日毎の恵み21

2024年7月21日 (日)

フィリピ4:14-18 主に委ねられたものの用い方

 フィリピ414-18には次のように記されています。
14 それにしても、あなたがたは、よく私と苦しみを共にしてくれました。
15
 フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、私が福音の宣教の初めにマケドニアから出かけて行ったとき、会計を共にしてくれた教会は、あなたがたのほかに一つもありませんでした。
16
 テサロニケにいたときにも、あなたがたは私の窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
17
 贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの帳簿を黒字にする実りを求めているのです。
18
 私はあらゆるものを受けており、有り余るほどです。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って、満ち足りています。それはかぐわしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 14節には“それにしても、あなたがたは、よく私と苦しみを共にしてくれました。”とあります。
「苦しみを共にする」と訳されている語のギリシア語原語は「苦しみをシェアする」とも訳せます。
パウロの思い出の中にあったのは、フィリピ教会の人たちが、パウロの福音宣教のために、おもに宣教献金をしてきた、ということを述べているのでしょう。宣教献金するときには祈りが添えられています。

 フィリピ15には“・・、あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっている・・。”(聖書協会共同訳)と記されています。
宣教献金をすることは、福音宣教にあずからせていただくことです。

 また、使徒16章には次のような記述があります。
38 警吏たちは、・・・39 出向いて来て、わびを言い、二人〔パウロとシラス(筆者挿入)〕を牢から連れ出し、町から出て行くように頼んだ。
40
 牢を出た二人は、リディアの家に行ってきょうだいたちに会い、彼らを励ましてから出発した。〔パウロとシラス及びリディアやフィリピの兄姉たちは、共に主に在って喜び、主に感謝し、主を賛美したことであろうと思います。(筆者挿入)〕/
〔この少し前の出来事が次のように記されています(筆者挿入)〕
11
 私たちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスに着き、12 そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。
13
 安息日に、私たちは町の門を出て、祈りの場があると思われる川岸に行った。そして、そこに座って、集まっていた女たちに話をした。
14
 ティアティラ市出身の紫布を扱う商人で、神を崇めるリディアと言う女も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。
15
 そして、彼女も家族の者も洗礼(バプテスマ)を受けたが、その時、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言って、無理やり招き入れた。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 また使徒20章には次のように記されています。
1 この〔エフェソ(エペソ)での{筆者挿入}〕騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。
2
 そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ました後、ギリシアに来て、3 そこで三か月間過ごした。パウロは、シリア州へと船出しようとしていたとき、彼に対するユダヤ人の陰謀が起こったので、マケドニア州を通って帰ることにした。
4
 同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコとセクンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコ とトロフィモであった。
5
 この人たちは、先に出発してトロアスで私たちを待っていたが、6 私たちは、除酵祭〔種なしパンの祭り(2017)〕の期間が明けた後フィリピから船出し、五日でトロアスに来て彼らと落ち合い、七日間そこに滞在した。”(聖書協会共同訳)とあります。

 私の想像ですが、フィリピの信徒たちは、この時にも宣教献金を渡したかもしれないと思います。
15
節に“フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、私が福音の宣教の初めにマケドニアから出かけて行ったとき、会計を共にしてくれた教会は、あなたがたのほかに一つもありませんでした。”と記されていますから。

 パウロはフィリピの後テサロニケで宣教しました(使徒1640-171)。
16
節には“テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。”(2017)と記されています。

 パウロは、フィリピの信徒たちに対して、「私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。私はすべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。」{ピリピ(フィリピ)417.182017}と述べています。

 エパフロディトは、獄中にいたパウロにフィリピ信徒たちからの献げ物を届けたのです。エパフロディトはフィリピの教会員でした。
フィリピ2章には次のように記されています。
25 ところで私は、エパフロディトをそちらに送り返さねばならないと考えています。彼は私の兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、私の窮乏のときに奉仕してくれましたが、26 あなたがた一同を慕っており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。
27
 実際、彼は瀕死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけではなく、私をも憐れんで、苦痛を重ねずに済むようにしてくださったのです。
28
 そういうわけで、大急ぎで彼を送り返します。そうすれば、あなたがたは彼と再会して喜ぶでしょうし、私の苦痛も和らぐでしょう。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ガラテヤ6章には次のような文が記されています。
6 御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と良いものをすべて分かち合いなさい。
7
 思い違いをしてはなりません。神は侮られるような方ではありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
8
 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。
9
 たゆまず善を行いましょう。倦むことなく励んでいれば、時が来て、刈り取ることになります。〔2コリント510参照(筆者挿入)〕
10
 それゆえ、機会のある度に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主から与えられたすべてを主の喜ばれるように主のみ旨に従って用いさせていただけますようお導き下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年7月20日 (土)

詩篇119:20 主の裁きor主の御教えを慕い求める人

 詩篇11920
新改訳2017は“いつのときもあなたのさばきを慕い求めて私のたましいは押しつぶされるほどです。”と訳し、
聖書協会共同訳は“私の魂は、やつれ果てるほどに、いつもあなたの裁きを待ち焦がれています。”と訳し、
新共同訳は“あなたの裁きを望み続け、わたしの魂はやつれ果てました。”と訳し、
新改訳初版~第三版は“私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕い、砕かれています。”と訳し、
口語訳は“わが魂はつねにあなたのおきてを慕って、絶えいるばかりです。”と訳し、
フランシスコ会訳は“わたしの魂は、いつもあなたの裁きにあこがれて、絶え入るばかりです。”と訳し、
リビングバイブルは“わたしはあなたの教えを、どれほど切望していることでしょう。”と訳しています。

 「裁き(さばき)」(新改訳、新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳)、「おきて」(口語訳)、「教え」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ミシュパート」で、ここでは「あなたの裁き」、「あなたの教え」というような語になっています。「あなたの」を加味すると、神の裁き、神の法(律法)、・・等となります。
「裁き」は罰だけが与えられるということではなく、善悪の行いに応じて受ける禍福の報いです。

