日毎の恵み19

2024年4月 6日 (土)

黙示録22:6-21 黙示録最終章の主のことばとヨハネの言葉/聖なる者はさらに聖なる者となれ

 黙示録226.7には次のように記されています。
6 天使はまた、私にこう言った。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちに霊感を授ける神、主が、その天使を送って、すぐに起こるべきことを、ご自分の僕たちに示されたのである。7 見よ、私はすぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、幸いである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 黙示録の2.3章は、当時の教会にとって、主の忠告はすぐに起こる可能性のあることであったでしょう。(教会時代の歴史を通しての預言という観点から見たときには、それぞれの時代に、書いてあるような状態になったならば、やはり神様の視点からすればすぐに起こる、ということなのでしょう)
また、4章以降は、御父の定めの時が来たならば、それぞれが、これもまたすぐに起こることでしょう。

 主は天使を遣わして、黙示録に記されている内容が、信頼でき、真実なものであると告げ、また、黙示録の預言のことばを守る者は幸いであると告げたのです。

 黙示録228.9には、礼拝すべきお方は主なる神様だけであると次のように記されています。
8 これらのことを聞き、また見た者は、私ヨハネである。聞き、また見終わったとき、私は、これらのことを示してくれた天使の足元にひれ伏して、拝もうとした。
9
 すると、天使は私に言った。
「やめよ。私は、あなたや、あなたのきょうだいである預言者たちや、この書の言葉を守っている人たちと同じく、仕える者である。神を礼拝せよ。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 ヨハネは天使礼拝をしそうになりました。その気持ちは分かります。あまりにも素晴らしいことを教えてくれたのですから。しかし、天使は、神様のお使いを果たしただけであり、栄光を取られるのは神様でなければならないのです。
礼拝の対象は、御父と御子のみであることが聖書から分かります。
被造物(天使も人間も含まれます)は主なる神様に仕える者です。

 主イエス様の忠告と主イエス様の自己紹介が、黙示録2210-16に次のように記されています。
10 また、わたしにこう言った。
「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。
11
不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。
12
見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。
13
わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。
14
命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。
15
犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。
16
わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ〔ダビデの根(2017)〕、その一族〔また子孫(2017)〕、輝く明けの明星である。」”(新共同訳)とあります。

 16節には“わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ〔ダビデの根(2017)。神である御子はダビデを創造者したお方です{創世記126.27、詩篇13913、コロサイ116}(筆者挿入)〕、その一族〔また子孫(2017)。キリストは肉においては、一見すると、ダビデの血統です{マタイ11-16、ルカ323-38}が、実際は聖霊によるのでした{マタイ118}。それ故、肉においても罪を持たずに生まれたのです。(筆者挿入)〕、輝く明けの明星である。」(新共同訳)”と記されています。

 黙示録2216を読みましたが、黙示録11の“イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。”(2017)という聖句にも、一部、同じような内容が再掲されています。

 また10節の“この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。”という聖句についても、黙示録13の“この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである。”(2017)と記されている内容と近似した警告です。

 12節には“・・・。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。”と記されていますが、キリスト者に関していえば、2コリント510の“私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。”(2017)という聖句の内容と近似しています。

 13節の“わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。”という聖句も、黙示録18の“神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」”(2017)という内容の範疇にあります。
「わたしはアルファであり、オメガである。」と聞くと、初めがあって終わりもある、とも思えてしまいますが、この表現は、永遠であることを表しているのだろうと思います。
黙示録117.18(抜粋)には“恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。”(2017)と記されていますから。

 15節は“犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。”と記されています。
これは黙示録218の“臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。”(2017)という内容の範疇にあります。

 14節の“命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。”という聖句がありますが、黙示録714(抜粋)の“この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。”(2017)という聖句によって、どのように洗い清めたらよいのかをすでに見せてもらっています。

 11節には“不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。”(新共同訳)と記されています。

 キリスト者は、主イエス・キリストのゆえに、「正しい者、聖なる者」です。
“正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。”(新共同訳)と記されています「正しいことを行わせ」、「聖なる者とならせよ」という個所のTRバージョンのギリシア語聖書の個所を見ると、アオリスト時制の受動態です。
正しい者とは主に信頼している者です。聖なる者とは主の血潮によって聖とされた者です。主に信頼している者を、主なる神様は、益々正しい者として整えてくださり、聖なる者{(聖別された者)へブル1010}を、主なる神様は、益々、あらゆる行いにおいて聖なる者(1ペテロ115.16)としてくださるのです。主はその様にしてくださいます。アオリスト時制で書かれているからです。また1テサロニケ523.24やピリピ16からも明らかです。2コリント318も心強い聖句です。

 この世は、どんどん悪くなります。それは、「不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者〔倫理的に汚れた者(筆者挿入)〕は、なお汚れるままにしておけ。」と記されているからです。
「不正を行わせ」、「汚れるままにしておけ」と訳されている個所のTRバージョンギリシア語聖書は、アオリスト時制で能動態で記されています。生まれながらの人は罪の性質を持って誕生しており、かつ世の終わりの時代には悪魔(サタン)悪霊は暴れまわります。汚れた者は、益々汚れ、不正を行う者は益々不正を行うようになるのでしょう。
 2テモテ31-5には次のように記されています。
1 しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。
2
その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、3 無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、4 裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、5 信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。”(口語訳)とあります。

 黙示録2217には“御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。”(2017)と記されています。

 花嫁(1テサロニケ413-17に該当する人たちの総体)は、主よ、迎えに来てください、「マラナ・タ」{(1コリント122)アラム語}というのです。また同時に、その人たちは、まだ救われていない人たちに向かって、「渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」と主の霊と共に福音を伝えるのです(絶対に救いなさいとは書いてありません。主の羊は主に従うでしょう)。

 黙示録2218.19には、
18 この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。
19
また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる”(新共同訳)と記されています。

 神のことばは神聖です。神のことばを神のことばとして信頼する者は幸いですし、神のことばをいい加減に捉える者は災いです。

 主の約束と花嫁の応答と祝祷が黙示録2220.21に、
20 これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
21
主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
一日一日、あなたと歩み続けているうちに、携挙の時が来ることを体験することでしょう。その日は何と素晴らしいことでしょうか。
感謝します。
日々、あなたに導かれ、あなたに支えられ、あなたの御力によって、あなたの愛の中で歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月 5日 (金)

黙示録22:1-5 新エルサレムにおける御父と御子と贖われた者たち

黙示録221-5には次のように記されています。
1 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように光り輝く命の水の川を私に見せた。
2
 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。その木の葉は諸国の民の病を癒やす。
3
 もはや呪われるべきものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、4 御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。
5
 もはや夜はなく、灯の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らすからである。そして、彼らは世々限りなく支配する。”(聖書協会共同訳)とあります。

 新エルサレムには呪われるべきものが一つもなく(3)、夜もありません(5)。光は神であるヤハウェ(主)です(5)。
1
ヨハネ15には“神は光であり、神には闇が全くないということです。”(抜粋・2017)と記され、
ヨハネ14.5には“この〔主イエス・キリストの(筆者挿入)〕いのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。”(抜粋・2017)と記されています。

