日ごとの恵みⅪ

2023年3月30日 (木)

詩篇64篇 敵の攻撃を受けても主に信頼している人は主が勝利させてくださる/聖なる歩み

 詩篇64篇には次のように記されています。
1 指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
2
 神よ、嘆きの中にある私の声を聞いてください。敵の脅威から私の命を守ってください。
3
 悪をなす者の群れから、悪事を働く者の騒ぎから私を隠してください。
4
 彼らは舌を剣のように鋭くし、苦い言葉の矢をつがえています。
5
 物陰から罪もない人に射かけようと構え、不意に射かけることに後ろめたさも感じていません。
6
 彼らは悪の言葉に身を固め、それを数え上げては罠を仕掛け、「誰が見破ることができよう」と言います。
7
 巧妙に不正を謀り、「我らの謀(はかりごと)は完全だ。人には裏側、心には秘めたものがある」と。
8
 だが神は彼らに矢を射かけ、不意に彼らは傷を負う。
9
 彼らは自分の舌のゆえにつまずき、見る人は皆、頭を振るでしょう。
10
 人は皆、恐れて神の働きを告げ知らせ、神の業により悟りを得る。
11
 正しき人は主によって喜び、また主のもとに逃れます。心のまっすぐな人は皆、誇ることができます。〔主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い、心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。(新共同訳)〕”(聖書協会共同訳)とあります。
(口語訳、新改訳は1-10節です。)

 ダビデがこの詩において、悪しき「敵」として見ている人たちの特徴を箇条書きにすると次のようになります。
悪をなす者たち(3
心を打ちのめすような言葉を吐いてくる人たち(4
自分たちに害を為そうとしていない人たちに対して、突然背後から攻撃を仕掛けてくる人たち(5
権謀術策にたけた人たち(6.7

 この世にこのような人たちがいることはある意味仕方のないことです。
人は、「罪」(単数形。罪の性質)をもって生まれてくるのですし(ローマ512、詩篇515・新改訳)、この世を支配しているのはサタン(悪魔)だからです(ルカ46、エペソ221ヨハネ519)。

 攻撃は人からだけではありません。特にキリスト者の場合は、サタンの標的にされています。サタンは、直接主なる神様に戦いを挑んでも勝てないので、主なる神様の子どもたちを攻撃するのです。
キリスト者の戦いの相手は、人ではなく、好むと好まざるとにかかわらず、悪魔悪霊が相手です(エペソ611-13)。
人に対しては、罪は憎んでも、人は愛するのです。
主イエス様は、全ての人のために十字架にかかられたのですから(1ヨハネ22)。

 サタンは、攻撃方法を色々と持っています。
悪魔悪霊からの攻撃を減らすには、罪の内を歩まないようにすることです。罪を犯していると、悪魔悪霊は、それを足場にして攻撃を仕掛けてきます。
また、サタンは、罪がなくても罪を犯させようと企(たくら)み実行する者です。
罪のなかったエバとアダムは、敗北し、人としてのイエス様は勝利したのです(創世記3章、マタイ43-10、ルカ43-13)。

 主を信じている者たちに対する悪の攻撃に対して、主なる神様は介入されてきます(8)。
悪しき者たちは、自分の悪のゆえに墓穴を掘る場合もあります(9)。
しかしその前に、すなわち神様の御介入の前に、主に信頼し、主に従う者たちの祈りが先行しているのです(2.3)。

 戦いの結末は、11節に記されているように、“主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い、心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。” (新共同訳)というところに落ち着くのです。

 ここまで読んでこられると、異を唱える人もいるでしょう。
多くの殉教者たちがいるではないかと。
主イエス様は、「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」(マタイ10282017)と語られ、また、
「義のために迫害された人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ510-12・聖書協会共同訳)と語られました。

 新生したキリスト者は、永遠の命を持っています。
主イエス様は次のように語られました。
「生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11262017)と。
それは、神から霊の誕生をしているからです(ヨハネ33.61ペテロ13)。
 
 霊だけの話ではありません。霊のからだもキリストの現われの時に頂けるのです(コロサイ34、1コリント15521テサロニケ416.17)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
この世にあっては、肉の目において、見えるところでも見えないところでも、悪がはびこっていることを覚えますが、ひとたびあなたに目を向ければ、全てが解消していきますから感謝します。
黙示録2211aの聖句のごとく、この世はますます暗さを増しています。
黙示録2211bに、“正しい者はさらに正しいことを行い、聖なる者はさらに聖なる者となれ。”(聖書協会共同訳)とあるように、主に信頼し、さらには、いつも主の内に在って歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「キリスト・イェスをもといとして」(聖歌201番、聖歌総合版160番)
“1.キリスト・イェスをもといとして うちたてられし御教会は 君が血をもて買いたまいし 花嫁たちの集まりなり
3.主の教会は 試み受け 争いに遭い 涙すとも その幻を 主はよみして ついに勝利を与えたまわん”

2023年3月29日 (水)

申命記9:25-29 40日の断食の後、さらに40日の断食をしてとりなしの祈りをしたモーセ

 申命記925-29には次のように記されています。
25 私は主の前に四十日四十夜ひれ伏した。ひれ伏したのは、主があなたがたを滅ぼすと言われたからである。
26
 私は主に執り成して言った。
「主なる神〔原語は「アドナイ ヤハウェ(筆者挿入)」よ、あなたの大いなる業によって贖い出し、力強い手によってエジプトから導き出されたあなたの所有の民を滅ぼさないでください。
27
 あなたの僕であるアブラハム、イサク、ヤコブを思い起こしてください。この民のかたくなさと悪と罪に御顔を向けないでください。
28
 私たちがあなたに導かれて出て来たあの国の者たちに、『主は約束された地に彼らを導き入れることができず、彼らへの憎しみから荒れ野に連れ出し、死なせてしまった』と言わせないでください。
29
 彼らは、あなたが大いなる力と伸ばした腕によって導き出された、あなたの民、あなたの所有の民です。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 モーセは80歳で主の召しにあずかったのですから、この時の年齢はそれ以上の年齢であったことがわかります。
25
節に、“私は主の前に四十日四十夜ひれ伏した。”とありますが、これは、申命記99-11に記されている四十日四十夜の出来事とは異なります。申命記99-11に記されている四十日四十夜の出来事は、十の言葉(十戒)が記されている石板を頂くことと幕屋建設及び聖具等の造作や大祭司と祭司の服装並びに聖別の仕方等のための教え、その他の事どもを教授されていたのです。それは出エジプト2412-3118に記されています。
そしてモーセは2枚の石板をヤハウェ(主)からいただき、主に急(せ)き立てられて山から下りたのが、出エジプト記32章に記されている金の子牛事件の個所です。

