日ごとの恵みⅣ

2022年4月11日 (月)

祈りについて8/試み

 マタイ613について日本語訳諸聖書は次のように訳しています。
元訳(明治14年版)は、我儕(われら)を試探(こころみ)に遇せず惡より拯出(すくいいだ)し給へ國と權(ちから)と榮(さかえ)は窮(かぎ)りなく爾(なんじ)の有(もの)なればなりアメンと訳し、
口語訳は、わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。と訳し、
塚本訳は、わたしたちを試みにあわせないで、悪から守ってください。と訳し、
新改訳(1970年版)は、私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕と訳し、
前田訳は、われらを試みにあわせず、悪者からお守りください。と訳し、
新共同訳は、わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。と訳し、
岩波訳は、そして、私たちを試みに遭わせず、私たちを悪からお救い下さいと訳し、
フランシスコ会訳は、わたしたちを誘惑に陥らないよう導き、悪からお救いくださいと訳し、
2017
訳は、私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。と訳し、
聖書協会共同訳は、私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください。と訳しています。

 「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」の祈りの聖句は後代の写本からのもである、と記されています。

 岩波訳は、冒頭に「そして」の語が入っていますが、TRギリシア語聖書には、「カイ」(そして、また、・・・等の接続詞)が入っています。

 「試みにあわせないで」という訳の箇所を、フランシスコ会訳は、「誘惑に陥らないよう導き」と訳しています。原語の意味には、試みor誘惑の、内へと運び入れずor導き入れず、等の意があります。

 後半部分の中には、「悪しき者からお救いください」、「悪からお救いください」、「悪者からお守りください」等の訳があります。
「悪しき者」、「悪」と訳されている語のギリシア語原語は「ポネーロス」で、有害な、悪、悪しき者、悪魔、悪霊、罪びとたち、・・・等の意があります。

 「お救いください」と訳されている語のギリシア語原語は「アルラ ルーオーマイ」で、「アルラ」は、否定の意(no)やそして、しかし、・・等々の意があります。
「ルーオーマイ」は、突進する、引く、引き寄せる、引き付ける、配達する、引き渡す、救い出す、救う・・・等の意があります。

 私たちはイエス様から、「私たちを試みor誘惑にあわせないで、悪{and悪魔、悪霊、悪しき人たち(含:不敬虔な者たち)}からお救いくださいorお守りください。」と祈るようにと教えられています。

 話は変わりますが、イエス様は、40日間の断食を終えて空腹であった時、悪魔(サタン)の誘惑を受けられたのです。このときは、イエス様が誘惑に会うようにと御霊が導いたのです。マタイ4章には次のように記されています。
“1
さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。
悪魔に試みられるためである。
2
そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
3
すると試みる者がきて言った、
「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
4
イエスは答えて言われた、
「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
5
それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて6 言った、
「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。
7
イエスは彼に言われた、
「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
8
次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて9 言った、
「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
10
するとイエスは彼に言われた、
「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
11
そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。(口語訳)とあります。
イエス様は、御霊の剣すなわち神のことば(エペソ617)でサタンを撃退しました。
「神のことば」の「ことば」は「レーマ」が使われていますから、その時に、御霊が与えてくださった「神のことば」です。

 マタイ1019.20には、「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」(新共同訳)というイエス様の御言葉があります。

 主が、私たちに、試みを許された場合の対処方法も上記のように教えられています。

 後代の写本には、「国と力と栄は、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」というものもある、と言われている箇所の、「だから」というギリシア語原語の「ホティ」には、それは、というのは、何故なら、だから、・・等の意があります。この「ホティ」は、ギリシア語聖書では、この上記の文の最初に出て来ます。そこを強調して訳すと、「私たちを試みor誘惑にあわせないで、悪{and悪魔、悪霊、悪しき人たち(含:不敬虔な者たち)}からお救いくださいorお守りください。というのはor何故なら、国と力と栄は、とこしえにあなたのものなのですから。アーメン。」という感じになると思います。

 「国」と訳されている語のギリシア語原語は「バシレイア」で、王国の領土、国王の支配、の意です。
主なる神様の領土は、見える世界、見えない世界のすべてです。
申命記1014には、見よ。天と、もろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである。2017)と記されています。
「バシレイア」(国)には、支配、統治、の意もあります。

 「力」と訳されている語のギリシア語原語は「ドゥナミス」で、力、能力、豊かさ、・・等の意があります。

 「栄」と訳されている語のギリシア語原語は「ドクサ」で、重い、荘厳、栄光、威厳、光栄、等の意があります。

 主キリスト・イエス様は、天地の主権者です(マタイ2818)。
そして御父は、更に偉大なお方です(ヨハネ1428)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちを誘惑や試みにあわせず、悪しき者からお守りください。
もし、そのように祈っていても、あなたが、悪しき者の誘惑や攻撃を許可される場合には、イエス様のように御霊の剣、すなわち、その時々に与えられる御言葉によって勝利させて頂けますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月10日 (日)

箴言11:24.25にみる豊かになる人とは

 箴言1124.25を日本語のいくつかの聖書は次のように訳しています。
2017
訳は、“24 気前よく施して、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんで、かえって乏しくなる者がある。
25
おおらかな人は豊かにされ、他人を潤す人は自分も潤される。2017)と訳し、

聖書協会共同訳は、“24惜しまず与えても富の増す人があり、物惜しみをしても乏しくなる者もある。
25
 祝福する魂は肥え、他者を潤す人は自分も潤う。と訳し、

フランシスコ会訳は、“24人に金をばらまいても富を増す人もいる、必要以上に節約しても貧しくなる人もいる。
25
寛大な人は満たされる。人を潤す者は自分も潤される。と訳し、

口語訳は、“24 施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。
25
物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される。と訳し、

新共同訳は、“24 散らしてなお、加えられる人もあり、締めすぎて欠乏する者もある。
25
気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う。と訳しています。

 24節の、「気前よく施して」(2017)、「惜しまず与え」(聖書協会共同訳)、「人に金をばらまいて」(フランシスコ会訳)、「施し散らして」(口語訳)、「散らして」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「イェシュ・パーザル」で、「パーザル」には、散らす、ばらまく、まき散らす、の意があります。「イェシュ」は、突き出る、外側に立つ、存在する、その他、be動詞、have動詞のような意、・・等もあります。

 24節の「正当な支払いを惜しんで」(2017)、「物惜しみをして」(聖書協会共同訳)、「必要以上に節約して」(フランシスコ会訳)、「与えるべきものを惜しんで」(口語訳)、「締めすぎて」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ハーサク ヨーシェル」で、「ハーサク」は、抑える、控える、嫌がる、許さない、「ヨーシェル」は、正当な、適切な、等の意があります。

