使徒言行録

2025年4月18日 (金)

使徒20:32ー38 エフェソの長老たちに対するパウロの告別説教3

 使徒2032-38には次のように記されています。
32 そして今、あなたがたを神とその恵みの言葉とに委ねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に相続にあずからせることができるのです。
33
 私は、他人の金銀や衣服を貪ったことはありません。
34
 ご存じのとおり、私はこの手で、私の必要のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。
35
 あなたがたもこのように労苦して弱い者を助けるように、また、主イエスご自身が『受けるよりは与えるほうが幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示してきました。」
36
 このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。
37
 人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて幾度も接吻した。
38
 自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、なおさら心を痛めたのである。それから、人々はパウロを船まで見送りに行った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 32節には“そして今、あなたがたを神とその恵みの言葉とに委ねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に相続にあずからせることができるのです。”と記されています。

 信仰生活を導いてきた人たちと交われなくなったとき、パウロは、「あなたがたを神とその恵みの言葉とに委ねます」と述べました。
最後は、すべてを主にゆだねることしかできません。
それは自分自身に対しても同様です。
自分自身を主の手に委ねきってしまった人は、自分のことで悩む必要がなくなります。

 「この言葉は、あなたがたを造り上げ」とあります。
みことばは私たちを造り上げます。みことばと共に御聖霊が働いてくださり、私たちを造り上げてくださるのです。
そのようにして私たちは御国を受け継ぐようになるのです。
御国を受け継ぐ人は、まことの神様に対して謙遜であり、従順であり、主を喜び、主を愛しています。

 神の御国は、神が主権者です。
もし神様に対して傲慢であり、神に従うことを喜ばず、神よりも自分を上に置く人が、短期間の天国体験をしたとしたら、その経験は、その人にとって地獄でしょう。

 33-35節には、
33 私は、他人の金銀や衣服を貪ったことはありません。
34
 ご存じのとおり、私はこの手で、私の必要のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。
35
 あなたがたもこのように労苦して弱い者を助けるように、また、主イエスご自身が『受けるよりは与えるほうが幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示してきました。」”と記されています。

 主イエス様は、パウロの内に満ちていました。
ガラテヤ219.20には「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(2017)とパウロの証しが記されています。

 福音書には記されていませんが、主イエス様は「受けるよりは与えるほうが幸いである」と言われた、とパウロは述べています。
パウロはこのみことばに従い、またそれ以上にパウロのうちで働いておられる主イエス様によって導かれて、人の金銀や衣服を貪ることなく、かえって自分の必要のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。
パウロと共にいた人々の中には、弱い人々がいたのでしょう。
「あなたがたもこのように労苦して弱い者を助けるように」(35)と記されていますから。

 パウロは使徒2018-35までの内容を話し終えた後、実際には聖書に記されていない内容も話されたかもしれませんが、パウロはエフェソ教会の長老たち等と一緒にひざまずいて祈りました。

 パウロは、エフェソの教会の人たちに、愛に満ちた父親、母親のように接し続けて来たのです。パウロとエフェソの長老たちとは、これが今生の分かれの場面なのです。
37.38
節には、“人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて幾度も接吻した。自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、なおさら心を痛めたのである。それから、人々はパウロを船まで見送りに行った。”と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主に満たされ、導かれて歩むことの幸いを見させていただきました。
キリスト者はこの世での別れはあっても、天において再会できますからありがとうございます。
そのようにさせて頂けるのは、キリストの十字架と復活のおかげであることを感謝します。
主に満たされて歩む日々を送らせていただけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2025年4月14日 (月)

使徒20:25ー31 エフェソの長老たちに対するパウロの告別説教2

 使徒2025-31には次のように記されています。
25 そして今、あなたがたが皆もう二度と私の顔を見ることがないと、私には分かっています。私はあなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。
26
 だから、特に今日はっきり言います。誰の血についても、私には責任がありません。
27
 私は、神のご計画をすべて、余すところなくあなたがたに伝えたからです。
28
 どうか、あなたがた自身と羊の群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神がご自身の血によってご自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命されたのです。
29
 私が去った後、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、私には分かっています。
30
 また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。
31
 だから、私が三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。”(聖書協会共同訳)とあります。

 25節には、「そして今、あなたがたが皆もう二度と私の顔を見ることがないと、私には分かっています。私はあなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。」と記されています。
パウロは、エペソの長老たちに、「二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。」と語りました。
パウロは、このように語っているのですから、パウロはこの後の自分の行く末をある程度教えられていたのではないかと思います。

 また、25節には、福音を伝えた、とパウロが語ったのではなく、「御国を宣べ伝えた」とパウロは語っています。
御国と訳されているギリシア語は“την βασιλειαν του θεου”で、英訳すると、the kingdom of GodKJV)となります。
ギリシア語のバシレイアには、王の国の領域、王国、王の支配、王権、法則、・・等の意があります。神の国の王様は神様です。
御国(神のバシレイア)について教えることの中には御国の福音の宣教も含まれますが、それ以上のことです。
福音書を読むと、主イエス様も「神の国は」とか」「天の御国は」というように神の国のことを教えてくださっておられます。
パウロは、「神様に関することをのべ伝えましたよ」と語り、「それらすべてを語ったので、私のあなたたちに対する責任を果たしましたよ。あとは自分たちの責任ですよ。」と語っているように思います。(26.27
福音を聞いた人は、その人自身がその人の将来の責任を負っているのです。

 使徒言行録の最後の部分には次のような話が記されています。
23 そこで、彼ら〔ユダヤ人たち(筆者挿入)〕は日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。
24
 ある者は話を聞いて納得したが、他の者は信じようとはしなかった。
25
 互いの意見が一致しないまま、彼らが立ち去ろうとしたとき、パウロは一言、次のように言った。
「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの先祖に語られたことは、まさにそのとおりでした。26 『この民のところへ行って告げなさい。あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らず、見るには見るが、決して認めない。27 この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じている。目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、立ち帰って私に癒やされることのないためである。』
28
 だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」
30
 パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者は誰彼となく歓迎し、
31
 全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。”(使徒28章・聖書協会共同訳)とあります。

 パウロ去った後のエフェソ(エペソ)教会がどうなるのかについて、パウロは、「29 私が去った後、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、私には分かっています。30 また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。」と語りました。

 それ故パウロは教会の指導者たちに「どうか、あなたがた自身と羊の群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神がご自身の血によってご自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命されたのです。」と語ったのです。

