日毎の恵み15

2023年10月10日 (火)

マタイ26:69-75 イエス様を知らないと、3度証言したペトロ(ペテロ)/自分について正しく認識できない人間

 マタイ2669-75には次のように記されています。
69 ペトロが外の中庭に座っていると、召し使いの女が一人近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。
70
 ペトロは皆の前で打ち消して、「何を言っているのか、分からない」と言った。
71
 ペトロが門の方へ行くと、ほかの召し使いの女が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。
72
 そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。
73
 しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉のなまりで分かる。」
74
 その時、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。
75
 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イエス様と弟子たちは、最後の晩餐を終えて、ゲツセマネの園へと向かいました。その途中でイエス様は弟子たちに、「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』〔ゼカリヤ137の預言を引用(筆者挿入)〕と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」(マルコ1427.28)・2017}と語ったのです。

 それに対するペテロや弟子たちの反応やイエス様のお答えは次のようでした。
“すると、ペテロがイエスに言った。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
ペテロは力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」
皆も同じように言った。”(マルコ1429-31・新改訳)

このやり取りがあってから、少し後に、このイエス様の預言は実現したのです。

この個所の並行記事であるルカの福音書には、次のようにあります。
“「シモン、シモン〔ペテロのこと(筆者挿入)〕。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」”(ルカ2231.322017)とイエス様は言われたのです。
 主イエス様の御言葉に対し、シモン・ペテロは、「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22332017)と答えたのです。

しかし、イエス様は「ペテロ。あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」”{(ルカ2233.34)新改訳}と言われました。

人間は、自分のことは自分が一番よくわかっていると思うことがよくあるだろうと思います。他者に助言を求めておいて、少し厳しいことを言われると、「何も分かっていないあなたにそのようなことを言われる道理はない。」などと開き直ってしまうことを見ても分かります。人間は、全体としても個人としても、実に自分について理解していないことが数え切れないほどあります。自分の背中を見ることはできないのに、他人の背中を見ることはできるのです。人の死についても同じです。動いている心臓がいつ止まってしまうのかも分かりません。人間は、約38兆個の細胞からできているといわれていますが、その細胞の一つの活動も正しく把握しきれないのに、人間は生きています。人間は、自分では賢いと思っているのに大脳の詳しい活動も分かりません。

人間は、明日はこの様なことをしようと計画を立てますが、今夜の内に死ぬかもしれません(ルカ1216-20)。
それ故、聖書には、“「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。”(ヤコブ4152017)と記されています。

私たち人間は、自分のことについても、他人のことについても、知っていることはほんのわずかです。しかし、神様は何でも知っているのです。何でも知っていて、守り、導き、支えていてくれるのです。

ペテロや他の弟子たちが、イエス様から近未来の預言を言われた時、言い張ってしまうのではなく、言われたことを元にして、より主の御旨にかなうような歩みをすることが出来るようにと主に願い求めれば良かったのではないかと思います。

その祈りについても、イエス様は、先回りして祈っていて下さいました。
「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。」(ルカ22322017)と。イエス様はご自身が厳しい状況にあったにもかかわらずです。
イエス様が父なる神様の右の座に着座されている現在でも、私たちの為に、イエス様はとりなしの祈りをしてくださっておられます(ローマ834)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めて感謝します。
イエス様を信じて救われた後も、自分で知らない内に、幾度(いくたび)イエス様がとりなしの祈りをしてくださったことでしょうか。
ただ感謝するのみです。
私が、私自身のことをよく理解できていなくても、あなたは、私のありとあらゆることを知っておられます。その上で導いて下さっておられますから、いつでもお従いすることが出来ますよう助けていて下さい。
あなたは、「すべてのことを事を感謝せよ。」とおっしゃいます。
しかし、感謝出来ないと思えるようなことも、あなたは、感謝できるように導いていて下さいますからありがとうございます。
今日も、あなたに感謝し、あなたを崇めて歩む一日とさせて下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ああ主の瞳(ひとみ)」(讃美歌243 新聖歌221
“2.ああ主のひとみ まなざしよ 三度(みたび)わが主を否(いな)みたる 弱きペテロを顧みて 赦すは誰ぞ 主ならずや
4.昨日(きのう)も 今日(きょう)も 変わりなく 血潮したたる御手を伸べ 「友よ 帰れ」と招きつつ 待てるは誰ぞ 主ならずや”

2023年10月 9日 (月)

箴言25:18-20 主を愛し、主に信頼し、主のご性質にあずかり、人に寄り添う者

 箴言2518を、
2017
は“隣人について偽りの証言をする人は、こん棒、剣、また鋭い矢のようだ。”と訳し、
リビングバイブルは“うそを言いふらすのは、斧を振り回したり、刃物で切りかかったり、鋭い矢を射かけたりするのと同じです。”と意訳しています。

 昔から悪口、雑言(無用のくだらない言葉)、非難、中傷等はあったのでしょう。
現代では、あっという間に世界にニュースが流れる時代です。
真実なニュースもありますが、フェイクニュースも溢れています。
主なる神様が、悪魔(サタン)の働く範囲の拡大許可を出せば、この世は偽りに満ちていくことでしょう。
悪魔(サタン)は「偽りの父」であるからです。
ヨハネ844には次のように記されています。
“あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。”(新共同訳)とあります。

 この聖句は、悪魔(サタン)について次のように教えてくれています。
悪魔(サタン)は、
①人殺しです。それも人類の歴史の初めからです。神様が人祖アダムとエバを造りましたが、サタンは先ずこの二人を殺したのです。
②真理をよりどころとしていません。なぜなら、悪魔(サタン)のうちには真理がないからです。
③偽りの父です。嘘をつくことを悪いとは思っていないのです。

 人は、主の救いにあずかり、主に信頼し、主の御言葉に従った歩みをしていなければ、サタンの支配の流れの中に流されていくのです。
エペソ21-3には次のように記されています。
1 君達も(私達と同様に)自分の咎と罪によって死んだ者であって、2 かつてはこの世の世界の流れに従い、すなわち空中の権威と、今も不従順の子らの中に働いている(悪)霊との首領に従って、その咎と罪の中を歩いたのであった。3 (否、)私達も皆かつてはこの人達に伍して自分の肉の欲の中に生活し、肉と欲望の欲するままに振舞って、他の(異教)人達のように生まれながら(神の)怒りの(審判に定められた)子であった。”{塚本訳。( )内は訳者挿入}