 24節の聖句を読んだのち、新約聖書に思いをはせると、
「あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。」(マタイ57・口語訳)、
「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。」(ガラテヤ69・口語訳)、
「少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。」(2コリント96-8・口語訳)等の聖句を思い浮かべます。

 25節の、「おおらかな人」(2017)、「祝福する魂」(聖書協会共同訳)、「寛大な人」(フランシスコ会訳)、「物惜しみしない者」(口語訳)、「気前のよい人」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ネフェシュ ベラーカー」で、「ネフェシュ」は、生き物、人、魂、・・・等の意があります。「ベラーカー」は、祝福、感謝の祈り、祝祷、贈り物として進呈する、・・・等の意があります。

 私個人としては、“24惜しまず与えても富の増す人があり、物惜しみをしても乏しくなる者もある。祝福する魂は肥え、他者を潤す人は自分も潤う。(聖書協会共同訳)という訳が気に入っています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様が、「受けるよりも与えるほうが幸いである」と語られたと、パウロが言っていますが、私たちは、あなたから与えられた賜物を周りの必要としている人に与えていくことができますから感謝します。
もっていないものではなく、自分に与えられている何かを、周りの人の祝福のために与えて行くことならば何かできますから嬉しく思います。
最低限、他者のために祈り、感謝することは出来ますし、場合によっては施しをすること、知恵を提供すること、体力のある人は体力を提供することもできます。
誰でも何かを提供することが出来るようにしてくださっておられますから感謝します。
あなたの御旨に従って今日も歩むことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月 9日 (土)

詩篇22篇にみるイエス・キリストの贖いの預言3

 詩篇2212-182017訳は、
“12
多くの雄牛が私を取り囲みバシャンの猛者どもが私を囲みました。
13
彼らは私に向かって口を開けています。かみ裂く吼えたける獅子のように。
13
彼らは私に向かって口を開けています。かみ裂く吼えたける獅子のように。
14
水のように私は注ぎ出され骨はみな外れました。心はろうのように私のうちで溶けました。
15
私の力は土器のかけらのように乾ききり舌は上あごに貼り付いています。死のちりの上にあなたは私を置かれます。
16
犬どもが私を取り囲み悪者どもの群れが私を取り巻いて私の手足にかみついたからです。
17
私は自分の骨をみな数えることができます。彼らは目を凝らし私を見ています。
18
彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします。と訳し、

 同じ個所を新共同訳は、13-19節に、
“13
雄牛が群がってわたしを囲み、バシャンの猛牛がわたしに迫る。
14
餌食を前にした獅子のようにうなり、牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。
15
わたしは水となって注ぎ出され、骨はことごとくはずれ、心は胸の中で蝋のように溶ける。
16
口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。
17
犬どもがわたしを取り囲み、さいなむ者が群がってわたしを囲み、獅子のようにわたしの手足を砕く。
18
骨が数えられる程になったわたしのからだを、彼らはさらしものにして眺め
19
わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。と訳しています。

 バシャンの地というのは、ガリラヤ湖の東方の肥沃な地域を指し、強い雄牛もいました。

 イエス様が十字架にかけられているとき、十字架上でイエス様に対して、霊的なことに対して全く無知である人々の罵詈雑言が続いたのです。
その一部がマタイ2739-44に次のように記されています。
“39
通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。
40
「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
41
同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。
42
「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。43 彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
44
イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。2017)とあります。
上記の文章から、当時のことを想像してみると、ここには記されていない多くの人々の罵(ののし)りや嘲(あざけ)りがあったものと思います。
当のイエス様は、その人たちの罪をも負って十字架にかかっておられるというのに。イエス様が、十字架に釘付けられる前には、イエス様はローマ兵によって骨片や金属片等のついた鞭で打たれ続け、血と肉が飛び散っていたという状態であったのですから、全身に痛みが走り続けていたことでしょう。その後、ゴルゴタへと十字架を背負わされ(途中で十字架を担ぎきれなくなったので他の人が代わりに担ぎましたが)、ゴルゴタについた後には、太い釘で手と足を打ちつけられたのです。そのようにされてから十字架を立てられたのです。衰弱しきっているからだですから、そうされたら体の重みで骨もはずれたでしょう。
イエス様は、そのような状態にされて、肉体的には弱り切った、そして、神の子としてのありようを全く捨てて、全時代かつ全世界の人々の罪を身代わりに負って、十字架上に手足を打ちつけられているのです。
罪なきお方が罪を負うのです。ですから、たった一つの罪でも重く感じられたことと思いますが、すべての人の罪を負うという、精神的にはまいり切ってしまうような状態下にイエス様は置かれたのです。
 そのイエス様に対して、大声で、罵詈雑言を叫ぶような人たちを、イエス様は、まるでバシャンの雄牛のよう、獅子のように感じられたことでしょう。

 16節には、“口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。”(新共同訳)とあります。
イエス様は、鞭で打たれた時に、かなり出血し、リンパ液も出、体液も飛び散り、痛みのために汗も出たことでしょう。更に十字架にを背負わされて歩いたときにも体液は減少していったことでしょう。更に十字架につけられ、脱水状態は進行していったのです。
 イエス様は、十字架上で、「わたしは渇く」と言われました(ヨハネ1928)が、イエス様は、肉体的には強度の脱水であったでしょうし、霊的には、永遠の過去からズ~っと御父と愛の交わりを持ち続けて来ていたのに、すべての人の罪を身代わりに負ってからは、御父と断絶した状態になったのですから、霊的にも「わたしは渇く」と述べられていたのでしょう。

 新共同訳の18.19節には、
“18
骨が数えられる程になったわたしのからだを、彼らはさらしものにして眺め
19
わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。と記されています。
 余談になりますが、人の体内水分量について、胎児は約90%、新生児は約75%、子どもは約70%、成人は約60-65%、老人は約50-55%といわれます。
イエス様の年齢は、成人に相当しますが、かなりの脱水と重力によって、肋骨などは数えることが出来るようになっていたのではないかと想像します。

 19節には、“わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。”とありますが、
ヨハネ1923.24には次のように記されています。
“23
さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。また下着も取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった。24 そのため、彼らは互いに言った。「これは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」これは、「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」とある聖書が成就するためであった。それで、兵士たちはそのように行った。2017)とあります。

 兵士たちが旧約聖書を読んでいたとは思えません。詩篇22篇はキリストの十字架の約1000年前の預言です。

 救われる以前の私は、詩篇141に、“愚か者は心の中で「神はいない」と言う。”(2017)と記されている者に該当するような者であったのです。
ですから、私にとって、預言が次から次へと成就しているのを見せられることは、肉眼で見ることの出来ない中に、実在される何かがおられる、と考えざるを得なくなったのです。