 ペトロ(ペテロ)、ヤコブ、ヨハネは光り輝く主イエス・キリスト様を見ました。
マタイ171.2に、
“六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 1.2節には“天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように光り輝く命の水の川を私に見せた。2 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。その木の葉は諸国の民の病を癒やす。”と記されています。

 エゼキエル471-12には次のように記されています。
1 彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。すると、水が神殿の敷居の下から湧き出て、東の方に流れていた。神殿の正面が東に向いていたからである。水は祭壇の南、神殿の南側の下から流れ下っていた。
2
 彼は北の門を通って私を連れ出し、外の道を回って東に向いた外門に連れて行った。すると、水は南側から流れ出ていた。
3
 その人は、手に測り縄を持って東に出て行き、一千アンマを測り、私に水の中を渡らせた。すると水はくるぶしまであった。
4
 彼はさらに一千アンマを測って、私に水の中を渡らせると、水は膝に達した。さらに彼は一千アンマを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
5
 彼がさらに一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川となった。
6
 彼は私に、「人の子よ、見たか」と言って、私を川岸へ連れ戻した。
7
 私が戻って来て見ると、川の両岸には、非常に多くの木があった。
8
 彼は私に言った。「これらの水は、東の地域に流れ出てアラバに下り、海〔「死海」のこと(筆者挿入)〕、すなわち汚れた水の海に入る。するとその水は癒やされる。
9
 川が流れて行く所はどこでも、そこに群がるすべての生き物は生き、魚が非常に多くなる。この水が入ると、そこの水が癒やされ、この川が流れる所では、すべてのものが生きるからである。
10
 漁師たちがそのほとりに立ち、エン・ゲディからエン・エグライムまで、引き網を広げる所となる。そこの魚は大海の魚のように種類が増え、非常に多くなる。
11
 しかし、沢と沼は癒やされず、塩を取ることができる。
12
 川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が成長し、その葉は枯れず、絶えず月ごとに新しい実をつける。水が聖所から流れ出ているからである。 実は食用となり、葉は薬用となる。」”(聖書協会共同訳)とあります。
この記述は、キリストの千年王国の預言ではないかと思いますが、新天新地の新エルサレムにおいてもその中心的な事柄は移行されるのではないかと想像します。

 黙示録221-5には、キリストの花嫁(妻)については記されていないと思います。
2
節の「諸国の民」については、黙示録2124-26に次のように記されています。
24 諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて都に来る。25 都の門は、終日閉じることがない。そこには夜がないからである。26 人々は諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。”(聖書協会共同訳)とあります。

 携挙されたキリスト者すなわちキリストの花嫁についての記述は1テサロニケ417に“私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”(2017)と記され、
エペソ26には“キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。”(口語訳)と記されています。

 キリストの花嫁はどうしてこのような祝福を得たのでしょう。
それはキリストの花嫁に何かの功績があったというのではなく、ただただ御父の愛に基づく御旨の故なのではないかと私は思うのです。御父とみ子をほめたたえるのみです。
 エフェソ13.4には、
3 私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福し、4 天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主イエス様は「見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ2029抜粋・2017)と言われましたが、教会時代すなわち恵みの時代の私たちは、主イエス様を肉眼で見ることをしなかったのに、主イエス様を信じたのです。それは、主イエス様を信じる信仰を与えられたからではないかと思います{エフェソ(エペソ)28参照}。

 黙示録711の「長老たち」とは、花嫁を代表している表現と理解することができるのではないかと思います。長老たちはキリストとともにいるのです。
黙示録79-17には次のように記されています。
9 この後、私は数えきれぬほどの大群衆を見た。彼らはあらゆる国民、部族、民族、言葉の違う民から成り、白い衣を身にまとい、なつめやしの枝を手に持って、玉座と小羊の前に立っていた。10 彼らは声高らかに言った。
「救いは、玉座におられる私たちの神と小羊にある。」
11
 また、天使たちは皆、玉座と長老たちと四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、12 こう言った。
「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、権威が、世々限りなく私たちの神にありますように。アーメン。」
13
 すると、長老の一人が私に問いかけた。
「この白い衣を身にまとった者たちは誰か。またどこから来たのか。」
14
 そこで私が、「私の主よ、それはあなたがご存じです」と答えると、長老は言った。
「この人たちは大きな苦難〔大患難(筆者挿入)〕をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。15 それゆえ、彼ら〔艱難時代の聖徒たち(筆者挿入)〕は神の玉座の前にいて、昼も夜も神殿で神に仕える。玉座におられる方が、彼らの上に幕屋を張る。16 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどのような暑さも彼らを打つことはない。17 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へと導き、神が彼らの目から涙をことごとく拭ってくださるからである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 長老たちは、御父と御子と四つの生き物と共におり、天使たちに囲まれ、また、御父と御子の御前には艱難時代の聖徒たちが礼拝している、という構図になっています。
エペソ26に“キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。”(口語訳)と記されていることが頷けます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私たちは、ただただあなたの恵みによって祝福されていることを覚えます。
あなたを賛美し、あなたのすばらしさを証ししつつ歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月 4日 (木)

フィリピ1:12-14 証しをし御言葉をのべ伝えなさい

 フィリピ112-14には次のように記されています。
12 きょうだいたち、私の身に起こったことが、かえって福音の前進につながったことを、知っていただきたい。
13
 つまり、私が投獄されているのはキリストのためであると、兵営全体と、その他のすべての人に知れ渡り、14 主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄されたのを見て確信を得、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになったのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 投獄されたら、恐怖と絶望に襲われてもおかしくありません。
パウロの場合は、主のために労していて、すなわち主に喜ばれる善を行っているにもかかわらず投獄されたのですから、主に対して「どうしてですか」と少し恨み言を言ってもおかしくないような状態です。

 かつてパウロはフィリピにおいて投獄されたことがありました。
この時もパウロは善を行って投獄され、鞭で打たれ、足かせをはめられたのです。

 使徒16章には次のように記されています。
16 私たちは、祈りの場に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。
17
 彼女は、パウロや私たちの後ろに付いて来てこう叫ぶのであった。
「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」
18
 彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。
「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」
すると、霊は即座に彼女から出て行った。
 19 ところが、この女の主人たちは、金儲けの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、広場の役人のところに引き立てて行った。
20
 そして、二人を高官の前に引き出してこう言った。
「この者たちはユダヤ人で、私たちの町を混乱させております。21 ローマ人である私たちが受け入れることも、行うことも許されない風習を宣伝しているのです。」
22
 群衆も一緒になって二人を責めたてたので、高官たちは、二人の衣服を剥ぎ取り、鞭で打つように命じた。
23
 そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に入れ、看守に厳重に見張るように命じた。
24
 この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 パウロとシラスは何度も鞭で打たれてから牢に入れられたのです(23)。
そして足かせをはめられたのです(24)。
鞭で打たれたところは出血し、痛みがあり、この当時の牢獄ですから、床は土のままであったでしょう。虫も這っていたことでしょう。今の刑務所とはまるで違うのです。

 パウロとシラスは牢の中で、主に対する恨み言で盛り上がっていたでしょうか。
そうではなく、神を賛美していたのです。
かつて主イエス様は、「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」(マタイ510-122017)と語られました。