箴言2519を、
口語訳は“悩みに会うとき〔苦難の日に(2017)〕不信実な者を頼みにするのは、悪い歯、またはなえた足を頼みとするようなものだ。”と訳し、
リビングバイブルは“あてにならない人に頼るのは、痛む歯でかみ、折れた足で走るようなものです。”と意訳しています。

 苦難に遭遇した時、人によっては、神様のもとへと直行するのではなく、人に頼ったり、自分でどうにかしようと思い悩むことがあるだろうと思います。
しかし主なる神様は「わたしにより頼みなさい」とおっしゃってくださいます。

 詩篇5015には“苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。”(新改訳初版~第三版)と記されています。
詩篇18篇を読むと、それが真実な主の御言葉であるということを証しているように思えます。
 詩篇18篇{(抜粋)ダビデの詩}には次のように記されています。
1 わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。
2
主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。
3
わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。
4
死の綱は、わたしを取り巻き、滅びの大水は、わたしを襲いました。
5
陰府の綱は、わたしを囲み、死のわなは、わたしに立ちむかいました。
6
わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました。主はその宮からわたしの声を聞かれ、主にさけぶわたしの叫びがその耳に達しました。/
18
彼らはわたしの災の日にわたしを襲いました。しかし主はわたしのささえとなられました。
19
主はわたしを広い所につれ出し、わたしを喜ばれるがゆえに、わたしを助けられました。/
46
主は生きておられます。わが岩はほむべきかな。わが救の神はあがむべきかな。
47
神はわたしにあだを報いさせ、もろもろの民をわたしのもとに従わせ、48 わたしの敵からわたしを救い出されました。
まことに、あなたはわたしに逆らって、起りたつ者の上にわたしをあげ、不法の人からわたしを救い出されました。
49
このゆえに主よ、わたしはもろもろの国民のなかであなたをたたえ、あなたのみ名をほめ歌います。”(口語訳)とあります。

 また詩篇91篇には次のような聖句があります。
14 彼がわたしを愛しているからわたしは彼を助け出す。彼がわたしの名を知っているからわたしは彼を高く上げる。
15
彼がわたしを呼び求めればわたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い、彼に誉れを与える。
16
わたしは彼をとこしえのいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せる。」(2017)と記されています。

 箴言2520を、
2017
は“心配している人の前で歌を歌うのは、寒い日に服を脱ぐようなもの、ソーダの上に酢を注ぐようなものだ。”と訳し、
聖書協会共同訳は“寒い日に衣を脱がせ、傷の上に酢を注ぐ。それは苦しむ心に向かって歌を歌うこと。”と訳し、
リビングバイブルは“気が沈んでいる人のそばで騒ぐのは、寒さに震えている人の上着を盗み、傷口に塩をすり込むようなものです。”と意訳しています。

「ソーダ」(2017)、「傷」(聖書協会共同訳)と訳されている個所があります。
聖書協会共同訳の欄外注に加筆して記すと、「傷」という訳は、70人訳ギリシア語聖書による訳であり、ヘブライ語聖書の原語は「ネーテル」で、「炭酸ソーダ」のことです。
参考にした聖書の違いによる訳の違いです。

ローマ1215の「泣く者と共に泣きなさい。」という聖句を思い起こします。
人の心に寄り添うことの大切さを教えてくれているように思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主を愛し、主に信頼し、主との交わりを深くして主をさらによく知り、主のご性質にあずからせていただくことの大切さを覚えます。
あなたの子どもとしてふさわしくお整え下さり、あなたとの豊かな交わりの内に日々を過ごす者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月 8日 (日)

詩篇100篇 主は慈しみ深くその真実は代々に至る/主を賛美する生活

 詩篇100篇には次のように記されています。
“感謝の賛歌。
1
全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ。
2
喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
3
知れ。主こそ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。
4
感謝しつつ主の門に、賛美しつつその大庭に入れ。主に感謝し御名をほめたたえよ。
5
主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで。その真実は代々に至る。”(2017)とあります。

 「ダビデの詩」とは記されていませんが、「牧場の羊」という用語から、ダビデの詩と仮定すると、4節に「主の門に、・・その大庭に」とあるので、これは幕屋(会見の天幕)の門、幕屋の大庭のことでしょう。そのようなわけで、「全地よ」(1)というのは、イスラエルの全地のことを指して言っているのでしょう。
ダビデの時代はまだ神殿は建てられていませんでした。
 ダビデは、イスラエルの民のいるところで、
1 全地よ。ヤハウェ(主)に向かって喜びの声をあげよ。
2
喜びをもってヤハウェ(主)に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
3
知れ。ヤハウェ(主)こそ神。彼が私たちを造られた。私たちは私たち自身のものではなく、彼の民、彼の牧場の羊である。
4
感謝しつつ、その門に、賛美しつつ、その大庭に入れ。彼に感謝し、御名をほめたたえよ。
5
ヤハウェ(主)はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。」
と賛美したのでしょう。(私が参考にしているヘブライ語聖書を基にしています)

 このような賛美は、心からヤハウェ(主)を神とすることを喜んでいる人でなければ賛美できる内容ではありません。
未信者の人は、このように賛美することはできないでしょう。
また偶像礼拝者は、このような賛美を嫌うでしょう。
詩篇100篇を「アーメン」「アーメン」と思いつつ読むことの出来る人は幸いです。

 エペソ28-10には次のような聖句が記されています。
8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
9
決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。
10
わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。”(口語訳)とあります。

 キリスト者は詩篇100篇が大好きでしょう。
それは、エペソ210に記されていることのゆえなのでしょう。
主に新しく作られた民は、その良い行いとして、まず、霊と真実をもって、主を賛美するように造られているからです{詩編10218(新共同訳・聖書協会共同訳は19節)、エペソ16.12.14}。
良い行いはたくさんありますが、まず主を賛美すること、それに勝る良い行いはないでしょう。

 神様は、モーセに命じて幕屋(会見の天幕)を造らせました。
ソロモンの時代になり、幕屋は神殿にかえられました。
新約時代に入り、神殿(宮)とは、キリスト者のからだであると教えていただきました。
それは、キリスト者の内に主なる神様が住まわれたからです。
1
コリント619.20には次のように記されています。
19 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮〔神殿(新共同訳・聖書協会共同訳)〕であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。
20
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。”(2017)とあります。

