日ごとの恵みⅦ

2023年4月11日 (火)

詩篇65:10-14 主なる神の恵みによって豊かな祝福を受ける

 詩篇6510-14には次のように記されています。
10 あなた〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は地を訪れてこれを潤し、大いに豊かにします。神の水路は水をたたえ、あなたは穀物を備えます。あなたがそのように整えたのです。
11
 畝を潤し、土をならし、豊かな雨を注いで柔らかにし、萌え出でたものを祝福してくださいます。
12
 あなたは恵みを年の冠とされます。あなたの過ぎ行かれる跡には油が滴っています。
13
 荒れ野の原にも滴り、どの丘も喜びをまとい、14 牧場は羊の群れをまとい、谷は穀物に覆われています。辺り一面、喜びの叫びを上げ歌声を響かせています。”(聖書協会共同訳)とあります。
(口語訳、新改訳等は、9-13節になります。)

 神ヤハウェ(主)と神の国イスラエルとの祝福と呪いの契約関係の中の祝福の契約の契約条件と祝福の内容は、申命記281-14に記されている次のようなものでした。
1 もしあなたがあなたの神、主の声に必ず聞き従い、今日私が命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを、地上のすべての国民の上に高く上げてくださる。
2
 あなたがあなたの神、主の声に聞き従うとき、これらすべての祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶ。
3
 あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。
4
 あなたの胎から生まれた子も、土地の実りも、家畜の産むもの、牛の子も羊の子も祝福される。
5
 あなたの籠もこね鉢も祝福される。
6
 あなたは入るときも祝福され、出るときも祝福される。
7
 主はあなたに立ち向かう敵をあなたの前で打ち負かされる。彼らは一つの道から攻めて来るが、あなたの前から七つの道へ逃げて行く。
8
 主はあなたのために、あなたの穀物倉とあなたの手の業に祝福を定められ、あなたの神、主があなたに与えられた地であなたを祝福される。
9
 あなたがあなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むとき、主はあなたに誓われたとおり、あなたを聖なる民として立てられる。
10
 地のすべての民は、あなたが主の名で呼ばれるのを見て、あなたを恐れる。
11
 主は、あなたに与えると先祖に誓われた土地で、あなたの胎から生まれた子、家畜の産むもの、土地の実りを豊かにされる。
12
 主は恵みの倉である天を開いて、あなたの地に季節に応じて雨を降らせ、あなたの手の業すべてを祝福される。あなたは多くの国民に貸すようになるが、借りることはない。
13
 私が今日守り行うように命じる、あなたの神、主の戒めに聞き従うとき、主はあなたを頭として、尾とすることはない。あなたは常に上にあって、 下になることはない。
14
 あなたは、今日私が命じるすべての言葉から右にも左にもそれてはならず、他の神々に従って、これに仕えてはならない。”(聖書協会共同訳)とあります。

 今日の聖書個所の、詩篇6510-14は、地上の神の国イスラエルにおいては、主に従い、主が命じられた御言葉を守ったことに対する祝福の結果が記されています。

 キリストの千年王国時代は、キリストが王の王として統治する時代であり、約千年の間というものは、地上の民は、王の王であるキリストに従うのです。
それ故、地の民は祝福を受けます。
その観点からは、詩篇6510-14は、預言のようでもあります。

 キリストの千年王国時代の預言として記されていると思われる個所の中から次の二つをあげておきます。
 イザヤ35章には、
1 荒れ野と乾いた地は喜び、砂漠は歓喜の声を上げ、野ばらのように花開く。
2
 花は咲き溢れ、大いに喜びの歌声を上げる。レバノンの栄光とカルメルとシャロンの輝きが砂漠に与えられる。人々は主の栄光と私たちの神の輝きを見る。/
4
 ・・・神は来られ、あなたがたを救う。
5
 その時、見えない人の目は開けられ、聞こえない人の耳は開かれる。
6
 その時、歩けない人は鹿のように跳びはね、口の利けない人の舌は歓声を上げる。荒れ野に水が、砂漠にも流れが湧き出る。
7
 熱した砂地は池となり、干上がった土地は水の湧く所となる。ジャッカルが伏していた所は、葦やパピルスが茂る所となる。
8
 そこには大路が敷かれ、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者がそこを通ることはない。それは、その道を行く者たちのものであり、愚かな者が迷い込むことはない。9 そこに獅子はおらず、飢えた獣は上がって来ず、これを見かけることもない。贖われた者たちだけがそこを歩む。
10
 主に贖い出された者たちが帰って来る。歓声を上げながらシオンに入る。その頭上にとこしえの喜びを戴きつつ。喜びと楽しみが彼らに追いつき、悲しみと呻きは逃げ去る。”(聖書協会共同訳)とあります。
この預言は、キリストの千年王国時代の最初の頃に成就すると思います。

 またイザヤ6519-25には次のように記されています。
19 私〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はエルサレムを喜びとし、私の民を楽しみとする。そこに再び、泣き声や叫び声が聞かれることはない。
20
 そこにはもはや、数日の命の乳飲み子も、自らの寿命を満たさない老人もいなくなる。百歳で死ぬ人は若者とされ、百歳にならないで死ぬ者は呪われた者とされる。
21
 彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。
22
 彼らが建てて別の人が住むことはなく、彼らが植えて別の人が食べることもない。私の民の一生は木の一生のようになり、私が選んだ人々は自分たちの手の業を享受する。
23
 彼らは無駄に労することもなく、産んだ子を災いにさらすこともない。彼らは、主に祝福された者の子孫となり、その末裔も彼らと共にいる。
24
 彼らが呼ぶより先に、私は応え、彼らがまだ語っている間に、私は聞き届ける。
25
 狼と小羊は共に草を食み、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、私の聖なる山のどこにおいても、これらは危害を加えることも、滅ぼすこともない。――主は言われる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 詩篇6510-14を、新約(新契約)時代の恵みによる心の祝福等の観点から、聖句の単語に加筆や置換をして書いてみたいと思います。
10 あなた、すなわちヤハウェは、キリスト者の心に訪れて、これを潤し、大いに豊かにします(ヨハネ1010の後半部分参照)。神との交わりは御言葉をたたえ、あなたは霊の穀物である御言葉を備えます。あなたがそのように整えたのです。
11
 心を潤し、心をならし、豊かに聖霊を注いで心を柔らかにし、萌え出でたものすなわち御霊の実を豊かにつけてくださいます。