 出エジプトした民は、十戒を基本とする律法を守りますと、ヤハウェ(主)と契約を結んだのです。その時の契約については出エジプト243-8に記されています。
それからモーセは山に登ったのです。モーセが主と相対する前に6日間(出エジプト2415.16)が経過していますから、モーセが民から離れて、50日もたたないうちに金の子牛は完成していたのです。そして、イスラエルの民は金の子牛に対して偶像礼拝をしたのです。

 その時、アロンもその罪に加担したのです。
モーセが不在の間は、アロンがモーセの代わりをすべきであったのですが。

 その時のイスラエルの民の罪について、出エジプト328は、“彼らは早くも私〔ヤハウェ(主){筆者挿入}〕の命じた道からそれて、子牛の鋳像を造り、これにひれ伏し、いけにえを献げ、『イスラエルよ、これがあなたの神だ。これがあなたをエジプトの地から導き上ったのだ』と言っている。」”(聖書協会共同訳)と記しています。

 アロンの行動に対して、ヤハウェ(主)の心境はどのようなものであったのでしょうか。
申命記920に、“アロンに対しても主は激しく怒り、滅ぼそうとされた。”と記されています。

 これらのイスラエルの民の罪とアロンの罪に対するヤハウェ(主)の処罰の決定は次のようなものでした。
“主はモーセに言われた。「私はこの民を見た。なんとかたくなな民だろう。私を止めてはならない。私の怒りは彼らに対して燃え、彼らを滅ぼし尽くす。しかし、私はあなた〔モーセ(筆者挿入)〕を大いなる国民とする。」”(出エジプト329.10・聖書協会共同訳)と記されています。

 このヤハウェ(主)の決定に対して、モーセは必死になってとりなしをしたのです。
それが今日の聖書個所の申命記925-29です。並行記事である出エジプト3211-13には次のように記されています。
11 モーセは自分の神、主をなだめて言った。「主よ、なぜあなたの怒りがご自分の民に燃えるのですか。大いなる力と強い手によってあなたがエジプトの地から導き出された民ではありませんか。
12
 どうしてエジプト人に、『あの神は悪意をもって彼らを導き出し、山の上で彼らを殺し、地の面から滅ぼし尽くした』と言わせてよいでしょう。燃える怒りを収め、ご自分の民に下す災いを思い直してください。
13
 あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓い、『私はあなたがたの子孫を増やして空の星のようにする。また、私が約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、とこしえにこれを受け継がせる』と告げられました。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 このモーセの40日間の断食のとりなしがヤハウェ(主)の御怒りを鎮め、“主は、ご自分の民に下すと告げた災いを思い直された。”(出エジプト3214・聖書協会共同訳)のです。

 ヤハウェ(主)が、モーセに与えられたところの主に対する愛、アロンをはじめイスラエルの民に対する愛と低き心に驚嘆します。

 それ以上の愛をもって、主イエス様は、私たちの為に十字架にかかられました。
そして罪の贖いを成し遂げられ、私たちにもわかるように、十字架上で「テテレスタイ」(「完了した」ヨハネ1930)と語られたのです。
罪の贖いが完了したのです。

 私たちの受けた恵は、それだけではなく、1ペテロ13には、“神〔父なる神(筆者挿入)〕は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせ〔新生(筆者挿入)〕、生ける希望を与えてくださいました。”(聖書協会共同訳)と記されています。
 さらに神は、“神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。”(エペソ26)と記されていることを実現し(霊においては実現しているので私たちはサタンにも勝利できます)、
キリストの現われの時には霊のからだ、すなわち栄光のからだを与えてくださり(コロサイ341テサロニケ416.171コリント1552)、その約7年後には、天において花婿キリストと花嫁教会の婚宴の儀が開かれるのです(黙示録196-9)。
肉のからだを持っている現状においても、新生したキリスト者(ローマ89)は、霊においては霊である主と一つとされているのです(1コリント617、コロサイ127)。
そして魂がきよめられれば、その人を通して聖霊が働かれるのです(ヨハネ738)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
モーセの愛と低き心、主イエス様の愛と低き心、そのような状態には遠く、遠く及ばない者ですが、ローマ123に記されているように、あなたが私に与えてくださった分に応じて、あなたにお仕えしていくことが出来ますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月28日 (火)

マタイ19:13-22 純真or単純に主イエス様を信じる者と自分の行いにより頼む者

 マタイ1913-22には次のように記されています。
13 その時、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
14
 しかし、イエスは言われた。
「子どもたちをそのままにしておきなさい。私のところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
15
 そして、子どもたちに手を置いてから、そこを立ち去られた。
 16 すると、一人の人がイエスに近寄って来て言った。
「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
17
 イエスは言われた。
「なぜ、善いことについて、私に尋ねるのか。善い方はおひとりである。命に入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
18
 彼が「どの戒めですか」と尋ねると、イエスは言われた。
「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、19 父と母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
20
 この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
21
 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」
22
 青年はこの言葉を聞き、悩みつつ立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 16節には、“すると、一人の人がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」”と記されています。
主イエス・キリストを信じる信仰ではなく、自分の行いによって永遠の命を得たいと日夜努力している一人の人(青年)が来ました。

 主イエス様は、この人の質問の「善いこと」(16)という言葉or考え方を掴(つか)み、神の観点から言うと善いことが出来るのは「善い方」すなわち神だけであると答えたのです。
17
節には、“イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、私に尋ねるのか。善い方はおひとりである。  ・・・。」”と記されています。

 聖書の最初のページの創世記11に記されている「神」という単語は複数形です。
そして、マタイ2819の「父と子と聖霊の名において」の「名」は単数形です。
申命記64には、「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。」(2017)と記されています。
これらの聖句からわかることは、まことの神は唯一であり3つの位格を持ったお方であるということです。
それ故、17節で、主イエス様が、「よいかたはただひとりだけである。」(口語訳)と答えられた時、「ただひとり」の中には、御子である主イエス様も含まれていたのです。

 イエス様のもとに質問に来た一人の人は、「よいかたはただひとりだけである。」(口語訳)とイエス様がお答えになった御言葉には反応しませんでした。

 この人の心の中には、「行い」によって永遠の命を得たい、という願望しかないのを見てだろうと思いますが、主イエス様は、17節の後半部分で、「命に入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」と答えています。

 「命に入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」というイエス様のお答えを聞いて、この人は、「どの戒めですか」と尋ねました。

 その質問に対する主イエス様のお答えは、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父と母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。」(18.19)とお答えになったのです。

 この人はイエス様のお答えを聞いて、「そういうことはみな守ってきました。」と答えたのです(20)。

 この人の答えは、「そういうことはみな守ってきました。」ということなのですから、なんとりっぱな人なのだろうと、私は感嘆します。

 この人は、さらに「まだ何か欠けているでしょうか。」(20)とイエス様に質問しました。
それに対してイエス様は、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」(21)と答えられたのです。