 いつでもどこでも、慈しみ深く、恵み深く、真実を尽くしてくださる主を賛美しつつ生活することが出来る恵みが与えられている者、それがキリスト者です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
今日もあなたを賛美しつつ歩む一日(ひとひ)であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月 7日 (土)

申命記32:1-14 ヤハウェ(主)はどのようなお方なのか

 申命記321-14には次のように記されています。
1 天よ、耳を傾けよ。私は語ろう。地よ、聞け。私の口のことばを。
2
私のおしえは雨のように下り、私のことばは露のように滴る。若草の上の小雨のように。青草の上の夕立のように。
3
まことに私は主の御名を告げ知らせる。栄光を私たちの神に帰せよ。
4
主は岩。主のみわざは完全。まことに主の道はみな正しい。主は真実な神で偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。/
6
・・・。主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く立てた方ではないか。/
8
いと高き方が、国々に相続地を持たせ、人の子らを割り振られたとき、イスラエルの子らの数にしたがって、もろもろの民の境を決められた。
9
主は、測り縄で割り当て地を定められた。ご自分の民、ヤコブへのゆずりの地を。
10
主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。
11
鷲が巣のひなを呼び覚まし、そのひなの上を舞い、翼を広げてこれを取り、羽に乗せて行くように。
12
ただ主だけでこれを導き、主とともに異国の神はいなかった。
13
主はこれを地の高い所に上らせ、野の産物を食べさせた。主は岩からの蜜と硬い岩からの油でこれを養い、14 牛の凝乳と羊の乳を最良の子羊とともに、バシャンのものである雄羊と雄やぎを小麦の最良のものとともに、与えてくださった。あなたは泡立つぶどう酒を飲んだ。”(2017)とあります。

 32章はモーセの歌です。
モーセがイスラエルに歌として残した理由は、申命記3127-30にリビングバイブルによると次のように意訳されています。
27 「あなたがたが反抗的で強情であることはわかっている。こうして私がいっしょにいてさえ主に反抗するのだから、私が死んだらどうなることかわかったものではない。
28
さあ、部族の長老、役人を全員集めなさい。天と地とを証人に立て、言っておきたいことがある。
29
私の死後、あなたがたはきっと堕落し、主の命令に背くだろう。主を怒らせるような悪いことをし、その報いで結局は破滅を招くのだ〔主の怒りを引き起こすからである(2017)〕。」
30
それでモーセは、イスラエルのすべての民に聞こえるように、次の歌を初めから終わりまで歌いました。”とあります。

 申命記3127-30を読んでわかるように、この歌はイスラエルに向けられたものです。
しかし、主なる神様のご性質はイスラエルとは関係なく変わるようなものではありません。

 1テモテ213には“私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。”(2017)と記され、
1
ペテロ125には“主のことばは永遠に立つ”(2017)と記され、
また主イエス様ご自身が“天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。”(マタイ24352017)と語られたのです。

 主なる神様はどのようなお方なのか、それはイスラエルの民に対してであっても、私たちキリスト者に対してであっても同じです。
そこで今日の御言葉の個所の範囲において、神様がどのような方であるのかを見ていきたいと思います。

 4節には“主は岩。主のみわざは完全。まことに主の道はみな正しい。主は真実な神で偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。”とあります。
①主は岩:岩は堅固であることを表しています。ダビデは主の守りの堅固さを岩にたとえて歌っています。私たちキリスト者は岩の上に立てられたものです。主イエス様は隅の頭石なのですから。
またマタイ724には「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。」(2017)という主イエス様の御言葉もあります。
②主のみわざは完全
③主の道はみな正しい
④主は真実な神で偽りがなく、正しい方、直ぐな方、
4節に記されています。

 6節には“主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く立てた方ではないか。”とあります。
主は創造主です。全てのものは主によって造られました(創世記1章)。
またコロサイ115-17には次のように記されています。
15 御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
16
なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。
〔リビングバイブルは「事実、キリストはすべてのものの創造者なのです。天にあるものも地にあるものも、目に見えるものも見えないものも、霊の世界の王座も主権も支配も権威もすべて、この方がご自身の目的と栄光のために造られたのです。」と意訳しています。(筆者挿入)〕
17
御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。”(2017)とあります。

 8.9節には次のように記されています。
8 いと高き方が、国々に相続地を持たせ、人の子らを割り振られたとき、イスラエルの子らの数にしたがって、もろもろの民の境を決められた。
9
主は、測り縄で割り当て地を定められた。ご自分の民、ヤコブへのゆずりの地を。”とあります。
 パウロは異邦人であるギリシアのアテネの人に次のように語りました。
26 神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。”(使徒17章・2017)と記されています。
パウロはその理由を次の27節に次のように記しています。
“それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。”(2017)とあります。

 10-12節には次のように記されています。
10 主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。
11
鷲が巣のひなを呼び覚まし、そのひなの上を舞い、翼を広げてこれを取り、羽に乗せて行くように。
12
ただ主だけでこれを導き、主とともに異国の神はいなかった。”とあります。
私たちキリスト者にあてはめていえば、
主は私たちを、サタンが支配するこの世において、私たちを見つけてくださり、世話をし、ご自分の瞳のように守ってくださり、親鳥がひなを育てるように育て、そして導いてくださった、ということが出来るでしょう。

 13.14節には次のように記されています。
13 主はこれを地の高い所に上らせ、野の産物を食べさせた。主は岩からの蜜と硬い岩からの油でこれを養い、14 牛の凝乳と羊の乳を最良の子羊とともに、バシャンのものである雄羊と雄やぎを小麦の最良のものとともに、与えてくださった。あなたは泡立つぶどう酒を飲んだ。”とあります。
 主は私たちキリスト者に、地上における食料や生活必要物質を与え(ピリピ419)、天にあるすべての霊的祝福を与えてくださったのです(エペソ13)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは私たちをとこしえに愛し、守り、導き、支えてくださいますから御名を崇め感謝します。
あなたの御名を賛美しつつ私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月 6日 (金)

