黙示録(2回目)

2024年4月 6日 (土)

黙示録22:6-21 黙示録最終章の主のことばとヨハネの言葉/聖なる者はさらに聖なる者となれ

 黙示録226.7には次のように記されています。
6 天使はまた、私にこう言った。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちに霊感を授ける神、主が、その天使を送って、すぐに起こるべきことを、ご自分の僕たちに示されたのである。7 見よ、私はすぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、幸いである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 黙示録の2.3章は、当時の教会にとって、主の忠告はすぐに起こる可能性のあることであったでしょう。(教会時代の歴史を通しての預言という観点から見たときには、それぞれの時代に、書いてあるような状態になったならば、やはり神様の視点からすればすぐに起こる、ということなのでしょう)
また、4章以降は、御父の定めの時が来たならば、それぞれが、これもまたすぐに起こることでしょう。

 主は天使を遣わして、黙示録に記されている内容が、信頼でき、真実なものであると告げ、また、黙示録の預言のことばを守る者は幸いであると告げたのです。

 黙示録228.9には、礼拝すべきお方は主なる神様だけであると次のように記されています。
8 これらのことを聞き、また見た者は、私ヨハネである。聞き、また見終わったとき、私は、これらのことを示してくれた天使の足元にひれ伏して、拝もうとした。
9
 すると、天使は私に言った。
「やめよ。私は、あなたや、あなたのきょうだいである預言者たちや、この書の言葉を守っている人たちと同じく、仕える者である。神を礼拝せよ。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 ヨハネは天使礼拝をしそうになりました。その気持ちは分かります。あまりにも素晴らしいことを教えてくれたのですから。しかし、天使は、神様のお使いを果たしただけであり、栄光を取られるのは神様でなければならないのです。
礼拝の対象は、御父と御子のみであることが聖書から分かります。
被造物(天使も人間も含まれます)は主なる神様に仕える者です。

 主イエス様の忠告と主イエス様の自己紹介が、黙示録2210-16に次のように記されています。
10 また、わたしにこう言った。
「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。
11
不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。
12
見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。
13
わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。
14
命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。
15
犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。
16
わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ〔ダビデの根(2017)〕、その一族〔また子孫(2017)〕、輝く明けの明星である。」”(新共同訳)とあります。

 16節には“わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ〔ダビデの根(2017)。神である御子はダビデを創造者したお方です{創世記126.27、詩篇13913、コロサイ116}(筆者挿入)〕、その一族〔また子孫(2017)。キリストは肉においては、一見すると、ダビデの血統です{マタイ11-16、ルカ323-38}が、実際は聖霊によるのでした{マタイ118}。それ故、肉においても罪を持たずに生まれたのです。(筆者挿入)〕、輝く明けの明星である。」(新共同訳)”と記されています。

 黙示録2216を読みましたが、黙示録11の“イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。”(2017)という聖句にも、一部、同じような内容が再掲されています。

 また10節の“この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。”という聖句についても、黙示録13の“この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである。”(2017)と記されている内容と近似した警告です。

 12節には“・・・。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。”と記されていますが、キリスト者に関していえば、2コリント510の“私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。”(2017)という聖句の内容と近似しています。

 13節の“わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。”という聖句も、黙示録18の“神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」”(2017)という内容の範疇にあります。
「わたしはアルファであり、オメガである。」と聞くと、初めがあって終わりもある、とも思えてしまいますが、この表現は、永遠であることを表しているのだろうと思います。
黙示録117.18(抜粋)には“恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。”(2017)と記されていますから。

 15節は“犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。”と記されています。
これは黙示録218の“臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。”(2017)という内容の範疇にあります。

 14節の“命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。”という聖句がありますが、黙示録714(抜粋)の“この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。”(2017)という聖句によって、どのように洗い清めたらよいのかをすでに見せてもらっています。

 11節には“不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。”(新共同訳)と記されています。

 キリスト者は、主イエス・キリストのゆえに、「正しい者、聖なる者」です。
“正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。”(新共同訳)と記されています「正しいことを行わせ」、「聖なる者とならせよ」という個所のTRバージョンのギリシア語聖書の個所を見ると、アオリスト時制の受動態です。
正しい者とは主に信頼している者です。聖なる者とは主の血潮によって聖とされた者です。主に信頼している者を、主なる神様は、益々正しい者として整えてくださり、聖なる者{(聖別された者)へブル1010}を、主なる神様は、益々、あらゆる行いにおいて聖なる者(1ペテロ115.16)としてくださるのです。主はその様にしてくださいます。アオリスト時制で書かれているからです。また1テサロニケ523.24やピリピ16からも明らかです。2コリント318も心強い聖句です。

 この世は、どんどん悪くなります。それは、「不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者〔倫理的に汚れた者(筆者挿入)〕は、なお汚れるままにしておけ。」と記されているからです。
「不正を行わせ」、「汚れるままにしておけ」と訳されている個所のTRバージョンギリシア語聖書は、アオリスト時制で能動態で記されています。生まれながらの人は罪の性質を持って誕生しており、かつ世の終わりの時代には悪魔(サタン)悪霊は暴れまわります。汚れた者は、益々汚れ、不正を行う者は益々不正を行うようになるのでしょう。
 2テモテ31-5には次のように記されています。
1 しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。
2
その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、3 無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、4 裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、5 信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。”(口語訳)とあります。

 黙示録2217には“御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。”(2017)と記されています。

 花嫁(1テサロニケ413-17に該当する人たちの総体)は、主よ、迎えに来てください、「マラナ・タ」{(1コリント122)アラム語}というのです。また同時に、その人たちは、まだ救われていない人たちに向かって、「渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」と主の霊と共に福音を伝えるのです(絶対に救いなさいとは書いてありません。主の羊は主に従うでしょう)。

 黙示録2218.19には、
18 この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。
19
また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる”(新共同訳)と記されています。

 神のことばは神聖です。神のことばを神のことばとして信頼する者は幸いですし、神のことばをいい加減に捉える者は災いです。

 主の約束と花嫁の応答と祝祷が黙示録2220.21に、
20 これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
21
主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
一日一日、あなたと歩み続けているうちに、携挙の時が来ることを体験することでしょう。その日は何と素晴らしいことでしょうか。
感謝します。
日々、あなたに導かれ、あなたに支えられ、あなたの御力によって、あなたの愛の中で歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月 5日 (金)

黙示録22:1-5 新エルサレムにおける御父と御子と贖われた者たち

黙示録221-5には次のように記されています。
1 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように光り輝く命の水の川を私に見せた。
2
 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。その木の葉は諸国の民の病を癒やす。
3
 もはや呪われるべきものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、4 御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。
5
 もはや夜はなく、灯の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らすからである。そして、彼らは世々限りなく支配する。”(聖書協会共同訳)とあります。

 新エルサレムには呪われるべきものが一つもなく(3)、夜もありません(5)。光は神であるヤハウェ(主)です(5)。
1
ヨハネ15には“神は光であり、神には闇が全くないということです。”(抜粋・2017)と記され、
ヨハネ14.5には“この〔主イエス・キリストの(筆者挿入)〕いのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。”(抜粋・2017)と記されています。

 ペトロ(ペテロ)、ヤコブ、ヨハネは光り輝く主イエス・キリスト様を見ました。
マタイ171.2に、
“六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 1.2節には“天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように光り輝く命の水の川を私に見せた。2 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。その木の葉は諸国の民の病を癒やす。”と記されています。