 神様が与えてくださった教えor律法or掟は、神の愛と神の義に基づいていると思います。
律法の根底は、神を愛し隣人を自分のように愛するということです(マタイ2236-40)。
律法の本質に沿って歩めるかどうかは別にして、そのように歩めたら素晴らしいと思うのではないでしょうか。

 「慕い求め」(2017)、「慕い」(新改訳初版~第三版、口語訳)、「待ち焦がれ」(聖書協会共同訳)、「望み続け」(新共同訳)、「あこがれて」(フランシスコ会訳)、「切望し」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「タアバー」で、それらの意があります。

 「押しつぶす」(2017)、「やつれ果てる」(新共同訳、聖書協会共同訳)、「砕く」(新改訳初版~第三版)、「絶える」(口語訳、フランシスコ会訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ガーラス」で、それらの意があります。

 神様が与えてくださった律法、神様の教えを、私たちに対する愛の観点から捉えることの出来る人にとっては、「わたしはあなたの教えを、どれほど切望していることでしょう。」(リビングバイブル)と捉えることができると思います。
その状態は「わが魂はつねにあなたのおきてを慕って、絶え入るばかりです。」(口語訳)とも言えるでしょう。

 「ミシュパート」を教えor律法、と捉えるのではなく、「裁き」と捉えて、神の裁きを待ち望む、という観点で捉える人にとっては、「私の魂は、やつれ果てるほどに、いつもあなたの裁きを待ち焦がれています。」(聖書協会共同訳)という訳がしっくりくるでしょう。

 主に在る日々の歩みにおいては、「わが魂は、常にあなたのおきてを慕って絶え入るばかりです。」ということになるでしょうし、
この世の旅を終えて早く天の御国に帰りたいorどんどん悪くなるこの世から早く解放されたいor早くこの世の争いをやめさせてほしい、・・・等々という思いの中にある時には「私の魂は、やつれ果てるほどに、いつもあなたの裁きを待ち焦がれています。」(聖書協会共同訳)という心の状態であることでしょう。
今日の聖句は、どちらにも取れる聖句なのであろうと思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
日々御言葉に生かされ、日々御言葉に希望を置き、日々御言葉に支えられ、また慰められ、また強められながら地上生涯を歩ませていただけます恵みを感謝します。
恵み深き主の御名を賛美しつつ私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年7月19日 (金)

使徒6:1-6 執事(役員)の選出とその条件/霊と知恵に満ちた評判の良い人

 使徒61-6には次のように記されています。
1 その頃、弟子たちが増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられているというのである。
2
 そこで、十二人は弟子たち全員を呼び集めて言った。「私たちが、神の言葉をおろそかにして、食事の世話をするのは好ましくない。
3
 そこで、きょうだいたち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人探しなさい。彼らにその仕事を任せよう。
4
 私たちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
5
 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊とに満ちた人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の 改宗者ニコラオを選んで、6 使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1節には“その頃、弟子たちが増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられているというのである。”と記されています。

 ここに記されている「ギリシア語を話すやもめたちが軽んじられている」という件について、Bible navi は“これは、おそらく意図的ではなく、ことばの壁によってもたらされたのだろう。”と述べています。
ヘブライ語を話すやもめたちからは問題提起されていませんから上記の説明のような事であったのだろうと思います。

 この時のエルサレム教会は、相当な人数を擁していました。
ペンテコステの日だけで約3000人が救われました。(使徒241
ペンテコステの日の後も毎日救われる人々がいました。(使徒247
救われる人々は増え続け男子だけの人数でも約5000人になったと使徒44には記されています。
聖書には救われた女性の人数は記されていませんが相当数いたと思います。

 この時迄は、使徒たちが食事の管理までしていたのでしょう。しかし、そのやり方には限界が来ました。使徒たちといえども人間ですから、決まった時間内にこなせる仕事量は限られています。そこで使徒たちは弟子たちに自分たちの状況と問題解決のための提案をしました。
 2-4節には、使徒たちの提案が、次のように記されています。
「私たちが、神の言葉をおろそかにして、食事の世話をするのは好ましくない。そこで、きょうだいたち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人探しなさい。彼らにその仕事を任せよう。私たちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」とあります。

 選出する対象者は「霊と知恵に満ちた人」という条件でした。
ここで「霊に満ちた人」と言われているのは、主に信頼し、ガラテヤ522.23に記されているような「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(2017)というような神のご性質にあずかっている者のことでしょう(2ペテロ14参照)。

 「知恵に満ちた人」の意味することの中に、ここでは、ギリシア語を話せる人の意が含まれていたことと思います。

 「知恵」と言っても、仏教が述べている知恵、ギリシア文化的な中での知恵、国語辞典が定義している知恵、・・・等、色々ありますが、聖書では「知恵」をどのような意で用いているのでしょう。