12 あなたは恵みを年の冠とされます。あなたの過ぎ行かれた跡には油が滴っています、すなわち、聖霊の働きが豊かであったことがわかります。
13
 荒れた心も聖霊によって満たされ、どの心の部分も喜びをまとい、14 主の牧場には、多くの主の羊の群れがおり、主の羊たちの心の暗かった部分も御言葉や霊の実で充実しています。心は満たされ、喜びの叫びを上げ歌声を響かせています。」
「 」内は、著者の霊的解釈の一例であり、聖句ではありません。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたの恵みを感謝します。
今日もヘセドによってお取り扱いくださり、シャロームを与えてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
ヘブライ語の「ヘセド」の意味:親切、善意、愛顧、善行、慈悲、恵み、等の意があります。
ヘブライ語の「シャローム」の意味:安心な、幸福な(幸せな)、友好的な、幸福、繁栄、平和、平安、・・・等々の意があります。

2022年9月11日 (日)

贖いの日/イエス・キリストによる贖い

 レビ16章には「贖いの日」(「大贖罪日」とも言います)の規定が記されています。
「贖いの日」のヘブライ語原語は2語で、「ヨム キプール」です。

 余談になりますが、第4次中東戦争を、ヨム・キプール戦争とも言います。
エジプト、シリア両軍が、1973 106日の贖いの日に、イスラエルに攻撃を仕掛けて始まった戦争です。
日本においては、この時のオイルショックで、店頭からトイレットペーパーが無くなりました。

 話を元に戻します。
新約的には、イエス・キリスト様が贖いを成就してくださいました。

 聖書辞典は、「贖い」について次のように述べています。
あがない 贖い 〈ギ〉アポリュトゥローシス。贖いということばの聖書的概念は、ただ単に救出するという一般的な概念ではなく、買い取る、あるいは、身の代金を払って身受けするという概念である。このことは、マタイ2028,マルコ1045においてはっきり示されている。
 身受けするということは、ある種の束縛あるいは捕われの状態が前提になっており、その状態からの解放を意味している。

 聖書では、キリストによってなされた贖いを、特に次の2つの面から見ている。

 1律法からの贖い
これは、道徳律法そのものからの贖いのことではない。キリストによって贖われた者は、心を尽して神を愛し、自分を愛するように隣人を愛せよという、その律法を守る義務から解放されているわけではない。
それは、
 (1律法ののろいからの贖いである。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」(ガラテヤ313)。
律法ののろいとは、律法違反の罪に対する律法による刑罰的制裁のことである。
 「罪から来る報酬は死です」(ローマ623)。
この贖いのために支払われた身の代金は、キリストが私たちの身代りにのろわれたものとなられ、十字架において永遠の死の刑罰を受けられたことである。

 (2儀式律法の束縛からの贖いである
「定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです」(ガラテヤ445)。
ここで語られている律法とは、神がアブラハムと契約を結ばれた後430年たってから、モーセの手で定められた律法のことで(ガラテヤ317,19)、それは旧約の神の民をキリストへ導くための後見人的養育係としての働きをするものである(ガラテヤ324,42)。
「律法の下にある者を贖い出す」というのは、儀式律法の後見人的束縛からの贖いのことであり、「子としての身分を受ける」というのは、そのような贖いと特権にあずかることである。この贖いのためにキリストが支払われた身の代金は、御子であるにもかかわらず儀式律法のもとにあるものとなられ、儀式律法が予表していた目的を御自身において成就したことである〔コロサイ216,17(筆者挿入)〕。それによって、福音時代にあっては、子としての身分を受けるのに、イスラエルが服従を余儀なくされていた後見人による訓練を受けることは要求されず、異邦人までも救われるのである。「信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって〔あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって(2017)〕、神の子どもです」(ガラテヤ32526)。

 (3行いの律法からの贖いである
すなわち、神の御前で義と認められ、神に受け入れられるための条件としての律法遵守の要求からの解放である。
人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」(ガラテヤ216)。
この贖いのためにキリストが支払われた身の代金は、律法の完全遵守による完全な従順である1ペテロ222-24(筆者挿入)〕。
「ひとりの人(アダム)の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとり(キリスト)の従順によって多くの人が義人とされるのです」(ローマ519)。
その従順とは、律法の義の要求をすべて満たされた能動的従順と呼ばれてきたものと、十字架において律法の刑罰的要求を完全に満たされた受動的従順と呼ばれてきたものとの、2つの面を持つ従順であった。

 2罪からの贖い
聖書はまた、キリストによる贖いを罪と直接関係づけて語っている。この場合、罪の持つ2つの面から考慮されなければならない。
 
1罪責からの贖い
これは、義認また罪の赦しをもたらす贖いである。
「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(ローマ324)。
この贖いのための身の代金は、キリストの血である。「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです」(エペソ17)。