 エゼキエル471-12には次のように記されています。
1 彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。すると、水が神殿の敷居の下から湧き出て、東の方に流れていた。神殿の正面が東に向いていたからである。水は祭壇の南、神殿の南側の下から流れ下っていた。
2
 彼は北の門を通って私を連れ出し、外の道を回って東に向いた外門に連れて行った。すると、水は南側から流れ出ていた。
3
 その人は、手に測り縄を持って東に出て行き、一千アンマを測り、私に水の中を渡らせた。すると水はくるぶしまであった。
4
 彼はさらに一千アンマを測って、私に水の中を渡らせると、水は膝に達した。さらに彼は一千アンマを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
5
 彼がさらに一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川となった。
6
 彼は私に、「人の子よ、見たか」と言って、私を川岸へ連れ戻した。
7
 私が戻って来て見ると、川の両岸には、非常に多くの木があった。
8
 彼は私に言った。「これらの水は、東の地域に流れ出てアラバに下り、海〔「死海」のこと(筆者挿入)〕、すなわち汚れた水の海に入る。するとその水は癒やされる。
9
 川が流れて行く所はどこでも、そこに群がるすべての生き物は生き、魚が非常に多くなる。この水が入ると、そこの水が癒やされ、この川が流れる所では、すべてのものが生きるからである。
10
 漁師たちがそのほとりに立ち、エン・ゲディからエン・エグライムまで、引き網を広げる所となる。そこの魚は大海の魚のように種類が増え、非常に多くなる。
11
 しかし、沢と沼は癒やされず、塩を取ることができる。
12
 川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が成長し、その葉は枯れず、絶えず月ごとに新しい実をつける。水が聖所から流れ出ているからである。 実は食用となり、葉は薬用となる。」”(聖書協会共同訳)とあります。
この記述は、キリストの千年王国の預言ではないかと思いますが、新天新地の新エルサレムにおいてもその中心的な事柄は移行されるのではないかと想像します。

 黙示録221-5には、キリストの花嫁(妻)については記されていないと思います。
2
節の「諸国の民」については、黙示録2124-26に次のように記されています。
24 諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて都に来る。25 都の門は、終日閉じることがない。そこには夜がないからである。26 人々は諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。”(聖書協会共同訳)とあります。

 携挙されたキリスト者すなわちキリストの花嫁についての記述は1テサロニケ417に“私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”(2017)と記され、
エペソ26には“キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。”(口語訳)と記されています。

 キリストの花嫁はどうしてこのような祝福を得たのでしょう。
それはキリストの花嫁に何かの功績があったというのではなく、ただただ御父の愛に基づく御旨の故なのではないかと私は思うのです。御父とみ子をほめたたえるのみです。
 エフェソ13.4には、
3 私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福し、4 天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主イエス様は「見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ2029抜粋・2017)と言われましたが、教会時代すなわち恵みの時代の私たちは、主イエス様を肉眼で見ることをしなかったのに、主イエス様を信じたのです。それは、主イエス様を信じる信仰を与えられたからではないかと思います{エフェソ(エペソ)28参照}。

 黙示録711の「長老たち」とは、花嫁を代表している表現と理解することができるのではないかと思います。長老たちはキリストとともにいるのです。
黙示録79-17には次のように記されています。
9 この後、私は数えきれぬほどの大群衆を見た。彼らはあらゆる国民、部族、民族、言葉の違う民から成り、白い衣を身にまとい、なつめやしの枝を手に持って、玉座と小羊の前に立っていた。10 彼らは声高らかに言った。
「救いは、玉座におられる私たちの神と小羊にある。」
11
 また、天使たちは皆、玉座と長老たちと四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、12 こう言った。
「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、権威が、世々限りなく私たちの神にありますように。アーメン。」
13
 すると、長老の一人が私に問いかけた。
「この白い衣を身にまとった者たちは誰か。またどこから来たのか。」
14
 そこで私が、「私の主よ、それはあなたがご存じです」と答えると、長老は言った。
「この人たちは大きな苦難〔大患難(筆者挿入)〕をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。15 それゆえ、彼ら〔艱難時代の聖徒たち(筆者挿入)〕は神の玉座の前にいて、昼も夜も神殿で神に仕える。玉座におられる方が、彼らの上に幕屋を張る。16 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどのような暑さも彼らを打つことはない。17 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へと導き、神が彼らの目から涙をことごとく拭ってくださるからである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 長老たちは、御父と御子と四つの生き物と共におり、天使たちに囲まれ、また、御父と御子の御前には艱難時代の聖徒たちが礼拝している、という構図になっています。
エペソ26に“キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。”(口語訳)と記されていることが頷けます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私たちは、ただただあなたの恵みによって祝福されていることを覚えます。
あなたを賛美し、あなたのすばらしさを証ししつつ歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月 1日 (月)

黙示録21:9-27 新エルサレム/キリストの花嫁

 黙示録219-11には次のように記されています。
:9 さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使の一人が来て、私に語りかけてこう言った。
「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁をあなたに見せよう。」
10
 天使は、霊に満たされた私を大きな高い山へ連れて行った。そして、聖なる都エルサレムが神のもとを出て、神の栄光のうちに天から降って来るのを私に見せた。
11
 都は神の栄光に輝いていた。その輝きは最も高価な宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 新エルサレムは素晴らしい都でしたが、新エルサレムがどのように見えるのか、ということを表現するにあたり、ヨハネは、~です。~でした。とは言えず、~のようであり、~のようであった。と語る以外には表現できなかったのです。
実際に見た人がそのようなのですから、私たちがキリストの千年王国の後の新天新地について正しく把握できるわけもありません、
この個所について私は、私の推測or想像を述べることしかできませんので、その程度に捉えておいてください。
トミーさんは、今現在においては、このように捉えたのかな、という程度に読んでください。

 天使はヨハネに、「小羊の妻である花嫁」を見せてあげる、と語られたのに、ヨハネが見たのは天から下りてきた新エルサレムでした(10.11)。
そして新エルサレムの外観は、神の栄光に輝き、最も高価な宝石すなわち透き通った碧玉のように見えたのです(11)。

 22.23節には“22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが神殿だからである。
〔それにしても、都には、どこにも神殿が見あたらないのです。というのも、全能の神である主と小羊とを、都のどこででも、自由に礼拝できるからです。(リビングバイブル)〕
23
 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 新エルサレムに神殿はないのです。主イエス様の十字架上の贖いが成し遂げられた時、至聖所と聖所を隔てていた神殿の幕が上から下までまっ二つに裂けたことを思い出します(マタイ2751)。
キリスト者は祭司です(1ペテロ29)。キリストの贖いの成就前は、当番の祭司は聖所には入れても至聖所には入れず、至聖所には大祭司が1年に1回入れるだけであったのですが、祭司には至聖所も開かれたのです。それどころか新天新地においては建物としての神殿さえもないのです(22)。神殿は、聖であられ永遠に存在しておられる万物の創造者である全能の主なる神と子羊すなわち神の御子なのです(22)。
このような表現なのですから、花嫁も動くことの出来ない建造物であるはずがありません。
 子羊、すなわち神の御子の花嫁は教会です(エペソ522-32)。花婿キリストと花嫁教会(キリスト者の総体)はすでに天において結婚式を挙げています(黙示録196-8)。
それらのことを考えると、花嫁(キリスト者の総体)が新エルサレムという建物に変化したのではなく、新エルサレムの中に、御父なる神と御子である花婿と花婿の妻である教会が新エルサレムの中にいるということが推測されます。
その都を外から見ると、その輝きは最も高価な宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった(11)、と見えたというのでしょう。
1
コリント15章によると、花嫁は「栄光あるもの」(43)、「キリストに似たもの」(48.49)とされているのです。ただただ主の恵みによって。
「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」とパウロは述べています(ローマ818)。