 おそらくパウロとシラスは、主イエス様のこのような御言葉を直接的には聞かったでしょうが、使徒たちやほかの弟子たちから、主イエス様がこのように語られたということを聞いていたことでしょう。

 使徒1625には“真夜中頃、パウロとシラスが神への賛美の歌を歌って祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主はこの時、御業をなされたのです。続く26節には次のように記されています。
“突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 更に主は、パウロを用いて、救いの御業をなされていきます。続く27-34節には次のように記されています。
27 目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。
28
 パウロは大声で叫んだ。
「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる。」
29
 看守は、明かりを持って来させ、駆け込んで来て、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、30 二人を外へ連れ出して言った。
「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」
31
 二人は言った。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
32
 そして、看守とその家族一同に主の言葉を語った。
33
 まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼(バプテスマ)を受けた。
34
 この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 今日のフィリピの個所は、使徒16章の個所とは時間的にも場所的にも異なる場所における投獄ですが、パウロの主に在る生き方と主の働きを教えていただけます。

 今日の聖書個所におけるパウロの投獄は、フィリピではありませんが、パウロはここでも宣教活動をしていました。
自分と触れ合う人たちに証しをし、福音を語っていたのです。
その福音宣教の結果は、フィリピ113.14に次の様に記されています。
13 つまり、私が投獄されているのはキリストのためであると、兵営全体と、その他のすべての人に知れ渡り、14 主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄されたのを見て確信を得、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになったのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 このような状態を見るとパウロの次の聖句が重みをもって迫ってきます。
「神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(2テモテ41.22017)という聖句です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
現代の日本の空気感では、様々な宗教界のトラブルのゆえに宗教的な話をすると、それだけで心のシャッターを下ろす人が多いですが、主が私たちキリスト者の一人一人に語るべき相手を与えてくださって、その人たちに証しをし、福音を語ることができるようにさせてください。
御父が主キリスト様に与えられた羊を宣教対象者として与えてくださいましたら最高ですが、そうでなくても福音に耳を傾ける人を与えてください。
そのようにして、キリスト者の一人一人が、福音を語ることの喜びを体験しながら生活していくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・
27 私〔主イエス・キリスト(筆者挿入)〕の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。
28
 私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、また、彼らを私の手から奪う者はいない。
29
 私に彼らを与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、誰も彼らを父の手から奪うことはできない。
30
 私と父とは一つである。」(ヨハネ10章・聖書協会共同訳)

2024年4月 3日 (水)

箴言28:12 主なる神を信じる者は主キリスト・イエス様の王権を喜びます

 箴言2812を、
2017
は“正しい人が喜ぶと、大いなる栄えがあり、悪しき者が立ち上がると、人は身を潜める。”と訳し、
リビングバイブルは“神を恐れる人が成功するとだれもが喜び、悪者が成功するとがっかりします。”と訳し、
聖書協会共同訳は“正しき者が喜び祝うと栄誉は増し、悪しき者が立ち上がると人は身を隠す。”と訳し、
フランシスコ会訳は“正しい者が支配する時には、大きな喜びがある、悪い者が権力をふるうと、人々は身を隠す。”と訳し、
新共同訳は“神に従う人々が喜び勇むと輝きは増し、神に逆らう者が興ると人は身を隠す。”と訳し、
口語訳は“正しい者が勝つときは、大いなる栄えがある、悪しき者が起るときは、民は身をかくす。”と訳しています。

 「正しい人(者)」(2017、聖書協会共同訳、口語訳)は、主なる神にあっては「神を畏れる人」(リビングバイブル)or「神に従う人」(新共同訳)です。ヘブライ語原語は「ツァディーク」で、正しい、法を守る、義人、・・・等の意があります。この文では「ツァディーク」の複数形になっています。新共同訳は「神に従う人々」と訳しています。

 「喜ぶ」(2017)、「成功する」(リビングバイブル)、「喜び祝う」(聖書協会共同訳)、「支配する」(フランシスコ会訳)、「喜び勇む」(新共同訳)、「勝つ」(口語訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「アーラツ」で、喜びのためにジャンプすること、大喜びする、勝ち誇る、勝利(する)、大成功、喜ぶ、嬉しがる、成功の喜び、・・等の意があります。

 「大いなるor大きな」(2017、口語訳、フランシスコ会訳)、「だれもが」(リビングバイブル)、「増し」(聖書協会共同訳、新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ラブ」で、豊富な、有り余る、偉大な、すばらしい、重要な、増える、十分な、・・・等の意があります。

 「栄え」(2017、口語訳)、「栄誉」(聖書協会共同訳)、「輝き」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ティファ―ラー」で、飾り、光彩を添えるもの、栄光、誉れ、敬意、威厳、名誉、尊敬、・・・・等の意があります。

 後半部分の、
「悪しき者or悪者」(2017、リビングバイブル、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳、口語訳)とは、対神的には、「神に逆らう者」(新共同訳)です。ヘブライ語原語は「ラーシャー」で、(倫理、道徳的に)正しくない(人)、悪人、(活動的に)悪い人・・・・等の意があります。この文ではラーシャーの複数形が使われています。

「立ち上がる」(2017、聖書協会共同訳)、「成功する」(リビングバイブル)、「権力を振るう」(フランシスコ会訳)、「起こるor興る」(口語訳、新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「クーム」で、上がる、立ち上がる、増加する、起こる、滞在する、・・・等の意があります。

 「身を潜める」(2017)、「身を隠す」(聖書協会共同訳、フランシスコ会訳、新共同訳、口語訳)、「がっかりする」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ハーファス」で、探し求める、隠す、隠れる、偽装する、変化する、変装する・・・等の意があります。

 この聖句を私は、「主なる神を畏れ敬う人たちは、神に従う人たちが勝利し、支配すると、大喜びします。しかし、主なる神に敵する人たちが興ると人は身を隠しますor変装します。」と捉えました。

 悪しき人たちが興ったら、主に在って戦う義人たちが多く起こされると良いですね。

 日本では、日本を覆う「空気」(思想、考え、感情、歴史観、倫理観、・・・・)に支配されている人が多いです。キリスト者は少数です。

 主はパウロを通して、「どのような時にも、”霊”〔神の霊(筆者挿入)〕に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エペソ618・新共同訳)と語られました。

 1ヨハネ519には“わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。”(新共同訳)と記され、
主イエス様は、「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ713-142017)と語られました。

 主イエス様を信じている者同士は、お互いの間に違いがあっても、祈り合い、支え合う必要があることを覚えます。何しろ少数なのですから。

 主イエス様は、「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13342017)と語られ、
「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14232017)とも語られました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
互いに愛し合う歩みをし続けていくことができますよう祝福してください。
愛の内を歩めば、三一の主なる神様が、霊の内に住んでくださいますから感謝します。
常に主と共に歩ませていただけますようにと祈りつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月 2日 (火)

