
ネブカドネツァルが、ヤハウェ(主)のものに手を付けずに、エルサレム神殿を守っていたとしたら、歴史は変わっていたのかも知れません。
バビロンが滅ぼされたのは、ヤハウェ(主)を軽視したことが根本にあると思います。バビロンが滅びる直前には、時の統治者の一人ベルシャツァルがバビロンで千人の貴族たちのための大宴会を行いました。その時に、ヤハウェ(主)の聖なる器具類を用いて酒を呑み、偶像を賛美したのです(ダニエル5:3.4)。このことによってヤハウェ(主)からバビロン帝国の終焉が告げられたのです(ダニエル5:5.6,19-28)。そしてその夜ベルシャツァルは殺されました(ダニエル5:30)。
バビロンの滅亡について、この世の歴史学者はそのようには考えないかも知れませんが。ヤハウェ(主)を知らないこの世の歴史学者は、ヤハウェ(主)抜きで物事を見、判断しますから。

1:11 〔ハフorカフ(筆者挿入)〕
彼女〔エルサレム(筆者挿入)〕の民は皆、パンを求めて呻く。
宝物を食べ物に換えて命をつなごうとする。
「御覧ください、主よ
わたしのむさぼるさまを見てください。」

 ヘブライ語聖書の最初の単語は、「コール」で、全体、すべて、等の意です。「彼女の民は皆」の「皆」がコールです。「コール」の1文字目は、「カフ」です。

エルサレムの住民は食べ物がなく、苦しんでいたのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたに愛されていることを知り、イエス様だけが救い主であることを知り、イエス様を信じ、イエス様を主と告白させて頂けた恵みを心から感謝します。
あなたに愛され、日々聖霊の助けと導きを頂きながら歩ませて頂けますことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年9月 2日 (木)

哀歌を読む前に

 哀歌について、聖書辞典は次のように述べています。

あいか 哀歌
1.名称。

2.時代的背景,年代,著者。
3.内容の概略。
4.文学形態。
5.主題的神学思想。

1.名称。
聖都エルサレムは,元来神の都と考えられていたにもかかわらず,イスラエルの民の不誠実と背信のゆえに,神のさばきを受け,預言者エレミヤやエゼキエルなどの預言通りに,神の主権のもとでバビロンの王ネブカデネザル〔ネブカドネツァル(2017)〕によって破壊されてしまった。本書は,南王国ユダが滅亡し,その民が捕囚とされるという悲惨な状況を嘆いて歌った歌を収録したものである。
 「哀歌」という名称は,そのような背景と内容をよく提示していると言える。
ヘブル語聖書の名称は〈ヘ〉エーカー〔英語では“how?”(筆者挿入)〕で,それは「どうしてなのか」という意味であり,悲しみをもって問いかけるニュアンスを含んでいる。
70人訳には,「イスラエルが捕囚となり,エルサレムが廃墟とされた後に,エレミヤは座して泣き,エルサレムのために哀歌を作って言った」という序文がつけられているので,かつては「エレミヤの哀歌」とさえ呼ばれたことがあった。邦訳聖書でも,文語訳などは「エレミヤ哀歌」としている。
本書のヘブル語名「エーカー」は,1章の冒頭の語をとったもので,2章および4章も同じ語で始まっている。さらに,本書の詩文形式が,ヘブル語で「キーナー」と呼ばれる哀悼歌調であることも,本書の「哀歌」という名称に無関係であるとは言えない。


2.時代的背景,年代,著者。
本書は,ヘブル語聖書では,第3区分の諸書に属し,「メギロース」(巻物)と呼ばれる5書(雅歌,ルツ記,哀歌,伝道者の書,エステル記)の中では第3番目におかれている。したがって,哀歌がエレミヤ書のすぐ後におかれているのは,70人訳の順序に従ったものである。メギロース中の他の書とは時代的背景をやや異にしていて,エルサレムとその神殿の崩壊,国の滅亡と民の捕囚という歴史的な悲しい事件が内容の背景となって展開され,哀歌というモチーフが一貫して提示されている。


