今日アップされた箇所は、12/1-3(水~金)分になります。
昨日は漸次的聖化について述べました。
今日はハードルが少し高いのですが、瞬時的聖化について述べていきます。
(瞬時的聖化という表現が良いかどうかはいったん脇に置いてください。)
ローマ6章について、新改訳2017訳とリビングバイブル訳を併記していきます。
1節
2017 “それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。”
リビングバイブル “では、神がますます私たちを恵み、赦し続けることができるように、私たちは罪を犯し続けるほうがよいのでしょうか。”
2.3節
2017 “2 決してそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。”
リビングバイブル “もちろん、絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだのに、どうしてなお罪の中に生きていられるでしょうか。私たちがバプテスマ(洗礼)を受けてキリスト・イエスに結び合わされた時、罪の支配力は打ち破られてしまったのです。”
4節
2017 “私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られた〔生まれながらの古い人はキリストとともに葬られた(筆者挿入)〕のです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。”
リビングバイブル “すなわち、罪を愛する古い性質は、キリストの死によって、キリストと共に葬り去られました。そして、父なる神が、栄光の力でキリストを復活させてくださった時、私たちはキリストの新しいいのちを与えられ、そのいのちに生きる者となりました。”
5節
2017 “私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。”
リビングバイブル “私たちがキリストに結び合わされて、キリストといっしょに死んだのなら、やがてキリストと同じように復活するのです。”
6節
2017 “私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだ〔この体は肉体ではありません。古い人(筆者挿入)〕が滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。”
リビングバイブル “私たちの中にある古い性質の自分が、キリスト共に十字架につけられたのは、罪を愛する体〔古い人(筆者挿入)〕が砕かれ、もはや罪の支配を受けず、二度と罪の奴隷にならないためです。”
7節
2017 “死んだ者〔古い人が死んだ人(筆者挿入)〕は、罪から解放されているのです。”
リビングバイブル “罪に対して死んだ者は、どんな罪の誘惑や力からも自由にされるのです。”
8節
2017 “私たち〔私たちの古い人(筆者挿入)〕がキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きる〔私たちの新しい人はキリスト共に生きる(筆者挿入)〕ことにもなる、と私たちは信じています。”
リビングバイブル “罪を愛する古い性質がキリストと共に死んだのですから、確かに私たちは、キリストの新しいいのちを共有しているのです。”
9節
2017 “私たちは知っています。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。死はもはやキリストを支配しないのです。”
リビングバイブル “ キリストは死者の中から復活されたので、もう二度と死ぬことはありません。死には、もはやキリストを支配する力がないのです。”
10節
2017 “なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。”
リビングバイブル “キリストは、罪の力にとどめを刺すために、ただ一度死なれました。しかし今では、神との絶えることのない交わりの中に生きておられます。”
11節
2017 “同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。”
リビングバイブル “ですから、あなたがたの古い罪の性質も、罪に対して死んだもの、反応しなくなったものとみなしなさい。そして、その代わりに、私たちの主イエス・キリストに結ばれ、神に対して生きる者、神の御声に敏感に応答する者となりなさい。”
12節
2017 “ですから、あなたがたの死ぬべきからだ〔肉体(筆者挿入)〕を罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。”
リビングバイブル “これからはもう、あなたがたの死ぬべき体を罪の支配にゆだねて、その欲望に従ってはいけません。”
13節
2017 “また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。”
リビングバイブル “体のどんな部分をも、罪を犯す道具にしてはいけません。むしろ、自分自身を神にささげなさい。あなたがたは、死者の中から生かされた者であり、神に使っていただく良い道具として役立つ者となりなさい。”
14節
2017 “罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。”
リビングバイブル “罪は、二度とあなたがたを支配しません。なぜなら、あなたがたはもう律法に束縛されてはおらず、恵みの中にあって、自由の身となっているからです。”
15節
2017 “では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんなことはありません。”
リビングバイブル “それでは、どうなのでしょう。律法を守ることによってではなく、恵みを受けることによって救われるのであれば、「罪を犯してもかまわないのだ」ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。”
16節
2017 “あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。”
リビングバイブル “知らないのですか。自分の主人は自分で選べるのです。死に至る罪を選ぶこともできれば、義(正しさ)に至る従順を選ぶこともできます。だれかに自分をささげれば、その相手があなたがたの主人となり、あなたがたはその奴隷となるのです。”
17.18節
2017 “17 神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、18罪から解放されて、義の奴隷となりました。”
リビングバイブル “17神に感謝すべきことに、あなたがたは、以前は罪の奴隷になる生き方を選んでいましたが、18今は、罪という古い主人から解放されて、義という新しい主人の奴隷になっているのです。”
19節
2017 “あなたがたの肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい。”