詩篇107:10-16 主は憐れみ深く慈しみ深いお方

詩篇10710-16には次のように記されています。
10 闇と死の陰に住む者たち、苦悩と鉄の枷に締めつけられる捕らわれ人は、11 神の仰せに逆らい、いと高き方の計らいを侮った。
12
 主は労苦を通してその心を挫いた。彼らはつまずいたが、助ける者はいなかった。
13
 苦難の中で主に叫ぶと、主は彼らを苦しみから救い出した。
14
 闇と死の陰から導き出し、彼らの枷(かせ)を壊してくださった。
15
 主に感謝せよ。その慈しみと人の子らになされた奇しき業(わざ)のゆえに。
16
 まことに、主は青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを砕いてくださった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 10節の「死の陰」と訳されている語のヘブライ語原語は「ツァールマーヴェト」で、死の陰、墓、等の意があります。

 11節の「仰せ」(聖書協会共同訳)、「ことば」(2017)と訳されている語のヘブライ語原語は「エーメル」で、言われた(こと)、答え、話、言葉、等の意があります。
「計らい」(聖書協会共同訳)、「さとし」(2017)と訳されている語のヘブライ語原語は「エーツァー」で。助言、忠告、勧告、計画、予定、意向、考え・・等の意があります。

 10.11節を、
聖書協会共同訳は、“闇と死の陰に住む者たち、苦悩と鉄の枷に締めつけられる捕らわれ人は、神の仰せに逆らい、いと高き方の計らいを侮った。”と訳し、
2017
は“闇と死の陰に座す者。苦しみの鉄のかせに縛られている者。彼らは神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを退けた。”と訳し、
リビングバイブルは“みじめな奴隷になり下がり、暗闇に座り込んでいる人はだれですか。それは、主に逆らった人々、他の神々にまさる神をさげすんだ人々です。”と意訳しています。

 11.12節は、詩聖が、捕囚民のことを述べて書いたのではないかと推測します。
私がここから教えられることは、たとえ主の救いにあずかったとしても、主の教えに逆らって、あるいは主の教えを無視して生きていると、結局は、サタンの支配の下に組み込まれてしまうということです。
この個所は、救われる以前にサタンの支配にあったということが書かれているのではありません。
主に救われる以前は、だれでもサタンの支配の下にありました。
 エペソ21-3に次のように記されているとおりです。
1 以前のあなたがたは、罪のために永遠に滅びる定めにありました。
2
この世の人と同じ生き方をし、罪にまみれ、主に反抗する人の心に今も働いている、力ある支配者サタンの言うままになっていたのです。
3
私たちもみな、以前はほかの人たちと同じで、その生活は、心にある悪を反映したものでした。欲望や心のおもむくままに生き、行動していたのです。私たちは、生まれながらに神の怒りを受けて当然の者でした。”(リビングバイブル)とあります。

 1110節のような読み方をすると、
“彼らは神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを退けた〔ので(筆者挿入)〕、闇と死の陰に座す者、苦しみの鉄のかせに縛られている者〔となったのです(筆者挿入)〕”(2017)ということになります。

 この状態から助け出すために、主は、捕囚民に対して、“苦役〔重労働(リビングバイブル)〕によって彼らの心を低くされた。彼らはよろけたがだれも助けなかった。”(12節・2017)という状態に置かれたのです。

 主から離れた人たちは、苦しみを味わい、耐えられなくなっていきました。
その結果、主を思い起こし、主に助けてくれ、と叫んだのです。
13
節には“この苦しみのときに彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。”(2017)と記されています。
 余談になりますが、私たちの主イエス様の「イエス」のヘブライ語は「イェシュア」で、「主は救う」という意味です。キリスト者にとっては当たり前のことですが、主イエス様は「救い主」なのです。
イエス様に叫べばイエス様は救ってくださるのです。
“「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。”(ローマ1013・新共同訳)と記されています。
 1ペテロ26cには「彼〔主キリスト・イエス(筆者挿入)〕に信頼する者は、決して失望させられることがない。」(新改訳初版~第三版)と記されています。

 13.14.16節には、
13 苦難の中で主に叫ぶと、主は彼らを苦しみから救い出した。
14
 闇と死の陰から導き出し、彼らの枷(かせ)を壊してくださった。/
16
 まことに、主は青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを砕いてくださった。(聖書協会共同訳)と記されています。

 この個所は、ユダヤの歴史についていえば、バビロンからの解放です。
ユダヤの民を開放するために主は異邦人キュロスを立てられました。
 イザヤ451-3には次のように記されています。
1 主は油を注がれた人キュロスについてこう言われる。
私〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼〔キュロス(筆者挿入)〕の右手を取り、彼の前に諸国民を従わせ、王たちを丸腰にする。彼の前に扉は開かれ、どの門も閉ざされることはない。2 私〔ヤハウェ(筆者挿入)〕あなた〔キュロス(筆者挿入)〕の前を行き、山々を平らにし、青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを砕く
3
 私は暗闇に置かれた宝と隠された財宝をあなたに与える。それは、私が主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この結果何が起こったのでしょうか。
エズラ12-11には次のように記されています。
2 「ペルシアの王キュロスはこのように言う。
天の神、主は地上のすべての王国を私に与えられ、ユダのエルサレムに神殿を建てることを私に任された。
3
 あなたがた〔ユダヤの民たち(筆者挿入)〕の中で主の民に属する者は誰でも、神がその人と共におられるように。その者は誰であれ、ユダのエルサレムに上り、イスラエルの神、主の神殿を建てなさい。その方はエルサレムにある神である。
4
 残る者は皆、どこに寄留している者であっても、自分のいる所で、エルサレムにある神の宮への自発の献げ物を用意し、また銀や金、財産や家畜をもって彼らを援助しなさい。」
5
 ユダとベニヤミンの親族の頭、祭司やレビ人など、神に霊を奮い起こされた人々は皆、エルサレムにおられる主の神殿を建てるために帰還しようと立ち上がった。
6
 周囲の人たちは、自発の献げ物のほかに、銀の器、金、財産や家畜、高価な贈り物をもって彼らを支援した。
7
 キュロス王は、ネブカドネツァルがエルサレムから持ち出して自分の神々の神殿に納めていた、主の神殿の祭具類を取り出させた。
8
 ペルシアの王キュロスは財務官ミトレダトに命じてそれらを取り出し、数を数え、ユダの首長シェシュバツァルに渡した。
9
 その数は次のとおりであった。金の容器三十、銀の容器一千、小刀二十九、10 金の杯三十、第二の銀の杯四百十、その他の祭具一千、11 金銀の祭具が全部で五千四百。
シェシュバツァルはこれらすべてを携え、バビロンからエルサレムに帰還する捕囚の民と共に上って行った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 話を変えます。
キリスト者が主なる神の教えを離れ、自分勝手な道に行き、困窮してしまったとしても、主は、憐れみ深く、恵み深いお方です。
“もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。”(1ヨハネ192017)という聖句に信頼して、罪を主に告白すれば、主はきよめてくださるのです。
ルカ15章の放蕩息子の話にあるように、たとえ霊の父である神に背を向けて離れて行っても、回心して主の元に戻ってくれば、大歓迎してくださるお方、それが霊の父です。
主イエス様は、天の御父はそのようなお方ですよ、と教えてくださいました。
なお、主イエス様と御父とはその本質において一つです。主イエス様の御性質を見れば御父の御性質がわかるのです。

