日ごとの恵みⅥ

2022年7月19日 (火)

霊魂体が守られますように

 詩篇3318-22には次のように記されています。
“18
見よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の目は主を恐れる〔畏れる(新共同訳)〕者に注がれる。主の恵み〔慈しみ(筆者挿入)〕を待ち望む者に。
19
彼らのたましいを死から救い出し、飢饉のときにも、彼らを生かし続けるために。
20
私たちのたましいは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を待ち望む。主は私たちの助け、私たちの盾。
21
まことに、私たちの心は主を喜び、私たちは聖なる御名に拠り頼む。
22
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたの恵み〔慈しみ(新共同訳)〕が、私たちの上にありますように。私たちがあなたを待ち望むときに〔主を待ち望む我らの上に(新共同訳)〕。2017)とあります。

 ヤハウェ(主)は、旧約時代においては、上記の聖句のように祈る聖徒を喜ばれたことと思います。

 新約時代でも旧約時代でも、主を畏れ敬い、主に信頼し(主に拠り頼み)、主の恵み(主の慈しみ)を求め、主を待ち望む者を主は喜んでくださいます。

 しかし、旧約時代と新約時代との間には、大きな違いが起こりました。
それは、神のひとり子の御子であられ、主であるイエス様が罪人を贖うために、自ら十字架にかかられ、贖いを成し遂げてくださったということです。
イエス様が十字架上で流された血は、イエス様を信じる人の罪を赦し(ただ罪を覆うというのではありません)、イエス様を信じた人を聖くする血であったのです。
イエス様は、三日目によみがえられました。
そのことによって、イエス様を信じる者を新生させることができたのです。
新生したのは、聖なる神から生まれた「霊」でした。
その霊の内に主は住まわれるのです。
それ故、新生し主と一つ霊とされた霊は、永遠のいのちを持っています。
主を待ち望む新生された霊を持つ人の体は、キリストの空中再臨の時に永遠不滅にしてかつ美しい霊の体に変えられるのです(すでに召天した人も霊の体を頂く時はキリストの空中再臨時です)。

 関連聖句を下記します。
 ヨハネ316
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。2017
 エペソ17
“このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。”(2017
 ヨハネ1930
イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。2017
 ヘブル922
律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。2017
 
エペソ28
“この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。”(2017
 ヘブル1010
この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。(新共同訳)・・・(この聖句は、行為の聖化ではなく「神のものとしてきよめ分かたれた」ということです)
 1ペテロ13
“私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。”(新改訳第三版)
 ヨハネ33.6
“3
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」”(2017
6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。(新共同訳)
 1コリント617
・・・、主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。(聖書協会共同訳)
 コロサイ127
この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。2017
 1コリント1552
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。2017
 1テサロニケ416.17
すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。2017

 信仰と希望と愛に生き、主の来臨を待ち望んでいたテサロニケの人たちに、パウロは次のように書き送りました。
「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。」(1テサロニケ523.242017
 同じ個所を新共同訳は次のように訳しています。
どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの御愛と、御子の恵み即ち贖いと、御聖霊の働きにより、イエス・キリスト様を信じる者、即ち、御父の予知に基づき御父の選びに基づいて御聖霊が御子を信じることが出来るようにと導いて下さり、キリストの来臨を待ち望んでいる者の霊、魂、体を守ってくださいますから感謝します。
霊を新生させてくださり、魂はきよめてくださり、体は霊の体を与えてくださいますことを感謝します。
すべての事は、あなたから発し、あなたによって成り、あなたに栄光が帰されますから御名を賛美します。
あなたの御名をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<追記>
魂は救われ、清められるもの
 1ペテロ19.22
9 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。
22
あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。”(2017

2022年7月18日 (月)

あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です

 出エジプト191-6には次のように記されています。
“1
エジプトの地を出たイスラエルの子らは、第三の新月の日にシナイの荒野に入った。
2
彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野に入り、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山を前に宿営した。
3
モーセが神のみもとに上って行くと、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が山から彼を呼んで言われた。
「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」2017)とあります。

 1節には、“エジプトの地を出たイスラエルの子らは、第三の新月の日にシナイの荒野に入った。”とあります。
イスラエルの民は、主に命じられた通り、第一の月の14日に過越のいけにえをほふり、その夜その肉を食べました。日が沈むと15日になります。
その後イスラエルの民は、紅海徒渉、マラでのつぶやき、マナの供給、レフィディムでのつぶやき、アマレクとの戦い、イテロの来訪、シナイ山の荒野に入る、という順で来たのです。
 イスラエルの民は、過越のいけにえの肉を食してからシナイ山の荒野に入るまでを1ヶ月半で来たのです。
イスラエルの民の人数ですが、200万人位はいたと言われています(民数記11-3232参照)。
ヤハウェ(主)は、イスラエルの民全員をこの期間で、ここまで連れてきたことの表現として、「あなたがたは、・・・あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。」(出エジプト194)と言われました。
 私たちキリスト者の歩みについても、私たちキリスト者が自分で頑張ってきた、等と考えたら大いなる間違いであることを覚えます。

 ヤハウェ(主)は、「5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」とイスラエルの民に語るように、モーセに命じました。

 ヤハウェ(主)は、この様に語られる前に、エジプトで行った10の御業、紅海での御業、マラにおいては苦い水を甘く変えたこと、その後のマナの供給、レフィディムにおいては岩から水を出すという主の御業(このことの解説については1コリント104参照)等を思い起こすようにと述べつつ、5.6節の契約を提示したのです。