 聖書で「知恵」と記されている個所を見ると、知恵は、色々の意に用いられています。
その一覧を聖書辞典から学んでみたいと思います。
 聖書辞典には次のように記されています。
“ちえ 知恵 このことばは聖書の中でさまざまな知的、技術的能力や、またそれによって生み出された箴言、訓戒などを表すものとして用いられている。知識、英知、訓戒、悟り等、同義に使われていることばも多い。
 1.実際的能力としての知恵。
幕屋や神殿を建てる時、ウリの子ベツァルエルやツロのヒラムらが、建材や備品、式服などの設計、作製のために与えられていた技術的能力(出31:3,Ⅰ7:14)や、ソロモン王に与えられた、民を正しくさばき(3:28)、治め(5:7)、外交関係を平和に保つ(5:12)といった統治能力である。同じくソロモン王について言われていることであるが、箴言を語り、歌を作り、植物、動物に関する知識を得る能力(4:32‐34)、商いによって財宝を殖やし、金銀を蓄える能力(エゼ28:4‐5)、また目的を達成するために計画し実行する能力(Ⅱサム20:22)なども含まれる。これらはすべて知恵と呼ばれている。
 2.人間的賢さとしての知恵。
「知恵のある者……自身の悪知恵」(ヨブ5:13)、「ことばの知恵」(コリ1:17)、「この世の知恵」(コリ1:20)、「すぐれた知恵」(コリ2:1)、「人間の知恵」(コリ2:5)などと言い表されている知恵は、「はかりごと」(エレ18:18)を与えたり、「説得力のある知恵のことば」(コリ2:4)で語らせたりして、人を賢く見せ、誇らせることができる。しかし、この知恵はどこまでも人間の経験や思考から出たものなので、これによって神を知ることはできない(コリ1:21)。ヤコブは、心の中のねたみや敵対心を取り去ることのできない知恵について、「地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです」(ヤコ3:15)と言っている。
 3.霊的な力としての知恵。
「この世の知恵」「人間の知恵」に対比されるのは、「霊的な知恵」(コロ1:9)、「上からの知恵」(ヤコ3:17)である。この知恵について聖書は繰り返し、「主を恐れることは、知恵の初め」(詩111:10,9:10等)であると告げ、主に対する信仰こそが、知恵の出発点であり、本質であることを教える。そしてエレミヤは、「見よ。主のことばを退けたからには、彼らに何の知恵があろう」(エレ8:9)という主のことばを記し、知恵は、神のみことばを尊び、聞き従うところにこそあることを覚えさせる。さらに主イエスは、「知恵の正しいことは、その行ないが証明します」(マタ11:19)と語り、ヤコブも、「その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい」(ヤコ3:13)と勧める。知恵は、倫理的行為においても実を結ばせる力なのである。使徒パウロは、知恵が、キリストのことばに基づいて、互いに教え、互いに戒める力であることをも教えている(コロ3:16)。結局この「上からの知恵」は、神を恐れ、みことばを尊ぶことによって、生活上のすべてのことについて善悪を判断し、処理していくことができるように、神から与えられる能力であると言えよう。
 4.伝え得る知識としての知恵。
「私の口は知恵を語り」(詩49:3)、「これは、知恵と訓戒とを学び」(箴1:2)というような用法で明らかなように、客体化された知恵もある。これは、知的能力としての知恵による、学びや思考、経験や反省を経て知り得た知識、作られた箴言、生み出された訓戒などである。そして「知恵のある者」たちによって作られ、まとめられた文書は、今日、知恵文学として知られている。聖書中では、ヨブ記、箴言、伝道者の書がその代表的なものである。外典の「ベン・シラの知恵」「ソロモンの知恵」もよく知られている。
 5.人格化された知恵。
神はその知恵をもって世界を創造されたのであるが(詩104:24)、この知恵が、箴8章などにおいては擬人化されており、「主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた」(8:22)、「神が上のほうに大空を固め、……地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった」(8:28‐30)と知恵自身が語る形になっている。これを新約聖書の「御子は……造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです」(コロ1:15‐16)や、ヨハネ1:1‐3などと合せ読む時、この擬人化された知恵に、先在の御子イエスを覚えさせられる。また、コリ1:24には、「キリストは神の力、神の知恵なのです」とあって、私たちの救いにかかわる神の知恵が、「十字架につけられたキリスト」(コリ1:23)において人格化され、この方によって神の永遠の計画が実現されることを知らされる。
 以上のように知恵は、人間の経験と反省によって得られる実際生活上の知恵などというものではなく、どういう意味で用いられている場合にも、神と深くかかわっていることが分る。神の知恵は、十字架のキリストにおいて私たちに永遠の救いを備え、人間に与えられた知恵は、神を恐れ、悪を離れる敬虔な生活を指向させるのである。具体的生活にかかわる訓戒や箴言も、この原則の中で与えられ、これを離れる時愚かなものとなる。”とあります。

 話を元に戻します。
5.6
節には“5 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊とに満ちた人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の
改宗者ニコラオを選んで、6 使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。”と記されています。

 食料の配給を含めた管理者として上記の人々が選ばれました。
使徒たちは選出された人たちに対してどのようなことを行ったのでしょうか。
“使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた”と記されています。
これは、任命と共に任務遂行のための働きに必要な御霊の賜物が与えられるように、ということであったのでしょう。(民数記2723、出エジプト3131コリント12章参照)

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたに与えられた賜物に従ってその任を果たしていくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年7月18日 (木)

箴言29:15 愛のこもった叱責

 箴言2915
2017
は“むちと叱責は知恵を与える。放っておかれた子は母に恥を見させる。”と訳し、
リビングバイブルは“子どもは、しかられ懲らしめられることで、何が悪いことなのかを知ります。わがままいっぱいに育てると、あとで母親が恥をかきます。”と訳しています。
フランシスコ会訳は“鞭と懲らしめは知恵を与えるが、わがままに育った子は母に恥をかかせる。”と訳し、
聖書協会共同訳は“杖も懲らしめも知恵を与える。放任された若者は母に恥をもたらす。”と訳しています。

 「鞭(むち)」(新改訳、口語訳、フランシスコ会訳)、「杖」(新共同訳、聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「シェーベト」で、切り離された枝の意で、棒、スティック、・・等の意がありますが、小枝、むち、・・等の意もあります。

 「子」(新改訳、口語訳、リビングバイブル、フランシスコ会訳、新共同訳)、「若者」(聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ナーアル」で、(主に幼年期から思春期迄の)子ども、少年、少女の意で、召使い、若者、等の意もあります。

 子供に嫌われたくないという思いから、あるいは子供に関心がないという理由で、子どもが何をしても叱らないという親がいますが、そのようにしていると、今日の聖句にあるように、そのような子供たちの多くは親に恥をもたらすような状態になり、子どもたちも親たちも不幸になる可能性が高いです。

 新約聖書には、“父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。”(エペソ642017)と記されています。
愛のこもった(子供が愛されていることを実感できる)教育と訓戒が大切であることを教えてくれています。

 話は変わりますが、旧約時代、イスラエルの民は、地上の神の国の民でした。
それ故、主なる神様は、イスラエルに律法を与え、導かれました。
しかし、イスラエルの民の多くは、主なる神様に従わなかったのです。