 15節には“主に感謝せよ。その慈しみと人の子らになされた奇しき業(わざ)のゆえに。”と記されていますが、自然に感謝が湧き出ることでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは、慈しみ深く、憐れみ深いお方ですから御名を崇めます。
あなたの慈しみをあてにして放蕩するのではなく、あなたの御教えに従ってあなたに在って歩む者であらせてください。
あなたを賛美し、あなたに感謝をささげながら。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月 1日 (月)

黙示録21:9-27 新エルサレム/キリストの花嫁

 黙示録219-11には次のように記されています。
:9 さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使の一人が来て、私に語りかけてこう言った。
「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁をあなたに見せよう。」
10
 天使は、霊に満たされた私を大きな高い山へ連れて行った。そして、聖なる都エルサレムが神のもとを出て、神の栄光のうちに天から降って来るのを私に見せた。
11
 都は神の栄光に輝いていた。その輝きは最も高価な宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 新エルサレムは素晴らしい都でしたが、新エルサレムがどのように見えるのか、ということを表現するにあたり、ヨハネは、~です。~でした。とは言えず、~のようであり、~のようであった。と語る以外には表現できなかったのです。
実際に見た人がそのようなのですから、私たちがキリストの千年王国の後の新天新地について正しく把握できるわけもありません、
この個所について私は、私の推測or想像を述べることしかできませんので、その程度に捉えておいてください。
トミーさんは、今現在においては、このように捉えたのかな、という程度に読んでください。

 天使はヨハネに、「小羊の妻である花嫁」を見せてあげる、と語られたのに、ヨハネが見たのは天から下りてきた新エルサレムでした(10.11)。
そして新エルサレムの外観は、神の栄光に輝き、最も高価な宝石すなわち透き通った碧玉のように見えたのです(11)。

 22.23節には“22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが神殿だからである。
〔それにしても、都には、どこにも神殿が見あたらないのです。というのも、全能の神である主と小羊とを、都のどこででも、自由に礼拝できるからです。(リビングバイブル)〕
23
 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 新エルサレムに神殿はないのです。主イエス様の十字架上の贖いが成し遂げられた時、至聖所と聖所を隔てていた神殿の幕が上から下までまっ二つに裂けたことを思い出します(マタイ2751)。
キリスト者は祭司です(1ペテロ29)。キリストの贖いの成就前は、当番の祭司は聖所には入れても至聖所には入れず、至聖所には大祭司が1年に1回入れるだけであったのですが、祭司には至聖所も開かれたのです。それどころか新天新地においては建物としての神殿さえもないのです(22)。神殿は、聖であられ永遠に存在しておられる万物の創造者である全能の主なる神と子羊すなわち神の御子なのです(22)。
このような表現なのですから、花嫁も動くことの出来ない建造物であるはずがありません。
 子羊、すなわち神の御子の花嫁は教会です(エペソ522-32)。花婿キリストと花嫁教会(キリスト者の総体)はすでに天において結婚式を挙げています(黙示録196-8)。
それらのことを考えると、花嫁(キリスト者の総体)が新エルサレムという建物に変化したのではなく、新エルサレムの中に、御父なる神と御子である花婿と花婿の妻である教会が新エルサレムの中にいるということが推測されます。
その都を外から見ると、その輝きは最も高価な宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった(11)、と見えたというのでしょう。
1
コリント15章によると、花嫁は「栄光あるもの」(43)、「キリストに似たもの」(48.49)とされているのです。ただただ主の恵みによって。
「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」とパウロは述べています(ローマ818)。

 次にヨハネが見た都の大きさと構造について、ヨハネは黙示録2112-21に次の様に記しています。
12 都〔新エルサレム(筆者挿入)〕には高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。
13
 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
14
 都の城壁には十二の土台があり、そこには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。
15
 私に語りかけた天使は、都と門と城壁を測るために、金の物差しを持っていた。
16
 この都は四角形で、長さと幅が同じであった。天使が物差しで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。
〔かつての幕屋や神殿の至聖所は立方体でした。新エルサレムも立方体です。/大きさやその他の参考記述:スタディオンは185mなので、12000スタディオンは2220kmとなり、新エルサレムの大きさは縦、横、長さが各2220㎞のキューブ(立方体)でできているというのです。現地球の対流圏は約10㎞の高さ、成層圏の高さは約10-50㎞、国際宇宙ステーションの高度は約400㎞、人工衛星は約150-400㎞に存在しています、大気圏は約800㎞、大気圏の外は宇宙空間に属します。新エルサレムは底辺の縦横の長さが約2200㎞立方体ですから、新天新地の地面は平らなのかもしれません。そうすると新天新地の地は球体ではないのかもしれません。あくまでも想像です。新天新地ですから現在の宇宙のありようと異なっても良いわけです。主なる神様はどのように創造なさるのでしょうか。楽しみです。(筆者挿入)〕
17
 また、城壁〔城壁の厚さ(リビングバイブル)〕を測ると、百四十四ペキス〔1ペキスは44㎝、144ペキスは約63.4m(筆者挿入)〕であった。これは人間の尺度であって、天使が用いたのもこれである。
18
 都の城壁は碧玉で築かれ、都は混じりけのないガラスのような純金でできていた。
19
 都の城壁の土台は、あらゆる宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、20 第五は赤縞めのう、第六はカーネリアン、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
21
 また、十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠でできていた。そして、都の大通りは、混じりけのないガラスのような純金であった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 黙示録2122-26には新エルサレムの内容と、新エルサレムの外には諸国の民が住む場所があることが記され、諸国の民も主なる神と子羊の光によって光を得、かつ諸国民の王たちは諸国民の栄光と誉を都に携えて礼拝に訪れることが次のように記されています。
22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが神殿だからである。
23
 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。
24
 諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて都に来る。
〔その光は全世界に及ぶのです。世界中の支配者たちが、それぞれの栄光を携えてやって来ます。(リビングバイブル)〕
25
 都の門は、終日閉じることがない。そこには夜がないからである。
26
 人々は諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。”(聖書協会共同訳)とあります。

 黙示録2127には次のように記されています。
27 しかし、汚れた者、忌まわしいことや偽りを行う者は誰一人、都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入ることができる。”(聖書協会共同訳)とあります。
“汚れた者、忌まわしいことや偽りを行う者は誰一人、都に入れない。”とありますが、この範疇の人たちは、黙示録218に“臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らな行いをする者、魔術を行う者、偶像を拝む者、偽りを言うすべての者、このような者の受ける報いは、火と硫黄の燃える池であって、第二の死である。”(聖書協会共同訳)と記されている人たちのことでしょう。この人たちは子羊の命の書に名が記されていないのです(黙示録2012.15)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
新天新地において、私たち新生したキリスト者、その総体である花嫁は、とこしえに花婿キリストと御父と共に愛の交わりの中にいることを教えてくださり感謝します。
そのような未来が待ち受けていることを望みとしておきながら今日も主に在って歩む一日とさせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月30日 (土)