 ヤハウェ(主)は、「全世界はわたしのものである」と語られましたが、人が罪の内を歩み続けているので、サタンが、全世界をまるで自分のものであるかのように支配していたのです。
新約時代はどうでしょうか?
1
ヨハネ519には、「私たちは神に属していますが、世全体は悪い者〔サタン(筆者挿入)〕の支配下にあることを、私たちは知っています。」(2017)と記されています。

 イスラエルが、神様との契約をもし守ったとしたら、世界の歴史は変わっていました。
しかし、イスラエルの失敗により、出エジプト195.6の主の御言葉は、キリスト者に対して語られたのです。
とはいえ、キリストの千年王国においては、この聖句は成就し、イスラエルが世界の中心となり、地上における祭司の王国となるのです。
 キリスト者の場合は、一人一人に対してでした。
ペテロは、1ペテロ29に次のように記しています。
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。(新共同訳)とあります。

 出エジプト195で、ヤハウェ(主)は、「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、・・」と言われました。
キリスト者は、イエス(イェシュア)がキリスト{マシアハ(油注がれた者)。メシアのこと}であり、神のひとり子の御子であり、救い主であり、主である、と信じ、主イエス様を心にお迎えした者です。

 新契約に基づき、キリスト者は、主の御声に聞き従った者なのです。
それ故、1ペテロ29では、キリスト者に対して、条件を付けずに、というかすでに条件を果たしているので、「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」(新共同訳)と記されているのでしょう。
キリスト者のこのような選びと特権は、「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」と記されているように私たちの思いと行動を導いていくのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私が祈り続けている人の中には、まだ救われていない人が幾人もいます。
最後の審判の情景を思うにつけ、何としてでも救って頂きたいと願います。
しかし、天の御国はあなたのご支配の下にある御国です。
あなたを心から受け入れることのできない者が入れるところではないところです。
あなたは、人に自由意思をお与えになりましたが、それと共に、あなたは人の心に働きかけることの出来るお方です。
どうか、未だあなたを信じていない者たちの心に働いて、主イエス様を信じることが出来るようにしてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年7月17日 (日)

十二使徒2/ヨハネ

 マタイ102-4には次のように記されています。
“2
十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、3 ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、4 熱心党のシモンと、イエスを裏切ったイスカリオテのユダである。2017)とあります。

 
<ヨハネについて>
 ヨハネの父はゼベダイで(マタイ102)、比較的裕福であったと思われます。
マルコ119.20には、〔イエスは(筆者挿入)〕また少し先に行き、ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネをご覧になった。彼らは舟の中で網を繕っていた。イエスはすぐに彼らをお呼びになった。すると彼らは、父ゼベダイを雇い人たちとともに舟に残して、イエスの後について行った。2017)と記されています。

 母はサロメであると思われます。
一つの聖句で正確に記されている箇所がないので、関連個所を列挙しますと次のようになります。
マルコ1540には、女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリアと、小ヤコブとヨセ〔マタイ1355では「ヨセフ」(筆者挿入)〕の母マリア〔地上でのイエスの母マリア(筆者挿入)〕と、サロメがいた。2017)とあり、
マルコ161には、“さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。”(2017)とあり、
マタイ2754-56には、百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった」と言った。そこには、遠くからながめている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たちであった。その中に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。(新改訳第三版)と記されているからです。
以上の三か所から、サロメはゼベダイの子ら(ヨハネとヤコブ)の母ということになるのではないでしょうか。

 またサロメは、イエスの母マリアの姉妹であったと推測されます。
ヨハネ1925-27には次のように記されています。
“25
イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹〔「サロメ」のこと(筆者挿入)〕、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
26
イエスは、母とそばに立っている愛する弟子〔「ヨハネ」のこと(筆者挿入)〕を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
27
それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子〔ヨハネ(筆者挿入)〕は彼女〔マリア(筆者挿入)〕を自分のところに引き取った。2017)とあります。

 地上におけるイエス様とヨハネとは、肉においては、いとこ同士であったのです。
ヨハネは、自分の名前をあまり出しませんが、自分を「イエスが愛しておられた者」とも述べています。
“21
イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人〔イスカリオテのユダ(筆者挿入)〕が、わたしを裏切ります。」
22
弟子たちは、だれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていた。
23
弟子の一人〔ヨハネ(筆者挿入)〕がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。
24
そこで、シモン・ペテロは彼に、だれのことを言われたのか尋ねるように合図した。
25
その弟子〔ヨハネ(筆者挿入)〕はイエスの胸元に寄りかかったまま、イエスに言った。「主よ、それはだれのことですか。」2017)と記されています。