 次にヨハネが見た都の大きさと構造について、ヨハネは黙示録2112-21に次の様に記しています。
12 都〔新エルサレム(筆者挿入)〕には高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。
13
 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
14
 都の城壁には十二の土台があり、そこには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。
15
 私に語りかけた天使は、都と門と城壁を測るために、金の物差しを持っていた。
16
 この都は四角形で、長さと幅が同じであった。天使が物差しで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。
〔かつての幕屋や神殿の至聖所は立方体でした。新エルサレムも立方体です。/大きさやその他の参考記述:スタディオンは185mなので、12000スタディオンは2220kmとなり、新エルサレムの大きさは縦、横、長さが各2220㎞のキューブ(立方体)でできているというのです。現地球の対流圏は約10㎞の高さ、成層圏の高さは約10-50㎞、国際宇宙ステーションの高度は約400㎞、人工衛星は約150-400㎞に存在しています、大気圏は約800㎞、大気圏の外は宇宙空間に属します。新エルサレムは底辺の縦横の長さが約2200㎞立方体ですから、新天新地の地面は平らなのかもしれません。そうすると新天新地の地は球体ではないのかもしれません。あくまでも想像です。新天新地ですから現在の宇宙のありようと異なっても良いわけです。主なる神様はどのように創造なさるのでしょうか。楽しみです。(筆者挿入)〕
17
 また、城壁〔城壁の厚さ(リビングバイブル)〕を測ると、百四十四ペキス〔1ペキスは44㎝、144ペキスは約63.4m(筆者挿入)〕であった。これは人間の尺度であって、天使が用いたのもこれである。
18
 都の城壁は碧玉で築かれ、都は混じりけのないガラスのような純金でできていた。
19
 都の城壁の土台は、あらゆる宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、20 第五は赤縞めのう、第六はカーネリアン、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
21
 また、十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠でできていた。そして、都の大通りは、混じりけのないガラスのような純金であった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 黙示録2122-26には新エルサレムの内容と、新エルサレムの外には諸国の民が住む場所があることが記され、諸国の民も主なる神と子羊の光によって光を得、かつ諸国民の王たちは諸国民の栄光と誉を都に携えて礼拝に訪れることが次のように記されています。
22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが神殿だからである。
23
 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。
24
 諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて都に来る。
〔その光は全世界に及ぶのです。世界中の支配者たちが、それぞれの栄光を携えてやって来ます。(リビングバイブル)〕
25
 都の門は、終日閉じることがない。そこには夜がないからである。
26
 人々は諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。”(聖書協会共同訳)とあります。

 黙示録2127には次のように記されています。
27 しかし、汚れた者、忌まわしいことや偽りを行う者は誰一人、都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入ることができる。”(聖書協会共同訳)とあります。
“汚れた者、忌まわしいことや偽りを行う者は誰一人、都に入れない。”とありますが、この範疇の人たちは、黙示録218に“臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らな行いをする者、魔術を行う者、偶像を拝む者、偽りを言うすべての者、このような者の受ける報いは、火と硫黄の燃える池であって、第二の死である。”(聖書協会共同訳)と記されている人たちのことでしょう。この人たちは子羊の命の書に名が記されていないのです(黙示録2012.15)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
新天新地において、私たち新生したキリスト者、その総体である花嫁は、とこしえに花婿キリストと御父と共に愛の交わりの中にいることを教えてくださり感謝します。
そのような未来が待ち受けていることを望みとしておきながら今日も主に在って歩む一日とさせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月28日 (木)

黙示録21:8 新生したキリスト者は火と硫黄の燃える池に入れられません(キリストが身代わりに罰を受けてくださったからです)

 黙示録218には、 “しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らな行いをする者、魔術を行う者、偶像を拝む者、偽りを言うすべての者、このような者の受ける報いは、火と硫黄の燃える池であって、第二の死である。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 リビングバイブルはこの個所を次の様に意訳しています。
“しかし、わたしに従うのをやめるような臆病者、不忠実な者、堕落した者、人殺し、不道徳な者、魔術を行なう者、偶像礼拝者、うそをつく者――このような者たちの行き着く先は、火と硫黄が燃えさかる池です。これが第二の死なのです。”と記しています。

 キリスト者はまじめな方が多いと思います。
そこで、中には、このような聖句を見ると不安を覚えてしまう人もいるようです。
新生したキリスト者に用意されているのは、第二の死ではなく、永遠の命です。新生したキリスト者の場合、霊においてはすでにそれを得ているのです。
1
コリント617には、“主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。”(聖書協会共同訳)と記され、使徒ヨハネは、主キリストを「永遠の命」であると語り(1ヨハネ12)、キリスト者は永遠の命を持っていると語っています(1ヨハネ511.13.20)。

 新生したキリスト者は、キリストの空中再臨の時(キリストの現われの時)に霊の体を戴きます。
 1テサロニケ413-18は次のように記されています。
13 きょうだいたち、眠りに就いた人たち〔{この世の人が言うところの}「死んだ人たち」(筆者挿入)〕については、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。
14
 イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。それならば、神はまた同じように、イエスにあって眠りに就いた人たちを、イエスと共に導き出して〔連れて来て(リビングバイブル)〕くださいます。〔キリストの空中再臨の時に(筆者挿入)〕
15
 主の言葉によって言います。主が来られる時〔キリストの空中再臨の時(筆者挿入)〕まで生き残る私たちが、眠りに就いた人たち〔キリストの空中再臨の時以前に霊と魂が天に引き上げられた人たち(筆者挿入)〕より先になることは、決してありません。
16
 すなわち、合図の号令と、大天使の声と、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。すると、キリストにあって死んだ人たちがまず復活し〔霊の体に復活し{1コリント1544}(筆者挿入)〕、17 続いて生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に出会います。こうして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。
18
 ですから、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい。”(聖書協会共同訳)とあります。

 霊の体に復活すると記されている1コリント15章の関連個所を下記します。
35 しかし、死者はどのように復活するのか、どのような体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。/
42
 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活し43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものに復活し、弱いもので蒔かれ、力あるものに復活し44 自然の体で蒔かれ、霊の体に復活します/
47
 最初の人〔アダム(筆者挿入)〕は地に属し、土からできた者ですが、第二の人〔キリスト(筆者挿入)〕は天に属する方です。
48
 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天上の者たちはすべて、天上のその方に等しいのです。
〔「人間はだれでも、アダムと同じ土の体を持っています。しかし、キリストのものとなった人はみな、キリストと同じ、天から与えられる体を持つようになるのです。」(リビングバイブル)/ローマ829、コロサイ341ヨハネ32参照(筆者挿入)〕”(聖書協会共同訳)と記されています。

 新生したキリスト者たちは、霊の体を戴いた後に、キリストの裁きの座で報酬の裁定を受け(2コリント510)、その後、霊の体を戴いたキリスト者の総体であるエクレシア(教会)すなわちキリストの花嫁は、キリストの地上再臨の前に天において花婿キリストとの結婚式に臨むのです。その時に着ているキリスト者のドレスは輝く清い上質の亜麻布でできたものであり、それは義なる行いを表しているのです。すなわち罪を犯さない体に変えられているのです。

