日ごとの恵みⅨ

2022年12月20日 (火)

死を越えて私たちを導かれる主

 詩篇4815には次のように記されています。
“この方こそ神、代々とこしえに我らの神。神は、死を越えて〔別訳「永遠に」(欄外注)〕、私たちを導かれる。”(聖書協会共同訳)とあります。
(新改訳、口語訳、リビングバイブルは14節になります。)

 この箇所を、
文語訳は、そはこの神は、いや遠長(とおなが)にわれらの神にましましてわれらを死(しぬ)るまでみちびきたまはんと訳し、
リビングバイブルは、この偉大なお方は、いつまでも私たちの神でいてくださり、死ぬ時までずっと導いてくださいます。と訳しています。

 後半部分を、「神は、死を越えて私たちを導かれる。」と訳しているのは、最初に記した聖書協会共同訳の他に、新改訳2017、また、その意で訳したものに新共同訳があり、
「神は私たちをとこしえに導かれる。」と訳しているのは、新改訳初版~第三版で、
口語訳は、「とこしえにわれらを導かれるであろう。」と未完了形で訳してあります。

 未来形は、普通、起こるかも知れないし、起こらないかも知れない、というような意味合いで、「~であろう」と訳しますが、神の御言葉は、「必ず成るので」、ヘブライ語聖書の本文の未来のことは、未完了であると捉えるのです。そのような意味で、口語訳も「神は私たちをとこしえに導かれる。」と訳している部類に入れることができると思います。

 私たちの神は、永遠の神です。
 創世記2133には、アブラハムは、・・・永遠の神、ヤハウェ(主)の名によって祈った(名を呼んだ)。と記されています。
「永遠の神、ヤハウェ」の箇所のヘブライ語聖書は、ヤハウェ(主) エル(神) オーラーム(隠れたor永遠)となっています。
 イザヤ4028には、・・・ヤハウェ(主)は永遠の神・・・と記されています。
 ローマ信徒への手紙の1625-27には次の様なパウロの賛美があります。
“25
神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。26 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。27 この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(新共同訳)と記されています。

 私たちの神は、愛の神です。
エフェソ(エペソ)13-5には、“3わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、たたえられますように。神は、キリストに結ばれたわたしたちを天上のあらゆる霊的祝福をもって祝福してくださいました。
4
まさに神は、わたしたちがみ前で聖なるもの、非の打ち所のないものとなるように、世界創設以前から、キリストに結ばせることによってわたしたちを選び出してくださいました。それはわたしたちへの愛によるものです
5
神はみ旨の善しとするところに従って、わたしたちがイエス・キリストを通して、ご自分の子となるよう、あらかじめ定めておられたのです。(フランシスコ会訳)と記されています。

 詩篇4814or15)について、
文語訳は、そはこの神はいや遠長にわれらの神にましましてわれらを死(しぬ)るまでみちびきたまはん”と訳し、
リビングバイブルは、この偉大なお方は、いつまでも私たちの神でいてくださり、死ぬ時までずっと導いてくださいます。と訳していますが、「死ぬとき」まででは、余りにも残念です。
この箇所の「死を越えて」(聖書協会共同訳、2017)と訳されている中の「越えて」と訳された語のヘブライ語原語は「アル」でaboveの意があります(それ以外にも多くの意で用いられますが)。

 私たちの新生した霊は、既に永遠です。
イエス様は、「わたしは・・。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ1125)と語らたのです。
肉体は罪の故に死にます。あるいは、キリストの空中再臨の時まで地上に生きていれば、肉体は霊の体に変えられるのです。肉の体は地上のものであり、天上の体は霊の体です。

 霊の体を与えられ、天に帰った後も、主は、私たちを愛し続け、導き続けてくださるのです。
キリストの空中再臨前に天に帰った霊は、まだ霊の体は与えられていなくて、霊の状態でいます。天上のキリスト者の霊も霊の体を与えられるのはキリストの空中再臨の時であるからです。

 「イェスは我が命」という聖歌(聖歌608番、聖歌総合版653番)の4節には次の様な歌詞が記されています。
イェスはたれよりもまさる友ぞ 世にいくる限り我は頼らん 世を去りてのちもとこしえまでも 変わらぬ愛もて頼らんとあります。

 主は、この世においても、天においても、キリストの千年王国においても、永遠の新天新地においても愛をもって導いて下さる神です。
ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
実際には様々なところを通りますが、それをも含め、主は愛をもってとこしえに導き続けてくださる神ですから感謝します。
聖なる御名が崇められますように。
感謝して、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月19日 (月)

モーセの願いと主の対応

 申命記323-29には次のように記されています。
“23
私はそのとき、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に懇願して言った。
24
「神、主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕よ。あなたは、あなたの偉大さとあなたの力強い御手を、このしもべに示し始められました。あなたのわざ、あなたの力あるわざのようなことができる神が、天あるいは地にいるでしょうか。25 どうか私が渡って行って、ヨルダン川の向こう側にある良い地、あの良い山地、またレバノンを見られるようにしてください。」
26
しかし主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたがたのゆえに私に激しく怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私に言われた。
「もう十分だ。このことについて二度とわたしに語ってはならない。
27
ピスガの頂に登り、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたがこのヨルダン川を渡ることはないからだ。
28
ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。彼がこの民の先頭に立って渡って行き、あなたが見るあの地を彼らに受け継がせるからだ。」
29
こうして私たちは、ベテ・ペオルの前にある谷にとどまった。2017)とあります。