 ヨハネとイエス様がいとこであったから深いつながりがあるというだけではないでしょう。深いつながりは心の交流からのものであったと思います。
キリスト者が与えられる新しい体は、霊の体です。霊の体は天上の体です。
1
コリント15章には次のように記されています。
“39
どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。
40
また、天上の体と地上の体があります。/
47
最初の人〔「アダム」のこと(筆者挿入)〕は土ででき、地に属する者であり、第二の人〔「復活のキリスト」(筆者挿入)〕は天に属する者です。
48
土からできた者たち〔肉の体を持った人たち(筆者挿入)〕はすべて、土からできたその人〔アダム(筆者挿入)〕に等しく、天に属する者たち〔霊の体を与えられた後のキリスト者(筆者挿入)〕はすべて、天に属するその人〔キリスト(筆者挿入)〕に等しいのです。〔ここでは体について語っています(筆者挿入)〕
49
わたしたち〔新生した者たちの肉体(筆者挿入)〕は、土からできたその人〔アダム(筆者挿入)〕の似姿となっているように、〔キリストの空中再臨時には(筆者挿入)〕天に属するその人の〔霊の体の(筆者挿入)〕似姿にもなるのです。
50
兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血〔肉体(筆者挿入)〕は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。
〔地上の両親から受け継いだものはすべて地上に置いていくのです。新生した者の霊は神から生まれた霊であり、キリストの空中再臨時にいただく体は霊の体であり、地上の両親ひいてはアダムとは関係がありません。/ヨハネ36も参考になります。そこには、「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」(新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳、岩波訳;口語訳と前田訳も同様の意の訳し方)と記されているとおりです。(筆者挿入)〕
51
わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠り〔「肉体の死」のこと、但し新生している者の霊は主のもとに行きます。(筆者挿入)〕につくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます〔「変えられる」ということにあずかる人は「携挙される(引き上げられる)人」です。1テサロニケ416.17参照(筆者挿入)〕。
52
最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。(新共同訳)とあります。

 ヨハネは、ヨハネの福音書、ヨハネの手紙、Ⅲ、ヨハネの黙示録を記しました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
今日の箇所には記せませんでしたが、ヨハネの生き方を学ぶと、愛に生きるとはどういうことなのかということを教えられます。
主を愛する愛によって歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年7月16日 (土)

怒り易い人と冷静な人

 箴言1518を日本語訳のいくつかの聖書は次のように訳しています。
新改訳2017は、激しやすい者は口論を引き起こし、怒りを遅くする者は争い事を鎮める。と訳し、
聖書協会共同訳は、憤りやすい者はいさかいを引き起こし、怒りを遅くする人は争いを鎮める。と訳し、
フランシスコ会訳は、怒りやすい人は不和をもたらし、怒りを遅くする人は争いを静める。と訳し、
新共同訳は、激しやすい人はいさかいを引き起こし、忍耐深い人は争いを鎮める。と訳し、
口語訳は、憤りやすい者は争いをおこし、怒りをおそくする者は争いをとどめる。と訳し、
リビングバイブルは、気の短い者はすぐにけんかを始め、冷静な人はその場をうまくおさめます。と訳しています。

 憤りやすい者(口語訳、聖書協会共同訳)、激しやすい者or人(2017、新共同訳)、怒りやすい人(フランシスコ会訳)、気の短い者(リビングバイブル)と訳されているヘブライ語原語は、「イーシュ」(人)・「ヘーマー」(原義は、「熱、熱くなる、興奮する」等の意で、怒り、憤り、怒る、腹を立てる、毒、有害なもの、毒を入れる、(人の心などを)毒するor害する等の意で用いられます。)

 「イーシュ」という語は、創世記223に、人〔ここの原語は「アーダーム」(筆者挿入)〕は言った。「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」(新共同訳)と出て来るので有名です。

 怒り易い人を眺めると、怒り易い人は、イーシュに限らず、イシャーにも多いですね。
怒り、憤りは、激しさを増すと戦争にまで行きつくのですから恐ろしいものです。
個人的な怒りは、殺人にまで行きつきます。
聖書に記されている最初の殺人事件は、人祖アダムの長男のカインが弟のアベルを殺した事件です(創世記48)。

 カインは、人からではなく、ヤハウェ(主)から、「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(創世記46.7・新共同訳)と言われたのですが、ヤハウェ(主)から直接言われても、カインは怒りを収めることが出来ず、弟のアベルを殺したのです。

 イエス様は、怒りと殺人の関係について次のように教えてくださいました。
20 わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。
21
昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
22
しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。〔ゲヘナとは、ヒノムの谷のことで、火の池の象徴です。英語では、Hellの意です。(筆者挿入)〕
23
ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、24 ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。
25
あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。
26
まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。」(マタイ5章・2017)と記されています。

 イエス様のこの御言葉を読むと、人類全体がこの件だけでも有罪であるとされるのではないでしょうか。
人に対して、外面的には怒りを発していなくても、心の中で怒っていたら同じ裁きを受けるのです(マタイ527.28参照)。
もう大変です。命がいくつあっても足りません。
 イエス様は、全人類の、この罪も、身代わりに負ってくださり十字架上で罰を受けてくださったのです。
全人類の罪は怒りの罪だけではありません。あれもこれもとたくさんあります。
その罪を全部、イエス様はその身に負って十字架にかかられたのです。
私たちの罪が赦されるために。

 そのことを思うとき、ゲッセマネの祈りも状況がよくわかります。
マタイ2636-44には次のように記されています。
“36
それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
37
そして、ペテロとゼベダイの子二人〔ヨハネとヤコブ(筆者挿入)〕を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
38
そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
39
それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
40
それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。
41
誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
42
イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。
43
イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。
44
イエスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。2017)とあります。

 イエス様を信じても、人を赦せないと、父なる神様にそっぽを向かれることがあります。御父と良き交わりを持つことができなくなるのです。
人を赦せない、という根底には、怒りがあるのではないでしょうか。
怒りは大いなる損失です。
イエス様は、いわゆる「主の祈り」を教えられた後、続けて、「14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」(マタイ6章・2017)と語られました。

 カインの例を見ても、怒りを収めることは難しいことです。
しかし、主が心をきよめてくだされば可能です。
救われてはいても、御父に祈りを聞いて頂けている、という確信が来ないのは辛いことです。
それを考えたら、何でも赦せます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
いつもあなたとの交わりを豊かに持ち続けることができますよう、常に心を整えていてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年7月15日 (金)