 (2罪の力からの贖い
キリストが信じる者のために死なれただけでなく、信じる者もキリストにあって、罪に対して死に、神に生きるために、キリストにあってよみがえらされたと教えている(ローマ6111)。
神の民に罪の支配からの解放を保証するのは、信者はキリストと共に死に、キリストと共によみがえらされたというこの事実である。
これがまた、聖化の過程の基盤となっているのである。
「あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです」(ローマ61314)。
また罪の力からの贖いは、悪霊の支配からの贖いとして表現されている。「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました」(コロサイ215)。(松田一男)とあります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<上記文章に関する御言葉の補遺>
 (マルコ1045)「人の子〔は(筆者挿入)〕、・・・、多くの人の贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(2017
 (コロサイ216.17・・、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。(新共同訳)
 (1ペテロ222-24キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。・・・。2017

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
聖なるあなたの義と御愛のご計画に基づき、御子イエス・キリスト様が贖いを成就してくださいましたことを感謝します。
そして、個々人の救いの時に、聖霊様が、「イエスは主です。」と明らかにし、信仰を持たせてくださいましたことを感謝します。
主を愛し、主に信頼し、主に従い続け、主を賛美し続ける歩みをしていく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年9月10日 (土)

信仰の敵対者に「キリストを信じているのか」と聞かれてもしっかりと信仰を告白しましょう

 マタイ1028-33には次のように記されています。
“28
からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。
29
二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。
30
あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。
31
ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。
32
ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
33
しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。2017)とあります。

 28-31節は既に、9/5,6の日にアップしてありますので今日は飛ばします。

 イエス様は、「だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。」(マタイ1032.332017)と語られました。
  
同じような内容ですが、ルカの福音書128.9には次のように記されています。
「だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、神の御使いたちの前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。」(2017)とあります。

 使徒たちは、イエス様が捕縛されるとき、皆逃げてしまいました(マタイ2631)。
イスカリオテのユダは、イエス様を銀貨30枚で、大祭司たちに居場所を密告し、かつイエスを捕縛することに協力しました(マタイ2614-1647-50)。
ペテロは、「あなたは、あのイエスの弟子だ。」というような内容のことを、3度、違う人や人達から言われた時に、その都度、「イエスを知らない。」と答えたのでした(マタイ2669-74)。
3
回目のときには、ペテロは、「そんな人は知らない。うそなら呪われても良い。」(マタイ2674)とまで言ってしまったのです。

 この時のペテロは、まだ聖霊に満たされてはいませんでした。それどころか、この時には臆病の霊に満たされていたのでしょう。

 12弟子が聖霊に満たされたのはペンテコステの日でした(使徒24)。弟子たちが聖霊を受けたのはキリスト・イエス様がご復活された日の夕方のことでした(ヨハネ2022)。

 イエス様が捕縛されるとき、弟子たちが逃げたのは、聖霊を受ける前のことでした(マタイ2631)。但し、イエス様が十字架上におられた時、ヨハネ〔「愛する弟子」(ヨハネ1926)〕は十字架の近くにいました(ヨハネ1925-27)。

 ペンテコステの後の弟子たちは、とても勇敢になりました。ヨハネを除き、使徒たちは殉教したようです(伝承)が、ヨハネをも含め、主を証しして地上生涯を全うしていきました。

 だれかに、「イエス・キリストを信じているの」と聞かれた時、キリスト者であれば、「イエス・キリストを信じているよ。」と答えることでしょう。
神によって救われた人は、そのように答えられるようになるのです。
それは聖霊を与えられているからです。
1
コリント123には、「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」(2017)と記されています。

 キリスト者が与えられたのは臆病の霊ではなく、力と愛と自制(躾けor鍛錬or修養or健全な思い)の霊を与えられたのです(2テモテ17)。

 2テモテ17を、
2017
は、神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。と訳し、
新共同訳は、神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。と訳し、
塚本訳は、神が私達に与え給うた恩恵は臆病の霊でなく、能力と愛と節制の霊であるから。と訳し、
聖書協会共同訳は、神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。と訳しています。

「慎み(2017)、「思慮分別」(新共同訳)、「節制」(塚本訳)、「思慮」(聖書協会共同訳)と訳されている語のギリシア語原語は「ソーフロニスモス」で、原義は、しつけ、鍛錬、修養で、自制、健康な心(心の中の「思い」の分野)すなわち健全な思慮分別、等の意があります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
臆病の霊ではなく聖霊を与えてくださいましたことを感謝します。
いかなる状況下においても、「イエス・キリストを信じているのか?」と聞かれたら、「信じています。」と答える者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。」(黙示録2102017

2022年9月 9日 (金)

親切な言葉は蜂蜜

 箴言1624を、
新改訳2017は、
親切なことばは蜂蜜。たましいに甘く、骨を健やかにする。と訳し、
フランシスコ会訳は、
心地よい言葉は蜂蜜のよう、舌に甘く、体を健やかにする。と訳し、
口語訳は、
ここちよい言葉は蜂蜜のように、魂に甘く、からだを健やかにする。と訳しています。

 直訳すると、「心地よい言葉は蜂蜜。魂に甘く、骨の治療薬。」となります。
誰にでも分かり易い訳だと私が思うのは、口語訳の、ここちよい言葉は蜂蜜のように、魂に甘く、からだを健やかにする。ということになるのではないかと思います。
リビングバイブルは、親切なことばは、はち蜜のように甘く、人を元気づけます。と訳しています。

 「親切な」(2017、リビングバイブル)、「心地よい」(フランシスコ会訳、口語訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ノーアム」で、原義は、「心地よさ」で、その他、喜ばせる、適正、素晴らしさ、輝き、優しさ、礼儀正しさ、美しさ、愉快、楽しい、等の意があります。

 確かに心地よい言葉は、蜂蜜のように甘いですね。

 「魂に甘く」と訳されている語のヘブライ語原語は2単語で、「マートーク ネフェシュ」で、「マートーク」は、甘い。「ネフェシュ」は魂です。
「ネフェシュ」の原義は、呼吸している(被造物)の意で、動物、生命力、魂、・・等の意があります。