 かつての私のように、聖書など信じられないと思う人は、「わたし〔まことの神(筆者挿入)〕は初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り、わたしは望むことをすべて実行する。」(イザヤ4610・新共同訳)と言われた神様の御言葉が確かかどうかを調べてみたら良いと思います。
即ち、預言が歴史上実現していったのかどうかを調べるのです。
しかし、単純にイエス様を信じるという方がはるかに楽ですよ。
イエス様は言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ20292017)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私は大分遠回りをしてイエス様を自分の救い主として信じましたが、いずれにしてもイエス様を信じさせて頂けましたことを感謝します。
イエス様を信じさせて頂けたことによって、信じられないほど多くのかつ素晴らしいものを与えられましたことを感謝します。
御名をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月 8日 (金)

献酌官長と料理官長の夢とヨセフ/時の支配は神様のもの

 ヨセフは17歳の時、兄たちの嫉妬と恨みのために殺されそうになりました。
長子ルベンと第4子ユダの機転によって殺されずにすみましたが、奴隷として売られ、エジプトの侍従長ポティファルの奴隷とされました。
ヨセフは、ポティファルに認められ、用いられていきましたが、ポティファルの妻の性的誘惑に晒されるようになっていきました。
ヨセフがポティファルの妻の誘惑を避けたある日のこと、ヨセフは、ポティファルの妻の策略にはまり、罪を犯してはいないのに、というか主の教えに従っていたのに、牢獄に入れられてしまいました。
ヤハウェ(主)は、ヨセフのいる場所や待遇に関係なく、ヨセフと共にいてくださいました。
そして、ヨセフが牢獄にいるとき、創世記40章に記されている出来事が起こったのです。

 創世記401-4には次のように記されています。
“1
これらのことの後、エジプト王の献酌官と料理官が、その主君、エジプト王に対して過ちを犯した。
2
ファラオは、この献酌官長と料理官長の二人の廷臣に対して怒り、3 彼らを侍従長の家に拘留した。それは、ヨセフが監禁されているのと同じ監獄であった。
4
侍従長がヨセフを彼らの付き人にしたので、ヨセフは彼らの世話をした。彼らは、しばらく拘留されていた。2017)とあります。

 献酌官長と料理官長は、王から信任された人がなったはずです。
一言でいえば、王が飲食によって殺されないための毒味係でもあったからです。
私の想像ですが、王はある食事の後、体調を崩したのではないかと思います。それで毒を入れたと疑われたか、職務怠慢と思われたかで、牢獄に入れられたのではないかと思います。

 監獄の中で、献酌官長と料理官長が意味のある夢を見たこと、そしてその夢の解き明かしをヨセフが行ったことが創世記405以降に記されています。

 献酌官長の夢とその夢をヨセフが解き明かした内容が、創世記405-13に次のように記されています。
“5
さて、監獄に監禁されていた、エジプト王の献酌官と料理官は、二人とも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢にはそれぞれ意味があった。
6
朝、ヨセフが彼らのところに来て、見ると、彼らは顔色がすぐれなかった。
7
それで彼は、自分の主人の家に一緒に拘留されている、このファラオの廷臣たちに「なぜ、今日、お二人は顔色がさえないのですか」と尋ねた。
8
二人は答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」
ヨセフは言った。「解き明かしは、神のなさることではありませんか。さあ、私に話してください。」
9
献酌官長はヨセフに自分の夢を話した。
「夢の中で、私の前に一本のぶどうの木があった。10 そのぶどうの木には三本のつるがあった。それは、芽を出すと、すぐ花が咲き、房が熟してぶどうの実になった。11 私の手にはファラオの杯があったので、私はそのぶどうを摘んで、ファラオの杯の中に搾って入れ、その杯をファラオの手に献げた。」
 12 ヨセフは彼に言った。「その解き明かしはこうです。三本のつるとは三日のことです。13 三日のうちに、ファラオはあなたを呼び出し、あなたを元の地位に戻すでしょう。あなたは、ファラオの献酌官であったときの、以前の定めにしたがって、ファラオの杯をその手に献げるでしょう。2017)とあります。

 ヨセフの夢の解き明かしが正確であったことは、創世記4020.21に次のように記されています。
“20
三日目はファラオの誕生日であった。それで彼は、すべての家臣たちのために祝宴を催し、献酌官長と料理官長を家臣たちの中に呼び戻した。
21
そうして献酌官長をその献酌の役に戻したので、彼はその杯をファラオの手に献げた。2017)とあります。

 献酌官長が見た夢をヨセフが解き明かしたのを聞いていた料理官長は、自分の見た夢をヨセフに語り、ヨセフは、その夢を解き明かしました。創世記4016-19に次のように記されています。
“16
料理官長は、解き明かしが良かったのを見て、ヨセフに言った。
「私の夢の中では、頭の上に枝編みのかごが三つあった。17 一番上のかごには、ファラオのために、ある料理官が作ったあらゆる食べ物が入っていたが、鳥が私の頭の上のかごの中から、それを食べてしまった。」
18
ヨセフは答えた。
「その解き明かしはこうです。三つのかごとは三日のことです。
19
三日のうちに、ファラオはあなたを呼び出し、あなたを木につるし、鳥があなたの肉をついばむでしょう。」2017)とあります。

 料理官長の夢に対するヨセフの解き明かしは、料理官長が処刑されてしまうというものでした。創世記4020.22に次のように記されています。
“20
三日目はファラオの誕生日であった。それで彼は、すべての家臣たちのために祝宴を催し、献酌官長と料理官長を家臣たちの中に呼び戻した。
22
しかし、料理官長のほうは木につるした。ヨセフが彼らに解き明かしたとおりであった。2017)とあります。

 ヨセフは、献酌官長の夢を解き明かした後、献酌官長に、自分は無実の罪で監禁されている者なので、献酌官長が幸せになった折には、自分が監禁から解放されるように恵みを施してください、と頼んだのです。創世記4014.15には次のように記されています。
“14
あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。15 実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は、投獄されるようなことは何もしていません。2017)と。

 復職した献酌官長について、創世記4023は、ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった。2017)と記しています。

 献酌官長がヨセフを思い出したのは、2年後のことでした。しかし、そのような背後にヤハウェ(主)の摂理があったのだろうと思います。そのことは創世記41章を読むと分かります。

 ヨセフが奴隷として売られた時は17歳でした。
そして、ある時から監獄に入れられましたが、監獄から出された時が30歳でした(創世記4146)。しかしヨセフは、自分の思いのままに生きることの出来ない自由の無い境遇の中にあっても主と共に歩んだのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
如何なる環境、状況の中に置かれても、主が共にいてくださいますから御名をあがめて感謝します。
あなたの御名をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(伝道者の書3112017
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる(ローマ828抜粋・口語訳)

2022年4月 7日 (木)