 23節に、私はそのとき、ヤハウェ(主)に懇願して言った。とありますが、この「その時」とは、民数記20章のメリバの水の事件です。
 メリバの水の事件に入る前に、
民数記201には、“イスラエルの全会衆は、第一の月にツィンの荒野に入った。民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死んで葬られた。”(2017)と記されています。
ここの第一の月は、出エジプトして40年目の第一の月でしょう。
モーセの姉のミリヤムは死んだのです。
そしてモーセの兄のアロンも出エジプトして40年目の早い時期に死んだのです。
民数記2022-26には次のように記されています。
“22
イスラエルの全会衆はカデシュを旅立ち、ホル山に着いた。
23
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、エドムの国境に近いホル山で、モーセとアロンにお告げになった。
24
「アロンは自分の民に加えられる。彼は、わたしがイスラエルの子らに与えた地に入ることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命に逆らったからである25 あなたはアロンと、その子エルアザルを連れてホル山に登れ。26 アロンの衣服を脱がせ、それをその子エルアザルに着せよ。アロンは自分の民に加えられ、そこで死ぬ。」2017)とあります。
ミリヤムとアロンの死亡年齢は120歳を超えていました。
(民数記1426-35参照:出エジプトした時に20歳以上であった人たちは、神への罪の故に、ヨシュアとカレブを残して皆荒野で死ぬのです。)

 モーセは、カナンの地に入りたかったのです。
しかしヤハウェ(主)はそれを許しませんでした。
それは、モーセが、ヤハウェ(主)の御命令を守らず、ヤハウェ(主)を「聖」としなかったからです。
 民数記201-12には次のように記されています。
“1
イスラエルの全会衆は、第一の月にツィンの荒野に入った。民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死んで葬られた。
2
そこには、会衆のための水がなかった。彼らは集まってモーセとアロンに逆らった。
民はモーセと争って言った。
「ああ、われわれの兄弟たちが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前で死んだとき、われわれも死んでいたらよかったのに。
4
なぜ、あなたがたは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の集会をこの荒野に引き入れ、われわれと、われわれの家畜をここで死なせようとするのか。
5
なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上り、このひどい場所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような場所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」
 6 モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入り口にやって来て、ひれ伏した。すると主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の栄光が彼らに現れた。
7
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセに告げられた。
8
「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」
9
そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前から杖を取った。
10
モーセとアロンは岩の前に集会を召集し、彼らに言った。
「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
11
モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
12
しかし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセとアロンに言われた。
あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」2017)とあります。

 主に信頼せず、主を聖としない罪が如何に重いものであるのかを思い知らされます。

 詩篇29篇には、
力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。聖なる装いをして主にひれ伏せ。1,2節・2017)と記されています。

 イスラエルの民の言動がどうであれ、モーセは、それに左右されてはならなかったのですが、感情的になり、かつ責任転嫁をしています。
モーセは、「しかし主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたがたのゆえに私に激しく怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。」(申命記3262017)と述べています。

 さて、モーセの処遇は、罪を罰せられて終わりではありませんでした。
ヤハウェ(主)は義なるお方であると共に愛なるお方です。
ヤハウェ(主)は、モーセにカナンの地を見させてくださったのです。
ヤハウェ(主)はモーセに、「ピスガの頂に登り、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。」(申命記3272017)と仰ってくださったのです。

 その後、ヤハウェ(主)は、モーセの後継者ヨシュアを力づけ、励ますように、とモーセに言われたのでした(申命記3282017)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
天使たちは、神様に、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と賛美をささげています。
私たちも聖なるあなたにいつも栄光を帰し、あなたを賛美しつつ歩み続ける者となさしめてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月18日 (日)

強風に波立湖面を歩かれた主イエス様

 マタイ1422-27には次のように記されています。
“22
それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。
23
群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。
24
舟はすでに陸から何スタディオン〔1スタディオンは約185m(筆者挿入)〕も離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。
25
夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。
26
イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。
27
イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。2017)とあります。

 23節には、群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。とあります。
この出来事の前には、5つのパンと2匹の魚を元に、男子5000人と女性たちと子どもたちを満腹させた記事が記されていました。その時の食事の時間は、夕方でした(マタイ1415)。
時間を留めない限り、23節の「夕方になっても」という記述はおかしいのではないかと思い、ギリシア語原語を調べたところ、「オプシオス」とあり、原義は「late、遅い」の意で、夕方、夜遅くまでの意もあります。KJV訳もNIV訳も“evening”( 日没から寝るまでの頃)と訳しています。
それ故、前の話の続きから考えると、夜遅くまで、イエス様は祈っていたのだと思います。25節には夜明けが近づいたころとありますし。

 さて、22.23節の内容からすると、主イエス様は、この時、群衆の熱気から身を退けたいという思いと、御父との交わりを豊かに持ちたいと願うような思いの中にあったのではないかと思います。
パンの奇跡の文章の最後の、マタイ1421には、「食べた者は、女と子どもを除いて男五千人ほどであった。」(2017)という文があり、そして、今日の箇所に続いているのですが、ヨハネの福音書では、マタイ1421に続く文が次のように記されています。
“14
人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。
15
イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。(ヨハネ6章・2017)とあります。

 イエス様は、朝早く一人で祈るのを日課としていたように思われます。
マルコ135には、朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。2017)と記されています。
しかし、パンの奇跡の後には、夕方から夜遅くまで一人になれるところで、一人で祈っていたのです。

 主との豊かな交わりを持つには一人に限ります。
イエス様は、「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ662017)とも語っておられます。
 地域教会等でもたれる祈祷会を否定しているのではありません。
イエス様は、「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において〔in my nameNIV)〕集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ1819,202017)とも語られました。

 24-27節の箇所は、ガリラヤ湖において、向かい風が強く(30節も考慮しています)、漁師たちが乗っていても、なかなか所定の岸迄船を到着させることができないような状況であった中、イエス様は湖上を船の方に歩いて行ったのです。

 人によってはその時の状況を読み過ごして、イエスは浅瀬を歩いたのだとか、足が沈む前に次の足を出したのだとか、奇跡を信じない人は、私たちキリスト者が考えもつかないような意見を言われます。
 イエス様は強風が吹いて波が高くなっている中を歩いておられたのです。
ガリラヤ湖を見た人は、浅瀬を歩いて、漕ぎあぐねている船の方に行ったなどとは、思いも及ばないでしょう。