マタイ26:57-68 大祭司やサンヘドリンの議員たちから違法な裁判で死刑判決を受けたイエス・キリスト様

 マタイ2657-68には次のように記されています。
57 人々はイエスを捕らえ、大祭司カイアファ〔カヤパ(口語訳、新改訳)〕のところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。
58
 ペトロは遠くからイエスの後に付いて、大祭司の中庭まで行き、成り行きを見届けようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。
59
 さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスに対する偽証を求めた。
60
 偽証者が何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、
61
 「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。
62
 そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか。この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」
63
 イエスは黙っておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」
64
 イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。だが、私は言っておく。あなたがたは間もなく人の子が力ある方の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」
65
 そこで、大祭司は衣を引き裂いて言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。66 どう思うか。」
人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。
67
 そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打って、68 「メシア、お前を殴ったのは誰か、言い当ててみろ」と言った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 マタイ265657節の間には、ヨハネ1813の出来事が入ります。
マタイ2657.58の個所をも含めて、ヨハネ1812-16はもう少し詳しく次のように記しています。
12 そこで一隊の兵士とその大隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、13 まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファ〔カヤパ(口語訳、新改訳)〕のしゅうとだったからである。
14
 一人の人が民の代わりに死ぬほうが好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。
15
 シモン・ペトロ〔ペテロ(新改訳)〕ともう一人の弟子〔筆者の使徒ヨハネ(リビングバイブル)〕は、イエスに付いて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の中庭に入ったが、16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 祭司長とサンヘドリンの議員たちは、正式な裁判ではなく、最初からイエス・キリストを死刑にしてしまおうと決めていたのです。
マタイ2659には“さて、祭司長たちと最高法院〔ユダのサンヘドリン(筆者挿入)〕の全員は、死刑にしようとしてイエスに対する偽証を求めた。”と記されています。

 十のことば(十戒)には“隣人について偽りの証言をしてはならない。”(聖書協会共同訳)と記されていますが、偽りの証人は幾人も出たようです。
60.61
節には次のように記されています。
60 偽証者が何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、
61
 「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。”とあります。
 61
節の「神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる、と言いました」という証言も、主イエス様の御言葉を歪曲(わいきょく)したものでした。
ヨハネ219には次のように記されています。
「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(聖書協会共同訳)と主イエス様は語られたのです。
 主イエス様が上記のように語られた個所は、過越しの祭りが近づいた頃の宮清めでした。ヨハネ2章には次のように記されています。
13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。
14
 そして、神殿の境内で、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たち〔しばしば法外な交換率で両替して暴利をむさぼっていた(筆者挿入)〕が座っているのを御覧になった。
15
 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、16 鳩を売る者たちに言われた。「それをここから持って行け。私の父の家を商売の家としてはならない。」
17
 弟子たちは、「あなたの家を思う熱情が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。
18
 ユダヤ人たちはイエスに、「こんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか」と言った。
19
 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
20
 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、三日で建て直すと言うのか」と言った。
21
 イエスはご自分の体である神殿のことを言われたのである。
22
 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 何とかイエス・キリストを死刑にしたい大祭司は、イエス・キリストに「生ける神の御名によって命じる。あなたは神の子キリスト〔メシア(筆者挿入)〕なのかどうか。さあ、はっきり答えてみなさい。」(63節・リビングバイブル)と言いました。

 大祭司が、「生ける神の御名によって命じる」と、イエス・キリスト様に言われたものですから、イエス・キリスト様は次のように答えました。
大祭司の質問に対する主イエス様のお答えとサンヘドリンの議員たちの言動をリビングバイブルは次のように意訳しています。
65 これを聞いた大祭司は、即座に着物を引き裂き、大声で叫びました。「冒涜だ!神を汚すことばだ!これだけ聞けば十分だ。さあ、みんなも聞いたとおりだ。66 この男をどうしよう。」
一同はいっせいに叫びました。「死刑だ、死刑にしろ!」
67
そうして、イエスの顔につばをかけたり、なぐったりしました。またある者は、平手で打ち、68 「おい、キリストなんだろ。当ててみろ。今おまえを打ったのはだれだ」とからかいました。”と記しています。

 64節に記されている主イエス様の御言葉は、ダニエル713の預言に基づくもので、“私は夜の幻を見ていた。見よ、人の子のような者が天の雲に乗って来て、日の老いたる者のところに着き、その前に導かれた。”と(聖書協会共同訳)と記されています。
続く14節には、“この方に支配権、栄誉、王権が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちすべては、この方に仕える。その支配は永遠の支配で、過ぎ去ることがなく、その統治は滅びることがない。”(聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様は、真実のみを語りました。
そして死刑判決を受けました。
進んで偽証した人たちや、「死刑だ」と言った人たちは、最後の審判の時に驚くことになるのでしょう。
私たちキリスト者も、もし主イエス様の贖いを信じないで最後の審判のところに出されたら、その罰は、火の池でした。
イエスキリストの恵みと神の愛と聖霊の関与に感謝します。
三一の主なる神様の愛の実行によって救いにあずからせていただけましたことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月 5日 (木)

箴言25:17 主に在って生きる恵みを与えられている者の幸い

 箴言2517を、
2017
は“隣人の家にあまり足を運ぶな。その人がうんざりして、あなたを憎まないように。”と訳し、
聖書協会共同訳は“友人の家に軽々しく足を運ぶな。飽き飽きされ、憎まれることがないように。”と訳し、
リビングバイブルは“近所だからといって、他人の家にあまり通いすぎると嫌われます。”と意訳しています。
新改訳初版~第三版は“隣人〔友人(新共同訳)〕の家に、足しげく通うな。彼があなたに飽きて、あなたを憎むことのないようにせよ。”と訳しています。

 「隣人」(新改訳)、「友人」(新共同訳)と訳された語の原語は「レア」で、結びついている人、仲間、隣人、友人、兄弟、伴侶者、・・等の意があります。

 「あまり」(2017)、「軽々しく」(聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ヤーカル」で、だるい、しまりがない、もたれる、寄りかかる、(目方が)重い、等の意があります。

 「家」と訳されている語のヘブライ語原語は「ベート」で、家、家族、娘、・・等の意があります。

 この聖句は、上記の翻訳通りの意ですけれど、「隣人」、「友人」という個所に、兄弟、伴侶者、等の語を入れてみるのも良いかもしれません。
 一番近い関係では、伴侶者ということになるでしょうか。
少し意訳になりますが、「パートナーor兄弟or友人にしまりなく寄りかかると、飽き飽きされ、嫌われる。」とも訳せます。

 人間は、他の人を背負いきれないのです。
中には、背負い続けていく人もいますが、それでもその人が高齢になったり、心身が弱ったりしたら、自分のことを自分でカバーすることもできなくなりますから、完全に背負いきるということは無理です。