 黙示録22.3を読むと、エフェソにある教会に対して、主イエス様が「私は、あなたの行いと労苦と忍耐を知っている。また、あなたが悪しき者たちに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者たちを試し、その偽りを見抜いたことも知っている。3 あなたはよく忍耐して、私の名のゆえに忍び、疲れ果てることがなかった。」(聖書協会共同訳)と語っておられるのが分かります。
エフェソの信徒たちは、偽りの教えを見破り、正しい教えを堅持したのです。
しかし主イエス様は上記のみことばに続けて、「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めの愛を離れてしまった〔リビングバイブルは、「あなたがわたしを、初めの頃のように愛していないことです」と意訳しています(筆者挿入)〕。5 それゆえ、あなたがどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。」(4.5節・聖書協会共同訳)と語られました。

 教え、神学ばかりに注目していて、主イエス様との愛の交わりが希薄になってしまったのではないかと想像します。
常に主イエス様との交わりの内に、学びを進める必要があることを覚えます。
主イエス様との交わりの内に学びを続けると、主への感謝と賛美が溢れ出てくるでしょう。

 31節には、「だから、私が三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。」というパウロの言葉が記されています。
パウロは、かくも熱い思いをもって教え続けたのです。その動力はパウロの内におられるキリストであったのでしょう。
パウロは「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2102017)と証しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主を愛し、主の教えを深く理解し、喜びをもって主に従い続ける私たちであらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2025年4月 9日 (水)

使徒20:17-24 エフェソの長老たちに対するパウロの告別説教1/パウロに対する主の導き

 使徒2017-24には次のように記されています。
17 パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。
18
 長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。
「アジア州に足を踏み入れた最初の日以来、いつも私があなたがたとどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。
19
 すなわち、謙遜の限りを尽くし、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身に降りかかって来た試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。
20
 役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。
21
 神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。
22
 そして今、私は霊に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。
23
 ただ、投獄と苦難とが私を待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきりと告げてくださっています。
24
 しかし、自分の決められた道を走り抜き、また、神の恵みの福音を力強く証しするという主イエスからいただいた任務を果たすためには、この命すら決して惜しいとは思いません。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 パウロはエフェソ教会に寄っている時間を取ることができなかったのでエフェソの長老たちをミレトスに呼び寄せました(17)。
パウロがエフェソに寄らない理由は、使徒2016に“パウロは、アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたからである。できれば五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いでいたのである。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 使徒2018-24にはパウロの使徒としての生き方が記されています。
それを箇条書きにすると次のようになります。
①謙遜の限りを尽くして主に仕えた(19)。
②涙を流しながら主に仕えた(19)。
③試練に遭いながら主に仕えた(19)。
④神に対する悔い改めと、主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証しした(21)。
⑤役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、教えた(20)。
⑥自分のすべてを捧げて主に仕え続けている(24)。

 22.23節には、“そして今、私は霊に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とが私を待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきりと告げてくださっています。”と記されています。

 パウロはエルサレムに行けば、そこで苦難に遭い、投獄されるということを承知で、エルサレムへと急いでいたことが分ります。
パウロが苦難の中で主に仕えなければならないということは、パウロの救いの時からアナニアに告げられていたことでした。
 使徒915.16には、「行け。あの者〔迫害者サウロ、ギリシア名パウロ(筆者挿入)〕は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前に私の名を運ぶために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、彼に知らせよう。」(聖書協会共同訳)と主がアナニアに語ったと記されています。

 余談になりますが、パウロは多くの苦難を通して次のように証ししています。
:35 誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。/
37
 しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります。
38
 私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、39 高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8章・聖書協会共同訳)と述べています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
パウロの証言から献身の意味を教えられます。
またそのように献身できる大元には主の恵みがあることを覚えます。
私たち一人一人も、主の恵みによって歩ませてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
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「わが友主イェスは」(聖歌493 聖歌総合版511 新聖歌317
“1.わが友 主イェスは われを見出し 引き寄せたまいぬ 愛の糸もて 御側(みそば)に侍(はべ)れば 何をか恐れん 今 主はわがもの われは主のもの
2.わが友 主イェスは 罪あるわれを 贖(あがな)い給えり 命を捨てて この身と魂(たま)をば 主よ取り給え 全(すべ)ては汝(な)がもの わがものは無し

3.わが友 主イェスは いとも優しく 慰め励まし また守り給う 悩みも剣(つるぎ)も 飢えも裸も 引き裂くあたわじ 主よりわが身を”

2025年4月 5日 (土)

使徒20:13-17 肉体を持つがゆえの限界/選択順位

 使徒2013-17には次のように記されています。
13 さて、私たちは先に船に乗り込み、アソスに向けて船出した。そこからパウロを乗船させる予定であった。これは、パウロ自身が徒歩で旅行するつもりで、そう指示していたからである。
14
 アソスでパウロと落ち合ったので、私たちは彼を船に乗せてミティレネに着いた。
15
 翌日、そこを船出してキオス島の沖を過ぎ、その次の日サモス島に寄港し、さらにその翌日にはミレトスに到着した。
16
 パウロは、アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたからである。できれば五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いでいたのである。
17
 パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。”(聖書協会共同訳)とあります。

  13節には、“さて、わたしたちは先に舟に乗り込み、アソスへ向かって出帆した。そこからパウロを乗船させる予定であった。これは、パウロ自身が徒歩で旅行するつもりで、そう指示していたからである。”と記しています。

 パウロだけは船に乗らないで、一人でアソスまで歩いて行く、と言いました。聖書はその理由を記していません。
13
節には、「わたしたちは」とありますから、使徒の働きの著者のルカがこの一行にいたことが分かります。その他、使徒204に記されているプロの子であるベレヤ人ソパトロ、テサロニケ人アリスタルコセクンド、デルベ人ガイオテモテ、アジア人ティキコトロフィモもいたのでしょう。これらの8人は船に乗ったのでした。
アソスは小アジア西端のムシヤにある港町で、トロアスの南約25㎞にある標高234mの丘の上に立つ風光明媚な町で、長さ3㎞の城壁に囲まれていました。
トロアスからアソスまでは約30kmありました。アソスは、現在のトルコ西部の村ベフラムカレの近郊に位置します。

 さて、一説によると、風向きや凪の関係で、トロアスの出発が早朝であったから、というものがあります。早朝出帆ですとそれよりもさらに早く乗船する必要がありました。身の回りの荷物以外はみな船に載せていってもらえればよいとパウロは考えていたのかも知れません。
 後に記された2テモテ413に、「あなた〔テモテ(筆者挿入)〕が来るときは、トロアスでカルポのところに残しておいた上着を持って来てください。また、書物を、特に羊皮紙の物〔旧約聖書の写本かも(注解付新改訳聖書の注)〕を持って来てください。」とありますから、この時に船に積み忘れたか、当面はいらないということで置いてきたのか、どちらかなのでしょうが、この時に同行しているテモテにお願いしています。この時より数年後に記されたテモテへの手紙は、ローマの獄中から記されたものであると推測されています。

