箴言27:7を、
リビングバイブルは“腹がいっぱいだと、どんなごちそうもまずく感じますが、腹がすいていると何でもおいしく食べられます。”と意訳し、
2017は“満ち足りている者は蜂の巣の蜜も踏みつけ、飢えている者には苦い物もみな甘い。”と訳し、
聖書協会共同訳は“満ち足りている者は極上の蜜をも踏みつけるが、飢えている人には苦いものもみな甘い。”と訳し、
新共同訳は“飽き足りている人は蜂の巣の滴りも踏みつける。飢えている人には苦いものも甘い。”と訳しています。
「空腹は最上の調味料である」とローマ帝国時代の哲学者キケロが語ったと言われますが、箴言27:7の聖句はキケロの時代意よりも1000年くらい前のものです。
肉体的なことではなく霊的な意味を考えてみたいと思います。
マタイ5:3には、“Blessed are the poor in spirit: for theirs is the kingdom of heaven.”(KJV,NIV)と記されています。
「spirit」と訳されている語のギリシア語原語は「プニューマ」で「霊」です。
多くの日本語訳聖書は「心」と訳していますが、前田訳は“さいわいなのは霊に貧しい人々、天国は彼らのものだから。”と訳しています。
心が貧しいというと、知性感情意思のすべてが貧しいということになりますが、知性感情意思等は豊かである方が幸いであると私は思います。
一例をあげると、誰かが悲しんでいるのに、悲しんでいる人に共感できないと、「・・・、泣いている者たちとともに泣きなさい。」(ローマ12:15・2017)というような聖句に従うことはできないでしょう。
多くの日本語訳聖書のように「心の貧しい」という訳ではなく、英語訳聖書や前田訳のように「霊において貧しい」という訳を基に考えてみたいと思います。
2021年12月15日の当ブログを再掲させていただきます。この時には次のように記しておきました。
“ マタイ5:3に、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」(聖書協会共同訳)と記され、「心の貧しい人々」について、欄外注に、“直訳「霊において貧しい人々」”と記されています。
この聖句については今までにも幾度か述べてきていますがさらに詳しく記していきます。
当ブログの2015年9月11日 で述べた内容は、以下のようでした。
“3節に「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」(口語訳)とあります。
新改訳は、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」と訳しています。
日本語の聖書で、「心」と訳している語のギリシア語の原語は"πνεῦμα"(プニューマ)で、英語では普通は"spirit"、「霊」です。
NKJVは、"Blessed are the poor in spirit, For theirs is the kingdom of heaven."と訳しています。”
「貧しい」と訳されている語のギリシア語原語は、「プトーコス」で、“beggar”(物乞い、乞食、物もらい)、貧乏人、非常に貧乏な人等の意があります。「プトーコス」の意味としてStrong辞書に最初に出てくるのは、beggarです。
ですから、この聖句の前半部分を、「幸いですor祝福されています 霊の中で物乞いしている人は」と訳すこともできます。
今回は、「幸いですor祝福されています 霊の中で物乞いしている人は」という浅学非才な小生の訳に従って書いていきます。
「心」について、デジタル大辞泉には、“人間の理性・知識・感情・意志などの働きのもとになるもの。また、働きそのものをひっくるめていう。”と記されています。
「理性」については、“物事を正しく判断する力。また、真と偽、善と悪を識別する能力。”と記されています。理性のこの解説を聖書の翻訳原語でいうと「良心」ということもできると思います。
2サムエル24:10を、新改訳2017は、“ダビデは、民を数えた後で、良心のとがめを感じた”と訳しています。
この箇所で「良心」と訳された語のヘブライ語原語は、「レブ」で「心」です。
日本語訳聖書の内、「良心」と訳しているのは、新改訳、リビングバイブル、聖書協会共同訳です。口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳、文語訳は、「心」と訳しています。
新約聖書の中で、「良心」という語が出てくる有名な聖句に、“彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。”(ローマ2:15・2017)というものがありますが、この文章から考えると、「良心」は「心」に包含されているように思います。
「心」のギリシア語原語は「カルディア」です。
「良心」のギリシア語原語は「スネイデーシス」です。
「心が貧しい」というと、良心が貧しく、知性、感情、意志も貧しい、という様に、私には感じられます。
良心がほとんど無く、知性が暗く、感情が希薄で、意志薄弱の人は幸いでしょうか、神に祝福されているでしょうか。と、私などは考えてしまします。
