哀歌5章 エルサレムとその住民の荒廃を嘆くと共に憐れんで欲しいという祈り
(本文は新共同訳です)
哀歌5章はアルファベット詩になっていません。
5:1 主よ
わたしたちにふりかかったことに心を留め
わたしたちの受けた嘲りに目を留めてください。
5:2 わたしたちの嗣業〔「相続地」(第三版)、「ゆずりの地」(2017)/ヤハウェ(主)が与えて下さった地(筆者挿入)〕は他国の民のものとなり
家は異邦の民のものとなった。
5:3 父はなく、わたしたちは孤児となり
母はやもめとなった。
〔2017は、“私たちは父のいないみなしごとなり、母はやもめのようになりました。”と訳しています。(筆者挿入)〕
5:4 自分の水をすら、金を払って飲み
自分の木からすら、価を払って取り入れる。
新共同訳スタディ版の注は、“水と薪は生活必需品であった。B.C.586年の新バビロニア帝国の侵略により、ユダは帝国の一部となった。今や土地だけではなく、水や薪さえも他人のものとなっていた。捕囚とならなかった貧しい人々は支配者に頼らなければ生きていけなかった。”と述べています。
5:5 首には軛を負わされて追い立てられ
疲れても、憩いはない。
〔口語訳は、“われわれは首にくびきをかけられて追い使われ、疲れても休むことができない。”と訳しています。(筆者挿入)〕
5:6 わたしたちはエジプトに手を出し
パンに飽こうとアッシリアに向かった。
エジプトやアッシリアは、ユダの人々の中でユダ国から逃げて行った人たちが助けを求めた国々であり、その他の近隣諸国にも逃れた人たちがいました。
5:7 父祖は罪を犯したが、今は亡く
その咎をわたしたちが負わされている。
7節のように語っている人たちもヤハウェ(主)に背を向け、罪の内を歩み続けたのです。創世記3:12.13以来、人は自分の罪の責任を他者に持っていこうとします。それは罪の結果です。主の御救いにあずかるためには、自分の罪は自分の罪として主の御前に出ることが大切です。自分の罪を人に転嫁していては救われません。
5:8 奴隷であった者らがわたしたちを支配し
その手からわたしたちを奪い返す者はない。
〔リビングバイブルは、“以前は私たちに仕えていた召使が、今では主人に取って代わりました。私たちを救ってくれる者は一人もいません。”と意訳しています。(筆者挿入)〕
5:9 パンを取って来るには命をかけねばならない。
荒れ野には剣が待っている。
〔リビングバイブルは、“私たちは、敵に襲われていのちを落とすのを覚悟して、食べ物を捜しに荒野へ行きました。”と意訳しています。(筆者挿入)〕
5:10 飢えは熱病をもたらし
皮膚は炉のように焼けただれている。
5:11 人妻はシオンで犯され
おとめはユダの町々で犯されている。
5:12 君侯は敵の手で吊り刑にされ
長老も敬われない。
5:13 若者は挽き臼を負わされ
子供は薪を負わされてよろめく。
〔リビングバイブルは、“彼らは、ひき臼をひかせるために若い人たちを、重い荷をかつがせるために幼い子供たちを、労働力として連れ去りました。”と意訳しています。(筆者挿入)〕
5:14 長老は町の門の集いから姿を消し
若者の音楽は絶えた。
5:15 わたしたちの心は楽しむことを忘れ
踊りは喪の嘆きに変わった。
5:16 冠は頭から落ちた。
いかに災いなことか。
わたしたちは罪を犯したのだ。
〔リビングバイブルは、“私たちの栄光は去り、私たちの頭から冠が転げ落ちました。私たちが罪を犯したために、災難が降りかかったのです。”と意訳しています。(筆者挿入)〕
5:17 それゆえ、心は病み
この有様に目はかすんでゆく。
5:18 シオンの山は荒れ果て、狐がそこを行く。
〔リビングバイブルは、“エルサレムと神殿は荒れ果てて、住む人もなく、いるのは廃墟を歩き回る野獣だけです。”と意訳しています。(筆者挿入)〕
1-18節は、おもに、エルサレムとユダの民の悲しむべき状況が描かれています。
19-22節は、ヤハウェ(主)への祈りに変わります。
5:19 主よ、あなたはとこしえにいまし
代々に続く御座にいます方。
5:20 なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ
果てしなく見捨てておかれるのですか。
5:21 主よ、御もとに立ち帰らせてください
わたしたちは立ち帰ります。
わたしたちの日々を新しくして
昔のようにしてください。
5:22 あなたは激しく憤り
わたしたちをまったく見捨てられました。
〔第三版は、“それとも、あなたはほんとうに、私たちを退けられるのですか。きわみまで私たちを怒られるのですか。”と疑問文として訳しています。(筆者挿入)〕
21節には、「主よ、御もとに立ち帰らせてください。わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして、昔のようにしてください。」という著者の祈りがあります。
「昔のようにしてください。」という著者の祈り以上のことをヤハウェ(主)は、してくださいました。この祈りから約600年後のことでした。
父なる神は、神のひとり子の御子に人間の肉体を与えました。神であり人となったイエス・キリスト様は、ご自身の肉の体をもって贖いを成し遂げました。イエス・キリスト様を信じたユダヤ人たちは昔のようになったのではなく、新し契約のもと、まことの救いを得、更にその救いは全世界の人々へと広がったのです。
“11 実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。
12 その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、
13 祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れ〔キリストの空中再臨(筆者挿入)〕を待ち望むように教えています。
14 キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。”(テトス2:11-14・2017)
「イエス・キリストの、栄光ある現れ」即ちキリストの空中再臨は、キリストが、神のラッパの響きの内に天から下って来られるときのことです(地上再臨のことを言っているのではありません)。その時に、既に天に帰っていたキリスト者は、霊の体を与えられ、地上で生活しているキリスト者は、霊の体に変えられるのです(1テサロニケ4:16.17)。このことは一瞬の内に起こります(1コリント15:52)。それ以降、とこしえに主と共にいることになるのです(1テサロニケ4:17)。
<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたのご計画は、人の想像の及ばないものです。
著者は、「昔の幸せな時を」と祈りましたが、あなたは、それとは比べものにならない祝福を与えてくださるのですから。
それはそれとして、日々の歩みにおいて、常にあなたを愛し、あなたに信頼し、あなたに従い続ける歩みをさせて頂けますよう、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。