 弟子たちも大変でした。
evening
に岸を出発し、夜明けが近づいたころ(25)、まだ目的の岸に到着することなく悪戦苦闘していたのです。即ち、ほぼ一晩中舟を漕(こ)いでいたのでしょう。

 中国の孔子(こうし)、インドの釈迦(しゃか)、ユダヤのイエス・キリスト、ギリシアのソクラテスを四聖(4人の偉大な思想家)と学校では教えることでしょう。
イエス・キリスト様を除いた他の3人は、この様な奇跡を行うことができたでしょうか。
数え切れないほどの奇跡を行った方、それがイエス・キリスト様です(ヨハネ2125)。

 主イエス・キリスト様は、神の一人子の御子なのです(マタイ317、ヨハネ114.183161ヨハネ49)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様をあなたのひとり子と信じさせて頂けていますことを感謝します。
如何なる境遇の中でも、主を愛し、主に信頼して歩み続けて行くことができますよう祝福してください。
イエス様のように、イエス様の御教えのように、主との交わりを誰かに邪魔されることなく日々持つことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月17日 (土)

「主を畏れるなら災いに会わない」。これは真実か?

 箴言1923を、
新改訳2017は、主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいにあわない。と訳し、
新共同訳は、主を畏れれば命を得る。満ち足りて眠りにつき、災難に襲われることはない。と訳し、
聖書協会共同訳は、主を畏れれば命に向かう。満ち足りて眠りに就き、災いに襲われることはない。と訳し、
口語訳は、主を恐れることは人を命に至らせ、常に飽き足りて、災にあうことはない。と訳し、
フランシスコ会訳は、主を畏れることは、命に至ること。満ち足りて憩い、災いに遭うことはない。と訳しています。

 ヘブライ語聖書のこの箇所を調べると、各単語の持っている意味の捉え方で、それぞれの日本語訳聖書のように訳せるように思います。

 私は、「主を畏れれば命に至り、満ち足りて住み、災いに遭わない。」と訳したいと思いました。

 今日のテーマは、主を畏れ敬って生活するという敬虔な歩みをしている人が、災いに遭うのはどうしてなのだろうか、ということです。

 イエス様は、十字架につかれる前に、「なんぢら世にありては患難あり」(ヨハネ1633・文語訳)と語られたのです。

 箴言1923の聖句の中の「主」と訳されている語のヘブライ語原語は「ヤハウェ」です。ヤハウェという名は神の呼称の一つです。
当たり前のことですが、御子も神です。ローマ95に、“キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。”(2017)と記されているように。
イエス様は、御父の言葉を語りました。「あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。」(ヨハネ14242017)と記されているとおりです。それ故、イエス様は、「神のことば」(黙示録1913)とも言われたのでしょう。

 主である神様は、箴言1923では、「主を畏れれば・・・・災いに遭わない」と語られ、
ヨハネ1633では、「なんぢら世にありては患難あり」と言われたのです。

 一見矛盾しているように感じますね。
箴言1923の「主を畏れれば命に至り、満ち足りて住み、災いに遭わない。」というのは、すべてが主の支配下にある場合に限定すれば成り立つ御言葉です。
人や霊的生物に対する主の完全支配は、大天使ヘイレル(ルシファー)の堕罪以前とキリストの千年王国と新天新地以後の永遠の時代です。

 しかし、キリストの千年王国に入る前までのこの世は、悪魔(サタン・悪い者)が支配しています。
キリスト者の肉体は、この世のものです。
キリスト者の体が天に属するものである霊の体に変えられるのは、キリストの空中再臨時です。
 1コリント15章には次のように記されています。
38 神は、御心のままに、これに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。
39
 どの肉も同じというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。
40
 また、天上の体もあれば、地上の体もあります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。/
44
 自然の体で蒔かれ、霊の体に復活します。自然の体があるのですから、霊の体もあるわけです。
45
 聖書に「最初の人アダムは生きる者となった」と書いてありますが、最後のアダム〔復活のキリスト(筆者挿入)〕は命を与える霊となりました。
46
 つまり、霊のものではなく、自然のものが最初にあり、それから霊のものがあるのです。
47
 最初の人は地に属し、土からできた者ですが、第二の人は天に属する方です。
48
 土からできた者たちはすべて、土からできたその人〔アダム(筆者挿入)〕に等しく、天上の者たちはすべて、天上のその方〔復活のキリスト(筆者挿入)〕に等しいのです。
49
 私たちは、土からできた人のかたちを持っていたように、天上の方のかたちをも持つようになります。
50
 きょうだいたち、私はこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできません。また、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐこともありません。
51
 ここで、あなたがたに秘義〔奥義(2017)〕を告げましょう。私たち皆が眠りに就くわけではありません。しかし、私たちは皆、変えられます。
52
 終わりのラッパの響きとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴り響くと、死者は朽ちない者に復活し、私たちは変えられます〔1テサロニケ416,17参照(筆者挿入)〕。
53
 この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬべきものは死なないものを必ず着ることになるからです。
54
 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利に呑み込まれた。・・」”(聖書協会共同訳)

 主イエス様が語られた、「なんぢら世にありては患難あり」(ヨハネ1633)と語られたのは肉の体についてのことであり、霊のことではありません。
キリスト者が、主の内にあり続け、主が私たちの霊とたましいとをしっかり支配しているときには、霊とたましいは、箴言1923にあるように、「主を畏れれば、災いに遭わない。」のです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
いつも喜びをもって主の御支配を受け、平安の内に歩み続ける者であらせてください。
あなたは、勝利を与えてくださるお方ですから、御名を崇めて感謝と賛美を献げ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<心にあるこの安きを>聖歌560番 聖歌総合版584
1.心にあるこの安きを奪うもの地になし 試みにて苦しむとも 我が安き動かじ
(折り返し)*
我がものなる主を宿す その喜び言い難し 主のたまえり 「我などて なれを捨てて去るべき」
2.この安きを受けし時に 雨雲ははれたり 悩みあらず涙もなく 歌声のあるのみ