祈りについて7/赦し

 マタイ612を、
元訳は、我儕(われら)に負債(おいめ)ある者を我儕がゆるす如く我儕の負債をも免(ゆる)し給へ。と訳し、
元訳の明治14年版は、我儕(われら)に罪(つみ)を犯す者を我(わが)ゆるす如く我儕の罪をも免(ゆる)したまへと訳しています。
口語訳は、わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。と訳し、
新共同訳は、わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。と訳し、
岩波訳は、また、私たちの負債をお赦し下さい、私たちに負債ある者たちを、私たちも赦しましたように。と訳し、
フランシスコ会訳は、わたしたちの負い目をお赦しください。同じようにわたしたちに負い目のある人をわたしたちも赦します。と訳し、
2017
訳は、私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します〔別訳「赦しました」(欄外注)〕。と訳し、
聖書協会共同訳は、私たちの負い目をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。と訳しています。
リビングバイブル訳は、私たちの罪をお赦しください。私たちも、私たちに罪を犯す者を赦しました。と訳しています。

 ルカ114には、「私たちの罪をお赦しください。私たちも自分に負い目〔「負債」(岩波訳)〕のある人を皆赦しますから。」(聖書協会共同訳)と記されています。

 罪を赦す権威について、マルコ2章には次のような記事があります。
“1
数日たって、イエスが再びカペナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。
2
それで多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。イエスは、この人たちにみことばを話しておられた。
3
すると、人々が一人の中風の人を、みもとに連れて来た。彼は四人の人に担がれていた。
4
彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。
5
イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた
6
ところが、律法学者が何人かそこに座っていて、心の中であれこれと考えた。
7
「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」
8
彼らが心のうちでこのようにあれこれと考えているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを考えているのか。
9
中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
10
しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。
11
「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」
12
すると彼は立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行った。それで皆は驚き、「こんなことは、いまだかつて見たことがない」と言って神をあがめた。2017)と記されています。

 さて、マタイ612を、岩波訳は、「また、私たちの負債をお赦し下さい、私たちに負債ある者たちを、私たちも赦しましたように。」と訳しています。
「負債」と訳されたギリシア語の原語は「オフェイレーマ」で、借金、借り、負債、(道徳的)過ち、の意です。

 一方、ルカ114には、「私たちの罪をお赦しください。私たちも自分に負い目〔「負債」(岩波訳)〕のある人を皆赦しますから。」(聖書協会共同訳)と記されています。
文章前半部分の「罪」と訳されている語のギリシア語原語は「ハマルティア」、すなわち「罪」で、ここではその複数形が用いられています。sins=罪々です。
文章後半部分の「負い目」「負債」と訳されているギリシア語原語は「オフェイレーマ」です。

 負債について、イエス様は次のようなお話をなさいました。
“21
そのとき、ペテロがみもとに来て言った。
「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
〔「罪を犯す」のここでのギリシア語原語は「ハマルティーノ」{動詞}です。また、ペテロはこの節で「赦す」という言葉を使っています。しかし、これは神への冒涜ではありません。何故なら少し前の18節に、「言っておきますが、あなたがたが地上で赦したり、禁じたりすることは、天でも同じようになされるのです。」{リビングバイブル}というイエス様の御言葉があるからです。(筆者挿入)〕
22
イエスは言われた。
「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。
23
ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。
その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。25 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
〔「負債のある者」のギリシア語原語は「オフェイレーテス」です。(筆者挿入)〕
26
それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
27
家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
〔「負債」と訳されているギリシア語原語は「ダネイオン」です。(筆者挿入)〕
28
ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
29
彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。
30
しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。
〔「負債」と訳されているギリシア語原語は「オフェイロー」です。(筆者挿入)〕
31
彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。
32
そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。
〔ここで「負債」と訳されているギリシア語原語は「オフェイレー」です。(筆者挿入)〕
33
私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』
34
こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。
〔ここで「負債」と訳されているギリシア語原語は「オフェイロー」です。(筆者挿入)〕
35
あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」(マタイ18章・2017)と記されています。

 イエス様は、いわゆる「主の祈り」を教えられた後に、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」(マタイ614.152017)と語られました。
 ここでイエス様が語られた対象の人は、神の子どもたちです。イエス様が、「あなたがたの天の父」と語っておられますから、ですから、救われてはいるけれども、そして御父の子どもではあるけれども、人を赦さないでいると、御父からのお仕置きがありますよ、ということです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
神の家族には、色々な人がいます。
自分とは合わないからということで、敵対してしまうことなく、愛していくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
“4
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。7 すべてを耐え〔原語「ステゴー」には「おおいor屋根」の意もあります。(筆者挿入)〕、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。8 愛は決して絶えることがありません。1コリント13章・2017

2022年4月 6日 (水)

内面の美しさと外面のふさわしさ

 箴言1122
口語訳は、美しい女の慎みがないのは、金の輪の、ぶたの鼻にあるようだ。と訳し、
新共同訳は、豚が鼻に金の輪を飾っている。美しい女に知性が欠けている。と訳し、
フランシスコ会訳は、豚の鼻につけた金の輪のようである、美しくても、たしなみのない女は。と訳し、
リビングバイブル訳は、美人でも浅はかで慎みがない女は、金の輪が豚の鼻にかかったようなものです。と訳し、
2017
は、豚の鼻にある金の輪。美しいが、たしなみのない女。と訳し、
聖書協会共同訳は、豚の鼻に金の輪/美しいが聡明さに欠ける女。と訳しています。
(各日本語訳聖書は、発行順に記してあります。)

 2017と聖書協会共同訳は、直訳的な訳し方です。
どの訳が正しいのかというのではなく、ヘブライ語の各単語の意味のどれを選択するかで上記のような訳になります。また、ヘブライ語には名詞文というのがあるので、日本語に訳したときに、動詞を補い、またここでは文章が比喩的なので、~のよう、という語を補って訳しているようです。 

 リビングバイブル旧版は、みかけは美人でも浅はかで慎みがないのは、まるで豚がダイヤのネックレスをしているようなものです。と意訳しています。

 ヤハウェ(主)の御言葉に、「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(1サムエル1672017)というものがあります。
 対神的には、「心」のありようが大切であることが分かります。
しかし、この世においては、対人的には、「見た目」も大切であることが上記の聖句から分かります。人は「うわべを見る」生き物だからです。

 「見た目」即ち、外見は、霊の体を与えられると、誰もが、極めて美しくなります。そして、それは永遠に続きます。内面の美しさは、素晴らしいものです。神の御性質に似た者とさせて頂けるからです。

 このテーマに関し、キリスト者は、この地上において、主から何を期待されているのでしょうか?