そこで今回は前述したように、「幸いですor祝福されています 霊の中で物乞いしている人は」という浅学非才な小生の訳に従って書いていきます。
先ずは、「霊」について考えてみます。
人によっては、アダムの堕罪の時に、霊は死んだ、と表現する人たちがいます。
ところが、「霊」は人の肉体を生かしています。「霊」が体から離れると人の肉体は死にます。
ヤコブ2:26には、“からだが霊〔ギリシア語原語は「プニューマ」(筆者挿入)〕を欠いては死んでいる・・・”(2017)と記されています。
また、ルカ8章には次のような記述があります。
“49 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」
50 これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」
51 イエスは家に着いたが、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、そしてその子の父と母のほかは、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。
52 人々はみな、少女のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。」
53 人々は、少女が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。
54 しかし、イエスは少女の手を取って叫ばれた。「子よ、起きなさい。」
55 すると少女の霊が戻って、少女はただちに起き上がった。それでイエスは、その子に食べ物を与えるように命じられた。
56 両親が驚いていると、・・・。”(2017)と記されています。
人の肉体を生かしている霊は、「いのちの息」とも言われます。「いのちの息」の語のヘブライ語原語は、「ネシャマー」で、「霊」と訳される場合もあります。
参照聖句として、イザヤ57:16には次のように記されています。
“わたしは、永遠に争うことはなく、いつまでも怒ってはいない。わたしから出た霊〔「ルーアハ」(筆者挿入)〕が衰え果てるからだ。わたしが造ったいのちの息〔「息」はネシャマー(筆者挿入)〕が。”(2017)とあります。
〔わたしが造った「霊」とも言うことができます→ゼカリヤ12:1参照(筆者挿入)〕
創世記2:7には、“And the LORD God formed man of the dust of the ground, and breathed into his nostrils the breath〔原語は「ネシャマー」即ち「息」(筆者挿入)〕 of life; and man became a living soul〔原語は「ネフェシュ」即ち「魂」(筆者挿入)〕.”(KJV)とあります。
聖書には「死者の霊」という語が記されています。
イザヤ14章は13章から続くヤハウェ(主)がイザヤに見させたもの、語ったものです。
その中に、“よみは、下界で、おまえが来るのを迎えようとざわめき、死者の霊たち、地のすべての指導者たちを揺り起こし、国々のすべての王を、その王座から立ち上がらせる。”とあります。(イザヤ14:9・2017)
また、ヤハウェ(主)がイザヤに語らせた預言の箇所に次のようなものがあります。
“あなたの死人は生き返り、私の屍は、よみがえります。覚めよ、喜び歌え。土のちりの中にとどまる者よ。まことに、あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます。”(イザヤ26:19・2017)とあります。〔イザヤ26章は、キリスト者に与えられた預言ではありません。キリスト者の霊が肉体から出た後、その霊は直ちに天に行きます。(筆者挿入)〕
イザヤ26:1には、“その日、ユダの地でこの歌が歌われる。”(2017)と記されています。
神様から義人と言われたヨブは、“死者の霊たち、水に住む者たちは、その底で、もだえ苦しむ。”(ヨブ26:5・2017)と述べています。
箴言21:16は、“悟りの道から迷い出る者は、死者の霊たちの集会の中で休む。”(新改訳第三版)と記し、悟りとは何を指しているのかについて、ヤハウェ(主)はエレミヤに、「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を知っていることを。」(エレミヤ9:24・2017)と語っています。
キリストの内に無い人の霊は、無いと思っている人がいますが、上記の聖句からも、そうではないことが分かります。
ゼカリヤ12:1は次のように記されています。
“宣告。イスラエルについての主のことば。天を張り、地の基を定め、人の霊をそのうちに造られた方、主の告げられたことば。”(2017)とあります。
キリストの復活以前の旧創造の人たち(アダム系列の人たち)の霊について、ヤハウェ(主)は、人の霊を造った、と語っておられます。
人がキリストの救いにあずかるとアダムの堕罪前の状態に戻ったという人がいますが、それは違います。何が違うのでしょう。霊が違うのです。
さて、キリストの復活後の人の霊は?