3.この安きを持てる土の器なる我が身も やがてイェスに会わば変わらん 栄えある姿と

(証し)
私の救いは、2節の「この安きを受けし時に雨雲ははれたり」であったのです。
私は約50年前に、この世は核戦争でどうにかなってしまうのではないだろうか、という不安をいだきました。進化論を信じていた私は、伝道者の書311の御言葉を知ることもなく、死んだら無になってしまうことに恐怖を覚えていたのでした。「イエスを信じれば良いのだよ」という言葉を聞き、イエス様を信じて平安を頂いたのでした。
本当に主に大感謝です。

2022年12月16日 (金)

主をほめたたえよう

 詩篇481には次のように記されています。
(新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は、表題を1節としているので、この箇所は2節になります)
主は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。主の聖なる山、私たちの神の都で。2017)とあります。

 前にも書きましたが、詩篇4648篇は一組になっていると想像できます。
アッシリアの王センナケリブの軍隊の襲来に対し、ユダにはアッシリアと戦う力がありませんでした。
そこでヒゼキヤとイザヤは主に祈りをささげました。
その祈りに応えて、主の使いが、一晩でアッシリア軍185,000人を打ち殺してくださったのです。
詩篇48篇は神様への賛美と、シオンの山、エルサレムは神の聖なる都である故、神様が守られた、また、ユダヤの民をも守って下さった、という神様への賛美と感謝の表れの歌であると思えます。

アッシリアの攻撃とヒゼキヤ、イザヤの行動と祈り、神さまの応答については、2列王記1719章、2歴代誌2832章、イザヤ36.37章に記されています。

これらの箇所を読めば、詩篇4648篇の内容をよりよく理解できるのではないかと思います。

 ヒゼキヤ王の時代、アッシリアに包囲されたエルサレムの中にいたユダヤの民は、主の御介入がなければ、殺されたか捕虜とされたことであったでしょう。

 私たちアダムの子孫である人間も、アダムの堕罪により、罪(罪を犯す性質)をもって生まれてきました。それ故、だれかに教えてもらわなくても罪を犯すことができるのです。

 罪を犯した人の最終結末は、最後の審判における判決、そしてその判決内容は、火の池に投げ込まれるというものなのです。死んだ後に地獄に放り込まれたとしても魂には意識があります。悪しき霊たちはそこで生活しています。しかし火の池に投げ込まれると完全に滅びるのでしょう。

 黙示録2012-15をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“12
私はすべての死者が、大きい者も小さい者も、神の前に立つのを見ました。・・・死者は、・・・それぞれの行いに応じて裁かれました。13 海も、死と地獄も、その中の死者を吐き出しました。そして各自が、その行いに応じてさばかれました。14 それから死と地獄は、火の池に投げ込まれました。これが第二の死です。15 いのちの書に名前の記されていない者はみな、火の池に投げ込まれたのです。と記されています。

 上記の文章は使徒ヨハネが記したとされていますが、同じようにヨハネによって記されたヨハネの福音書では、第二の死のことを「滅び」と表現しています。
使徒ヨハネは、ヨハネ316では、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(2017)と表現し、
ヨハネ1028では、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」(2017)と表現しています。

 「滅びの火」と主イエス様の御功績を強く意識した聖徒がいました。
その人は次の様な詩を書きました。
我がため 十字架の悩みと恥を 受けさせたまいし 我が主の愛よ。血潮の功(いさお)に 滅びの火より 逃れし我が身は歌わざらめや{(詩:笹尾鉄三郎)聖歌280番、聖歌総合版261番}

 キリスト者は、主から罪を示され、罪を悔い改め、主の血潮の故に、永遠のいのちを与えられたものです。

 マリアは、「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。」(ルカ146,472017)と主を賛美し、
ダビデは、「わがたましいよ主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ、聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇1031.22017)と記しています。

 私たちキリスト者は、どの様な境遇に置かれているときでも、滅びの火より救い出され、永遠のいのちを与えられていることを賛美することができます。

 様々なことで押しつぶされそうな時でも、これまでに主が与えてくださった恵みを覚える時、主を賛美することができます。
 聖歌総合版642番、聖歌604番に、「のぞみも消えゆくまでに」という聖化があります。その歌詞は次のように記されています。
1.望みも消えゆくまでに 世の嵐に悩むとき 数えてみよ主の恵み なが心は安きを得ん
(折り返し)*
数えよ 主の恵み 数えよ 主の恵み 数えよ 一つずつ 数えてみよ主の恵み 
2.主の給いし十字架を 担いきれず沈むとき 数えてみよ主の恵み つぶやきなどいかであらん

3.世の楽しみ、富、知識 なが心を誘う時 数えてみよ主の恵み 天つ国の幸によわん


 苦難の中にあっても、苦難に心を奪われてしまうことなく、主に心を留めれば、主をいつでも賛美することが出来、また、主をほめたたえることは、その人の力になるのです。ネヘミヤ8:10には、「・・・主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(新共同訳)とあります。
主の臨在が豊かになる元となるからです。

「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」(ヘブル1212017)という聖句に従って生きる生き方の一つに賛美があります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
いかなる状況の中にあってもあなたに目を留め、あなたを賛美しながら歩む生涯を送らせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月15日 (木)