 先に船で行った8人とパウロは、アソスで落ち合い、アソスでパウロも乗船して合計9人でミティレネに行きました(14)。アソスとミティレネの距離は約50kmだそうです。そして、ミティレネから出帆して、翌日キオス島の沖を通過し、次の日にサモスに寄り、その翌日ミレトスに着いたのです(15)。

 16節には、“パウロは、アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたからである。できれば五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いでいたのである。”と記されています。

 エフェソによらない理由は、ペンテコステの日には支援金を届けるためにエルサレムに着いていたかったからです。ミレトスとエフェソ(エペソ)の距離は約60km(新聖書注解)ということですから、問題はエフェソ教会に寄った時に必要と予想される往復を含めた日数と、場合によっては留められてしまう日数を考慮したからでしょう。

 パウロがペンテコステの日にこだわっていた理由を、ウェスレアン聖書注解は、ロビンソンの解説として、「このペンテコステの日はユダヤ人の祭りのみならず、使徒の働き2章に記されている聖霊の注ぎの年ごとの祝いの日であった。この日は異邦人教会のユダヤ人クリスチャンに対する支援金を手渡すのに特別よい機会であり適切な時であった。」と記しています。
 またBible navi は“パウロはアジアとギリシアにある教会から、エルサレムの信者たちへの贈り物を運んでいた(ローマ1525.261コリント161以下、2コリント8-9章)。エルサレムの教会は困難な時を経験していた。五旬節は、神から与えられたものについての祝いと神への感謝の日だった。”と記しています。

 またパウロは、「今や、わたしは御霊に迫られてエルサレムへ行く。」(使徒2022・口語訳)とも述べています。
エルサレム教会に支援金を届けるという目的と共に、霊的には、御霊の強い迫りがあったのでしょう。新改訳は、「心を縛られて」と訳出しています。
 このミレトスにおいて、パウロは、エフェソ(エペソ)に使いを送って、教会の長老たちを呼んで告別説教をするのです(使徒2017-35)。

 今日の聖書個所の範囲外になりますが、パウロは、「今や、わたしは御霊に迫られてエルサレムへ行く。」(使徒2022・口語訳)と語りました。
以前からパウロはローマへ行きたがっていました(ローマ17-11)。
エルサレムでパウロは捕らえられ、ローマへと行くことになるのです。
神様の御旨の中に、パウロのローマ行きとパウロの証し及び説教を、またパウロが囚人となることによって、様々な高官に聞く機会を与える、神様がパウロを通して証しする、という計画があったのではないかと思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
使徒の働き、使徒言行録、使徒行伝などいう表題を付けられている書物ですけれど、霊なる神様が、使徒をはじめ、信徒一人一人を用いて神様のご計画に基づき神様のわざがなされていくのが分かります。
救われる以前の私は、自分の主権が大切でしたけれど、今や神さまが主権者であられることを大喜びする者です。
あなたは聖にして、愛なる神、義なる神、すべての根源であられるお方です。
あなたの御名がほめたたえられますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2025年4月 1日 (火)

使徒20:7-12 パウロの長時間に及ぶ説教とエウティコ(ユテコ)の死とよみがえり

 使徒207-12には次のように記されています。
7 週の初めの日、私たちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。
8
 私たちが集まっていた階上の部屋には、たくさんの灯がついていた。
9
 エウティコ〔岩波訳はギリシア語通り「エウテュコス」と表記し、口語訳、新改訳は「ユテコ」と表記(筆者挿入)〕と言う青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。
10
 パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒がなくてよい。まだ生きている。」
11
 そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。
12
 人々は生き返った若者を連れて帰り、大いに慰められた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 7節前半部分には、“週の初めの日、私たちがパンを裂くために集まっていると、”と記されています。
使徒246には“そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、”(2017)と記されていて、日々聖餐を行っていたように思えますが、使徒207では、主日(週の初めの日)に聖餐を持つようになっています。聖餐の持ち方の変遷を覚えます。

 7節後半部分には“パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。”と記されています。
かなり前のこと、ある教会でお話をするときを持たせていただいたときのことです。
その教会の牧師さんにお話の時間枠を聞いたところ「好きなだけお話しください」ということでした。それを横で聞いていた高齢のご婦人が私に言いました。「説教が長いと体が痛くなって、折角の恵みが飛んでしまします。長くならないようにお願いします。」と。
 説教する方としては、あれもこれも話しておきたい、という気持ちになります。
しかし私も高齢になってから、日によっては体の痛みのために、寝た状態で話を聞きたい、というような日もでてきて、私は説教の時間を短くしようと心の底から思いました。今では私の説教の担当の日には、説教時間が長くならないようにと心がけています。

 さて、パウロの話はとても長かったのです。
この時代、新約聖書はまだできていません。
パウロの話を聞いている人たちは、出来るだけ多くの真理を聞きたいがゆえに、説教の時間がいくら長くなってもよいと思っていたことでしょう。
そのような中、説教中に、三階の窓に腰かけていたエウティコという青年が居眠りをしてしまい、そこから下に落ちてしまったのです(9)。

 “起こしてみると、もう死んでいた。”(9)と記されていますから、呼びかけには反応しないし、体はグタッとして呼吸もしていなかったのではないかと思います。
パウロの話を聞いていた人たちが受けた恵みは、どこかに飛んで行ってしまったかのようであったことでしょう。

 しかしこの出来事を通して主なる神様は、更なる恵みを与えられたのです。
10-12
節には、
10 パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒がなくてよい。まだ生きている。」
11
 そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。
12
 人々は生き返った若者を連れて帰り、大いに慰められた。”と記されています。

 私の想像ですが、パウロは聖霊からエウティコはよみがえるということを教えられたのではないかと思います。
9.10
節の出来事があった後も、パウロは聖餐式を行い、更に説教を明け方まで続けたのです。

 エウティコのよみがえりは、パウロの話が神から与えられている真理であるということを、より一層確かなものとしたことでしょう。
1
テサロニケ15に“私たちの福音は、ことばだけでなく、力と聖霊と強い確信を伴って、あなたがたの間に届いたからです。”(2017)というパウロの言葉がありますが、まさしくそのような状態であったのではないかと思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
良いことをしている中で、突然悲劇的なことが起きたりすると、自分が行っていた中の何かが悪かったのではないかと考えてしまうこともありますが、あなたは全てのことを働かせて益としてくださるお方であることを覚えます。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」(ローマ828・口語訳)という聖句を忘れることなく歩ませていただく日々であらせてください。
御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2025年3月28日 (金)

