申命記6:16-19 主を試みてはならない/与えられた御言葉に信頼しよう
申命記6:16-19には次のように記されています。
“16 あなたがたがマサで試したように、あなたがたの神、主を試してはならない。
17 あなたがたの神、主の戒めと、命じられた定めと掟を固く守り、18 主の目に適う正しいことを行いなさい。そうすれば、あなたは幸せになり、主があなたの先祖に誓われた良い地に入り、これを所有して、19 主が語られたとおり、すべての敵をあなたの前から追い払うことができる。”(聖書協会共同訳)とあります。
16節の“あなたがたがマサで試したように、あなたがたの神、主を試してはならない。”と記されているマサでの出来事は、出エジプト17:1-7に記されています。
この出来事は、イスラエルの民が、エジプトから出立し、マナを与えられた後のことであり、十戒(十のことば)を与えられる前の出来事です。
出エジプト17:1-7には次のように記されています。
“1 イスラエル人の全会衆は、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命によりシンの荒れ野を出発し、旅を重ねて、レフィディムに宿営した。しかし、そこには民の飲む水がなかった。
2 民はモーセと言い争いになり、「飲み水をください」と言った。モーセは彼らに言った。「なぜあなたがたは私と言い争う〔リーブ(筆者挿入)〕のか。なぜ主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を試す〔「ナーサー」(筆者挿入)〕のか。」
3 しかし、民はそこで水を渇望し、モーセに対して不平を述べた。「私たちをエジプトから上らせたのは何のためだったのですか。私や子どもたちや家畜を渇きで死なせるためだったのですか。」
4 そこでモーセは主に叫んだ。「私はこの民をどうすればよいのでしょうか。彼らは今にも私を石で打ち殺そうとしています。」
5 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセに言われた。「民の前を通り、イスラエルの長老を何名か一緒に連れて行きなさい。ナイル川を打ったあなたの杖も手に取って行きなさい。
6 私はホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたがその岩を打つと、そこから水が出て、民はそれを飲む。」モーセはイスラエルの長老たちの目の前でそのとおりに行った。
7 そして、モーセはその場所をマサとメリバと名付けた。イスラエルの人々が、「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私たちの間におられるのかどうか」と言って、モーセと言い争い、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を試したからである。”(聖書協会共同訳)とあります。
7節の「マサ」(へ)「マサー」の原義は、試験で、誘惑、試すこと、試み等の意もあります。
「メリバ」(へ)「メリーバー」の原義は、言い争い,口論,口げんか;仲たがい等の意です。
7節には、“そして、モーセはその場所をマサとメリバと名付けた。イスラエルの人々が、「主が私たちの間におられるのかどうか」と言って、モーセと言い争い、主を試したからである。”とあります。
イスラエルの民は、エジプトでヤハウェ(主)の十の奇跡(御業)、葦の海(紅海)での奇跡(ヤハウェの御業)、苦い水を甘くするというヤハウェ(主)の御業、マナを与えるというヤハウェ(主)の御業を見たり体験したりしてきたのです。
ですからイスラエルの民は、ヤハウェ(主)が偉大な御方であると認識していたでしょう。
イスラエルの民は、無神論者ではありませんでした。
しかし、宿営した場所に飲み水がなかったのです(1)。
飲み水がなければ死活問題です。
イスラエルの民が形相を変えて必死にモーセに言い寄る光景を想像することは容易でしょう。
イスラエルの民は、荒野の気温の高い場所にいるのです。
のどは乾き、家畜も水を欲しがっているのです。
しかしヤハウェ(主)は、自動的には水を与えてくれません。
イスラエルの民は、ヤハウェ(主)の存在を認めてはいますが、イスラエルの民にとっての一つの問題は、ヤハウェ(主)が、自分たちと共にいるのかいないのか、ということであったのです。
7節に、“・・・イスラエルの人々が、「主が私たちの間におられるのかどうか」と言って、モーセと言い争い、主を試した・・・”と記されていますからそのことがわかります。
士師記には、ギデオンという人が出てきます。
ギデオンの言葉に、「お言葉ですが、わが主よ。主が私たちと共におられるのでしたら、なぜこのようなことが私たちに降りかかったのですか。先祖が『主は私たちをエジプトから導き上られたではないか』と言って、私たちに語り聞かせたあの驚くべき業は一体どこにあるのですか。今や、主は私たちを見捨て、ミデヤン人の手に渡してしまわれました。」(士師6:13・聖書協会共同訳)、「もし御目に適いますなら、私と話しておられるのがあなたであるというしるしをお見せください。」(士師6:17・聖書協会共同訳)というものがあります。
ギデオンは、主に見捨てられていると思い、本当に自分に現れたのが主なのかどうなのかということをテストしたのです。
主は、主を試みてはならない、と命じられましたが、この時には、主が主の御業を遂行するためにギデオンの申し出を受け入れられたのでした。
新生しているキリスト者は、決して見捨てられることはありません。
ヨハネ6:37には、「父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。」(2017)という主イエス様の御言葉が記されています。
新改訳初版~第三版は、「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」と意訳しています。
キリスト者も主イエス様の存在を疑うことはないでしょう。
しかしキリスト者といえども、厳しい状況に置かれていると、主イエス様が自分の祈りを聞いてくれているのか、聞いてくれていないのか、という思いを持つ場合もあるでしょう。
また、自分が祈った祈りに、祈り通りに主イエス様が答えてくださらないと、自分に何か問題があるからではないだろうか、と思う人がいるかもしれません。
そして、あの人の祈りは聞いてくれるのに自分の祈りは聞かれない、などと言い出す人も現れます。
そのようになってくると、主イエス様が、本当に自分を見てくれているのか、自分と共にいてくれているのか、ということをテストしたくもなるでしょう。
イエス様は、テストに応じてくださるお方です(ヨハネ20:24-29)が、甘えすぎてはいけないと思います。
信仰が成長してくると、いかなる状況に置かれても、また祈った結果を主のお答えとして受け入れ、それでも御言葉を信頼する、というようになるでしょう。
どのような状況になってもローマ8:28の、“神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる・・”(口語訳)という御言葉から離れることはないでしょう。
申命記16:16で、“あなたがたの神、主を試してはならない。”と命じられているのです。
イスラエルの民は、主を試すのではなく、主に命じられたことを行いなさい、と言われました。
申命記16:17.18には、“あなたがたの神、主の戒めと、命じられた定めと掟を固く守り、主の目に適う正しいことを行いなさい。・・・。”と記されています。
ですから主に主を試すことを許可されたギデオンは、主を試すことを恐れたのです(士師記6:11-24)。
信仰の幼い人や疑心暗鬼になっている人の場合には、主は、主を試すことを許される場合もあるように思えますが、原則は、どのような状況に置かれても、主を畏れ敬い、主を愛し、主に信頼して(主が語られた御言葉に信頼して)歩んでいくことを主は喜ばれるということではないでしょうか。
<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたを畏れ敬い、あなたを愛し、あなたに信頼して歩み続ける生涯を遅らせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。