 主なる神様を愛してお従いすれば、祝福が与えられ、主なる神様に背を向けて、他の何かを自分の神として歩めば呪われる(懲らしめを受ける)という契約も主なる神様とイスラエルの間で結びました。(申命記27-30章参照)

 申命記3015-20には次のように記されています。
15 見よ、私は今日、あなたの前に命と幸い、死と災いを置く。
16
 私が今日あなたに命じているとおり、あなたの神、主を愛し、その道を歩み、その戒めと掟と法を守りなさい。そうすればあなたは生きて、その数は増える。あなたの神、主は、あなたが入って所有する地であなたを祝福される
17
 しかし、もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされ、他の神々にひれ伏し、仕えるならば、18 私は今日、あなたがたに宣言する。あなたがたは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って所有する土地で長く生きることはできない。
19
 私は今日、天と地をあなたがたに対する証人として呼び出し、命と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選びなさい。そうすれば、あなたもあなたの子孫も生きる。
20
 あなたの神、主を愛し、その声を聞いて、主に付き従いなさい。主こそあなたの命であり、主があなたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに与える
と誓われた土地であなたは長く生きることができる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 神さまに対するあり方の本質は、旧約も新約も同じです。
新約時代に話を移します。
 ローマ109-13には次のように記されています。
9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
10
なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
11
聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。
12
ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。
13
なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。”(口語訳)とあります。

 まことの神様は、選民であるユダヤ人をそして世界中の民を愛しています。
主なる神様に背を向けている人たちに対して、主はどのような思いを持っておられるのでしょうか。
 エゼキエル18章には次のように記されています。
20 罪を犯した者が死ぬ。子は父の過ちを負わず、父も子の過ちを負わない。正しき者の義はその人の上にあり、悪しき者の悪はその人の上に帰す。
21
 しかし、悪しき者が自分の犯したすべての罪から立ち帰り、私のすべての掟を守り、公正と正義を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。
22
 彼の行ったどの背きも思い起こされることはない。彼の行った正義によって、彼は生きる。
23
 私は悪しき者の死を喜ぶだろうか――主なる神の仰せ。私は、彼がその道から立ち帰り、生きることを喜ばないだろうか。
24
 しかし、正しき者がその正義から離れて不正を行い、悪しき者が行うようなあらゆる忌むべきことを行うなら、彼は生きるであろうか。彼の行ったどの正義も思い起こされることはない。自分の行った背信のゆえに、また自分の犯した罪のゆえに、彼は死ななければならない。
25
 しかしあなたがたは、『主の道は公正でない』と言う。イスラエルの家よ、よく聞きなさい。私の道は公正ではないのか。公正でないのはあなたがたの道ではないのか。
26
 正しき者が正義に背を向け、不正を行い、そのために死ぬなら、彼は自分の行った不正によって死ぬ。
27
 しかし、悪しき者が自分の行った悪に背を向け、公正と正義を行うなら、彼は自分の命を救う。
28
 彼は顧みて、自分の行ったあらゆる背きから立ち帰ったのだから、必ず生きる。死ぬことはない。
29
 しかし、イスラエルの家は、『主の道は公正でない』と言う。イスラエルの家よ、私の道は公正ではないのか。公正でないのはあなたがたの道ではないのか。
30
 それゆえ、イスラエルの家よ。私はあなたがたをそれぞれの道に従って裁く――主なる神の仰せ。立ち帰れ。すべての背きから立ち帰れ。そうすれば過ちはあなたがたのつまずきとはならない
31
 あなたがたが私に対して行ったすべての背きを投げ捨て、自ら新しい心と新しい霊を造り出せ〔このようにして、新しい心と新しい霊を得よ2017)〕。イスラエルの家よ、どうしてあなたがたは死のうとするのか。
32
 私は誰の死をも喜ばない。立ち帰って、生きよ――主なる神の仰せ。」(聖書協会共同訳)とあります。

 主なる神様は、律法の呪い(罪を犯した場合の懲らしめ)さえ、イスラエルを主なる神様に立ち返らせて、祝福するために用いたのです。律法の呪いさえ主の愛の故であったのです。

 新約時代は、前述したように、主イエス様に立ち返ればよいのです。 

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたが愛してくださっているがゆえに、私のような者でも救いにあずからせていただけたことを覚え感謝します。
贖いを成し遂げて3日目に御復活されたキリスト・イエス様を信じさせてくださいましたことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年7月17日 (水)

フィリピ4:10-13 自分の境遇に満足する秘訣は・・主の霊の満たし

 フィリピ410-13には次のように記されています。
10 さて、あなたがたが私への心遣いを、ついにまた表してくれたことを、私は主にあって非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。
11
 物欲しさにこう言うのではありません。私は、自分の置かれた境遇に満足することを学びました。
12
 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹することにも、飢えることにも、有り余ることにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
13
 私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です。”(聖書協会共同訳)とあります。

 10.11aをリビングバイブルは“あなたがたがまた助けてくれるようになって、どんなに感謝し、主を賛美しているか知れません。あなたがたはいつもできるかぎりのものを私に送ろうと心がけていたのに、機会に恵まれなかったのです。生活に困っていたから、こう言うのではありません。”と訳しています。

 11b-13節をリビングバイブルは次のように意訳しています。
11 ・・・。私は、物が豊富にあろうとなかろうと、楽しく生きていくすべを学びました。
12
無一文の時にも、何でもそろっている時にも、どのように生活すべきか知っています。満腹の時にも空腹の時にも、豊かな時にも貧しい時にも、どんな境遇でも満足する秘訣を身につけました。
13
力を与え、強めてくださる方によって、私は、神に求められるどんなことでもできるからです。”と訳しています。

 13節を
文語訳は“我を強くし給ふ者によりて、凡ての事をなし得るなり。”と訳し、
口語訳は“わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。”と訳し、
新改訳初版~第三版は“私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。”と訳し、
新共同訳は“わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。”と訳し、
2017
は“私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。”と訳し、
聖書協会共同訳は“私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です。”と訳しています。