主の目は主を畏れる者の上に注がれる

 詩篇3316-18には次のように記されています。
“16
王は大軍によって救われるのではなく、勇士は大いなる力によって助かるのではない。
17
馬は救いの役には立たず、大いなる軍勢も人の助けにはならない。
18
見よ、主の目は主を畏れる者の上に注がれ、その慈しみを望む者の上にある。(フランシスコ会訳)とあります。

 詩篇33篇はダビデの詩篇です。
ダビデは、ここに記されていることを体験してきた人です。

 近頃は、テニスボールほどの雹が降ることがあります。
神ヤハウェ(主)は、ヨシュア率いるイスラエル軍に加勢した時に、雹の攻撃をしたことがあります。
 ヨシュア10章には次のように記されています。
“5
アモリ人の五人の王、すなわちエルサレム、ヘブロン、ヤルムト、ラキシュ、エグロンの王たちとその全軍勢は連合して攻め上り、ギブオンに向かって陣を敷き、戦いを仕掛けた。
6
ギブオンの人々はギルガルの陣営にいるヨシュアに人を遣わして、こう告げた。
「あなたの僕から手を引かず、早く上って来て、わたしたちを救い、助けてください。山地に住むアモリ人のすべての王たちがわたしたちに向かって集結しています。」
7
ヨシュアは兵士全員、すべての勇士を率いてギルガルから出陣した。
8
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はヨシュアに言われた。
「彼らを恐れてはならない。わたしは既に彼らをあなたの手に渡した。あなたの行く手に立ちはだかる者は一人もいない。」
9
ヨシュアはギルガルから夜通し軍を進め、彼らを急襲した。
10
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はイスラエルの前で彼らを混乱に陥れられたので、ヨシュアはギブオンで敵に大打撃を与え、更に彼らを追ってベト・ホロンの坂道を登り、アゼカ、マケダまで彼らを追撃した。
11
彼らがイスラエルの前から敗走し、ベト・ホロンの下り坂にさしかかったとき、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は天から大石〔雹のこと(筆者挿入)〕を降らせた。それはアゼカまで続いたので、雹に打たれて死んだ者はイスラエルの人々が剣で殺した者よりも多かった。(新共同訳)とあります。

 ダビデがまだ王になる前のこと、サウル王は執拗にダビデの命を狙いました。サウルの軍勢の方がダビデ軍よりもずっと多かったのです。
 1サムエル2325-2914には次のように記されています。
25 サウルとその部下はダビデを捜しに出て行った。
このことがダビデに知らされたので、彼は岩場に下り、マオンの荒野にとどまった。
サウルはこれを聞き、マオンの荒野でダビデを追った。26 サウルは山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山のもう一方の側を進んだ。
ダビデは急いでサウルから逃れようとした。
サウルとその部下が、ダビデとその部下を捕らえようと迫って来たとき、27 一人の使者がサウルのもとに来て、
「急いで来てください。ペリシテ人がこの国に襲いかかって来ました」と言った。
28
サウルはダビデを追うのをやめて帰り、ペリシテ人の方に向かった。こういうわけで、この場所は「仕切りの岩山」と呼ばれた。
29
ダビデはそこから上って行って、エン・ゲディの要害に住んだ。/
14
ダビデは、荒野にある要害に宿ったり、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウルは、毎日ダビデを追い続けたが、神はダビデをサウルの手に渡されなかった。”(2017

 
サマリアを攻撃するために出てきたアラムの軍隊に対して神の人エリシャの祈りを主が用いられたときの一例が次のように記されています。
“15
神の人〔エリシャ(筆者挿入)〕の召使いが、朝早く起きて外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。
若者がエリシャに、「ああ、ご主人様。どうしたらよいのでしょう」と言った。
16
すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。
17
そして、エリシャは祈って主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に願った。
「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車〔天の軍勢。ヘブル114参照(筆者挿入)〕がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
18
アラム人がエリシャに向かって下って来たとき、彼は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に祈って言った。
「どうか、この民を打って目をくらませてください。」
そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って目をくらまされた。
19
エリシャは彼らに言った。
「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってあげよう。」
こうして、彼らをサマリアへ連れて行った。
20
彼らがサマリアに着くと、エリシャは言った。
「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が彼らの目を開き、彼らが見ると、なんと、自分たちはサマリアの真ん中に来ていた。
21
イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。
「私が打ち殺しましょうか。私が打ち殺しましょうか。わが父よ。」
22
エリシャは言った。
「打ち殺してはなりません。あなたは、捕虜にした者を自分の剣と弓で打ち殺しますか。彼らにパンと水を与え、食べたり飲んだりさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」
23
そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らが食べたり飲んだりした後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それ以来、アラムの略奪隊は二度とイスラエルの地に侵入しなかった。2017)とあります。

 主を信じるキリスト者に対しては次のように記されています。
“18
自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。
19
愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。
20
次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」〔リビングバイブルは、これに続けて、「つまり彼は、あなたにしてきたことを思って、恥じ入るようになるのです。」と解説を加えています。(筆者挿入)〕
21
悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12章・2017)とあります。

 パウロがローマ1220に引用した箴言2521.22には次のように記されています。
“21
あなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。22 なぜなら、あなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになり、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに報いてくださるからだ。2017)と。