 黙示録195-8には次のように記されています。
5 また、玉座から声がして、こう言った。
「すべて神の僕たちよ、神を畏れる者たちよ、小さな者も大きな者も、私たちの神をたたえよ。」
6
 また私は、大群衆の声、大水のとどろき、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。
「ハレルヤ。全能者である神、主が王となられた。7 私たちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は支度を整え、8 輝く清い上質の亜麻布を身にまとったこの上質の亜麻布とは、聖なる者たちの正しい行いである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 花嫁は、天にあるエルサレム、新天新地における新エルサレムの住人です。
主イエス様は、十字架にかかられる前に、「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ141-3・聖書協会共同訳)と語られたのです。

 話が少し長くなりましたが、新生したキリスト者は、今日の聖書個所にある「火と硫黄の燃える池」に入れられることはないのです。
キリスト者は、すでに自分の罪を認めて、その罪を主に申し上げ、主の十字架のゆえに罪赦され{エフェソ(エペソ)17}、きよくされた者であり{ヘブライ(へブル)1010}、キリストの御復活のゆえに新生させられたものなのです(ヨハネ33.61ペトロ13.23)から。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
もしも主イエス様を信じることがなかったならば、私も火と硫黄の池に投げ込まれた者です。
主イエス様を信じることを得させてくださりありがとうございました。
三一の主なる神様をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
“神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。”(1テモテ242017
まだ主イエス・キリスト様を信じていない人は、是非、主イエス・キリスト様を信じて、永遠の命を得てください。
お願いします。
ヨハネ316には“実に神は、ひとり子をさえ惜しまず与えるほどに、この世界〔「この世界」の個所の所に自分の名前を入れて読んでください(筆者挿入)〕を愛してくださいました。それは、神の御子を信じる者が、だれ一人滅びず、永遠のいのちを得るためです。”(リビングバイブル)と記されています。
神の御子キリスト・イエスを信じる者は、永遠の命を与えられるのです。
それは、主イエス・キリスト様が十字架にかかり死んで葬られ、三日目に復活されたからです。
主イエス様が、十字架にかかられたのは、私たちの罪(創造主であるまことの神のみ旨に従わなかったことども)の罰を身代わりに受けるためでした。
イエス様が為してくださったことを感謝して受け取る者は永遠の命を得るのです。

2024年3月24日 (日)

黙示録21:1-7 新天新地の現れと新天新地における祝福

 黙示録211-7には次のように記されています。
1 また私は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2
 また私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降って来るのを見た。
3
 そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、4 目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである。」
 5 すると、玉座におられる方が言われた。
「見よ、私は万物を新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である。」
6
 また、私に言われた。
「事は成った。私はアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。私は彼の神となり、彼は私の子となる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1節には“また私は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は過ぎ去り、もはや海もない。”と記されています。
これは永遠の世界です。

 イザヤ書には次のように預言されていました。
6513 それゆえ、主なる神〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる。/
 6517 見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。先にあったことが思い出されることはなく、心に上ることもない。
18
 しかし、私が創造するものを代々とこしえに楽しみ、喜べ。私はエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。
19
 私はエルサレムを喜びとし、私の民を楽しみとする。そこに再び、泣き声や叫び声が聞かれることはない。/
 6622 私の造る新しい天と新しい地が、私の前にいつまでも続くように。あなたがたの子孫とあなたがたの名もいつまでも続く――主の仰せ。
23
 新月ごと、安息日ごとに、すべての肉なる者は私の前に来てひれ伏す。――主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる。
24
 彼らは出て行き、私に背いた者たちの死体を見る。それに付く蛆(うじ)は絶えず、それを焼く火は消えることがない。それは、すべての肉なる者に忌み嫌われる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 新天新地の新エルサレムは、キリストの千年王国のエルサレムとも異なります。
2
節には“また私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降って来るのを見た。”と記されています。
新エルサレムは目をみはるように美しいのでしょう。

 新天新地においては神が人々と一緒に住むのです。
旧約時代は、神を見たら死んでしまうと思われていました。主がそのようにモーセに語られたからです。
 出エジプト33章には次のように記されています。
18 モーセが、「どうかあなたの栄光を私にお示しください」と言うと、
19
 主は言われた。
「私は良いものすべてをあなたの前に通らせ、あなたの前で主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の名によって宣言する。私は恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」
20
 さらに言われた。「あなたは私の顔を見ることはできない。人は私を見て、なお生きていることはできないからである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 新天新地において、神が人と共に住む、ということは何と素晴らしいことでしょうか。
しかしキリスト者は、今の世にあっても主と共なる生活を体験することができるのです。
主イエス様は言われました。
「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(2017)と。
何という恵みでしょうか!しかし条件も付いています。

 3.4節には、
3 そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、4 目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである。」”と記されています。

 これは新天新地における有様ですが、キリストの千年王国時代以前においても、天においては同じような状況が見られます。
 黙示録7章には次のように記されています。
13 すると、長老の一人が私に問いかけた。「この白い衣を身にまとった者たちは誰か。またどこから来たのか。」
14
 そこで私が、「私の主よ、それはあなたがご存じです」と答えると、長老は言った。
「この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で 洗って白くしたのである。15 それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜も神殿で神に仕える。
玉座におられる方が、彼らの上に幕屋を張る。
16
 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどのような暑さも彼らを打つことはない。
17
 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へと導き、神が彼らの目から涙をことごとく拭ってくださるからである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所は、大患難時代に殉教した聖徒たちについての記述ですが、教会時代(恵みの時代)の聖徒が天に召されたときも同じです。

 パウロは次の様に告白しました。
20 そこで、私が切に願い、望んでいるのは、どんなことがあっても恥じることなく、これまでのように今も堂々と語って、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められることです。
21
 私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。
22
 けれども、肉において生き続けることで、実りある働きができるのなら、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。
23
 この二つのことの間で、板挟みの状態です。私の切なる願いは、世を去って、キリストと共にいることであり、実は、このほうがはるかに望ましい。」(フィリピ1章・聖書協会共同訳)と。

 5-7節において、主はさらなる確証を次のように与えられています。
5 すると、玉座におられる方が言われた。
「見よ、私は万物を新しくする。」
また言われた。
「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である。」
6
 また、私に言われた。
「事は成った。私はアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。私は彼の神となり、彼は私の子となる。”(聖書協会共同訳)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
日々、父、子、聖霊なる神様と共に生活させていただく恵みを与えられていますことを感謝します。
更に天に召された後には、直接御顔を仰ぎ見させていただきつつ交わりを持たせていただけますことを感謝します。
ハレルヤ!
大いなる感謝をもって私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月20日 (水)

黙示録20:11-15 白い御座の裁き/最後の審判

 黙示録2011-15には次のように記されています。
11 また私は、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方を見た。天も地も、その前から逃げて行き、見えなくなった。
12
 また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれた。これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた。
13
 海は、その中にいた死者を吐き出し、死と陰府も、その中にいた死者を吐き出した。死者はおのおの、その行いに応じて裁かれた。
14
 死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
15
 命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 11節後半には“天も地も、その前から逃げて行き、見えなくなった。”と記されています。
キリストの千年王国が終了すると、今の天地、すなわち宇宙は崩壊、消滅するのでしょう。
2
ペテロ310bには“その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象〔別訳「自然界の構成要素」(欄外注)〕は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます〔異本「暴かれます」(欄外注)〕。”(2017)と記されています。