リビングバイブル “このように奴隷と主人にたとえてわかりやすく言うのですが、あなたがたはかつて、あらゆる罪の奴隷でしたが、今は、あらゆる正しいこと、きよいことに仕える奴隷とならなければなりません。”
20節
2017 “あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。”
リビングバイブル “あなたがたは、罪の奴隷であった時には、良いことについては無関心でした。”
21節
2017 “ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。”
リビングバイブル “その結果はどうだったでしょうか。自分がしていたことを考えるだけでも、恥ずかしくなるはずです。その行き着くところは、永遠の滅びでした。”
22節
2017 “しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。”
リビングバイブル “しかし今は、罪の力から解放されて、神に仕える者となりました。
そして、神があなたがたに下さる恵みによってきよくされ、永遠のいのちが与えられているのです。”
23節
2017 “罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。”
リビングバイブル “罪の支払う報酬は死です。しかし、神が下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスによる永遠のいのちです。”
下線部分を信仰によって受け取れ、実体化されると、そのとき瞬時的聖化が起こるのです。
信仰が働かないときには先延ばしにしてください。
無理やり思い込んでも信仰がついて行きません。
また、悪魔悪霊の誘惑を見破り、敵である悪魔悪霊を排除することができないと、長続きしないのです。長続きしないと、この聖句は不可能だと考えかねないのです。
主は、キリスト者を信仰から信仰へと進ませてくださいます(ローマ1:17)。
主の御業に期待してください。
ローマ1:17には、“福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。”(2017)と記されています。
初めの「信仰」のギリシア語原語による前置詞は「エク」で「~から、from」の意です。次の「信仰」ギリシア語原語による前置詞は「イース」で「~の中へ、into」の意です。
三番目の「信仰」のギリシア語原語による前置詞は「エン」で「~中で、in」の意です。
ガラテヤ5:16-25には次のように記されています。いくつかの日本語訳聖書を下記します。
聖書協会共同訳(2018版)は以下の様に記しています。
“16私は言います。霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。
17 肉の望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反するからです。この二つは互いに対立し、そのために、あなたがたは自分のしたいと思うことができないのです。
18 霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
19 〔19-21節は肉の行いのリスト(筆者挿入)〕肉の行いは明白です。淫行、汚れ、放蕩、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、21 妬み、泥酔、馬鹿騒ぎ〔別訳「酒宴」(欄外注)〕、その他このたぐいのものです。以前も言ったように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはありません。
22 これに対して、霊の結ぶ実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、節制であり、これらを否定する律法はありません。
24 キリスト・イエスに属する者は、肉を欲情と欲望とともに十字架につけたのです。
25 私たちは、霊によって〔「霊の人」という表現については、口語訳・新共同訳・聖書協会共同訳・前田訳・塚本訳・フランシスコ会訳の1コリント2:15、3:1を参照(筆者挿入)〕生きているのですから、霊によってまた進もうではありませんか。”
新改訳2017は以下のように記しています。
“16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。
17 肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。
18 御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。
19 肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。
22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。
24 キリスト・イエスにつく者〔キリストのもの{ガラテヤ3:29参照}(筆者挿入)〕は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。
25 私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。”
この箇所で「御霊」と訳している日本語訳聖書は、新改訳、口語訳、文語訳です。リビングバイブルは聖霊と訳しています。
ギリシア語原語は、単に「霊」です。
「御霊」ではなく「霊」と訳している日本語訳聖書は、口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳、岩波訳、フランシスコ会訳、前田訳、塚本訳です。
1コリント6:17には、“・・、主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。”(聖書協会共同訳)
岩波訳は、“主に接合させられる者はしかし、〔主と〕一つの霊なのである。”と訳し、
新共同訳は、“・・、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。”と訳しています。
ここの「主」とは、復活のキリストです。
ガラテヤ2:19.20.21aの聖句に対する日本語訳聖書を三つ下記します。
新改訳2017は次のように記しています。
“19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました〔十字架につけられてしまっている(岩波訳)〕。20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。21 私は神の恵みを無にはしません。”
前田訳は次のように記しています。
“19 わたしは神に生きるために律法によって律法に死にました。わたしはキリストとともに十字架につけられました。20 わたしはもはや生きているのでなく、わがうちにあるキリストが生きているのです。 今わたしが肉にあって生きているのは、神の子のまことによって生きている のです。 彼はわたしを愛してわたしのために自らをおささげでした。21 私は神の恩恵を無にしません。”