 旧約聖書には、イスラエルの敵の方が圧倒的に強かったのに、ヤハウェ(主)を信じる者の祈りを聞かれて、ヤハウェ(主)に救い出された例がいくつも記されています。次々と例を挙げると長くなるのでこれ以上の旧約聖書箇所を記すことは止めておきます。
新約時代にもキリスト者が天使に助けられた話は数多くあります。
また一方、キリスト者の場合ですが、主が、キリスト者の体を助けないで、主が霊魂を天に引き上げてしまい、キリストの空中再臨の時に、霊の体を与えてくださる、というありようの人もいます。
 聖歌の中に、「主が私の手を取ってくださいます」{聖歌651番(聖歌総合版211の歌詞はこれから記すのとは翻訳が異なります)}という詩の3節に、「いつまで歩くか、どこまで行くのか、主がその御旨を為し給うままです。」とありますが、地上生涯を決めてくださるのは主です{伝道者の書(コヘレトの言葉)32}。上記の3節の続きは、「優しい主の手にすべてを任せて、旅ができるとは、何たる恵みでしょう。」と折り返し部分が続いています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
「いつまで歩くか、どこまで行くのか、主がその御旨を為し給うままです。」とあるように、私たちには、自分の地上生涯の長さが分かりませんが、「優しい主の手にすべてを任せて、旅ができるとは、何たる恵みでしょう。」とあるように、あなたとともに歩ませて頂ける恵みを心から感謝します。
常に天に思いを馳せながらも、地上生活を11日主と共に堅実に歩ませて頂けますように。
限りなく愛してくださる私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年7月14日 (木)

大きな集団の統治の仕方

 出エジプト1813-27には次のように記されています。
“13
翌日、モーセは民をさばくために座に着いた。民は朝から夕方までモーセの周りに立っていた。
14
モーセのしゅうと〔イテロ(筆者挿入)〕は、モーセが民のためにしているすべてのことを見て、こう言った。
「あなたが民にしているこのことは、いったい何ですか。なぜ、あなた一人だけがさばきの座に着き、民はみな朝から夕方まであなたの周りに立っているのですか。」
15
モーセはしゅうとに答えた。
「民は神のみこころを求めて、私のところに来るのです。16 彼らは、何か事があると、私のところに来ます。私は双方の間をさばいて、神の掟とおしえを知らせるのです。」
17
すると、モーセのしゅうとは言った。
「あなたがしていることは良くありません。18 あなたも、あなたとともにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことは、あなたにとって荷が重すぎるからです。あなたはそれを一人ではできません。
19
さあ、私の言うことを聞きなさい。あなたに助言しましょう。どうか神があなたとともにいてくださるように。あなたは神の前で民の代わりとなり、様々な事件をあなたが神のところに持って行くようにしなさい
20
あなたは掟とおしえをもって彼らに警告し、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを知らせなさい
21
あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人たち、不正の利を憎む誠実な人たちを見つけ、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として民の上に立てなさい22 いつもは彼らが民をさばくのです。大きな事件のときは、すべてあなたのところに持って来させ、小さな事件はみな、彼らにさばかせて、あなたの重荷を軽くしなさい。こうして彼らはあなたとともに重荷を負うのです
23
もし、あなたがこのことを行い、神があなたにそのように命じるなら、あなたも立ち続けることができ、この民もみな、平安のうちに自分のところに帰ることができるでしょう。」
24
モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて彼が言ったとおりにした。
25
モーセはイスラエル全体の中から力のある人たちを選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上にかしらとして任じた。
26
いつもは彼らが民をさばき、難しい事件はモーセのところに持って来たが、小さな事件はみな彼ら自身でさばいた。
27
それからモーセはしゅうとを送り出した。しゅうとは自分の国へ帰って行った。2017)とあります。

 13.15.16節には、“13 ・・、モーセは民をさばくために座に着いた。民は朝から夕方までモーセの周りに立っていた。/15 ・・・。「民は神のみこころを求めて、私〔モーセ(筆者挿入)〕のところに来るのです。16 彼らは、何か事があると、私のところに来ます。私は双方の間をさばいて、神の掟とおしえを知らせるのです。」と記されています。

 どうやらイテロの助言を受け入れる前のモーセは、イスラエルの民の間の問題ごとを処理するために、大変な労力を費やしていたようです。
出エジプトしてから2年目の第二の月の、イスラエルの民の成人男子の人口調査では、20歳以上の男子だけで、603,550人{(ただしレビ族を除外)民数記1章}という人達がいたのです。ほぼ同数の女性と、さらに子どもたちを加えると2,000,000人位いたのではないかとよく言われます。
その人たちが荒野でキャンプしながら過ごしているのです。
色々な問題も起きたことでしょう。
人のありようは十人十色なのですから。

 このままでは、80歳を超えたモーセの体がもたない、とイテロは思ったのでしょう。
イテロは良き助言をしました。
イテロの助言は、現代の組織では当たり前のことですが、これは今から三千数百年前のことです。