 神様は、人間の観察では、無から有を作り出されましたが、キリストの千年王国が終わると、有を無にするのです。
そして、最後の審判の後に神様は、新天新地を創造されるのです。
イザヤ6517には“見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。”(2017)と記されています。

 12節には“数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれた。”という個所があります。
キリスト者は命の書に名が記されています。
ルカ1020には“しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。”(2017)という主イエス様の御言葉が記されています。
いのちの書は、天国の信徒名簿であり、千年王国時代の信者も記されている書なのでしょう。
ピリピ43には次のような聖句があります。
“そうです、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。この人たちは、いのちの書に名が記されているクレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、福音のために私と一緒に戦ったのです。”(2017)と記されています。
いのちの書に名が記されている人たちは、すでに永遠の命を与えられており、霊の体も与えられています。

 12節の「いのちの書」には、千年王国時代に主イエス様に信頼し、善を行った人たちも記されているのだろうと思います。
千年王国時代に霊の体を与えられていなかった人たちは、肉体をもって生活し、そして死んでいった人たちですから、その人たちの中で、いのちの書に名が記されていた人たちがいたのだろうと思います。
 イザヤ6520には“わずか数日で死ぬみどりごと、おのが命の日を満たさない老人とは、もはやその中にいない。百歳で死ぬ者も、なお若い者とせられ、百歳で死ぬ者は、のろわれた罪びととされる。”(口語訳)と記されています。

 12.13節の各前半部分には“12 また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。/13 海は、その中にいた死者を吐き出し、死と陰府〔ギリシア語原語は「ハデース」で、死者の魂のいる場所(筆者挿入)〕も、その中にいた死者を吐き出した。”と記されています。

 いのちの書に名前が記されていない人たちも体をもって復活します(ヨハネ528.29)。
ヨハネ5章には次のような主イエス様の御言葉が記されています。
22 また、父は誰をも裁かず、裁きをすべて子に委ねておられる。/
27
 また、父は裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子(ダニエル713.14参照)だからである。
28
 このことで驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞く。
29
 そして、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るであろう。
30
 私は自分からは何もできない。聞くままに、裁く。そして私の裁きは正しい。それは、私が自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御心を求めているからである。」(聖書協会共同訳)とあります。

 次に、いのちの書に名が記されていない人たちについて記します。
いのちの書に名の記されていない人たちは、行いに従って裁かれるのです。
12
cには“これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた。”と記され、13bには“死者はおのおの、その行いに応じて裁かれた。”と記されています。

 命の書に名が記されている人は、主イエス様を信じていた人たち、すなわち主イエス様を受け入れていた人たちでしょう。
主イエス様が、「罪とは、わたしを信じないことです。」(ヨハネ169・リビングバイブル)と語られ、また、「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」(ヨハネ639.402017)と語っておられましたから。

 命の書に名が記されていない人たちの行き場所はどこなのでしょう。
15
節には“命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた。”と記されています。
またこの審判を最後に、死ぬ人はいなくなりますし、死ぬ人がいないのですからハデースもいらなくなります。
14
節には“死も陰府〔ギリシア語原語は「ハデース」(筆者挿入)〕も火の池に投げ込まれた。”と記されています。

 14bには“この火の池が第二の死である。”と記されています。
第一の死は、魂と肉体の分離です。
死とは分離することです。
魂の存在を信じない人にとっては、肉体が滅びた、もうおしまい、と捉えるでしょう。しかし、聖書はそう教えてはいません。
第二の死は、魂を持っている肉体が、神様と完全に分離した状態になることです。
実は、それはその人の選択によるのです。

 神様はすべての人を愛しています。
人には、主なる神様を愛する人と主なる神様を嫌う人、すなわち受け入れない人がいるのです。
主を愛する人は、主と共に生活するようになりますし、主を嫌う人は、主と離れて生活するようになるのです。
主の内に、全き愛も、全き義もあるのです。
悪魔は、初めから人殺しであり、偽り者なのです(ヨハネ844)。
悪魔(サタン)・悪霊に最後まで付き従った人たちは、悪魔のいるところにいることになるのです。
人には選択権があります。
そうでなければ、主なる神様はモーセを通して「あなたはいのちを選びなさい。」(申命記30192017)とは言わなかったでしょう。

 まだ主イエス様を心にお迎えしていない人は、是非、主イエス様をご自分の救い主として、ご自分の主としてお迎えしてください。
お願いします。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたの御愛のゆえに救われたことを覚えます。
感謝します。
御父を愛し、わが主を愛し、喜びをもって主に従い続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月16日 (土)

黙示録20:7-10 最終的な悪への裁き1/神の善に対して悪をなす者たち

 黙示録207-10には次のように記されています。
7 千年が終わると、サタンは牢獄から解き放たれ、8 地の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。
9
 彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都を囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。
10
 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者もいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 1000年の間、悪魔悪霊の干渉のない状態で、そして生活環境の良い状態で、主イエス様が愛と義によって、地上に住む人々を統治してくれたにもかかわらず、キリストの1000年王国の満了により、サタン(悪魔)が牢獄から解放され、サタンが、地の四方にいる諸国の民を惑わすと、非常に多くの人々が王の王であるキリストに敵対し、サタンに付きしたがって、聖なる者たちの陣営と、愛された都エルサレム囲んだのです。

 話は変わりますが、
アダムとエバがおかれたエデンの園はとても良い所でした。
アダムもエバもエデンの園の恵みを享受していました。
その上いつも神ヤハウェ(主)と交わることができたのです。

 キリストの千年王国に住んでいる人々も同じような環境を与えられていました。
千年王国に住んでいた多くの人々は、とても恵まれていましたが、それでもサタンが解放されるとサタン側についたのです。
サタン側についた人たちの魂は、神よりも悪魔を選んだのです。

 人間の外見上の肉体は、皆、同じ様なものに見えますが、肉眼で見ることの出来ない魂はそうではないことがわかります。

 主イエス様の初臨の時代、主イエス様が、いくら真理を話しても、それを受け入れず、敵対してくる人たちがいました。主イエス様は、その人たちに対して、「あなたがたは、悪魔である父から出た者」であると言われたのです。
そのことが記されている個所を下記します。
31 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。
「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」
 33 彼らは言った。「私たちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません。『あなたがたは自由になる』とどうして言われるのですか。」
 34 イエスはお答えになった。「よくよく言っておく。罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である。35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。36 だから、もし子があなたがたを自由にすれば、あなたがたは本当に自由になる。37 あなたがたがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたがたは私を殺そうとしている。私の言葉を受け入れないからである。38 私は父のもとで見たことを話しているが、あなたがたは父から聞いたことを行っている。」
 39 彼らが答えて、「私たちの父はアブラハムです」と言うと、
イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をしているはずだ。40 ところが今、あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語っているこの私を殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。41 あなたがたは、自分の父と同じ業をしている。」
 そこで彼らが、「私たちは淫らな行いによって生まれたのではありません〔イエス様の出自について彼らは、マリアの淫らな行いによるものと考えていたのかもしれません(筆者挿入)〕。私たちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、
 42 イエスは言われた。
「神があなたがたの父であれば、あなたがたは私を愛するはずである。なぜなら、私は神のもとから来て、ここにいるからだ。私は勝手に来たのではなく、神〔父である神(筆者挿入)〕が私をお遣わしになったのである。43 私の言っていることが、なぜ分からないのか。それは、私の言葉を聞くことができないからだ。44 あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は初めから人殺しであって、真理に立ってはいな い。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、偽りの父だからである。45 しかし、私が真理を語っているので、あなたがたは私を信じない。46 あなたがたのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私が真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。47 神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである。」”(ヨハネ8章・聖書協会共同訳)と記されています。