箴言28:11 人の心の高慢は破滅に先立ち、主は主なる神様に対する謙遜を喜ばれる

 箴言2811を、
リビングバイブルは“貧しくても知恵のある人は、金持ちだとうぬぼれている人が、ほんとうは貧しいことを見抜きます。”と訳し、
新改訳2017は“富む者には自分が知恵のある者に見える。しかし、分別のある貧しい者は、彼を調べる。”と訳し、
新改訳初版~第三版は“富む者は自分を知恵のある者と思い込む。分別のある貧しい者は、自分を調べる。”と訳し、
聖書協会共同訳は“富める者は自分を知恵ある者と思い込むが、貧しくても分別ある人はそれを見破る。”と訳し、
新共同訳は“金持ちは自分を賢いと思い込む。弱くても分別ある人は彼を見抜く。”と訳しています。

 「富む者」(新改訳)、「富める者」(聖書協会共同訳)、「金持ち」(新共同訳、リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「アーシール」でrich (man)、noble(man)の意があります。

 「知恵のある」(新改訳)、「知恵ある」(聖書協会共同訳)、「賢い」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ハーカム」で、賢い、賢明な、知恵のある、等の意があります。

 「人」(リビングバイブル)、「者」(新改訳、聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「イーシュ」で男、人の意があります。
「イーシュ」については、創世記223の“人〔ヘブライ語原語は「アーダーム」(筆者挿入)〕は言った。「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」”(新共同訳)と記されている個所を思い浮かべます。

 「思い込む」(新改訳初版~第三版、新共同訳、聖書協会共同訳)、「見える」(2017)、「うぬぼれている」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「アイン」で、目、視力、注視、自負心、うぬぼれ、独断、私見、・・等の意があります。

 「知恵のある」(リビングバイブル)、「分別のある」(新改訳)、「分別ある」(新共同訳、聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ビーン」で、分ける、区別する、分離した、識別する、理解する、把握する、・・等の意があります。

 「調べる」(新改訳)、「見抜く」(新共同訳、リビングバイブル)、「見破る」(聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ハーカル」で、見通す、見抜く、洞察する、見つけ出す、吟味する、・・等の意があります。

 「彼を」(2017、新共同訳)、「自分を」(新改訳初版~第三版)、「それを」(聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は、ギリシア語聖書のTR版によると、接尾辞の「ヌ」となっていて、「ヌ」は、一人称複数形を表します。

 「貧しい」(新改訳、リビングバイブル、聖書協会共同訳)、「弱い」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ダル」で、ぶら下がる、弱い、虚弱な、薄い、細い、・・等の意があります。

 ギリシア語聖書のTR版を基にすると、
この聖句の前半部分は、「金持ちの人、あるいは身分の高い人は、自分を賢い人と見ています、あるいはうぬぼれています。」と訳せると思います。

 後半部分は、「しかし、〔キリストに(筆者挿入)〕ぶら下がる者、あるいは弱い者、あるいは貧しい者〔霊の貧しい者{マタイ53}(筆者挿入)〕は、自分を調べます、あるいは自分を〔主に在って、自分の思いや感情がどのような状態であるのかを(筆者挿入)〕見つけ出します。という意に解釈できるのではないかと思います。

 箴言1812には“人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。”(2017)と記されています。

 ルカ189-14には次のような主イエス様のたとえ話が載っています。
9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
10
 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
11
 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく、また、 この徴税人のような者でないことを感謝します。
12
 私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
13
 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください。』
14
 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」”(聖書協会共同訳)と記されています。
 
 マタイ53には“心の貧しい者〔直訳「霊において貧しい者」(欄外注)〕は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。”(2017)と記されています。
KJV
訳は“Blessed are the poor in spirit: for theirs is the kingdom of heaven.”と訳しています。

 霊において貧しい者は、主に、「主よ、私の霊の中に満ち満ちてください」とお願いするでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
いつも主なる神様の前にへりくだり、主を崇め、主を敬い、主のみ旨にかなうことを主に求め、主に教えていただきつつ、主に導かれて歩ませていただく者であらせてください。
あなたの御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月29日 (金)

詩篇107:4-9 主は私を苦しみと滅びから救われました

 詩篇1074-9には次のように記されています。
4 彼らは荒れ野をさまよい、不毛の地で人の住む町に至る道を見いだせず、5 飢え、また渇き、命は衰え果てようとしていた。
6
 苦難の中で主に叫ぶと、主は彼らを苦しみから助け出した。
7
 主は彼らをまっすぐな道に進ませ、人の住む町に向かわせた。
8
 主に感謝せよ。その慈しみと人の子らになされた奇しき業のゆえに。
9
 まことに主は渇いた魂を潤し、飢えた魂を良いもので満たしてくださった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 4.5節を2017は“彼らは荒野や荒れ地をさまよい、人が住む町への道を見出せなかった。飢えと渇きによって、彼らのたましいは衰え果てた。”と訳しています。

 リビングバイブルは“住む家もない人々は、荒野をあてどなくさまよい、空腹をかかえ、のどはからからに渇き、体力も衰え果てました。”と訳しています。

 実際にイスラエルの人々の中には、このようなことを体験した人たちもいたのでしょう。

 苦しみにあった人たちは、神ヤハウェ(主)に叫び祈りました。
神ヤハウェ(主)は、その祈りに応えてくださったのです。
 6.7節を2017は、“この苦しみのときに彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。彼らをまっすぐな道に導き、人が住む町へ向かわせた。”と記されています。

 詩聖は、主が良くしてくださったことについて主に感謝するように勧めています。
8
節には“主に感謝せよ。その恵みのゆえに。人の子らへの奇しいみわざのゆえに。”(2017)と記されています。
 
 余談になりますが、
イスラエル王国(北イスラエルの10部族)の人たちは、アッシリアに捕囚された後、やがて東の方へと安住の地を求めて旅をしたそうです。シルクロードを通って行った人たちもいました。その中には、砂漠で多くの人が死んだ例もあったそうです。現代のイスラエルでは、これらのことを調査でつかんでいるようです。
やがて、エゼキエル3715-28の預言が成就するのです。
 エゼキエル3715-28には次のように記されています。
15 主の言葉が私に臨んだ。
16
 「人の子よ〔ここではエゼキエルのこと(筆者挿入)〕、あなたは一本の木を取り、その上に、『ユダとその友イスラエルの子らのために』と書き記しなさい。またもう一本の木を取って、その上に、『エフライムの木であるヨセフとその友であるイスラエルの家すべてのために』と書き記しなさい。
17
 それらを互いに近づけて一本の木としなさい。それらはあなたの手の中で一つとなる。
18
 同胞があなたに向かって、『これらはどういう意味なのか、我々に告げてくれないか』と言うとき、19 彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。私はエフライムの手の中にあるヨセフの木とその友イスラエルの諸部族を取り、これらをユダの木に合わせて、一本の木とする。これらは私の手の中で一つとなる。
20
 あなたの書き記した木が彼らの目の前であなたの手の中にあるとき、21 彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。私はイスラエルの子らを、行った先の諸国民の間から取り戻し、周囲の国々から集め、彼らの土地に導き入れる。
22
 私はその地、イスラエルの山々で彼らを一つの国民とする。一人の王〔再臨のキリストで、キリストの千年王国の王(筆者挿入)〕が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国民とはならず、もはや二度と 二つの王国に分かれることはない。
23
 彼らは二度と偶像や憎むべきものや、もろもろの背きによって汚されることはない。私は彼らを、罪を犯させるあらゆる背きから救い、清める。彼らは私の民となり、私は彼らの神となる〔ここの「彼ら」の中には大患難時代を過越した一部の日本人もいるのではないかと想像します(筆者挿入)〕。
24
 わが僕ダビデ〔主キリスト(筆者挿入)〕が彼らの王となり、彼らすべての者のために、一人の牧者となる。彼らはわが法に従って歩み、わが掟を守り、これを行う。
25
 彼らは、私がわが僕ヤコブに与えた地、すなわちあなたがたの先祖が住んでいた地に住む。彼らもその子らも、その子孫もとこしえにそこに住み、わが僕ダビデ〔主キリスト(筆者挿入)〕が永遠に彼らの指導者となる。
26
 私は彼らと平和の契約を結び、これは永遠の契約となる。私は彼らを祝福し、増やす。私はわが聖所をとこしえに彼らのただ中に置く。
27
 わが住まいは彼らと共にあり、私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。
28
 こうして、わが聖所がとこしえに彼らの中にあるとき、諸国民は私がイスラエルを聖別する主であることを知るようになる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 ユダヤ人たちも世界の各地から今のイスラエルの地に集められてきましたが、やがてはイスラエルの10部族の人たち{もとよりユダの人たちとイスラエルの地に住んでいた人たちもいました(2歴代誌30章)}もキリストの千年王国の時代にはイスラエルの地に住むのです(関連預言個所:エゼキエル40-48章参照)。