 1ペテロ33.4を、
岩波訳は、妻たる人々の装いは、・・・・、穏やかで静かな霊という不滅のものを備えた、心の〔中に〕隠れている〔奥ゆかしい〕人〔柄〕であるようにしなさい。そ〔のような霊〕こそが神の前で貴重なものなのである。3節は抜粋)と訳しています。
{〔 〕内は、訳者の挿入です。}
 このような歩みをしている人は、その人の表情や物腰に、その美しさが自然に表れてきます。それは、顔のパーツの美しさとか、体形とかとは関係のないものです。

 20174節を、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。と訳しています。

 「心の中の隠れた人」とは、「内なる人」のことでしょう。
その「内なる人」というのは、1コリント617の「主と交わる者は、主と一つの霊となる」(聖書協会共同訳)といわれている霊の人のことでしょう。

 1ペテロ33.4をリビングバイブルは、
「宝石やぜいたくな着物や、きれいな髪型で外見を美しく見せようとするよりも、むしろ、やさしく、おだやかな心の持ち主となり、いつまでも色あせしない魅力で、自分の内面を美しく飾りなさい。これこそ、神の目に価値あるものです。」と意訳しています。

 なお、この様な人は、外見にも注意すると思います。周りの人に、「自分のところには来てほしくない」という装いをすることはなく、華美ではないけれども好感を持たれる
ように調えるでしょう。隣人への愛のゆえに。

 今日の箇所は女性に対しての聖句だから、男性には関係ない、と思われる人のために、その人も、霊においてはキリストの花嫁、妻、です。
 男性用には次のような聖句が1テモテ28(抜粋)にあります。
「男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。」(2017)と記されています。
また、「人潔き手を擧て怒なく疑なく何の處にても祈んことを」(元訳)とも訳せます。
私は女性だけれども、私にピッタリ、という人もいるでしょう。

 きよい心で、いつでもどこでも、心を主に向けて祈ることが出来たら良いですね。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたが私たちを聖霊によって整えてくださり、あなたの御旨にふさわしい歩みをすることができますようお願いします。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月 5日 (火)

詩篇22篇にみるイエス・キリストの贖いの預言2/全世界の全時代の人の罪を負って十字架上で罪そのものとなっているイエスの願いを却下される神

 詩篇221.2aには次のように記されていました。
1 わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず、遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。
2
わが神、昼に私はあなたを呼びます。しかしあなたは答えてくださいません。」(2017)とあります。

 1aの叫びは、イエス・キリストによる罪の贖い完了間際のイエスの言葉でした。
前にも書きましたが、午後3時頃には、十字架上の7つの言葉の内の5つが次々と語られていったのでした。再度アップすると次のようになります。
 イエス様が十字架につかれていた時間は9-15時の6時間であったのに、十字架上のイエス様の7つの言葉の内の5つの言葉は15時頃に集中していました。
3
番目は、“イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(ヨハネ1926.27・新共同訳)であり、
4
番目が、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」{「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。」}(マタイ27462017)であり、
5
番目は、「わたしは渇く。」(ヨハネ1928・新改訳)であり、
6
番目は、「完了した。」(ヨハネ1930・新改訳)即ち、「罪の贖いが完了した。」であり、
7
番目は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23462017)でありました。

 詩篇223-11には次のように記されています。
“3
けれどもあなたは聖なる方、御座に着いておられる方、イスラエルの賛美です。
〔しかし、あなたこそ聖なる方。イスラエルの賛美の上に座する方。(聖書協会共同訳)〕
4
あなたに、私たちの先祖は信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
5
あなたに叫び、彼らは助け出されました。あなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。
6
しかし私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的、民の蔑みの的です。
7
私を見る者はみな、私を嘲ります。口をとがらせ、頭を振ります。
8
「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」
9
まことに、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
10
生まれる前から、私はあなたにゆだねられました。母の胎内にいたときから、あなたは私の神です。
11
どうか、私から遠く離れないでください。苦しみが近くにあり、助ける者がいないのです。2017)とあります。

 3節には、「しかし、あなたこそ聖なる方。イスラエルの賛美の上に座する方。」(聖書協会共同訳4節)とあります。
万物を創造した万物の根源であられ、万物を超越しておられる神であられるお方が、イスラエルの賛美を受けておられる様子が記されています。
この聖なる神様は、これまで聖なる神様に信頼する人々に対して、救い(助け)を求めれば、救って来られたお方です(4.5)。

 しかし、全人類の罪を一身に受けて十字架につかれたイエスの叫びは聞かれません。罪が聖なる神と人とを断絶してしまうのです。
イザヤ591.2には次のような言葉が記されています。
「見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(2017)とあります。

 イエス・キリスト様が、十字架につかれる前は、一つの罪もありませんから、神のひとり子の御子が、人の肉体(但し罪を内包していない肉体)をとって、地上生活をしておられたのです。その時、御子は、「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10302017)、「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられる」(ヨハネ14102017)と言うことができたのです。

 十字架につかれているイエス様とそれ以前のイエス様の違いを世の人々は悟ることが出来ていませんでした。
それで世の人々は、十字架上のイエス様に対して、次のような言動をとったのです。
マタイ2739-44には次のように記されています。
“39
通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。
40
「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
41
同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。
42
「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。43 彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
44
イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。2017)とあります。

 詩篇226-8には、預言として次のように記されています(イエス様の十字架の約1000年前の預言です)。
“6
しかし私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的、民の蔑(さげす)みの的です。
7
私を見る者はみな私を嘲(あざけ)ります。口をとがらせ頭を振ります。
8
「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」とあります。

 イエス・キリストは、全き神であられ、全き人になられたお方でした。
わざわざ人となられたのは、全人類の罪を贖うためであったのです(1ヨハネ22)。
すべての人の罪をその身に負って、呪われた者、即ち罰せられた者となるためでした。
そのためには肉体が必要であったのです。
ガラテヤ313には次のように記されています。
キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。2017)とあります。

 詩篇229-11には、
“9
まことにあなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
10
生まれる前から私はあなたにゆだねられました。母の胎内にいたときからあなたは私の神です。
11
どうか私から遠く離れないでください。苦しみが近くにあり助ける者がいないのです。2017)とあります。

 世の人々の罪を贖うために、肉体を与えてもらったイエス様、しかし、罪を贖う段になってもそれを理解する人はほとんどおらず、罪そのものとなっている今(十字架上におられた今)は、御父とも断絶させられていたのです。その苦しさを味わっていた時の、人としてのイエス様の内面について預言されているのだと思います。この預言は、約1000年前のものですから驚きですね。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたが愛してやまない御子イエス様を、私たちを救うために差し出してくださり、ありがとうございます。
イエス様、十字架上で全人類のすべての罪を身代わりに負ってくださいましたことを感謝します。
あなたが負われた罪の中には、私の過去現在未来のすべての罪も含まれていますからありがとうございます。
当のイエス様は、十字架に向かわれる前に、ゲッセマネで、苦しみもだえられるほどに祈る必要があったことを覚えます。
もしもイエス様による罪の贖いがなければ、私は最後の審判で、火の池に入れられたのです。
御名を崇め感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月 4日 (月)