 「ネフェシュ」についての話になりますが、
イザヤ269には次の様に記されています。
「私のたましいは、夜にあなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。」(2017)とあります。
この文で、「たましい」と訳されている語のヘブライ語原語は「ネフェシュ」です。
また、「霊」と訳されている語のヘブライ語原語は「ルーアハ」です。
 ヨブ711には、ヨブの言葉として、次のように記されています。
ですから、私も自分の口を制することをせず、霊の苦しみの中で語り、たましいの苦悩の中で嘆きます。2017)とあります。
この文も、「たましい」と訳されている語のヘブライ語原語は「ネフェシュ」です。
また、「霊」と訳されている語のヘブライ語原語は「ルーアハ」です。

 「骨を健やかにする」(2017)、「体を健やかにする」(フランシスコ会訳、口語訳)と訳されている語のヘブライ語原語は2単語で、「骨」(2017)、「体」(フランシスコ会訳、口語訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「エツェム」で、原義は「骨」で、体、実体、同一の、等の意があります。

 人が与えてくれる「心地よい言葉」の中には、言葉通りに心地よい言葉もあれば、お世辞の場合もありますし、皮肉の場合もあります。
人が良いことを言ってくれるときには、サタンに注意しなければならないこともあります。
サタンは、そのような言葉を利用して、人を高慢の罪に陥れることがあるからです。

 しかし主が語ってくださる心地よいお言葉、優しいお言葉、喜ばせてくださるお言葉は、実にありがたいものです。魂に甘く、体を元気にさせてくださいます。
主は、決してうそをつかない(1ペテロ222)ので安心して聞くことができます。
主が偽りを言わないから、というだけではありません。神である主の御言葉には力があるのです(ヘブル412)。神である主が語られた御言葉は成就するのです(イザヤ5511)。それは、神の近くで仕えている天使ガブリエルも次のように証言しています。「それ神の言(ことば)〔ギリシア語原語は「レーマ」(筆者挿入)〕には能(あた)はぬ所なし」(ルカ137・文語訳)と。

 私たちキリスト者も、内に住まわれるイエス様が、いつも私たちの口を通して語り出してくださったら良いですね。そのためにも、何時も魂が聖い状態でありますように。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの御言葉は生きていて力がありますから感謝します。
私たちは、物質的な食物だけではなく、あなたの口から出る一つ一つの御言葉によって生かされていますから感謝します。
日々、あなたの御言葉によって、力づけられ、支えられ、知恵を与えられ、安らぎを与えられ、希望を与えられ、導かれ、喜びを与えられつつ歩むことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日々の歩みは日々に明るく、肩の重荷は次第に軽い。輝く太陽涙乾かし、仰ぐ空には虹の架け橋。明日は私にはわからないけど、明日を守られるイェスがおられる。(明日を守られるイェス様の2節)

2022年9月 8日 (木)

主の恵みと主の豊かさを味わわせていただく私たち(証し)

 詩篇367.8を、
新改訳2017は、“7 神よ〔エロヒーム(筆者挿入)〕、あなたの恵みはなんと尊いことでしょう。人〔原語は「アーダーム」(筆者挿入)〕の子らは御翼の陰に身を避けます。8 彼らはあなたの家の豊かさに満たされあなたは楽しみの流れで潤してくださいます。”と訳し、
 同じ箇所を聖書協会共同訳は、
“8
 神よ、あなたの慈しみはなんと貴いことでしょう。人の子らはあなたの翼の陰に逃れます。9 彼らはあなたの家の豊かさによって満ち足り、あなたの喜びの川に渇きを癒やします。と訳しています。

 毎回書いていますが、詩の表題を1節として独立させるかさせないかで、その後の節が聖書によって異なります。

 「恵み」(2017)、「慈しみ」(聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ヘセド」で、原義は「親切」で、恵み、慈しみ、の意があります。

 自分の成り立ちを知り、自分というものが、創造主にして主権者なる神に対して、如何に罪深く、また弱き存在であるのか、また、創造主にして主権者なる神が、如何程の能力を持っておられるのか、その上、そのお方が自分を贖ってくださった御方でもあられる、ということを実感しないと、神の恵み深さor慈しみ深さを体験することができない、という様なタイプの人もいれば、そうではなく、単純に創造主なる神様を信じてしまう人、また、困ったときにその神様に頼って神様の恵み深さを体験したという人も存在します。
更には、クリスチャンホームの子どもの中には、気がついたらイエス様を信じており、確かに救われているというような人もいます。

 話は変わりますが、大天使ヘイレル(英語ではルシファー)は、神のみそばで神に仕えながら、自分が神のようになりたくて神に対して反逆したのです。それ故、ヘイレル(英語ではルシファー)は、(ヘ)「サーターン」、日本では「サタン」(「敵対者」)、悪魔と呼ばれるようになりました。
サタンについて知ると、神を見たり、神の御声を聞いたり、神についての知識を持っている、というだけでは、神を愛し、神に従う、とはならないことがわかります。

 現代の日本では、ほとんどの人が進化論を信じ、神が創造者であられるということを信じることができません。
かつての私がそうでした。
進化論を堅く信じている者が、聖書を開いて、最初の文を読むと、何とそこには、はじめに神が天と地を創造された。(創世記112017)と記されているのですから、その人にとって、それ以降の文章は、もう信じるに値しないものになってしまうのです。
しかし、人によっては、その創造物語は神話で荒唐無稽だけれども、聖書には良いことも書いてある、と捉える人もいるでしょう。