 しかし主なる神様は違います。
いつも一緒にいてくださるのです。
その上、全き愛のお方であり、全能、全知のお方です。

 いつも主の霊に満たされている人は、愛に生きることが出来るでしょう。
そのような人たちの間柄においては、憎まれるということはないでしょう。
1
コリント134-7には次のように記されていますから。
4愛は寛容なもの、慈悲深いものは愛。愛は、妬まず、高ぶらず、誇らない。
5
見苦しい振る舞いをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪事を数え立てない。
6
不正を喜ばないが、人とともに真理を喜ぶ。
7
すべてをこらえ、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐え忍ぶ。”(フランシスコ会訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたの子どもとして、いつもあなたと共にいて良く、主イエス様とは霊においてすでに結ばれており、御聖霊は私たちの内に住んでくださっておられます。
三一の主なる神様と絶えざる交わりを持つことを許されている恵みを感謝します。
それどころか、絶えず祈りなさい、と言われているように、いつも交わりを持ち、どんなことでも祈ることが出来、頼ることが出来る恵みを与えられているのですから御名を崇めて感謝します。
今日も、自分なりに主を愛し、主に従って歩ませていただけますように。
限りなく愛してくださっておられます私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月 4日 (水)

詩篇99篇 ヤハウェ(主)は聖なる王、主を崇め主にひれ伏せ

 詩篇99篇には次のように記されています。
1 主は王となられた。もろもろの民は震えよ。主はケルビムの上に座しておられる。地は揺れよ。
2
 主はシオンにおられる偉大な方。主はすべての民の上に高くおられる。
3
 彼らが偉大な畏るべきあなたの名をほめたたえるように。主は聖なる方。
4
 王は力ある方、公正を愛される。あなたは公平を堅く打ち立てられた。ヤコブの中に公正と正義とをあなたは成し遂げられた。
5
 我らの神、主を崇めよ。その足台にひれ伏せ。主は聖なる方。
6
 モーセとアロンは祭司の中に、サムエルは主の名を呼ぶ者の中にいた。彼らが主に呼びかけると、主は彼らに答えた。
7
 主は雲の柱の内から彼らに語りかけ、彼らは主の定めと、主から賜った掟とを守った。
8
 主、我らの神よ、あなたは答えられた。あなたは彼らを赦す神。しかし、彼らの悪行には報いる方。
9
 我らの神、主を崇めよ。その聖なる山にひれ伏せ。我らの神、主は聖なる方。”(聖書協会共同訳)とあります。

 70人訳の表題には「ダビデの歌」とあります。

1節に、「主は王となられた」とありますが、新改訳は「主は王である」、新共同訳は「主こそ王」、岩波訳は「ヤハウェが王であられる」と訳しています。
ヘブライ語聖書の文を直訳すると、「ヤハウェ(主)は王」となっています。

表題に「ダビデの歌」とあったら、イスラエルの王ダビデが、「主こそ王」と歌ったことは大いに頷けます。ダビデにとって、主は、わが神、わが王でした。ダビデは王様でしたから神様は王の王です。
 キリスト者は「王である祭司」(1ペテロ29・新改訳)と言われていますが、キリスト者もダビデと同じ思いを持っていると思います。「主こそ我が神、主こそわが王」と。それ故キリスト・イエス様は、「王の王、主の主」(黙示録1916)です。

1-3節は、主なる神様は、「主はすべての民の上に高くおられる」(2)「偉大な方」(2)であり、「聖なる方」(3)であるのだから「大いなる、おそれおおい〔畏れおおい(筆者挿入)〕御名をほめたたえよ。」(3・新改訳初版~第三版)ということになります。

この詩は、シオンに神の箱が安置されたことに関連して作られたのだろうと思います。また、キリストの千年王国において成就する預言詩としても理解出来ると思います。
 キリスト者にとっては、いつでも、主こそ王であり、主は聖なる方、主は全てのものの上におられる偉大な方、主は賛美されるべき方、畏れ敬われる方であるとともに、キリスト者をこよなく愛してくださっておられる方です。

4節のヘブライ語聖書の冒頭には、「そして」が入り、4.5節は、「4 王は力ある方、公正を愛される。あなたは公平を堅く打ち立てられた。ヤコブの中に公正と正義とをあなたは成し遂げられた。5 我らの神、主を崇めよ。その足台にひれ伏せ。主は聖なる方。」と記されています。

主であられる神様は、聖であられるが故に、ご自身の力を公正と正義に基づいて執行されるとあります。神様は人間が罪を犯せばそれを裁かれます。しかし、神様は人間を愛しておられるので、愛であられる神様は、おそらく御子との話し合いの中で〔へブル105-7。{詩篇406-10(新改訳)、新共同訳は407-11}参照推測(筆者挿入)〕、私たち罪人を救うために、御子を受肉させ、イエス様に私たちのすべての罪を身代わりに負わせたのでした。イエス様はご自分から私たちのすべての罪を身代わりに負ってくださったのです。

ローマ323-26には、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償(つぐな)う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」(新共同訳)と記されています。

もし、イエス様が来られて贖いを成就してくださらなかったとしたら、救われる人は一人もいなかったのです。

6節には、“モーセとアロンは祭司の中に、サムエルは主の名を呼ぶ者の中にいた。彼らが主に呼びかけると、主は彼らに答えた。”とあります。

これらの人々が祈りを主にささげると、主がその祈りに答えてくださったことを聖書は数多く記しています。

私達キリスト者に与えられている特権は非常に大いなるものがあります。
主イエス様は、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(ヨハネ157・新共同訳)と語られました。

また使徒ヨハネは、1ヨハネ514で、「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださる」(新改訳2017)と記しています。

 ベタニアのマルタの信仰告白の中に「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」(ヨハネ1122・新共同訳)とあり、また主イエス様御自身が御父への祈りの中で「あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださる」(ヨハネ11422017)と言っています。

9節には“我らの神、主を崇めよ。その聖なる山にひれ伏せ。我らの神、主は聖なる方。”(聖書協会共同訳)とあり、口語訳は「われらの神、主をあがめ、その聖なる山で拝みまつれ。われらの神、主は聖でいらせられるからである。」と訳しています。