1.キリスト様を信じていない人の霊は、キリストの復活以前の旧創造の人たち(アダム系列の人たち)の霊です。
2.キリスト様を信じた人の霊は、新しく生まれた、と使徒ヨハネも使徒ペテロも述べています。主イエス・キリスト様の公生涯の間、常に主のそばにいて主から教えを受けたこの二人が残した聖句を下記します。
ヨハネ3章に次のように記されています。
“1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
2 ある夜、イエスのもとに来て言った。
「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3 イエスは答えて言われた。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
4 ニコデモは言った。
「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
5 イエスはお答えになった。
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。”(新共同訳)とあります。
3節と7節の「新たに」と訳されている語のギリシア語原語は「アノーセン」で、上から、新しく、再び等の意があります。
イエス様の御言葉を合わせると、上から新しく、そして霊から生まれなければ神の国を見、神の国に入ることができない、ということになります。
キリスト者の霊は、造られた霊ではなく神の霊から生まれた霊です。
ペテロは次のように記しています。
“私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。”(2017)とあります。
キリストの復活以前には、新しく生まれるということはなかったようです。
本論に戻ります。
イエス様を信じ、霊の誕生をさせて頂けたといっても、その霊は赤ちゃんです。
神の子どもである霊の赤ちゃんは、霊の乳即ち御言葉を求めるのです。
それだけではありません。神様ご自身を求めるのです。
主と交わる者は主と一つの霊となるのです(1コリント6:17)。
また、主を慕う赤ちゃんは、主に満たされたいのです。
神のひとり子であられるイエス様が人にもなられたときの聖霊との関わりはどのようであったのでしょうか?
ヨハネ3:34には、“神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。”(2017)と記されています。
キリスト者も、「御霊に満たしてください」と祈るのです。
「幸いですor祝福されています 霊の中で物乞いしている人は」とあるように。
更に、恵みによって信仰から信仰へと進ませて頂き、恵みから恵みへと進ませて頂き、主の愛を豊かに感じ取れるようになった人は、益々主を愛することでしょう。
そのような人は、私の霊を専有してください、と、愛の動機から言うでしょう。
パウロはそのような人であったのではないかと想像します。
「生きているのはもはや私ではありません。キリストが私〔新生した私は霊(筆者挿入)〕の内に生きておられるのです。」とパウロは証しています。
パウロは、生まれながらの肉体を自分とは捉えていませんでした。
唯物論者や唯脳論者にとっては、「私」というのは、物質ですが、新生した者にとって、「私」、は肉体ではなく「霊」なのです。
パウロは次のように述べています。
“1 たとえ私たちの地上の住まいである幕屋〔「肉体」=霊の入れ物(筆者挿入)〕が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。
2 私たちはこの幕屋〔肉のからだ(筆者挿入)〕にあってうめき、天から与えられる住まい〔霊の体(筆者挿入)〕を着たいと切望しています。
3 その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。
4 確かにこの幕屋〔地上の肉体(筆者挿入)〕のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれるために、天からの住まい〔霊の体(筆者挿入)〕を上に着たいからです。
5 そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。
6 ですから、私たちはいつも心強いのです。ただし、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。
7 私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。
8 私たちは心強いのですが、むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。
9 そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。”(2コリント5:1-9・2017)と記されています。
ペテロも同じようなことを述べています。
「私たちの主イエス・キリストが示してくださったように、私はこの幕屋〔肉体(筆者挿入)〕を間もなく脱ぎ捨てることを知っています。」(2ペテロ1:14・2017)とあります。
霊が肉体から出ていく時、イエス様やステパノはどのように祈ったでしょうか?
イエス様は、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」(ルカ23:46・2017)と祈り、
ステパノは、「主イエスよ、私の霊をお受けください。」(使徒7:59・2017)と祈りました。
新生した人の本体は、上から新しく誕生させて頂いた霊であり、この霊は、主と一つにされている霊であり、永遠のいのちを持っている霊です(ヨハネ3:3.6、1ペテロ1:3、ヤコブ1:18、1コリント6:17、1ヨハネ5:11.13、ヨハネ11:26)。
霊の中で、主が満ち満ちてくださることを、ひたすら求める者の心は豊かになることでしょう。
「祝福されています。霊の中で〔主に、満ち満ちてくださいと(筆者挿入)〕乞い求める人は。天の御国〔原語の意味→天の王国、天の支配(筆者挿入)〕はその人のものだからです。」(筆者訳)とも訳すこともできるのではないかと思います。
イエス様は、「みこころが天で行われるように、地でも〔「私の内でも」とも祈れます(筆者挿入)〕行われますように。」(マタイ6:10・2017)と祈るようにと教えてくださいました。”と記しました。
<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様の霊が私の霊の中で充満してくださいますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。