使徒20:1-6 主の導きに従って主のわざに励む

 使徒201-6には次のように記されています。
1 この騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。
2
 そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ました後、ギリシアに来て、3 そこで三か月間過ごした。
パウロは、シリア州へと船出しようとしていたとき、彼に対するユダヤ人の陰謀が起こったので、マケドニア州を通って帰ることにした。
4
 同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコとセクンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロフィモであった。
5
 この人たちは、先に出発してトロアスで私たちを待っていたが、6 私たちは、除酵祭の期間が明けた後フィリピから船出し、五日でトロアスに来て彼らと落ち合い、七日間そこに滞在した。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1節には“この騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。”とあります。
「この騒動」というのは、使徒1923-40に記されているデメトリオに端を発する騒動のことです。

 話は変わりますが、コリント人への手紙Ⅰの執筆年代について、注解付新改訳聖書の緒論には、“パウロが第三回伝道旅行の時、エペソに滞在している期間(使徒19章)〔1コリント168(筆者挿入)〕に書かれた。彼はこの時エペソに3年いたが(使徒2031)、恐らくその終わりごろと推測される。したがって、執筆年代は55年か56年であろう。”と記され、
 次に、コリント人への手紙Ⅰの執筆事情について、注解付新改訳聖書の緒論には、“〔第二回宣教旅行でパウロがコリント教会を建て上げた後、(筆者挿入)〕パウロが去ってから、アポロがコリントに来て伝道した(使徒191)。彼は有能な人物であったので、かなり多くの人がアポロに心酔するようになった。また、ペテロもコリントに来て伝道し、彼を支持するものも起こったようである。こうして教会に分派が生じた(1コリント112)。更にコリント教会には、キリスト者でありながら不品行を行う者がいた。この町の道徳的腐敗の影響が、教会内にも及んでいたのである。パウロはこのことを憂慮してコリントの教会に手紙を送ったが(1コリント59)、余り効果はなかった。その他にも種々の問題があったので、教会はパウロのもとに手紙を送り、助言を求めた。そこで書かれたのがこの手紙である。”と記されています。

 パウロは、コリント教会からの手紙をもらい、状況を知るために、先にテトスを遣わしていました。しかし、テトスがコリント教会の状況を携えてパウロのもとに戻ってくるのに時間がかかったのです。パウロは、マケドニアへ向かう途中現在のトルコの北西にあるトロアス(エペソの北方)に寄っています。そこには福音に耳を傾ける人たちがいたのだろうと思いますが、わずかの滞在日数の後、マケドニアに向かっていったのです。
2
コリント212.13には、“さて、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主は私のために扉を開いてくださいましたが、兄弟テトスに会えなかったので、私は心に不安を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニアに出発しました。”(聖書協会共同訳)と記されています。
パウロが、テトスに会えたのはマケドニアにおいてでした。2コリント75.6には“マケドニアに着いたとき、私たちの身には全く安らぎがなく、さまざまな苦しみに遭っていました。外には戦い、内には恐れがあったのです。しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスの到着によって私たちを慰めてくださいました。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 2節と3節の冒頭には、“2 そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ました後、ギリシアに来て、3 そこで三か月間過ごした。”(聖書協会共同訳)と記されています。
ここに記されているギリシアはアカイア州のことであり、三ヶ月のほとんどをアカシア州の中のコリントで過ごしたものと考えられています。

 コリント人への手紙Ⅱは、マケドニアにおいて記されたものであろうと思われます(2コリント75-7)。注解付新改訳聖書のコリント人への手紙第二の緒論によりますと、マケドニアのどこから書かれたかということについて、“ピリピからという意見が強い。それは、ある写本や訳本の末尾にピリピから書かれたという注記があるからである。”と記されています。パウロは、各地において教えをし、励ましを与えたというだけではなく、この様に手紙も記していたのです。

 また、ローマ人への手紙について、注解付新改訳聖書のローマ人への手紙の緒論の執筆年代と執筆場所の箇所には、“執筆年代:56年頃。/執筆場所:パウロは、この手紙を書いたときはガイオの所にいたと思われる(ローマ1623)。このガイオは1コリント114のガイオと同一人物であろう。この推測が正しければ、この手紙はコリントから書かれたことになる。このことは、ローマ161でケンクレヤの教会の執事であったフィベを、ローマの教会に推薦していることによっても裏付けられる。ケンクレヤ(ケンクレア)はコリントの外港で、すぐ近くにあったからである。”と記されています。
これをもとに考えるとローマ信徒への手紙は、使徒202.3の「ギリシアに来て、彼はそこで三ヶ月を過ごした。」と記されている三ヶ月の間のことであったのでしょう。
コリント教会は色々と問題を抱えていましたから、パウロは、それらの問題と向き合い、対処し、教え、諭し、訓戒し、励まし、等々を全体的にも個々人にも与えながら、ローマ信徒への手紙をも記したのです。

 使徒202の記述には出てきませんが、この時に、イリリコン(イルリコ)伝道もしたと考えられています。それは、ローマ1518.19に、“私は、キリストが私を通して働かれたこと以外は、何も話そうとは思いません。キリストは異邦人を従順へと導くために、言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうして、私は、エルサレムからイリリコンまで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えてきました。”(聖書協会共同訳)と記されています。
イリリコン(イルリコ)は、現在の国名でいうと、アルバニア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、クロアチア等の一部のあたりになるのではないかと思います。おそらくパウロはそれらの地域の一部に伝道したのだろうと思います(現在の国名は地図を見て対比して考えたので不確かです)。

 また、パウロはマケドニアやアカイア地方の教会において、エルサレム教会を助けるための支援金も募っていたことが手紙から分かります。
ローマ1525-27には“しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムに行きます。マケドニアとアカイアの人々が、エルサレムにいる聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人が彼らの霊のものにあずかったのであれば、肉のもので彼らに仕える義務が あります。”(聖書協会共同訳)と記されています。
また、1コリント161-4には、“聖なる者たちのための募金については、私がガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも行いなさい。私がそちらに行ってから募金が行われるようなことがないように、週の初めの日ごとに、各自収入に応じて、幾らかでも手元に蓄えておきなさい。そちらに着いたら、あなたがたの承認を得た人たちに手紙を持たせて送り出し、その贈り物をエルサレムに届けさせましょう。私も行くほうがよければ、その人たちは私と一緒に行くことになるでしょう。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 2-5節には、
2 そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ました後、ギリシアに来て、3 そこで三か月間過ごした。
パウロは、シリア州へと船出しようとしていたとき、彼に対するユダヤ人の陰謀が起こったので、マケドニア州を通って帰ることにした。
4
 同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコとセクンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロフィモであった。
5
 この人たちは、先に出発してトロアスで私たちを待っていたが、6 私たちは、除酵祭の期間が明けた後フィリピから船出し、五日でトロアスに来て彼らと落ち合い、七日間そこに滞在した。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 パウロは、エルサレムへの支援金を携えて(ローマ1525-281コリント161-4)、ギリシアにあるコリントの外港ケンクレアからシリア州に向かって船出しようとしていました。しかし、シリア州に向かって船出しようとしていたとき、彼に対するユダヤ人の陰謀があったので、陸路マケドニア州を通って帰ることにしたのです。
ウェスレアン聖書注解の推測を参考にすると、パウロが乗船した船はエルサレムの過越しの祭りに向かう為の巡礼船と捉えています。ですから乗船している人たちはユダヤ人なのです。その中にパウロに対して良くない思いを持っている者達が乗っていたのでしょう。
 そこで、パウロはマケドニアを経由して帰ることにしました。そして、マケドニア州のフィリピ(ピリピ)から船に乗って5日の後、トロアス(現トルコの北西部)に到着したのです。そして、先発していた同行者たちとトロアスで落ち合ったのです(6)。