 話を元に戻します。
聖なる者たちの陣営と、愛された都を囲んだ人たちは、天から降った火によって焼き尽くされました。そして、悪魔は、今度は牢獄ではなく、火と硫黄の池に投げ込まれたのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは愛と義をもって善を行い続けられました。
しかし、それでも敵対する者たちがいることを覚えます。
あなたのみ旨が為されますように。
すべてのことをあなたにお委ねし、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月12日 (火)

黙示録20:6 キリストの千年王国

 黙示録206には、
“第一の復活にあずかる者は、幸いな者であり、聖なる者である。この人たちには、第二の死は無力である。彼らは神とキリストの祭司となって、キリストと共に千年の間支配する。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 キリストの空中再臨時に霊の体を戴いたキリスト者は、大患難時代の前にすでに天の体(霊の体)を戴いていますし、地上が大患難時代の間に、天の神の国において、花婿キリストとの結婚も済んでいますから、この6節の第一の復活にあずかる者たちとは異なります。
第一の復活にあずかる人々は、大患難時代の殉教者たちです(黙示録204参照)。

 キリストの千年王国時代は、悪魔悪霊は地上や空中におらず、千年王国時代の人々に悪さをすることはできません。
キリストの千年王国時代は、王の王、主の主であられるキリスト様が統治する世界です。ハレルヤ!

 キリストの千年王国はどのような世界なのでしょうか。
聖書の中からいくつかの個所を取り上げたいと思います。

 戦争はなくなり、人々が神の教えを聞きにエルサレムに上ってくることが、イザヤ22-4{並行個所(ミカ41-3)}に次のように記されています。
2 終わりの日に、主の家の山は山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって川の流れのようにそこに向かい、
3
 多くの民は来て言う。
「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。主はその道を私たちに示してくださる。私たちはその道を歩もう」と。
教えはシオンから、主の言葉はエルサレムから出るからだ。
4
 主は国々の間を裁き、多くの民のために判決を下される。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦いを学ぶことはない。”(聖書協会共同訳)とあります。

 キリストの千年王国における神域と聖所、及び主に仕える祭司やレビ人、並びにイスラエル部族への土地の分割、その他についてはエゼキエル40-48章に記されています(聖書個所をお読みください)。

 イザヤ書以外にもキリストの千年王国の状景についての預言はありますが、時間の都合で、イザヤ書の中の一部から下記します。
35:1 荒れ野と乾いた地は喜び、砂漠は歓喜の声を上げ、野ばらのように花開く。
2
 花は咲き溢れ、大いに喜びの歌声を上げる。レバノンの栄光とカルメルとシャロンの輝きが砂漠に与えられる。人々は主の栄光と私たちの神の輝きを見る。/
5
 その時、見えない人の目は開けられ、聞こえない人の耳は開かれる。
6
 その時、歩けない人は鹿のように跳びはね、口の利けない人の舌は歓声を上げる。荒れ野に水が、砂漠にも流れが湧き出る。
7
 熱した砂地は池となり、干上がった土地は水の湧く所となる。ジャッカルが伏していた所は、葦やパピルスが茂る所となる。
8
 そこには大路が敷かれ、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者がそこを通ることはない。それは、その道を行く者たちのものであり、愚かな者が迷い込むことはない。
9
 そこに獅子はおらず、飢えた獣は上がって来ず、これを見かけることもない。贖われた者たちだけがそこを歩む。
10
 主に贖い出された者たちが帰って来る。歓声を上げながらシオンに入る。その頭上にとこしえの喜びを戴きつつ。喜びと楽しみが彼らに追いつき、悲しみと呻きは逃げ去る。/
 65:20 そこにはもはや、数日の命の乳飲み子も、自らの寿命を満たさない老人もいなくなる。百歳で死ぬ人は若者とされ、百歳にならないで死ぬ者は呪われた者とされる。
21
 彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。
22
 彼らが建てて別の人が住むことはなく、彼らが植えて別の人が食べることもない。私の民の一生は木の一生のようになり、私が選んだ人々は自分たちの手の業を享受する。
23
 彼らは無駄に労することもなく、産んだ子を災いにさらすこともない。彼らは、主に祝福された者の子孫となり、その末裔も彼らと共にいる。
24
 彼らが呼ぶより先に、私は応え、彼らがまだ語っている間に、私は聞き届ける。
25
 狼と小羊は共に草を食み、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、私の聖なる山のどこにおいてもこれらは危害を加えることも、滅ぼすこともない――主は言われる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この世の最終戦争で、エルサレムに攻めてきた国の国民の内、生き残って千年王国に入れて頂ける人たちもいます。また全世界の神殿がエルサレムにあるということが、ゼカリヤ1416-21に次のように記されています。
16 エルサレムを攻めたあらゆる国民のうち生き残った者は皆、毎年上って来て、万軍の主〔「主の」ヘブライ語原語は「ヤハウェ」(筆者挿入)〕なる王〔「主キリスト・イエス」のこと(筆者挿入)〕を礼拝し、仮庵祭を祝う。
17
 地上の諸氏族のうちで、万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕なる王〔「主キリスト・イエス」(筆者挿入)〕を礼拝するためにエルサレムに上って来ない者の上には、雨が降らない。
18
 もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、仮庵祭を祝うために上らない諸国民に主が打つのと同じ疫病が、彼らの上に臨む。
19
 これがエジプトへの刑罰となり、仮庵祭を祝うために上って来ないすべての国民への刑罰となる。
 20 その日には、馬の鈴にも「主の聖なるもの」と刻まれ、主の神殿の鍋も、祭壇の前にある鉢のようになる。
21
 エルサレムとユダの鍋も、すべて万軍の主の聖なるものとなる。いけにえを献げる者は皆やって来て、鍋を取り、それで煮る。その日には、万軍の主の神殿に、もはや商人はいなくなる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 21節に“その日には、万軍の主の神殿に、もはや商人はいなくなる。”とありますが、主イエス様の宮清めを思い起こします(ヨハネ213-16、マルコ1115.16参照)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
キリストの千年王国が待ち遠しいです。
その前にある、携挙の時を待ち望んでいます。
そして更に次のキリストとの婚宴の時を待ち望んでいます。
それから私たちは、再臨のキリストに従って地上に来、主キリスト・イエス様の偉大な力を見させていただき、その後に千年王国という順になっていますから、まずは、携挙の恵みにあずかる前の現在の一日一日を、主と共に歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。 

2024年3月 7日 (木)

黙示録20:4ー6 千年王国の裁判官と支配者たち

 黙示録204.5には次のように記されています。
4 また私は、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。
また私は、イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たちの魂を見た。
この者たちは、あの獣も獣の像も拝まず、額や手に刻印〔666の刻印(筆者挿入)〕を受けなかった。彼らは生き返り、キリストと共に千年の間支配した。
5
 その他の死者は、千年が終わるまで生き返らなかった。これが第一の復活である。
6
 第一の復活にあずかる者は、幸いな者であり、聖なる者である。この人たちには、第二の死は無力である。彼らは神とキリストの祭司となって、キリストと共に千年の間支配する。”(聖書協会共同訳)とあります。