バシャンの王オグの地の征服

 申命記31-11には次のように記されています。
“1
私たちはバシャンへの道を上って行った。するとバシャンの王オグとそのすべての兵は、エデレイで私たちを迎え撃つために出て来た。
2
そのとき、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私に言われた。
「彼を恐れてはならない。わたしは、彼とそのすべての兵とその地を、あなたの手に渡している。あなたは彼に対して、ヘシュボンに住んでいたアモリ人の王シホンにしたように行わなければならない。」
3
こうして私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、バシャンの王オグとそのすべての兵を私たちの手に渡されたので、私たちはこれを討ち、一人の生存者も残さなかった。
4
そのとき、私たちは彼のすべての町を攻め取った。私たちが取らなかった町は一つもなかった。取った町は六十、アルゴブの全地域であり、バシャンのオグの王国であった。
5
これらはみな、高い城壁と門とかんぬきのある要害の町であった。このほか、城壁のない村も非常に多かった。
6
私たちはヘシュボンの王シホンにしたように、これらを聖絶した。そのすべての町、男、女および子どもを聖絶した。
7
ただし、すべての家畜と、町々での略奪物は私たちのものとした。
8
このようにして、そのとき私たちは、二人のアモリ人の王の手からヨルダンの川向こう〔ヨルダン川の東側(筆者挿入)〕を、アルノン川〔ヘシュボンの王シホンから奪った南限(筆者挿入)〕からヘルモン山〔バシャンの王オグから奪った北限(筆者挿入)〕まで取った。
9
──シドン人はヘルモンをシルヨンと呼び、アモリ人はこれをセニルと呼んでいる──
10
すなわち、高原のすべての町、ギルアデの全土、バシャンの全土、サルカおよびエデレイに及ぶ、バシャンのオグの王国の町々である。
11
──バシャンの王オグはレファイムの唯一の生き残りであった。見よ。彼の寝台は鉄の寝台で、それはアンモン人のラバにあるではないか。その長さは規準のキュビトで九キュビト〔約4m(筆者挿入)〕、その幅は四キュビト〔約1.8m(筆者挿入)〕である──2017)とあります。

 イスラエルはバシャンへの道を上って行きました。ここでもヘシュボンの王アモリ人シホンのように(申命記226-30,32)、バシャンの王オグは、軍隊を引き連れイスラエルに戦いをしかけてきたのです(申命記31)。

 2節に記されているヤハウェ(主)の御言葉は、「彼を恐れてはならない。わたしは、彼とそのすべての兵とその地を、あなたの手に渡している。あなたは彼に対して、ヘシュボンに住んでいたアモリ人の王シホンにしたように行わなければならない。」というものでした。

 アモリ人、レファイム人が、このような目にあうということについては、創世記1513-21が参考になります。その箇所には次のように記されています。
12月11日にアップした文章の一部を再掲します。
 “13 主はアブラムに言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地〔エジプト(筆者挿入)〕で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。14 しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。
15
あなた〔アブラム、後のアブラハム(筆者挿入)〕自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。
16
そして、四代目の者〔モーセの代{レビ、ケハテ、アムラム、モーセ(出エジプト616-20)}(筆者挿入)〕たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。」/
18
その日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムと契約を結んで言われた。
「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、20 ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人21 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を。」2017)とあります。

 再掲しますが、ヤハウェ(主)の、「彼を恐れてはならない。わたしは、彼とそのすべての兵とその地を、あなたの手に渡している。あなたは彼に対して、ヘシュボンに住んでいたアモリ人の王シホンにしたように行わなければならない。」(2)という御言葉は、アモリ人、レファイム人の罪が満ちたので、ヤハウェ(主)がイスラエルを用いて裁きを下す、というものであったのだろうと思います。

 旧約聖書を間違って解釈し、キリスト者が他の人や国に好戦的になることは避けるべきであると思います。急に、何故このようなことを書いているかと言うと、間違って捉えてしまう人もいるからです。
 新約の民であるキリスト者の戦いの相手は、悪魔悪霊であって人ではありません。
エペソ612には、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(2017)と記されています。
この聖句をリビングバイブルは次のように意訳しています。
「戦う相手は、血肉を持った人間ではなく、肉体のない者たちです。すなわち、目に見えない世界の支配者たち、この世を支配する暗やみの大王たち、それに、天にいる無数の悪霊です。」とあります。

 またイエス様は次のように語られました。
「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイ26522017
「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。」(マタイ5392017
「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5442017)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちキリスト者に戦いを挑んでくる人たちもいますが、私たちの敵は、その人を用いている悪魔悪霊であることを見抜き、主の御名によって、悪しき霊に対して勝利させて頂けますように。
そして、いつも栄光を主に帰していく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月14日 (水)

五つのパンと二匹の魚から五千人以上の空腹を満たした主/主に従う者を養われる主

 マタイ1413-21には次のように記されています。
“13
それ〔バプテスマのヨハネの死の事情(筆者挿入)〕を聞くと、イエスは舟でそこを去り、自分だけで寂しいところに行かれた。
群衆はそれを聞き、町々から歩いてイエスの後を追った。
14
イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒やされた。
15
夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。
「ここは人里離れたところですし、時刻ももう遅くなっています。村に行って自分たちで食べ物を買うことができるように、群衆を解散させてください。」
16
しかし、イエスは言われた。
「彼らが行く必要はありません。あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」17 弟子たちは言った。
「ここには五つのパンと二匹の魚しかありません。」
18
するとイエスは「それを、ここに持って来なさい」と言われた。
19
そして、群衆に草の上に座るように命じられた。
それからイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂いて弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。
20
人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二のかごがいっぱいになった。21 食べた者は、女と子どもを除いて男五千人ほどであった。2017)とあります。

 この話は、読めばすぐにわかる話ですし、誰もが知っているような話であろうと思います。

 このような話は、神様の偉大さを信じることの出来ない人にとっては作り話であると思うことでしょう。しかし、主なる神様の御業を体験している人や、主がこのようなことを信じることのできる恵みを与えられている人にとっては当たり前の事柄なのです。
 旧約聖書を読んだ人は、出エジプトをしたイスラエルの民(20歳以上の男子だけでも60万人以上いました。婦女子を合わせると何人になることでしょう)が、荒野を旅した約40年間、神である主は、マナという食物を与えたのです(出エジプト記16章、ヨシュア510-12)。