不可抗力的に奴隷にされたのに、ヨセフは主と共に歩んだ

 ヨセフの知らないことでしたが、ヨセフは異母兄弟たちに殺されそうになりました。
しかし幸いなことに、長兄ルベンによって殺されることだけは免れました。
 創世記3718-24には次のように記されていました。
“18
兄たちは遠くにヨセフを見て、彼が近くに来る前に、彼を殺そうと企んだ。
19
彼らは互いに話し合った。
「見ろ。あの夢見る者がやって来た。20 さあ、今こそあいつを殺し、どこかの穴の一つにでも投げ込んでしまおう。そうして、狂暴な獣が食い殺したと言おう。あいつの夢がどうなるかを見ようではないか。」
21
しかし、ルベンはこれを聞き、彼らの手から彼を救い出そうとして、「あの子を打ち殺すのはやめよう」と言った。
22
また、ルベンは言った。
「弟の血を流してはいけない。弟を荒野の、この穴に投げ込みなさい。手を下してはいけない。」
これは、ヨセフを彼らの手から救い出し、父のもとに帰すためであった。
23
ヨセフが兄たちのところに来たとき、彼らは、ヨセフの長服、彼が着ていたあや織りの長服をはぎ取り、24 彼を捕らえて、穴の中に投げ込んだ。その穴は空で、中には水がなかった。2017)とあります。

 穴の中で、死を待つばかりとなっていたヨセフとは裏腹に、ヨセフの異母兄弟たちは食事をしていました。この時、長兄ルベンはいませんでしたが、エジプトへ行く商人たちがやって来たのです。
そこでユダは提案しました。「ヨセフを奴隷として売ろうではないか」と。
ユダもルベンと同じようにヨセフを殺すことを良しとしなかったのです。
 創世記3725-28には次のように記されています。
“25
それから、彼らは座って食事をした。彼らが目を上げて見ると、そこに、イシュマエル人の隊商がギルアデからやって来ていた。彼らは、らくだに樹膠と乳香と没薬を背負わせて、エジプトへ下って行くところであった。
26
すると、ユダが兄弟たちに言った。
「弟を殺し、その血を隠しても、何の得になるだろう。27 さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが手をかけてはいけない。あいつは、われわれの弟、われわれの肉親なのだから。」
兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。
28
そのとき、ミディアン人の商人たちが通りかかった。それで兄弟たちはヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚でヨセフをイシュマエル人に売った。イシュマエル人はヨセフをエジプトへ連れて行った。2017)とあります。
 ミディアン人とイシュマエル人について、新共同訳スタディ版の注は、ミディアン人とイシュマエル人はどちらもアブラハムの子孫である(創世記251.2.12)。・・。ここではおそらくイシュマエル人は「隊商の人々」のことで、ミディアン人は「隊商の人々」の出身の国また部族を意味するのであろう。と述べています。

 ヨセフはエジプトに連れて行かれ奴隷として売られました。
創世記391には、ヨセフはエジプトへ連れて行かれた。ファラオの廷臣で侍従長のポティファルという一人のエジプト人が、ヨセフを連れ下ったイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。2017)とあります。

 ヨセフの母親のラケルは、ベニヤミンの出産時に死亡しました。
それまでの間、ヨセフは母ラケルと父ヤコブにとても愛されて育てられてきたのではないかと思います。
ヤコブはラケルを愛していましたが、当時の成り行きでラケル以外の3人の女性を妻とし、3人の女性たちから10人の息子たちを得たのでした(実際には、主から与えられたのですが)。
母ラケル亡き後も父ヤコブに寵愛されて育った人、それがヨセフであったのです。
しかしヨセフは17歳の時、ポティファルの奴隷とされたのでした。
奴隷としての仕事の最初の頃は、おそらくほかの奴隷に仕事を叩きこまれていったのだろうと思います。

 聖書には記されていませんが、おそらく父ヤコブに寵愛されていたヨセフは、ヤコブからヤハウェ(主)とヤコブ(イスラエル)との関係の様々な話を聞いて育ったことと思います。それ故、ヨセフは、ヤハウェ(主)を信じて成長していったのでしょう。
ヤハウェ(主)を信じていたのに、理由もわからず、異母兄たちに暴力を振るわれ、捕まえられ、穴に投げ込まれたのです。

 穴に投げ込まれたヨセフは、兄たちに対してどのような感情を持ったことでしょうか?
聖書に記されていませんが、その時に、ヤハウェ(主)を信じて祈ったでしょうか?
もし祈ったとしたら、どうして奴隷の身分になってしまったのでしょうか?

 大抵の人は大いに絶望してしまうのが普通であろうと思います。
ヨセフは、兄弟たちに憎まれていることを知り、ヤハウェ(主)を信じていたのに見放されたのですから。
普通は、兄弟たちを恨み、ヤハウェ(主)に悪感情をいだき、ヤハウェ(主)を信じることをやめたでしょう。

 ところが、ヨセフはヤハウェ(主)を信じていたです。
もしそうでなければ、創世記392-6aに記されているようなことが起きたとは思えません。その箇所には次のように記されています。
“2
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。
3
彼の主人は、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が彼とともにおられ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。
4
それでヨセフは主人の好意を得て、彼のそば近くで仕えることになった。主人は彼にその家を管理させ、自分の全財産を彼に委ねた。
5
主人が彼にその家と全財産を管理させたときから、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福された。
それで、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の祝福が、家や野にある全財産の上にあった。6 主人はヨセフの手に全財産を任せ、自分が食べる食物のこと以外は、何も気を使わなかった。2017)とあります。

 ヨセフの体つきには男性美があり、その上イケメンでした。この家の主人ポティファルの妻は、ヨセフに興味を持ちました。そしてヨセフと姦通しようともくろんだのでした。しかし、ヨセフは、それは罪であると認識していたので、それを避けたのです。
 
創世記396b-12には次のように記されています。
“6
・・・。・・ヨセフは体格も良く、顔だちも美しかった。
7
これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「一緒に寝ましょう」と言った。
8
しかし彼〔ヨセフ(筆者挿入)〕は拒んで、主人の妻に言った。
「ご覧ください。ご主人は、家の中のことは何でも私に任せ、心配せずに全財産を私に委ねられました。9 ご主人は、この家の中で私より大きな権威をふるおうとはせず、私がするどんなことも妨げておられません。ただし、あなたのことは別です。あなたがご主人の奥様だからです。どうして、そのような大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか。」
10
彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、彼は聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、一緒にいることもしなかった。
11
このようなある日のこと、彼が仕事をしようとして家に入ると、家の中には、家の者が一人もいなかった。
12
彼女はヨセフの上着をつかんで、「一緒に寝ましょう」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、彼女から逃れて外へ出た。2017)とあります。