 22節には、“青年はこの言葉を聞き、悩みつつ〔悲しみながら(2017)〕立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イエス様は、ご自身を差し出して贖いを成し遂げたのでした。
ピリピ2章には次のように記されています。
6キリストは神の身でありながら、神としてのあり方に固執しようとはせず、7かえって自分をむなしくして、僕(しもべ)の身となり、人間と同じようになられました。その姿はまさしく人間であり、8死に至るまで、十字架の死に至るまで、へりくだって従う者となられました。”(フランシスコ会訳)とあります。

 一方、単純に、純真に、主イエス様を信じて主イエス様の下に来る子供たちに対して、主イエス様は、「天の国はこのような者たちのものである。」(14)と語られたのです。
この件については、少し前の、マタイ183に次のように記されています。
「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。」(2017)とあります。
「向きを変えて」と訳されている語のギリシア語は「ストレフォー」で、ひねって回転する、回転する、向きを変える、逆にする、・・等の意があり、2017の欄外注には、“あるいは「悔い改めて」”とあり、聖書協会共同訳は、「心を入れ替えて」と訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
かつての私もそうでしたが、人は、自分の善行によって天国に入ろうとします。
しかし、聖書を読むと、それは無理な話であることがよくわかります。
人は、罪を犯す性質をもって生まれ、教えられなくても罪を犯すことが出来るからです。
善きお方は、三一の主なる神様だけです。
特に贖いを成し遂げてくださったイエス様(救い主)を信じない限り救われないことを覚えます。
イエス様を信じる信仰を与えてくださいましたことを感謝します。
御名を賛美し、感謝して私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月27日 (月)

箴言22:1 主からの恵みと神の子どもとしての品位

 箴言221を、
2017
は“名声は多くの富より望ましく、愛顧を受けることは銀や金にまさる。”と訳し、
聖書協会共同訳は、“名声は多くの富よりも望ましく、品格は銀や金にまさる。”と訳し、
新共同訳は“名誉は多くの富より望ましく、品位は金銀にまさる。”と訳し、
口語訳は“令名(れいめい)は大いなる富にまさり、恩恵は銀や金よりも良い。”と訳しています。

「名声」(新改訳)、「名誉」(新共同訳)、「令名」(口語訳)と訳された語の原語は「シェム」で、名、名誉、名声(令名)、尊敬、権威、大家(たいか)、性格、人格、等の意があります。

後半部分の「愛顧」(新改訳)、「品位」(新共同訳)、「恩恵」(口語訳)、「恩寵」(文語訳)と訳された語の原語は「ヘン」で、優しさ、優雅さ、慈悲深さ、親切、恩恵、好意、気品、上品、・・等の意があります。
恩寵、恩恵、恵みという語は、人間に救済をもたらす神の恵みのたまものをいうキリスト教神学の基礎概念です。

この箴言は、神様抜きでも理解しやすい聖句ですが、前半部分と後半部分の冒頭に「主の」を加えるとより一層頷きやすくなります。

「主の御名は多くの富よりも望ましく、主の恩恵は銀や金にまさる。」となるのですから。

本文には、「主の」の語はありませんが、私は、「主の」が隠れている文として、捉えてみたいとも思います。

コロサイ23には「・・キリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」(新改訳2017)とあり、
 コロサイ29には「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちた御性質が形をとって宿っています。」(新改訳2017)と記されています。
キリスト者は、父なる神様と主なる御子イエス様から愛顧を受けた存在(寵愛を受けた存在)です(エペソ317-19)。ハレルヤ!

 また、キリスト者個々人にこの聖句を当てはめる場合には、
「神の子どもであり、キリストの花嫁であるという権威は、多くの富よりも望ましく、神の子どもとしての品位は、金銀に勝る。」とも訳せます。
 
 ソロモンが箴言を記した時代は、律法の時代(旧契約の時代)でありました。
私たちは新契約の恵みの時代に生かされています。
なんという幸いでしょう。

 神の子どもとしての品位or気品は、ガラテヤ522.23によれば、「霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制であり」(抜粋・聖書協会共同訳)と記されています。

 神の子どもたちは、自分が財産を持っていない場合でも、御父は想像を絶する資産家なのです。
その上で、ピリピ419には、「・・神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスにあって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」(聖書協会共同訳)と記されています。

 キリスト者は、金銀を求めることよりも、常に主に在って歩ませていただくことが大切なのだと思います。

 コロサイ34.5には、「あなたがたのいのちであるキリストが現れる〔キリストの空中再臨時の出来事(筆者挿入)〕と、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」(2017)とあり、
 2テモテ31-5には、「このことを知っておきなさい。終わりの日には困難な時期がやって来ます。その時、人々は、自分自身を愛し、金に執着し、見栄を張り、思い上がり、神を冒とくし、親に逆らい、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、人をそしり、自制心がなく、粗暴になり、善を好まず、人を裏切り、向こう見ずになり、気が変になり、神よりも快楽を愛し、見た目は敬虔であっても、敬虔の力を否定するようになります。」(抜粋・聖書協会共同訳)と記され、
 へブル135には、“金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。”(2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの恩寵を感謝します。
あなたの子どもとしてふさわしくお整え下さり、あなたの御名があがめられる歩みをしていく者とさせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月26日 (日)

詩篇63:4-12 主に思いをはせ、主に信頼し、主を賛美し、主に祈る者に対する主の祝福

 聖書協会共同訳の詩篇634-12には次のように記されています。
4 あなたの慈しみは命にもまさる恵み。私の唇はあなたをほめたたえます。
5
 命のあるかぎり、あなたをたたえ、その名によって、手を高く上げよう。
6
 極上の食物にあずかるように私の魂は満ち足り、唇は喜び歌い、口は賛美の声を上げます。
7
 私が床であなたを思い起こし、夜回りのとき、あなたに思いをはせるなら、8 あなたは必ずわが助けとなってくださる。あなたの翼の陰で、私は喜び歌います。
9
 私の魂はあなたに付き従い、あなたの右の手は私を支えてくださいます。
10
 私の命を根絶やしにしようとうかがう者が地の底へと入り込みますように。
11
 剣に渡され、ジャッカルの餌食となりますように。
12
 王は神によって喜び、神に誓いを立てた者が皆、誇りを持ちますように。偽って語る口は塞がれますように。”とあります。
(口語訳、新改訳は、3-11節になります。)

 詩篇631節(表題)には、“ダビデがユダの荒れ野にいたとき”とあります。
ダビデがユダの荒野にいた時は、サウルの追手から逃れていた時でした。1サムエル2314には、「ダビデは、荒野にある要害に宿ったり、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウルは、毎日ダビデを追い続けたが、神はダビデをサウルの手に渡されなかった。」(新改訳2017)と記されています。