 この節のTRギリシア語聖書を私なりに直訳すると「私を強めてくださるキリストの中ですべてのことをすることができます。」となります。

 13節の聖句を一節取り出して、信仰によって、「私は何でもできるのだ」と妄信する人がいますが、この個所の意味するところはリビングバイブルが意訳しているように「力を与え、強めてくださる方によって、私は、神に求められるどんなことでもできるからです。」ということになると思います。

 13節はポジティブな言い回しですが、ヨハネ154.5は少しネガティブな言い回しを用いて同じ内容のことを、主イエス様は次のように述べています。
4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(2017)と記され、
 この個所をリビングバイブルは
4 ・・、わたしのうちに生きるよう心がけなさい。またわたしが、あなたがたのうちに生きられるようにしなさい。枝は幹につながっていなければ、実を結べないでしょう。同じようにあなたがたも、わたしから離れたら、実を結ぶことはできません。5 わたしはぶどうの木で、あなたがたはその枝です。人がわたしのうちに生き、わたしもその人のうちに生きているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては何もできません。」と意訳しています。

 肉に属することを行うことは、私たちが主のうちにいなくてもできますが、聖き霊に属する事柄は、主が内におられ、主が御力を発揮してくださらなくては出来ないということを教えてくれています。

 フィリピ(ピリピ)413を肉の欲望を成就するために用いることはできません。
肉の欲望を成就したければ、サタン(悪魔)の下に行くと成就してくれるかもしれません。
サタンは、「このような、国々の権力と栄光・・・は私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから。」(ルカ462017)と述べているからです。

 12.13節には
「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹することにも、飢えることにも、有り余ることにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です。」(聖書協会共同訳)と記されていました。

 第二次世界大戦末期から戦後の食糧難の中を生きた人たち、特に空襲を受けた人たちは、否応なく、すべてに欠乏した状態の生活を強いられました。
死なないですんだ人たちは、主イエス様を信じていようと信じていまいと何とか生き延びたのです。
食料にありつけたらありがたいことであったのです。
白いご飯を食べることができたら上出来でした。
私の小学校の友達の中には家を失い橋の下で暮らしていた子もいました。
少し寒くなってきてもランニングと半ズボンで学校にくる子もいるような状態でした。
皆が欠乏していたので、主イエス様の内にいなくても、このような状態を乗り越えることは可能でした。

 しかし、パウロの場合は、豊かな生活を送ろうとしたら、そうすることの可能な人でした。
パウロは、福音宣教のために、様々な境遇を味わったのです。
2
コリント1123-28には、パウロの次のような告白があります。
23 ・・・。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは数えきれず、死ぬような目に遭ったことも度々でした。
24
 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度、25 棒で打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜海上に漂ったこともありました。
26
 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽兄弟たちからの難に遭い、27 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。28 このほかにもまだあるが、・・・。」(聖書協会共同訳)と記されています。

 パウロのことです。このようなことの中にあっても、おそらく、主を賛美し、主に感謝したことでしょう。それは主のうちになければ、そして主の霊が内にあって働いてくださらなければ不可能なことであったことでしょう。(使徒1625、ローマ837参照)

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
常にキリストにあって歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年7月16日 (火)

詩篇119:19 主について行かないと迷子になる

 詩篇11919を、
リビングバイブルは“私はこの地上では旅人です。あなたの命令が私の地図であり、道案内なのです。”と意訳し、
2017
は“私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。”と訳し、
聖書協会共同訳は“私はこの地では寄留者です。あなたの戒めを私に隠さないでください。”と訳しています。

 「旅人」(リビングバイブル、2017)、「寄留者」(口語訳、聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ゲール」で、客、ゲスト、外国人、異邦人、寄留者、滞在者、・・・等の意があります。

 「私は地では旅人」or「私は地では滞在者」or「私は地では寄留者」or「私は地では異邦人」という語を、私たち日本のキリスト者にあてはめて考えると、日本はキリスト教国ではなく、キリスト者は甚だ少数派なので、この聖句は実感としてよくわかります。

 キリスト教国と言われる国々でも、新生しているキリスト者は、多数派ではないでしょう。

 新生した人は、主なる神を愛します。
主イエス様は「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14232017)と語られたのです。
すなわち、主は、主を愛している者と共にいてくださるというのです。
 また、主イエス様は次のようにも語られました。
「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ33・新共同訳)、そして、
「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」(ヨハネ36・新共同訳)と。
 更に、ローマ89には“キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。”(2017)と記されています。
キリスト者であれば、その人のうちにキリストの霊がお住まいくださっておられるのです。ハレルヤ!

 この世の人は、主なる神様に信頼しません。
1
ヨハネ519には“わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者〔サタン(筆者挿入)〕の支配下にあるのです。”(新共同訳)と記され、
また悪魔(サタン)も「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。」(ルカ46・新共同訳)と主イエス様に語られたのです。主イエス様はそれを否定しませんでした。

 この世の人で、主イエス様を大好きだという人がいるでしょうか。
目には見えない霊の世界において、この世を支配しているのは悪魔(サタン)です。
ただしサタンも光のみ使いに変装しますから(2コリント1114)、倫理的には聖書に記されているようなことを言う場合もあるのです。多くの宗教や道徳書はそのようでしょう。
サタンは、人々をまことの神様の方へ向けさせないようにしています。

 まことの神であり主であるイエス様を信じることができたのは神である聖霊様の働きの故であり、それはまた父なる神の愛と主権に基づくものです。
1
コリント123には“聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。”(口語訳)と記され、
エペソ14.5には“神は、世界の基が据えられる前から、この方〔父なる神(筆者挿入)〕にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。”(2017)と記されています。

 キリスト者は、地では旅人であり、寄留者です。
へブル11章は信仰列伝が記されていますが、その中に“これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。/彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。”(13.162017)と記されています。