 私が、聖書の神こそ、創造者である、と信じることができたのは、神様の御介入があったからであり、まさしく恵みであったのです。
私が、イエス様を信じれば救われる、と信じることができたのも、主なる神様の御介入があったからでした。主に、そのように語られたからです。そして、それが腑に落ちるというか、主が臨まれたとたんに平安が来たからでした。
聖歌560番(聖歌総合版584番)の2節の歌詞に、
この安きを受けし時に雨雲ははれたり、・・・とありますが、この経験をしたのです。
自助努力をもってしては如何ともなしえなかった能力なき人間である私を救ってくださった主なる神様は、一瞬にして事を行ったのです。
くどいようですが、主なる神様の恵み以外の何ものでもないのです。

 イエス・キリスト様が地上におられたとき、多くのユダヤ人は、イエス様が神の御子であり、救い主であり、主である、とは信じることができませんでした。
イエス様が怠慢であったからではありません。
イエス様は、次のような御言葉を残しています。
「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。」(ルカ13342017)と記されています。

 7節の後半部分に、人〔原語は「アーダーム」(筆者挿入)〕の子らは御翼の陰に身を避けます。2017)とあります。
私の霊は、神からのものです(ヨハネ36)。
しかし、肉体は、アダム由来のものです。
霊は、主と交われば一つ霊となりますし、たましいは救われて滅びることがありませんから安心できますが、肉体は弱いのです。中には、自分の肉体は強いと思っている人もいますが、かの力道山でさえ、あっけなく殺されました。

 現在の私の肉体は、主の支えがなければ、もうダメかな、と思える時はしょっちゅうあります。
それ故、パウロがイエス様から語られた、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(2コリント129抜粋・2017)という御言葉や、聖歌292番(聖歌総合版273番)の2節の歌詞が身に沁みます。
そこには、“か弱き者をもかえりみたもう 我が主の恵みはこの身に足れり ・・・・、主の手にすがりて喜び進まん。”とあります。

 余談になりますが、ヘブライ語の「人」という語の中に、「エノーシュ」という単語があります。アダムからノアに至る系図の中に、アダム、セツ、エノシュ、・・・・、ノア、と出て来ます(創世記56-11)。
「エノーシュ」は、「(死すべきor死ぬ運命にある)人間」の意です。
この状態に置かれていることは、日々、主の御翼の影に身を避けるしかない状態を作ってくれます。
ですから、弱いことも恵みです。

 かくして、“7 神よ、あなたの恵みはなんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。8 彼らはあなたの家の豊かさに満たされ、あなたは楽しみの流れで潤してくださいます。”(2017)という御言葉はそのまま私のものでもあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの恵みによって、私は今の私になりました。
そして、日々、あなたの恵みによって生かされています。
本当は地上にいるよりも天上にいる方が良いのですが、周囲の状況の故でしょうか、あるいは、私が携挙を体験してみたいと思っているからでしょうか、日々あなたは、極めて弱い肉体を支えてくださっておられますからありがとうございます。
ニュースには流れませんが、中東は非常にきな臭くなっています。
あなたから離れているあなたの子どもたちが、あなたのもとへと戻って来ますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年9月 7日 (水)

食べても良いものと食べてはいけないもの/聖くないものを心に留まらせない

 レビ記11章には、食べてよい生き物と食べてはいけない生き物の一覧が記されています。
神様は、神の民に対して、食物規定を与えました。
これは神に対する従順の訓練と聖い動物の食物の反芻行為、民の健康上のことなどを考えてのこと、etc.が考えられますが、新約的観点からはまた別のことをも教えられます。
聖い動物の反芻行為を用いて、神の民が、みことばを幾度も幾度も読み、心に留めることを教えようとしたのでしょう。

 マルコ714-23には、イエス様の教えが次のように記されています。
“14
イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。
「みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。15 外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」16 (本節欠如)〔(底本に節が欠落 異本訳) 聞く耳のある者は聞きなさい。(新共同訳)〕
17
イエスが群衆を離れて家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。
18
イエスは彼らに言われた。
「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分からないのですか。外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。19 それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」
こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた
20
イエスはまた言われた。
人から出て来るもの、それが人を汚すのです21 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、22 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、23 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」2017)とあります。

 エペソ51-8には次のように記されています。
“1
ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい
2
また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。
3
あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪りも、口にすることさえしてはいけません。
4
また、わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。これらは、ふさわしくありません。むしろ、口にすべきは感謝のことばです。
5
このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。
6
だれにも空しいことばでだまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順の子ら〔神に従わない者たち(筆者挿入)〕に下るのです。
7
ですから、彼らの仲間になってはいけません。
8
あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。2017)とあります。

 現代は、テレビでもネットでも雑誌でも、汚れたもので一杯です。
それらを摂取しないようにしようと思っても私たちの目に耳に入って来ます。
私たち新生させていただいたキリスト者の霊は、神から生まれたものですから聖いものです(ヨハネ3.3.61ペテロ131ヨハネ39518)。そしてその霊は、主と交われば主と一つの霊となるのです(1コリント617)。
私たちの魂は救われましたが目下、きよくされていく途上にあります(1ペテロ18.91ペテロ1221ペテロ114)。
私たちの体は、主が、永遠的な改造肉体にしてくださるというのではなく、地上の肉体とは別離させていただいて霊の体、すなわち天上にふさわしい体にしてくださるのです。それは神のラッパが吹かれるキリストの空中再臨の時に起こります(1コリント1550-521テサロニケ416.17)。

 私たちキリスト者に対して、地上にいる間も、世の光、地の塩であると、イエス様は語られました(マタイ513.14)。
しかし、肉の内には未だ罪を犯させようとする何か(単数形の罪or罪の性質)が住み着いているのです(ローマ720)。そうでありながらも罪に対しては死に(断絶し)、主の霊によって歩むことによって、主が望んでおられる歩みをすることができるのです(ガラテヤ524.25)。