エルサレムの町と神殿の崩壊,および南王国ユダの滅亡と捕囚は,旧約聖書中各所で取り扱われ,言及されているので,時代的背景をよく提示している本書は,正典論的な価値を十分備えていると言える。Ⅱ列25章やエレ52章などは,その歴史的背景を支持し,本書の内容が伝える感情を読者によく理解させる。前586年のエルサレム陥落と神の民の捕囚という現実は,後代に多くの教訓を与えた。それゆえ,本書の著作および編纂は,年代的には,前570―540年頃であろうと考えられる。本書の著者,または編者は,神の都と考えられた高台の美しい町エルサレムと,荘厳優美なエルサレム神殿が破壊され,廃墟となった様子を現実に目撃したであろう。そしてそれが神の民の背信に対する神の怒りとさばきの結果であることを正しく理解して嘆き,祈る思いを持った人物であったと考えられる。

著者がエレミヤであるとは,本書中のどこにも明記されていない。それゆえ,本書がエレミヤによるものであるとの伝統的な主張を断定的に提示することは困難である。しかし,南王国ユダの滅亡について深い重荷を覚える預言者的意識,神のさばきと神の恵みを敏感に正しく評価している内容,エレミヤ書と類似した表現(エレミヤ14:17と哀歌1:15等),すぐれた詩人的才能,自国とその民の悲劇を痛みとすると同時に,そのような悲劇的経験を通ってのみ将来の希望と新しい生き方があるとする真の愛国心などを考え合せると,伝統的なエレミヤ著作説を不適当と断定することはできないであろう。もちろん,本書の詩文形式が,いろは歌形式(アルファベットの字隠し法)を使用し,各章に独立的要素があるので単数の著者によるとするには困難があるという点,また5:7の内容などは,預言者エレミヤが強く主張した個人の罪責の問題(エレミヤ31:29‐30)とは一致しない点などは,本書のエレミヤ著作説を困難にしていることも認めなければならない。それゆえ,編著者については,本書にエレミヤによるものと明記されていないことを正しく理解し,可能性として,エレミヤあるいは彼と同時代の人物を考えるのが妥当であろう。編著者が単数か複数かの決定も,確かな決め手となるものは見出しがたい.さらに,編著作の場所についても,バビロン説,エジプト説などがあるが,総合的にはユダと見るのが妥当である。

3.内容の概略。
本書は,各章ごとにきわめてよく整理された形で記され,文学的には,ヘブル詩の特徴の一つと考えられるアルファベットの字隠し法(アクロスティック)を用いている。

(1)エルサレムの荒廃の現状について嘆く歌(第1の歌)(1:1‐22)
(2)聖都エルサレムに対する神の怒りについての祈りの歌(第2の歌)(2:1‐22)
(3)廃墟となったエルサレムについての嘆きと神のあわれみを求める歌(第3の歌)(3:1‐66)
(4)エルサレムの昔の栄光と現在の悲惨を比較し嘆く歌(第4の歌)(4:1‐22)
(5)エルサレムとその住民の荒廃を嘆くと共に悔改めを勧める歌(第5の歌)(5:1‐22)

注目すべき点は,これらの5つの歌には,単なる哀歌,嘆きの歌というだけでは十分理解し尽せないもの,すなわち,悔改めととりなしの祈りがその全体に力強く流れているということである。それこそが,悲しみの中にも希望を見出し得る本書の使信の中核的要素と言える。

4.文学形態。
本書は詩文形式の中でも特異な,ヘブル語のアルファベットの22文字を隠す方法をとっている。これは,いろは歌形式とも言える。
1‐2章は,3行で1つの連が構成され(これが1つの節に当る),各連の最初の行の初めの文字がヘブル語アルファベット順になるよう工夫されている。
3章はさらに技巧がこらされ,各連が3行からなり,3行とも同じヘブル語アルファベット文字で始まるよう工夫されている。
4章は,1連が3行ではなく2行となっており,その1行目の頭文字がアルファベット順に並べられている。
5章には,このような技巧は見られないが,しかし全部で22節からなっており,アルファベットの数22に合せて作られている.


5.主題的神学思想。
何よりも,本書はその卓越した文学的展開としての詩文の美しさが読者の関心を呼ぶ。そして,その中からエルサレムの崩壊という国家的,民族的な悲劇を悲しみ嘆く感情を,「信仰の危機」という意味で読み取ることができる。また,この哀歌の背景には,一つの大きな神学的課題が存在する。それは,エルサレム神殿と聖都エルサレムの崩壊は,その不可侵性についての誤った迷信的な考え方,信頼のあり方に対して神の審判が下された結果として起った悲劇であるという神学的理解である。したがって,本書は悔改めの部分で終っており,哀歌であると同時に「神への祈りの歌」でもある。悲しみと嘆きを通して,神は愛であると同時に,聖であり,義なる方であることを教えられるのである。
”とあります。

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