 4節には“また私は、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。”と記されています。

 キリストの千年王国における裁判官は、携挙されたキリスト者であることが1コリント62.3に記されています。その箇所の聖句を抜粋すると次のようになります。
“あなたがた・・・聖なる者たちが世を裁くのです。・・・。私たちが天使をさえ裁く・・。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 また主イエス様は、12弟子に対して次のように語られました。
「よく言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に着くとき、私に従って来たあなたがたも、十二の座に着いて、イスラエルの十二部族を裁くことになる。」(マタイ1928・聖書協会共同訳)と記されています。
ルカの福音書には、「・・、あなたがたは、私の国で食卓に着いて食事を共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を裁くことになる。」(ルカ1230・聖書協会共同訳)と記されています。

 黙示録3章のラオディキアの教会は、黙示録が記された当時にあった教会であり、その教会に対する警告や勧告、また主に従う者への祝福が記されていますが、預言的には、現代の教会に対するものとも考えられています。その中に次のような聖句があります。
「見よ、私〔主イエス・キリスト(筆者挿入)〕は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉〔心の扉(筆者挿入)〕を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。勝利を得る者を、私の座に共に着かせよう。私が勝利し、私の父と共に玉座に着いたのと同じように。」(黙示録320.21・聖書協会共同訳)と記されています。

 4b.cには“また私は、イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣も獣の像も拝まず、額や手に刻印〔666の刻印(筆者挿入)〕を受けなかった。彼らは生き返り、キリストと共に千年の間支配した。”と記され、
6
節には“また私は、イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣も獣の像も拝まず、額や手に刻印〔666の刻印(筆者挿入)〕を受けなかった。彼らは生き返り、キリストと共に千年の間支配した。”と記されています。

 “あの獣も獣の像も拝まず、額や手に刻印を受けなかった。”とあります。
獣と獣の像への礼拝と額や手の刻印の話は、黙示録13章に記されています。
 <サタンからサタンの力と王座と権威を与えられた第一の獣について>
13:1 また私は、一頭の獣が海から上って来るのを見た。その獣には十本の角と七つの頭があり、角には十の王冠、頭には神を冒瀆する名があった。
2
 私が見たこの獣は豹に似ていて、足は熊のようで、口は獅子のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。
3
 獣は頭の一つに死ぬほどの傷を受けたが、この致命的な傷も治ってしまった。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した〔キリストの死と復活のまねごと(筆者挿入)〕。
4
 竜〔竜=サタンは父なる神のまねごとをしている。イザヤ1413.14参照(筆者挿入)〕が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。人々はまた、この獣をも拝んでこう言った。「誰がこの獣と比べられよう。誰がこの獣と戦うことができようか。」
5
 この獣にはまた、大言と冒瀆の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。
6
 そこで、獣は口を開いて神を冒瀆し、神の名とその幕屋、天に住む者たちを冒瀆した〔天に住む者たちの中には携挙された人たちもいます(筆者挿入)〕。
7
 獣は聖なる者たち〔地上でまことの神を信じている者たち=艱難時代の聖徒達(筆者挿入)〕と戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた〔獣=反キリストに全世界の民を支配する権威が与えられた(筆者挿入)〕。
8
 地上に住む者で、屠られた小羊の命の書に、天地創造の時からその名が記されていない者〔別訳「天地創造の時から屠られた小羊の命の書に、その名が記されていない者」(欄外注)〕は皆、この獣を拝むであろう。
9
 耳のある者は聞くがよい。
10
 捕らわれるべき者は、捕らわれて行く。剣で殺されるべき者は、剣で殺される。ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰がある。”(聖書協会共同訳)とあります。

 <第一の獣(反キリスト)を礼拝させるように仕向ける第二の獣(聖霊のまねごとをするところの汚れた霊に憑かれた者)>
黙示録1311-18には次のように記されています。
11 また私は、もう一頭の獣が地中から上って来るのを見た。この獣には、小羊に似た二本の角があって、竜のように語った。
12
 この獣は、第一の獣が持っていたすべての権威をその獣の前で振るい、地とそこに住む人々に、死ぬほどの傷が治った第一の獣を拝ませた。
13
 そして、大きなしるしを行って、人々の前で天から地上へ火をも降らせた。
14
 さらに、第一の獣の前で行うことを許された数々のしるしによって、地上に住む人々を惑わせ、また、剣の傷を負ったがなお生きている第一の獣の像を造るように、地上に住む人たちに命じた
15
 第二の獣は、獣の像に息を吹き込んで、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた
16
 また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。〔新生したキリスト者は聖霊の刻印が押されました(エペソ113.14)し、神のしもべの144000人の人たちにはその額に神の印が押されました(黙示録73.4)。それをまねして、悪しき霊に支配された第二の獣は、第一の獣(反キリスト)の刻印を、大患難時代にサタンに付く人たちに刻印するのです(筆者挿入)〕
17
 そして、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようにした。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。
18
 ここに知恵がある。理解ある者は、獣の数字の持つ意味を考えるがよい。数字は人間を指している。そして、その数字は六百六十六である。”(聖書協会共同訳)とあります。

 神は唯一であり三位一体ですが、サタンも神をまねて上記のような、竜と第一の獣、第二の獣からなる三位一体のまねごとをするのです。

 獣を礼拝せず、獣の偶像も礼拝せず、獣の刻印(666の刻印)を受けない故に殺された人たちは、キリストの地上再臨後に、生き返って、キリストの千年王国においてキリストと共に支配者として主に仕えるのです。そして、この人たちには第二の死(黙示録2014)はありません。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主を信じ通した者たちの千年王国における祝福を読ませていただきました。
感謝します。
いつも主に信頼し続けて生涯を全うする者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月 3日 (日)

黙示録20:1-3 悪魔(サタン)が悪魔の獄に入れられ、悪魔のいない世界が用意される/サタンとは

 黙示録201-3には次のように記されています。
1 また私は、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖を手にして、天から降(くだ)って来るのを見た。
2
 この天使は、悪魔でありサタンである竜、すなわち、いにしえの蛇を捕らえ、千年の間縛って、3 底なしの淵に投げ込み、鍵をかけ、その上に封印をした。
千年が終わるまで、もはや諸国の民を惑わさないようにするためである。
その後、竜はしばらくの間、解き放たれることになっている。”(聖書協会共同訳)とあります。

 サタンは大天使として造られた(エゼキエル2812c-15)にもかかわらず、神ヤハウェ(主)に、自由意思によって反逆し(イザヤ1413.14、エゼキエル2816.17a)たのです。堕罪前のサタンは、ヘブライ語で「ヘイレル」(「明けの明星」、英語で「ルシファー」)と呼ばれていたようです(イザヤ1412)。
サタンは、神様が造られた人類の始祖アダムとエバを堕罪へと導き、神に対して不従順になるという悪を人類に導入しました。
その結果、私たち全員は、罪の性質(原罪)をもって生まれるようになり、罪の性質を持っているゆえに、罪(複数形)を犯すことが当たり前のことになったのです(ローマ512)。
 