 今日の箇所の主の奇跡は、主が、5つのパンと2匹の魚から、男子約5000人+女性+子供を養った話です。
この食事にあずかった人たちは、主の話を聞くために主のもとに集まって来ていた人たちでした。

 イエス様の周りにいる人達は、「神の国と神の義を求めている人たちでした。」
それ故、イエス様の話を聞きたくて、イエス様の下に集まった人たちです。
13
節には、イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。と記されていますから。

 イエス様の後を追ってきた人達の中には病人たちもいました。そして、イエス様が病人たちを癒している間に夕方になったのです。
おそらく人々の多くは食料をもって来ていなかったのでしょう。
その人たちを哀れに思った主イエス様は、主を賛美してから、少年(ヨハネ69)が持ってきていた5つのパンと2匹の魚を従ってきた人たちに分け与えたのです。
人々は、皆満腹するまで食べました。
パンと魚は分けるたびに増えていき、皆が食べ終わった後には、12のかごにいっぱい残っていたのです。

 イエス様は山上の説教の中で次のように語っておられました。
31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
33
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
34
ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6章・2017)という御言葉を実証したのです。

 それでは働かなくてもよいのか、というとそれは違います。
1
テサロニケ411には、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。(新改訳初版~第三版)と記され、
2
テサロニケ36-12には、
“6
兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な歩みをして、私たちから受け継いだ教えに従わない兄弟は、みな避けなさい。
7
どのように私たちを見習うべきか、あなたがた自身が知っているのです。
あなたがたの間で、私たちは怠惰に暮らすことはなく、8 人からただでもらったパンを食べることもしませんでした。むしろ、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜昼、労し苦しみながら働きました。9 私たちに権利がなかったからではなく、あなたがたが私たちを見習うように、身をもって模範を示すためでした。
10
あなたがたのところにいたとき、働きたくない者は食べるな、と私たちは命じました。
11
ところが、あなたがたの中には、怠惰な歩みをしている人たち、何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たちがいると聞いています。12 そのような人たちに、主イエス・キリストによって命じ、勧めます。落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。2017)と記されています。

 通常の場合、主は、食べて行くことが出来るように個々人に仕事を与えてくださるのです。
キリスト者はどのくらい与えられたら満足すべきなのでしょうか。
1
テモテ68には、“食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。”(2017)とあり、
ヘブル135には、“金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない〔あなたを見捨てない(2017)」と言われました。”(新共同訳)と記されています。

 キリスト者は、物質的な満足ではなく、主との交わりによる霊的な満足を持つことができるのです。1テモテ66をリビングバイブルは、“ほんとうに富む者になりたいと思いますか。もし今、幸福で、心が満ち足りているなら、あなたはすでに富む者なのです。”と意訳しています。       

 恵みの時代、キリストは主に在るキリスト者の心の中、特にキリスト者の霊と結ばれているのです。
この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト(コロサイ1272017)と記され、
主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。1コリント617・聖書協会共同訳)と記されています。
1
コリント617を岩波訳は、主に接合させられる者はしかし、〔「主と」(訳者挿入)〕一つの霊なのである。と訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは、私たちあなたを信じる者を、恵みによって扱ってくださっておられますからありがとうございます。
今日もあなたに守られ、導かれ、支えられ、あなたの祝福の内を歩ませて頂けますからありがとうございます。
御名をほめたたえ、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年12月13日 (火)

主は主権者、主のご計画は成就する

 箴言1921を、
2017
は、人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。と訳し、
新共同訳は、人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。と訳し、
聖書協会共同訳は、人の心にはたくさんの企て。主の計らいだけが実現する。と訳し、
フランシスコ会訳は、人の心には多くの計画があるが、主のみ旨だけは変わることがない。と訳し、
新改訳初版―第三版は、人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。と訳し、
口語訳は、人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。と訳し、
リビングバイブルは、人はたくさんの計画を立てますが、主の計画だけが成るのです。と訳しています。

 前半部分と後半部分の間には、接続詞の「ヴェ」というヘブライ語があります。
「ヴェ」には、そして、しかし、さて、また、・・等、色々な意があります。

 自分の計画がうまくいかないときの言い訳としても使えそうですね。
逆に、悪いことをしても成功すれば、「これは主の御旨だ」と言うことも可能なような聖句です。

 主は、人が悪を行っても、後に主の聖なることを人々に見せるために、それを放置しておくこともあります。しかし最長でも、主の審判迄待てばこの聖句は生きてきます。
主の審判迄待てばこの聖句は生きてきます、と書いたのは、主が悪を放任される場合もあるからです。(放任も御旨だよ、と言われる方もいるでしょうが)

 ローマ118-28に次のように記されています。
“18
というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
19
神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。
20
神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。
21
彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。
22
彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、23 朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。
24
そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。
25
彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
26
こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、27 同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。28 また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。2017)とあります。

 現代は、主なる神様が、それは罪ですよ、と教えてくれていることまでも国の法律で正しいとするような時代になっています。
イザヤ520には、「わざわいだ。悪を善、善を悪と言う者たち。彼らは闇を光、光を闇とし、苦みを甘み、甘みを苦みとする。」(2017)という聖句が記されています。

 聖書の中には、「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」(申命記29292017)という聖句もあります。

 主の御旨が聖書の中に記されていますが、記されているのは、主の御旨のすべてではありません。
私たちは、一つ一つ主に導かれて歩んでいく存在です。

 主のご計画は、必ず実現するという旨が記されている箇所を少し上げておきます。
「いにしえから続くこれまでのことを思い起こせ。私は神、ほかにはいない。私のような神はいない。私は、終わりのことを初めから、まだなされていないことを昔から告げてきた。『私の計画は実現し、その望みをすべて実行する』と。」(イザヤ469.10・聖書協会共同訳)
「これは、全地に向けて定められた計画である。また、これは、すべての国々に伸ばされた手である。万軍の主は計画された。誰が覆せよう。主は手を伸ばされた。誰が元に戻せよう。」(イザヤ1426.27・聖書協会共同訳)
「・・、神は約束のものを受け継ぐ人々に、ご計画の不変であることを、いっそうはっきり示そうと考え、・・・。」(ヘブライ617・聖書協会共同訳)