 ダビデが荒野をさまよっていた時は、いつも身の危険を覚えつつ、主を思い浮かべ、主に祈り、主との豊かな交わりを持っていました。大変な時であったからこそ、反(かえ)って主との交わりが深くなったのです。キリスト者も同じだなと思わされます。

 主は、ダビデに、イスラエルの王になる、とサムエルを通して語っておられました。
1
サムエル161.1213には、次のように記されています。
1 主はサムエルに言われた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たせ。さあ、わたしはあなたをベツレヘム人エッサイのところに遣わす。彼の息子たちの中に、わたしのために王を見出したから。」/
12
エッサイは人を遣わして、彼〔ダビデ(筆者挿入)〕を連れて来させた。彼は血色が良く、目が美しく、姿も立派だった。主は言われた。「さあ、彼に油を注げ。この者がその人だ。」
13
サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。”(2017)とあります。

 主は、ダビデを、御自身の内において、イスラエルの王としました。
イスラエルにおいて、イスラエルの民がダビデを王とするのは、まだ後のことですが、主が語られたことは必ず成就するのです。それは全能の神、万軍の主であるヤハウェ(主)が成就させるからです。(イザヤ5511)。

 人間的観点では、いつかダビデは、サウルの追手によって殺されるだろう、と思えますが、ヤハウェ(主)の御言葉を思えば、そのようなことは決してないと信じることが出来ます。
ですからダビデが、
4 あなたの慈しみは命にもまさる恵み。私の唇はあなたをほめたたえます。
5
 命のあるかぎり、あなたをたたえ、その名によって、手を高く上げよう〔「祈ります」ということ(筆者挿入)〕。
6
 極上の食物にあずかるように私の魂は満ち足り、唇は喜び歌い、口は賛美の声を上げます。」
とヤハウェ(主)に祈り、また賛美するのは自然のことです。

 4節の「慈しみ」(聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ヘセド」で、親切、美、善意、愛顧、恵み、善行、慈悲、寛容、哀れみ、情け、等の意があります。
新改訳は「恵み」と訳しています。

 余談になりますが、パウロは、手紙のあいさつ文の中に、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。」と書いています。
「恵み」はヘブライ語では「ヘセド」、
「平安」はヘブライ語では「シャローム」です。
「シャローム」には、平安、平和、の意の他、安心な、申し分なく、幸せな、満足な、繁栄、・・等の意もあります。
御父と私たちの主キリスト・イエス様から、ヘセドとシャロームが与えられることは心躍ることです。

 これに関連しますが、民数記622-27には次のように記されています。
22 主はモーセに告げられた。
23
 「アロンとその子らに言いなさい。あなたがたはイスラエルの人々を祝福して、このように言いなさい。
24
 主があなたを祝福〔ヘブライ語は「バーラク」(筆者挿入)〕し、あなたを守られるように。
25
 主が御顔の光であなたを照らし、あなたに恵み〔ヘブライ語は「ハーナン」で、「ヘセド」と似た意(筆者挿入)〕を与えられるように。
26
 主が御顔をあなたに向けて、あなたに平和〔ヘブライ語は「シャローム」(筆者挿入)〕を賜るように。
27
 彼らがこうして私の名をイスラエルの人々の上に置くとき、私は彼らを祝福するであろう。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 詩篇119124には、“あなたの恵み〔ヘブライ語では「ヘセド」(筆者挿入)〕によって、あなたのしもべを取り扱ってください。”(2017)という祈りがあります。

 ヘセドとシャローム、良い言葉ですね。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
今日もあなたと主イエス様からのヘセドによって私をお取り扱いくださり、シャロームを与えてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月25日 (土)

申命記9:6-24 かたくなな民から学ぶこと/主を愛し、主に信頼し、主に感謝することの大切さ

 申命記96-24には次のように記されています。
6 だからあなたは、自分が正しいから、あなたの神、主がこの良い地を所有させてくださるのではないことを知りなさい。あなたは、実にかたくなな民なのだ。
7
 あなたの神、主を荒れ野で怒らせたことを思い出し、忘れないようにしなさい。エジプトの地を出た日から、この場所に至るまで、あなたがたは主に逆らい続けてきた。
8
 ホレブで、あなたがたは主を怒らせたので、主は憤って、あなたがたを滅ぼそうとされた。
9
 私が山に登り、そこで石の板、すなわち主があなたがたと結ばれた契約の板を受け取ったとき、私は山に四十日四十夜とどまり、パンも食べず、水も飲まなかった。
10
 主は神の指で記された二枚の石の板を私に与えられた。その上には、あの集会の日に、山で火の中から主があなたがたに語られた言葉がすべてそのまま記されていた。
11
 四十日四十夜が終わり、主は私に二枚の石の板、契約の板を与えられた。
12
 その時、主は私に言われた。
「さあ、急いでここから下りなさい。あなたがエジプトから導き出した民は堕落し、早くも私が命じた道からそれて、自分のために鋳像を造っている。」
13
 主はさらに私に言われた。
「私はこの民を見てきたが、なんとかたくなな民だろう。14 私を引き止めるな。彼らを滅ぼし、天の下からその名を消し去り、代わりに、あなたをそれよりも強く、数の多い国民にしよう。」
15
 私が身を翻して山を下りると、山は火で燃えていた。私の両手には二枚の契約の板があった。
16
 そして私が目にしたのは、あなたがたの神、主にあなたがたが罪を犯し、自分たちのために子牛の鋳像を造り、早くも主が命じられた道からそれている姿であった。
17
 私は二枚の板をつかんで、両手でそれを投げつけ、あなたがたの目の前で砕いた。
18
 そして、私は以前と同様、四十日四十夜、パンも食べず、水も飲まず主の前にひれ伏した。すべてあなたがたの犯した罪のゆえであり、主の目に悪とされることを行って、主を怒らせたからである。
19
 私は、あなたがたを滅ぼそうとする主の怒りと憤りを恐れた。しかし主はこの時も、私に耳を傾けてくださった。
20
 アロンに対しても主は激しく怒り、滅ぼそうとされたが、その時、私はアロンのために執り成しをした。
21
 それから、あなたがたが造って罪を犯したあの子牛を取って火で焼き、打ち壊し、粉々にして塵にし、その塵を山から流れて来る川に投げ捨てた。
8-21節までの出来事は、出エジプト記32-34章に記されている出来事です。(筆者挿入)〕
22
 タブエラでも、マサでも、キブロト・ハタアワでも、あなたがたは主を怒らせた。
〔タブエラとキブロト・ハタアワの出来事は民数記11章に記されている出来事です。マサでの出来事は、出エジプト記17章です。(筆者挿入)〕
23
 主があなたがたをカデシュ・バルネアから遣わし、「上って行って、私があなたがたに与える地を占領しなさい」と言われたときも、あなたがたの神、主の命令に逆らい、主に信頼せず、あなたがたはその声に耳を傾けなかった。〔民数記13.14章に記されている出来事です。(筆者挿入)〕
24
 私があなたがたを知った日から、あなたがたは主に逆らい続けてきた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イスラエルの民は、「あなたは、実にかたくなな民なのだ」と言われてしまいました(6)。
「頑(かたく)なな」と訳されている語のヘブライ語原語は二語からできていて「カーシェー オーレフ」で、項{オーレフ(うなじ=首の後ろの部分)}の硬い{カーシェー(厳しい、硬い、・・・等の意)}の意です。
イスラエルの民は、ヤハウェ(主)の御命令に対して、首を縦に振らない民、素直でない民、言うことを聞かない民だ、と言われてしまったのです。