 余談になりますが、
人は罪の性質を持って生まれてきたゆえに、生まれながらの人(新生していない人)は、創造主なる神様を畏れ敬い、主なる神様に従うということを無意識のうちに嫌っています。
 新生していない人が、悪魔悪霊の支配している偽りの神を信じることは、比較的簡単です。
そして、そのような偽りの神を信じて、自分は信心深いと思っているのです。
 サタンは、無神論や、進化論も導入しました。
自分は頭が良いから、偶像などは信じない、という人もサタンにまんまとやられて、唯物論、進化論を信じるのです。
 新生していない人は、道徳的、倫理的な事柄についても、主なる神様が与えてくださった神のことばである聖書をそのまま信じることをせず、ヒューマニズムに基づいて判断したり、孔子、孟子、釈迦、その他の思想家等の教えを取り入れる人もいます。
 また新生していない人は、神のひとり子であり、救い主であり、創造主であり、万物を保持しているお方であり、万物の主であるお方であるイエス・キリストを信じない(信頼しない)のです(へブル12.3、コロサイ116.17、エペソ21-3、ヨハネ1691ペテロ221-24、ピリピ26-8、マタイ2818.etc.)。
 それだけではなく、生まれながらの人の内には罪が住んでいるので、霊的には暗闇で、サタンに従うことが自然のこととなっているのです(ローマ718.201ヨハネ519)。

 話を元に戻します。
神様は、天使を遣わして、いとも簡単に、サタンをサタンの獄に入れてしまわれます。それ故、主イエス様が統治なさる千年間、悪魔が人々を困らせることがなくなります。
神様はその時まで、どうして悪魔悪霊を野放しにしておいたのでしょうか。
その要因のいくつかは、悪魔悪霊の働きを用いて、人の心をより明らかにすることや、主なる神様を信じる者を霊的に成長させる一助とするためであったのではないか、また、主なる神様のすばらしさをより詳しく知るため、また自分自身をよく知るため、その他のため、であると思います。
 
 聖書辞典は、悪魔(サタン)について、次のように述べています。
“サタン (〈ヘ〉satan、〈ギ〉Satanas
元来は「敵対者」という意味。
 旧約聖書においてサタンへの言及はまれであるが、
ヨブ1‐2章では「神の子ら」と共に、神の前に姿を現す。そこからしばしばサタンが特別な悪としてではなく、単に御使いの一人として考えられることもあるが、サタンの活動がヨブに対して敵対するものであることは明らかである。
 彼〔サタン(筆者挿入)〕はダビデに人口調査をするように仕向け(21:1)、
大祭司ヨシュアを訴えるためにその右手に立ち(ゼカ3:1)、結局「サタンよ。主がおまえをとがめている」と言われている(ゼカ3:2)。
 また詩人はサタンが人の右手に立つことを悲惨なことと解釈し、これを報復の表現として用いている(詩109:6「なじる者」)。
 ヨハネは「悪魔は初めから罪を犯している」(Iヨハ3:8)と言っているが、旧約聖書もこれを支持している。

サタンに関する資料のほとんどは新約聖書による。
新約聖書では彼を悪魔(マタ4:1,ルカ4:3,ヨハネ8:44,使10:38等)、試みる者(マタ4:3)、誘惑者(テサ3:5)、悪い者(マタ13:19)、告発者(黙12:10)、敵(マタ13:39,ルカ10:19)、悪霊どものかしら(マタ9:34,マコ3:22)などと呼んでいる。他の表現では「この世を支配する者」(ヨハネ12:31)、「空中の権威を持つ支配者」(エペ2:2)、「ベルゼブル」(マタ10:25)などがある。

サタンは常に神への敵対者(ルカ22:3)、また神の計画を破壊する者として描かれている(マコ4:15)。
 マタイとルカはイエスの働きの初めに、そのわざをむなしいものとしようとして悪魔が誘惑したことを記す(マタ4:1‐11,ルカ4:1‐13)。悪魔の誘惑が退けられた時、「悪魔はしばらくの間イエスから離れた」(ルカ4:13)。これは後になって争いが再開されるであろうことを示唆している。
 彼〔サタン(筆者挿入)〕は悪霊に命じて人の心に住まわせ(マタ12:22‐29,マコ3:22‐27)、
イエスの弟子たちに働きかけ(マタ16:23)、
主の受難においてはサタンがユダに入ったと言われている(ルカ22:3,ヨハネ13:27)。
またアナニヤ、サッピラの心を奪い(使5:3)、宣教を妨害するなど(テサ2:18)、巧妙で活動的存在としてキリスト者のあり方に公然と敵対している(使13:10)。
 人間はサタンに自らを明け渡すことができるので、その結果サタンに属する者となり「悪魔の子ども」と呼ばれる(ヨハ3:10)。
 こうして私たちは「サタンの会衆」、「サタンの王座がある」所に住む人々について新約聖書から知ることができるのである(黙2:9,13)。

イエスがこの世に来られた明白な目的は、まさに「悪魔のしわざを打ちこわすため」にほかならなかった(Ⅰヨハ3:8.参照ヘブ2:14)。
 新約聖書の至る所で、神および善の力とサタンに導かれた悪の力との大きな戦いがあることが示されている(エペ6:12,Ⅰペテ5:8‐9)。
この戦いが激しいものであることを、ペテロは「悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」と表現し(ペテ5:8)、
パウロは悪魔の巧妙さに注目して「サタンさえ光の御使いに変装する」と指摘している(コリ11:14)。

ゆえにキリスト者は悪魔の策略に対抗できるために、神のすべての武具を身につけることが勧められる(エペ6:11,ヤコ4:7)。
 サタンが、さまざまな「欺き」「策略」(コリ2:11)、「わな」(テモ3:7)をもって戦いを挑んでくるとはいえ、聖書は私たちが二元論に陥ることのないように留意している(参照ヨブ1:6‐12)。
 サタンは、イエスの十字架と復活によって一度打ち破られた以上、すでに敗北者なのである。
ゆえに新約聖書は、神の計画を初め、主イエス・キリスト、信仰者に敵対するサタンの姿を明らかにしつつ、同時に彼の限界と敗北を主張している。すなわち彼の力は派生的であり(ルカ4:6)、その活動は神が許された範囲でしか行えない(ヨブ1:12,2:6)。
 イエスは70人の弟子たちによる伝道の際に、勝利の予告をかいま見られた(ルカ10:18)。またサタンが「追い出される」(ヨハネ12:31)、「さばかれた」(ヨハネ16:11)と言い、サタンに対する勝利を明らかに示している。
 悪魔と堕落した御使いたちのために備えられている「永遠の火」についても語られ(マタ25:41)、ヨハネはそれが世の終りに実現する幻を見て「彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた」(黙20:10)と表現している。

宣教者の働きは人を「サタンの支配から神に立ち返らせる」ことである(使26:18)。
パウロは、イエスの勝利と、
耐えることのできないような試練にあわせることはしない神の真実と(コリ10:13)、
サタンの策略についての認識のゆえに(コリ2:11)、
信仰をもって「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます」と言い得たのである(ロマ16:20)。

このように新約聖書におけるサタンに関する証言は明白であり、
サタンは悪意をもって常に神とその民に敵対する現実的存在である。
しかし、サタンはキリストの生涯と死、そしてよみがえりにおいてすでに敗北した者であり、この敗北は世の終りに決定的に明らかになり、御国は完成されるのである(Ⅰコリ15:24)。” (井出定治)と記しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
サタンなんかいなければよいのに、と思う人も多いでしょうが、あなたは、人の思いをはるかに超えて、最善をなさるお方ですから御名を崇めます。
悪魔悪霊がいるおかげで、私たちは、自分の心がどのような状態であるのかをより詳しく知ることができるようにされました。
エペソ26の聖句にあるように、今や私たちの霊は、サタンの居場所よりも高い所に置かれていますことを感謝します。
悪魔悪霊の策略にごまかされることなく、常に主にあって勝利しながら歩み続けることができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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