 イテロの助言は多くのことを教えてくれています。箇条書きにすると次のようになります。
1.上に立たされている神の人は、神の前で民の代わりとなり、様々な事件を神のところに持って行く、という働きをすること(19)。・・・新約においては、キリスト者一人一人が祭司です(1ペテロ29)から直接如何なる事柄も神様にお話しし(ヘブル416)、お答えを頂くことができます(詩篇5015、マタイ77.8)。キリスト者は、更に他のキリスト者に祈って頂くこともできるのです。極め付きは、聖霊もキリスト・イエス様も祈ってくださるということです(ローマ826.34)。
2.生き方の指針、生活の指針、行動の指針、etc.(旧約ではいわゆる「律法」)を先ず教えることが大切であるということ(20)。・・・このことはヤハウェ(主)ご自身が行ってくださいました(出エジプト19章以降)。日本のキリスト者は、一人一人が聖書を持っています。
3.モーセに代わって、イスラエルの民を裁くところの千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長には、神を恐れる、力のある人たち、不正の利を憎む誠実な人たちを任命すること。・・・新約の時代には、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを選ぶこと(使徒63)となっていきます。更に1テモテ31-12、テトス16-9も参考になります。
4.千人の長でも裁けないような問題の場合にはモーセが裁けばよいということ(22)。
などです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
トップに立たされる人、その下に立たされる人々はみな大変な重荷を負いますが、イエス様ご自身が、「私のくびきは負いやすく、私の荷は軽い。」と仰ってくださいますから感謝します。
荷が軽い、と思えるためには、イエス様に歩調を合わせる必要があることを覚えます。
いつも主と共に歩む歩みを一人一人がすることができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年7月13日 (水)

十二使徒1/ペテロ

 マタイ102-4には次のように記されています。
“2
十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、3 ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、4 熱心党のシモンと、イエスを裏切ったイスカリオテのユダである。2017)とあります。

 <ペテロについて>
 ペテロの信仰告白の場面を下記します。マタイ1613-17に次のように記されています。
“13
さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
14
彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」
15
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16
シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」〔シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。(新共同訳)〕
17
すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。2017)とあります。

 イエス様が、バルヨナ・シモン(17)をペテロと命名したのです。
「バル」の意味は、「息子」です。バルヨナ・シモンは、ヨナの子のシモンということです。
シモン・ペテロの父ヨナは、ヨハネとも呼ばれていました。
ヨハネ142には、そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ・・『岩』という意味・・〔(言い換えれば、ペテロ){2017}〕と呼ぶことにする」と言われた。(新共同訳)と記されています。
また、シモンという名前ですが、本当はシメオンといったのでしょう。
2
ペテロ11に、イエス・キリストの僕(しもべ)であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。(新共同訳)と記されています。(新改訳は、シモン・ペテロと訳しています。)
また、使徒15章のエルサレム会議の席上での会話をよく読むと、ペテロ(157)のことをシメオン(1514)とヤコブが言っています。

 シモンをイエス様のもとに連れて行ったのはバプテスマのヨハネの弟子であった兄弟のアンデレでした。その経緯についてはヨハネ129-42に記されています。
アンデレは、シモンに、「私たちはメシアに会った。」(ヨハネ141)と言ったのです。

 シモンとアンデレの、弟子としての召命の場面が、共観福音書に記されていますが、その中のマルコ116-18には次のように記されています。
“16
イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
17
イエスは彼らに言われた。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
18
すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。2017)とあります。
この時、シモンは妻帯者であったのです(マルコ1301コリント95)。

 弟子となったシモン・ペテロが使徒として召されたのは、その後のことで、マタイ101-4、マルコ313-19、ルカ612-16に記されています。

 ペテロは、イエス様の預言通り、自己保存本能に打ち勝てず、恐怖から、「イエスを知らない」と言ったこともありましたが、イエス様は、そのことが起こる前、すなわちペテロが、「イエスを知らない」と言う、という預言をする前に、ペテロの信仰が無くならないように、と祈ったのです。
 ルカの福音書22章には次のように記されています。
“31
シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。
32
しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
33
シモンはイエスに言った。「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
34
しかし、イエスは言われた。「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」/
54
彼らはイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペテロは遠く離れてついて行った。
55
人々が中庭の真ん中に火をたいて、座り込んでいたので、ペテロも中に交じって腰を下ろした。
56
すると、ある召使いの女が、明かりの近くに座っているペテロを目にし、じっと見つめて言った。「この人も、イエスと一緒にいました。」
57
しかし、ペテロはそれを否定して、「いや、私はその人を知らない」と言った。
58
しばらくして、ほかの男が彼を見て言った。「あなたも彼らの仲間だ。」しかし、ペテロは「いや、違う」と言った。
59
それから一時間ほどたつと、また別の男が強く主張した。「確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。」
60
しかしペテロは、「あなたの言っていることは分からない」と言った。するとすぐ、彼がまだ話しているうちに、鶏が鳴いた。
61
主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。
62
そして、外に出て行って、激しく泣いた。2017)とあります。

 イエス・キリスト様を信じる信仰が保たれているのは、自分の故ではなく主の憐れみ、恵みの故であるということがよく分かります。信仰は賜物なのです(エペソ28)。
私自身も、信仰は恵みである、信仰は神様からのギフト(賜物)であるということを経験しています。
ただ、ただ、主に感謝あるのみです。

 ペンテコステの日にペテロは、使徒の中心人物として福音説教をしました(使徒2章)。そして、ときには好ましくない行動もありましたが(ガラテヤ211-14)、殉教する日まで、使徒として走り続けたのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
ペテロの情熱、ペテロの純粋さに学ぶところが多くあることを覚えます。
また、それ以上に、主の愛の豊かさを教えられます。
あなたの御愛の中で生かされていることを覚え、感謝し、御名をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年7月12日 (火)

主の内にある愛と平安なる歩み

 箴言1516.17には次のように記されています。
“16
わずかな物を持って主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れる〔「畏れる」(新共同訳)〕ことは、豊かな財宝を持って混乱するよりも良い。
17
野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。2017)とあります。