 キリスト者は、この世の支配者である悪魔(サタン)の支配下にあって歩む者ではなく、まことの神の支配下にあって歩む者です。
それ故、この世を歩むのに、神様の御言葉が必要なのです。
リビングバイブルは、神の御言葉は、この世をどのように生きたらよいのか、どのように歩んだらよいのかを示す地図である、と意訳しています。「あなたの命令が私の地図であり、道案内なのです」(リビングバイブル)と。
直訳すると、2017や聖書協会共同訳のような訳になります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119105・新改訳)とあります。
聖書に私たちにとって必要な御言葉を記してくださっておられますからありがとうございます。
また、御聖霊が、聖書の御言葉を用いて導いてくださいますから感謝します。
今日も御霊に導かれた一日を送らせていただけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年7月15日 (月)

使徒5:33-42 使徒たちを殺そうと考えたユダヤ指導者たちと福音宣教を続ける使徒たち/聖霊の働き

 使徒533-42には次のように記されています。
33 これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。
34
 ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルと言う人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、35 それから、議員たちにこう言った。
 「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。36 以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に加わったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。
37
 その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、従っていた者も皆、ちりぢりにさせられた。
38
 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。放っておくがよい。あの計画や行動が人から出たものなら、自滅するだろうし、39 神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」
 一同はこの意見に従い、
40
 使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって語ってはならないと命じたうえ、釈放した。
41
 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、
42
 毎日、神殿の境内や家々で絶えずメシア・イエスについて教え、福音を告げ知らせていた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 33節冒頭の「これを聞いた」とある「これ」とは、何を指しているのでしょうか?
それは、ユダヤの指導者たちが、「あの名〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男〔ナザレのイエス(筆者挿入)〕の血を流
した責任を我々に負わせようとしている。」(使徒528・聖書協会共同訳)と使徒たちに言ったとき、使徒たちが次のように語った内容です。使徒529-32に次のように記されています。
 「人に従うより、神に従うべきです。
私たちの先祖の神は、あなたがたが木に掛けて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。
私たちはこのことの証人であり、また、神がご自分に従う人々にお与えになった聖霊も、そのことの証人です。」(聖書協会共同訳)という内容です。

 ユダヤの指導者たちは、それまでにもイエス・キリストの名で語ってはならない、教えてもいけない、と命じていたのですが、使徒たちは、上記のように、ユダヤの指導者たちに語ったのです。
それ故、ユダヤの指導者たちは、激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた、と33節に記されています。

 ガマリエルは、使徒たちを助けようとして25-39節の意見を述べたのではないと思います。Bible navi は次のように述べています。
“・・・・〔ガマリエルの(筆者挿入)〕本当の意図は、最高法院の分裂を防ぎ、ローマ人を刺激するのを避けることだっただろう。・・・・。ガマリエルは、宗教活動に反応することについて、理にかなった忠告を述べた。信者たちが明らかに危険な教理や慣習を支持するのでなければ、寛容である方が、多くの場合賢明である。・・・。”とあります。

 ガマリエルについて、聖書辞典は次のように述べています。
“ガマリエル (〈ギ〉Gamaliel) 「神の報い」という意味。ユダヤ教の後代の伝承によるとシモンの子、ヒルレルの孫となっているが、確かではない。著名な律法学者で、サンヘドリンの議員であった。厳格なシャンマイ学派に対立するヒルレル学派に属した。使徒たちに対し激しい怒りを燃やす議員たちの中にあって、「すべての人に尊敬されている」彼は冷静に発言し、その説得によって議会はしばらく事の推移を見守ることになったと、使5:33‐40に報告されている。また使22:3によれば、パウロは青年時代、彼のもとで律法を学んだ。ガマリエルは非常に尊敬されていたので、「ラビ」(私の教師)よりももっとすぐれた尊称である「ラバン」(私たちの教師)で呼ばれていた。タルムードによれば、紀元50年頃死んだ。ミシュナには、「長老ラバン・ガマリエルが死んで以来、もはや律法に対する畏敬と純潔や節制はうせてしまってない」とまで言われている。”と記しています。

 主の御摂理の下、使徒たちは殺されることはありませんでした。
しかし、ユダヤ指導者たちに、使徒たちは鞭で打たれ、イエスの名によって語ってはいけないと命令されて釈放されたのです(40)。

 主イエス様は、かつて弟子たちに次のように教えられました。
「・・。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる。
また、私のために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。
引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。言うべきことは、その時に示される。というのは、語るのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる父の霊だからである。」(マタイ1017・聖書協会共同訳)と記されています。

 また次のようにも語られました。
「義のために迫害された人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。
私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ510-12・聖書協会共同訳)と記されています。

 使徒たちは釈放された後、どのようであったのでしょうか?
41.42
節には“それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えずメシア・イエスについて教え、福音を告げ知らせていた。”と記されています。

 使徒たちは、ユダヤ指導者たちが実権を握っている神殿の境内でも、絶えずメシア(キリスト)・イエスについて教え、福音を告げ知らせていたのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主が弟子たちを、聖霊に満たして導き、強め、支え、艱難の中にも喜びに満たし、そのような恵みによって使徒たちが福音宣教を行っている姿を見させてくださり感謝します。
使徒の言葉や行動が記されている書ですが、実際は聖霊の働きがどのようなものかということを見させてくださり感謝します。
あなたは、私たち一人一人を愛して下さり、それぞれお導き下さいますから感謝します。
今日も御聖霊に導かれて歩ませていただける一日とさせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年7月14日 (日)

箴言29:14 誰に対しても誠実に/キリスト者(新生した人)は白い御座の裁きにおいて裁かれません

 箴言2914を、
リビングバイブルは“貧しい人を差別せずに正しくさばく王は、長く国を治めます。”と訳し、
新共同訳は“弱い人にも忠実な裁きをする王。その王座はとこしえに堅く立つ。”と訳し、
新改訳初版~第三版は“誠実をもって寄るべのない者をさばく王、その王座はとこしえまでも堅く立つ。”と訳し、
聖書協会共同訳は“弱い人を真理によって裁く王。その王座はいつまでも堅く据えられる。”と訳し、
2017
は“真実をもって弱い者をさばく王、その王座はとこしえまでも堅く立つ。”と訳しています。

 「貧しい人」(リビングバイブル)、「弱い人(者)」(新共同訳、聖書協会共同訳、2017)、「寄るべのない者」(新改訳初版~第三版)と訳されている語のヘブライ語原語は「ダル」で、体の弱い人、貧しい人、困窮している人、・・等の意があります。