 ガラテヤ524.25には次のように記されています。
“24
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。25 私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。2017)とあります。
この箇所を聖書協会共同訳は、
“24
 キリスト・イエスに属する者は、肉を情欲と欲望と共に十字架につけたのです。25 私たちは霊によって生きているのですから、霊によってまた進もうではありませんか。と訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
この世の言葉は、汚れた言葉が多いですが、それを心に留めることなく、霊の人としてあなたの霊に従った歩みをしていくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「主はガリラヤ湖の」(聖歌580、聖歌総合版616)という聖歌の3節に、主のおことばとして次の様な歌詞があります。
「罪の世にありて 罪に穢れず うれいを慰め、疲れを癒し、ながそばに在りて常に勝たしむ 命の道なる我に従え」
これに対する応答の賛美として、聖歌総合版617の折り返しは、「いずくまでも行かん、いずくまでも行かん、いずくまでも行かん、愛する主の後を」とあります。

2022年9月 6日 (火)

恐れるべきお方は、たましいに対して全権を持っておられる父なる神様/物質界と実在の世界2

 マタイ1028-31には次のように記されています。
“28
からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。
29
二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。
30
あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。
31
ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。2017)とあります。

 人間は人間の体を殺せます。それは誰でもわかることです。
しかし、人を構成しているような物質とは異なるたましいを、人は殺すことができません。
たましいや霊といった科学的に証明することの出来ないものを一切信じないという考え方の人たちも多くいます。
人の精神活動をすべて脳の働きと考える人達です。唯脳論者といわれる人たちです。
救われる以前の私も、人については唯物論者でした。
脳のある部分を刺激すれば、ある反応が起こり、他の部分を刺激すれば別の反応が起こる、ということは実際にあることです。
脳は肉体の一部です。
この世の方法をもって、霊やたましいを検出する方法がないのですから、霊やたましいの存在を信じることができなくてもそれは当然のことであると思えます。

 しかし、聖書は、明確に霊とたましいの存在を記しています。
ですから、聖書を信じることの出来る人(聖書を信じることが出来るようにさせていただいた人)は、霊もたましいも信じることができるでしょう。
私が聖書を信じたことの理由の一つに、聖書の預言が当たっている、ということにありました。
未来のことを正確に言い当てることは、脳の働きでは無理だと考えたからです。
脳は、過去の出来事や現在の出来事を基にして、未来に起こるであろうということを推測することは出来るでしょうが、その推測が当たる確率は100%というわけにはいきません。

 しかし聖書は、預言者について次のように述べています。
“18
わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる。
19
わたしの名によって彼が告げる、わたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしはその人に責任を問う。
20
ただし、預言者であっても、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする者がいるなら、その預言者は死ななければならない。」
21
あなたが心の中で、「私たちは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が語られたのではないことばを、どのようにして知ることができるだろうか」と言うような場合、
22
預言者が主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼におびえることはない。(申命記18章・2017)と記されています。

 私が聖書を信じた理由の一つに聖書の預言の成就がある、と前述しましたが、私が聖書の神、創造者なる神を信じることが出来るようになったのは、私に神の関与があったからです。

 少し話が飛びますが、先日、NHKの放送の中で、「メタバース」に関連する放送がありました。
メタバースとは、meta(超越した)とuniverse(世界)の合成語で、インターネット上に構築される仮想の三次元空間だそうです。

私は、メタバースの放送を見ているうちに、聖書に記されているまことの神に属する世界こそ実在的メタバースと言ってもいいのではないかと思えました。

 霊の世界はあります。
まことの神に属する霊の世界、
被造物である天使として造られたにも拘らず、神に反逆して悪魔悪霊と呼ばれるようになった元天使の霊たちの世界(と言ってもまことの神ヤハウェ(主)が許可している間のことだけですが)、
また、新生したキリスト者の霊は、神から生まれた霊です(ヨハネ33.6・口語訳、新共同訳)から、その霊はまことの神に属する世界にいます。その霊は、キリストと一つとされている霊でもあります(1コリント617)。新生した者のたましいは救われています(1ペテロ18.9)。キリストを主としキリストに従うたましいはきよい歩みをしているたましいです(1ペテロ122)。

 これからの時代を仮想世界で生きるのか、霊的な現実世界で生きるのか、ということを人は問われているのでしょう。サタン(悪魔)は、この世の終わりに The反(偽)キリストを立て、メタバースも利用してくることでしょう。もっとも、主の現れを待ち望んでいるキリスト者は反(偽)キリストが現れたときには、地上にはおらず天にいますが。

 キリストの千年王国が始まる前には、天変地異が起こります。
私たち人間の想像を絶する規模です。温暖化とは何の関係もありません。
黙示録1617には次のように記されています。
“17
第七の御使いが鉢の中身を空中に注いだ。すると大きな声が神殿の中から、御座から出て、「事は成就した」と言った。
18
そして稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、大きな地震が起こった。これは人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの、大きな強い地震であった。
19
あの大きな都は三つの部分に裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。神は大バビロンを忘れず、ご自分の激しい憤りのぶどう酒の杯を与えられた。
20
島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。〔島々は消え去り、山々は平地に変わりました。(リビングバイブル)〕
21
また、一タラント〔約34㎏(筆者挿入)〕ほどの大きな雹が、天から人々の上に降った。この雹の災害のために、人々は神を冒涜した。その災害が非常に激しかったからである。2017)とあります。

 キリストの千年王国が終わると、地球をはじめ宇宙は消滅します(2ペテロ37.10、黙示録211b)。
その後、まことの神様は、新天新地を創造なさるのです(イザヤ6517、黙示録211a)。
余談になりますが、最後の審判は、地球が消滅した後のことです(黙示録2011-15)。