 イスラエルの民は、「エジプトの地を出た日から、この場所に至るまで、あなたがたは主に逆らい続けてきた。」(7)と言われてしまいました。

 8-21節までの出来事は、出エジプト記32-34章に記されている出来事で、それは金の子牛事件に関連する事柄です。
この出来事は、十戒{(直訳「十の言葉」。出エジプト3428、申命記413104)}の中の、「(1)わたしは、あなたの神、主である。(2)ほかの神々があってはならない。偶像を造ってはならない。それらに仕えてはならない。」という命令を破ったものでした。
この件につき、モーセの兄アロンも大きな罪を犯しました。
この時のアロンに対するヤハウェ(主)の態度は、“アロンに対しても主は激しく怒り、滅ぼそうとされた”(20)というものでした。

 22節の、タブエラとキブロト・ハタアワの出来事は民数記11章に記されている出来事で、ヤハウェ(主)が怒った理由は、ヤハウェ(主)に感謝することをせず、ヤハウェ(主)に不平を言い続けていたからです。

 22節の、マサでの出来事は、出エジプト記17章に記されている出来事で、ヤハウェ(主)の約束を信ぜず、低き心をもってヤハウェ(主)に嘆願することをしなかった罪でした。

 23節の出来事は、民数記13.14章に記されている出来事で、23節に記されているとおり、“主があなたがたをカデシュ・バルネアから遣わし、「上って行って、私があなたがたに与える地を占領しなさい」と言われたときも、あなたがたの神、主の命令に逆らい、主に信頼せず、あなたがたはその声に耳を傾けなかった。」”とあるように、ヤハウェ(主)に対する不信仰の罪でした。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
三一の主なる神様を畏れ敬い、主を愛し、主に信頼し、主に感謝しつつ自分の必要を主に嘆願する者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月24日 (金)

マタイ19:3-12 離縁と結婚と独身者についての教え

 マタイ19:3-12には次のように記されています。
3 ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「どんな理由であれ、夫が妻を離縁することは許されているでしょうか」〔「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」(2017)〕と言った。
4
 イエスはお答えになった。「あなたがたは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」
5
 そして、こうも言われた。「こういうわけで、人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。
6
 だから、もはや二人ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
7
 彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」
8
 イエスは言われた。「あなたがたの心がかたくななので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。
9
 言っておくが、淫らな行い〔原語は「ポルネイア」で売春(筆者挿入)〕のゆえでなく妻を離縁し、他の女と結婚する者は、姦淫の罪を犯す〔不倫をする(筆者挿入)〕ことになる。」
10
 弟子たちは言った。「人が妻と別れてはならない理由〔直訳「人が妻と一緒にいる理由」(欄外注)〕がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。」
11
 イエスは言われた。「誰もがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。
12
 独身者に生まれついた者もいれば、人から独身者にされた者もあり、天の国のために自ら進んで独身者となった者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 結婚と離縁について、主イエス様は、4-6.9節で、
「・・・。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。・・・。こういうわけで、人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、もはや二人ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。/・・・。淫らな行いのゆえでなく妻を離縁し、他の女と結婚する者は、姦淫の罪を犯すことになる。」と語られました。

 ファリサイ派の人たちは、イエス様に、「なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」と質問しました(7)。
ファリサイ派の人たちが質問した内容は、申命記241.3の聖句に基づくものであったのでしょう。
 これに対して、主イエス様の興味深いお答えが記されています。
主イエス様は、「あなたがたの心がかたくななので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。」(8)と語られたのです。
ヤハウェ(主)がモーセを用いてイスラエルの民に教えた教えの中には、ヤハウェ(主)の第一の思いからではなく、人の罪故に、少し譲歩している個所もあるということがわかります。
イエス様は、山上の垂訓(マタイ5-7章)で、おそらくヤハウェ(主)の元々のお考えを教えたのではないかと私は想像します。

 次に、「結婚しないほうがましです。」(10)という弟子たちの言葉を受けて、独身者について、主イエス様は次のように教えられました。
11 ・・・。「誰もがこの言葉〔「結婚しないほうがましです。」という言葉(筆者挿入)〕を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。
〔「その言葉を受けいれることができるのはすべての人ではなく、ただそれを授けられている人々だけである。」(口語訳)〕
12
 独身者に生まれついた者もいれば、人から独身者にされた者もあり、天の国のために自ら進んで独身者となった者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」”と記されています。

 独身の賜物を与えられている人(11節参照)は、天の国のために独身者となれますが、そうでない人が自らの考えだけで独身者になると失敗する場合も多々あります。

 地上の結婚は、永遠における結婚の準備段階なのでしょう。
永遠における結婚は花婿キリストと花嫁エクレシア(教会)の結婚です。

 新生したキリスト者は、新生させていただいた霊においてキリストと結ばれ、キリストと一つの霊とされたものです。これは霊におけるキリストとの結婚です。
1
コリント617には、“主に接合されたものは主と一つの霊となる。”(抜粋・筆者訳)と記されています。

 やがてキリストの現われの時(キリストの空中再臨の時)、すでに天に帰っていた霊と携挙される者には、霊のからだが与えられます(1コリント1552、1テサロニケ416.17、コロサイ341ペテロ113)。そして天に引き上げられた後、花婿キリストと花嫁は結婚の儀を取り行ってもらえるのです(黙示録196-9)。
花嫁とはエクレシア(教会)です(エペソ532)。
教会(エクレシア)とは、天地創造の前から父なる神が、キリストにあって選ばれた者たちで、御父の思慮深い知恵と愛に基づく御計画と、その御計画をすべて実現される御力によって、歴史の中で漸次的に啓示され、そして実行され、キリストにあって一つに集められた御国を受け継ぐ者たちで、キリストの花嫁となる者たちです(エペソ14-11、ローマ828-30、ヤコブ25)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
やがて天において主キリスト・イエス様との婚宴の儀を執(と)り行ってくださいますから感謝します。
地上に在っては、霊に在って主と結ばれておりますことを感謝します。
いつも主を愛し、主に従って歩むことが出来ますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ただ主を」(聖歌520番、聖歌総合版538番)5
「主こそ来るべき王の王 主の主 我(わ)が花婿なれ 我(われ)は恋しとう たたえよ ただ主を 主は救い主 きよめ主 癒し主 王の王 主の主」

「キリスト・イエスをもといとして」(聖歌201番、聖歌総合版160番)1
「キリスト・イエスをもといとして うちたてられし御(み)教会は 君が血を持て買いたまいし 花嫁たちの集まりなり」
アーメン
ハレルヤ!