 4.5節には、“同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコとセクンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロフィモであった。この人たちは、先に出発してトロアスで私たちを待っていた・・”(聖書協会共同訳)と記されています。
これらの同行者の人たちは、各地域の教会を代表してパウロと共にエルサレムに支援金を届ける人たちであったのでしょう。6節冒頭に「私たち」とありますから、フィリピ(ピリピ)でルカが加わったのでしょう。
ルカは、パウロの第二回宣教旅行のときトロアスから同行してフィリピまで行き、フィリピに数年間滞在し、パウロの第三回宣教旅行の帰りにフィリピから再びパウロに同行して、エルサレムへ行き、エルサレムからローマへも同行し、パウロがローマの獄中にいるときも常に一緒にいたのです(2テモテ18.16411)。
支援金を届ける人の中にコリント教会の人の名はありませんが、パウロが代行したのでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
パウロは、1コリント1558に「私の愛するきょうだいたち、こういうわけですから、しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているからです。」(聖書協会共同訳)と記していますが、パウロ自身が、いつも主のわざに励んでいたことを覚えます。
パウロの足元にも到底及びませんが、私たちも主が導いてくださる導きに従って主にお仕えしていくことができますよう助けてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2025年3月24日 (月)

使徒19:21-40 エフェソでの騒動

 使徒1921.22には、
21 このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、「私はそこに行った後、ローマも見なくてはならない」と言った。
22
 そして、自分に仕えている者の中から、テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた。
23
 その頃、この道のことでただならぬ騒動が起こった。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 パウロは、自分がマケドニアに出発する前に、テモテとエラストの二人を先にマケドニアに送り出しましたが、パウロ自身はエペソに留まっていたのです。
そのような中で騒動が勃発しました。

 ここでの騒動の第一原因は、経済的な問題であったのです。
この騒動の火付け役となったのは、銀細工人のデメトリオという人でした。デメトリオという人は、アルテミス神殿の模型を作っていました。これによってデメトリオやその同業者、神殿模型を作る職人たちは、かなりの収入を得ることが出来たのです。
 使徒1923-27には次のように記されています。
23 その頃、この道のことでただならぬ騒動が起こった。
24
 デメトリオと言う銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。
25
 彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った。
「諸君、ご承知のように、この仕事のお陰で我々はもうけているのだが、26 諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなど神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、改宗させている。27 これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるだけでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界が崇めるこの女神のご威光さえも失われてしまうだろう。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 銀細工人は生活がかかっていますし、アルテミスを信仰している人たちは、デメトリオの演説を聞いてパウロとパウロの同行者を排除せねばならないと考えたのでしょう。
 27-30節には次のように記されています。
27 これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるだけでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界が崇めるこの女神のご威光さえも失われてしまうだろう。」
28
 人々はこれを聞いてひどく腹を立て、「偉大なるかな、エフェソ人のアルテミス」と叫んだ。
29
 そして、町中が混乱に陥った。彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人のガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって劇場になだれ込んだ。
30
 パウロは群衆の中へ入って行こうとしたが、弟子たちはそうさせなかった。
31
 また、パウロの友人であったアジア州の議員数人も、パウロに使いをやって、劇場に入らないようにと頼んだ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 アルテミス神殿の模型と経済について、注解付新改訳聖書の注には、「アルテミスは元来ギリシア神話の狩猟の女神であるが、エペソにまつられていたのは、肥沃と多産を象徴する母神と混交したものであった。エペソにはこの女神の大神殿があり、参拝者は神殿の模型を買って、神殿に奉納した。福音を信じる者が多くなることにより、偶像礼拝であるアルテミス信仰は廃れ、神殿の模型を作って商売している銀細工人などは相当の打撃を受けた。」とあります。

 デメトリオの扇動によってエフェソの人々に火が付きました。
エフェソの人々は「偉大なるかな、エフェソ人のアルテミス」と叫び、町中が混乱に陥りました。その混乱の中でデメトリオに煽られた人々は、パウロの同行者であるマケドニア人のガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって劇場になだれ込んでいったのです。

 パウロはこれを見て傍観していたわけではありませんでした。
パウロはこの騒乱状態の群衆の中へ入っていって、何とかしようと思ったのでしょう。しかし、弟子たちはそれを阻止し、パウロの友人であったアジア州の議員数人も、パウロに使いをやって、劇場に入らないようにと頼んだのです。

 劇場に集まった群衆の多くは、騒動の根本的な理由を理解していないにもかかわらずワーワー言って集まった人たちでした。
32
節には“群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 続く33.34節には“33 その時、ユダヤ人が前に押し出したアレクサンドロという者に、群衆の中のある者たちが話すように促したので、彼は手で制し、群衆に向かって弁明しようとした。34 しかし、彼がユダヤ人であると分かると、群衆は一斉に、「偉大なるかな、エフェソ人のアルテミス」と二時間ほども叫び続けた。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 ユダヤ人たちは、この騒動の原因は、ユダヤ人が原因ではないということを示したかったのでしょう。しかしユダヤ人アレクサンドロが弁明しようとしたところ、今度は、アルテミス信者たちからユダヤ人に対して「偉大なるかな、エフェソ人のアルテミス」というシュプレヒコールが二時間も続いたのです。