 キリスト者は、体を殺されることがあっても、霊とたましいはまことの神の世界において永遠です。

 パウロの祈りに次のようなものがあります。
23 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。24 あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」(1テサロニケ5章・新共同訳)とあります。
{「主イエス・キリストの来られるとき」には、体は霊の体にしていただけます(1ヨハネ321コリント1549,52)。}

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
新生させて頂けた者は永遠に続くまことの神に属する霊の世界に既に生かされておりますことを感謝します。
肉体に囚われ過ぎることなく、いつもあなたの世界の中で生きる者であらせてください。
この世の旅路は、あなたが、「そこまででよい」と仰ってくださったときには終わることを覚えますが、私たちの本体である霊は肉の体から解放されて、常に御父と御子を仰ぎ見ながら生活することが出来るようになりますから感謝します。
キリストと一つ霊とされた霊による歩み、霊の人としての歩みを歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年9月 5日 (月)

恐れるべきお方は、いのちに対して全権を持っておられる父なる神様1

 マタイ1028-31には次のように記されています。
“28
からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。
29
二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。
30
あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。
31
ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。2017)とあります。

 雀が死ぬ場合、それは父なる神の許可があるからです。
人の生死も御父が握っておられます。
 コヘレトの言葉(伝道者の書)31,2a,11aに次のような聖句があります。
2017
は、
“1
すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。
2
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。・・・・。
11
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。・・・・。と訳し、
新共同訳は、
“1
何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
2
生まれる時、死ぬ時、・・・。
11
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。・・・。と訳し、
聖書協会共同訳は、
“1
天の下では、すべてに時機があり、すべての出来事に時がある。
2
生まれるに時があり、死ぬに時がある。・・・。
11
神はすべてを時に適って麗しく造り永遠を人の心に与えた
リビングバイブルは、
“1
何事にも定まった時があります。・・・。
2
生まれる時、死ぬ時、
11
あらゆることには、ふさわしい時というものがあります。また神は、人間の心に永遠を思う思いを与えました。・・・。と訳しています。

 11節に、「神のなさること」(2017)、「神は造り」(新共同訳、聖書協会共同訳)という訳語の違いが出て来ます。
「する(do)」(2017)、「造る(make)」(新共同訳、聖書協会共同訳)と異なって訳されている語のヘブライ語原語は「アーサー」で、両方の意味を持っているのです。

 11節に、「神は・・また、永遠を思う心を人に与えられる。」(新共同訳)、
「また神は、人間の心に永遠を思う思いを与えました。」(リビングバイブル)、
「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(新改訳初版、第二版)、
「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」(新改訳第三版、新改訳2017)、
「神は・・・永遠を人の心に与えた。」(聖書協会共同訳)と訳された聖句があります。
直訳すると新改訳2017のようになるのですが、心に永遠が与えられるためには、イエス様を信じる必要があります。
この箇所の「人」と訳されている語の人は、「アダム」でも「イーシュ」でも「エノーシュ」でもありません。
{「アダム」は(土から造られた)「人」、「イーシュ」は(赤みのある即ち血が流れている)「人」、「エノーシュ」は(死を免れない)「人」の意です。}
この箇所の「人」と訳された語は、レブ(心)についた「彼ら」という接尾辞です。

 現実を考慮した場合、
イエス様を信じていない人をも含めると、「神はまた、彼らの心の中に永遠〔という概念(筆者挿入)〕を与えられた。」即ち、「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(新改訳初版)のような訳になるでしょうし、主キリスト・イエス様を心に受け入れた人にとっては、「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」(新改訳第三版)の訳のようになるだろうと思います。

 さて、今日の本題は、マタイ1028-31です。
しかし、私がこのブログを書くのに与えられている時間が来ましたので、この続きは明日とします。

2022年9月 4日 (日)

説得力と命の泉

 箴言1621-23について考察します。
21
節を、2017は、心に知恵のある者は、悟りのある者と呼ばれ、そのことばの心地よさは理解を増し加える。”と訳し、
新共同訳は、心に知恵ある人は聡明な人と呼ばれる。優しく語る唇は説得力を増す。”と訳し、
聖書協会共同訳は、心に知恵ある人は分別ある人と呼ばれ、優しく語る唇は説得力が加わる。”と訳し、
リビングバイブルは、知恵のある人は聡明な人と呼ばれ、人に好かれる最高の教師です。と訳しています。

 ヘブライ語聖書をみると上記のいずれのようにも訳せることがわかります。
知恵があり、優しく語ってくれる話し方をする人の言葉は、安心してor落ち着いて聞くことが出来るので、理解を増し加えることができますね。まさしくそのような人の語る言葉は説得力があります。

 22節を、
2017
は、賢明さは、これを持つ者にはいのちの泉。愚かさは、愚か者への懲らしめ。”と訳し、
新共同訳は、見識ある人にはその見識が命の泉となる。無知な者には無知が諭しとなる。”と訳し、
聖書協会共同訳は、見識ある人にはその見識が命の泉となり、無知な者にはその無知が懲らしめとなる。”と訳しています。

 前半部分について、これもヘブライ語聖書をみると、いずれのようにも訳せると思います。
箴言8章の「知恵」は、キリストを暗示して用いているように思える箇所があります。
箴言1622の「見識」、「賢明さ」と訳されている語のヘブライ語原語は「セケル」です。
箴言8章の方の「知恵」と訳されている語のヘブライ語原語は「ホクマー」です。
「セケル」にも「ホクマー」にもwisdom”(「知恵」)の意があります。