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
聖書の中に記されているあなたの御約束は必ず実現するものですからありがとうございます。
あなたの御言葉にいつも信頼して歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・
イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。(ヘブル1382017

2022年12月12日 (月)

ヤハウェ(主)は世界の王/主に救われた者は主を賛美することができる

 詩篇47篇は次のように記されています。
“1
すべての国々の民よ、手をたたけ。喜びの声をもって神に大声で叫べ。
2
まことに、いと高き方主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は恐るべき方。全地を治める大いなる王。
3
国々の民を私たちのもとに、もろもろの国民を私たちの足もとに従わせられる。
4
主は、私たちのために選んでくださる。私たちの受け継ぐ地を。主が愛されるヤコブの誉れを。セラ
5
神は上られる。喜びの叫びの中を。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は行かれる。角笛の音の中を。
6
ほめ歌を歌え。神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。私たちの王にほめ歌を歌え。
7
まことに神は全地の王。ことばの限りほめ歌を歌え。
8
神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる。
9
国々の民の高貴な者たちは集められた。アブラハムの神の民として。まことに、地の盾は神のもの。神は大いにあがめられる方。2017)とあります。
(新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は表題を1節としていますので、2017と比して1節ずつずれています。)

 この詩の解釈をセンナケリブ率いるユダ侵略に関連して書かれている可能性がある(Bible navi)と捉える者あり、契約の箱が行列の中を行進するために作られた{5節参照(新共同訳スタディ版)}と捉える者もあり、ということですが、それらの捉え方を否定するのではなく、今日はキリスト者としての私個人の見方で述べていこうと思います。

 ヤハウェ(主)は全地を治める大いなる王なので、すべての国々の民が主を賛美するようにと、1.2節において、すべての国々の民よ、手をたたけ。喜びの声をもって神に大声で叫べ。まことに、いと高き方主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は恐るべき方。全地を治める大いなる王。と記されています。

 1テモテ24に、“神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。”(2017)と記されていますが、すべての人が真理を知ることができたら主を賛美することでしょう。中には嫌々ひれ伏す人たちもいるでしょうが。

 救われて主を賛美する人、主に反抗し救われることなく主に平伏せねばならない人もいるという様子が、ピリピ210,11には次のように、
・・、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰する・・。2017)と記されているように、そのような時が来るのです。

 3節には、“国々の民を私たちのもとに、もろもろの国民を私たちの足もとに従わせられる。”と記されています。
それは、エクレシア(教会)が、天と地のキリスト者の集合体であり、キリストの花嫁だからです(エペソ532、黙示録197,8)。
花婿であるキリスト・イエス様が王の王、主の主であり御力を行使されるからです(黙示録1911-21)。
ただしキリストの空中再臨前の今の世にあっては、この世の救われていない人たちは、誰もキリスト者がキリストの花嫁だとは思いませんし、復活され高挙されたキリスト・イエス様(マルコ169.19)を天地の主権者である(マタイ2818)とは思いだにしません。

 4
節には、主は、私たちのために選んでくださる。私たちの受け継ぐ地を。主が愛されるヤコブの誉れを。とあります。
キリスト者の受け継ぐ地は、天の神の王国です。キリスト者の国籍は天にあり、目には見えなくても天の神の王国のパスポートを持っています。それは霊の世界では聖霊の証印として明らかにされています。(エペソ113,14219、ピリピ320、マタイ1343、使徒1915

 5-8節をそのままとると神の箱を運び入れる時の様子を思い浮かべることができます(2サムエル61,2.5.12-15.17,18)。

 5節には、“神は上られる。喜びの叫びの中を。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は行かれる。角笛の音の中を。”とあります。
弟子たちは、主イエス様が天に上って行かれるのを見ました(使徒19)。地の人は主が天に上って行かれる時、誰も角笛を吹いたり喜んだりすることはなかったことでしょうが、天使たちの間では喜びが沸き起こったのではないかと想像します(黙示録512.13をもとに考えて)。

 6-9節には次のように記されています。
“6
ほめ歌を歌え。神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。私たちの王にほめ歌を歌え。
7
まことに神は全地の王。ことばの限りほめ歌を歌え。
8
神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる。
9
・・・・。まことに、地の盾は神のもの。神は大いにあがめられる方。とありますが、健全な状態にあるキリスト者は、主をほめたたえることをいつも喜びとしているでしょう。

 9節前半には、“国々の民の高貴な者たちは集められた。アブラハムの神の民として。”と記されています。

 旧約時代には、アブラハムの神は、モーセに、「イスラエルの長老たちを集めて言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が私に現れてこう言われた。「わたしは、あなたがたのこと、またエジプトであなたがたに対してなされていることを、必ず顧みる。」と語られました(出エジプト3162017)。

 また主イエス様も次のように語られたと、マタイ811.12に記されています。
あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。しかし、御国の子ら〔イスラエルの内のイエス様を信じないイスラエル人たち(筆者挿入)〕は外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。2017)とあります。

 詩篇47篇を読んでいて「キリスト・イエスをもといとして」という賛美を思い浮かべていましたので、その歌詞を下記します。
1.キリスト・イエスをもといとして うち建てられし御(み)教会は 君が血を持て買いたまいし 花嫁たちの集まりなり。
2.言葉と色に違いあれど 御民の拝む主一人なり 一つに生まれ 一つに伸び 一つに食し 一つに生く
3.主の教会は試み受け 争いにあい涙すとも その幻を主はよみして ついに勝利を与えたまわん
4.この世と天(あめ)に別れ住めど 御民は聖き神にありて ともに交わり ともに待てり キリスト・イエスの来る日をば(聖歌201番、聖歌総合版160番)