 エフェソでの騒動は、アルテミス信者による、ユダヤ教信者、キリスト教信者に対するものとなったのでした。

 エフェソはローマの支配下にありました。
ローマによって暴動の罪に問われかねないと考えたエフェソの書記官は、裁判や正式な会議によって解決するべきであると説得し、暴動を鎮めました。35-40節には次のように記されています。
 “35 そこで、町の書記官が群衆をなだめて言った。
「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスと天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者がいるだろうか。36 これを否定することはできないのだから、冷静になるべきで、決して無分別なことをしてはならない。37 諸君がここに連れて来た者たちは、神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒瀆したのでもない。38 デメトリオとその仲間の職人が、誰かを訴え出たいのなら、裁判の日があるし、総督もおられるのだから、相手を訴え出なさい。39 それ以外のことで要求があるなら、正式な会議で解決してもらうべきである。40 今日の事件について、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会について、何一つ弁解する理由はないからだ。」こう言って、書記官は集会を解散させた。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
この時の騒動からキリスト者は、ローマの法律によって守られました。しかし、歴史を眺めるとそうではない時もありましたし、現代でも国の法律によってキリスト者が迫害を受けているところもあります。
あまり報道はされませんが、世界のあちらこちらでキリスト者が迫害されたり殉教したりしています。
イエス様、早く迎えに来てください。
黙示録にも“これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。”(22202017)と記されています。
今日も主に在って歩ませていただけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名でお祈りいたします。アーメン。

2025年3月20日 (木)

使徒19:11-20 新生していない者が呪文のように主の御名を唱えてもうまくいくとは限らない/悪霊は主の内にある者を知っている

 使徒1911-20には次のように記されています。
11 神は、パウロの手を通して数々の目覚ましい奇跡を行われた。
12
 彼が身に着けていた手拭いや前掛けを持って行って病人に当てると、病気は癒やされ、悪霊どもも出て行くほどであった。
13
 ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊に取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。
14
 ユダヤ人の祭司長スケワと言う者の七人の息子たちがこんなことをしていた。
15
 悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。だが、一体お前たちは何者だ。」
16
 そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。
17
 このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名を崇めるようになった。
18
 信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行を告白し、打ち明けた。
19
 また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚分にもなった。
20
 このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 11.12節には“11 神は、パウロの手を通して数々の目覚ましい奇跡を行われた。12 彼が身に着けていた手拭いや前掛けを持って行って病人に当てると、病気は癒やされ、悪霊どもも出て行くほどであった。”と、神がパウロを通してしるしとしての多くの奇跡を行われたことが記されています。これはエフェソ(エペソ)でのことでした。

 ユダヤ人の祭司長スケワと言う者の七人の息子は、悪魔祓いをしていたようです。
この人たちは、パウロが行っている奇跡を見たのでしょう。それでパウロのまねをして、イエスの名によって悪霊を除こうとしたら、反対に悪霊に憑かれている人を通して悪霊からひどい目にあわされた、という話が13-16節に次のように記されています。
 “13 ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊に取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。
14
 ユダヤ人の祭司長スケワと言う者の七人の息子たちがこんなことをしていた。
15
 悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。だが、一体お前たちは何者だ。」
16
 そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。”とあります。

 主イエス様を主としていない人は、悪魔(サタン)悪霊の支配下にあります。
私の推測ですが、悪魔・悪霊の支配下にあるというのと、悪魔・悪霊に内住されて(取り憑かれて)しまうのとは異なると思っています。
関連聖句を少し見ていきます。
 1ヨハネ519には“私たち〔新生したキリスト者(筆者挿入)〕は神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にある”(抜粋・2017)と記されています。
 新生する以前のキリスト者に対して、エペソ21-3は、
1 ・・あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊〔悪しき霊(筆者挿入)〕に従って歩んでいました。3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。”(2017)と記し、キリストの内になければ、悪魔の支配下にあると記しています。
ですから、キリストの内にない人は、主イエス様のみことばを信じるのではなく、この世の言葉を信じるのです。この世の言葉の根源とは何でしょうか。
コロサイ28には“あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊〔悪しき霊(筆者挿入)〕によるものであり、キリストによるものではありません。”(2017)と記されています。

 悪魔の配下にある人でもすぐに内住される(取り憑かれる)わけではありません。その例をイスカリオテのユダから見ていきます。
ヨハネ13章には次のように記されています。
2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。/
27
・・そのとき、サタンが彼に入った。・・。”(2017)とあります。

 悪しき霊は、用なしとなったイスカリオテのユダから離れました。イスカリオテのユダはどうなったでしょう。
マタイ27章には“3 そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。4 「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」5 そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。”(2017)と記されています。

 スケワの7人の子どもたちは、キリストの弟子ではなく、悪霊のネットワークで仕事をしていた悪魔祓い祈祷師として収入を得ていたのではないかと想像します。
悪魔(サタン)の組織には階層構造(ヒエラルキー)があります。
ひょっとして、ここに登場する悪霊に憑かれていた人の悪霊の方が、スケワの祈祷で働く悪霊たちよりも階層が上であったのかもしれません。私の想像ですが。

 脱線しますが、マタイ7章に次のような主イエス様のみことばがあります。
21 「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天におられる私の父の御心を行う者が入るのである。
22
 その日には、大勢の者が私に、『主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか』と言うであろう。
23
 その時、私は彼らにこう宣告しよう。『あなたがたのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ。』」”(聖書協会共同訳)と記されています。
この悪霊追い出し者たちは、預言や悪霊追い出しを自分の利益のために行っていた人たちであり、キリストを正しい意味で「主」とはしてはおらず、悪霊に乗じられていた人たちではないかと想像します。私の勝手な想像ですが。

 本文に戻ります。
悪魔悪霊は、キリスト・イエス様やキリストの内にある者を知っています。
15
節に“悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。”と記されています。

 神様は、スケワの息子たちと悪霊とのやり取りを通して、更に主を信じる人たちを獲得していきました。
13-20
節には次のように記されています。
13 ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊に取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。
14
 ユダヤ人の祭司長スケワと言う者の七人の息子たちがこんなことをしていた。
15
 悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。だが、一体お前たちは何者だ。」
16
 そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。
17
 このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名を崇めるようになった。
18
 信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行を告白し、打ち明けた。
19
 また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚分にもなった。
20
 このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。”とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主は、主の御意志に基づいて宣教活動が行われていっているのを見させていただきありがとうございます。
あなたの御旨に従った働きをしていくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名でお祈りいたします。アーメン。

2025年3月16日 (日)

使徒19:1-10 パウロの第三次伝道旅行におけるエペソでの出来事(福音宣教に関連して)

 使徒191-10には次のように記されています。
1 アポロがコリントにいたときのことである。
パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に会い、2 彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるということなど、聞いたこともありません」と言った。
3
 パウロが、「それでは、どんな洗礼(バプテスマ)を受けたのですか」と言うと、彼らは、「ヨハネの洗礼(バプテスマ)です」と言った。
:4
 そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼(バプテスマ)を授けたのです。」
5
 人々はこれを聞いて、主イエスの名によって洗礼(バプテスマ)を受けた。
6
 パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。
7
 この人たちは、皆で十二人ほどであった。
8
 パウロは会堂に入って、三か月間、神の国について堂々と論じ、人々の説得に努めた。
9
 しかしある者たちが、かたくなで信じようとせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノと言う人の講堂で毎日論じ合った。
10
 このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は皆、ユダヤ人もギリシア人も主の言葉を聞くことになった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 パウロがエフェソ(エペソ)に到着したとき、アポロはエフェソ(エペソ)を発ってコリントにいました。
パウロの第二回宣教旅行の帰り道、パウロはエフェソに寄りました。その時の様子は使徒1819-21に、「彼らがエペソ(エフェソ)に着くと、パウロはふたりをそこに残し、自分だけ会堂に入って、ユダヤ人たちと論じた。人々は、もっと長くとどまるように頼んだが、彼は聞き入れないで、『神のみこころなら、またあなたがたのところに帰って来ます』と言って別れを告げ、エペソから船出した。」(新改訳)と記されています。