2023年3月23日 (木)

箴言21:31 人の備えと神による勝利or救い

 箴言2131を、
口語訳は、“戦いの日のために馬を備える、しかし勝利は主による。”と訳し、
2017
は、“戦いの日のためには馬が備えられる。しかし、救いは主による。”と訳しています。

 「勝利」(口語訳)、「救い」(2017)と訳されている語のヘブライ語原語は「テシューアー」で、どちらの意もあり、また、助け、安全、救済(保護)等の意もあります。

 1列王記426には、“ソロモンは、戦車用の馬のために馬屋四万、騎兵一万二千を持っていた。”(2017)と記され、
1
列王記1028には、“ソロモンが所有していた馬は、エジプトとクエから輸入されたもので、王の商人たちが、代価を払ってクエから手に入れたものであった。”(2017)と記しています。
「クエ」は、キリキア地方の古い名称です。
余談になりますが、パウロはキリキアのタルソの出身です(使徒2139)。

 ソロモン王は、戦いのために、そして戦いが起こらないようにと戦車のための馬を準備したのでしょう。

 申命記1716には、“ただし王は、決して自分のために馬を増やしてはならない。馬を増やすために民をエジプトに戻らせてはならない。主は「二度とこの道を戻ってはならない」とあなたがたに言われた。”(2017)とありました。
しかしその後、イスラエルの民が王を欲しがったとき、ヤハウェ(主)は、サムエルを通して、「あなたがたを治める王の権利はこうだ。あなたがたの息子たちを取り、戦車や軍馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。」(1サムエル8112017)と語られました。

 ソロモンの行為は、主のみ旨にかなっていたのでしょうか。

その他、ソロモンにとって耳の痛いヤハウェ(主)の御言葉が、申命記1717に、“また王は、自分のために多くの妻を持って、心がそれることがあってはならない。自分のために銀や金を過剰に持ってはならない。”(2017)と記されています。

 しかし、ソロモンは、妻が700人、側女(そばめ)が300人いたのです。
その結果、ヤハウェ(主)の忠告通りのことが起こりました。
1列王記114-8には次のように記されています。
4 ソロモンが年老いたとき、女たちは彼の心を、他の神々へと向けさせた。彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主に対して誠実ではなかった。
5
 ソロモンは、シドン人の女神アシュトレト、アンモン人の憎むべきものミルコムに付き従って行った。
6
 ソロモンは、主の目に悪とされることを行い、父ダビデと異なり、主に従い通すことはなかった。
7
 その頃ソロモンは、モアブの憎むべきものケモシュと、アンモン人の憎むべきものモレクのために、エルサレムに面した山に高き所を設けていた。
8
 また、あらゆる外国の女たちのためにも同じようなことをしたので、彼女たちは自分の神々に香をたき、いけにえを献げていた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ソロモンは、罪の刈り取りをすることになりました。
その理由と裁きが続く聖書個所の1列王記119-40に記されています。その中から主だった個所を下記します。
:9 ソロモンの心がイスラエルの神、主から離れて行ってしまったので、主はソロモンに怒りを発せられた。主はかつて二度ソロモンに現れ、10 このことについて、「他の神々に従ってはならない」と命じられていた。しかし彼は主が命じられたことを守らなかったのである。
11
 そこで主はソロモンに言われた。「あなたはこのようなことをして、私が命じた契約と掟を守らなかった。それゆえ私は、必ずあなたの王国を引き裂き、あなたの家臣に分け与える。12 ただ、あなたが生きている間は、あなたの父ダビデに免じてそうしないでおく。私が王国を引き裂くのは、あなたの息子の代である。13 ただし、王国すべてを引き裂くというのではない。わが僕ダビデに免じ、また私が選んだエルサレムに免じて、あなたの息子には一つの部族を与えることにする。」
14
 主はソロモンに敵対する者として、エドム人ハダドを起こされた。彼はエドムの王家の血筋を引く者であった。/
23
 また、神はソロモンに敵対する者として、エルヤダの子レゾンを起こされた。彼は自分の主君、ツォバの王ハダドエゼルから逃げ出した者で、24 ダビデがツォバの人々を殺害したとき、自分のもとに人々を集めて、一群の長となった者である。彼らはダマスコに行ってそこに住み、ダマスコを支配した。25 レゾンは、ソロモンが生きている間中、絶えずイスラエルに敵対し、ハダドと同じように災いをもたらし、イスラエルを憎んだ。彼はまたアラムを支配した。/
26
 ネバトの子ヤロブアムはエフライム人で、ツェレダの出身であった。母はすでに夫を亡くしており、名をツェルアと言った。彼はソロモンに仕えていたが、やがて王に反逆することになった。
27
 ヤロブアムが王に反逆するに至った事情は次のとおりである。ソロモンがミロを築き、父ダビデの町の破損を修理していたとき、28 ソロモンはヤロブアムという有能な若者の働きぶりを見て、その男をヨセフ族に課せられた労役全体の監督に任命した。
29
 あるとき、ヤロブアムがエルサレムから出かけて行ったところ、途中で、シロ人の預言者アヒヤに出会った。アヒヤは新しい上着を身に着けていたが、野には二人のほか誰もいなかった。
30
 アヒヤは身に着けていた新しい上着を手に取り、十二切れに引き裂き、31 ヤロブアムに言った。
「十切れを取りなさい。イスラエルの神、主はこう言われる。『私はソロモンの手から王国を引き裂いて、十の部族をあなたに与える。32 ただ、一つの部族だけは、わが僕ダビデに免じ、また私がイスラエルのすべての部族の中から選んだ都エルサレムに免じて、ソロモンのものとする。33 私がこのようにするのは、彼らが私を捨て、シドン人の女神アシュトレト、モアブの神ケモシュ、アンモン人の神ミルコムにひれ伏したからである。また私の道を歩まず、私の目に適う正しいことを行わず、父ダビデと異なり、掟と法を守らなかったからである。34 それにもかかわらず、私はソロモンの手から王国のすべてを取り上げることはしない。私が選び、私の戒めと掟を守った僕ダビデに免じて、その生涯にわたって彼を君主にとどめ置く。35 私はソロモンの子の手から王権を取り上げ、十部族をあなたに与える。36 ただ彼の子には一つの部族を与える。私の前で、私が名を置くために選んだ都エルサレムで、いつも僕ダビデが灯を保つためである。37 だが、私はあなたを選んだのだから、あなたは自分自身の望みどおりにすべてを治め、イスラエルの王となりなさい。38 私が命じたすべてのことに聞き従い、私の道を歩み、私の目に適う正しいことを行い、僕ダビデが行ったように掟と戒めを守るなら、私はあなたと 共にいて、ダビデのために建てたように、あなたのために揺るぎない家を建てる。そして私はあなたにイスラエルを与える。39 このために、私はダビデの子孫を懲らしめるが、いつまでもというわけではない。』」
40
 ソロモンはヤロブアムを殺そうとしたが、ヤロブアムは直ちにエジプトに逃げた。エジプトの王シシャクのもとに逃げ、ソロモンが死ぬまでエジプトにとどまった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 「救い{(テシューアー)=安全、救済、保護}は主による」と箴言2131の後半部分にありましたが、ソロモンは、戦いのために馬を準備しても、自身の背信のゆえにヤハウェ(主)の怒りをかい、ヤハウェ(主)から敵対者を起こされたのでした。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたを畏れ敬い、あなたを愛し、あなたに従うことの大切さを再度教えられます。
イエス様は、「栄華を極めたソロモン」と言われましたが、この世で栄華を極めても背信の罪に陥ったら悲惨であることを覚えます。
霊の戦いにおいても、方法論ではなく、実際に、主が戦ってくださるかどうかにかかっていることを覚えます。
日々、あなたを愛し、あなたに従う歩みをし続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年3月22日 (水)