 サタンの執拗な誘惑の手口を見させられているような感じがします。
さて、ポティファルの妻の側に立つと、ポティファルの妻は、相当プライドを傷つけられている状態です。
夫ポティファルはファラオの侍従長という身分ですから、おそらくポティファルの妻は容姿端麗であったことでしょう。その人が拒否され続けているのです。
ポティファルの妻は怒りました。
ヨセフは、ヤハウェ(主)を信じ、ヤハウェ(主)のみ旨の内を歩んでいたのに、ポティファルの妻の策略によって、牢に入れられてしまったのです。
 創世記3912-20には次のように記されています。
“12
彼女はヨセフの上着をつかんで、「一緒に寝ましょう」と言った。
しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、彼女から逃れて外へ出た。
13
彼が上着を彼女の手に残して外へ逃げたのを見ると、14 彼女は家の者たちを呼んで、こう言った。
「見なさい。私たちに対していたずらをさせるために、主人はヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとして入って来たので、私は大声をあげました。15 私が声をあげて叫んだのを聞いて、あの男は私のそばに上着を残して、外へ逃げて行きました。」
16
彼女は、ヨセフの主人が家に帰って来るまで、その上着を自分のそばに置いておいた。
17
彼女は主人に、このように告げた。
「あなたが私たちのところに連れて来た、あのヘブル人の奴隷は、私にいたずらをしようとして私のところに入って来ました。18 私が声をあげて叫んだので、あの男は私のそばに上着を残して、外へ逃げました。」
19
彼の主人は、「あなたの奴隷がこのようなことを私にしました」と告げた妻のことばを聞いて、怒りに燃えた。
20
ヨセフの主人は彼を捕らえ、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄に置かれた。2017)とあります。

 ヨセフが体験したことを考えると、ヨセフが、「どうして、あなたを信じて、あなたの教えに従ってここまで歩んできたのに、私は誤解され、牢に入れられなければならないのですか?」とヤハウェ(主)に叫んだとしてもおかしくはありません。

 ヨセフは、主を信じていたのに、兄たちに奴隷として売られ、更にポティファルの妻の策略にはまって牢に入れられてしまったのです。
ヨセフは、信仰を捨て、ヤハウェ(主)をののしってもおかしくないような状況に置かれていたのです。
しかしヨセフは、変わることなくヤハウェ(主)を信じ、ヤハウェ(主)は、ヨセフを監獄の中で祝福しました。
 創世記3721-23には次のように記されています。
“21
しかし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。
22
監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフは、そこで行われるすべてのことを管理するようになった。
23
監獄の長は、ヨセフの手に委ねたことには何も干渉しなかった。それは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が彼とともにおられ、彼が何をしても、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がそれを成功させてくださったからである。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちが、いかなる状況に置かれても、あなたが私たちを愛し続けてくださっておられ、私たちに対するあなたの摂理、すなわち私たちに対するあなたの御計画があることを信じて歩み続ける者であらせてください。
特にキリスト者は、天に思いをはせる特権を与えられていますから感謝します。
あなたの御名をあがめ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」(ローマ828抜粋・口語訳)
「あなた方はキリストとともに復活させていただいたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。」(コロサイ31・フランシスコ会訳)
「咎の故に死んだ者であったわたしたちを、キリストとともに生かしてくださいました――あなた方が救われたのは、恵みによるのです――そして、キリスト・イエスに結ばれてともに復活させ、天の者たちの間で、キリストとともに座を占めさせてくださいました。」{エフェソ(エペソ)25.6

2022年4月 3日 (日)

祈りについて6/日ごとの糧を与えたまえ

 マタイ611を日本語訳聖書は次のように訳しています。
元訳は、我儕(われら)の日用の糧(かて)を今日も與(あたえ)たまへと訳し、
文語訳は、我らの日用の糧を今日もあたへ給へ。と訳し、
口語訳は、わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。と訳し、
塚本訳は、その日の食べ物をきょうも、わたしたちに戴かせてください。と訳し、
新共同訳は、わたしたちに必要な糧を今日与えてください。と訳し、
岩波訳は、私たちに必要なパンを、今日私たちにお与え下さい。と訳し、
フランシスコ会訳は、今日の糧を今日お与えください。と訳し、
2017
訳は、私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。と訳し、
聖書協会共同訳は、私たちに日ごとの糧〔別訳「必要な糧」(欄外注)〕を今日お与えください。と訳しています。

 翻訳の変遷を上記しましたが、その中で、「日用の糧」、「今日の糧」、「必要な糧」と色々な訳がありますので、ギリシア語原語を調べると、それらのどの意味も有しているのです。またそれ以外に、必要最低限の生活の糧、生存の糧、等とも訳せる単語なのです。

 「糧」と訳されている語のギリシア語原語は「アルトス」で、パン、(パンの)ローフ、焼いてから切っていない大きな一塊のパン、(肉などの)ローフ(ミートローフ)、等の意があります。

 日ごとの糧を与えてください、と祈るときの「日ごとの糧」のイメージは、人によってだいぶ異なることでしょう。

 パウロは次のように証ししています。
「私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。
私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。
満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
私を強くしてくださる方によって〔私的直訳「わたしを強くしてくださるキリストの中で」(筆者挿入)〕、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ411-13抜粋・2017)と。

 兎に角、生きていける食物があるのならば、主に文句を言わずに感謝することですね。
そのようにしなかった出エジプトの民の話が民数記11章に記されています。
出エジプトの民は、荒野にて、日々、油で揚げた菓子のような味の「マナ」という食物を主から与えられていたのです。
しかし、4-6節には、次のように記されています。
彼らのうちにいた雑多な群衆は激しい欲望に駆られ、イスラエルの子らもまた泣いて言った、
「誰が肉を食べさせてくれるのだろうか。エジプトではただで魚を食べていたことを思い出す。あのきゅうりも、すいかも、にらも、玉葱も、にんにくも。しかし今、わたしたちの力は尽きた。このマナのほか目の前には何もない」。(フランシスコ会訳)とあります。
 この民に対して、主は怒りました。そして次のようなことを行ったのです。31-34節には次のように記されています。
主のもとから風が起こり、海の方から鶉(うずら)を運んで来た。それらは宿営の周りに落ち、一方の側に約一日の道のり、他の側に約一日の道のりで、地の面をおよそ二アンマ〔約90cm(筆者挿入)〕の高さで覆った。民は立ち上がって終日終夜、またその翌日も一日じゅう鶉を集め、最も少なく集めた者でも十ホメル〔1ホメルは230ℓ2017参照)〕集めた。そして、宿営の周囲にそれを全部広げておいた。肉が彼らの歯の間にあってまだ咬み切られないうちに、民に向かって主の怒りが燃え、主は非常に悪い疫病をもって民を討たれた。こうして、その場所の名はキブロト・ハタアワ〔「貪欲の墓」の意(筆者挿入)〕と呼ばれた。欲望に駆られた人々をそこに埋めたからである。(フランシスコ会訳)とあります。