 この後、アポロがエフェソにやって来ましたが、アポロは、“主の道をよく学び、イエスのことについて熱心に語り、また正確に教えていたが、ヨハネの洗礼(バプテスマ)しか知らなかった”(使徒1825・聖書協会共同訳)と記されています。
アポロの話には欠けがあったので、プリスキラとアキラはアポロにもっと正確な神の道を説明しました。
使徒1826には“・・・。このアポロが会堂で堂々と教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 今日の聖書個所に入ります。
神様はパウロをもう一度エフェソ(エペソ)に遣わしてくださいました。結局パウロはエフェソに約2年間滞在し、神のことばを語り続けました(使徒1910)。

 さて、パウロがエペソに到着したとき、12人の弟子に会いました(7)。
2
節には、パウロが、“彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるということなど、聞いたこともありません」と言った。”と記されています。
パウロが会ったこの弟子たちに対し、パウロは、何か違うな、という違和感を持ったのだろうと思います。それで、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と尋ねたのではないかと思います。
その弟子たちは、聖霊なるものがあることさえ聞いたことがありません、と答えていますから、アポロは聖霊について話していなかったというか、アポロ自身も聖霊を知らなかったのだろうと思います。それは使徒1825.26から推測できます。

 そこでパウロは、「では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」、と聞いたのです。
それに対して弟子たちは、「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えたのです(3)。
この人たちは、弟子、と記されていますから、イエス様を信じてはいたのだろうと思います。現代でも聖霊を信じないキリスト者たちや悪霊を信じないキリスト者たちがいるそうです。

 弟子たちが、「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えたので、パウロは、ヨハネのバプテスマの意味について、ヨハネは自分の後から来る方つまりイエスを信じるようにと民に告げて悔い改めのバプテスマを授けたのですよ、と教えました(4)。

 パウロの説明を聞いたエフェソの弟子たちは、主イエスの御名によってバプテスマを受けました(5)。そして、パウロが、彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりしたのです(6)。

 現代では、聖霊が与えられたからといって、異言を語ったり、預言をするというようなことはほとんどありません。それは、そのようにして聖霊が存在することを信じた者たちに神様が証しする必要がないためだろうと私は思います。
しかし、聖霊を受けた人は、御霊の実がついていきます。
“御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。”(ガラテヤ522.232017)と記されているように。
 1コリント13章には、
1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル〔のようなものです(筆者挿入)〕。
2
 たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。
3
 また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。
4
 愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。5 礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。6 不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。8 愛は決して滅びません。
しかし、預言は廃れ、異言はやみ、知識も廃れます。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 8.9節には、“8 パウロは会堂に入って、三か月間、神の国について堂々と論じ、人々の説得に努めた。9 しかしある者たちが、かたくなで信じようとせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノ〔ツラノ(口語訳、新改訳初版~第三版、リビングバイブル)〕と言う人の講堂で毎日論じ合った。”と記されています。

 ティラノ(ツラノ)についての考察を聖書辞典は次のように述べています。
“ツラノ (〈ギ〉Turannos) パウロは第3回伝道旅行でエペソに来た時、初めユダヤ人の会堂で教えたが、反対にあい、獲得した弟子たちと共に場所をツラノの講堂に移して活動を続けたと使徒1989に記されている。「講堂」と訳されている〈ギ〉スコレーは、学ぶ場所にも学ぶ集団にも用いられることばであるが、ここでは前者であろう。2年間パウロはここで論じ「アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた」とあるから(使徒1910)、おそらく広く開放された場所であったと思われる。ツラノという人物については、確かなことは何も分っていない。講堂の創設者であったか、所有者であったか、さらにまた、この講堂で講じていた著名な教師の名であるのかも分らない。「第5時から第10時まで」(つまり午前11時から午後4時まで)を加える西方本文が正しいとするなら、あるいはツラノ自身か他の教師が講義を終えた時間に、早朝の天幕作りを終えたパウロがやってきて、福音を講じたということかもしれない。”と記しています。

 10節には“このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は皆、ユダヤ人もギリシア人も主の言葉を聞くことになった。”と記されています。

 アジア(アジヤ)について聖書辞典は次のように記しています。
“アジヤ (〈ギ〉Asia) アジヤということばで表されている地域の範囲は時代によって異なり、境界線も正確には決定しがたい。元来リュディアの町の名であったが、その周辺の地域を指す名となり、拡大されて小アジヤを指す名称となった。新約では小アジヤの一部、すなわちローマのアジヤ州を表すために用いられている。
1)小アジヤ。黒海と地中海との間一帯の広大な高原。昔はアナトリアと同義であった。
2)ローマの属州。いわゆる総督管下のアジヤ。これは小アジヤの西部沿岸地帯を占めるムシヤ、リュディア、カリヤの諸地方およびフルギヤの内陸等を含んでいた。これが新約の「アジヤ」の普通の意味である(使徒69等)。”とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
目には見えなくても御聖霊の働きを霊的に感じながら生活させていただけますことを感謝します。
正しく福音をお伝えすることができますよう助け導いてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名でお祈りいたします。アーメン。

2025年3月12日 (水)