イエス様が来られてからは、シオン(エルサレム)で礼拝する、或いはシオンに向かって礼拝するということをしなくても、神様は礼拝を受け入れてくださるようになりました。
そのことをイエス様は、サマリアの女との対話の中で次のように語られました。
21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって〔霊と真理のうちにあって(岩波訳)〕父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって〔霊と真理のうちにあって(岩波訳)〕礼拝しなければならない。」(ヨハネ421-24・新共同訳)と記されています。

今はいつでもどこでも主を礼拝することが出来るようになりました。

天での礼拝はどれほど素晴らしいものなのでしょうか。楽しみです。

詩篇99篇の中には、「主は聖なる方」と3回出て来ます。

3回というとイザヤ書や黙示録を思い浮かべます。

イザヤ61-4には次のように記されています。
1 ウジヤ王が死んだ年のことである。
わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。
2
上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。
3
彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」
4
この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。”(新共同訳)とあります。

黙示録46-8には次のように記されています。
6 また、玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。
7
第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。
8
この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」”(新共同訳)とあります。

 また「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」(新改訳初版~第三版・詩篇223)という聖句もあります。

 主は聖なるお方なのです。
キリスト者はキリストの血によって、立場としては、聖なる者とされているのです(へブル1010)。
それ故、三一の主なる神様と交わることが出来るのです。
実質的にあらゆる行いにおいて聖なる者とされるのは、体が贖われた後のことでしょう(1ペテロ115、黙示録198参照)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたを「天のお父様」とお呼びすることが出来るようにしていただけましたことを感謝します。
与えられた恵みを無駄にすることなく、絶えず三一の神様との交わりの内に生活するものであらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月 3日 (火)

申命記31:14-29 モーセとヨシュアへの神のことばとイスラエルに対する預言の概略

 申命記3114-29には次のように記されています。
14 主はモーセに言われた。「さあ、あなたの死ぬ日が近づいた。ヨシュアを呼び寄せ、会見の幕屋の中に立ちなさい。私は彼を任命する。」そこで モーセはヨシュアと共に行って、会見の幕屋の中に立った。
15
 主は幕屋で、雲の柱の中に現れた。雲の柱は幕屋の入り口にとどまった。
16
 主はモーセに言われた。「あなたは間もなく先祖と共に眠りに就く。この民は、入って行く地で、すぐに異国の神々を慕って淫行に走り、私を見捨てて、私があなたと結んだ契約を破るであろう。
17
 その日、私の怒りは彼らに向かって燃え、私は彼らを見捨て、顔を隠す。彼らは餌食にされ、多くの災いと苦難に襲われる。その日、彼らは言う。 『こうした災いに襲われるのは、神が私の内におられないからではないか。』
18
 その日、私は彼らが他の神々のもとに赴いて、行ったすべての悪のゆえに、必ず顔を隠す。
19
 あなたがたは今、次の歌を書き留め、イスラエルの人々に教え、彼らの口に置きなさい。そうすればこの歌は、イスラエルの人々に対する私の証言となる。
20
 私がその先祖に誓った乳と蜜の流れる土地に彼らを導き入れるとき、彼らは食べて満足し、肥え太り、他の神々のもとに赴いて仕え、私を侮り、私の契約を破るであろう。
21
 そして、多くの災いと苦難が彼らを襲うとき、この歌は、民に対して証言となる。子孫の口から忘れられることがないからである。私が誓った地に 彼らを導き入れる前から、私は彼らが今、たくらんでいることをすでに知っている。」
22
 モーセはこの日、この歌を書き留めて、イスラエルの人々に教えた。
23
 主はヌンの子ヨシュアに命じられた。「強く、雄々しくあれ。イスラエルの人々を私が彼らに誓った地に導き入れるのはあなたである。私はあなたと共にいる。」
24
 モーセはこの律法の言葉を書物に余すところなく書き終えると、25 主の契約の箱を担ぐレビ人に命じた。
26
 「この律法の書を取り、あなたの神、主の契約の箱の傍らに置きなさい。そうすれば、それはその場所であなたに対する証言となる。
27
 私は、あなたが逆らう者であり、かたくなな者であることを知っている。私がまだ生きている今日でさえ、あなたがたは主に背いている。私の死んだ後はなおさらそうであろう。
28
 あなたがたの部族の長老と役人をすべて、私のもとに集めなさい。私は彼らの耳にこれらの言葉を告げ、天と地を彼らに対する証人とする。
29
 私の死んだ後、あなたがたは必ず堕落し、私があなたがたに命じた道からそれるので、後の日に災いがあなたがたに降りかかることを私は知っている。あなたがたは主の目に悪とされることを行い、その手の業によって主を怒らせるからである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所は、モーセの死期が迫った時の主の言葉です。
14-16
bには次のように記されています。
14 主はモーセに言われた。
「さあ、あなたの死ぬ日が近づいた。ヨシュアを呼び寄せ、会見の幕屋〔天幕(新改訳)。ヘブライ語原語は「オーヘル」(筆者挿入)〕の中に立ちなさい。私は彼を任命する。」
そこで モーセはヨシュアと共に行って、会見の幕屋〔天幕(新改訳)〕の中に立った。
15
 主は幕屋〔天幕(新改訳)〕で、雲の柱の中に現れた。雲の柱は幕屋の入り口にとどまった。
16
 主はモーセに言われた。
「あなたは間もなく先祖と共に眠りに就く。」”(聖書協会共同訳)とあります。
 会見の天幕の中にモーセとヨシュアが立ち、会見の天幕の入り口に雲の柱がとどまり、雲の柱の中にヤハウェ(主)がおられるというシチュエーションです。

 ヤハウェ(主)はモーセに、イスラエルの民の後のことについての預言を与えました。
16-22
節には次のように記されています。
“16 主はモーセに言われた。
「あなたは間もなく先祖と共に眠りに就く。
この民は、入って行く地で、すぐに異国の神々を慕って淫行〔偶像礼拝(筆者挿入)〕に走り、私を見捨てて、私があなたと結んだ契約を破るであろう。
17
 その日、私の怒りは彼らに向かって燃え、私は彼らを見捨て、顔を隠す。彼らは餌食にされ、多くの災いと苦難に襲われる。その日、彼らは言う。 『こうした災いに襲われるのは、神が私の内におられないからではないか。』
18
 その日、私は彼らが他の神々のもとに赴いて、行ったすべての悪のゆえに、必ず顔を隠す。
19
 あなたがたは今、次の歌を書き留め、イスラエルの人々に教え、彼らの口に置きなさい。そうすればこの歌は、イスラエルの人々に対する私の証言となる。
20
 私がその先祖に誓った乳と蜜の流れる土地に彼らを導き入れるとき、彼らは食べて満足し、肥え太り、他の神々のもとに赴いて仕え、私を侮り、私の契約を破るであろう。
21
 そして、多くの災いと苦難が彼らを襲うとき、この歌は、民に対して証言となる。子孫の口から忘れられることがないからである。私が誓った地に 彼らを導き入れる前から、私は彼らが今、たくらんでいることをすでに知っている。」
22
 モーセはこの日、この歌を書き留めて、イスラエルの人々に教えた。”とあります。