 「差別せず」(リビングバイブル)、「忠実な」(新共同訳)、「誠実な」(新改訳初版~第三版)、「真理によって」(聖書協会共同訳)、「真実をもって」(2017)と訳されている語のヘブライ語原語は「エメツ」で、真理、真実、誠実、忠実、公正、公平、・・・等の意があります。

 今日の聖句は「立場の弱い人or体の弱い人or困窮している人、いわゆる弱者に対して、公正、公平に、かつ真をもって誠実に裁きをする王の王位は永続する」ということが述べられていると思います。

 “真実をもって弱い者をさばく王、その王座はとこしえまでも堅く立つ。”(2017)という聖句を読むと、まずは主イエス様を思い浮かべることと思います。

 さて、「裁かれる」という語を見ると、多くの人は、罰を与えられると思ってしまう傾向があるようですが、さばきの結果によっては、良いこと(もの)を与えられる場合もあるのです。
「裁き」とは、理非(道理に合っていることとそむいていること)を明らかにすることです。

 主なる神様は、主のみ旨に合致しているならば、祝福を与え、主のみ旨にかなっていなければ、呪い(怒り)を与える、ということになります。(申命記28章参照)
人となられたイエス様は、罪を犯してきた私たちに代わって十字架上で呪いを受けてくださったのです。
それ故、主イエス様を信じているキリスト者は義とされているのです。

 話を変えますが、
白い御座の裁き(最後の審判)は、祝福と呪いの最終決着の場です。
 黙示録20章には次のように記されています。
11 また私は、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方を見た。天も地も、その前から逃げて行き、見えなくなった。
12
 また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれ た。これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた。
13
 海は、その中にいた死者を吐き出し、死と陰府も、その中にいた死者を吐き出した。死者はおのおの、その行いに応じて裁かれた。
14
 死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
15
 命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた。”(聖書協会共同訳)とあります。
いのちの書に名の記されている者は火の池に投げ込まれません、すなわち第二の死を経験することはないのです。

 キリスト者(新生した人)は白い御座の裁きにおいて裁かれません。
ヨハネ318に“御子を信じる者は裁かれない。”(新共同訳)と記されているとおりです。
それどころか“御子を信じる者は永遠のいのちを持っている”(ヨハネ3362017)のです。

 話を変えます。
キリスト者は次のようにも言われています。
“あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。”(1ペテロ292017)と。
キリスト者は、神様にあっては「王」です。
王は、公正、公平、真実、忠実、誠実に物事を判断するべきであるということを、今日の聖句から教えられます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたの子どもとしてふさわしく、あなたのみ旨にかなって歩むことができますようお整え下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年7月13日 (土)

フィリピ4:8.9 主の臨在を実感できる生き方/聖き歩み

 フィリピ48.9には次のように記されています。
8 なお、きょうだいたち、すべて真実なこと、すべて尊いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判のよいことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
9
 私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたと共におられます。”(聖書協会共同訳)とあります。

 パウロはフィリピ教会の信徒たちに、パウロから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを実行しなさい、と述べたのです。
パウロは、キリストを見倣っていました。
1
コリント111に“私〔パウロ(筆者挿入)〕がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。”(2017)と記しています。

 現代の私たちは、使徒言行録、ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙、ガラテヤの信徒への手紙、エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙、テモテへの手紙、テトスへの手紙、フィレモンへの手紙、(ヘブライ人への手紙もパウロの著作かも知れません)等を通してパウロの教えや行動を知ることができます。

 これらの手紙等から得たことを実行すれば、平和の神があなたがたと共におられます、ということをパウロは記しています。

 パウロのこれらの書簡には、8節に記されているような、すべて真実なこと、すべて尊いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判のよいことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めるように、というような内容が少なからず記されているように思います。

 上記の聖句を自分に当てはめて思いめぐらすとき、私たちの内に神がいてくださるのだろうか?と心配になるのではないでしょうか。

 聖霊は神です。
聖霊は、主キリスト・イエス様を信じた人のうちに住んでくださっておられます(1コリント316619参照)。
私たちキリスト者が罪を犯したときにも、聖霊は、私たちの内に住んでくださっておられ、罪を告白するよう導かれています。
いのちに至る回心(悔い改め)は、聖霊様の働きを度外視しては考えられません(1コリント123、使徒1118参照)。
使徒1118には“人々はこれを聞いて沈黙した。そして「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。”(2017)と記されています。

 罪を犯すことは聖霊を悲しませることです。
エフェソ(エペソ)4章には次のように記されています。
20 しかし、あなたがたはそのようにキリストに学んだのではありません。
21
 あなたがたは、真理はイエスの内にある、とキリストについて聞き、キリストにおいて教えられたはずです。
22
 ですから、以前のような生き方をしていた古い人、すなわち、情欲に惑わされ堕落している人を脱ぎ捨て、23 心の霊において新たにされ、24 真理に基づく義と清さの内に、神にかたどって造られた新しい人を着なさい。
25
 ですから、偽りを捨て、一人一人が隣人に真実を語りなさい。私たちは互いに体の部分だからです。
26
 怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。
27
 また、悪魔に隙を与えてはなりません。
28
 盗みを働く者は、もう盗んではいけません。むしろ、労苦して自らの手で真面目に働き、必要としている人に分け与えることができるようになりなさい。
29
 悪い言葉を一切口にしてはなりません。口にするなら、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるために必要な善い言葉を語りなさい。
30
 神の聖霊を悲しませてはなりません。あなたがたは、聖霊によって、贖いの日のために証印を受けたのです。
31
 恨み、憤り、怒り、わめき、冒涜〔別訳「悪口」(欄外注)〕はすべて、一切の悪意と共に捨て去りなさい。
32
 互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。”(聖書協会共同訳)とあります。

 罪を犯すと聖霊は悲しみますが、新生している人から出て行ってしまうわけではありません。

 きょうの聖書個所では「平和の神があなたがたと共におられます」と記されています。
神である聖霊様が、私たちに微笑ん安らぎを与えてくださっておられる状態は、私たちが聖く歩んでいる状態の時です。