使徒18:24-28 プリスキラとアキラの愛に基づく配慮とアポロの謙遜

 使徒1824-28には次のように記されています。
24 さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロと言う雄弁家が、エフェソに来た。
25
 彼は主の道をよく学び、イエスのことについて熱心に語り、また正確に教えていたが、ヨハネの洗礼(バプテスマ)しか知らなかった。
26
 このアポロが会堂で堂々と教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。
27
 それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、きょうだいたちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと 手紙を書いた。アポロはそこに着くと、すでに恵みによって信じていた人々を大いに助けた。
28
 彼は聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、ユダヤ人たちを力強く論破したからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 アレクサンドリア(アレキサンドリヤ)について聖書辞典は次のように記しています。
“アレクサンドロス大王によって前332年にエジプトの北海岸に建設された都市で、プトレマイオス王朝時代からローマ帝国の時代、さらにキリスト教時代の下エジプトの中心的な都市であった。
 アレキサンドリヤはギリシヤ世界の首都として建設され、地中海とマレオティス湖の狭い地峡の上につくられ、エジプトのデルタ地帯の北海岸にある大きな海港都市であった。この港はファロス島とロキアス岬によって形作られ、商業や戦いに適しており、ローマへの穀物のおもな輸出港であった。アレキサンドリヤの商業船は当時最大で、通常はポテオリに直航するが、時折パウロの乗った船のように悪天候の時には小アジヤの沿岸近くを航行した(使徒276)。
 アレキサンドリヤは、海岸に沿って長さ24キロ、幅16キロほどの広さを持っていた。プトレマイオス王朝のもとで最も繁栄したが、ローマ帝国においても、第2の都市となった。プトレマイオス王朝は40万から90万巻の蔵書を有する図書館を持つ博物館を設立した。市は重要な文化の中心地で、卓越した大学を誇っていた。大学はアテネの偉大な学校を模倣して造られたが、すぐにアテネの学校を追い越した。大学は数学、天文学、医学、作詩法の学問で名高く、また文学と芸術も盛んであった。
 人口は6070万ほどで、ユダヤ人、ギリシヤ人、エジプト人によって構成され、ユダヤ人はギリシヤ人と同等の特権を与えられたため多くの者が定住した。住民はここを世界中のユダヤ人の中心と見なしていた。ヘブル語旧約聖書のギリシヤ語への翻訳(70人訳)は、エジプトにおいて前3世紀頃行われたと思われる。この70人訳は離散のユダヤ人の聖書となり、新約聖書の記者たちが一般に使用したのもこれであった。ユダヤ教とギリシヤ哲学との総合が起り、その後の宗教思想に大きな影響を及ぼした。フィロンのように聖書を極端に比喩的に解する者も出てきた。アレキサンドリヤ哲学が新約の記者たちに思想的影響を与えたかどうかは議論の余地があるが、キリスト教会の神学と聖書の研究への影響は大きかった。この市のキリスト教会は福音書記者マルコが設立したと言われている。ここから福音は全エジプトと周辺の国々へ広まった。アポロのような有能な信徒も出てきた(使徒1824。また2世紀には、アレキサンドリヤ学派という神学の学派が栄えた。クレメンスやオリゲネスは聖書研究とキリスト教哲学の先駆者であり、ヘシュキオスやアタナシオスのような人物も出た。キリスト教は市のユダヤ教の特質を譲り受け、宣教への熱心、哲学的弁証、比喩的解釈、聖書注解の適用、知的総合などの特色を持つに至った。”と述べています。

 アポロについて、聖書辞典は次のように記しています。
“アポロ (〈ギ〉Apollos) アレキサンドリヤ生れのユダヤ人。雄弁で、旧約聖書に通じていた。彼は、パウロがパレスチナを訪れている間に、エペソにやってきた(使徒182224)。すでに「主の道の教えを受け」ていた彼は、そこで「霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが」その理解には欠けがあった(使徒1825)。ヨハネのバプテスマ(洗礼)しか知らず、キリスト教のバプテスマに無知であったこと、そしておそらくは、聖霊の注ぎも知らなかったことである(使徒1917に見られる、ヨハネのバプテスマしか知らないエペソの弟子たちは、アポロの伝道の結果と思われるが、彼らは聖霊に対して無知であった)。会堂で大胆に語るアポロの話を聞いたプリスキラとアクラは、問題に気づき、おそらくは家に招いて、もっと正確にキリスト教信仰を教えた。彼はアカヤに渡りたいと思っていたので、エペソのキリスト者たちは推薦状を書いて彼を励まし、送り出した。コリントに到着したアポロは、そこの教会に大いに貢献した。特にイエスがメシヤであることを旧約聖書から論証し、ユダヤ人に対する弁証に力を発揮した(使徒182628)。
 アポロがコリントの教会に大きな影響力を与えたことは、パウロのコリント人への手紙第一から知ることができる。その情熱と雄弁にひかれた人々は、教会の創設者パウロ以上にアポロを指導者と仰ぎ、「アポロ党」を名乗った。パウロはこうした党派心をいさめ、神が用いたしもべにすぎない人間の指導者を誇らないように戒めた(1コリント11346.212246)。自分の宣教は「説得力のある知恵のことば」によらない(1コリント24)とか、自分には「ある人々のように」推薦状がいらない(2コリント31)といったパウロのことばは、アポロの存在を意識したものかもしれない。しかしパウロは、「私が植えて、アポロが水を注ぎました」(1コリント36)と述べて、彼の果した役割を評価している。この手紙が書かれた時、アポロはすでにコリントを離れ、エペソのパウロのもとに来ていたようである。パウロは彼に、コリントを再訪するよう強く勧めたが、アポロは断った。彼も、コリントの教会の党派心を好ましく思っていなかったのかもしれない(1コリント1612)。テトス313によれば、その後も彼は巡回伝道を続けたようである。”と述べています。

 以上で、今日の聖書個所のアポロの説明は大体網羅されていると思いますが、上記されていないところを少し述べたいと思います。

 25.26節には、“25 彼は主の道をよく学び、イエスのことについて熱心に語り、また正確に教えていたが、ヨハネの洗礼(バプテスマ)しか知らなかった。
26
 このアポロが会堂で堂々と教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。”と記されています。

 アポロの説教は旧約聖書とバプテスマのヨハネの説教に基づいたものであったのでしょう。
バプテスマのヨハネは、人々に「悔い改めのバプテスマ」を授けていたのです。
 バプテスマのヨハネの洗礼について、マルコ14.5には次のように記されています。
4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。5 ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。”(2017)とあります。

 プリスキラとアキラ(アクラ)はアポロの説教を聞き、アポロの説教にはキリストの福音が含まれていないことをすぐに悟ったのでした。
しかしプリスキラとアキラは、聴衆の面前でそのことを指摘することをせずに、アポロを招待してキリストの福音を教えたのです。
おそらくプリスキラとアキラは、イエスの誕生に関する話や公生涯、イエスの十字架と復活、聖霊の降臨、その他について教えたのでしょう。
アポロは聖書(当時は旧約聖書しかありません)に精通していたので、プリスキラとアキラから教えられた内容が聖書に合致していたことを認め、驚嘆と喜びをもって聞いていたのではないかと思います。

 プリスキラとアキラの愛に満ちた配慮とアポロの謙遜は、その後のアポロの伝道を実り豊かにしたものと思います。すべては神の霊に導かれ、神の栄光のためになされたものであったのでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
この個所から、愛の配慮と神の御前における謙遜を学ばせていただけますから感謝します。
私は、配慮に欠けた者ですから、愛に基づく配慮を身に付けさせていただけますように、また常にあなたの御前にへりくだって歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名でお祈りいたします。アーメン。

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