 イスラエルの民は、背教して偶像礼拝をするようになります。
そのようになった時には、ヤハウェ(主)はイスラエルから離れます。
この後のイスラエルのために、ヤハウェ(主)は、ヤハウェ(主)の証言としての歌をモーセに記させると語りました。その歌に関しては、申命記3130-3329に記されています。

 実際のイスラエルの歴史はどのようであったのでしょうか。
士師27-15には次のように記されています。
7 ヨシュアの在世中はもとより、ヨシュアの死後も生き永らえて、主がイスラエルに行われた大いなる御業をことごとく見た長老たちの存命中、民は主に仕えた。
8
主の僕、ヌンの子ヨシュアは百十歳の生涯を閉じ、9 エフライムの山地にある彼の嗣業の土地ティムナト・ヘレスに葬られた。それはガアシュ山の北にある。
10
その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。
11
イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。
12
彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。
13
彼らは主を捨て、バアルとアシュトレト〔アシュタロテ(新改訳)〕に仕えたので、14 主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。
15
出陣するごとに、主が告げて彼らに誓われたとおり、主の御手が彼らに立ち向かい、災いをくだされた。彼らは苦境に立たされた。
16
主は士師たちを立てて、彼らを略奪者の手から救い出された。
17
しかし、彼らは士師たちにも耳を傾けず、他の神々を恋い慕って姦淫し、これにひれ伏した〔異教の神々を恋い慕って礼拝した(筆者挿入)〕。彼らは、先祖が主の戒めに聞き従って歩んでいた道を早々(そうそう)に離れ、 同じように歩もうとはしなかった。”(新共同訳)とあります。

23節は、ヤハウェ(主)からのヨシュアへのことばです。
「強く、雄々しくあれ。イスラエルの人々を私が彼らに誓った地に導き入れるのはあなたである。私はあなたと共にいる。」とヤハウェ(主)はヨシュアに語られました。

 24-29節はモーセからレビ人に命じた言葉で、次のように記されています。
“24 モーセはこの律法の言葉を書物に余すところなく書き終えると、25 主の契約の箱を担ぐレビ人に命じた。
26
 「この律法の書を取り、あなたの神、主の契約の箱〔契約の箱には、十のことば{十戒}が記された2つの板のほか、マナの入った金のつぼと芽を出したアロンの杖が入っていました(筆者挿入)〕の傍(かたわ)らに置きなさい。そうすれば、それはその場所であなたに対する証言となる。
27
 私は、あなたが逆らう者であり、かたくなな者であることを知っている。私がまだ生きている今日でさえ、あなたがたは主に背いている。私の死んだ後はなおさらそうであろう。
〔リビングバイブルは「あなたがたが反抗的で強情であることはわかっている。こうして私がいっしょにいてさえ主に反抗するのだから、私が死んだらどうなることかわかったものではない。」と訳しています。(筆者挿入)〕
28
 あなたがたの部族の長老と役人をすべて、私のもとに集めなさい。私は彼らの耳にこれらの言葉を告げ、天と地を彼らに対する証人とする。
29
 私の死んだ後、あなたがたは必ず堕落し、私があなたがたに命じた道からそれるので、後の日に災いがあなたがたに降りかかることを私は知っている。あなたがたは主の目に悪とされることを行い、その手の業によって主を怒らせるからである。」”とあります。
 “それでモーセは、イスラエルのすべての民に聞こえるように、次の歌を初めから終わりまで歌いました。”(30・リビングバイブル)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
モーセでさえ、主はモーセの内側には住まわれませんでした。
私たちキリスト者はなんという恵みを受けた者でしょうか。
主の霊が私たちの内に住んでくださっておられるのですから。
主に私たちの主権をお渡しして歩むことの出来る幸いを覚えます。
主の霊に従って歩む生涯であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
18
わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。”(2コリント3章・口語訳)
“聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダム〔キリスト(筆者挿入)〕は命を与える霊となった。”(1コリント1545・口語訳)
“神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。”(ローマ89・新共同訳)
“・・・。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。”(コロサイ1272017

2023年10月 2日 (月)

マタイ26:47-56 イスカリオテのユダの裏切りとイエス・キリストの捕縛とイエス・キリストを見捨てた弟子たち

 マタイ2647-56には次のように記されています。
47 イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
48
 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「私が接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。
49
 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。
50
 イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい〔別訳「何のために来たのか」(欄外注)〕と言われた。その時、人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
51
 すると、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の僕に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。
52
 そこで、イエスは言われた。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。
53
 私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。
54
 しかしそれでは、必ずこうなると書いてある聖書の言葉がどうして実現されよう。」
55
 またその時、イエスは群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。私は毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたがたは私を捕らえなかった。
56
 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためである。」この時、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 47節には“イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。”とあります。

この箇所の並行箇所であるヨハネ183.12を読みますと、役人たちやローマ軍の兵士もイエス様を捕縛するために遣わされていることが分かります。そこには、
「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明(たいまつ)や灯や武器を手にしていた。」(ヨハネ183・聖書協会共同訳)とあり、また、
「そこで一隊の兵士とその大隊長〔別訳「千人隊長」(欄外注)〕、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、」(ヨハネ1812・聖書協会共同訳)と記されています。

 48.49節には“イエスを裏切ろうとしていたユダは、「私が接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。”とあります。

 イスカリオテのユダは、銀30枚というお金をもらってイエス様を祭司長たちに売ったのです(マタイ2615)。
ユダは「先生、こんばんは」と言って接吻した、とありますが、「こんばんは」という語のギリシア語原語は「カイロー」で原義は「cheer」です。2017の欄外注には“別訳「喜びがありますように」「お元気ですか」”とあります。