 きよく歩む秘訣は、聖霊によって歩むことです。
ガラテヤ516には“わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。”(新共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
天におられる主の御許へ召していただける時迄、いつもご聖霊に導かれつつ歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年7月12日 (金)

詩篇119:18 見える人と見えない人/霊の世界を知ることができるようになった人の幸い

 詩篇11918を、
口語訳は“わたしの目を開いて、あなたのおきてのうちのくすしき事を見させてください。”と訳し、
新共同訳は“わたしの目の覆いを払ってください。あなたの律法の驚くべき力にわたしは目を注ぎます。”と訳し、
リビングバイブルは“私の目を開いて、おことばの中に隠されている、すばらしい祝福を見させてください。”と訳し、
2017
は“私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。”と訳し、
聖書協会共同訳は“私の目を開いてください。あなたの律法による奇しき業に目を留めることができるように。”と訳しています。

 「目を開く」(口語訳、リビングバイブル、2017、聖書協会共同訳)、「目の覆いを払う」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は2語からできていて「ガーラ― アイン」です。
「アイン」は目。
「ガーラ―」は、覆いを取り除く、裸にする、露出させる、開く、・・・等の意があります。

 「おきて」(口語訳)、「律法」(新共同訳、聖書協会共同訳)、「おことば」(リビングバイブル)、「みおしえ」(2017)と訳されている語のヘブライ語原語は「トーラー」です。
「トーラー」は、教訓、格言、教え、法、等の意がありますが、十戒やモーセ五書の意もあります。

 主イエス様は、目が見えない人の目を、その人の求めと信仰に応じて癒されました。
見えない人の目を見えるようにしてあげること、それはメシアのしるし(証拠)でした。
 マタイ11章には次のように記されています。
2 さて、ヨハネ〔バプテスマのヨハネ(筆者挿入)〕は牢の中でキリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、3 尋ねさせた。
「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」
4
 イエスはお答えになった。
「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ〔ツァラアトに冒された者たちがきよめられ(2017)〕、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。6 私につまずかない人は幸いである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様がバプテスマのヨハネの弟子に伝えるように言ったのは、イザヤ35章からの預言聖句でしょう。
 イザヤ35章は次のように記されています。
1 荒れ野と乾いた地は喜び、砂漠は歓喜の声を上げ、野ばらのように花開く。
2
 花は咲き溢れ、大いに喜びの歌声を上げる。レバノンの栄光とカルメルとシャロンの輝きが砂漠に与えられる。人々は主の栄光と私たちの神の輝きを見る。
3
 弱った手を強くし、萎えた膝を確かにせよ。
4
 心を騒がせている者たちに言いなさい。
「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。報復が、神の報いが来る。神は来られ、あなたがたを救う。」
5
 その時、見えない人の目は開けられ、聞こえない人の耳は開かれる。
6
 その時、歩けない人は鹿のように跳びはね、口の利けない人の舌は歓声を上げる。荒れ野に水が、砂漠にも流れが湧き出る。
7
 熱した砂地は池となり、干上がった土地は水の湧く所となる。ジャッカルが伏していた所は、葦やパピルスが茂る所となる。
8
 そこには大路が敷かれ、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者がそこを通ることはない。それは、その道を行く者たちのものであり、愚かな者が迷い込むことはない。
9
 そこに獅子はおらず、飢えた獣は上がって来ず、これを見かけることもない。贖われた者たちだけがそこを歩む。
10
 主に贖い出された者たちが帰って来る。歓声を上げながらシオンに入る。その頭上にとこしえの喜びを戴きつつ。喜びと楽しみが彼らに追いつき、悲しみと呻きは逃げ去る。”(聖書協会共同訳)とあります。

 上記の預言個所は、キリストの千年王国において完全に成就します。
主イエス様の初臨の時には、イザヤ355.6が成就したのです。
私たちキリスト者の場合、霊的には、イザヤ35章の預言が成就しています。
また主なる神は、ツァラートをきよめると意志されたら、一瞬にしてきよめられます(癒されます)。→出エジプト46、民数記12章、マタイ82.3etc.

 主イエス様が、目の見えない人を癒された人の例の中から、ヨハネ9章に記されている内容の一部を下記します。
1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
2
 弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」
3
 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
4
 私たちは、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。
5
 私は、世にいる間、世の光である。」
6
 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
7
 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、見えるようになって、帰って来た。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 この出来事がきっかけとなって、ユダヤ人たちとの間に騒動が起きました。その最後の部分は次のように記されています。
939 イエスは言われた。「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
40
 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。
41
 イエスは言われた。「見えない者であったなら、罪はないであろう。しかし、現に今、『見える』とあなたがたは言っている。だから、あなたがたの 罪は残る。」”(聖書協会共同訳)とあります。
 この個所をリビングバイブルは次のように意訳しています。
39 すると、イエスは言われました。「わたしがこの世に来たのは、心の目の見えない人を見えるようにするため、また、見えると思い込んでいる人に、実は盲目だということを、わからせるためなのです。」
40
ちょうどその場に居合わせたパリサイ人たちが、けげんな顔で尋ねました。「じゃあ、私たちも盲目だと言うのか」
41
「もしあなたがたが盲目だったら、罪に問われないですんだでしょう。しかし、何もかもわかっているとあくまで言いはるので、あなたがたの罪はそのまま残るのです。」”とあります。

 新生させていただき、霊の目を与えられて、神様の教えを恵みの観点から理解させていただける者は幸いであると思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
神様の教えを恵みの観点から捉えることができる恵みを与えてくださりありがとうございます。
詩篇19篇の中には“主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光を与える。主への畏れは清く、いつまでも続き、主の裁きはまことで、ことごとく正しい。金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。”(新共同訳)という聖句がありますが、恵みによる捉え方で、アーメンと言えるようにしてくださいましたことを感謝します。
今日も御聖霊が御言葉を用いて導き、助け、励まし、支えてくださいますから感謝します。
御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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