 話しは変わりますが、
私たちキリスト者の中にも、主キリスト・イエス様の御救いにあずかる前は、自分の心の中に、渇き、苦しみ、飢え、さまよい、・・・というようなことがあったことを思い出す人たちもいることと思います。

 詩篇1079.8節には、
9 まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。8 主に感謝せよ。その恵みのゆえに。人の子らへの奇しいみわざのゆえに。」(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私の場合、究極的には、滅びの不安というものがありましたが、主が「わたしを信じればよいのだよ。」と教えてくださったことにより、主の御救いにあずかることができました。
ありがとうございました。
主を信じさせていただいたことによって、滅びではなく、永遠の命を与えられ、平安を与えられ、御言葉の豊かさとあなたの愛に包まれて生活させていただけますこと、また将来についての預言の成就に心を躍らせつつ歩めるようにしてくださいましたことを感謝します。
私の外なる人はボロボロですけれど、それも感謝できるようにしてくださっておられますからありがとうございます。
やがては、朽ちない、美しい、堅牢な、霊の体を与えていただけますからありがとうございます。
今現在も、三一の主なる神様と共に歩ませていただける恵みを与えられていますことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年3月28日 (木)

黙示録21:8 新生したキリスト者は火と硫黄の燃える池に入れられません(キリストが身代わりに罰を受けてくださったからです)

 黙示録218には、 “しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らな行いをする者、魔術を行う者、偶像を拝む者、偽りを言うすべての者、このような者の受ける報いは、火と硫黄の燃える池であって、第二の死である。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 リビングバイブルはこの個所を次の様に意訳しています。
“しかし、わたしに従うのをやめるような臆病者、不忠実な者、堕落した者、人殺し、不道徳な者、魔術を行なう者、偶像礼拝者、うそをつく者――このような者たちの行き着く先は、火と硫黄が燃えさかる池です。これが第二の死なのです。”と記しています。

 キリスト者はまじめな方が多いと思います。
そこで、中には、このような聖句を見ると不安を覚えてしまう人もいるようです。
新生したキリスト者に用意されているのは、第二の死ではなく、永遠の命です。新生したキリスト者の場合、霊においてはすでにそれを得ているのです。
1
コリント617には、“主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。”(聖書協会共同訳)と記され、使徒ヨハネは、主キリストを「永遠の命」であると語り(1ヨハネ12)、キリスト者は永遠の命を持っていると語っています(1ヨハネ511.13.20)。

 新生したキリスト者は、キリストの空中再臨の時(キリストの現われの時)に霊の体を戴きます。
 1テサロニケ413-18は次のように記されています。
13 きょうだいたち、眠りに就いた人たち〔{この世の人が言うところの}「死んだ人たち」(筆者挿入)〕については、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。
14
 イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。それならば、神はまた同じように、イエスにあって眠りに就いた人たちを、イエスと共に導き出して〔連れて来て(リビングバイブル)〕くださいます。〔キリストの空中再臨の時に(筆者挿入)〕
15
 主の言葉によって言います。主が来られる時〔キリストの空中再臨の時(筆者挿入)〕まで生き残る私たちが、眠りに就いた人たち〔キリストの空中再臨の時以前に霊と魂が天に引き上げられた人たち(筆者挿入)〕より先になることは、決してありません。
16
 すなわち、合図の号令と、大天使の声と、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。すると、キリストにあって死んだ人たちがまず復活し〔霊の体に復活し{1コリント1544}(筆者挿入)〕、17 続いて生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に出会います。こうして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。
18
 ですから、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい。”(聖書協会共同訳)とあります。

 霊の体に復活すると記されている1コリント15章の関連個所を下記します。
35 しかし、死者はどのように復活するのか、どのような体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。/
42
 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活し43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものに復活し、弱いもので蒔かれ、力あるものに復活し44 自然の体で蒔かれ、霊の体に復活します/
47
 最初の人〔アダム(筆者挿入)〕は地に属し、土からできた者ですが、第二の人〔キリスト(筆者挿入)〕は天に属する方です。
48
 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天上の者たちはすべて、天上のその方に等しいのです。
〔「人間はだれでも、アダムと同じ土の体を持っています。しかし、キリストのものとなった人はみな、キリストと同じ、天から与えられる体を持つようになるのです。」(リビングバイブル)/ローマ829、コロサイ341ヨハネ32参照(筆者挿入)〕”(聖書協会共同訳)と記されています。

 新生したキリスト者たちは、霊の体を戴いた後に、キリストの裁きの座で報酬の裁定を受け(2コリント510)、その後、霊の体を戴いたキリスト者の総体であるエクレシア(教会)すなわちキリストの花嫁は、キリストの地上再臨の前に天において花婿キリストとの結婚式に臨むのです。その時に着ているキリスト者のドレスは輝く清い上質の亜麻布でできたものであり、それは義なる行いを表しているのです。すなわち罪を犯さない体に変えられているのです。

 黙示録195-8には次のように記されています。
5 また、玉座から声がして、こう言った。
「すべて神の僕たちよ、神を畏れる者たちよ、小さな者も大きな者も、私たちの神をたたえよ。」
6
 また私は、大群衆の声、大水のとどろき、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。
「ハレルヤ。全能者である神、主が王となられた。7 私たちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は支度を整え、8 輝く清い上質の亜麻布を身にまとったこの上質の亜麻布とは、聖なる者たちの正しい行いである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 花嫁は、天にあるエルサレム、新天新地における新エルサレムの住人です。
主イエス様は、十字架にかかられる前に、「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ141-3・聖書協会共同訳)と語られたのです。