詩篇63:1-3 魂の渇き/渇きを潤すお方

 詩篇631-3には次のように記されています。
1 賛歌。ダビデの詩。ダビデがユダの荒れ野にいたとき。
2
 神よ、あなたこそわが神。私はあなたを探し求めます。魂〔原語「ネフェシュ」(筆者挿入)〕はあなたに渇き、体〔原語「バーサール」(筆者挿入)〕はあなたを慕います。水のない乾ききった荒れ果てた地で。
3
 聖所であなたの力と栄光にまみえるため、私はあなたを仰ぎます。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所を、リビングバイブルは次のように意訳しています。
“ダビデの賛歌。ユダの荒野に潜伏していた時の作
1
ああ神よ、いったいどこにおられるのですか。一滴の水もない、からからの荒れ地で、私は必死になって神を慕い求めています。
2
あなたの聖所へ行って力と栄光を拝したいと、どれほど願っていることでしょう。
”とあります。

 ダビデのからだも、ダビデの魂も、ひからびていました。
水がなくて体は干乾(ひから)び、主の臨在も感じられなかったのだと思います。
ダビデは祈らなかったのではありません。この詩にあるようにユダの荒れ野で祈っているのです。
それ故ダビデは、神の幕屋(聖所)で礼拝したかったのでしょう。
神の幕屋(天幕)のある所には飲み水もあったでしょう。

 話しは変わりますが、
主イエス様の十字架とご復活により新契約(新約)の時代に入りました。
新契約の時代に入ると、礼拝の場所やありようが変わったのです。
それを先取りして主イエス様が教えられた内容は、サマリアの女性に対する次のようなものです。
 ヨハネ421-24には次のように記されています。
21 ・・・、女よ、私の言うことを信じなさい。あなたがたがこの山でもなく、エルサレムでもなく、父を礼拝するようになる時が来ようとしている
22
あなたがたはわからないものを礼拝し、われわれは自分にわかっているものを礼拝している。救いはユダヤ人たち〔原語は複数形(筆者挿入)〕から来るからである。
23
本物の礼拝者たちが霊と真理のうちにあって父を礼拝するようになる時が来ようとしている。今がその時だ。事実、父は自分を礼拝する人々としてこのような人々を求めているのである。
24
神は霊である。そして神を礼拝する人々は霊と真理のうちにあって〔直訳しています(筆者挿入)〕礼拝しなければならない」(岩波訳)とあります。

 次に、常時、魂の潤っていることが可能であることをイエス様が教えた個所に、ヨハネ737-39があり、次のように記されています。
37 祭りの終わりの大事な日に、イエスは立ったまま、大声で言われた。
「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。38 私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川〔原語によると「川」は複数形(筆者挿入)〕となって流れ出るようになる。」
39
 イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ与えられていなかったからである〔直訳「聖なる霊がまだなかったからである」(筆者挿入)〕。”(聖書協会共同訳)とあります。

 神は霊であり、故に、三一の主なる神様は、聖なる(きよい)霊です。
「聖なる霊がまだなかったからである」とはどういうことなのでしょう。
推測ですが、キリストが人性において経験した経験を持つ聖い霊なのではないかと思います。
ローマ89には、“もしも神の霊があなたがたのうちに住んでいるのなら、あなたがたは肉のうちにではなく、霊のうちにいる。もしも誰かがキリストの霊をもたないのなら、その人はキリストのものではない。”(岩波訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
旧約(旧契約)の時代とは異なり、新約(新契約)の時代は、いつでもどこでも、というより、常に三一の主の霊が内に住んでくださり、魂を潤してくださいますから感謝します。
常に魂が聖い状態にあって、主の霊が川々のように魂を通過し、他者へと流れ出ていく者でありますよう整え続けてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
15 「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。
16
 私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者〔原語「パラクレートス」(筆者挿入)〕を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
17
 この方は、真理の霊〔「真理」も「霊」も定冠詞付き(筆者挿入)〕である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。しかし、あなたがたは、この霊を知っている。この霊があなたがたのもとにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
18
 私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
19
 しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになる。
20
 かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
21
 私の戒めを受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現す。」
22
 イスカリオテでないほうのユダが、イエスに言った。「主よ、私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか。」
23
 イエスは答えて言われた。「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。
24
 私を愛さない者は、私の言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は私のものではなく、私をお遣わしになった父のものである。”(ヨハネ14章・聖書協会共同訳)

2023年3月21日 (火)