 いかにも偽りの父悪魔(サタン)がユダに内住している感じがします。
ヨハネ1327には“ユダがパン切れを受けるやいなや、サタンが彼の中に入った。”(聖書協会共同訳)とあり、
ヨハネ844には「・・・。悪魔は初めから人殺しであって、真理に立ってはいない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、偽りの父だからである。」(聖書協会共同訳)と、主イエス様が語られた御言葉を思い起こさせられます。

 ユダが、主イエス様に近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻したとき、主イエス様はサタンに話しかけたり、命じたりしたのではなく、ユダの心に、「友よ、何のために来たのですか」と語りかけているように思います。
 もしユダが、主イエス様の御言葉で我に返って、主イエス様の御前で悔い改めたら、主イエス様は赦されたのではないかと思います。

 実際はどのようであったのでしょうか。
マタイ273-5には、サタンがユダから離れた後の出来事について次のように記されています。
3 その頃、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、4 「私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。
しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。
5
 それで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んでそこを離れ、出て行って、首をくくった。”(聖書協会共同訳)と記されています。
 ヨハネ844の「・・・。悪魔は初めから人殺しであって、真理に立ってはいない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、偽りの父だからである。」(聖書協会共同訳)という主イエス様の御言葉がズーンと心に響きます。
サタンは、イエス様を死に追いやるようにし、弟子のユダも死に追いやったのです。
サタンがイエス様を殺したかったのは、創世記315の神ヤハウェ(主)の宣告の言葉を無効にするためでした。
しかし実際には、創世記315の御言葉の通りになるのです。

 主イエス様を捕縛しに来た時の状況の一部を下記しておきます。
ヨハネ183-6には次のように記されています。
3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。
4
イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われた。
5
彼らは「ナザレ人イエスを」と答えた。
イエスは彼らに「わたしがそれだ」〔ギリシア語聖書は「エゴー・エイミ」。次節、8節も同じ(欄外注)〕と言われた
イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。
6
イエスが彼らに「わたしがそれだ」〔原語は「エゴー・エイミ」(筆者挿入)〕と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。”(2017)とあります。
「エゴー・エイミ」とは、「わたしはある」(私は存在し続けているものである)という神の御名です。出エジプト314参照。

 50-56aには次のように記されています。
50 イエスは、「友よ、何のために来たのか」(欄外注を使用)と言われた。その時、人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
51
 すると、イエスと一緒にいた者の一人〔シモン・ペトロ(ペテロ){ヨハネ1810}〕が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の僕に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。
52
 そこで、イエスは言われた。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。
53
 私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。
54
 しかしそれでは、必ずこうなると書いてある聖書の言葉がどうして実現されよう。」
55
 またその時、イエスは群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。私は毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたがたは私を捕らえなかった。
56
 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためである。」”とあります。

 少し前に主イエス様が、「今夜、あなたがたは皆、私につまずく。『私は羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからだ。」(マタイ2631・聖書協会共同訳)と弟子たちに言われたとき、
ペトロは、「たとえ、皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」と言ったのです。(マタイ2633

 さて、実際はどのようになったのでしょう。
ペトロは、剣を抜き、大祭司の僕に打ちかかって、片方の耳を切り落としたのですが、主イエス様は次のように言われました。
「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。
私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書いてある聖書の言葉がどうして実現されよう。」(マタイ2652-54)とあります。

 そして結局弟子たちは、預言通り、イエスを見捨てて逃げてしまったのでした(マタイ2656)。
ゼカリヤ137には“・・・牧者を打て。すると、羊の群れは散らされる。・・・”(聖書協会共同訳)との預言が記されています。
 弟子たちの言葉はマタイ2635に次のようにありました。
“ペトロは、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。”(聖書協会共同訳)とあります。
 私たち人間は、自分自身がどうなるのかさえも分かっていないことを痛感します。
一方、主なる神様は、全てご存じなのです。
その上で愛し、導き、支え、根気よくお取り扱いくださるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは悪しき者の計画をさえ、良きことの計(はか)らいに用いるお方です。
主イエス様の十字架上の死によって、そしてその血によって、私たちのすべての罪が赦されたことを覚え感謝します。
ただ罪が赦されただけではなく、主イエス様が3日目に復活なさったゆえに、1ペテロ13に“神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。”(2017)と記されているように新生の恵みにあずからせてくださいましたこと(ヨハネ33.5.6)を感謝します。
この個所でも、“神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる”(ローマ828・新改訳初版~第三版)ということが真実であること実感させられます。
今の世はどんどん暗くなっておりますが、あなたはそれをも用いられるお方ですから御名を崇め賛美します。
み旨がなりますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月 1日 (日)

箴言25:15.16 柔和、忍耐、節制(自制)

 箴言2515を、
新改訳初版~新改訳2017は“忍耐強く説けば、首領も納得する。柔らかな舌は骨を砕く。”と訳し、
リビングバイブルは“小さな水のしずくでも、長い間には堅い岩をけずります。同じように、じっと忍耐していれば、柔らかい舌が堅い骨を砕くことになるのです。”と意訳し、
新共同訳、聖書協会共同訳は“忍耐強く対すれば隊長も誘いに応じる。穏やかに語る舌は骨をも砕く。”と訳しています。

 穏やかな口調(と柔和な表情)と忍耐強さの大切さを教えてくれています。
天性の性格でこのようなものを持ち合わせている人は良いですが、普通はそうではありません。
しかし、キリスト者には希望があります。柔和は御霊の実だからです。
“御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切〔慈愛(口語訳)〕、善意、誠実〔忠実(口語訳)〕、柔和、自制〔節制(新共同訳)〕です。”(ガラテヤ522.23・新改訳)と記されていますから。

 また、「忍耐」も神様のご性質です。
“いつくしみ(慈愛)と忍耐と寛容”(ローマ24)は、神様のご性質(神の本性)の一部です。
キリスト者は、神のご性質(神の本性)にあずかる者とされたのですから(2ペテロ14)。

 箴言25162017は“蜜を見つけたら、必要なだけ食べよ。食べ過ぎて吐き出すことのないように。”と訳しています。
リビングバイブルは“いくら好きな物でも、食べすぎると気持ちが悪くなります。”と意訳しています。

 欲望と自制or節制の関係ですね。
自制or節制も御霊の実です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたのご性質にあずからせていただける恵みを与えられていますことを感謝します。
そのためにも日々魂がきよめられ御霊に満たされて歩むことが出来ますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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