 話が少し長くなりましたが、新生したキリスト者は、今日の聖書個所にある「火と硫黄の燃える池」に入れられることはないのです。
キリスト者は、すでに自分の罪を認めて、その罪を主に申し上げ、主の十字架のゆえに罪赦され{エフェソ(エペソ)17}、きよくされた者であり{ヘブライ(へブル)1010}、キリストの御復活のゆえに新生させられたものなのです(ヨハネ33.61ペトロ13.23)から。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
もしも主イエス様を信じることがなかったならば、私も火と硫黄の池に投げ込まれた者です。
主イエス様を信じることを得させてくださりありがとうございました。
三一の主なる神様をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
“神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。”(1テモテ242017
まだ主イエス・キリスト様を信じていない人は、是非、主イエス・キリスト様を信じて、永遠の命を得てください。
お願いします。
ヨハネ316には“実に神は、ひとり子をさえ惜しまず与えるほどに、この世界〔「この世界」の個所の所に自分の名前を入れて読んでください(筆者挿入)〕を愛してくださいました。それは、神の御子を信じる者が、だれ一人滅びず、永遠のいのちを得るためです。”(リビングバイブル)と記されています。
神の御子キリスト・イエスを信じる者は、永遠の命を与えられるのです。
それは、主イエス・キリスト様が十字架にかかり死んで葬られ、三日目に復活されたからです。
主イエス様が、十字架にかかられたのは、私たちの罪(創造主であるまことの神のみ旨に従わなかったことども)の罰を身代わりに受けるためでした。
イエス様が為してくださったことを感謝して受け取る者は永遠の命を得るのです。

2024年3月27日 (水)

フィリピ1:7.8 福音宣教にあずかる恵み

 フィリピ17.8には次のように記されています。
7 私があなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、獄中にいるときも、福音を弁明し立証しているときも、あなたがた一同を、共に恵みにあずかる者と思って心に留めているからです。
8
 私が、キリスト・イエスの深い憐れみの心で、あなたがた一同をどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所までの所で、フィリピの教会員が、福音宣教のためにパウロを支援してきたことがわかります。
5
節には、“あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることに、ともに携わってきたことを感謝しています。”(2017)とありますから。

 福音宣教の支援者は、福音宣教の恵みに共にあずかるものなのです。
7
節に、“あなたがた一同を、共に恵みにあずかる者と思って心に留めている”と記されています。

 7節には“私があなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。”とありますが、「このように」とは、何を指しているのでしょうか。

 7節の前の6節には、“あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。”(2017)と記されています。
この個所をリビングバイブル旧版は、“あなたがたの内面に良い働きを始めた神様は、引き続き、必ずそれを恵みのうちに成長させ、やがてキリスト・イエスが帰って来られる日に、ついに完成してくださると、私は堅く信じています。”と意訳しています。

 6節のように言ってもらえる人は、新生している人です。
知識としてのみの福音理解ではなく、主キリスト・イエス様を自分の救い主、自分の主、自分の神、として受け入れた人です。
その人は、神の霊から霊の誕生をしたのです(ヨハネ36)。

 主イエス様は、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ332017)と言われましたが、新生した人は、新しく生まれた人なので、神の国に入ることができるのです。
主を信じた者を新生させることは、フィリピ16の聖句を用いると「神様があなたがたの内面に良い働き〔「業(わざ)」(新共同訳)〕を始めた」(リビングバイブル)ということになります。

 フィリピ教会の教会員がパウロの宣教の経済的支援をしているということは、新生している証拠でもあります。
パウロは、福音宣教のために投獄されている時代でもあったからです。
経済的支援をしている兄姉たちが支援をするにあたって祈っていないということはないでしょう。
フィリピ教会の聖徒たちは、祈りと共に経済的な支援をしたのです。

 フィリピ414-18bには次のように記されています。
14 それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。
5
フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。
16
また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
17
贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。
18b
わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。”(新共同訳)とあります。

 パウロは宣教活動へのこのような心遣いは神へのささげものである、と述べています。
18
節全文には、“わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえ〔ささげもの2017)〕です。”(新共同訳)と記されています。

 パウロは、福音宣教のサポートをしているフィリピの教会員たちに、フィリピ414-18の聖句をもとにして、続く19節の聖句を記しました。
“わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。”(新共同訳)と。
上記の14-19節を読むと、マタイ633の“まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの〔地上生活における必要なもの(筆者挿入)〕はすべて、それに加えて与えられます。”(2017)という主イエス様の御言葉を思い起こします。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主なる神様を愛して福音宣教のために労する者であらせてください。
今の時代は、福音宣教の難しい時代になってきましたが、まだ携挙が起こらないところを見ると、御父が御子に与えられた羊の中にまだ救われていない羊がいることを覚えます。
福音を伝えるべき人へと主が導いてくださり、主に在って福音を伝えていくことができますように。
また、あなたに召されて福音宣教者として励んでいる働き人たちの支援を、キリスト者全員で行っていくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

Ⅰヨハネの手紙 Ⅰ歴代誌 Ⅱ歴代誌 アモス書 イエス・キリストのことば イザヤ書 ウェブログ・ココログ関連 エステル記 エズラ記 エゼキエル書 エペソ人への手紙 エレミヤ書 オバデヤ書 ガラテヤ コヘレトの言葉 コロサイ コロサイ人への手紙 ゼカリヤ書 ゼパニヤ書 ダニエル書 テトスへの手紙 テモテへの手紙Ⅰ テモテへの手紙2 ナホム書 ネヘミヤ記 ハガイ書 ハバクク書 ピリピ人への手紙 ピレモンへの手紙 フィリピの信徒への手紙 ヘブル ヘブル人への手紙 ペット ペテロの手紙Ⅰ ペテロの手紙2 ホセア書 マタイによる福音書 マラキ書 ミカ書 ヤコブの手紙 ユダの手紙 ヨエル書 ヨシュア記 ヨナ書 ヨハネの手紙Ⅱ ヨハネの手紙Ⅲ ヨハネの福音書 ヨブ記 ルカ ルツ記 レビ記 ローマの信徒への手紙 ローマ人への手紙 伝道者の書 使徒の働き 使徒言行録 信仰 共観福音書 出エジプト記 創世記 哀歌 士師記 平安 悪しき霊 救い 救いと裁き 救いの確かさ 救い・救われたい方へ 日ごとの恵み 日ごとの恵みXⅢ 日ごとの恵みⅡ 日ごとの恵みⅢ 日ごとの恵みⅣ 日ごとの恵みⅤ 日ごとの恵みⅥ 日ごとの恵みⅦ 日ごとの恵みⅧ 日ごとの恵みⅨ 日ごとの恵みⅩ 日ごとの恵みⅩⅢ 日ごとの恵みⅩⅣ 日ごとの恵みⅪ 日ごとの恵みⅫ 日ごとの恵み27 日毎の恵み15 日毎の恵み16 日毎の恵み17 日毎の恵み18 日毎の恵み19 日毎の恵み20 日毎の恵み21 日毎の恵み22 日毎の恵み23 日毎の恵み24 日毎の恵み25 日毎の恵み26 日記・コラム・つぶやき 民数記 申命記 箴言 終末 終末預言 経済・政治・国際 聖化 詩編 趣味 雅歌 黙示録 黙示録(2回目) 1コリント 1サムエル記 1テサロニケ 1列王記 2コリント 2サムエル記 2テサロニケ 2列王記

カテゴリー

2025年4月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