聖書協会共同訳は次のように記しています。
“19 私は神に生きるために、律法によって律法によって死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。20 生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の御子の真実〔別訳「神の子への信仰」(欄外注)〕によるものです。21 私は神の恵みを無駄にはしません。”
20節の“私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の御子の真実〔別訳「神の子への信仰」(欄外注)〕によるものです。”(聖書協会共同訳)という聖句箇所について、他の聖句から考察できる箇所の一つを下記します。
イエス様が十字架にかかられる前の最後の晩餐での祈りです。
イエス様は次のように祈られました。
「6 あなた〔御父(筆者挿入)〕が世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名〔御父ご自身がどの様な方であるかということ(筆者挿入)〕を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。そして彼らはあなたのみことばを守りました〔イエスがキリストであるということを信じ通しました{ヨハネ6:28.29参照}(筆者挿入)〕。7 あなたがわたしに下さったものはすべて、あなたから出ていることを、今彼らは知っています。8 あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。9 わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった人たちのためにお願いします。彼らはあなたのものですから。10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。11 わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。12 彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためでした。13 わたしは今、あなたのもとに参ります。世にあってこれらのことを話しているのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためです。14 わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。15 わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。16 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。17 真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。18 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。19 わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」(ヨハネ17章・2017)
まさしくイエス様の信仰によって、イエス様の真実によって、私たちは生かされていることを知ります。
またヨハネ10章には次のようなイエス様の御言葉があります。
「27 わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕の羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。29 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。30 わたしと父とは一つです。」
誠実なる御父と御子の御力によって私たちは守られているのです。
これまでの一連の文章で述べている「信仰」「真実」「誠実」等の言葉のギリシア語は「ピスティス」です。
ガラテヤ2:19.20を、聖書協会共同訳を基にして自分流に解釈訳を試みてみます。
“19 私は神に生きるために、律法によって律法に死にました。生まれながらの古い私はキリストと共に十字架につけられました。20 生きているのは、もはや新生前の古い私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、原子によって構成されている肉体の中にあって生きている新生後の私は、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の御子の真実によるものです。”
ガラテヤ5:24の「キリスト・イエスにつく者〔キリストのもの{ガラテヤ3:29参照}(筆者挿入)〕は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」という聖句や
ローマ6:6の「・・。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。」(口語訳)などの聖句の内容を信じ切ることが出来たとき、このことは自分のものとして実体化されるでしょう。
その後は、霊によって生きるのです。
しかし、信じたと思っても、直ちに悪魔悪霊は、そうはさせまいと活動するのです。
即ち、悪魔悪霊は、罪を犯させようと誘惑しますし、悪魔悪霊の誘惑の段階において、その誘惑はあたかもその人自身の肉から出ていると思わせたりするのです。
そのようにして、「お前はまだきよめられていない」とたたみかけて、ガラテヤ5:24やローマ6:6の「ピスティス」から引きずり降ろそうとするのです。
これらの聖句を信じ続け、霊にあってor霊の人として歩み続けるためには、悪魔悪霊の様々な偽りや誘惑に対処していく必要があるのです。悪魔悪霊は多くの手口を用います。
それゆえ、霊を見分ける賜物の必要と、悪魔悪霊の手口を見破り、彼らを敗退させる霊的方法を自分のものとする必要があるのです。
それらを継続しないと、瞬時的聖化も継続しないでしょう。
また、瞬時的聖化にあずかっても、その後成熟を目指すのです。
<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたから遣わされた天使は、「きよい者はますますきよくなるのです。」(黙示録22:11・リビングバイブル訳)と語りました。
瞬時的聖化にあずかれる人は少ないでしょうが、いずれにしても聖き歩みの継続こそ大切であり、いつも主と共に歩んでいけば、主は必ずそのようにしてくださいますから御名を賛美します。
栄光から栄光へと主と同じ姿へと変えてくださる主の御名を崇め、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
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救いと聖化を混同しないようにお願いします。
救いは、キリスト・イエス様を信じるだけ(心にお迎えするだけ)で成就します。
救われたら永遠のいのちを持っています。
聖化は、救われた後の歩みと関係するものです。