 16.17節をリビングバイブルは次のように訳しています。
“16
財産があるばかりにあれこれ気を使うより、貧しくとも主を信じて生きるほうが幸せです。
17
憎む者といっしょにごとそうを食べるより、愛する人と質素な食事をする方が幸せです。とあります。

 このような状態は、一人の人が両方を体験するか、それぞれの人たちのありようを見ることができるところに置かれて観察させていただければ、本当にその通りだなー、と思えるでしょう。

 多くの人は、財産を豊かに持っている人を羨みますが、財産を豊かに持っている人の周りには、その財産のいくらかでも自分のものにしようとする人たちが群がるのです。財産を豊かに持っている人は、奪われまいとして心を煩わせるという場合が多いのです。それを超越しているような財産家もいるでしょうが。

 この箇所では、豊かさと貧しさが対比して記されていますが、この二か節の中で最も重要な箇所は、「ヤハウェ(主)を畏れる」という箇所です。「おそれる」と言っても恐怖を覚えるのではなく、私たちを愛してくださっておられるヤハウェ(主)を愛し、畏れ敬い、主に従う生き方、即ち主を愛する愛に基づく敬虔な生き方です。ヤハウェ(主)は神の称号ですから、三位一体の神です。

 今日の聖句から少し離れますが、主を愛し、主を畏れ敬う人が豊かな人であった場合はどうなのでしょうか。
実は、その人に与えられている豊かさを構成しているものも、その人自身も主のものなのです。
 旧約聖書の中には次のような記述があります。
申命記1014には、見よ。天と、もろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のものである。2017)と記され、
詩篇241には、地とそこに満ちているもの、世界とその中に住んでいるもの、それは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のもの。2017)と記され、
詩篇50篇には、“「7 「聞け、わが民よ。わたしは語ろう。イスラエルよ、わたしはあなたを戒めよう。わたしは神、あなたの神である。・・・。12 ・・。世界とそれに満ちるものはわたしのものだ。”(2017)と記されています。
 新約聖書の中には次のような記述があります。
1
コリント1026bには、地とそこに満ちているものは、主のものだからです。2017)と記され、
極めつけは、コロサイ116に、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。(新共同訳)と記されています。

 キリスト者も御子のために存在しています。携挙後には、天にいる存在者は誰でもキリスト者の総体{エクレシア(教会)}がキリストの花嫁であることを知るのです(エペソ531.32、黙示録197.8)。
永遠である新天新地の時代においては、すべての人がキリストの花嫁が誰であるのかを知るでしょう(黙示録219.10)。

 話を少し前に戻します。
敬虔でありつつも、とても豊かなキリスト者がいたとします。
その人は、この世的に言えば、自分が所有している財産は、神ヤハウェ(主)のものであり、ヤハウェ(主)が命じる用い方、またヤハウェ(主)が良しとする範囲内での生活の仕方をすることでしょう。もしそのようにしないとヤハウェ(主)からの平安はなくなります。

 この世において、貧しかろうが、豊かであろうが、丁度良いものを与えられていようが、大切なことは「主を愛し、主にあって生きる」ということになります。 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
どの様な環境、状況に置かれようが、主を愛し、主に信頼し、主に従う歩みをし続けて行くことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年7月11日 (月)

主はきよめ主

 詩篇3312,15には次のように記されています。
12
節には、幸いな者。主を神とする国民。主がご自分のものとして選んだ民。(聖書協会共同訳)とあり、
15
節には、主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。(新改訳第三版)とあります。

 12節と15節を続けて読み、15節の「彼ら」の箇所に「主を神とする国民」、「主がご自分のものとして選んだ民」の文言を代入するとともに、キリスト者用に書き換えると、
「主は、主を神とする天に国籍を持つ民の心をそれぞれみな造り、主がご自分のものとして選んだ民のわざのすべてを読み取る方。」となります。

 「心」と訳されている語のヘブライ語原語は「レブ」で、(肉体の器官の)心臓を指すとともに、知性、感情、意志の意でも用いられます。

 人が生まれながらに心臓を持っていることは、一定の年齢以上であればだれでも知っていることでしょう。
また、知性、感情、意志を所有していることも理解できます。
イエス様を信じて新生させていただいた人でなくても、人は生まれながらに知性、感情、意志を働かせています。
聖書では、新生前のその働きを「肉の働き」と表現しています。
新生前ですから、主なる神様を度外視したところの知性、感情、意志です。
 新生させていただけたのは「霊」です。
ヨハネ33,6には次のように記されています。
“3
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに〔原語は「アノーセン」で、上から、新たに、再び、の意(筆者挿入)〕生まれなければ、神の国を見ることはできない。」/6 「肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。」”(新共同訳)とあります。

 生まれながらの人は、肉の両親の遺伝子を基にして生まれてきました。正しく、「肉から生まれたものは肉です。」とイエス様が言われたことです。

 しかし、主であり救い主であられるキリスト・イエス様を信じた者即ち心にお迎えした者は、新たに&上から、神の霊から生まれたのです。

 新生した人の心は、霊の影響を受けて、知性、感情、意志の持ち方が変わっていきます。即ち心が変えられていくのです。

 肉的な心の状態と霊的な心の状態について述べられている聖書箇所にヤコブ313-18の次の聖句があります。
“13
あなたがたのうちで、知恵があり、分別のある人はだれでしょうか。その人はその知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。
14
しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりするのはやめなさい。
15
そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。
16
ねたみや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。
17
しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。
18
義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。2017)と記されています。