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは私たちに限りない御愛を注いでくださいました。
まさしく恵み、恵み、恵みです。
あなたを賛美しつつ、あなたのすばらしさを宣べ伝えつつ、あなたの御迎えを待ちます。
アーメン。

2022年12月11日 (日)

ヘシュボンへのヤハウェ(主)のさばき/主を信じる者の救い

 申命記224.25には次のようにヤハウェ(主)のご命令が記されています。
24 立ち上がって出発せよ。アルノン川を渡れ。見よ、わたしはヘシュボンの王アモリ人シホンとその国を、あなたの手に渡す。占領し始めよ。彼と戦いを交えよ。
25
今日から、わたしは天下のあらゆる民に、あなたに対するおののきと恐れを抱かせる。彼らはあなたのうわさを聞いて震え、あなたの前でもだえる。」(2017)とあります。

 ヤハウェ(主)は、突然、何を言い出すのだろうか?と思われる人もいると思います。
アモリ人がこのような目にあうということについては、創世記1513-21が参考になります。その箇所には次のように記されています。
“13
主はアブラムに言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地〔エジプト(筆者挿入)〕で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。14 しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。
15
あなた〔アブラム、後のアブラハム(筆者挿入)〕自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。
16
そして、四代目の者〔モーセの代{レビ、ケハテ、アムラム、モーセ(出エジプト616-20)}(筆者挿入)〕たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。」/
18
その日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムと契約を結んで言われた。
「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、20 ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、21 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を。」2017)とあります。

 創世記1516の「アモリ人」はカナン人の総称として用いられていて、そのカナン人を細かく言うと19-21節のようになるのだと思います。今日の箇所は、細かく言った方のアモリ人です。
ヤハウェ(主)のご命令は、「ヘシュボンの王アモリ人シホンとその国を、あなたの手に渡す。占領し始めよ。彼と戦いを交えよ。」(24)というものでしたが、これはアモリ人の罪が満ちたので、ヤハウェ(主)がイスラエルを用いて裁きを下す、というものであったのだろうと思います。

 モーセは、いきなり戦いの火ぶたを切ったのではなく、「ヘシュボンの王アモリ人シホンの国」を、平和のうちに通過させてくださるようにと使者を送ったことが次のように記されています。
26 そこで私〔モーセ(筆者挿入)〕は、ケデモテの荒野からヘシュボンの王シホンに使者たちを遣わし、次のような友好のことばを伝えた。
27
「あなたの土地を通らせてください。私は大路だけを通り、右にも左にもそれません。28 食べ物は金で私に売ってください。それを食べます。水も金を取って私に与えてください。それを飲みます。徒歩で通らせてくださるだけでよいのです。29 セイルに住んでいるエサウの子孫や、アルに住んでいるモアブ人が私にしたようにしてください。そうして、私がヨルダン川を渡り、私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私たちに与えようとしておられる地に行けるようにしてください。」”(2017)とあります。

 しかし、ヤハウェ(主)がさばきを執行しようと決めていましたので、ヘシュボンの王シホンが、モーセの頼みを受け入れることはありませんでした。ヘシュボンの王の心はヤハウェ(主)によって頑(かたく)なにされていたのです〔それはシホンがヤハウェ(主)に敵対していたからでしょう(筆者挿入)〕。それはエジプトの王ファラオの時と同じでした(出エジプト42173,4.13815912.3510271110)。

 30節には次のように記されています。
しかし、ヘシュボンの王シホンは、私たちをどうしても通らせようとはしなかった。それは今日見るとおり、彼をあなたの手に渡すために、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が彼の心を頑なにし、彼を強気にされたからである。2017)とあります。

 主に対して頑なである故に、主に頑なにされてしまうというのは悲しいことですね。
主に対して従順であることはとても幸いなことです。
主は万物を造られたお方です(創世記1章、コロサイ116)。そして、万物を保っておられるお方です(ヘブル13)。
その主であるからこそ、「見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のものである。」(申命記10142017)と言うこともできるのです。

 造られた者が造ったお方に対して感謝も賛美もせず、敵対するとどうなるのかということを聖書は教えてくれています。ヘブル語のサタン(サーターン)という語は、対抗者 、敵 、反対者の意です。主なる神に対する敵対者なので堕天使の親分である悪魔はサタンと呼ばれています。

 ヤハウェ(主)はモーセにもう一度次の様な命令をくだされました。31節には次のように記されています。
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私に言われた。
「見よ、わたしはシホンとその地とをあなたの手に渡し始めている。占領し始めよ。その地を所有せよ。」2017)と。

 ヤハウェ(主)は、イスラエルを用いてヘシュボンの王アモリ人シホンとその国を裁きました。32-36節には次のように記されています。
“32
シホンとそのすべての兵が、私たちを迎え撃つためヤハツに出て来たとき、33 私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼を私たちの手に渡された。私たちは彼とその子たちとそのすべての兵を討った。
34
そのとき、私たちは彼のすべての町を攻め取り、すべての町、男、女および子どもを聖絶し、一人の生存者も残さなかった。35 私たちは、攻め取った町々での略奪物のほかは、家畜を分捕っただけであった。
36
アルノンの渓谷の縁にあるアロエル、およびその渓谷の中の町からギルアデに至るまで、私たちの力が及ばない町は一つもなかった。私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がそれらをみな私たちの手に渡されたのである。2017)とあります。

 ヤハウェ(主)が滅ぼすように命じられていない国に対しては、イスラエルが攻撃を仕掛けることはありませんでした。37節には次のように記されています。
ただ、あなたはアンモン人の地、ヤボク川の全岸と山地の町々には、私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が命じられたとおり近寄らなかった。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは義なるお方ですから、罪を必ず裁かれるお方です。
しかしあなたは、愛なるお方でもあります。
あなたはイエス・キリスト様の贖いによって私たち主イエス様を信じる者の罪を完全に赦してくださいました。
あなたの御名を崇めて感謝します。
あなたの栄光がとこしえにほめたたえられますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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