 主が与えてくださっておられることに感謝せず、欲望に駆られることは恐ろしいことですね。
エペソ520には、「いつも、すべてのことについて私たちの主イエス・キリストの名において〔“in the name of our Lord Jesus Christ”(KJV)〕父なる神に感謝しなさい。」(岩波訳)と記されています。

 人は、無から食物原料を作り出すことは出来ないのですが、平素、そのようなことを忘れています。

 「日ごとの糧」には、霊の糧もあります。
イエス様は、悪魔(サタン)の誘惑に対して、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るすべての言葉によって生きる。」と語られました(マタイ44・フランシスコ会訳)。
文語訳はこの箇所を、「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る」と訳しています。

 日ごとに、神様から御言葉を賜って生活していくことの大切さをも教えられます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
日ごとに、霊の糧、肉体の糧を与えてくださいますから感謝します。
いつもすべてのことについて、あなたに感謝することを忘れることがありませんよう整えてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年4月 2日 (土)

真に正しい人は命に至る

 箴言1119
フランシスコ会訳は、真に正しい人は命に至り、悪を追い求める者は死に至る。と訳し、
2017
は、実に、義を追い求める者はいのちに至り、悪を追い求める者は死に至る。と訳し、
新共同訳は、慈善は命への確かな道。悪を追及する者は死に至る。と訳しています。

 この聖句を「主にあって」と「主抜きで、人間として」の両面から考えてみたいと思います。

 人は、主を知らずに誕生しました。
ですから主を知らない人は、善いことを行う、悪いことを行う、といっても、それは神である主とは関係なく考えて行動しているのです。

 人道主義(ヒューマニズム)は良いものである、と考えている日本人は多いと思います。
精選版日本国語大辞典の「人道主義」の項によると、人間の尊厳を至上のものとし、人間愛に基づいて、人種、民族、国籍の別にかかわりなく、人類の福祉を増進することをめざす立場。と記されています。

 この立場に立つ人が、「義を追い求める」としたら、人間の尊厳を至上のものとし、人間愛に基づいて、人種、民族、国籍の別にかかわりなく、人類の福祉を増進することをめざす行動に励むことでしょう。

 これはとても良いことのように思えますが、聖書の啓示によると、最も根本のところで、間違っているのです。それは、「人間の尊厳を至上のものとし」というところです。

 ヒューマニズムの人が、天国や地獄はあるかないかわからないけれども、あることを想定して、善に励みましょうと思い、善に励んだとしても、天国に行くことは出来ません。それは、人間の尊厳を至上のものとしているからです。
ヒューマニズムは、人間の尊厳を偶像としているのです。

 至上なるお方は、万物の創造者であられるまことの神です。
それ故、十戒の第一、二戒には次のように記されているのです。
“1
それから神は次のすべてのことばを告げられた。
2
「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である。
3
あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない
4
あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。
5
それら〔偶像(筆者挿入)〕を拝んではならないそれらに仕えてはならない。あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。2017)とあります。

 ところが、悲しいことにアダムの堕罪により、アダムの子孫である人々(地球人)は、生まれたときから、自分の背き〔神である主に対する背き(筆者挿入)〕と罪の中に死んでいた者〔神に対して死んでいた即ち断絶していた者(筆者挿入)〕であり、罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者〔悪魔{サタン}(筆者挿入)〕、すなわち、不従順〔神である主に対する不従順(筆者挿入)〕の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでい(エペソ21.2抜粋・2017)た者であったのです。

 天国に入ろうとして、一生懸命自分が思うところの善行に励んでいるものの、イエス・キリストを信じないことが罪であることを受け入れることができないで、イエス・キリストを拒否する人はかなり多いのではないかと思います。
ヨハネ169には、「罪とは、わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を信じないことです。」(リビングバイブル)ということを悟ることが出来ないのです。

 まとめると、キリストを信じない人の善行は、「実に、義を追い求めているのに、永遠のいのちには至らず、まことの神を信じないという悪に立ち続けるために死に至る。」という状態になってしまうのです。

 次にキリスト者の場合を考えてみます。
キリスト者は、ある時、自分の罪を認識し、それを認め、自分の罪の赦しのためにイエス・キリストを信じた人です。
 ローマ324には次のように記されています。各日本語訳聖書の翻訳を比べてみます。
元訳は、只キリスト・イエスの贖に頼て神の恩をうけ功なくて義とせらるる也と訳し、
文語訳は、功なくして神の恩惠により、キリスト・イエスにある贖罪によりて義とせらるるなり。と訳し、
口語訳は、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。と訳し、
塚本訳は、(さりとて失った栄光を回復する力はないので、何一つ)代価を払わず、(ただ)神の恩恵によって、キリスト・イエスによるあがないの力で、(神に)義とされる(道が設けられた)のである。{( )内は訳者挿入}と訳し、
新共同訳は、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。と訳し、
岩波訳は、彼らは神の恵みにより、キリスト・イェスにおける贖いをとおして、無償で義とされているのである。と訳し、
フランシスコ会訳は、キリスト・イエスの贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。と訳し、
2017
訳は、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。と訳し、
聖書協会共同訳は、キリスト・イエスによる贖いの業(わざ)を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。と訳しています。

 パウロは、ピシディアのアンティオキアの会堂で、会堂司(つかさ)たちに、奨励の言葉があれば話すように、と言われ、使徒1316-41に記されている内容を語りました。その中の38.39節には、「ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについて、この方によって、信じる者はみな義と認められるのです。」(2017)と語ったのです。

 キリスト・イエスによる贖いの業のゆえに、キリスト・イエスを信じる者は、誰でも義とされ、永遠のいのちを与えられるのです。
箴言1119真に正しい人は命に至り(フランシスコ会訳)ということは、キリスト・イエスを信じた結果です。
正しい人とは、キリスト・イエスを信じた人のことです。
1
コリント130には、・・、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。2017)と記されています。

 キリスト者となった人は、キリストを信じて救われたのですが、キリスト者の中には、いつの間にか、善いことを行わないと救われていないのではないだろうか、と考え、信仰義認から外れていく人がいるのです。

 救われるための方法は、キリストを信じることです。
信じた後の善き行いは、救いと関係するのではなく、キリストの御座におけるキリスト者の裁き(報酬)と関係するのです(2コリント510)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様の贖いを感謝します。
聖霊様の導きを感謝します。
三位一体の神様の御愛のゆえに私は救われました。
また義とされ、永遠のいのちも与えられ、花婿イエス様の現れを待つ身とされておりますことを感謝します。
御名をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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