申命記9:1-6 強敵アナク人に勝利するためには/主の御名による勝利

 申命記91-6には次のように記されています。
1 聞け、イスラエルよ。あなたは今日ヨルダン川を渡って行って、あなたよりも大きく、強い諸国民を追い払おうとしている。町は大きく、城壁は天に届くほどで、2 あなたも知っている、大きくて背の高い民、アナク人の子孫がいる。あなたは、「誰もアナク人の子孫には立ち向かえない」と聞いたことがあるだろう。
 3 しかし今日、あなたの神、主があなたに先立って渡り、焼き尽くす火となり、彼らを滅ぼし、あなたの前に屈服させてくださることを知りなさい。それゆえ、主があなたに語られたとおり、あなたは彼らを速やかに追い払い、滅ぼすことができる。
4
 あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、
「私が正しいから、主が私を導いてこの地を所有させてくださった」と考えてはならない。
むしろ、この諸国民が悪かったから、主はあなたの前から彼らを追い払われるのだ。
5
 あなたが正しく、心がまっすぐだから、彼らの土地に入り、それを所有するのではない。
この諸国民が悪かったから、あなたの神、主があなたの前から 彼らを追い出すのである。
こうして主は、あなたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を果たされる。
6
 だからあなたは、自分が正しいから、あなたの神、主がこの良い地を所有させてくださるのではないことを知りなさい。
あなたは、実にかたくなな民なのだ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 アナク人に関する聖書内のいくつかの記述
民数記13章には、“22彼ら〔イスラエルの偵察隊(筆者挿入)〕は上って行ってネゲブに入り、ヘブロンまで行った。そこにはアナクの子孫であるアヒマンと、シェシャイと、タルマイがいた。ヘブロンはエジプトのツォアンより七年前に建てられていた。/
32
彼らは偵察して来た地について、イスラエルの子らに悪く言いふらして言った。
「私たちが行き巡って偵察した地は、そこに住む者を食い尽くす地で、そこで見た民はみな、背の高い者たちだ。33 私たちは、そこでネフィリムを、ネフィリムの末裔アナク人を見た。私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」”(2017)と記され、
ヨシュア1415には、“ヘブロンの名は、かつてはキルヤテ・アルバであった。これは、アルバがアナク人の中の最も偉大な人物であったことによる。”(2017)とあります。

 モーセから申命記の内容を聞いている人々の、巨人に怯えた親の世代の人たちの話は、民数記13.14章に記されています。

 イスラエルが巨人に勝利できるのは、イスラエルの民が強いからではなく、またイスラエルの民が義人であるからというわけでもなく、カナンの地の住民の罪が満ちたからです(5)。

 余談になりますが、現代も罪が満ちてきて御怒りが下りそうになっているのかもしれません(1テサロニケ110、エゼキエル38章、マタイ243-811.122テモテ31-5、エレミヤ305-7)。

 話しをもとに戻します。
このこと(カナンの地の住民の罪が満ちること)は創世記15章に次のように記されています。
13 主はアブラムに言われた。
「あなたはこのことをよく覚えておきなさい。あなたの子孫は、異国の地で寄留者となり、四百年の間、奴隷として仕え、苦しめられる。
14
 しかし、あなたの子孫を奴隷にするその国民を、私は裁く。その後、彼らは多くの財産を携えてそこから出て来る。
15
 あなた自身は良き晩年を迎えて葬られ、安らかに先祖のもとに行く。
16
 そして、四代目の者たちがここに戻って来る。それまでは、アモリ人の悪が極みに達していないからである。」〔出エジプトの民がカナンの地に入る頃にはアモリ人{カナンの地の民}の悪が神の裁きの対象となる状態に達しているということなのでしょう(筆者挿入)〕/
18
 こうしてその日、主はアブラムと契約を結んで言われた。
「あなたの子孫にこの地を与える。エジプトの川からあの大河ユーフラテスに至るまで の、19 カイン人、ケナズ人、カドモニ人、20 ヘト人、ペリジ人、レファイム人、21 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を与える。」”(聖書協会共同訳)とあります。
これは申命記95の、“こうして主は、あなたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を果たされる。”という個所のことでしょう。
土地に関するアブラハム契約は、イサク、ヤコブにも受け継がれました(創世記247261-32813)。

 イサクは神の約束の子であり、アブラハムから生まれたということで、カナンの地を所有したのです。
キリスト者も約束の子であり(エペソ14、ローマ828-30)、神から生まれた霊を持つ(ヨハネ336、1ヨハネ228-321ペテロ13・新共同訳、口語訳、聖書協会共同訳などを参照)ゆえに、キリストの現われの時には霊のからだも与えられ(コロサイ341テサロニケ416.17)、御国を継ぐのです(マタイ53)。

 モーセの次の時代、ヨシュアとカレブはアナク人を撃破していきました。
ヨシュア1121.22には、“21 同じ頃、ヨシュアは山地、ヘブロン、デビル、アナブなど、すべてのユダの山地およびイスラエルの山地に攻め込み、アナク人を絶ち滅ぼした。ヨシュアは彼らをその町もろとも滅ぼし尽くした。22 そのため、アナク人はイスラエルの人々の地から一人もいなくなった。ただ、ガザ、ガト、アシュドドに残るのみとなった。”(聖書協会共同訳)とあり、
ヨシュア1513.14には、“13 ヨシュアは主の命令に従い、エフネの子カレブに、ユダの一族の中にあるキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンを割り当て地として与えた。アルバはアナク人の先祖である。14 カレブはそこからアナク人の三つの氏族、すなわち、アナクの子孫であるシェシャイ、アヒマン、タルマイを追い出し、”(聖書協会共同訳)とあります。

 アナク人は、ガザ、ガト、アシュドドというようなペリシテの地には残りました。
時代は下り、サウル王の時代、イスラエルの民は、巨人ゴリアト(ゴリアテ)をこわがり、誰もゴリアトと戦おうとはしませんでした。
その中に在って、そこにやって来たダビデ少年のみが、主の御名によって戦ったのです。
 ダビデは巨人ゴリアテに勝利しました。
サウルの前に現れたダビデのことばとイスラエルの民の思いの代表としてのサウル王の言葉は、1サムエル1732.33に、
32 ダビデはサウルに言った。「あの男のことで、誰も気落ちしてはなりません。あなたの僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」
33
 サウルはダビデに言った。「お前が出て行って、あのペリシテ人と戦うことなどできない。お前は少年だし、彼は少年のときからの戦士なのだ。」”(聖書協会共同訳)と記されています。
 一方、ダビデの言葉は次のように記されています。対戦者のペリシテ人ゴリアテの言葉をも含めて下記します。
41 ペリシテ人は盾持ちを先に立て、一歩一歩ダビデに近づいて来た。
42
 彼は眼を据えてダビデを見たが、ダビデが容姿端麗で、血色の良い少年だったので侮った。
43
 そのペリシテ人はダビデに言った。「私は犬か。杖を持って私に向かって来るとは。」そして自分の神々によってダビデを呪い、44 ダビデに言った。「さあ掛かって来い。お前の肉を空の鳥、野の獣にくれてやろう。」
45
 ダビデはそのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍で私に向かって来るが、私はお前が挑戦したイスラエルの戦列の神〔イスラエルの戦陣の神(2017)〕、万軍の主の名によって、お前に立ち向かう。”(1サムエル1745・聖書協会共同訳)とあります。

 キリスト者は、人とは戦いませんが、悪魔悪霊とは戦います(エペソ612)。
私たちは、天地の主権者である、主キリスト・イエスの御名によって悪魔悪霊に勝利できるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
主イエス様はご復活後、「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」(マタイ28182017)と語られました。ハレルヤ!
私たちも、主の御名によって悪魔悪霊に勝利させていただけますから感謝します。
あなたの御名を賛美し、感謝しつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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