 この聖句の前半部分を、「その人の主人が知恵である人は、知恵すなわちキリスト・イエス様がいのちの泉である。」と捉えることも可能であると私には思えました。
これを持つ者2017)と訳されている語のヘブライ語を、より直訳的に訳すと、「これを主人とする者」となると思います。

 後半部分の「懲らしめ」(2017、聖書協会共同訳)、「諭し」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ムーサール」で、懲らしめ、せっかん、警告、譴責、戒め、叱責、非難、指示、命令、・・等の意があります。

この節の後半部分を、リビングバイブルは、愚か者は愚かさのために苦しみます。と訳しています。
 表現が悪いかもしれませんが、新約時代の最高の愚か者とは、イエス様を心に受け入れない人です。
なぜなら、罪に定められ、最後の審判で大変なことになるからです(黙示録2015)。
ヨハネ318には、御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。(新共同訳、聖書協会共同訳)と記されています。
 まだ、キリスト・イエス様を信じていない人は、地上に生がある間に、キリスト・イエス様を自分の救い主&主、と信じてくださいますように。キリスト・イエス様を心にお迎えしてくださいますようお願いします。

 
イエス様を心にお迎えすると、イエス様がいのちの泉になってくださいます。

 23節を、
2017
は、
知恵のある者の心はその口を賢くし、その唇に洞察を深める。と訳し、
新共同訳は、知恵ある心は口の言葉を成功させ、その唇に説得力を加える。と訳し、
聖書協会共同訳は、
知恵ある心はその口に悟りを与え、唇に説得力を加える。と訳しています。

 リビングバイブルは、知恵のある人のことばは的確で説得力があります。と意訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
「いのちの泉にましますイェスよ 豊かに流れて潤したまえ」という聖歌の歌詞がありますが、今日も主に潤されて歩ませて頂けますように。
主なる神様の豊かな恵みに感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「いのちの泉に」(聖歌総合版250、聖歌273

2022年9月 3日 (土)

主なる神の義、さばき、救い

 新改訳2017は、詩篇366を次のように記しています。
あなたの義は高くそびえる山。あなたのさばきは大いなる淵。主よあなたは人や獣を救ってくださいます。とあります。

 この箇所を、新改訳、口語訳、リビングバイブルは、6節としていますが、文語訳、新共同訳、フランシスコ会訳、聖書協会共同訳は、7節としています。

 直訳すると2017の訳のようですが、日本人に分かり易く訳すと、口語訳や新改訳第三版のように、
あなたのさばきは大いなる淵2017)の箇所を、主よ、あなたは人と獣とを救われる。(口語訳)
あなたの義は高くそびえる山〔原語は複数形(筆者挿入)〕のようで、あなたのさばきは深い海のようです。あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。主よ〔ヤハウェ(筆者挿入)〕。(新改訳第三版)となります。

 「義」と訳されている語のヘブライ語原語は「ツェダーカー」で、正確、適切、正義、公正、正しさ、正直、審判or公正な裁き、(道徳的に)美徳or徳、(比喩的に)繁栄、等の意に用いられます。

 「さばき」と訳されている語のヘブライ語原語は「ミシュパート」で、評決、判決、神の法律(律法)、・・・・等々の意があります。

 「淵」(2017、口語訳)、「深い海」(新改訳第三版)と訳されている語のヘブライ語原語は「テホーム」で、淵、深海、深いふち、底の知れない深い穴、深い底、混沌(こんとん)、地獄、奈落の底、等の意があります。

 あなたのさばきは大いなる淵2017)の箇所を、あなたのさばきは地獄、と訳してしまうと少し違うのかな、と思います。
パウロは次のような言葉を記しています。
「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。」(ローマ11332017)と。

 あなたのさばきは大いなる淵2017)の箇所を、「神のさばきは、知り尽くしがたい深みがある」、ということなのかもしれないし、「神の律法は知り尽くしがたい深みがある」と捉えることも出来るかも知れません。

 2017のあなたの義は高くそびえる山。あなたのさばきは大いなる淵。”の箇所を、
リビングバイブルは次のように意訳しています。
あなたの正義は神の山のように不動で、その判断は、満ち潮の海のように知恵であふれています。と。

 この節の最後の聖句について、
2017
は、主よ、あなたは人や獣を救ってくださいます。と訳し、
リビングバイブルは、神は人にも獣にも心をお配りになります。と訳し、
聖書協会共同訳は、主よ、あなたは人も獣も救ってくださいます。と訳し、
フランシスコ会訳は、あなたは人も獣も幸せにされます。主よと訳しています。

 「獣」と訳されている語のヘブライ語原語は「ベヘマー」で、獣、動物、畜牛、等の意があります。

 ローマ819-22には次のように記されています。
“19
被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。
20
被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。
21
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。
22
私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。2017)とあります。

 どうでもよい話ですが、我が家の犬は、食事のお祈りのときには、お祈りが終わるまで、横に座って静かにしています。また礼拝しているときにもおとなしく寝ています。
元来そのような性格ではないのですが。犬のためにも祈るので、何かを感じているのかも知れませんが。真実はどうなのかは分かりません。

 キリストの千年王国のときには、動物も幸せになれます。
イザヤ116-9には次のように記されています。
“6
狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。
7
雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。
8
乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。
9
わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。2017)とあります。
 また、イザヤ6525には次のように記されています。
狼と子羊はともに草をはみ、獅子は牛のように藁を食べ、蛇はちりを食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼすこともない。──主は言われる。2017)とあります。
 更に、ホセア218には次のように記されています。
その日、わたしは彼らのために、野の獣、空の鳥、地面を這うものと契約を結ぶ。わたしは弓と剣と戦いを地から絶やし、彼らを安らかに休ませる。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
御国が来ますように。
マラナタ
主イエス様の現れを待ち望んでいます。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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