 たましいの機能と心の機能は、等しいものとして用いられる場合もあれば、近似しているものとして用いられる場合もあるように思います。

 脳科学者で、霊や魂を信じていない人は、心は大脳の内にあると考えているようです。その人たちにとっては、私のような者は、おかしい人、ということになるでしょう。

 個々のキリスト者の心は、新生し、主と一つとされた霊(1コリント617)の支配の下に生きている人から、新生されてもほとんど生まれながらのたましいのありようで生きている人まで、というように幅の広いものです。

 いずれにしても、主は、新生した者の魂を救われました。
1
ペテロ18.9には、“8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。9 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。2017)と記されています。

 たましいは、救われたらそれでおしまいというわけではなく、きよめられていく必要があるのです。
 1ペテロ122には、あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。”(2017)と記されています。
 ローマ122には、“この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。”(2017)と記されています。
 2コリント318には、わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです(新共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの子どもとしてふさわしく魂を聖く造り変え、常に内におられる主が働きやすいようにしてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
“23
平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。24 あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。1テサロニケ5章・2017

2022年7月10日 (日)

ミディアンの祭司イテロがヤハウェ(主)を信じる

 出エジプト181-12には次のように記されています。
“1
さて、モーセのしゅうと、ミディアンの祭司イテロは、神がモーセと御民イスラエルのためになさったすべてのこと、どのようにして主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がイスラエルをエジプトから導き出されたかを聞いた。
2
それでモーセのしゅうとイテロは、先に送り返されていたモーセの妻ツィポラと3 彼女の二人の息子を連れて行った。
その一人の名はゲルショムで、「私は異国にいる寄留者だ」という意味である。
4
もう一人の名はエリエゼルで、「私の父の神は私の助けであり、ファラオの剣から私を救い出された」という意味である。
5
こうしてモーセのしゅうとイテロは、モーセの息子と妻と一緒に、荒野にいるモーセのところにやって来た。彼はそこの神の山に宿営していた。
6
イテロはモーセに伝えた。「あなたのしゅうとである私イテロが、あなたの妻とその二人の息子と一緒に、あなたのところに来ています。」
7
モーセはしゅうとを迎えに出て行き、身をかがめ、彼に口づけした。彼らは互いに安否を問い、天幕に入った。
8
モーセはしゅうとに、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がイスラエルのために、ファラオとエジプトになさったすべてのこと、道中で自分たちに降りかかったすべての困難、そして主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が彼らを救い出された次第を語った。
9
イテロは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がイスラエルのためにしてくださったすべての良いこと、とりわけ、エジプト人の手から救い出してくださったことを喜んだ。
10
イテロは言った。
「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がほめたたえられますように。主はあなたがたをエジプト人の手とファラオの手から救い出し、この民をエジプトの支配から救い出されました。11 今、私は、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があらゆる神々にまさって偉大であることを知りました。彼らがこの民に対して不遜にふるまったことの結末によって。」
12
モーセのしゅうとイテロは、神への全焼のささげ物といけにえを携えて来たので、アロンとイスラエルのすべての長老たちは、モーセのしゅうととともに神の前で食事をしようとやって来た。2017)とあります。

 1節に、“・・、モーセのしゅうと、ミディアンの祭司イテロ”とあります。
イテロは、ヘブライ語では、「卓越」という意味があります。
「ミディアンの祭司」とありますが、ミディアンは、アブラハムの子どもでした。
創世記25章に次のように記されています。
“1
アブラハムは、再び妻を迎えた。その名はケトラといった。
2
彼女はアブラハムに、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアハを産んだ。/4 ミディアンの子は、エファ、エフェル、ハノク、アビダ、エルダアで、これらはみな、ケトラの子であった。
5
アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。
6
しかし、側女たち〔ハガルとケトラ(筆者挿入)〕の子には贈り物を与え、自分が生きている間に、彼らを東の方、東方の国に行かせて、自分の子イサクから遠ざけた。2017)とあります。

 イテロはモーセのしゅうと(義父)であると記されています。
イテロには、別の名前もあり、家族の中では、レウエルと呼ばれていたようです(出エジプト218)。

 
イテロは、ミディアンの祭司、と記されています。
イテロがどの神の祭司であったのかについては記されていません。
イテロがアブラハムの子孫であるとすると、ヤハウェ(主)の名を知っていた可能性は十分にあると思います。

 ヤハウェ(主)がイスラエルを救うために行った御業をモーセから聞いたイテロは、ヤハウェ(主)が、「あらゆる神々にまさって偉大であることを知りました。」(11)、と証し、ヤハウェ(主)に“全焼のささげ物といけにえを携えて来た”のです(12)。
即ちヤハウェ(主)を礼拝したのです。
イテロは、「彼らがこの民〔イスラエル(筆者挿入)〕に対して不遜にふるまったことの結末によって。」(11)とも語っていますが、イテロがヤハウェ(主)を信じるために、またイテロに限らずヤハウェ(主)を信じる者たちに対して、ヤハウェ(主)が、頑なな者(例えば、出エジプト時のファラオ)をより頑なにするという行為は、頑なな者に対する神ヤハウェ(主)の裁きであったのみならず、人々に対して、まことの神は誰なのかということを悟り易くなさる行為であったのだと思います。

 キリスト者は、キリストの贖いの御業を証しし続けるものです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたに対して反抗的な態度、かたくなな態度をとり続けると、自分の身に裁きをもたらすことを覚えます。
反対に、あなたに対して素直であるとたくさんの祝福を頂けますことを感謝します。
常にあなたをそして主イエス様を愛し、信頼し、主の導きに従って歩み続けることができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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