使徒20:32ー38 エフェソの長老たちに対するパウロの告別説教3
使徒20:32-38には次のように記されています。
“32 そして今、あなたがたを神とその恵みの言葉とに委ねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に相続にあずからせることができるのです。
33 私は、他人の金銀や衣服を貪ったことはありません。
34 ご存じのとおり、私はこの手で、私の必要のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。
35 あなたがたもこのように労苦して弱い者を助けるように、また、主イエスご自身が『受けるよりは与えるほうが幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示してきました。」
36 このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。
37 人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて幾度も接吻した。
38 自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、なおさら心を痛めたのである。それから、人々はパウロを船まで見送りに行った。”(聖書協会共同訳)とあります。
32節には“そして今、あなたがたを神とその恵みの言葉とに委ねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に相続にあずからせることができるのです。”と記されています。
信仰生活を導いてきた人たちと交われなくなったとき、パウロは、「あなたがたを神とその恵みの言葉とに委ねます」と述べました。
最後は、すべてを主にゆだねることしかできません。
それは自分自身に対しても同様です。
自分自身を主の手に委ねきってしまった人は、自分のことで悩む必要がなくなります。
「この言葉は、あなたがたを造り上げ」とあります。
みことばは私たちを造り上げます。みことばと共に御聖霊が働いてくださり、私たちを造り上げてくださるのです。
そのようにして私たちは御国を受け継ぐようになるのです。
御国を受け継ぐ人は、まことの神様に対して謙遜であり、従順であり、主を喜び、主を愛しています。
神の御国は、神が主権者です。
もし神様に対して傲慢であり、神に従うことを喜ばず、神よりも自分を上に置く人が、短期間の天国体験をしたとしたら、その経験は、その人にとって地獄でしょう。
33-35節には、
“33 私は、他人の金銀や衣服を貪ったことはありません。
34 ご存じのとおり、私はこの手で、私の必要のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。
35 あなたがたもこのように労苦して弱い者を助けるように、また、主イエスご自身が『受けるよりは与えるほうが幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示してきました。」”と記されています。
主イエス様は、パウロの内に満ちていました。
ガラテヤ2:19.20には「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(2017)とパウロの証しが記されています。
福音書には記されていませんが、主イエス様は「受けるよりは与えるほうが幸いである」と言われた、とパウロは述べています。
パウロはこのみことばに従い、またそれ以上にパウロのうちで働いておられる主イエス様によって導かれて、人の金銀や衣服を貪ることなく、かえって自分の必要のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。
パウロと共にいた人々の中には、弱い人々がいたのでしょう。
「あなたがたもこのように労苦して弱い者を助けるように」(35)と記されていますから。
パウロは使徒20:18-35までの内容を話し終えた後、実際には聖書に記されていない内容も話されたかもしれませんが、パウロはエフェソ教会の長老たち等と一緒にひざまずいて祈りました。
パウロは、エフェソの教会の人たちに、愛に満ちた父親、母親のように接し続けて来たのです。パウロとエフェソの長老たちとは、これが今生の分かれの場面なのです。
37.38節には、“人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて幾度も接吻した。自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、なおさら心を痛めたのである。それから、人々はパウロを船まで見送りに行った。”と記されています。
<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主に満たされ、導かれて歩むことの幸いを見させていただきました。
キリスト者はこの世での別れはあっても、天において再会できますからありがとうございます。
そのようにさせて頂けるのは、キリストの十字架と復活のおかげであることを感謝します。
主に満たされて歩む日々を送らせていただけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。